2014/10/31
房総の文化財・史址を見る!6.桂岸寺・回天神社・保和苑など! 文化財研修記
水戸市松本町13−19には保和苑(ほわえん)と真言宗の桂岸寺、回天神社などがある。寺の名を大悲山保和院(だいひざんほわいん)桂岸寺といいます。当初は香華院(こうげいん)と称しましたが、元禄7年(1694)、徳川光圀公の命令により保和院と改称します。さらに宝暦5年(1755) に現寺号を称し、密法流通の道場として京都御室仁和寺末(おむろにんなじまつ)となり、とくに律宗も兼ねるという1寺2律の類例のない修験場となりまし た。明治11年(1878)、火災により旧伽藍が類焼しましたが、その後、本堂・仁王門・愛染堂などが再建されました。 本尊は勢至菩薩で、行基の作と伝えられ、佐竹貞義の護持仏(ごじぼとけ)でした。縁日は毎月旧暦23日で、特に正月・5月・9月・11月は賑わいます。 縁結び・金運・合格に恵まれるとして遠く県外からも参拝者があり、世俗に「霜月三夜は逃げても詣れ」ということわざもあります。 また、平成19年11月には、「ぴんぴんと元気に天寿を全うし、ころりと大往生をとげる」ことにご利益があると言われる新しい延命地蔵尊(愛称ぴんころ地蔵尊)が建立されました。毎月23日は「ぴんころ地蔵尊ご縁日」が行われており、参拝者で賑わいます。した。 昭和25年、桂岸寺より水戸市へ移管されたことにより、昭和36年地元と市による保和苑振興協議会(現在は保和苑周辺史跡観光連絡協議会と改名)が発足し、運営されています。
昭和30年代、苑を拡張してあじさいの植栽が行われました。初夏になりますと、苑内(面積1.5へクタールの広大な敷地に約60種、約6、0000株のあじさいが咲き競い「水戸のあじさいまつり」が盛大に開催されます。
1.保和苑の案内図

2.桂岸寺の仁王門

3.仁王門の向かって右側の阿形像

4.手水舎

5.桂岸寺本堂

6.見事な桂岸寺本堂を斜めから見る!

7.宝暦時代の延命地蔵など

8.平成19年に建てられ毎月23日のご縁日には盛大な参拝がある「ぴんころ地蔵尊」

9.安政の大獄以来政争で倒れた1780余名を祀る回天神社!

10.同上

11.水戸光圀公諸国漫遊の旅姿像

12.光圀公制定の常磐(ときわ)共同墓地入口

13.同上 格さん達の墓があります!

15.保和苑の「水戸のアジサイ祭」

16.保和苑のアジサイ

17.同上

18.同上

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昭和30年代、苑を拡張してあじさいの植栽が行われました。初夏になりますと、苑内(面積1.5へクタールの広大な敷地に約60種、約6、0000株のあじさいが咲き競い「水戸のあじさいまつり」が盛大に開催されます。
1.保和苑の案内図

2.桂岸寺の仁王門

3.仁王門の向かって右側の阿形像

4.手水舎

5.桂岸寺本堂

6.見事な桂岸寺本堂を斜めから見る!

7.宝暦時代の延命地蔵など

8.平成19年に建てられ毎月23日のご縁日には盛大な参拝がある「ぴんころ地蔵尊」

9.安政の大獄以来政争で倒れた1780余名を祀る回天神社!

10.同上

11.水戸光圀公諸国漫遊の旅姿像

12.光圀公制定の常磐(ときわ)共同墓地入口

13.同上 格さん達の墓があります!

15.保和苑の「水戸のアジサイ祭」

16.保和苑のアジサイ

17.同上

18.同上

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2014/10/29
房総の文化財・史址を見る!5.水戸光圀公開基の祇園寺! 文化財研修記
水戸市八幡町11−69にはが明の心越禅師(しんえつぜんじ)の開山、徳川光圀公の開基による曹洞宗の寺院です。心越は廷宝5年(1677)に来日し、黄檗宗の強力な明に帰国できなく長崎で滞在中の天和元年(1681)光圀公の招請で水戸の天徳寺に住し、元禄8年(1695の死去までこの寺で過ごしました。
正徳2年(1712年)4世大寂界仙(だいじゃくかいせん)のとき、従来の岱宗山(たいそうざん)天徳寺を河和田村に移し、そのあと壽昌山(じゅしょうざん)祇園寺と改め、心越禅師をもって開山としました。曹洞宗寿昌派の本山となり、知行100石を与えられます。境内には心越の墓塔、元禄7年(1694)建立の穢跡(えせき)金剛尊天堂があります。元治甲子(げんじかっし)の乱(1864)で天狗党と戦った、諸生党の慰霊碑も建立されています。 また、水戸藩重臣で幕末期に諸生派として活躍した市川氏・朝比奈氏らの墓所があります。
1.祇園寺標柱

2.祇園寺山門

3.山門の扁額

4.境内内

5.水戸光圀公が心越禅師を慕って書いた碑文

6.越禅師の廟

7.鐘楼

8.穢跡(えせき)金剛尊天堂の駒札

9.穢跡(えせき)金剛尊天堂

10.本堂

11.本堂内のご本尊の釈迦如来像

12.元治甲子(げんじかっし)の乱(1864)で天狗党と戦った、諸生党の慰霊碑

13.水戸藩重臣で幕末期に諸生派として活躍した市川三左衛門のお墓

14.水戸藩重臣で幕末期に諸生派として活躍した朝比奈弥太郎のお墓

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正徳2年(1712年)4世大寂界仙(だいじゃくかいせん)のとき、従来の岱宗山(たいそうざん)天徳寺を河和田村に移し、そのあと壽昌山(じゅしょうざん)祇園寺と改め、心越禅師をもって開山としました。曹洞宗寿昌派の本山となり、知行100石を与えられます。境内には心越の墓塔、元禄7年(1694)建立の穢跡(えせき)金剛尊天堂があります。元治甲子(げんじかっし)の乱(1864)で天狗党と戦った、諸生党の慰霊碑も建立されています。 また、水戸藩重臣で幕末期に諸生派として活躍した市川氏・朝比奈氏らの墓所があります。
1.祇園寺標柱

2.祇園寺山門

3.山門の扁額

4.境内内

5.水戸光圀公が心越禅師を慕って書いた碑文

6.越禅師の廟

7.鐘楼

8.穢跡(えせき)金剛尊天堂の駒札

9.穢跡(えせき)金剛尊天堂

10.本堂

11.本堂内のご本尊の釈迦如来像

12.元治甲子(げんじかっし)の乱(1864)で天狗党と戦った、諸生党の慰霊碑

13.水戸藩重臣で幕末期に諸生派として活躍した市川三左衛門のお墓

14.水戸藩重臣で幕末期に諸生派として活躍した朝比奈弥太郎のお墓

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2014/10/27
房総の文化財・史址を見る!4.国重文の本殿を持つ水戸八幡宮! 文化財研修記
水戸市八幡町8−54には国の重要文化財である本殿をもつ水戸八幡宮がある。当神社は文禄元年(1592)佐竹義宣公によって創建されました。 義宣公は天正18年(1590)に水戸城主の江戸氏を滅ぼし、翌19年に常陸太田より水戸に居城を移し、その翌年の文禄元年(1592)に氏神として崇敬していた常陸太田鎮座の馬場八幡宮より、八幡大神を水戸城内に勧請しました。のち八幡小路(現在の北見町)を聖域と定め、慶長3年(1598)に御本殿(国指定重要文化財)を建立し、水府総鎮守の社と定めました。慶長7年(1602)に佐竹氏が秋田へ移封され水戸は徳川家の所領となる。徳川の御代、元禄7年(1694)には二代藩主光圀公の寺社政策の命により、那珂西村(現城里町那珂西)へ御本殿始め移遷されましたが、宝永6年(1709)3代藩主綱條公の時代になり、正神主田所修理清澄をはじめ氏子等の請願により那珂西から再び水戸に遷座され、現在の白幡山神域に鎮斎されました。尚、水戸に再遷座される際、白鶴一羽が舞い降りて神域を旋回して祝ったと伝わっています。 以来、水戸藩主代々の崇敬社で農・工・商の神、また厄除・子育て・戌亥年生まれの守護神として信仰されています。
1.これから水戸駅の観光案内書で市内バス一日乗り放題400円券を使って見学します!(水戸駅から八幡宮まで片道で240円ですから、格別に安い!前日でも購入可能!)

2.水戸(白旗山)八幡宮の標柱と鳥居

3.石造の大鳥居

4.本殿が旧国宝であったので国宝八幡宮社務所と書かれ碑文もあります。

5.参道から見る鳥居と楼門

6.数多くの末社と楼門

7.第3の鳥居と楼門

8.見事な楼門です!

9.楼門の右下の随身は珍しいい左大臣(阿形)です!左下の右大臣の随身は撮影不可能でした!

10.楼門から拝殿を見る!

11.見事な拝殿

12.国重文の見事な本殿は入母屋造・和様・唐様折衷の室町時代の建築です!

13.干支やいろんな意味を持つ像が拝殿・本殿の周辺を取り巻いています。

14.数多くの天満宮などの摂社が拝殿・本殿を取り巻いて建てられています!

15.拝殿の横側には巨大な古木の右近の桜と左近の桜が植えられています!

16.国天然記念物のお葉付イチョウ(茨城県下でもトップクラスで、樹高35メートル、幹周
6メートルもあります。)

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1.これから水戸駅の観光案内書で市内バス一日乗り放題400円券を使って見学します!(水戸駅から八幡宮まで片道で240円ですから、格別に安い!前日でも購入可能!)

2.水戸(白旗山)八幡宮の標柱と鳥居

3.石造の大鳥居

4.本殿が旧国宝であったので国宝八幡宮社務所と書かれ碑文もあります。

5.参道から見る鳥居と楼門

6.数多くの末社と楼門

7.第3の鳥居と楼門

8.見事な楼門です!

9.楼門の右下の随身は珍しいい左大臣(阿形)です!左下の右大臣の随身は撮影不可能でした!

10.楼門から拝殿を見る!

11.見事な拝殿

12.国重文の見事な本殿は入母屋造・和様・唐様折衷の室町時代の建築です!

13.干支やいろんな意味を持つ像が拝殿・本殿の周辺を取り巻いています。

14.数多くの天満宮などの摂社が拝殿・本殿を取り巻いて建てられています!

15.拝殿の横側には巨大な古木の右近の桜と左近の桜が植えられています!

16.国天然記念物のお葉付イチョウ(茨城県下でもトップクラスで、樹高35メートル、幹周
6メートルもあります。)

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2014/10/25
房総の文化財・史址を見る!3.水戸東照宮 文化財研修記
水戸市宮町2−5−13には主神徳川家康公(東照公)と配祀は初代藩主徳川頼房(威公)を祀る水戸東照宮がある。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。正式名称は東照宮で、一般には「権現さん」と呼ばれている。元和7年(1621)、家康の11男で水戸藩の藩祖である頼房が、父の家康を祀るために景勝地の霊松山に創建した。中央に東照大権現、左に山王権現、右に麻多羅神(唐の青龍寺の鎮守神で、比叡山の鎮守である日吉大神と同神とされる)が祀られ、創建当初は「三所権現」と称していた。元和10年に2代将軍秀忠の霊屋が建てられ、以降、歴代将軍の霊が相殿として祀られた。鎮座地名は、元禄12年(1699)、2代藩主光圀公によって「常磐山」(ときわやま)に改められた。
大照寺が別当寺となり、創建以来仏式で祭祀が行われていたが、天保14年(1844)、寺院整理を進めていた9代藩主斉昭によって寺僧は罷免され、神式に改められ、仏教色の強い左右の配神二座が除かれた。江戸幕府の祖・家康をまつる東照宮を寺院整理の対象にしたために幕府などの批判を受け、斉昭の隠居の一因になったとされている。
明治8年(1875)に県社に列格した。昭和11年(1936)、水戸藩主頼房を配祀した。昭和41年(1966)、神社本庁の別表神社に加列された。創建当時からの社殿は大正6年(1917)に国宝に指定されたが、1945年(昭和20年(1945)に戦災で焼失、昭和37年(1962)に再建された。
1.東照宮の朱の大鳥居

2.石段参道

3.境内に入る!

4.第二の石造りの大鳥居

5.東照宮の駒札

6.水戸市指定文化財の常葉山(わかばやま)時鐘の駒札

7.同上 若葉山時鐘

8.摂社の稲荷神社(通常通り宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)食事の神を祀っている。

9.摂社天満宮(祭神は菅原道真公)

10・野口雨情の生誕100年の碑

11.横綱の常陸山(ひたちやま)の碑

12.水戸市指定文化財の安神車の駒札(海防のため水戸斉昭公が造らせたことはご存じと思う。)

13.安神車

14.水戸市保存樹の大クスノキ(幹周2.6メートル、樹高16メートル、推定樹齢130年)

15.銅造燈籠の駒札

16.見事な彫刻の入った銅造燈籠

17.東照宮を斜めから見る!

18.拝殿正面

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大照寺が別当寺となり、創建以来仏式で祭祀が行われていたが、天保14年(1844)、寺院整理を進めていた9代藩主斉昭によって寺僧は罷免され、神式に改められ、仏教色の強い左右の配神二座が除かれた。江戸幕府の祖・家康をまつる東照宮を寺院整理の対象にしたために幕府などの批判を受け、斉昭の隠居の一因になったとされている。
明治8年(1875)に県社に列格した。昭和11年(1936)、水戸藩主頼房を配祀した。昭和41年(1966)、神社本庁の別表神社に加列された。創建当時からの社殿は大正6年(1917)に国宝に指定されたが、1945年(昭和20年(1945)に戦災で焼失、昭和37年(1962)に再建された。
1.東照宮の朱の大鳥居

2.石段参道

3.境内に入る!

4.第二の石造りの大鳥居

5.東照宮の駒札

6.水戸市指定文化財の常葉山(わかばやま)時鐘の駒札

7.同上 若葉山時鐘

8.摂社の稲荷神社(通常通り宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)食事の神を祀っている。

9.摂社天満宮(祭神は菅原道真公)

10・野口雨情の生誕100年の碑

11.横綱の常陸山(ひたちやま)の碑

12.水戸市指定文化財の安神車の駒札(海防のため水戸斉昭公が造らせたことはご存じと思う。)

13.安神車

14.水戸市保存樹の大クスノキ(幹周2.6メートル、樹高16メートル、推定樹齢130年)

15.銅造燈籠の駒札

16.見事な彫刻の入った銅造燈籠

17.東照宮を斜めから見る!

18.拝殿正面

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2014/10/23
房総の文化財・史址を見る!2.国特別史跡・水戸城跡2の2! 文化財研修記
水戸市三の丸3には国特別史跡の水戸城跡がある。水戸城は、那珂川と千波湖にはさまれた台地(現JR常磐線水戸駅周辺)の先端に築かれた平山城。鎌倉時代初期、この台地上に最初に城砦を築いたのは常陸大橡(地方国衙の行政官)の馬場資幹(ばばすけもと)であった。このため、水戸城ははじめ馬場城とよばれた。馬場氏による約200年間の統治ののち、常陸守護代の江戸通房(えどみちふさ)が馬場氏を追放して馬場城を占拠、戦国大名として君臨する。江戸氏は城郭を拡張し、水戸城と改称した。天正18年(1590)、豊臣秀吉の傘下に入った常陸太田の佐竹義重・義宣(さたけよししげ・よしのぶ)が水戸城を攻めて城主の江戸氏を追い出し、水戸は佐竹54万石余の城下町となる。しかし、関ヶ原の戦いで佐竹義宣は西軍にくみしたため出羽秋田に移封され、徳川家康の5男武田信吉が15万石で入封、早世した信吉ののち、家康の10男徳川頼宣(よりのぶ)が入り、つづいて慶長14年(1609)に11男の頼房(よりふさ)が25万石(のち35万石)で入封し、水戸徳川家11代約260年の始祖となる。徳川頼房は、佐竹時代の旧二の丸を本丸として居館を建て、三の丸を造営、外堀の拡張などの普請をおこない、連郭式の縄張が完成した。9代藩主斉昭(なりあき)のとき、三の丸に藩校の弘道館が建てられた。 水戸城は、幕末の藩内抗争と明治の廃城令で多くの建物が損壊し、この水戸城は平山城で天守閣もない、他藩と比べて質素な城であった。残った三階櫓も昭和20年(1945)の戦災で焼失した。土塁と空堀の一部、復元された薬医門、弘道館の正庁・至善堂・正門が城址の名残りをとどめている。
1.たてほ橋を渡る!

2.水戸藩9代藩主徳川斉昭公(なりあき、烈公と呼ばれた)像(即ち、最後の将軍、徳川慶喜公の父上です。)

3.弘道館入口(閉鎖中、国特別史跡で9代藩主徳川斉昭公の発意で作られた藩校です。)

4.国史跡の旧弘道館表門

5.三の丸小学校校門

6.大銀杏の駒札

7.第二次大戦にも生き残った大銀杏の木

8.本丸跡に建つ桃山時代(佐竹時代)の旧橋詰門で移築再建された茨城県指定有形文化財の薬医門!

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1.たてほ橋を渡る!

2.水戸藩9代藩主徳川斉昭公(なりあき、烈公と呼ばれた)像(即ち、最後の将軍、徳川慶喜公の父上です。)

3.弘道館入口(閉鎖中、国特別史跡で9代藩主徳川斉昭公の発意で作られた藩校です。)

4.国史跡の旧弘道館表門

5.三の丸小学校校門

6.大銀杏の駒札

7.第二次大戦にも生き残った大銀杏の木

8.本丸跡に建つ桃山時代(佐竹時代)の旧橋詰門で移築再建された茨城県指定有形文化財の薬医門!

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2014/10/21
房総の文化財・史址を見る!1.国特別史跡の水戸城を見る2の1! 文化財研修記
水戸市三の丸3には国特別史跡の水戸城跡がある。水戸城は、那珂川と千波湖にはさまれた台地(現JR常磐線水戸駅周辺)の先端に築かれた平山城。鎌倉時代初期、この台地上に最初に城砦を築いたのは常陸大橡(地方国衙の行政官)の馬場資幹(ばばすけもと)であった。このため、水戸城ははじめ馬場城とよばれた。馬場氏による約200年間の統治ののち、常陸守護代の江戸通房(えどみちふさ)が馬場氏を追放して馬場城を占拠、戦国大名として君臨する。江戸氏は城郭を拡張し、水戸城と改称した。天正18年(1590)、豊臣秀吉の傘下に入った常陸太田の佐竹義重・義宣(さたけよししげ・よしのぶ)が水戸城を攻めて城主の江戸氏を追い出し、水戸は佐竹54万石余の城下町となる。しかし、関ヶ原の戦いで佐竹義宣は西軍にくみしたため出羽秋田に移封され、徳川家康の5男武田信吉が15万石で入封、早世した信吉ののち、家康の10男徳川頼宣(よりのぶ)が入り、つづいて慶長14年(1609)に11男の頼房(よりふさ)が25万石(のち35万石)で入封し、水戸徳川家11代約260年の始祖となる。徳川頼房は、佐竹時代の旧二の丸を本丸として居館を建て、三の丸を造営、外堀の拡張などの普請をおこない、連郭式の縄張が完成した。9代藩主斉昭(なりあき)のとき、三の丸に藩校の弘道館が建てられた。 水戸城は、幕末の藩内抗争と明治の廃城令で多くの建物が損壊し、この水戸城は平山城で天守閣もない、他藩と比べて質素な城であった。残った三階櫓も昭和20年(1945)の戦災で焼失した。土塁と空堀の一部、復元された薬医門、弘道館の正庁・至善堂・正門が城址の名残りをとどめている。
1.JR水戸駅前の水戸黄門、助さん、挌さんの銅像(黄門とは引退した中納言のことを言う。前田黄門さんは引退した前田利常のことをさした。)

2.銅像横の水戸市の案内図(広大です!)

3.大腹橋と濠址

4.二中見晴らし台入口(閉門中)

5.水戸市天然記念物「大シイ」の駒札

6.天然記念物の大シイの巨木(画面をクリックすると2,000ピクセルで読めます!)

7.二の丸展示場(元水戸彰考館跡)

8.水戸彰考館跡碑

9.大日本史編纂地碑

10.水戸第2中学校門(閉鎖中)

11、茨城師範学校址碑

12.水戸城跡の駒札

13.水戸藩初代藩主徳川頼房像(家康公の11男)

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1.JR水戸駅前の水戸黄門、助さん、挌さんの銅像(黄門とは引退した中納言のことを言う。前田黄門さんは引退した前田利常のことをさした。)

2.銅像横の水戸市の案内図(広大です!)

3.大腹橋と濠址

4.二中見晴らし台入口(閉門中)

5.水戸市天然記念物「大シイ」の駒札

6.天然記念物の大シイの巨木(画面をクリックすると2,000ピクセルで読めます!)

7.二の丸展示場(元水戸彰考館跡)

8.水戸彰考館跡碑

9.大日本史編纂地碑

10.水戸第2中学校門(閉鎖中)

11、茨城師範学校址碑

12.水戸城跡の駒札

13.水戸藩初代藩主徳川頼房像(家康公の11男)

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2014/10/19
大津市の文化財・史址を見る!(最終回)12.フエノロサとビゲロー両博士のお墓のある法明院! 文化財研修記
大津市園城寺町246には園城寺(三井寺)子院で一番北にあり、フエノロサとビゲロー両博士のお墓がある法明院(ほうみょういん)がある。両博士の墓がこの寺にあるのを知ったのは極最近であった。ブログ仲間へのコメントで知ったのです。美術、芸術に疎いという人でも、「フェノロサ」という名前は聞き覚えがあるはず。明治以降の急激な近代化=脱亜入欧化のなかで、日本の伝統美術を荒廃から救い出してくれた恩人ともいえる。とにかく、中学校の歴史教科書にも登場するほど有名なフェノロサだが、滋賀県民であっても彼のお墓が大津の山すそにあるということを知っている人はそう多くないのではないだろう。アーネスト・フランシスコ・フェノロサ。アメリカ・マサチューセッツ州のセーラムという町に生まれたフェノロサが日本へやってきたのは、富国強兵のため、日本全体が欧米に習って近代化を目指していた明治時代の初めのころ。フェノロサも明治時代を通じて日本に3,000人ほどが招かれたという、いわゆる「お雇い外国人」のひとりだった。明治11年(1878)、フェノロサは大森貝塚を発見したことで知られる動物学者モースの薦めもあって、哲学の教授として東大に招かれている。彼のもともとの専攻は美術とは程遠いものだったが、ハーバード大学を首席で卒業した後、ボストン美術館の絵画スクールに通っていることから、もともと芸術に深い関心があったことわかる。来日後のフェノロサの活躍はめざましい。日本の美術にほれ込んだフェノロサは、美術品などを収集するかたわら、いかに日本独特の芸術がすばらしいかを説いて回ったという。だが、その頃の日本は誰もが欧米化を受け入れていた時代。その影響で平安、中世、江戸時代にわたって高められてきた日本の伝統美術はないがしろにされていた。近代化とは江戸時代までの権威、文化、風習をことごとく否定することから始まっていたからだ。とくに、日本の国家的仕組みを支えるイデオロギーとして、神道は仏教と引き離され、国家神道へと再編される。これを契機に、寺院仏閣を徹底的に破壊する「廃仏毀釈」が行われた。と同時に、名家といわれた家柄の者も「四民平等」となった明治時代には、屏風や先祖伝来の家宝などを二束三文で売り払うほかないというケースも続出していた。
日本人自身の手によって日本の高尚な芸術が破壊、散逸されてゆく・・・そんな状況に危機感を抱いたフェノロサは、やがて、文部省の職員となり、岡倉天心らとともに京都、奈良などの古寺の調査に乗り出す。彼が調査した寺院の数は60以上、収蔵されている美術品なども詳しく調査した。この調査がもととなり、1897年には寺社仏閣などを文化財に指定することで保護の意識を高めようとする「古社寺保存法」(後の国宝保存法、現在の文化財保護法)という法律が制定されている。フェノロサは、古いものを見つめ直して再評価するこうした活動のなかで、さらに日本で新しい日本美術が生まれることも大切だと考えるようになっていった。そんな思いから、やる気と目標を見失いかけていた日本画家たちを勇気づけるために、日本の芸術にしかない「美」のすばらしさを懸命に説いて聞かせた。さらに、岡倉天心とともに現在の東京芸術大学の前身にあたる、東京美術学校の設立にも重要な役割を果たしている。日本人以上に日本の美を愛し、日本人が忘れかけていた「温故知新」を文字通りに行って近代日本の芸術発展の礎となったフェノロサ。日本好きが昂じた彼は、ついには日本でキリスト教徒から仏教徒へと改宗してしまったほどだ。キリスト教には最後の審判があり、そこで少数の天国へいくものと大勢の地獄へ落ちるものとがはっきりとわかれてしまう。仏教はそれを選ばず、誰もが等しく慈悲に包まれて仏になることができる。その包容力こそが仏教を信じるにいたった理由だとフェノロサは後に語っている。この思いを知れば、フェノロサの日本文化への理解がどれほど深いものだったか理解できる。
二度目の訪日の際、自身を仏の道へと導いてくれた桜井敬徳律師が住職を務めていた三井寺の法明院にしばらく滞在した。山すその小高い場所にある法名院には、琵琶湖と三上山を借景とした美しい池泉回遊式の庭園もあり、フェノロサはその庭園からの眺めを随分と気に入っていたそうだ。日本を離れた後もその思いは変わらず、「墓を琵琶湖の見える法明院に」との遺言を生前に残し、実際、1908年にロンドンで客死したフェノロサの分骨が、翌年、遺言通りに法明院に葬られた。法明院は、三井寺から少し離れた森のなか、東海自然歩道を1kmほど歩いたところにある。江戸時代の建築という書院の左奥、フェノロサが愛した琵琶湖の風景を左手に見ながら進むと、杉の木立ちに囲まれた墓所に着く。木製の日本語の案内板と英文で書かれた石碑の奥、静寂のなかにフェノロサの墓がひっそりとたたずむ。その傍らには、フェノロサの親友で、みずからも日本の美術にのめりこんだ医学博士、ビゲロー博士の墓がその仲の良さを示すように並んで建っている。(この長文は大津市の記事がら抜粋したものでまだ、足りない位です)
1.法明院の道標

2.法明院碑

3.鬱蒼とした参道!

4.本堂

5.本堂に向かって左側の門をくぐりフエノロサのお墓へ向かう!

6.見事な庭園の傍を横切る!

7.案内の道標

8.途中の宝塔と石仏を見る!

9.フエノロサのお墓の駒札

10.フエノロサのお墓!

11.同上 英文の碑文

12.フェノロサの親友で、みずからも日本の美術にのめりこんだ医学博士、ビゲロー博士の墓がその仲の良さを示すように並んで建っている。

13.池泉回遊式の名園だが撮影失敗!

14.同上

15.琵琶湖を見る!

16.同上

17.琵琶湖と遙かかなたに三上山が見えたが、写真では失敗!他所から借りて来ました!

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日本人自身の手によって日本の高尚な芸術が破壊、散逸されてゆく・・・そんな状況に危機感を抱いたフェノロサは、やがて、文部省の職員となり、岡倉天心らとともに京都、奈良などの古寺の調査に乗り出す。彼が調査した寺院の数は60以上、収蔵されている美術品なども詳しく調査した。この調査がもととなり、1897年には寺社仏閣などを文化財に指定することで保護の意識を高めようとする「古社寺保存法」(後の国宝保存法、現在の文化財保護法)という法律が制定されている。フェノロサは、古いものを見つめ直して再評価するこうした活動のなかで、さらに日本で新しい日本美術が生まれることも大切だと考えるようになっていった。そんな思いから、やる気と目標を見失いかけていた日本画家たちを勇気づけるために、日本の芸術にしかない「美」のすばらしさを懸命に説いて聞かせた。さらに、岡倉天心とともに現在の東京芸術大学の前身にあたる、東京美術学校の設立にも重要な役割を果たしている。日本人以上に日本の美を愛し、日本人が忘れかけていた「温故知新」を文字通りに行って近代日本の芸術発展の礎となったフェノロサ。日本好きが昂じた彼は、ついには日本でキリスト教徒から仏教徒へと改宗してしまったほどだ。キリスト教には最後の審判があり、そこで少数の天国へいくものと大勢の地獄へ落ちるものとがはっきりとわかれてしまう。仏教はそれを選ばず、誰もが等しく慈悲に包まれて仏になることができる。その包容力こそが仏教を信じるにいたった理由だとフェノロサは後に語っている。この思いを知れば、フェノロサの日本文化への理解がどれほど深いものだったか理解できる。
二度目の訪日の際、自身を仏の道へと導いてくれた桜井敬徳律師が住職を務めていた三井寺の法明院にしばらく滞在した。山すその小高い場所にある法名院には、琵琶湖と三上山を借景とした美しい池泉回遊式の庭園もあり、フェノロサはその庭園からの眺めを随分と気に入っていたそうだ。日本を離れた後もその思いは変わらず、「墓を琵琶湖の見える法明院に」との遺言を生前に残し、実際、1908年にロンドンで客死したフェノロサの分骨が、翌年、遺言通りに法明院に葬られた。法明院は、三井寺から少し離れた森のなか、東海自然歩道を1kmほど歩いたところにある。江戸時代の建築という書院の左奥、フェノロサが愛した琵琶湖の風景を左手に見ながら進むと、杉の木立ちに囲まれた墓所に着く。木製の日本語の案内板と英文で書かれた石碑の奥、静寂のなかにフェノロサの墓がひっそりとたたずむ。その傍らには、フェノロサの親友で、みずからも日本の美術にのめりこんだ医学博士、ビゲロー博士の墓がその仲の良さを示すように並んで建っている。(この長文は大津市の記事がら抜粋したものでまだ、足りない位です)
1.法明院の道標

2.法明院碑

3.鬱蒼とした参道!

4.本堂

5.本堂に向かって左側の門をくぐりフエノロサのお墓へ向かう!

6.見事な庭園の傍を横切る!

7.案内の道標

8.途中の宝塔と石仏を見る!

9.フエノロサのお墓の駒札

10.フエノロサのお墓!

11.同上 英文の碑文

12.フェノロサの親友で、みずからも日本の美術にのめりこんだ医学博士、ビゲロー博士の墓がその仲の良さを示すように並んで建っている。

13.池泉回遊式の名園だが撮影失敗!

14.同上

15.琵琶湖を見る!

16.同上

17.琵琶湖と遙かかなたに三上山が見えたが、写真では失敗!他所から借りて来ました!

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2014/10/17
大津の文化財・史址を見る!11.国宝の新羅善神堂(しいらぜんじじんどう)! 文化財研修記
大津市園城寺町246には国宝の新羅善神坐像を安置している国宝の新羅善神堂(しんらぜんじんどう)がある。「堂」と名が付けられているが、流造(ながれづくり)の神社本殿の建築様式であり、現存の建物(国宝)は貞和3年(1347)、足利尊氏の寄進によるものである。貞観2年(806年)に作られたとされる国宝の新羅明神坐像(檜の一本造)を安置しているが、秘仏であり、特別な行事の時以外は開扉されない。新羅明神は、唐に留学した円珍が日本へ帰国する際、船中に現われた神とされ、円珍に伝えられた経法を永遠に守護することを誓った神であるという。円珍が請来した経典法具を三井寺に保管することになったのも新羅明神の夢告によるとされている。 源頼義が三男の義光をこの神の前で元服させ、義光はそれ以来「新羅三郎」と呼ばれるようになったことはよく知られる。新羅三郎義光は後に関東に下り、甲斐源氏の祖となり、武田信玄につながる。鎌倉の古社八雲神社も新羅三郎と縁があり、「手玉石」がある。
1.石造りの大鳥居

2.新羅善神堂への道標

3.もの凄い巨木の森を通る!

4.参道もかなり荒れている!

5.やっと新羅善神堂が見えてくる!

6.神社の駒札

7.正面から見る!

8.塀があるので上手く見えないが,斜めから撮影!

9.新羅善神堂をやっと撮影!

10.南側の石段を上ると「新羅三郎義光」のお墓がある!

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1.石造りの大鳥居

2.新羅善神堂への道標

3.もの凄い巨木の森を通る!

4.参道もかなり荒れている!

5.やっと新羅善神堂が見えてくる!

6.神社の駒札

7.正面から見る!

8.塀があるので上手く見えないが,斜めから撮影!

9.新羅善神堂をやっと撮影!

10.南側の石段を上ると「新羅三郎義光」のお墓がある!

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2014/10/15
大津の文化財・史址を見る!10.弘文天皇御陵! 文化財研修記
大津市御陵町3には第38代天智天皇の嫡男の弘文天皇(こうぶんてんのう)の御陵がある。、とも)または 伊賀(いが)。明治3年(1870)に諡号を贈られ天皇として認められたが即位したかどうか定かではなく大友皇子と表記されることも多い。天智天皇の第一皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。天智後継者として統治したが壬申の乱において叔父・大海人皇子に敗北し自害する。正妃は十市皇女(天武天皇皇女) 葛野王、 淡海真人・朝臣の祖(→淡海三船)妃は藤原耳面刀自(藤原鎌足女) 壱志姫王、侍妾の与多王( 園城寺を発願したとされる伝承的人物。大友氏の祖ともされる。)兄弟姉妹の表記は第一皇子、第二皇子等の記述を基にしたが、序列的な意味合いもあるため実際の生誕順ではないことがある。兄弟:建皇子・川島皇子・志貴皇子、姉妹:大田皇女・鸕野讃良皇女(持統天皇)・新田部皇女・大江皇女(以上:夫天武天皇)・明日香皇女(夫:忍壁皇子)・御名部皇女(夫:高市皇子)・阿陪皇女(元明天皇、夫:草壁皇子)・山辺皇女(夫:大津皇子)・泉皇女・水主皇女など。
1.弘文天皇御陵案内碑

2.宮内庁の弘文天皇の駒札

3.御陵の一部

4.弘文天皇陵

5.同上 アップで見る!

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1.弘文天皇御陵案内碑

2.宮内庁の弘文天皇の駒札

3.御陵の一部

4.弘文天皇陵

5.同上 アップで見る!

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2014/10/13
大津の文化財・史址を見る!9.近畿三十六不動第二十五番霊場の圓満院門跡! 綾部の文化財
大津市園城寺町33には近畿36不動第25番霊場で天台宗系の単独総本山の円満院(えんまんいん、圓満院)があるは圓満院跡(えんまんいんもんぜき)と称することが多い。水子供養の寺として「日本水子供養霊場会総霊廟所」を自称する。又、寺内に大津絵美術館を併設しており大津絵も楽しめます。
寛和3年(987)、村上天皇の皇子悟円法親王が創建したとされているが、『春記』には園城寺の明尊が長久元年(1040)に後朱雀天皇の支援を受けてこの地に新しい寺を創建し、「円満院」と命名したことが記されている。正保4年(1647)、京都御所の御殿を賜って円満院に移築され、明治35年に国の重要文化財に指定された。この宸殿は、徳川秀忠と江姫の娘である徳川和子(東福門院)が後水尾天皇に嫁いだ時(1619)に造営されたものである。宸殿には、後水尾天皇が座ったとされる玉座もあり、歴史的に重要な建造物である。
更には、名庭(名勝・史跡)があり、宸殿の南側にある広大な庭園は、国の名勝及び史跡に指定され、室町時代の造園家相阿弥の作と伝えられる池泉観賞式庭園である。中央に細長く池を掘り、建物と池の空き地には白砂が一面に敷きつめられ、池の背後には自然の地形を生かした築山があり、池の中には鶴島・亀島が浮かび、高く巨大な石橋が架けられ、池泉観賞式の「鶴亀の蓬莱庭(ほうらいてい)」として不老長寿を願い、慶祝を表す庭となっている。
1.やっと圓満院門跡の標柱が見えて来た!

2.同上

3.車石(昔はコンクリートが無かったので車の輪が回りやすいように石を敷き並べていた。)

4.山門

5.駒札

6.宸殿前の大津市指定の名木の駒札

7.同上 名木

8.国重文の宸殿入口

9.鈴鳴地蔵尊

10.宸殿の内庭の一部

11.豪華な宸殿内部

12.三井の名園(池泉観賞式の「鶴亀の蓬莱庭(ほうらいてい)の一部)

13.下記をクリックして、「音声付動画」で豪華な宸殿内部と庭園を見て下さい!
http://youtu.be/LxjBgrcMp0Y
14.別邸大津絵美術館への廊下

15.見事な須弥壇がある!

16.名園の一部

17.同上

18.大津絵美術館の一部

19.同上

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寛和3年(987)、村上天皇の皇子悟円法親王が創建したとされているが、『春記』には園城寺の明尊が長久元年(1040)に後朱雀天皇の支援を受けてこの地に新しい寺を創建し、「円満院」と命名したことが記されている。正保4年(1647)、京都御所の御殿を賜って円満院に移築され、明治35年に国の重要文化財に指定された。この宸殿は、徳川秀忠と江姫の娘である徳川和子(東福門院)が後水尾天皇に嫁いだ時(1619)に造営されたものである。宸殿には、後水尾天皇が座ったとされる玉座もあり、歴史的に重要な建造物である。
更には、名庭(名勝・史跡)があり、宸殿の南側にある広大な庭園は、国の名勝及び史跡に指定され、室町時代の造園家相阿弥の作と伝えられる池泉観賞式庭園である。中央に細長く池を掘り、建物と池の空き地には白砂が一面に敷きつめられ、池の背後には自然の地形を生かした築山があり、池の中には鶴島・亀島が浮かび、高く巨大な石橋が架けられ、池泉観賞式の「鶴亀の蓬莱庭(ほうらいてい)」として不老長寿を願い、慶祝を表す庭となっている。
1.やっと圓満院門跡の標柱が見えて来た!

2.同上

3.車石(昔はコンクリートが無かったので車の輪が回りやすいように石を敷き並べていた。)

4.山門

5.駒札

6.宸殿前の大津市指定の名木の駒札

7.同上 名木

8.国重文の宸殿入口

9.鈴鳴地蔵尊

10.宸殿の内庭の一部

11.豪華な宸殿内部

12.三井の名園(池泉観賞式の「鶴亀の蓬莱庭(ほうらいてい)の一部)

13.下記をクリックして、「音声付動画」で豪華な宸殿内部と庭園を見て下さい!
http://youtu.be/LxjBgrcMp0Y
14.別邸大津絵美術館への廊下

15.見事な須弥壇がある!

16.名園の一部

17.同上

18.大津絵美術館の一部

19.同上

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