2014/5/14

畿内の文化財・史址を見る!15.池田市最古の延喜式内社で織姫・応神天皇・仁徳天皇を祀る伊居太神社!  綾部の文化財

 大阪府池田市綾羽2−2.2−4に呉の国より渡来し、日本に機織技術を伝えたとされる、織姫・穴織媛(あやはとりのひめ)と、応神天皇、仁徳天皇を祀っている伊居太神社(いけだじんじゃ)がある。正式名称は穴織宮伊居太神社で池田市最古の延喜式内社である。
 応神天皇の時代、機織・縫製技術を得るために呉の国に派遣された猪名津彦命が、呉王に乞い連れ帰った呉服媛(くれはとりのひめ)・穴織媛(あやはとりのひめ)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の4妹のうち、池田の地に迎えられた呉服・穴織姉妹の妹、穴織媛が祀られている。仁徳天皇76年に穴織媛が死去し、その翌年に仁徳天皇がこの地に建てたとされる。
『延喜式神名帳』に掲載されている摂津国河辺郡の伊居太神社の論社の一つとされており、もう一つの論社は兵庫県尼崎市の伊居太神社(いこたじんじゃ)である。
延暦4年、桓武天皇の勅命により社殿を新たに、応神天皇、仁徳天皇を祀るようになった。
現在の社殿は、織田信長の摂津国への入国により焼失後、慶長9年(1604)に豊臣秀頼によって再建された物である。

1.伊居太神社の大鳥居
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2.参道
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3.参道途中にある呉服神社(呉服大明神)
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4.同じく参道の途中にある為那都比古(イナツヒコ)大明神
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5.同上の駒札(画面をクリックして拡大して読んで下さい!)
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6.見事な神門
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7.舞殿から拝殿・本殿境内全体を見る!
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8.舞殿を斜めから見る!
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9.見事な拝殿と背後の寄木造りの本殿を見る!


10.見事な拝殿を正面から見る!
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11.見事な拝殿の蟇股(カエルマタ)の龍の彫刻
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12.摂社群
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2014/5/12

行基創建の本堂(国宝)のある長弓寺・霊山寺と行基の墓のある竹林寺を訪ねて ご案内  文化財研修記

期日:6月4日(水)JR綾部駅8時出発、募集人員90名、参加料9000円(会員外+1000円)詳細は下記をご覧ください。

「綾部市文化協会後援」
第四十五回春の研修旅行「奈良県の有名な行基創建の国宝の本堂を持つ長弓寺、霊山寺、行基のお墓のある竹林寺を訪ねて」のご案内  
 事務局 四方續夫

見学箇所についてのご案内
平成二十二年六月に奈良県当麻寺・石上神社・天理大学付属天理参考館を見学して以来四年ぶりに大変行きにくい奈良県生駒市や奈良市内の文殊菩薩の生まれ変わりと云われた僧・行基に関係する素晴らしいお寺を見学いたします。 
計画役員一同自信を持って参加をお薦め致します。会員外の参加申し込みも受付ますが、年会費千円を別途頂きます。
  
聖武天皇勅願 行基菩薩開基
大和十三仏霊場第九番札所
 真弓山 真言宗 長弓寺
((ちょうきゅじ)
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長弓寺の国宝の本堂

 (午前十時二十分〜十一時二十分)
 午前十時二十分長弓寺駐車場到着。
現地ガイドさんの案内で見学を開始します。
 奈良時代、土地の豪族・小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)とその養子であった長麿(ながまろ)が、若年の聖武天皇に従ってこのあたりで狩猟をした時のこと、森より一羽の怪鳥が飛び立ったのを見て、親子でこれを追っていました。この時、養子である長麿(ながまろ)が誤って父・長弓(たけゆみ)を射殺してしまいました。聖武天皇はこのことを深く哀しみ、行基に命じてこの地に小さな御堂を建て十一面観音をおまつりされて長弓(たけゆみ)菩提を弔いました。また、自らも仏教に帰依され、この寺を深く信仰なさいました。時に神亀五年(七二八)聖武天皇が二八歳の頃だと伝えられています。本尊十一面観音の頂上の仏面は、聖武天皇の弓の柄で彫られているという逸話が残っています。 平安時代には、桓武天皇の頃、藤原良継が伽藍を整備し丈六(じょうろく)の阿弥陀、釈迦、四天王を安置して崇敬されました。
また、弘法大師がこの地を訪れた際も、善女龍王を感得されたと伝えられています。その後堀川天皇が、伽藍を修復し大般若経六百巻を施入して、世の平安と諸人の快楽(けらく)を祈られました。しかし、平安末期・安徳天皇の御代には火災にあったと、東大寺資材帳に記録があります。
鎌倉時代の弘安二年(一二七九)には現本堂(国宝)が建立されましたが、当時は蒙古の来襲で寄進が意の如く集まらず約六十年間、素屋根であったようです。現存する本堂は、この時に建立されたもので、今は檜の皮で立派に屋根が葺かれています。
 その後室町時代の応仁の乱で、山名宗全の落人による重宝破壊、戦国時代には織田信長によって寺領が没収、明治の廃仏毀釈(きしゃく)によって寺運は衰退の一途をたどりましたが、昭和十年の大解体修理を経て今も本堂が現存しています。また、長弓寺は大和十三仏霊場の「第九番札所」として、一周忌の守り仏、午年生まれの仏、勢至菩薩(せいしぼさつ)をお祀りしています。
(国宝の本堂をバックに記念撮影を号車
毎にしますので、ご協力をお願いします。)

昼食:
ホテルアジール・奈良アネックス
電話:0七四二―三二―二五七七
奈良のお土産も購入できます。
(十一時五0分〜午後一時)

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霊山寺の国宝の本堂

登美山鼻高(とみやまびこう)
霊山寺(りょうせんじ)
 (十三時二十分〜十四時時二十分)
 霊山寺の所在する富雄の里は、古事記には「登美」であり、日本書紀では「鳥見」の地となっています。
敏達天皇の頃より、この地方は小野家の領有でした。右大臣小野富人(遣隋使・小野妹子の息子と伝わる)は壬申の乱に関与したため、弘文元年(六七二)官を辞し、登美山に閑居しました。天武十二年(六八四)四月五日よりニ十一日間熊野本宮に参籠。この間に薬師如来を感得され、登美山に薬草湯屋を建て、薬師三尊仏を祀って諸人の病を治されました。そして富人は鼻高仙人と称され尊崇されたのです。
 神亀五年(七ニ八)流星が宮中に落下し、大騒ぎになり孝謙皇女が征中の病(ノイローゼ)にかかられた時、聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、湯屋の薬師如来を祈念すれば治るとのお告げがあり、すぐに行基菩薩が代参。皇女の病が快癒しました。天平六年(七三四)聖武天皇は行基菩薩に大堂の建立を勅命。天平八年八月インドバラモン僧、菩提僊那が来日され、登美山の地相が霊鷲山(りょうじゅせん)にそっくりということから、寺の名称を霊山寺(りょうせんじ)と奏上され、落慶となりました。

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霊山寺の国重文の三重塔

 平安時代、弘法大師が来寺され、登美山に力の強い龍神様がおられると感得され、奥の院に大辯財天女尊(弁天さん)として祀られました。それまで当寺は法相宗でしたが、弘法大師が真言宗を伝えられ、以後は法相宗と真言宗の二宗兼学の寺となりました。
鎌倉時代には北条氏の帰依厚く、弘安六年(一ニ八三)本堂の改築、堂塔寺仏の修復新調が行われ、僧坊二十一ケ寺という所説からも非常に栄えました。その後、豊臣秀吉公の社寺政策により寺領百石を与えられ、また徳川幕府にも受け継がれ、御朱印寺として国家安泰と五穀豊穣そして幕府の武運長久を祈願して参りました。
 ところが明治維新の廃仏毀釈により、伽藍の規模は半減二00体以上の仏像焼却の運命をたどりました。しかし本尊薬師如来のご加護と、弘法大師が勧請された大辯財天の霊験により復興し、今もなお国宝重文建物六棟、重文仏像宝物三0余点を所蔵し、隆盛を保っています。
境内にある一、二00坪の薔薇庭園は先代住職の戦争体験から平和を願って、昭和三十二年に開園されました。二00種二、000株の色とりどりの薔薇が心の安らぎを与えてくれます。
(国宝の本堂をバックに号車毎に記念写真を撮影しますのでご協力をお願いします。)

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竹林寺の僧・行基のお墓

律宗 竹林寺(ちくりんじ)
(十四時四十分〜十五時二十分)
生駒市にありご本尊は文殊菩薩騎獅像〔もんじゅぼさつきししぞう〕です。
奈良時代に僧行基〔ぎょうき〕が開創したと伝えられています。行基が建てた四十九院の一つ生馬仙房〔いこませんぼう〕に比定されますが、詳細は不明です。文暦二年(一二三五)に竹林寺の僧によって文殊堂付近にあった行基の墓所から舎利瓶〔しゃりびん〕が発掘されて以降、行基信仰が盛んになりました。西大寺中興の祖叡尊〔えいそん〕・その弟子忍性〔にんしょう〕などの南都の僧も止宿し中興しましたが、明治の廃仏毀釈によって寺勢は衰退に至り、平成九年(一九九七)舎が整備されました。



一、期日 平成二十六年六月四日(水)
二、集合場所・時間は乗車場所により違
いますので、出発予定より十分ほど早くご集合願います。
三、見学箇所:長弓寺、霊山寺と竹林寺
四、参加費 お一人九、000円(貸  
 切バス代、昼食代、拝観料及び入館料、
心付、手作り記念写真二枚の代金を含
みます。)
五、募集人員 九十名(京都交通貸切バ
 ス二台予定)
六、申し込み方法 五月十五日(木)までに参加者全員の〒番号・お名前・ご住所・電話番号・バスの乗車場所を明記し、葉書にて申し込み下さい。特別緊急以外の電話申し込みはお断りします。
七、申込先
 〒番号:六二三―000四
 綾部市多田町後路二八
 四方續夫 宛


                  行 程 表
@号車:上杉バス停=白道路公民館=物部バス停=新庄バス停=栗文化センター=綾高前バス停= 7:15 7:25 7:35 7:40 7:45 7:50
=綾部駅北口(合流)=綾部大橋バス停=以下2号車と同じ。
    08:00    8:05
A号車:市野瀬バス停=大町バス停=寺町バス停=井根口バス停=十倉バス停=綾部駅北口)====7:15  7:20   7:25 7:30    7:40   8:00合流
=綾部大橋バス停=山家バス停===やまがた屋==京都縦貫道==名神高速道=山崎JCT= 
 8;05    8:10    (休憩)               (休憩)
=長弓寺駐車場=======昼食:ホテルアジール奈良アネックス==霊山寺=====竹林寺==
10:20頃到着出発11;20 11:50(買物)出発1時  1:20 2:20 2:40
====壱分IC==大山崎経由=====京都縦貫道=やまがた屋============
出発3:20時間厳守             4:45(休憩)5:00               
A号車=山家バス停=綾部大橋バス停=綾部駅北口=十倉バス停=寺町=大町=市野瀬バス停   5:40頃   5:45  5:50  6:10  6:20頃   6:30頃     
@号車=綾部大橋バス停=綾部駅北口=綾高前=栗文化センター=新庄バス停=物部バス停==    5:45頃   5:50頃 5:55 6:00頃 6:05頃  6:10   6:15
=白道路公民館=====上杉バス停
 6:20       6:30頃
      
八、受付と出発案内は申し込み締め切り
後、葉書にてお知らせします。

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2014/5/12

畿内の文化財・史址を見る!14.天照大神を主神として祀る延喜式内社の古志部神社!  文化財研修記

 大阪府吹田市岸部北4−18には延喜式内社の吉志部神社(きしべじんじゃ)があります。その創建時期は明らかではありませんが、社伝によると崇神天皇の時代に大和国の瑞籬から奉遷して祀られ「大神宮」と称したとありますが、淳和天皇の時代である天長元年(824)に天照御神と改称したこともあるようです。ちなみに正式に吉志部神社となったのは、明治3年(1870)、神仏分離の発令を機に改められてからです。古くから極めて壮麗な社殿であったと伝えられていますが、応仁の乱の兵火でことごとく焼け落ちてしまいます。焼け跡には奇跡的に神鏡のみが残されていたことから、それを村人たちの手によって再び奉祀して文明元年(1469)に再建、さらに天文3年(1534)に中興されました。
江戸時代、祭神は天照皇大神を主神とした七柱で七社明神と呼ばれ、吉志部5ケか村の鎮守として祀られていました。後に豊受大神を合祀し、正3年(1713)、正遷宮の棟札には「吉志部村鎮守八社 」と記されています。本殿再建から400年を目前に控えた平成20年(2008)年5月23日未明、不審火により本殿および拝殿を全焼するという被害を受けました。ニュースの映像によると空高く火柱がたち、あっという間に焼け落ちています。残念ながら歴史的価値の高い建造物や貴重な神器のほとんどを失ってしまいました。
2008年5月25日、神社責任役人と氏子総代により、火災現場調査後に焼失した本殿跡のすぐ前方に仮殿を早急に建設し、その後文化庁の指示を得ながら焼失前と同様の七間社の社殿を覆屋も含めて再建することが決議された。仮本殿は2008年7月に着工し9月に完成した。引き続き本殿・拝殿の再建は翌々年の2010年1月に大谷大学客員教授・櫻井敏雄博士の監修のもと、金剛組の施工により着工した。2011年3月には新しい本殿・拝殿が完成した。吉志部神社HPより一部抜粋。

1.吉志部神社標柱と鳥居
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2.鳥居と注連綱柱
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3.残念なりこの駒札といったところです!
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4.神門
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5.手水舎
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6.神社の駒札(写真画面をクリックして拡大して読んで下さい!)
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7.拝殿
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8.拝殿後部から本殿を見る!
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9.摂社群の一部
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10.移築された古代の須恵器窯跡の説明版
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11.移築された古代の須恵器窯跡


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2014/5/11

太鼓橋と九尺藤で有名な丹波の古刹天台宗五大山「白毫寺」!九尺藤満開!  文化財研修記

兵庫県丹波市市島町白毫寺709には太鼓橋と九尺藤で有名な古刹の天台宗五大山「白毫寺(びゃくごうじ)」がある。白豪寺縁起によれば、慶雲2年(705)法道仙人により開基された。本尊は天竺から伝えられた言う薬師瑠璃光如来(秘仏)です。 眉間の白毫から神々しく瑞光を放っていたので、「白毫寺」と名付けられた。また、入唐求法から帰朝の際に白毫寺を訪れた慈覚大師円仁(後の第三世天台座主)は、周囲の山並みが唐の五台山に似ていることから山号を「五台山」と命名(後世に五大山と改称)し持ち帰った密教法具を伝えた。法道仙人はインドの僧で、中国・五台山で修行の後に日本を訪れた。中興の祖の円仁もまた五台山で修行を重ねている。開祖も中興の祖も、共に五台山にゆかりがあるのは不思議な因縁と言うしかない。 鎌倉時代には七堂伽藍が建ち並び、南北朝時代に入って赤松貞範など地元領主の庇護のもと、九十三坊を擁する丹波屈指の名刹として隆盛を極めたが、天正時代に明智光秀の丹波攻略に伴う兵火で焼失。しかし、人々の厚い信仰に支えられて立派に再興し現在に至っている。無料駐車場有。入山料は300円のみです。

1.白豪寺標柱
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2.摩尼車
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3.鐘楼
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4.太鼓橋駒札
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5.太鼓橋
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6.弁天社
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7.境内の藤
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8.山門
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9.境内と右は本堂
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10.七福神と宝船(当寺は布袋尊です。)
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11.本堂と左は楽寿観音様
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12.本堂の扁額と彫刻を見て下さい!
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13.ボケ除け地蔵尊
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14.数十ある九尺藤の一つ
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15.同上
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16.同上
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17.同上
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18.同上
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19.霊苑庭園の一部
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20.総本堂薬師堂
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2014/5/10

天田郡西国33ケ所霊場第9番曹洞宗・須弥塔山「頼光寺」のナンジャモンジャの白い花が満開!  文化財研修記

 京都府福知山市河北547には曹洞宗・須弥塔山「頼光寺(らいこうじ)」が5月10日見事なナンジャモンジャの白い花を満開に咲かせています。寺伝によれば約600年前、明徳年間(1390〜1393)に寂室空心和尚が禅寺の基を開き、応永2年(1395)鬼岳林頼光寺として創建されました。創建当時は福知山市大江町室尾谷(鬼ケ城東北の山腹)にある真言宗の名刹・観音寺の末寺でした。その後、中世末期の戦乱の中で寺舎は荒廃していましたが、案慶龍穏和尚の時代,延宝2年(1674)本堂を再建,続いて延宝4年(1676)には鐘楼を新調して、梵鐘を鋳造、寺運を興されました。元禄のころ、定巌林香和尚により曹洞宗に改宗され現在に至っています。当寺の山門横には、約100年前の大正時代初期に植えられた「ナンジャモンジャの木」が福知山市名木に選ばれ、毎年5月上旬から中旬にかけて人々の目を楽しませてくれます。無料駐車場もあります。但し、内陣のご本尊の釈迦牟尼仏、脇侍普賢菩薩、文殊菩薩像、絵天井(太鼓天井)や四季の襖絵を拝観希望の方は事前に予約が必要です。電話:0773−22−4849で拝観予約をお願いします。志納料もよろしく。

1.頼光寺標柱
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2.石段参道、左側に「ナンジャモンジャの木」が白い花を満開に咲かせています。
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3.ナンジャモンジャの満開花咲く木
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4.山門から本堂を見る
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5.境内からナンジャモンジャの木を見る
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6.福知山市の名木の駒札
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7.宝筺印塔(隅飾突起が反り返っている形から江戸時代の創建と推定できます。)
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8.地蔵尊(まったく最近のもの)
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9.福知山市の重要資料、戦時供出から逃れたもので延宝4年(1676)の銘がある。福知山市で現存する最古の梵鐘です。
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10.見事な手水舎
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11.弁天堂
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12.本堂
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13.裏庭の一部
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14.本堂前から見下ろす!
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15.ナンジャモンジャの白い花をアップ!
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2014/5/9

京都府指定天然記念物「才の神の藤」祭りは5月11日(日)盛大に開催されます!  文化財研修記

 昭和58年4月15日京都府指定天然記念物となった京都府福知山市大江町南有路(みなみありじ)に「才の神の藤(さいのかみのふじ)」があります。例年5月第2日曜日に「才の神の藤」祭りが盛大に開催されます。塞(さい)の神は道祖神であり、「才の神の藤」は以前は目通り7.9メートルもある、2,000年を超えるケヤキの大木に絡まって、根本幹回り1メートルを越える6本の藤が立ち上がっていました。地元の人々はともにご神木として大切にしてきましたが、幾度かの落雷でケヤキの枝は折れ、樹幹の根元は空洞化して、樹幹の一部が2本の枝を支えています。自然の藤棚のケヤキの枝の代わりに、鉄骨に支えられてフジは以前の如く枝を張り5月中旬に長く美しい紫雲の花穂を垂らし芳香を漂わしています。この第2日曜の5月11日(日)午前11時から盛大な「藤祭り」が開催されます。
 ご神木に守られている祭神は、八衢比古命(やちまたひこのかみ)・八衢比売命(やちまたひめのかみ)・久名戸神(別名は猿田彦命)の3柱で、天孫降臨の道案内をした神様です。無料駐車場や無料のトイレも完備。

1.福知山市大江町の観光マップ
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2.南有路の案内板
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3.藤棚
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4.同上
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5.3神を祀る才の神神社
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6.藤棚と碑
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7.才の神の藤祭りの様子
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8.祭り当日のプログラム
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2014/5/9

畿内の文化財・史址を見る!13.平安時代から栄えて来た古社・垂水神社!  文化財研修記

大阪府吹田市垂水町1−24−6には平安時代から栄えて来た古社・垂水神社(たるみじんじゃ)がある。奈良時代の孝徳天皇(在位645〜654)の御代、この地の領主である阿利真公(ありまのきみ…ご祭神である豊城入彦命の子孫)が、干ばつに苦しむ難波長柄豊碕宮に、懸け樋を作って垂水の水を送り、その功績をたたえられ、「垂水公」(たるみのきみ)の姓を賜り、垂水神社を創始しました。 このことは 『新撰姓氏録』の右京皇別の項に記載されております。『新撰姓氏録』とは、平安時代初期の弘仁6年(815)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑のことです 。おそらくこの時より以前からこの地では祖先神である豊城入彦命を祀る何らかのお社があり、また当然ながら都に送れるほどの水量のある滝があり、人々によって神聖な空間として大切にされていたのでしょう。祈雨(きう)の神としてしばしば朝廷からの奉幣(ほうへい)にあずかりました。当時の雨乞い神事に奉幣を受ける神社は、他に京都の貴船社・松尾社・大阪の住吉社などでした。 平城天皇の時、封戸の寄進を受けて、ご神領を賜りました。 醍醐天皇のとき作られた延喜式では「名神大社」とされ、臨時祭祀の中の祈雨を司る神社とされました。 さらに天皇の即位儀礼である大嘗祭にさきがけておこなわれたといわれる「八十嶋祭」(やそしまさい)において、朝廷より奉幣があり、祭料布が下賜されていました。これを証明するかのように、近年、神崎川畔の五反島遺跡から八十嶋祭に使用されたと思われる古鏡(吹田市立博物館蔵)が発見されています。室町時代の15世紀初頭ごろの文書には,当社の「燈油」や「神楽(かぐら)のための神領田の存在が記録され、これは戦国時代まで続いていたと文書に記されています。江戸時代の天和3年(1683)、氏子・崇敬者の熱意で本殿の造営が、大坂の宮大工によって行われました。当時の氏子と宮大工が取り交わした証文が神社に伝わっています。この社殿には菊花紋と葵の紋が飾られていました。一の鳥居の創建もこの頃と思われます。  19世紀初頭には、京都の門跡寺院、宝境寺宮から「垂水大明神」の掛け軸を頂戴し、これを元に扁額を二面作成しました。一面は神社に伝わり、もう一面はいつ頃からか垂水の旧家に保存されていましたが、平成23年に神社に返納されました。(垂水神社HPより抜粋)

1.垂水神社標柱
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2.手水舎
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3.御神木のクスノキ
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4.石段参道と鳥居
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5.拝殿
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6.拝殿裏側と本殿を見る!
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7.摂社の皇太社(ここからお伊勢さん参りができます。)
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8.優美な摂社の祓戸社
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9.摂社の戎社
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10.摂社の大神社(奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)からの歓請した。多にも多くの摂社・末社があります。)
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11.垂水不動様
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12.志貴皇子(しきのみこ)が詠まれた万葉集の歌碑「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」
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13.平安時代の水源「垂水の瀧」
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2014/5/7

畿内の文化財・史址を見る!12. 素盞烏尊(すさのおのみこと)を主神として祀る片山神社!  文化財研修記

 大阪府吹田市出口町3−3には素盞烏尊(すさのおのみこと) を主神とし、旧片山村の産土神として祀って来た古社の片山神社(かたやまじんじゃ)があります。お正月には、ジャンボ絵馬が飾られることで有名です。また、シンボルの桃は祈願桃と呼ばれ「桃は災難を振り払い福に転ずる」といわれ人々が手で触って祈念されます。大和時代から平安時代にかける、その昔、この地より千里に至る一帯が丘陵地になっており、良質の粘土が多量に出土し、その頃の人達は「須恵器」や「瓦」を作り、生計をたてていたといわれています。この窯焼きは大陸文化によるもので、大和朝廷(4世紀・西暦300年頃)が誕生の頃から食器類や屋根瓦の需要が高まり、その時代の成長産業であった。この地で生産される須恵器は、質の良さから生産も相当なものであったらしい、そして平安京(8世紀・西暦800年頃)が遷都された頃には屋根瓦も需要も最高に達し活気あふれる産業地域であった。しかし、平安時代が過ぎると、これらの産業も斜陽の一途をたどり、ついには廃窯となり以後、この地は農耕へと移行していった。この歴史を実証する50基余の「登窯」が発掘されている。その頃、この地で焼き物に携わる人達が【陶芸の祖神】であり、方除け・災難除け・火防の守護神である素盞烏尊(すさのおのみこと)を祀り崇敬を集めていたのが、当神社の創始と思われる。当神社は、天正の頃(室町・安土桃山時代 西暦1500年頃)の兵火と大正3年の2回、建造物一切が焼失され、古文書等が存在していなので、建立ならび由緒等についての詳細はは不明であるが昭和59年に『昭和の大造営』として、老朽化が著しくなった社殿を建て替えて、今日に至っています。

1.片山神社鳥居(標柱代りですね!)
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2.櫻並木の参道
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3.石の鳥居と参道
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4.石段参道
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5.手水舎
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6.拝殿
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7.拝殿左手前にはシンボルの祈願桃の実があります!願を込めて手で触ります!
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8.護摩木火焚処
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9.見事な朱の拝殿と続く本殿を見ます!
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10.豊川稲荷大明神と十二支大明神社
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11.同上 内陣
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12.摂社の一つ
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13.見事な神輿が窓ガラス越しに見えました!
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2014/5/5

畿内の文化財・史址を見る!11.摂津市の古刹・蜂熊山(はちくまやま)金剛院!  文化財研修記

大阪府摂津市千里丘3−1−5には味舌寺(ましたじ)とも蜂前寺(ぶぜんじ)ともいわれ、行基菩薩の開創と伝えられる蜂熊山(はちくまやま)金剛院(こんおういん)がある。『摂津郡談』には「天平勝宝年中(749〜57年)行基が紫雲金光を見てこの地にきたところ、老翁に遭い、曰く、ここは大悲有縁の霊場なので、急いで寺院を創草すべしと、数々の珍菓を於いて立ち去り、その後空には光が放たれた。行基は自ら大悲の像を彫り、これを安置し、放光山味舌寺と号した。」とある。
 蜂熊山蜂前寺の名は本尊薬師如来の霊験で出現した蜂に助けられたという南朝の武士の話や、村人を悩ませていた盗賊を蜂群が退治したという話が伝わり、その折戦死した蜂を埋め供養した「蜂塚」が現存する。この不思議な蜂の出現により、いつしか人々は蜂熊山蜂前寺金剛院と呼ぶようになった。
 寺伝では永正年間(1504〜21)三宅城(現茨木市)城主出羽守国政の外護を得たが、天正年間(1573〜92)の戦火で伽藍が焼失、、寺運も衰退していたが、寛文3年(1663)当寺の住職宥清が再興し、元文年間(1736〜41)領主織田丹後守輔宣の祈願寺となり、往古の面影を取戻したといわれている。

1.金剛院標柱
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2.金剛院正面
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3.弁天堂
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4.水かけ不動明王
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5.見事な鐘楼
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6.境内の見事なクロマツ
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7.境内の大日如来像
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8.本堂
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9.護摩堂
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10本堂裏にある五輪塔の蜂塚
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2014/5/3

畿内の文化財・史址を見る!10.大阪府摂津市にある「史跡・右馬寮鳥飼牧跡」!  文化財研修記

大阪府摂津市鳥飼(とりかい)下3−26には「史跡 鳥養(飼)牧跡(鳥養牧跡とりかいまきあと)」があります。延長5年927)に完成した「延喜式えんぎしき」では、当時の牧は3種類に分けられていたと記されています。皇室の科場を供給する御牧みまき(勅使牧)、兵馬・用役牛の飼育を目的とする諸国牧(しょこくまき)、および都(京都)の周辺に設けた近都牧(きんとまき)です。「鳥養(飼)牧」は6牧あった近都牧の一つで、諸国から選ばれた牛馬を飼育し必要に応じて都に送るために設けた牧です。この牧が現在どの範囲に広がっていたかはっきりしないのですが、馬島(淀川本流にかってあった島)・本牧ほんまき(字名(あざめい))・五久(ごきゅう)「御厨(ごきゅう)」(字名)などという地名の名残りから、ほぼこの地を中心にして鳥飼西部から淀川にそって、上流の三箇牧さんかまき(高槻市)近くまでかなり広範囲にわたって存在したと思われます。鳥飼大橋を貸切バスで越えて大阪市内に入るとき何時も気になっていた鳥飼牧でした。又、このすぐ近くには平安時代中期には、菅原道真を登用して藤原氏の勢力を抑えたという宇多天皇の鳥飼院離宮があったが、今は碑が残るのみとのことで探すのは止めました。

1.史跡・右馬寮「鳥飼牧(とりかいまき)跡碑
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2.同上アップした碑
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3.詳細な碑文
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