2014/4/29
畿内の文化財・史址を見る!8.坂之上田村麻呂創建と云われる古社・茨木神社! 文化財研修記
大阪府茨木市元町4番3号には、当社由緒書きによると「大同2年(807)坂上田村麻呂が荊切の里をつくりしとき、天石門別神社が鎮座された」と伝え、明治12年発刊の「茨木村誌」や 大正11年に纏められた「大阪府全志」にも「大同2年2月坂上田村麻呂茨木町ヲ作ル是日本町ノ始ト十三朝集ニ有」と記されています。そしてこの「荊切の里」は、今日の宮元町付近 と伝えられています。正月は餅巻きから始まり、初詣参拝の人波となるが普段は静かです。10日戎もあり、宝恵籠もでるそうです。
茨木神社は茨木神社と式内社で摂社の天石門別神社(あまのいわとわけ神社)とがあります。天石門別神社は古くは宮元町にあったといわれるが、後に現在地に奉還された。
茨木神社の祭神は建速素盞鳴尊(スサノオノミコト)、天兒屋根命(アマコヤネノミコト)、誉田別命、天石門別神社の祭神は天石門別命(アマノイワトワケノミコト)=天手力男命(アマノテリキオノミコト)、天宇受売命(アマノウズメノミコト)、豊国神、東照神です。16世紀後半の天正年間には牛頭天王(ゴズテンノウ)が祀られるようになる。牛頭天王は織田信長の生土神(ウブスナノカミ)で、信長が神社仏閣を焼き打ちした時にも、牛頭天王を祀る神社はその難を免れた。そのようなことから牛頭天王を祀り、これが後に茨木神社となった。茨木神社の社殿の欄干宝珠に元和8年(1622年)と銘があるように、江戸時代初期に社殿が造営され、茨木の氏神として奉斎するとともに、天石門別神社は地主神として、茨木神社の北側に、別宮または奥宮と称して祀られた。茨木城は建武年間(1334〜1336)に楠正成が築いたと伝えられ、城主はしばしば変わったが特に有名な人物は中川清秀と片桐且元である。城郭の位置は現在の茨木小学校付近に本丸があり城郭の跡は残っていないがわずかに茨木神社東門が茨木城の「搦手門」を移築したものとされている。
1.式内社・茨木神社と天石門別神社の標柱

2.正面の大鳥居

3.摂社の恵比寿・大黒神社

4.元茨木城の搦手門を移築したもの!

5.同上

6.手水舎

7.拝殿

8.拝殿から本殿を見る!

9.見事な式内社の天石門別神社!

10.境内にはこの見事な稲荷神社や多くの摂社があります。

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茨木神社は茨木神社と式内社で摂社の天石門別神社(あまのいわとわけ神社)とがあります。天石門別神社は古くは宮元町にあったといわれるが、後に現在地に奉還された。
茨木神社の祭神は建速素盞鳴尊(スサノオノミコト)、天兒屋根命(アマコヤネノミコト)、誉田別命、天石門別神社の祭神は天石門別命(アマノイワトワケノミコト)=天手力男命(アマノテリキオノミコト)、天宇受売命(アマノウズメノミコト)、豊国神、東照神です。16世紀後半の天正年間には牛頭天王(ゴズテンノウ)が祀られるようになる。牛頭天王は織田信長の生土神(ウブスナノカミ)で、信長が神社仏閣を焼き打ちした時にも、牛頭天王を祀る神社はその難を免れた。そのようなことから牛頭天王を祀り、これが後に茨木神社となった。茨木神社の社殿の欄干宝珠に元和8年(1622年)と銘があるように、江戸時代初期に社殿が造営され、茨木の氏神として奉斎するとともに、天石門別神社は地主神として、茨木神社の北側に、別宮または奥宮と称して祀られた。茨木城は建武年間(1334〜1336)に楠正成が築いたと伝えられ、城主はしばしば変わったが特に有名な人物は中川清秀と片桐且元である。城郭の位置は現在の茨木小学校付近に本丸があり城郭の跡は残っていないがわずかに茨木神社東門が茨木城の「搦手門」を移築したものとされている。
1.式内社・茨木神社と天石門別神社の標柱

2.正面の大鳥居

3.摂社の恵比寿・大黒神社

4.元茨木城の搦手門を移築したもの!

5.同上

6.手水舎

7.拝殿

8.拝殿から本殿を見る!

9.見事な式内社の天石門別神社!

10.境内にはこの見事な稲荷神社や多くの摂社があります。

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2014/4/27
畿内の文化財・史址を見る!7.平安時代の三十六歌仙人の一人伊勢姫と和田維政のお墓のある伊勢寺! 文化財研修記
大阪府高槻市の奥天神町1丁目にある伊勢寺は(いせじ)、本堂前庭に数多くの楓の木が植えられている紅葉の名所でもあります。伊勢寺の樹林は、高槻市の「樹林保護地区」に指定されています。
伊勢寺は、金剛山象王窟(こんごうざんしょうおうくつ)と号し、曹洞宗で聖観音菩薩を本尊としています。平安時代の女流歌人、伊勢の晩年の旧居が当寺の前身であるとも、天正年間に高山右近に焼き払われたともいわれています。現在みられる堂宇は、元和から寛永(1615〜1643)の頃、僧宗永により建立され、このとき天台宗から曹洞宗に転じた。また伊勢廟堂を修築した際に地中から出土した銅鏡や古硯が、当寺の寺宝として伝えられています。
伊勢廟堂は本堂の西にあり、傍らの古碑は慶安4年(1651)、高槻城主永井直清が建立した。碑文は儒学者林羅山による。直清はこの前年に能因法師を顕彰しており、能因が慕っていたという伊勢と当寺の寺名を結びつけて、伊勢を顕彰したものとみられ、これ以後古曽部一帯は、2人の平安歌人の能因・伊勢ゆかりの地として有名になりました。伊勢姫の歌は駒札を見て下さい。
1.伊勢寺標柱と山門が見えます!

2.駒札(詳し内容が記載されています!画面をクリックして拡大して読んで下さい!)

3.山門

4.稲荷大神(豊川稲荷から!)

5.楓の多い庭園の一部(この寺の紅葉は有名です。)

6.本堂

7.伊勢廟堂

8.傍らの古碑は慶安4年(1651)、高槻城主永井直清が建立した。碑文は儒学者林羅山による。

9.史跡(戦国時代の武将・和田維政のお墓)

10.碑文

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伊勢寺は、金剛山象王窟(こんごうざんしょうおうくつ)と号し、曹洞宗で聖観音菩薩を本尊としています。平安時代の女流歌人、伊勢の晩年の旧居が当寺の前身であるとも、天正年間に高山右近に焼き払われたともいわれています。現在みられる堂宇は、元和から寛永(1615〜1643)の頃、僧宗永により建立され、このとき天台宗から曹洞宗に転じた。また伊勢廟堂を修築した際に地中から出土した銅鏡や古硯が、当寺の寺宝として伝えられています。
伊勢廟堂は本堂の西にあり、傍らの古碑は慶安4年(1651)、高槻城主永井直清が建立した。碑文は儒学者林羅山による。直清はこの前年に能因法師を顕彰しており、能因が慕っていたという伊勢と当寺の寺名を結びつけて、伊勢を顕彰したものとみられ、これ以後古曽部一帯は、2人の平安歌人の能因・伊勢ゆかりの地として有名になりました。伊勢姫の歌は駒札を見て下さい。
1.伊勢寺標柱と山門が見えます!

2.駒札(詳し内容が記載されています!画面をクリックして拡大して読んで下さい!)

3.山門

4.稲荷大神(豊川稲荷から!)

5.楓の多い庭園の一部(この寺の紅葉は有名です。)

6.本堂

7.伊勢廟堂

8.傍らの古碑は慶安4年(1651)、高槻城主永井直清が建立した。碑文は儒学者林羅山による。

9.史跡(戦国時代の武将・和田維政のお墓)

10.碑文

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2014/4/26
琴城流大正琴第3回琴麗会発表会第一部!そして第2部へ! 綾部の文化財
3月9日(日)琴城流大正琴第3回琴麗会発表会が京都府綾部市中丹文化会館で昼12時30分から盛大に開催されました。その撮影を許可頂きましたので掲載させて頂きます。最初は写真で次に「音声付動画」で入力していますので、「音声付動画」の下の英文文字をクリックして、U-tubeの画面が出たら右側の拡大画面を更にクイックして大画面で見て下さい。
PCの故障で掲載が随分遅れてしまいました。お許し下さい!
1.プログラム表紙

2.プログラム(第一部十二景の星屑の街、お嫁においでは都合により欠席です!)

3.琴城流大正琴教授・琴麗会々主の鈴木琴修麗(宮崎愛子先生)の言葉

4.多くの方々からの祝辞のご挨拶がありますが、山崎善也綾部市長、四方源太郎京都府会議員の祝辞を代表して掲載させて頂きます。

5.第一部オープニングは邦楽資格披露演奏1級指導員、指導師範の皆さんによる「大正琴一代」

6.同上は下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい。
http://youtu.be/xoPbZyUI1XM
7.西坂琴西会・あふみ・安村教室による「瀬戸の花嫁」です。

8.同上は下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい。
http://youtu.be/FAJt6m408R0
9.三景は石原教室・徳島教室の皆さんによる「上を向いて歩こう」です。

10.同上は下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/OkUg4u5ziKs
11.四景は青葉の会・すこやかグループ・ピーチ会による「北国の春」です。

12.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/yZpqYxMC8Rk
13.五景は五月会・コスモスによる「野に咲く花のように」です!

14.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/mAIsTbkmEKQ
15.六景は伊藤教室・円グループの「時の流れに身をまかせ」です!

16.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/ov8wNIjzuHE
17.七景はすみれによる「コンドルは飛んでいく」です!

18.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/AT6JIZIvUdw
19.八景は里さくらんぼ・ほうずきの演奏です。

20.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/Gi4yOfbTw8k
21.九景は栃原フレンズの「高原列車は行く」です!

22.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい。
http://youtu.be/6EdpIqAhsTs
23.十景は有岡教室・しょうぶ・こまかげの皆さんの演奏です!

24.下記をクリックして、「音声付動画」で見てください。
http://youtu.be/jn9LFxIVgXU
25.十一景は和知大正琴同好会・三和はぎ教室の皆さんいよる演奏です。

26.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/dqAzw61tNxU
27.第十三景はニューわかば・せせらぎの皆様の演奏です!

27.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/V63i-xj_wJw
28.十四景はトライアングルの皆様です!

29.下記をクリックして、「音声付動画」で素晴らしい演奏を見て下さい!
http://youtu.be/OpA1LCT64YA
30.十五景は「杉の子」のメンバーです!

31.下記をクリックして、「音声付動画」でその素晴らしい演奏を見て下さい!
http://youtu.be/cpvV8sA8j24
32.第十六景は本部教室の皆様です!

33.下記をクリックして、「音声付動画」でその素晴らしい演奏を聞いて下さい。
http://youtu.be/cdOhHt3lIKg
34.第二部 指導者の鈴木琴修麗(宮崎愛子)先生へ花束贈呈

35新指導名取りの披露と手拭撒

36.名取披露曲「小鍛冶」です!

37.下記をクリックして、「音声付動画」で見てください!
http://youtu.be/aF9T1n9E1Uo
38.準師範披露曲「娘道成寺」です!

39.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/HMs43I-KJks
40.師範披露曲「連獅子」で!

41.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/OseM-5_sMNE
42.高資格披露曲は長唄「新勧進帳」です!

43.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/N8Hh0W5Bf1s
44.フナーレは1級指導員・指導師範による「花は咲く」です!

45.下記をクリックして、「音声付動画」でフナーレを見て下さい!
http://youtu.be/8Day9y2Ixrg
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PCの故障で掲載が随分遅れてしまいました。お許し下さい!
1.プログラム表紙

2.プログラム(第一部十二景の星屑の街、お嫁においでは都合により欠席です!)

3.琴城流大正琴教授・琴麗会々主の鈴木琴修麗(宮崎愛子先生)の言葉

4.多くの方々からの祝辞のご挨拶がありますが、山崎善也綾部市長、四方源太郎京都府会議員の祝辞を代表して掲載させて頂きます。

5.第一部オープニングは邦楽資格披露演奏1級指導員、指導師範の皆さんによる「大正琴一代」

6.同上は下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい。
http://youtu.be/xoPbZyUI1XM
7.西坂琴西会・あふみ・安村教室による「瀬戸の花嫁」です。

8.同上は下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい。
http://youtu.be/FAJt6m408R0
9.三景は石原教室・徳島教室の皆さんによる「上を向いて歩こう」です。

10.同上は下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/OkUg4u5ziKs
11.四景は青葉の会・すこやかグループ・ピーチ会による「北国の春」です。

12.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/yZpqYxMC8Rk
13.五景は五月会・コスモスによる「野に咲く花のように」です!

14.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/mAIsTbkmEKQ
15.六景は伊藤教室・円グループの「時の流れに身をまかせ」です!

16.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/ov8wNIjzuHE
17.七景はすみれによる「コンドルは飛んでいく」です!

18.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/AT6JIZIvUdw
19.八景は里さくらんぼ・ほうずきの演奏です。

20.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/Gi4yOfbTw8k
21.九景は栃原フレンズの「高原列車は行く」です!

22.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい。
http://youtu.be/6EdpIqAhsTs
23.十景は有岡教室・しょうぶ・こまかげの皆さんの演奏です!

24.下記をクリックして、「音声付動画」で見てください。
http://youtu.be/jn9LFxIVgXU
25.十一景は和知大正琴同好会・三和はぎ教室の皆さんいよる演奏です。

26.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/dqAzw61tNxU
27.第十三景はニューわかば・せせらぎの皆様の演奏です!

27.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/V63i-xj_wJw
28.十四景はトライアングルの皆様です!

29.下記をクリックして、「音声付動画」で素晴らしい演奏を見て下さい!
http://youtu.be/OpA1LCT64YA
30.十五景は「杉の子」のメンバーです!

31.下記をクリックして、「音声付動画」でその素晴らしい演奏を見て下さい!
http://youtu.be/cpvV8sA8j24
32.第十六景は本部教室の皆様です!

33.下記をクリックして、「音声付動画」でその素晴らしい演奏を聞いて下さい。
http://youtu.be/cdOhHt3lIKg
34.第二部 指導者の鈴木琴修麗(宮崎愛子)先生へ花束贈呈

35新指導名取りの披露と手拭撒

36.名取披露曲「小鍛冶」です!

37.下記をクリックして、「音声付動画」で見てください!
http://youtu.be/aF9T1n9E1Uo
38.準師範披露曲「娘道成寺」です!

39.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/HMs43I-KJks
40.師範披露曲「連獅子」で!

41.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/OseM-5_sMNE
42.高資格披露曲は長唄「新勧進帳」です!

43.下記をクリックして、「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/N8Hh0W5Bf1s
44.フナーレは1級指導員・指導師範による「花は咲く」です!

45.下記をクリックして、「音声付動画」でフナーレを見て下さい!
http://youtu.be/8Day9y2Ixrg
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2014/4/25
畿内の文化財・史址を見る!6.日本三大天満宮の一つ上宮天満宮! 文化財研修記
大阪府高槻市天神町1−15には上宮天満宮(じょうぐうてんまんぐう)がある。大宰府天満宮に次いで日本で2番目に古い天満宮」を称している。尚三番目は京都の北野天満宮です。主祭神はご存じの通り菅原道真命 (すがわらのみちざねのみこと)、配祀神は武日照命 (たけひなてるのみこと)、 土師氏(菅原氏等の前身)の祖神である天穂日命の子・野見宿禰命 (のみのすくねのみこと)です。
当社は「天神山(日神山<ひるがみやま>)」と呼ばれる丘陵上に鎮座しており、社伝によれば太古に武日照命が当地に降臨して鎮座したという。のち正暦4年(993)5月、勅使・菅原為理が太宰府に下向して道真の墓に参拝し、贈左大臣正一位の詔を伝え、菅公の御霊代と菅公自筆の自画像を奉じての帰途、この地に達した時に急に牛車が動かなくなった。為理は、「この地の山上には菅公の祖先である野見宿禰の祖廟がある。牛車が動かないのも理由があることだ。山上に自画像を奉安して祀るのが良い」として道真を祀ったのが当社の始まりとする。元々当地には『延喜式神名帳』に記載される「摂津国島上郡 野身神社」(現 摂社・野身神社)があり、土師氏が氏神として祀っていたと考えられているます。それが後になって道真を祀る天満宮が創建され、野身神社がそれに吸収されたものと見られている。野身神社は、野見宿禰の墳墓と伝わる小墳丘(宿禰塚古墳)の上にある。
『和名抄』には「摂津国島上郡濃味郷」の記載が見え、「のみ」が古い地名であることが示唆される。なお当社内外には、銅鐸も出た弥生時代の遺跡(天神山遺跡)が残るほか、宿禰塚古墳のほか昼神塚古墳、中将塚古墳があり、古くから栄えていた様子がうかがわれます。
永禄11年(1568)芥川山城の三好討伐の際に織田信長が本陣を構えた。天正6年(1578)、高槻城主となったキリシタン大名の高山右近が当社に火を放ったという。天正10年(1582年)の山崎の戦いの際には、豊臣秀吉は当社の参道である「天神馬場」に本陣を置いた。秀吉は戦勝に感謝し、天正18年(1590)、社地を寄進して社殿を修造した。明治12年「野身神社」に改称し、近代社格制度においては郷社に列格した。第2次世界大戦後、元の「上宮天満宮」の名に復した。平成8年月、放火により本殿を焼失した。平成14年、本殿は日本初の竹製の本殿として再建された。
1.石の大鳥居

2.変わった鳥居

3.駒札

4.摂社で式内社の野身神社

5.境内で桜は葉桜になりかけています。左側には割拝殿が見えます。

6.手水舎

7.絵馬堂内

8.割拝殿

9.竹の本殿(両側の石灯籠は)鎌倉時代のもので国の重要武術品に指定されています。)

10.竹の本殿を横から見る!

11.本殿の裏側には守護天神社があります。

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当社は「天神山(日神山<ひるがみやま>)」と呼ばれる丘陵上に鎮座しており、社伝によれば太古に武日照命が当地に降臨して鎮座したという。のち正暦4年(993)5月、勅使・菅原為理が太宰府に下向して道真の墓に参拝し、贈左大臣正一位の詔を伝え、菅公の御霊代と菅公自筆の自画像を奉じての帰途、この地に達した時に急に牛車が動かなくなった。為理は、「この地の山上には菅公の祖先である野見宿禰の祖廟がある。牛車が動かないのも理由があることだ。山上に自画像を奉安して祀るのが良い」として道真を祀ったのが当社の始まりとする。元々当地には『延喜式神名帳』に記載される「摂津国島上郡 野身神社」(現 摂社・野身神社)があり、土師氏が氏神として祀っていたと考えられているます。それが後になって道真を祀る天満宮が創建され、野身神社がそれに吸収されたものと見られている。野身神社は、野見宿禰の墳墓と伝わる小墳丘(宿禰塚古墳)の上にある。
『和名抄』には「摂津国島上郡濃味郷」の記載が見え、「のみ」が古い地名であることが示唆される。なお当社内外には、銅鐸も出た弥生時代の遺跡(天神山遺跡)が残るほか、宿禰塚古墳のほか昼神塚古墳、中将塚古墳があり、古くから栄えていた様子がうかがわれます。
永禄11年(1568)芥川山城の三好討伐の際に織田信長が本陣を構えた。天正6年(1578)、高槻城主となったキリシタン大名の高山右近が当社に火を放ったという。天正10年(1582年)の山崎の戦いの際には、豊臣秀吉は当社の参道である「天神馬場」に本陣を置いた。秀吉は戦勝に感謝し、天正18年(1590)、社地を寄進して社殿を修造した。明治12年「野身神社」に改称し、近代社格制度においては郷社に列格した。第2次世界大戦後、元の「上宮天満宮」の名に復した。平成8年月、放火により本殿を焼失した。平成14年、本殿は日本初の竹製の本殿として再建された。
1.石の大鳥居

2.変わった鳥居

3.駒札

4.摂社で式内社の野身神社

5.境内で桜は葉桜になりかけています。左側には割拝殿が見えます。

6.手水舎

7.絵馬堂内

8.割拝殿

9.竹の本殿(両側の石灯籠は)鎌倉時代のもので国の重要武術品に指定されています。)

10.竹の本殿を横から見る!

11.本殿の裏側には守護天神社があります。

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2014/4/23
畿内の文化財・史址を見る!5.楠公親子の決別の地・国史跡の桜井駅跡! 文化財研修記
JR東海道本線京都大阪間の島本駅前には楠木正成親子決別の地・国史跡の「桜井駅跡」があります。「駅」とは大化の改新以降、幹線道路に30里ごとに設けられた馬など旅に必要なものを備えていた施設のことです。このすぐ近くには、豊臣秀吉と明智光秀が戦った「山崎の戦」の天王山がそびえています。楠木親子の別れとは延元元年(1336)九州から上ってくる足利尊氏の大軍を迎え撃つため京都を出発して兵庫に向かった楠木正成は途中、桜井駅で11歳の正行に対し「自分は生きて帰らないつもりで戦場に向かうので、お前は故郷の河内に帰ってに朝廷に忠誠を誓いなさい」と諭し、河内に帰らせました。その後、父・正成は「湊川の戦」で戦死。弟・正季と差し違え「七生滅敵(七度生まれ変わって尊氏を滅ぼす)」と誓い合って死んだと云われています。又、河内へ帰った正行は、数年後兵力を整え南朝の将として戦います。そして正平3年(1348)に北朝・高師直と四条畷で戦い戦死します。正行も父・正成同様、弟・正時と刺し違えて死んだと謂われています。正成は亡くなった湊川に建つ「湊川神社」の主祭神「大楠公」として祀られています。子・正行は「小楠公」と呼ばれ、こちらも亡くなった場所に建つ「四条畷神社」に主祭神として祀られています。後醍醐天皇に忠義を尽くした正成は、理想の勤皇家として崇敬され、幕末には維新志士に祀られるようになりました。
1.JR島本駅

2.国史蹟櫻井駅阯碑

3.謡曲「楠露」と櫻井駅駒札

4.同上 駒札

5.同上 駒札

6.楠公親子像

7.明治天皇御製碑

8.陸軍大将乃木希典碑、多にも多くの碑があります。

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1.JR島本駅

2.国史蹟櫻井駅阯碑

3.謡曲「楠露」と櫻井駅駒札

4.同上 駒札

5.同上 駒札

6.楠公親子像

7.明治天皇御製碑

8.陸軍大将乃木希典碑、多にも多くの碑があります。

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2014/4/21
畿内の文化財・史址を見る!4.日本の名水100選で大阪府下唯一の「離宮の水」を持つ水無瀬神宮! 文化財研修記
大阪府三島郡島本町広瀬には水無瀬神宮(みなせじんぐう)がある。当社は元は鎌倉時代の初期、後鳥羽上皇御造営の水無瀬離宮のあった所で、上皇は都から船で度々訪れ、この離宮で管絃の催し、歌の会、狩りや刀剣の鍛作なども行われた。
後鳥羽上皇は承久3年(1221)、いわゆる「承久の乱」で討幕の兵を挙げたが、わずか1ヶ月で鎮圧された。幕府は仲恭天皇を廃し、後堀河天皇を立てると共に、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐(後に阿波)に遠島となり、3人の上皇は再び都の土を踏むこと無く、いづれも遠隔の地で亡くなっている。
1239年(延応元年)後鳥羽上皇は亡くなる14日前に自らの手印を押した置文〔『後鳥羽天皇御手印御置文(国宝)』〕を、水無瀬離宮を管理していた水無瀬信成、親成父子に下賜し、後生を弔うよう言い残した。 上皇の没後、水無瀬父子は離宮の地に御堂を建て、上皇が隠岐へ配流される直前に似絵の名手藤原信実に描かせたと伝わる御影〔『後鳥羽天皇像(国宝)』〕を拝領し、上記の置文と共に納め、菩提を弔った。これが当宮の起原である。 その後600年にわたり、朝廷や武将の尊崇を受けつつ、慰霊の行事が続けられて来たが、明治6年(1873)神社となり、官幣中社に列せられ水無瀬宮と称し、同時に土御門、順徳両天皇の霊も祀らた。 1939年昭和14年(1939)後鳥羽天皇700年式年に当たり官幣大社に昇格し神宮となった。大阪府下において神宮を呼ばれるのは唯一、当社だけである。又大阪府下で唯一の全国100名水の一つに選ばれた「離宮の水」がある。
1.水無瀬神宮標柱と鳥居

2.水無瀬駒発祥の碑

3.同上 駒札

4.横の門

5.名水100選の一つ「離宮の水」

6.遅咲きの椿と摂社群

7.拝殿、左は国重文の客殿

8.拝殿

9.拝殿内

10.本殿を横から見る!

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後鳥羽上皇は承久3年(1221)、いわゆる「承久の乱」で討幕の兵を挙げたが、わずか1ヶ月で鎮圧された。幕府は仲恭天皇を廃し、後堀河天皇を立てると共に、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐(後に阿波)に遠島となり、3人の上皇は再び都の土を踏むこと無く、いづれも遠隔の地で亡くなっている。
1239年(延応元年)後鳥羽上皇は亡くなる14日前に自らの手印を押した置文〔『後鳥羽天皇御手印御置文(国宝)』〕を、水無瀬離宮を管理していた水無瀬信成、親成父子に下賜し、後生を弔うよう言い残した。 上皇の没後、水無瀬父子は離宮の地に御堂を建て、上皇が隠岐へ配流される直前に似絵の名手藤原信実に描かせたと伝わる御影〔『後鳥羽天皇像(国宝)』〕を拝領し、上記の置文と共に納め、菩提を弔った。これが当宮の起原である。 その後600年にわたり、朝廷や武将の尊崇を受けつつ、慰霊の行事が続けられて来たが、明治6年(1873)神社となり、官幣中社に列せられ水無瀬宮と称し、同時に土御門、順徳両天皇の霊も祀らた。 1939年昭和14年(1939)後鳥羽天皇700年式年に当たり官幣大社に昇格し神宮となった。大阪府下において神宮を呼ばれるのは唯一、当社だけである。又大阪府下で唯一の全国100名水の一つに選ばれた「離宮の水」がある。
1.水無瀬神宮標柱と鳥居

2.水無瀬駒発祥の碑

3.同上 駒札

4.横の門

5.名水100選の一つ「離宮の水」

6.遅咲きの椿と摂社群

7.拝殿、左は国重文の客殿

8.拝殿

9.拝殿内

10.本殿を横から見る!

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2014/4/19
畿内の文化財・史址を見る!3.天王山の中腹にある国重文の三重塔を持つ宝積寺! 文化財研修記
宝積寺(ほうしゃくじ)は、京都府乙訓郡大山崎町の天王山中腹にある真言宗智山派の仏教寺院。山号は天王山または銭原山(古くは補陀洛山といった)、本尊は十一面観音である。724年、聖武天皇の勅命を受けた行基による開基と伝えているる。
聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺ともいわrてている。
宝積寺は、山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の境に位置し、古くから交通・軍事上の要地であった天王山(270メートル)の南側山腹にあり、寺伝では神亀元年(724)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝える。行基は奈良時代に架橋、灌漑などの社会事業を行い、多くの寺を建てた僧である。行基は神亀2年(725)、淀川に「山崎橋」(山崎−橋本間)を架けている。また、『行基年譜』によれば、行基は天平3年(731)、乙訓郡山崎に「山崎院」を建立している。天王山の南側山麓に位置する大山崎町大山崎上ノ田の遺跡が「山崎院」跡に比定されており、ここからは日本でも最古級の壁画断片などが出土している。以上のことから、天王山周辺は行基にゆかりの深い地であることは確かで、宝積寺は「山崎院」の後身と考える説もある。宝積寺は貞永元年(1232)の火災で焼失しており、現存する仏像等はこれ以降のものである。それ以前の寺史はあまり明らかでないが、長徳年間(995−999)、寂昭が中興したという。寂昭は俗名を大江定基といい、『今昔物語集』所収の説話で知られる。それによれば、彼は三河守として任国に赴任していた時に最愛の女性を亡くし、世をはかなんで出家したという。天正10年(1582)、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの舞台となり、その際宝積寺には秀吉の本陣が置かれた。直後秀吉により天王山に建設された「山崎城」にも取り込まれ、このため城は「宝寺城」とも呼ばれた。元治元年(1864)には禁門の変で尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地がおかれた。
1.天王山「宝積寺」の位置図

2.宝積寺前にある天王山(標高270メートルだが徒歩での登山45分で残念ながら、登っても天気が良く霞んで見えないと思慮して登山は諦めた。)

3.室町時代の「待宵の鐘」

4.参道途中にある大聖不動明王堂

5.江戸時代の仁王門

6.仁王門の中の木造金剛力士立像2体は鎌倉時代のもので国重文です。(阿形像)

7.同上 吽形像

8.千年桜

9.殉国十七士のお墓

10.国重文の三重塔

11.亀が清水を吹き出す変わった手水舎

12.本堂

13.桜と本堂

14.左、大黒堂と右は本堂

15.大山崎町指定文化財の鎌倉時代の石造五重塔

16.秀吉出世石

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聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺ともいわrてている。
宝積寺は、山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の境に位置し、古くから交通・軍事上の要地であった天王山(270メートル)の南側山腹にあり、寺伝では神亀元年(724)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝える。行基は奈良時代に架橋、灌漑などの社会事業を行い、多くの寺を建てた僧である。行基は神亀2年(725)、淀川に「山崎橋」(山崎−橋本間)を架けている。また、『行基年譜』によれば、行基は天平3年(731)、乙訓郡山崎に「山崎院」を建立している。天王山の南側山麓に位置する大山崎町大山崎上ノ田の遺跡が「山崎院」跡に比定されており、ここからは日本でも最古級の壁画断片などが出土している。以上のことから、天王山周辺は行基にゆかりの深い地であることは確かで、宝積寺は「山崎院」の後身と考える説もある。宝積寺は貞永元年(1232)の火災で焼失しており、現存する仏像等はこれ以降のものである。それ以前の寺史はあまり明らかでないが、長徳年間(995−999)、寂昭が中興したという。寂昭は俗名を大江定基といい、『今昔物語集』所収の説話で知られる。それによれば、彼は三河守として任国に赴任していた時に最愛の女性を亡くし、世をはかなんで出家したという。天正10年(1582)、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの舞台となり、その際宝積寺には秀吉の本陣が置かれた。直後秀吉により天王山に建設された「山崎城」にも取り込まれ、このため城は「宝寺城」とも呼ばれた。元治元年(1864)には禁門の変で尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地がおかれた。
1.天王山「宝積寺」の位置図

2.宝積寺前にある天王山(標高270メートルだが徒歩での登山45分で残念ながら、登っても天気が良く霞んで見えないと思慮して登山は諦めた。)

3.室町時代の「待宵の鐘」

4.参道途中にある大聖不動明王堂

5.江戸時代の仁王門

6.仁王門の中の木造金剛力士立像2体は鎌倉時代のもので国重文です。(阿形像)

7.同上 吽形像

8.千年桜

9.殉国十七士のお墓

10.国重文の三重塔

11.亀が清水を吹き出す変わった手水舎

12.本堂

13.桜と本堂

14.左、大黒堂と右は本堂

15.大山崎町指定文化財の鎌倉時代の石造五重塔

16.秀吉出世石

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2014/4/17
畿内の文化財・史址を見る!2.斉藤道三の油売りで有名な離宮八幡宮! 文化財研修記
京都府乙訓郡大山崎町西谷21には離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)がある。
石清水八幡宮の元社にあたる神社で八幡大神を祭神とする。
貞観元年(859)に清和天皇が、神託により国家安泰のため宇佐神宮から分霊し平安京の守護神として奉安することとし、その時に九州に使わされた大安寺の僧行教が帰途山崎の津(当時の淀川水運の拠点港)で神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰京後天皇に奏上したところ、国家鎮護のため清和天皇の勅命により「石清水八幡宮」が建立された。
その後、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので社名を離宮八幡宮とした。また、貞観年間に神官が神示を受けて「長木」(てこを応用した搾油器)を発明し荏胡麻(えごま)油の製造が始まったことから、日本における製油発祥地とされる。その後「大山崎油座」の制度で荏胡麻油の販売権を独占して、多くの兵火に焼かれながらも江戸時代まで栄えた。特に戦国時代では斉藤道三がこの油を美濃の国で売り財を為し、土岐家をしのぎ斉藤家を美濃の国主にまでも発展させて、その娘を織田信長に嫁がせたことは有名です。 しかし、幕末「禁門の変」時に長州藩屯所が山崎にあったため、攻撃を受けて多くの商家とともに焼失。廃藩置県により社殿のすぐ西から大阪府に割譲し、さらに明治4年(1871)に境内北側を国策による鉄道事業にささげ、境内はさらに縮小した。
1.離宮八幡宮標柱と惣門

2.駒札

3.八幡宮傍示石

4.製油発祥の碑

5.中門(四脚門)

6.中門から振り返って鳥居を見る!

7.拝殿を正面から見る!

8.拝殿横から本殿を見る!

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石清水八幡宮の元社にあたる神社で八幡大神を祭神とする。
貞観元年(859)に清和天皇が、神託により国家安泰のため宇佐神宮から分霊し平安京の守護神として奉安することとし、その時に九州に使わされた大安寺の僧行教が帰途山崎の津(当時の淀川水運の拠点港)で神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰京後天皇に奏上したところ、国家鎮護のため清和天皇の勅命により「石清水八幡宮」が建立された。
その後、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので社名を離宮八幡宮とした。また、貞観年間に神官が神示を受けて「長木」(てこを応用した搾油器)を発明し荏胡麻(えごま)油の製造が始まったことから、日本における製油発祥地とされる。その後「大山崎油座」の制度で荏胡麻油の販売権を独占して、多くの兵火に焼かれながらも江戸時代まで栄えた。特に戦国時代では斉藤道三がこの油を美濃の国で売り財を為し、土岐家をしのぎ斉藤家を美濃の国主にまでも発展させて、その娘を織田信長に嫁がせたことは有名です。 しかし、幕末「禁門の変」時に長州藩屯所が山崎にあったため、攻撃を受けて多くの商家とともに焼失。廃藩置県により社殿のすぐ西から大阪府に割譲し、さらに明治4年(1871)に境内北側を国策による鉄道事業にささげ、境内はさらに縮小した。
1.離宮八幡宮標柱と惣門

2.駒札

3.八幡宮傍示石

4.製油発祥の碑

5.中門(四脚門)

6.中門から振り返って鳥居を見る!

7.拝殿を正面から見る!

8.拝殿横から本殿を見る!

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2014/4/15
畿内の文化財・史址を見る!1.長岡京市の古刹で真言宗豊山派の乙訓寺! 文化財研修記
京都府長岡京市今里3丁目14−7には真言宗豊山派の乙訓寺(おとくにてら)がある。この地は2千前の弥生時代から多くの人々が住んでいた。継体天皇が弟国宮(おとくにのみや)を築かれたともいわれるこの景勝の地に、推古天皇の勅願を受けた聖徳太子は、十一面観世音菩薩を本尊とする伽藍を建立させた。この寺が即ち乙訓寺である。
延暦3年(784)、桓武天皇がこの乙訓の地に遷都されたとき、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築された。この当時の境域は、南北百間以上もあり建てられた講堂は九間に四間の大建築で難波京の大安殿と同じ規模のもであった。翌年、藤原種継が春宮房の人々により暗殺されるや天皇は皇太子早良親王を当寺に幽閉された。
嵯峨天皇は、弘仁2年(811)11月9日太政官符をもって弘法大師(空海)を別当にされた。大師の残されたご事跡も多く、八幡明神の霊告をうけて合体の像を造り(現在の本尊・八幡弘法合体大師像)また、境内に実る柑子を朝廷に献上された。(性霊集に記載)
弘仁3年(812)10月には、当寺を訪ねられた天台宗祖・伝教大師(最澄)と、密教の法論を交わされ灌頂の儀の契りを結ばれる。(伝教大師の弟子・泰範に宛てた書簡に記載)
永禄年間(1558〜1569)信長の兵火により一時衰微したが、元禄6年(1693)五代将軍綱吉は、堂宇を再建して乙訓寺法度をつくり、寺領を寄せ徳川家の祈願寺とされた。
又この寺2,000本以上のボタンが有名で牡丹寺とも呼ばれています。
1.乙訓寺標柱

2.山門

3.駒札

4.境内左側の参道は2,000本のボタンで有名です。

5.日限地蔵尊堂

6.堂内

7.十三重塔と鐘楼

8.4月10日の満開の桜

9.長岡京市指定天然記念物のモチノ木(幹周2.9メートル,樹高9メートル)

10.毘沙門天堂

11.本堂の駒札

12.本堂

13.鎮守社

14.同上

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延暦3年(784)、桓武天皇がこの乙訓の地に遷都されたとき、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築された。この当時の境域は、南北百間以上もあり建てられた講堂は九間に四間の大建築で難波京の大安殿と同じ規模のもであった。翌年、藤原種継が春宮房の人々により暗殺されるや天皇は皇太子早良親王を当寺に幽閉された。
嵯峨天皇は、弘仁2年(811)11月9日太政官符をもって弘法大師(空海)を別当にされた。大師の残されたご事跡も多く、八幡明神の霊告をうけて合体の像を造り(現在の本尊・八幡弘法合体大師像)また、境内に実る柑子を朝廷に献上された。(性霊集に記載)
弘仁3年(812)10月には、当寺を訪ねられた天台宗祖・伝教大師(最澄)と、密教の法論を交わされ灌頂の儀の契りを結ばれる。(伝教大師の弟子・泰範に宛てた書簡に記載)
永禄年間(1558〜1569)信長の兵火により一時衰微したが、元禄6年(1693)五代将軍綱吉は、堂宇を再建して乙訓寺法度をつくり、寺領を寄せ徳川家の祈願寺とされた。
又この寺2,000本以上のボタンが有名で牡丹寺とも呼ばれています。
1.乙訓寺標柱

2.山門

3.駒札

4.境内左側の参道は2,000本のボタンで有名です。

5.日限地蔵尊堂

6.堂内

7.十三重塔と鐘楼

8.4月10日の満開の桜

9.長岡京市指定天然記念物のモチノ木(幹周2.9メートル,樹高9メートル)

10.毘沙門天堂

11.本堂の駒札

12.本堂

13.鎮守社

14.同上

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2014/4/13
近江の文化財・史址を見る!31.(最終回)見事な国宝の本殿や楼門を持つ御上神社! 文化財研修記
滋賀県野洲市三上にはその姿が富士山に似ていることから別名「近江富士」の名で呼ばれ、湖東平野に見える山々のなかでもひときわ異彩を放つ山、三上山が見える。古くから信仰の対象だったこの山の西の麓に御上神社がある。御上神社本殿は、文化財保護法の前身の古社寺保存法の時に、「特別保護建造物」として県内の神社建築として最初の指定を受けている。 御上神社は神社そのものの由来、由緒も興味深いのだが、やはり国宝建築としての美しさを誇る本殿のたたずまいが一番の魅力だ。国宝本殿のほかにも、他所にはない数々の貴重な文化財がいまに伝えられている。
参道の正面に建つ国の重要文化財の楼門。1365年に建てられた楼門は、入母屋造の檜皮葺で2階建ての豪壮な建築です。 神社の東、国道8号線を挟んで反対側にそびえる標高432メートルの三上山は、御上神社のご神体となっている神聖な山。社伝によると、神話時代の第7代孝霊天皇6年(紀元前285)の6月18日、祭神となる天之御影命(あめのみかげのみこと)が三上山に降臨したのを機に、御上祝(みかみのはふり)らが神奈備(神体山)として祀ったのが起源とされる。現在も三上山山頂付近には巨石の磐座が存在し、毎年、旧暦6月18日には山上祭が行われる。
時代は下り、奈良時代初めの養老2年(718)、勅命を受けた藤原不比等が三上山の周囲に群生していた榧の木を用いて、現在地に社殿を造営した。古代の神社の由緒がわかる「延喜式神名帳」では御上神社は名神大社に列していることから、古くから野洲川下流地域の重要な神社だったことがわかる。
祭神は、記紀に登場する製鉄・鍛治の神、天目一箇神(あめのまひとつねのみこと)と同一視されている天之御影大神。三上山周辺では日本最大を誇る銅鐸を含め、数多くの銅鐸が出土していることから、この辺りに鍛治技術に精通した人々が集住していたのではないかと考えられている。実際、7〜8世紀の近江は近畿地方有数の鉄の産地だったといわれ、神社の社紋が釘抜紋ということもその関係の深さを物語っているように見える。
1.近江富士と呼ばれる三上山

2.石の鳥居

3.駒札

4.参道途中から振り返って大鳥居を見る!

5.手水舎(こんこんと境内から真清水が湧き出ている!)

6.見事な国重文の楼門

7.楼門の阿形随身像

8.楼門の見事な吽形随身像

9.国宝・国重文の駒札群

10.国重文の拝殿

11.神官が拝殿で参拝中

12.国宝の本殿

13.本殿の駒札

13.県指定文化財の三宮神社

14.国重文若宮神社

15.高貴な人が乗られる風簾(ほうれん)神輿3台の内の2つ。人が座れるようになっている特殊な神輿です!

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参道の正面に建つ国の重要文化財の楼門。1365年に建てられた楼門は、入母屋造の檜皮葺で2階建ての豪壮な建築です。 神社の東、国道8号線を挟んで反対側にそびえる標高432メートルの三上山は、御上神社のご神体となっている神聖な山。社伝によると、神話時代の第7代孝霊天皇6年(紀元前285)の6月18日、祭神となる天之御影命(あめのみかげのみこと)が三上山に降臨したのを機に、御上祝(みかみのはふり)らが神奈備(神体山)として祀ったのが起源とされる。現在も三上山山頂付近には巨石の磐座が存在し、毎年、旧暦6月18日には山上祭が行われる。
時代は下り、奈良時代初めの養老2年(718)、勅命を受けた藤原不比等が三上山の周囲に群生していた榧の木を用いて、現在地に社殿を造営した。古代の神社の由緒がわかる「延喜式神名帳」では御上神社は名神大社に列していることから、古くから野洲川下流地域の重要な神社だったことがわかる。
祭神は、記紀に登場する製鉄・鍛治の神、天目一箇神(あめのまひとつねのみこと)と同一視されている天之御影大神。三上山周辺では日本最大を誇る銅鐸を含め、数多くの銅鐸が出土していることから、この辺りに鍛治技術に精通した人々が集住していたのではないかと考えられている。実際、7〜8世紀の近江は近畿地方有数の鉄の産地だったといわれ、神社の社紋が釘抜紋ということもその関係の深さを物語っているように見える。
1.近江富士と呼ばれる三上山

2.石の鳥居

3.駒札

4.参道途中から振り返って大鳥居を見る!

5.手水舎(こんこんと境内から真清水が湧き出ている!)

6.見事な国重文の楼門

7.楼門の阿形随身像

8.楼門の見事な吽形随身像

9.国宝・国重文の駒札群

10.国重文の拝殿

11.神官が拝殿で参拝中

12.国宝の本殿

13.本殿の駒札

13.県指定文化財の三宮神社

14.国重文若宮神社

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