2013/12/12

紀州の文化財・史址を見る!55.(最終回)紀州徳川家徳川頼宣の正室・瑤林院の眠る報恩寺!  文化財研修記

 報恩寺(ほうおんじ)は、和歌山県和歌山市吹上にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は白雲山です。最初は慶長14年(1609)に 日忠が要行寺を創立した。
 寛文6年1月24日、紀伊徳川家祖徳川頼宣正室瑤林院(加藤清正の娘)が江戸で逝去、遺骸は池上本門寺で荼毘にふされ、頼宣が自ら瑤林院の霊柩を護って和歌山へ帰り要行寺に埋葬した。寛文9年(1699)に第2代紀州藩主徳川光貞が母瑤林院への報恩と追福のため要行寺を改め広大な白雲山報恩寺を造営して紀伊徳川家菩提寺とし篤くこれを祭祀した。以後歴代藩主正室の菩提寺となる。第5代藩主徳川吉宗公正室の真宮(さなのみや)理子(まさこ)・寛徳院ら藩主夫人や子女の菩提寺となった。明治維新の廃仏毀釈により全山廃却されたが、明治11年(1878) 復興し本山に復帰した。昭和20年(1945)- 和歌山大空襲により本堂焼失した。全山(和歌山市指定名所、梵鐘(和歌山市指定文化財)、紀州徳川家霊廟(和歌山市指定文化財) 瑤林院墓(和歌山市指定文化財)です。初代藩主徳川頼宣、第2代藩主徳川光貞達は長保寺に眠っています!長保寺は下記をクリックして見て下さい!
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/1861.html

1.報恩寺山門
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2.同上
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3.境内の巨大な蘇鉄の木
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4.紀州徳川家家紋入り特別御門
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5.鐘楼
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6.戦災後、建てられた本堂
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7.本堂前の巨大な桜の古木
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8.紀伊徳川家祖徳川頼宣正室瑤林院(加藤清正の娘)墓所の駒札
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9.紀州徳川家御廟
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10.瑤林院のお墓(宝筐印塔(ほうきょういんとう)で過去・現在・未来に渡り安寧を願う石塔)
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11.瑤林院や第2代光貞公正室のお墓
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12.第5代吉宗公正室や子女のお墓
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2013/12/10

京都西山の紅葉と文化財を見る!6.(最終回)西山浄土宗の古刹・楊谷寺(柳谷観音)!  文化財研修記

 京都府長岡京市浄土谷堂ノ谷2に西山浄土宗の寺院ある楊谷寺(ようこくじ)は。独鈷水(おこうずい)の寺として、また近年は紫陽花の寺としても知られている。通称柳谷観音(やなぎだにかんのん、楊はヤナギ)と呼ばれています。縁日(命日)は毎月17日です。
 寺伝では清水寺の開祖延鎮が806年に開山したとされ、延鎮が夢告によりこの地で十一面千手千眼観世音菩薩像(平安時代の創造)を感得し、堂を建て安置したのが始まりとされる。 その後延鎮が清水寺に帰った後に空海が度々、ここで修行をした。その際に猿が瞑れた目をここの湧き水で洗っていたのを見た空海が眼病に効く独鈷水として広めたという。

1.長岡京市地図
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2.楊谷寺への参道
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3.同上
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4.境内
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5.石段参道の途中
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6.境内図
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7.境内
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8.一段目の途中の「独鈷水」の駒札
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9.見事な山門
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10.山門両脇の風神、雷神
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11.手水舎
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12.見事な鐘楼
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13.京都府指定文化財の江戸時代の本堂
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14.本堂内陣
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15.京都府指定文化財の江戸時代の阿弥陀堂
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16.京都府指定文化財の江戸時代の護摩台と護摩堂
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17.地蔵堂
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18.同上 堂内のお地蔵様
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19.奥之院途中から本堂を見下ろす!
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20.多宝塔
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21.京都府指定文化財の奥之院
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22.下り参道途中の弁財天堂
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2013/12/9

紀州の文化財・史址を見る!54.紀州徳川家10代藩主徳川治宝が造営した国名勝庭園「養翠園」!  文化財研修記

 和歌山市西浜1164にある養翠園(ようすいえん)は池泉回遊式の日本庭園です。公家の三条公修(三条実美の祖父)が命名し国の名勝庭園に指定されている。
 紀州藩第10代藩主徳川治寶によって、文政元年(1818)から文政9年(1826)にかけて造営された西浜御殿内の広大な大名庭園である。元々は、紀州藩士山本理左衛門の下屋敷であったと伝わっている。総面積は33,000平方メートもある。
 和歌山湾沿いの立地を利用して、海水を引き込んだ「汐入り」の池が特徴的で、潮の干満に応じて細波が立ち、水面が上下する独特の風情がある。この池には、日本庭園としては珍しい直線状の三ツ橋を渡しており、背後の天神山と章魚頭姿山(たこずしやま)を借景としたこの構図は、中国の西湖を模したものと伝えられている。
 この汐入の池は、海南市にある近代の温山荘園の作庭に影響を与えることとなった。なお、日本の大規模な庭園で汐入の池をもつものは、これらの他には東京都港区の浜離宮恩賜庭園だけである。
 大名庭園としては、全国唯一の個人所有の庭園であり、平成3年(1991)より平成6年(1994)にかけ文化庁指導の下、養翠亭解体修理工事が行われた。この御茶屋「養翠亭」の内部は原則非公開ではあるが、毎月第1日曜日には月釜茶会「あさも会」(会員制)が開かれている。
 治寶は西浜御殿に表千家家元や樂家当主、三井北家当主の三井高祐などを招いた。
平成7年(1995)のNHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」のロケ地である。平成18年(20006)11月に和歌山市の施設として、和歌山市指定文化財建造物「湊御殿」が園内桃畑跡に移築復元され、内部が有料公開されている。

1.養翠園(ようすいえん)入口
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2.駒札
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3.池泉回遊式大庭園です。1
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4.同上 2.
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5.同上 3.と「港御殿」が見える!
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6.紀ノ川口から藩主が船で来園の船着場
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7.庭園内の稲荷社
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8.下記をクリックして、「音声付動画」でこの名園を見て下さい!
http://youtu.be/_U8oNM8vwe8


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2013/12/8

紀州の文化財・史址を見る!53.和歌山市の古社・応神天皇を祀る木本八幡宮!  文化財研修記

 和歌山県和歌山市西庄には応神天皇・神功皇后・日孁大神(ひるめおおかみ。天照大神)を祀る木本八幡宮(きもとはちまんぐう)は和歌山市木本地区(同市西庄、木ノ本、榎原、古屋)の氏神で、地区の西北端、厳橿山(いつかしやま)と称する小山の中腹に鎮座し、山麓の宮原(みやのはら)に権殿(ごんでん。「かりでん」ともいう)がある。「梯子獅子(はしごしし)」と称される木ノ本の獅子舞(県指定無形民俗文化財)で有名です。
『紀伊続風土記』所引「(紀伊)国造家旧記」に、神武天皇の東征に際して、別働隊として神鏡と日矛という2種の神宝(後の日前神宮・国懸神宮(日前国懸神宮)の神体とされる)を奉じた天道根命が両神宝の鎮座地を求めて紀伊国加太浦に来着、次いで当地へ遷り、その後更に毛見浦へ遷った事を伝え、また紀伊国造家の別の古伝として天道根命が日前国懸両大神を奉じて淡路国御原山に天降り、葦毛の馬に乗って加太浦、木本、毛見浦へと遷ったとの伝えを載せているが、社伝によれば、この時に天道根命が日前国懸両大神を厳橿山の橿の木の根本に奉安して祀ったのが起源で、そこから神社を「木本の宮」、地名を「木(ノ)本」と名付けたという(祭神、日孁大神)。なお、『紀伊国名所図会』には日前国懸神宮の南に「飛山」という小丘があり、それは同神宮が現社地に鎮座する時(垂仁天皇16年の事という)に当神社から良土が飛来して積み上がった丘で、神宮の宮域に不浄の事が起きた時にはその土を撒いて清める習いであると記し[4]、『紀伊続風土記』も日前国懸神宮の現鎮座地への遷座に際しては旧鎮座地の所以を以て当神社の土を使って宮地を築き、また宮地の南にはその土が盛られた「小山」と称する小丘(「木ノ本山」とも称した)があって、宮域に不浄があればその部分を除いてこの山の土で填める習慣があった事を伝えています。
 その後、神功皇后が三韓征伐を終えて凱旋の途次、麛坂・忍熊両皇子の乱のために誉田皇子(後の応神天皇)が武内宿祢とともに当地に上陸して頓宮を営み、暫時滞在して難を逃れたという事があり、後に欽明天皇の勅命でその頓宮跡に、「しばらく」滞在した故事に因んで「芝原(しばはら)八幡宮」と称する八幡宮(祭神、応神天皇、神功皇后)が創建されたといい、遙かに降った元和4年(1618)にこの木本・芝原の両宮が一体化して「木本八幡宮」と称するようになったという。なお、現在は厳橿山山麓一帯に住宅街が広がるが、往古は山麓直下まで海岸線が迫っていた。
但し、以上の中で八幡宮の創祀に関しては応神天皇駐蹕の跡とは信じ難いとして、天平時代(8世紀中頃)に当地一帯が大和国大安寺の寺領とされていたことから、同寺の鎮守八幡(現八幡神社)を勧請したものと見る説や、大安寺が先鞭をつけたにせよその後の積極的な開発の形跡がないので早々に土地の領有権を放棄したか或いは喪失したと思われ、代わって平安時代末期に大和東大寺末の崇敬寺(現安倍文殊院)が木本庄を所領して経営に当たっているので、本寺である東大寺の鎮守八幡(現手向山八幡宮)を勧請したものであり、東大寺による天永2年(1111)の木本庄所領目録に現れる「八幡」がこれであろうとの説もあります。
 中世以降は両宮とも在地の土豪等から多くの田畠が寄進される等、木本庄の鎮守神としての崇敬を集めたが、天正13年(1585)の豊臣秀吉による紀州攻略の兵火に罹って社殿等を焼失したため、江戸時代に入って慶長8年(1603)に両宮の仮神殿を再建し、元和4年に芝原八幡宮を木本宮へ合祀する形で「木本八幡宮」として再興し(八幡宮の跡地には権殿を建てる)、以後地域の産土神として崇められている。
 文久元年(1861)に孝明天皇による攘夷の祈願がなされるとともに正一位の神階が授けられている。

1.木本八幡宮一の木造両部(りょうぶ)鳥居
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2.参道(ここから徒歩)
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3.三の木造両部鳥居
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4.昭和天皇が皇太子殿下の時、大正11年の参拝記念植樹のクスノキ
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5.木本八幡宮由緒碑
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6.手水舎
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7.登り参道途中の摂社・日吉神社
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8.長い石段参道
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9.駒札
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10.本殿の駒札
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11.」見事な拝殿を見る!本殿撮影難しくアウトでした!
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2013/12/7

京都西山の紅葉と文化財を見る!5.西国観音霊場33ヶ寺の古刹第20番札所・善峯寺2−2!  文化財研修記

京都府京都市西京区大原野にある善峯寺(よしみねでら)は、。山号は西山。西国33ヶ所第20番札所。善峰観音宗(天台宗系単立)。桜や紅葉の名所になっているとともに境内各所から京都市街、比叡山を一望できる。
 寺に伝わる『善峯寺縁起絵巻』(江戸時代)等によれば、長元2年(1029)、源信の弟子にあたる源算が創建したという。その後、長元7年(1034)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。鎌倉時代初期には慈円が住したことがあり、このころ後鳥羽上皇直筆の寺額を賜ったことによって寺号が善峯寺と改められた。青蓮院から多くの法親王が入山したため「西山門跡」と呼ばれた。応仁の乱に巻き込まれて伽藍が消失したのち、江戸時代になってから桂昌院の寄進によって再興された。
 境内は京都市域の西南端近く、釈迦岳の支峰の善峯に位置し、山腹一帯に多くの堂宇が建つ。バス停留所から山道を数分登ったところに山門が東向きに建ち、石段を上った正面に観音堂(本堂)が建つ。
 山門、観音堂は元禄5年(1692)、山内最古の建物である多宝塔は元和7年(1621)の建立。他の諸堂宇も大部分は江戸時代、この大原野生まれで第5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の援助で整備されたものであり桂昌院廟もある。
 観音堂の左手(南)には寺宝館文殊堂が建つ。観音堂右手の石段を上った一画には鐘楼、護摩堂、経堂、多宝塔(重要文化財)、開山堂、遊龍の松(天然記念物)、桂昌院廟、十三仏堂などがある。そこからさらに上ったところに釈迦堂、阿弥陀堂があり、境内のもっとも奥には薬師堂(奥の院)、青蓮院宮廟などがある。
青蓮院宮廟は境内のもっとも奥に位置し、覚快法親王(鳥羽天皇皇子)、道覚法親王(後鳥羽天皇皇子)、慈道法親王(亀山天皇皇子)、尊円法親王(伏見天皇皇子)、尊道法親王(後伏見天皇皇子)らの墓がある。墓地は宮内庁が管理している。
 秘仏本尊と脇本尊の2体の木造千手観音立像を安置する。秘仏本尊は木造漆箔、像高178.8センチメートル。平安時代後期から鎌倉時代初期の作とされる。寺伝では後朱雀天皇の命により洛東の鷲尾寺から移したもので、安居院仁弘法師の作という。開扉は毎月第2日曜および毎年正月3箇日に行われるほか、臨時に行われる特別開扉もある。
 脇本尊は像高174.5センチ。寺の創建と同じ11世紀前半頃の作とされ、像全体が黒ずんだ古色を呈する。寺伝では開山源算の作とする。京都洛西観音霊場の札所本尊です。
 国の天然記念物の推定樹齢600年の五葉松で幹が横に這うように伸びていることからこの名が付けられた。全長50数メートルあったが、松食い虫の被害により平成6、10メートルあまり切断されている。

1.桂昌院廟手前には鎌倉時代ののもので伝教大師筆の法華経を収めた宝筺印塔がある。
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2.元和7年(1621)建立の国重文の多宝塔と経堂・宝永2年(1705)建立を見る!
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3.アジサイ苑と紅葉!
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4.アジサイ苑近くの幸福地蔵様
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5.釈迦堂への参道と紅葉
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6.珍しい竹筒から清水のでる手水舎
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7.釈迦堂
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8.源算上人作といわれる釈迦如来像
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9.薬師堂への参道
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10.途中にある稲荷社
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11.けいしょう殿
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12.元禄14年(1701)桂昌院建立の薬師堂
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13.下記をクリックして、「音声付動画」で京都市街を一望して下さい!
http://youtu.be/OXVimfgT3rg

14.寛文13年(1673)建立の阿弥陀堂
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15.本尊阿弥陀如来像
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16.昼食は「よしみね乃里」巨大な木造像が目立ちます!
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17.京漬物が売り物ですよ!
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18.松竹定食1,700円を奮発!
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2013/12/6

京都西山の紅葉と文化財を見る!4.西国33ヶ寺第20番札所の古刹・善峯寺!2−1  文化財研修記

京都府京都市西京区大原野にある善峯寺(よしみねでら)は、。山号は西山。西国33ヶ所第20番札所。善峰観音宗(天台宗系単立)。桜や紅葉の名所になっているとともに境内各所から京都市街、比叡山を一望できる。
 寺に伝わる『善峯寺縁起絵巻』(江戸時代)等によれば、長元2年(1029)、源信の弟子にあたる源算が創建したという。その後、長元7年(1034)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。鎌倉時代初期には慈円が住したことがあり、このころ後鳥羽上皇直筆の寺額を賜ったことによって寺号が善峯寺と改められた。青蓮院から多くの法親王が入山したため「西山門跡」と呼ばれた。応仁の乱に巻き込まれて伽藍が消失したのち、江戸時代になってから桂昌院の寄進によって再興された。
 境内は京都市域の西南端近く、釈迦岳の支峰の善峯に位置し、山腹一帯に多くの堂宇が建つ。バス停留所から山道を数分登ったところに山門が東向きに建ち、石段を上った正面に観音堂(本堂)が建つ。
 山門、観音堂は元禄5年(1692)、山内最古の建物である多宝塔は元和7年(1621)の建立。他の諸堂宇も大部分は江戸時代、この大原野生まれで第5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の援助で整備されたものであり桂昌院廟もある。
 観音堂の左手(南)には寺宝館文殊堂が建つ。観音堂右手の石段を上った一画には鐘楼、護摩堂、経堂、多宝塔(重要文化財)、開山堂、遊龍の松(天然記念物)、桂昌院廟、十三仏堂などがある。そこからさらに上ったところに釈迦堂、阿弥陀堂があり、境内のもっとも奥には薬師堂(奥の院)、青蓮院宮廟などがある。
青蓮院宮廟は境内のもっとも奥に位置し、覚快法親王(鳥羽天皇皇子)、道覚法親王(後鳥羽天皇皇子)、慈道法親王(亀山天皇皇子)、尊円法親王(伏見天皇皇子)、尊道法親王(後伏見天皇皇子)らの墓がある。墓地は宮内庁が管理している。
 秘仏本尊と脇本尊の2体の木造千手観音立像を安置する。秘仏本尊は木造漆箔、像高178.8センチメートル。平安時代後期から鎌倉時代初期の作とされる。寺伝では後朱雀天皇の命により洛東の鷲尾寺から移したもので、安居院仁弘法師の作という。開扉は毎月第2日曜および毎年正月3箇日に行われるほか、臨時に行われる特別開扉もある。
 脇本尊は像高174.5センチ。寺の創建と同じ11世紀前半頃の作とされ、像全体が黒ずんだ古色を呈する。寺伝では開山源算の作とする。京都洛西観音霊場の札所本尊です。
 国の天然記念物の推定樹齢600年の五葉松で幹が横に這うように伸びていることからこの名が付けられた。全長50数メートルあったが、松食い虫の被害により平成6、10メートルあまり切断されている。

1.善峯寺への参道
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2.周辺の地図
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3.見事で巨大な山門
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4.山内地図
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5.燈籠と本堂(観音堂)を見る!
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6.本堂を見上げる!
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7.手水舎
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8.本堂(観音堂)
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9.本堂と扁額
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10.本堂から手水舎、山門を見下ろす!
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11.鐘楼堂
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12.元禄5年(1692)桂昌院寄贈の護摩堂
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13.元和7年(1621)建立の国重文の多宝塔
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14.推定樹齢600年の国天然記念物の五葉の松。花山前右大臣家厚公より「遊龍の松」となずけられた。
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15.京都市街を遠望!
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16.桂昌院廟
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2013/12/5

紀州の文化財・史址を見る!52.和歌山市加太の国重文の本殿をもつ加太春日神社!  文化財研修記

 加太春日神社(かだかすがじんじゃ)は、和歌山県和歌山市にある神社で天児屋根命・武甕槌神・経津主神(春日神)を主祭神とし、天照大神・住吉大神を配祀しています。
 創建年代は明確ではないが、紀伊国造家旧記によると、神武天皇東征の際、紀国造氏の祖である天道根命が神鏡と日矛の二つの神宝を奉じて加太浦に上陸し、頓宮を造営して天照大御神を祀ったことに始まるという(神鏡・日矛は日前神宮・国懸神宮の神体である)。延喜式神名帳の記載はない(式外社)が、「紀伊国神名帳」 に「正一位春日大神」と記されている。役小角(飛鳥時代の半ば伝説的な山岳修業者で修験道の開祖、役行者とも呼ぶ)が、友ヶ島を行場とし、当社を勧請して守護神としたという。そのため現在でも毎年4月20日、当社に聖護院門跡が大勢の山伏僧と共に参拝している(聖護院は本山修験宗の総本山)。
 当地は紀淡海峡に面して漁業の盛んなところであるため、のちに航海安全と大漁を祈願する住吉大神が合祀されたものと見られ、中世には「住吉神社」とも称されていた。文保元年(1317)6月29日附「預所某田地寄進状」(向井家文書)にある 「賀太庄住吉社」は当社のことと云われている。「紀伊風土記」によると、日野左衛門藤原光福が地頭としてこの地を支配した嘉元年間(1303〜1317)に、自分の祖先神である春日三神を新たに祀り、総名として「春日社」と称したとあり、嘉吉2年(1442)の記録に「春日明神神事日記」(向井家文書)がある。紀伊名所図会によると、社地はもと、現在地から東の山の中腹にあったが、天正年間(1573〜1592)に豊臣秀長の家臣で和歌山城代(当時、秀長は大和郡山に居城、大和、和泉、紀伊三国を領し、紀伊国は和歌山城代が支配)の桑山重晴によって現在地に遷したと記している。なお、棟札(重要文化財の附指定)によって慶長元年(1598)に大がかりな社殿の造作がなされたことも実証されている。
 当社は、明治時代まで神職はおかず、神社経営は宮座形式の当屋制によって運営されていた特異な神社です。

1.加太春日神社
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2.同上 石の鳥居
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3.手水舎
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4.拝殿と正面の鳥居
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5.境内社の稲荷社
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6.境内社と本殿の一部
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7.慶長元年(1596)の棟札がある国重文の一間社流造、正面は千鳥破風(ちどりはふう)及び軒唐破風で檜皮葺の本殿です。(撮影が難しく残念です。)
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2013/12/4

京都西山の紅葉と文化財を見る!3.天台宗の古刹で国宝の如意輪観音菩薩半跏像を持つ願徳寺!  文化財研修記

 京都市西京区大原野には天台宗の古刹・願徳寺(がんとくじ)がある。山号は仏華林山(ぶっかりんざん)。院号は宝菩提院(ほうぼだいいん)。本尊は国宝の如意輪観音菩薩半跏像で、京都洛西観音霊場の第33番札所でもある。
 この寺は、寺伝によれば持統天皇が夢で啓示を受け、薬師如来を本尊として697年に現在の向日市寺戸に創建された。一時衰退するが、東山三条の宝菩提院に住した忠快(平安時代後期の武士平教盛の子)がこの寺に入って中興したと伝えられる。台密の中心的な寺院として隆盛したが、応仁の乱などの兵火により一時焼失する。江戸時代に入って再興されるも往時の勢いはなく、近代に入ってさらに荒廃。
 1962年には本尊の観音像などが「花の寺」として知られる勝持寺に移された。1973年には本堂と庫裏を勝持寺に隣接する現在地に移転、更に1996年には本尊などが願徳寺に戻され、34年の年月をかけてようやく再興が完了した。
 国宝の如意輪観音菩薩半跏像と国重文の木造薬師如来像がある。

1.花の寺周辺の駒札です!願徳寺はすぐ横です。
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2.願徳寺(がんとくじ)
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3.同上 山門
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4.同上
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5.本堂
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6.国宝の如意輪観音菩薩半跏像(参観料500円、1200年前1本のカヤの木から造られたもので88.2センチメートルの仏像です!)
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2013/12/3

紀州の文化財・史址を見る!51.3月3日のお雛様流しで有名な淡島神社!  文化財研修記

 淡嶋神社(あわしまじんじゃ)は和歌山県和歌山市加太にある神社で加太淡嶋神社、加太神社ともよんでいます。少彦名命(すくなひこなのみこと)、大己貴命(おほなむじのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)を祀る全国にある淡島(嶋)神社・粟島神社・淡路神社の総本社である。式内社「加太神社」の比定社の一つ(もう一社は加太春日神社次回訪問)。2月8日の針祭、3月3日のひな流しでなどでも有名だが、特筆すべきはに境内一円に奉納された2万体ともいわれる無数の人形であり、その様はひとえに壮観です。   
 淡嶋神社系統の神社は日本国内に約1000社余りあるが、当神社はその総本社であり、和歌山県内でも屈指の歴史を誇る。
 神話において日本を創造したと伝えられる少彦名命(すくなひこなのみこと)と大己貴命(おほなむじのみこと)の祠が加太の沖合いの友ヶ島のうちの神島(淡島)に祀られたことが始まりとされる。社伝によれば、三韓出兵の帰途瀬戸の海上での突然の嵐に遭遇した神功皇后が、船中で祈りを捧げたところ、「船の苫を海に投げ、その流れのままに船を進めるように」とのお告げにより友ヶ島に無事入港できたことを感謝し、持ち帰った三韓渡来の宝物を先述の二神に奉納した。その数年後、神功皇后の孫である仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来た際、その事実を聞くにおよび、島では不自由であろうと考え、社を対岸の加太に移し、現在のような社殿を建築したことが淡嶋神社の起こりとされています。
 江戸時代には、淡島願人と呼ばれる人々が、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻ったため、淡島信仰が全国に広がった。
 現在の社殿は豊臣秀吉の紀州征伐で焼失したが、その後浅野幸長が再建、紀州徳川家初代・徳川頼宣が修復を加え、さらに江戸時代末期に第10代・徳川治宝が造営、昭和54年(1979)に現在の新社殿となった。

1.加太の淡島神社
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2.歌碑
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3.神輿蔵
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4.手水舎
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5.巨大なヤマモモの木
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6.社務所
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7.拝殿
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8.同上
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9.拝殿内の全国から送られて来た「ひな人形」
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10.同上
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11.拝殿横の「雛人形」3月3日の雛流しで船で送られます!
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12.加太の港から船で20分の「友が島」が見えます!一度行っています。4島を総称して友ヶ島と呼んでおり、此処には要塞と砲台が残っています。
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2013/12/2

京都西山の紅葉と文化財を見る!2.天台宗の古刹で花の寺と呼ばれる勝持寺!  文化財研修記

京都市西京区大原野南春日町1194には花の寺と呼ばれる天台宗の古刹・勝持寺(しょうじじ)がある。山号は小塩山。本尊は薬師如来。西国薬師四十九霊場第四十二番札所でもある。勝持寺は京都の西南郊外の大原野に位置し、大原野神社に隣接する。大原野神社は延暦3年(784)、長岡京遷都時に、奈良の春日神社(現・春日大社、藤原氏の氏神)の分霊を祀ったものである。勝持寺は(しょうじじ)は古くから桜の名所として知られ、西行ゆかりの寺として知られるが、創建についてはあまり明らかでない。寺伝では白鳳年間(672〜686)役小角の創建と伝えられる。その後延暦10年(791)最澄が再興して小塩山大原寺と称し、仁寿年間(851 -854)千観によって再興されたという。応仁の乱で焼失し、天正年間(1573〜1592年)に再建された。江戸時代には大原野生まれの第5代将軍徳川綱吉の生母の桂昌院の帰依を受けた。
又、国重要文化財(国指定)木造薬師如来坐像 - 当寺の本尊。像高85cm。鎌倉時代。左手に薬壺を持ち、右手をその上にかざすような珍しい印相を示す。
木造薬師如来坐像 - 像高9.1cmの小像だが、光背には七仏薬師と十二神将像を表す精緻な作である。平安時代前期。木造金剛力士立像は弘安8年(1285)、法眼慶秀と法橋湛□(1字不明)の作の銘がある。西行法師の歌「花見んとむれつつ人の くるのみぞ あたらさくらの とがにありける」虚子は「地にとどく 西行桜したひけれ」と!

1駒札
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2.勝持寺参道から紅葉を見下ろす!
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3.勝持寺の山門
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4.紅葉の境内
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5.本堂
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6.不動堂
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7.不動堂をアップで撮影
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8.内陣の石の不動明王様と愛染明王様を拝顔する!
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9.西行桜(鳥羽上皇に仕えていた北面の武士・斉藤兵衛義清は保延6年(1140)当寺にて出家して、西行と名を改め一庵を結び、1株の桜を植え愛吟していたので、後世にはその桜を西行桜と称し、寺を花の寺と呼ぶようになった。
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10.鐘楼
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11.歌枕の瀬和井と冴野沼(さえのぬま)、謡曲「西行桜」「小塩」はこの寺を主題にしています。
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12.魚籃観音(ぎょらんかんのん)駒札
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13.池の中の魚籃観音様
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14.境内の紅葉
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15.同上
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16.阿弥陀堂を見る!
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