2013/12/30

山陽の文化財・史址を見る!9.国宝の二王門を持つ四国88ヶ所霊場第51番の石手寺!  文化財研修記

 石手寺(いしてじ)は、愛媛県松山市石手にある真言宗豊山派の寺院で熊野山(くまのさん)、虚空蔵院(こくうぞういん)と呼ぶ。本尊は薬師如来。四国88ヶ箇所霊場の第51番札所。遍路の元祖とされる衛門三郎の再来伝説ゆかりの寺でもある。道後温泉の温泉街から近いため、遍路の他にも、観光客で賑わうことが多く、2009年ミシュランガイド(観光地)日本編において1つ星に選定された。
ご詠歌:西方を よそとは見まじ 安養の 寺に詣りて 受くる十楽
 寺伝によれば、神亀5年(728)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野12社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729)に行基が薬師如来刻んで本尊として安置して開基したという。創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改めたとされる。寛平4年(892)河野氏に生まれた子どもが石を握っていという衛門三郎再来の伝説によって石手寺と改められた。河野氏の庇護を受けて栄えた平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院であった。しかし、永禄9年(1566年)に長宗我部元親による兵火をうけ建築物の大半を失っているが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れている。
 境内の山門(二王門)は国宝。三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺き。『伊予古蹟志』に文保2年(1318年)の建立とある。様式的にもその頃の建立とみられ、鎌倉期建築の特徴がよく現れている。上層の回縁の出が大きく、入母屋屋根の反りが高い。組物は上層・下層ともに三手先(みてさき)とし、中備(なかぞなえ)は正面は三間とも本蟇股(ほんかえるまた)、側面は間斗束(けんとづか)とする。門内に安置する金剛力士(仁王、二王)像は鎌倉時代の作で愛媛県の有形文化財に指定(寺伝では運慶一門の作というが実際の作者は不明)。本堂( 本瓦葦き、正面側面とも五間、単層入母屋造りの仏堂。鎌倉末期、重要文化財。)大師堂 ( 弘法大師像が安置されている。かつては壁に正岡子規、夏目漱石ら多くの文化人の落書きが記されており、「落書堂」とも呼ばれていたが、壁は第二次大戦中に塗りなおされている。)三重塔(周りで四国八十八箇所のお砂踏みができる。国重要文化財。)訶梨帝母天堂:訶梨帝母尊(鬼子母神)を祀る堂。鎌倉末期。妊婦は堂周りの石を持ち帰り、無事に出産すると石を2つにして返すという風習がある。国重要文化財。)茶堂大師、鐘楼 (国 重要文化財)

1.石手寺標柱
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2.珍しい弘法大師銅像
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3.珍しい錫の観音立像
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4.手水舎と境内
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5.修復中の珍しい手水舎
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6.二王門への参道
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7.国宝の鎌倉時代の二王門
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8.国重文の本堂を見上げる!
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9.国重文で建長3年(1251)の銘のある銅鐘と鐘楼
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10.国重文の護摩堂
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11.国重文の三重塔
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12.国重文の訶梨帝母天堂(鬼子母神)
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13.大師堂右側と護摩堂など
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14.大師堂
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15.本堂を間じかに見る!
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16.国宝二王門を裏側から見る!
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17.国重文三重塔を再度見る!
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18.石手寺の参道を見る!
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2013/12/28

山陽の文化財・史址を見る!8.伊予松山の延喜式内社の伊佐爾波神社!  文化財研修記

 伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)は、愛媛県松山市にある延喜ぶ式内社で、旧社格は県社で神紋は「左三つ巴」です。別称として「湯月八幡」・「道後八幡」とも呼ばれています。
 松山市市街地の西部、道後温泉近くの道後山山腹に鎮座する。国の重要文化財に指定されている社殿は、全国に3例しかない八幡造である。このほか、重要文化財の太刀(銘 国行)が伝えられている。御祭神は主祭神譽田別尊 (ほんだわけのみこと) 応神天皇、 仲哀天皇、 神功皇后 - 宗像三女神の3柱、市杵島姫尊 (いちきしまひめのみこと)、湍津姫尊 (たぎつひめのみこと、田心姫命 (たぎりひめのみこと)です。配神東照大神 (東照大権現)。
 社伝によれば、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来湯した際の行宮跡に創建されたという。旧鎮座地は「伊佐爾波岡」と呼ばれていた場所で、現在の湯築城跡とされる。
 平安時代中期の『延喜式神名帳』には「伊予国温泉郡 伊佐尓波神社」と記載され、式内社に列している。神仏習合の時代には、宝厳寺と石手寺は、共に伊佐爾波神社の別当寺であったとされる。伊予国守護・河野氏による湯築城の築城に際し、現在の地に移転した。当社は湯築城の守護神として河野氏から崇敬されたほか、道後七郡(野間・風速・和気・温泉・久米・伊予・浮穴の各郡)の総守護とされた。松山藩の藩主となった加藤嘉明は、松山城の固めとして松山八社八幡を定め、当社は「湯月八幡宮」として一番社とされた。また武運長久の祈願社として、社領に久米郡井合の土地100石を寄進した。寛文2年(1661)、弓の名手といわれた三代藩主松平定長は、将軍家より江戸城内において弓の競射を命じられた際、湯月八幡宮へ必中祈願をした。寛文4年(1664)6月、定長は、将軍家の御前で弓を無事に射ることができ、祈願成就の御礼として社殿の造替に着手した。寛文7年(1667)大工697人、延べ人数69,0177人を要し新社殿が完成。松平家より代参として家老竹内家が参拝し、遷宮式が挙行された。新社殿は石清水八幡宮を模したとされる八幡造で、宇佐八幡宮とあわせて3例のみの現存である。
 「八幡造」といわれ、後殿・前殿の2棟の社殿が前後につながった形をとる。後殿は祭神の夜の座所、前殿は昼の座所とされる。後殿は切妻造、檜皮葺、桁行9間、梁間2間で、三間社を横に3つ繋げた形となる。前殿は流造、檜皮葺き、桁行9間、梁間2間。国の重要文化財です。申殿(もうしどの)本殿の前に位置する。桁行1間、梁間1間、一重、切妻造平入りで檜皮葺。前方に桁行3間、梁間1間、妻入の廊下が接続する。国の重要文化財です。楼門は社殿正面に位置する。入母屋造、本瓦葺。初層正面は唐破風とする。国の重要文化財です。廻廊は楼門の左右から伸び、本殿等の社殿を囲む。国の重要文化財です。

1.伊佐爾波神社の標柱
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2.石段参道
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3.国重文の楼門
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4.国重文の楼門
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5.拝殿内陣
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6.拝殿から国重文の本殿
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7.同上
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8.本殿
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9.本殿をやや後部より見る!
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10.拝殿から本殿
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11.八幡造りの向拝
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2013/12/26

山陽の文化財・史址を見る!7.伊予国一之宮・大三島にある大山祇神社!  文化財研修記

 大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神で。式内社(名神大社)、伊予国一宮です。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社です
 全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社です。また、主祭神の大山祇神は三島大明神とも称され、大山祇神社から勧請したと伝える三島神社は、四国を中心に新潟県や北海道まで広がる。静岡県の三嶋大社と共に三島神社の総本社とされています。
 瀬戸内海に浮かぶ大三島西岸、神体山とする鷲ヶ頭山(標高436.5メートル)西麓に鎮座する。古くは大三島南東部に位置した。 三島神社や大山祇神社の総本社であり、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた。大山積神を祀る代表的な神社ということもあり、山神社の総本社とされることもある。源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっている。社殿・武具等の文化財として国宝8件(内源義経、源頼朝の奉納の鎧兜なども含まれています)、国の重要文化財76件を有し、境内には国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」がある。また、昭和天皇の研究を展示した海事博物館が併設されている。
 近代においても、日本の初代総理大臣の伊藤博文、旧帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの参拝があった。現在でも、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝がある。
 ご祭神は大山積神 (おおやまづみのかみ、おおやまつみ-)別名として「和多志(わたし)大神」とも呼ぶ。当社においては「三島大明神」とも称した。伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子で、磐長姫命と木花開耶姫命(瓊瓊杵尊の妃)の父。元は山の神であるが、当社が瀬戸内海の要所に位置することなどから、当社では海の神としての性格も強い。また、当社では社名「大山祇」と祭神名「大山積」と異なる表記を用いている。いつ頃から書き分けるようになったか定かではないが、かつては何れも「大山積」であった。延喜式神名帳には「大山積神社」とあり、扁額には「大山積大明神」とある。 当社の鎮座する大三島は古くは「御島」と記されたように、神の島とされていた。大三島に鎮座した由来には諸説がある。
『大三島記文』(社伝)大山祇神の子孫・小千命(乎千命、おちのみこと)が大三島に勧請したとする。『伊予国風土記』逸文では大山積神は百済から渡来して津の国(摂津国)の御嶋に鎮座、のち伊予国に勧請されたとする。その解釈として、越智氏が朝鮮半島出征で大山積神を戴いて帰国したとする説、越智直が百済に出征し捕虜となり中国を回って帰国したとする説話[2]による説があるが、いずれも確証は欠いている。摂津国の御嶋は三島江(三島鴨神社)が定説だが、鴨神社(式内社三島鴨神社の論社)ともされる。『予章記』・『予陽河野家譜』越智玉興がこの地での霊験にあやかり、勅宣により社殿を造営したとしている。境内には弥生時代の神宝や祭祀遺跡があるといわれており、いずれにしてもかなり古い時代から存在したとされる。
 平安時代の『延喜式神名帳』には「伊予国越智郡 大山積神社」として記載され名神大社に列しているほか、伊予国の一宮とされた。また、朝廷からは「日本総鎮守」の号を下賜されている。
 神職(大祝職)は、代々越智氏(のち三島家)が担い、職名を姓とした大祝氏を称した。
仁徳天皇年代、百済より摂津国御島に大山祇神を祀るという(『伊予国風土記』逸文)
推古天皇2年(594年)、大三島瀬戸(遠土宮、現 横殿社。今治市上浦町瀬戸)に移るという (『伊予国風土記)。

1.大三島への多々羅大橋1480メートル
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2.大三島図
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3.大山祇神社の二の鳥居と総門
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4.神社の駒札
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5.総門
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6.御桟敷殿(おんさじきでん)と斎田
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7.神門へ向う!
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8.天然記念樹「能因法師雨乞の大楠」
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9.同上
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10.乎知命(おちのみこと)御手植の楠(天然記念樹、推定樹齢2600年)
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11.同上
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12.神門と拝殿
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13.国重文の拝殿
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14.拝殿の内陣を通して国重文の本殿を見る!
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15.拝殿を左側から見る
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16.拝殿を右側から見る!
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17.左、国宝の紫綾威鎧 大袖付 伝源頼朝奉納、右、赤糸威鎧 大袖付 伝源義経奉納
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2013/12/24

山陽の文化財・史址を見る!6.国宝の三重塔を持つ尾道市生口島の古刹・向上寺!  文化財研修記

広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田57(しまなみ海道の生口島)には 室町初期建立の曹洞宗のお寺で、曹洞宗の向上寺(こうじょうじ)がある。潮音山の山頂にある国宝三重塔は、永享4年(1432)に生口惟平(いくちこれひら)と諸子・守平を大檀那としてが建立されたもので、3間3重の塔婆(とうば)で全体の高さは19メートルあります。
 和様唐様の混合様式で内部全体にも極彩色が施され、室町初期で最も美しく優れているものの一つに数えられています。
 日本画壇の巨匠 平山郁夫画伯も幼少のころよく遊ばれたそうです。この三重塔の横に平山画伯のスケッチの碑があります。

1.しまなみ海道の因島から生口橋(いくちばし)790メートルを生口島(瀬戸田町)へ渡る!
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2.無料の駐車場から山門を見下ろす!
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3.向上寺山門
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4.山門から石段参道を見下ろす!
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5.途中のお堂
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6.参道途中の神社
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7。鐘楼(梵鐘は 橘是信の作。高さ竜頭より72cm,直径59.5cm 厚さ2.2cm。当地で鋳造され島人のかんざし、 キセル等の金・銀が入れられているといいます。 音色の良さで有名。由緒ある鐘として大戦中の供出も免除されました。)
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8.国宝の三重塔を見上げる!
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9.三重塔
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10.国宝三重塔の駒札
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11.斜めから見る!
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12.横から見る!
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13.平山画伯のスケッチ碑
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2013/12/22

山陽の文化財・史址を見る!5.しまなみ海道・因島の村上水軍城と菩提寺の金蓮寺!  文化財研修記

 因島村上水軍の墓所もあるゆかりの地の因島(いんのしま)は今や「しまなみ海道」で簡単に行けるようになった。  南北朝から室町・戦国時代にかけて活躍した村上水軍。曹洞宗・金蓮寺(こんれんじ)はその村上水軍の菩提寺で青陰城主だった村上備中守吉資の創立といわれる。裏には尾道市史跡の村上水軍の墓地があり、村上水軍歴代の宝筺印塔十八基や五輪塔が多数ある。金蓮寺は中庄町の東南・外浦町の谷間にあったが、その後現在地に移り、それまで分散していた石塔類を集めたと伝わる。そのため誰の墓塔か分からなくなっているが、水軍一族とその家臣の墓石群とみられている。金蓮寺横の峰には因島水軍城が資料館として建設されており、境内からもよく見える。村上水軍の武具、遺品、古文書など歴史資料が展示されている。境内には千体観音を願掛け、お礼参りに奉納する堀出観音のお堂が建つ。また水子地蔵、航海安全を祈願する天龍弁才天、因島八十八ケ所霊場の八番札所藤井寺もある。また山門右手の石段を上がった同じ境内にはぼけ封じ観音があり、そのありがたい姿に思わず手を合わせたくなる。さらに山門前には左右に珍しい仁王の石像もある。参道横には因島資料館もあり、その前の広場では9月19日に因島水軍城まつりも開かれている。

1.しまなみ海道の因島(いんのしま)大橋を渡る.二重構造の吊橋で下段は自転車・歩道です。
吊橋の距離は1270メートル!
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2.因島の金蓮寺近くの因島八景の一つの碑
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3.横の歌碑
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4.因島村上氏の菩提寺の金蓮寺標柱
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5.金蓮寺山門
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6.曹洞宗の金蓮寺本堂
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7.因島88ヶ所霊場11番札所の藤井寺
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8.尾道市指定天然記念樹因島8木の一つ古木の巨大なモッコクの木
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9.村上水軍三島の一番上であった因島水軍墓地への道
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10.因島水軍墓地(指定文化財)の駒札
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11.同上 墓地
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12.昭和58年再建のコンクリート製水軍城へ
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13.水軍城への道
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14.同上
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15.大手門
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16.天守を見上げる!
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17.水軍城資料館
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18.資料館内
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19.同上
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20.水軍墓地・金蓮寺を見下ろす!
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2013/12/21

綾部市最古の多田町の天満宮奉納俳句額と三宮神社棟札!  綾部の文化財

 京都府綾部市多田町前路(まえじ)81番地には菅原神を祭る天満宮社がある。由緒は不詳。境内社として三宮(さんのみや)神社(祭神不詳)と稲荷神社がある。多田町の天満宮の覆屋(おおいや)の中の本殿の裏に「古文書」が書かれている板が角釘で打ち込まれているのをの40年前からを知っていたが、当時は現役で英語、スペイン語を主力で勉強していた。日本語の古文書を本格的に勉強を始めたのは10年前近澤豊明綾部資料館長から山崎巖綾部史談会長(元綾部高校の恩師)に紹介され綾部史談会に入会してからであった。広小路町の羽室さん(故人)から綾部市に多くの文化財(書画、骨董品)が寄贈された。昨年平成24年4月より漸く松尾芭蕉・三重県伊賀市出身)寛永21年(1644)−元禄1694)が江戸で俳諧を始めて「蕉風」を確立した俳句と松尾芭蕉死後100年を得て多くの俳諧師(小林一茶など)も表れ京都では芭蕉堂という俳諧の組織と印刷所が開かれこの何鹿郡・綾部の広小路羽室家との交流も盛んになった書面・文章の翻訳に係り始めた。今年には第31年度(回)俳諧の専門家である聖トマス大學准教授の竹内千代子さんからも6月15日(土)「京都の俳壇と丹波の俳人たち」の講演をも受け勉強を続けて来た。綾部で俳諧の専門家でもある久後さんからの情報により、この多田町の天満宮の俳句額を思いい出して、天満宮の責任者である松本武多田町自治会長及び佐々木代理者の承認を得て10月19日(土)午後、川端二三三郎綾部史談会長と四方續夫会員が予備調査をした。確かにこの句額は現在綾部市では最古のもので安永6年(1777)願主・森本雲鳥の名が読み取れた。そこで管理責任者の松本武多田自治会長、佐々木孝晴代理者の承認により専門の大工さんに本殿裏に角釘で打ち付けられた句額合計4枚を取り外してもらい綾部市資料館にて読み取り中です。本来この句額は覆屋に取り付けてあったものが風雨で読み取れなくなり江戸末期か明治の始め本殿裏に移されたと想定できる。調査には君尾山光明寺の奉納句額・天保2年(1831)を含めて来年3月まで懸ると想定しています。

1.天満宮、その右側に三宮神社がある。
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2.奉納額その1.縦48.5CM x193CM、厚さ0.7CM
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3.奉納額その2.縦48.5CxM X 124CM 厚さ0.7CM(持参のもの)

4.奉納額その2.を取り外した下に安永6年(1777)の墨書を発見

5.三宮神社
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6.三宮神社棟札発見・寛保3年(1743の墨書有り)
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7.綾部市資料館で調査読み見取り中  
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8.安永6年(1777)が写真でも読み取れます!他はライトで縦横から掃射して読み取るのですが、大変難しいです!
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9.はライトで縦横から掃射して読み取るのですが、大変難しいです!
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10.君尾山光明寺の堂内の句額を読み取り中(天保2年・1831)
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11.同上
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12.12月20日(金)付あやべ市民新聞第1面の1.
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13.同上              第1面の2
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2013/12/20

山陽の文化財・史址を見る!4..日本三大山城の一つで日本で一番高所の天守閣を持つ備中松山城2−2!  文化財研修記

 松山城(まつやまじょう)は岡山県高梁市内山下にあった山城である。別名、高梁城(たかはしじょう)。国の史跡で日本100名城の一つ。四国の愛媛県松山市にあった松山城 (伊予国)との混同を避けるために、一般的には「備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)」と呼んでいる。城跡が国の史跡、江戸時代に建造された天守や二重櫓などが国の重要文化財に指定されている。城のあった臥牛山(松山)は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。海抜約430メートルの臥牛山小松山山頂の本丸へは、麓の御根小屋から約1,500メートル、1時間ほどの道のりの山道を経て至る。
 江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓に御根小屋という御殿を構え、そこで藩主の起居・藩の政務を行った。
 現在は城跡が国の史跡に指定され、江戸時代に建造された天守、二重櫓、土塀の一部が国の重要文化財に指定されている。そのほかに石垣、復元された櫓、門、土塀が現存する。日本三大山城の一つとされる。御根小屋の跡地には高梁高校がある。
 仁治元年(1240)、秋葉重信が備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築いた。元弘年間(1331)、高橋宗康が小松山まで城を拡張した。
城主は時代と共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷する。戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった(現在も石垣の一部が残る)。
元亀元年(1570)には元親が備中に兵を進めた宇喜多直家を迎え撃つ為に出撃した際に、直家と通じた庄高資・庄勝資親子に松山城を占拠されるという事態が起こったが、翌元亀2年(1571)2月に穂井田元清の協力の元で庄高資を討ち、松山城を奪還した。天正2年(1574)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。備中兵乱の後、毛利氏の領有となった。
 近世を通じ、城主は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、最後の城主は板倉氏であった。慶長4年(1600)関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗れた後、徳川幕府が城番(小堀正次・政一)を置いた。この頃、麓に御根小屋が築かれた。
 元和3年(1617年)、池田長幸が入城し、6万3千石で立藩するが、寛永18年(1641)、2代長常が嗣子なく没したため同家は廃絶。備後福山藩主の水野勝成家臣が城番となった。 翌寛永19年(1642)、水谷勝隆が5万石で入封。2代勝宗は天和元年(1681) - 天和3年(1683)にかけて天守建造など3年にわたる大修築を行い、城は現在の姿となった。しかし、3代勝美は嗣子なく元禄6年(1693)10月に死去。その養子となった勝晴はわずかヶ月後の同年11月に13歳で早世し、水谷家は断絶した。
 水谷家断絶後は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となった。元禄8年(1695年)、安藤重博が6万5千石で入封するが、正徳元年(1711)に転封。同年、石川総慶が6万石で入封した。延享元年(1744年)、石川氏が転封になると、板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いた。
 慶応4年1月18日戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった陽明学者山田方谷の決断で無血開城した。 明治6年(1873)廃城令が公布され、御根小屋は取り壊された。また、山上の建物は放置され次第に荒廃していった。
昭和初期に山上の建物が修復され、昭和16年(1941)には天守、二重櫓、三の平櫓東土塀が国宝保存法に基づく国宝(旧国宝、現行法の「重要文化財」に相当)の指定を受ける。
昭和25年(1950)文化財保護法の施行により天守、二重櫓、三の平櫓東土塀が国の重要文化財に指定される。昭和31年(1956)国の史跡に指定される。
2006年4月6日、日本100名城の68番に選定された。 松山城の天守は、構造などは不明であるが毛利氏時代から、小堀氏が城番で入城する慶長の間にはすでに存在していたと考えられている。 現在見られる天守は、天和元年(1681年)に2代水谷勝宗が造営したとされるが、慶長5年(1600)に小堀政次、政一が建てたものを、2代水谷勝宗が改修し、現在のような姿になったともいわれている。

1.四の平櫓(ひらやぐら)方面へ向う!
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2.三の平櫓跡
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3.四の平櫓方面へ
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4.同上
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5.四の平櫓跡
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6.二の丸方面へ向う
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7.歌碑
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8.備中松山城駒札
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9.天守閣と附随の建物を見る!
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10.六の平櫓門から天守閣を見る!
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11.天守閣
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12.平成の天守復元図
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13.天守閣を登る
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14.天守閣構造図
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15.天守に上る
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16.御社壇と駒札
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17.天守から見る紅葉
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18.天守には囲炉裡(いろり)が有ります!
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19.下山、八の平櫓跡
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20.下山
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21.天守を振り返って見る!
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22.城内の紅葉
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2013/12/18

山陽の文化財・史址を見る!3.日本三大山城の一つで日本で一番高所の天守閣を持つ備中松山城2−1!  文化財研修記

 松山城(まつやまじょう)は岡山県高梁市内山下にあった山城である。別名、高梁城(たかはしじょう)。国の史跡で日本100名城の一つ。四国の愛媛県松山市にあった松山城 (伊予国)との混同を避けるために、一般的には「備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)」と呼んでいる。城跡が国の史跡、江戸時代に建造された天守や二重櫓などが国の重要文化財に指定されている。城のあった臥牛山(松山)は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。海抜約430メートルの臥牛山小松山山頂の本丸へは、麓の御根小屋から約1,500メートル、1時間ほどの道のりの山道を経て至る。
 江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓に御根小屋という御殿を構え、そこで藩主の起居・藩の政務を行った。
 現在は城跡が国の史跡に指定され、江戸時代に建造された天守、二重櫓、土塀の一部が国の重要文化財に指定されている。そのほかに石垣、復元された櫓、門、土塀が現存する。日本三大山城の一つとされる。御根小屋の跡地には高梁高校がある。
 仁治元年(1240)、秋葉重信が備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築いた。元弘年間(1331)、高橋宗康が小松山まで城を拡張した。
城主は時代と共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷する。戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった(現在も石垣の一部が残る)。
元亀元年(1570)には元親が備中に兵を進めた宇喜多直家を迎え撃つ為に出撃した際に、直家と通じた庄高資・庄勝資親子に松山城を占拠されるという事態が起こったが、翌元亀2年(1571)2月に穂井田元清の協力の元で庄高資を討ち、松山城を奪還した。天正2年(1574)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。備中兵乱の後、毛利氏の領有となった。
 近世を通じ、城主は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、最後の城主は板倉氏であった。慶長4年(1600)関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗れた後、徳川幕府が城番(小堀正次・政一)を置いた。この頃、麓に御根小屋が築かれた。
 元和3年(1617年)、池田長幸が入城し、6万3千石で立藩するが、寛永18年(1641)、2代長常が嗣子なく没したため同家は廃絶。備後福山藩主の水野勝成家臣が城番となった。 翌寛永19年(1642)、水谷勝隆が5万石で入封。2代勝宗は天和元年(1681) - 天和3年(1683)にかけて天守建造など3年にわたる大修築を行い、城は現在の姿となった。しかし、3代勝美は嗣子なく元禄6年(1693)10月に死去。その養子となった勝晴はわずかヶ月後の同年11月に13歳で早世し、水谷家は断絶した。
 水谷家断絶後は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となった。元禄8年(1695年)、安藤重博が6万5千石で入封するが、正徳元年(1711)に転封。同年、石川総慶が6万石で入封した。延享元年(1744年)、石川氏が転封になると、板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いた。
 慶応4年1月18日戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった陽明学者山田方谷の決断で無血開城した。 明治6年(1873)廃城令が公布され、御根小屋は取り壊された。また、山上の建物は放置され次第に荒廃していった。
昭和初期に山上の建物が修復され、昭和16年(1941)には天守、二重櫓、三の平櫓東土塀が国宝保存法に基づく国宝(旧国宝、現行法の「重要文化財」に相当)の指定を受ける。
昭和25年(1950)文化財保護法の施行により天守、二重櫓、三の平櫓東土塀が国の重要文化財に指定される。昭和31年(1956)国の史跡に指定される。
2006年4月6日、日本100名城の68番に選定された。 松山城の天守は、構造などは不明であるが毛利氏時代から、小堀氏が城番で入城する慶長の間にはすでに存在していたと考えられている。 現在見られる天守は、天和元年(1681年)に2代水谷勝宗が造営したとされるが、慶長5年(1600)に小堀政次、政一が建てたものを、2代水谷勝宗が改修し、現在のような姿になったともいわれている。

1.城下町から自家用車で臥牛山の備中松山城への駐車場へ上る!
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2.無料の駐車場にある看板
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3.駐車場から徒歩で登山だ!頑張る浜ちゃんだ!
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4.更に登る!
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5.途中の登城心得の札
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6.備中の山々
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7.あと500メートルの登山だ!
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8.途中の出丸の城壁へたどり着く!
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9.見事な出丸の城壁
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10.出丸の櫓跡
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11.出丸からの遠望
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12.下記をクリックして、「音声付動画」で備中の山々の景色を見て下さい!
http://youtu.be/T9dl0Wz9_XM

13.更に大手門目指して登る!
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14.国重文の大手門の城壁に至る!
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15.大手門の碑
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16.国重文の大手門跡
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17.更に四の平櫓(ひらやぐら)を目指す!
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2013/12/16

山陽の文化財・史址を見る!2.備中高梁市の松山城下町を歩く!  文化財研修記

臥牛山南麓に広がる備中松山の城下町。その中で石火矢町は武家の町として営まれ、今も格式ある門構えの武家屋敷が250mに渡って立ち並んでおり、岡山県のふるさと村の指定を受けています。路地の両脇には白壁の長屋門や土壁が続き、当時の生活の面影を色濃く残っています。この一角には武家屋敷旧折井家・旧埴原家が公開されており、武家の住まいを詳細に再現しているほか、資料館ではゆかりの武具などを展示しています。
次いで城下町の本町・川端町の旧商家棟、資料館、醤油製造場から成り、高梁を代表する商家であった。 池上家は、享保年間にこの地で小間物問屋「立花屋」を始めました。明治28年8代の当主池上長右衛門の時醤油の製造販売を始め昭和37年に閉業。現在残る建物は天保の大火災の後、天保14年に7代目当主によって建てられ、一部大正時代に改築させられたものです。

1.石火矢町(いしひやちょう)の駒札
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2.元武家屋敷門(映画の寅さんの撮影が行われた屋敷です!)
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3.同上 庭園を外から見る!
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4.元武家屋敷門
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5.同上
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6.同上
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7.同上  後ろの山の上に日本三大山城の一つで日本で一番高い所で天守閣をもつ備中松山城があります。
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8.城下町高梁市本町の駒札
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9.元醤油屋で池上邸「現在は資料館」
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10.見事な醤油樽
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11.母屋から内庭を見る
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12.内庭
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13.同上
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14.同上
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15.高梁川支流と高梁恵比須宮
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16.高梁川支流を見上げる!
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17.第86国立銀行跡・中国銀行発祥の地碑
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2013/12/14

山陽の文化財・史址を見る!1.備中高梁市の国名勝庭園を持つ頼久寺!  文化財研修記

 岡山県高梁市頼久寺町18番地にある頼久寺(らいきゅうじ)はる臨済宗永源寺派の寺院です。山号は天柱山。本尊は聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)。備中西国第五番札所、瀬戸内観音霊場第十三番札所となっています。創建は定かでないが、暦応2年(1119)、足利尊氏により再興され、備中国の安国寺とされた。当時、中国より帰国した寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とする。永正年間(1504 - 1521)、備中松山城城主、上野頼久が大檀越となり寺景を一新した。大永元年(1521)、頼久が逝去したので、その2文字を加え、寺号を安国頼久寺に改称する。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで東軍についた功により小堀正次が備中国1万4千石に封じられ、慶長9年(1604)に逝去したため子の政一(小堀遠州)が遺領を継いだ。この頃の備中松山城は備中兵乱後で荒廃していたため、政一は頼久寺を仮の居館とし、元和5年(1619)の移封までここで過ごした。境内の庭園はこの頃の政一(遠州)により作庭されたもので、蓬莱式枯山水庭園である。愛宕山を借景に白敷砂の中央に鶴島、後方に亀島の2つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現している。このような築庭様式は、安土桃山時代から江戸初期にかけて盛んだったもので、現在まで当時に近い状態で保存されているのは貴重であるとされ、昭和49年に国の名勝に指定された。頼久寺庭園(国名勝)、絹本著色釈迦三尊像(重要文化財)、絹本著色寂室元光頂相(岡山県指定重要文化財)がある

1.頼久寺
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2.同上 駒札
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3.見事な山門
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4.本堂
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5.本堂内の禅画の衝立
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6.同上
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7.本堂内の須弥壇(仏壇)
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8.頼久寺庭園
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9.同上
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10.同上
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11.同上
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12.庭園の駒札
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13.下記をクリックして、「音声付動画」で国名勝頼久寺庭園を見て下さい!
http://youtu.be/SSdKX8bnTis

14.庫裡
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