2013/9/12

紀州の文化財・史址を見る!15.高野山の珍しい摩尼宝塔から奥之院へ向う!6.  文化財研修記

 摩尼宝塔(まにほうとう)は日本でも数少ない八角形のお堂です。ビルマのパゴダは殆どが円形ですが、そのビルマのパゴダを表すものとして八角形になっているのです。(八角形は、より円に近い形とされていますそして高野山では八角形のお堂はこの塔ひとつです。平成12年、塔内の壁にステンドガラスを施し、床にはミャンマーより取り寄せた大理石を使用するなどの大改修が行われました。霊峰高野の懐に抱かれるように聳える摩荷宝塔は、第二次世界大戦のビルマ作戦で、再び祖国の土を踏む事も無く、異国の山野に眠る戦没者の霊を慰めるために建立されたものです。
ビルマの戦いは苦しく悲惨なものでした。三十万の日本軍が戦い二十万近い将兵がたおれました。敵も死にビルマ人も戦いの犠牲となりました。
敵も味方も祖国のために戦い、数多くの悲しみを残して終わった戦争をいつまでも語り、忘れないために写真や遺品を展示し、戦没したすべての人々の鎮魂と共に世界恒久平和を祈る摩尼宝塔でもあります。(パンフレットより抜粋)

1.摩尼宝塔(高野山町のど真ん中にある朱色の建物は大変目立ちます。内陣、」地下なども参拝見学できます。)
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2.同上 内陣
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3.摩尼宝塔の建設に努力されたビルマ・日本の僧侶の石像
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4.高野山ガイドマップ(赤→が現在地です。)
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5.奥之院への表参道入口
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6.一の橋にある汗かき地蔵尊
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7.司馬遼太郎文学碑
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8.熊谷郎直実、左は平敦盛供養塔
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9.高野山石道の駒札
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10.中の橋方面に向う!
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2013/9/10

紀州の文化財・史址を見る!14.国宝の多宝塔を持つ金剛三昧院!5.  文化財研修記

 高野山金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は、建暦元年(西暦1211)、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝公の菩提を弔うために、その妻で尼将軍としても名高い、鎌倉二位禅尼・北条政子が創建しました。始めは禅定院と称しており、落慶法会には、日本臨済宗の開祖である、明庵栄西禅師を請じ入れ、開山第一世としました。承久元年(1219)、三代将軍実朝公の逝去にともない、その遺骨を納め、禅定院を金剛三昧院と改めました。かくして、幕府の重臣安達景盛が建立奉行となって堂塔の増建を進め、大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂など、一大伽藍を造営し、数多くの子院を建立しました。
 天福2年(1234)、初代の長老に、栄西禅師の高弟で鎌倉将軍家の優れた僧であった、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)上人が任ぜられ、密教・禅・律の三宗兼学の道場となりました。そして後には浄土教も兼学し、一山において特殊とも言える教学を宣揚しました。以後12代住職である實融上人までは、禅宗系の住持が長老を務めてきました。
 当院を作った奉行の一人、願性(俗名葛山景倫)は、安貞元年(1227)に興国寺(和歌山県由良町)を創建、そして住職、心地覚心(法燈国師)のもとに下山し、臨済宗妙心寺派であるこの寺に、禅宗の機能を移しました。
 それ以降、当院は高野山真言宗の寺院として続いています。
 嘉禎4年(1238)、足利義氏は政子の13回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納めました。
 弘安4年(1281)、北条時宗は秋田城介安達泰盛を奉行に任じ、院内に勧学院・勧修院の二院を造営、僧侶の学道研鑽の道場としました。勧学院は、文保2年(1318)、後宇多法皇の院宣により、伽藍蓮池の東隣に移建されましたが、ここで執り行われた勧学会は高野山学道の中心となり、今日に至るまで連綿と伝持されています。
その後も、幕府の手厚い保護を受け、源家の他、北条・足利・安達等の有力な武家の帰依がことのほか篤く、各氏の菩提寺となり、事実上,山内諸寺院を統轄する有力な寺院に発展しましiた。
 寺領も山内寺院中最も多く、河内国讃良(ささら)荘、筑前国粥田(かいた)荘、美作国大原保、紀伊国由良荘、和泉国横山荘など、諸国の荘園は15ヵ所・10万余石に達しました。また、醍醐天皇の御臨幸(天皇陛下にご同行して、その場に向かうこと)を始め、皇族・公家の参籠、武将の来院も多く、高野山内格式随一といわれ、第56世長老の現在に至っています。(当山HPより抜粋掲載。)

1.金剛三昧院の標柱
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2.山門
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3.山門の扁額
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4.方丈前
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5.本坊等を見る!
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6.国重文の経蔵と左は有名なシャクナゲ!(この経蔵は鎌倉時代には珍しい校倉造(あぜくらつくり)・寄棟の構造です。)
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7.駒札
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8.国宝の多宝塔(石山寺の多宝塔に次いで古い。北条政子が源家菩提の為、貞応2年(1223)に建立したものです。)
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9.もう一度方丈を見る!
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2013/9/8

紀州の文化財・史址を見る!13.高野山の国重文の御社・山王院4.!  文化財研修記

 西塔に向って左側には国重要文化財の御社(みやしろ)山王院本殿がある。この地に丹生明神と高野明神が伽藍鎮守の神として祭祀されている。紀州の文化財・史址を見る!第5回丹生官省符神社で少し弘法大師との関係を述べたが現在の社殿は天正11年(1583)再建。極彩色・春日造りの2社(丹生明神、・高野明神)三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせたなたうくり)の十二王百二十伴神(ばんじん)を合祀した総社からなっている。弘法大師が弘仁10年(819)勧請したとされているが、実際は10世紀後半に雅真(がしん)が勧請されたとされる。拝殿の山王院本殿は両側面向拝(こうはい)付入母屋造りで文禄3年(1594)の再建。創建は11世紀中頃とみられ、鎮守の神を「山(やま)の神(かみ)」として拝することからこの名が付いたとされる。

1.国重文の山王院本殿(詳細は上記に掲載。)
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2.国重文の御社(みやしろ)(詳細は上記に掲載。)
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3.同上をアップで見る!
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4.御社・山王院の駒札
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5.六角経蔵(平治元年(1159)に鳥羽上皇の皇后美福門院が追善菩提に建立した6角6面の堂で、現在のものは昭和8年(1933)再建のものです。)
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6.蓮池を見下ろす!
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7.蓮池の中の島の善女龍王社への太鼓橋
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8.大師教会(だいえどう、大会堂とも呼ばれており、安元元年(1175)鳥羽上皇菩提の為に皇女五辻斎院頌子内親王が法輪院谷に建立したのが、始まりで現在の建物は嘉永元年(1848)再建のものです。)
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9.大師教会前の石像と碑
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10.大駐車場前の常喜院赤地蔵尊
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2013/9/6

紀州の文化財・史址を見る!12.高野山根本道場の根本大堂・金堂・西塔など。3!  文化財研修記

弘法大師空海は高野山を開創するにあたり、密教独特の伽藍を構想されており、それは金堂(講堂)を中心に東西に多宝塔を建立するという壮大なものでした。 特に東側に位置する多宝塔(大塔)は、高さ16丈(約48.48メートル)もの巨大な建造物で創建年代は貞観18年(876)、弘法大師在世中には完成を見ず、高野山第二世真然大徳(804〜891)の代に落慶したと伝えられ、いつの頃からか「根本大塔」と呼ばれるようになりました。
 大塔は創建当初から近世まで、落雷等による火災との戦いであったといっても過言ではありません。記録に残っているだけでも5度焼失しており、その度に建て替えられてきました。
 現在の建物は、京都帝国大学教授天沼俊一博士(1876〜1947)、国会議事堂の設計にも関与した武田五一博士(1872〜1938)、古社寺修理監督の大浦徳太郎建築技師などにより設計監修され、昭和12年(1937)に完成しました。 当初の設計段階にあたっては、従来通り総木造建築とされていましたが、昭和元年の金堂焼失や大塔の過去の経緯から抗火性と耐震に最重点を置き、鉄骨・鉄筋コンクリート造りとし、外装のみ木材朱塗りの建物となりました。総高約48.5メートルといわれています。中央には本尊の胎蔵界大日如来を中心に金剛界四仏を安置して、真言密教の中心となっています。16本の柱には堂本印象の16大菩薩が描かれています。

1.大塔の鐘(高野四郎名で親しまれて居る鐘で、現存のものは天文41年(1547)の鋳造で直径7尺(231センチメートル余)重量約6トンもある。
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2.根本大塔(大伽藍、説明は上記に掲載しています。)
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3.根本大堂の駒札
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4.三鈷の松(さんこ(仏具の一つ)松葉が三3本という珍しい松で、大師が唐から持ち帰り、伽藍建立の地を占う為、お投げになった三鈷が掛かったといわれています。)
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5.金堂(高野山の総本堂で年中行事の殆どがここで勤修されます。現在の堂は昭和9年(1934)再建のものです。)
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6..御影堂(みえいどう、元は大大師の持仏堂であったがご入定後、実恵僧都が師の御影を安置する堂とした。毎年3月21日に一日のみ内拝できます。)
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7.准胝堂(じゅんていどう、光孝天皇の御願いを受けて真然が創建したとされる。西御堂・准胝観音堂とも呼ばれ、現在の建物は明治16年(1883)の再建で4間4面である。
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8.根本大堂を振り返って見る!
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9.西塔(仁和3年(887)光孝天皇の御願いでを受けて真然が創建した。現在の西塔は5間4面、高さ27.27メートルで天保5年(18349に再建されたものです。)
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10.西塔を斜めから見る!
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2013/9/4

紀州の文化財・史址を見る!11.高野山大伽藍の一つ国宝の不動堂2.!  文化財研修記

 高野山最古の不動堂の創建は建久8年(1197)鳥羽上皇の皇女、八条女院を願主として建立されたと伝え、その落慶導師(らっけいどうし)を一山の興隆に尽力した行勝(ぎょうしょう)上人(1130−1217)が勤めたとされています。不動堂の外観は、平安貴族の邸宅風で優美な趣を湛え、また四方から見た建物や屋根の形態がそれぞれ異なるなど、早くより注目され、昭和27年国宝に指定されました。明治41年(1908)には解体修理が施され、その折り、一心院谷から現在の地に移築されました。平成10年11月、全面解体保存修理が完了し、現在の建物の建立年代が鎌倉後期頃であることが推定されました。
 伽藍に移築される前の不動堂の写真本不動堂内部には、護摩を焚いたことによる煤や薫香等の付着が無く、住坊として使用された形跡も見当たらないことから、その目的等明確にならない部分も多いことがあげられます。ただ古来より、運慶作の八大童子像と本尊不動明王が祀られていたことから、「不動堂」と呼ばれています。
 主屋は正面三間、奥行四間で、その両側に脇室を設けています。堂内には木目漆塗に飾金具を打った須弥壇(しゅみだん)を置き、他の部材は素木で、天井は折上小組格天井としています。勾配のゆるい屋根は檜皮葺(ひわだぶき)となっています。金剛峯寺ホームページより抜粋。

1.金剛峯寺山門から蛇腹道(じやばらみち)を通り、根本大塔へ向います!
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2.先ず右手に国史跡の東塔が見えてきます!
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3.国史跡の東塔の駒札
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4.国史跡の三味堂(さんまいどう)の駒札
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5.三味堂
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6.大会堂(だいえどう、安元元年(1175)鳥羽上皇菩提のため、皇女五辻斎院頌内親王が法輪院谷に創建し、治承元年(1177)西行が奉行を務めて、現在地に移した。現在の建物は嘉永元年(1848)の再建で5間4面の桧皮葺です。)
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7.上記説明文の「国宝の不動堂」
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8.同上 駒札
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9.愛染堂
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10.同上 駒札
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2013/9/2

紀州の文化財・史址を見る!10.高野山真言宗総本山の金剛峯寺その1.大主殿!  文化財研修記

 現在の総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)主殿の寺の場所は真然大徳(しんぜんだいとく)のご住坊があったところでした。天承元年(1131年)10月17日には覺鑁(かくばん)上人が鳥羽上皇の勅許を得て小伝法院を建立され、その後の文禄2年(1593)には豊臣秀吉公が亡き母堂の菩提を弔うため、木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)に命じて建立されました。当時は、秀吉公の母堂の剃髪が納められたため、剃髪寺と名付けられたそうですが、のちにその名を青厳寺(せいがんじ)と呼び、応其上人の住坊となりました。その後は法印御房の住坊となり栄華を誇りましたが、再三の火災によって焼失し、現在の本殿は文久3年(1863)に再建されました。
 明治元年に行政官から青巌寺を金剛峯寺へ改号するよう指導されました。また、明治2年には古くからの高野山の管理制度を改めて総宰庁がおかれ、執政、副執政、参政、顧問、監司といった五役を設け、さらには隣接していた興山寺というお寺を庁舎として使用することになりました。その後、この二つのお寺は合併され、総本山金剛峯寺として現在に至っています。ちなみに、このお寺の住職は座主と呼ばれ、高野山真言宗管長が就任することになりました。
「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられ、東西30間(約60メートル)、南北約70メートルの主殿(しゅでん 本坊ともいう。重要文化財)をはじめ、座主居間、奥殿、別殿、新別殿、書院、新書院、経蔵、鐘楼、真然堂、護摩堂、阿字観道場、茶室等の建物を備え、寺内(じない)には狩野派の襖絵や石庭などが設けられ、境内総坪数48,2955坪の広大さと優美さを有しています。金剛峯寺HPより抜粋。

1.東山門を見る!
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2.東山門
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3.大主殿(だいしゅでん、又は大本堂)を東側から見る!
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4.同上  
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5.同上 西側から見る!大主殿の屋根はは桧皮葺で二つの天水桶が置かれています。
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6.大主殿の最上部の鳥衾(とりふすま)、鬼瓦、そして破風(はふ)に於いては三ツ花懸魚(げぎょ)を付け銅の見事な龍の彫刻がある大変珍しいものです。
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7.見事な大鐘楼
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8.金剛峯寺のかご塀とその駒札
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9.正面の山門を斜めから見る!
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10.正面山門
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