2013/9/30

紀州の文化財・史址を見る!24.熊野三山の一つ熊野那智大社!  文化財研修記

 熊野那智大社は、那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として栄華を極め、古来より多くの人々の信仰を集めました。今なお多くの参詣者が訪れ、熊野速玉大社・熊野本宮大社とともに熊野三山の一つです。
 467段におよぶ石段の上に建つ6棟からなる社殿(本殿)は、標高約500メートルに位置し、夫須美神(ふすみのかみ)を御主神としてそれぞれに神様をお祀りしています。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)とも言われる夫須美神は、万物の生成・育成を司るとされ、農林・水産・漁業の守護神、縁結びの神様また、諸願成就の神としても崇められています。
 社殿は、仁徳天皇の御世(317)に現在の位置に創建され、平重盛が造営奉行となってから装いを改め、やがて、織田信長の焼討に遭ったのを豊臣秀吉が再興しました。徳川時代に入ってからは、将軍吉宗の尽力で享保の大改修が行われています。
 境内には、日本サッカー協会のロゴにも用いられている“八咫烏(やたからす)”の烏石や、樹齢約850年の大楠が茂っています。
社殿並びに境内は、2004年7月、ユネスコの世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されました。当社HPより一部抜粋。
 現在の国重文の社殿は江戸時代末期の嘉永4年((1851)から安政元年(1854)にかけて建立されたものです。

1.凄い石段参道の一部
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2.第2の鳥居
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3.右手は手水舎で正面は拝殿
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4.拝殿
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5.下記をクリックして、「音声付動画」で2の鳥居や拝殿を見て下さい!
http://youtu.be/zzT4pkleo6g

6.宝物館(平安時代の古銅印、平安時代の女神座像、男神座像、古墳時代から江戸時代にかけて製作された奉納鏡88面など展示されています。)
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7.左側の第一社殿、第二社殿、第三社殿
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8.拝殿正面
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9.熊野那智大社駒札
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10.拝殿内陣参拝
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11.第四社殿、第五社殿、第六社殿
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12.樹齢850年の大くすのき
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13.境内から谷を見る!
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2013/9/28

紀州の文化財・史址を見る!23.熊野三山の一つ熊野速玉大社!  文化財研修記

 新宮市新宮1には熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)がある。熊野三山のひとつとして全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮です。今から約2千年ほど前の景行天皇58年の御世に、熊野三所権現が最初に降臨せられた元宮である神倉山から現在の鎮座地にお遷りになり、これより神倉神社の『旧宮』に対して『新宮』と呼んでいます。御祭神は、熊野速玉大神(いざなぎのみこと)・熊野夫須美大神(いざなみのみこと)を主神に、十二柱の神々を祀り上げ、新宮十二社大権現として全国から崇敬を集めています。
 特に、孝謙天皇の御世、日本第一大霊験所 根本熊野大権現の勅額を賜り、熊野三山の中でも逸早く『熊野権現』の称号を賜りました。「権現」とは仮に現われるの意味で、神様は御殿の中のもっとも清浄な奥処に鎮まりましますので、私達の目にはそのお姿を直接拝することができません。そこでお姿を仮に仏に変えて、現世に現われるという熊野権現信仰が広まっていきます。
 奈良朝末期にいたって、熊野速玉大神は衆生の苦しみ、病気を癒す薬師如来として過去世の救済を、また熊野夫須美大神は現世利益を授ける千手観音菩薩、家津美御子大神は来世浄土へ導く阿弥陀如来として崇敬され、山伏や熊野比丘尼によって熊野権現信仰は飛躍的な拡がりを見せ、全国に数千に及ぶ御分社が祀られるにいたりました。
 中世、熊野信仰の興隆にともない、皇室、公卿、武士中心から庶民信仰へと発展し、過去世救済、現世利益、来世加護を説く三熊野詣でこそ、滅罪・甦りへ の道であるとして、「蟻の熊野詣」の諺のごとく熊野街道は賑わったのです。
 第1殿の祭神は国宝の木造夫須美(ふすみ)大神座像、第2殿の祭神は国宝の木造熊野速玉大神であり、神宝殿には約1000点もの古神宝類が所蔵されています。

1.熊野速玉大社の標柱と参道
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2.佐藤春夫先生の句碑
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3.入口鳥居
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4.摂社八咫烏神社(やたカラスじんじゃ)
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5.八咫神社と手力男神社駒札
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6.神宝殿
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7.武蔵坊弁慶の駒札
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8.国指定天然記念物「梛(なぎ)の大樹」
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9.大禮殿
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10.鈴門
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11.拝殿
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12.下記をクリックして「音声付動画」で拝殿周辺を見て下さい!
http://youtu.be/ln1xESviQkw

13.拝殿正面
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14.熊野詣の碑
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2013/9/26

紀州の文化財・史址を見る!22.秦の始皇帝の命で不老不死の薬を求めて日本へ来た徐福の墓!  文化財研修記

 徐福公園(じょふくこうえん)は、和歌山県新宮市新宮7178番地にある、徐福を記念する公園である。元来この地には徐福の物とする墓があったが、平成6年(1994)の8月にそれを中心として今ではこの公園の目印ともなっている中国風の楼門を設置するなど、大々的に整備が行われ現在のような公園となった。
 伝承によると、徐福は秦の始皇帝に東方にある蓬莱・方丈・瀛州に不老不死の霊薬があると具申し、命を受けて財宝と共に数千人を従えて秦から東方に船出したというが、その内蓬莱に当たるのがここ新宮とされていて、徐福はその後新宮に住み着いたという。ここに住み着いた徐福とその従者たちは大陸からの文化や農耕、捕鯨や漁業に関する技術を新宮の人々に伝え、ここ新宮の地で歿したと伝わっている。
この公園にある徐福の墓は、江戸時代の元文元年(1736)に建立されたもので、紀州藩初代藩主である徳川頼宣が儒臣の李梅渓に「秦徐福之墓」の文字を書かせたものと伝わっている。
 徐福の墓新宮の古文書に元文元年(1736)付で「楠藪へ秦徐福の石塔立」と伝えられる。もとは和歌山藩初代藩主徳川頼宣が建立を目指したもので、藩の儒学者李梅渓に揮毫せしめたものと伝えられる。市指定文化財(史跡)。
 不老の池では7人の従者を象徴して7本の石柱があり、また7匹の鯉が飼われている。天台烏薬の木徐福の墓の脇には、徐福の求めた不老不死の霊薬の正体ではないかといわれる天台烏薬の木が植えられている。

1.徐福公園正面
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2.斜めから見る徐福公園入口
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3.公園内の売店
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4.公園内
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5.徐福像
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6.不老の池クリックすると元のサイズで表示します

7.徐福の墓の駒札
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8.同上
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9.徐福の墓
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2013/9/24

紀州の文化財・史址を見る!21.熊野三山の一つ熊野本宮大社!  文化財研修記

 熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)は和歌山県田辺市本宮町本宮にある神社。熊野三山の一つ。家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉、熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉とも)が主祭神です。明治4年(1871)に熊野坐神社(くまのにますじんじゃ)として国幣中社に列格し、1915年に官幣大社に昇格しました。宮司家は明治維新以降にまで京都府綾部市にあった綾部藩九鬼(くき)家が引き続いて、現在も菩提寺は綾部市の隆興寺にあります。
 現在の社地は山の上にあるが、明治22年洪水で流されるまで社地は熊野川の中州にあった。明治以後、山林の伐採が急激に行われたことにより山林の保水力が失われ、大規模な洪水が引き起こされ、旧社地の社殿は破損した。現在、旧社地の中州は「大斎原」(おおゆのはら)と呼ばれ、日本一高い大鳥居については前回説明しました。
「熊野権現垂迹縁起」によると、熊野坐大神は唐の天台山から飛来したとされている。熊野坐大神(家都美御子大神)は、須佐之男命とされるが、その素性は不明である。太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。
 熊野本宮大社の国の重要文化財・建造物は熊野本宮大社第一殿・第二殿(西御前・中御前)熊野本宮大社第三殿(証誠殿)熊野本宮大社第四殿(若一王子)の3棟でが指定されています。
 第一・二殿は入母屋造平入り、桁行5間、梁間4間で、正面に庇を付し、正面の2箇所に木階を設ける。内部は桁行3間、梁間1間の内陣とし、3室に分け、左右の室に熊野牟須美大神と速玉之男神をそれぞれ祀っています。第一・二殿の向かって右に建つ第三殿と第四殿は同規模・同形式で妻入り、正面は切妻造庇付き、背面は入母屋造の特異な形式とする。柱間は桁行(本建物の場合は側面)2間、梁間は正面は1間、背面は中央に柱が立ち2間としている。これらの社殿は明治22年の洪水では流出を免れ、現社地に移築されたものである。各建物は入母屋造屋根を用いる点、木割が太く、装飾の少ない簡素な構成とする点に特色があり、床下に連子窓を設けるなど、細部形式にも特色がある。社殿の形式や配置は中世の絵画資料にみられるものと一致し、古くからの形式を保持していることがわかります。他に三角縁神獣鏡(県指定文化財)16面など多くの奉納された文化財があります。

1.熊野本宮大社周辺マップ
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2.熊野本宮大社標柱、鳥居、八咫カラスの幡
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3.熊野大権現幟旗の参道
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4.参道左側にある「祓戸大神」
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5.手水舎
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6.石段参道を上る
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7.札所
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8.神門
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9.八咫カラス(由来)
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10.たらようの木駒札
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11.たらようの木
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12.熊野古道へ
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13.熊野古道の一部
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14.拝殿
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15.熊野本宮第一段の一部のが撮影できた!
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16.熊野本宮大社の公式サイトは下記をクリックして見て下さい!
http://www.hongutaisha.jp/

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2013/9/23

9月22日恒例の吉美地区市民大運動会が盛大に開催!  あやべの街

 9月22日(日)恒例の「吉美地区市民大運動会」が午前8時30分の入場行進から午後3時まで盛大に吉美(きみ)小学校グランドにて開催されました。主催は吉美公民館、共催は吉美地区自治会連合会、吉美老人クラブ、消防吉美分団、吉美小学校・同PTA、吉美保育園・同育友会でご来賓は塩見真理子綾部市議会副議長さん達でした。

1.入場行進1.
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2.入場行進2.
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3.入場整列
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4.四方重美吉美地区公民館長の開会の挨拶「天候をずっと心配して来ましたが好天に恵まれ良かったです。各町自治会対抗競技の内容も各役員さん達と相談して今年から大幅に変更しました。」
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5.井上隆史吉美小学校長の開会の話を熱心に聞く児童及び参加者
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6.全員でラジオ体操です!
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7.小学生3・4年90メートル競走、1・2年80メートル、5・6年100メートル走を終えて、親子競技s3・4年生と同PTAの親子でGo!
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8.老人クラブ会員対象「けつ圧測定」風船を御尻で割って走ります!
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9.親子競技1・2年生と同PTA「デカパン親子」大きなパンツに親子で入り走ります!
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10.親子競技5・6年生とPTA親子4名で長い竿を持って走りコーンを一周してゴールへ「キミはハリケーン」
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11.吉美保育園園児入場
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12.徒歩競走後、リズム「Vamola!キョウリュウジ」
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13.表現運動「きみっこ大冒険」1・2年生
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14.表現運動3・4年「吉美小ソーラン2013」
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15.組体操5・6年生
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16.全校競技「綱引き」
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17.マラソンスタート一般男子3,000メートル、一般女子2,000メートル(綾中いがさんが断トツ一位でした!)
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18.午後の部:全校生徒が4組赤・青・黄色・緑に分かれて「応援合戦」
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19.自治会対抗玉入れ!
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20.3・4年生ボール運びリレー
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21.自治会対抗「水運び」之は傑作!8自治会それぞれ色の違った水を茶碗で運んで一杯にします!
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22.わんぱく玉入れ!1・2年生
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23.之又傑作!自治会対抗競技!ビン釣り!プラスチックのビンを吊り上げて走ります!
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24.小学生5・6年全員リレー
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2013/9/22

紀州の文化財・史跡を見る!20.熊野本宮大社旧社地・大斎原!  文化財研修記

 熊野本宮大社の旧社地の神が舞い降りたという大斎原(おおゆのはら)。 熊野本宮大社はかつて、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中洲にありました。当時、約11万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の数倍の規模だったそうです。江戸時代まで中洲への橋がかけられる事はなく、参拝に訪れた人々は歩いて川を渡り、着物の裾を濡らしてから詣でるのがしきたりでした。音無川の冷たい水で最後の水垢離を行って身を清め、神域に訪れたのです。
 ところが明治22年(18889)の8月に起こった大水害が本宮大社の社殿を呑み込み、社殿の多くが流出したため、水害を免れた4社を現在の熊野本宮大社がある場所に遷座しました。
 かつて多くの人々の祈りを受け止めた大斎原には、流失した中四社・下四社をまつる石造の小祠が建てられています。
 大斎原は、現在の熊野本宮大社から500メートルほど離れています。熊野本宮大社から道路を隔てて、日本一の大鳥居(高さ約34メートル、幅約42メートル)が見えます。その背後のこんもりとした森が大斎原です。

1.無料駐車場から約450メートルを歩いていきます!無料駐車場から見る日本最大の大鳥居!
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2.途中の熊野本宮大社末社「産田社(うぶたしゃ)
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3.高さ34メートル、横幅42メートルの日本最大の大鳥居
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4.熊野本宮大社旧社地・大斎原(おおゆのはら)碑
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5.見事な手水鉢
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6.大鳥居の駒札
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7.音無川の大斎原水害の駒札
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8.音無川の河原
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9.大斎原の碑
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10.大斎原跡地
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11.日本最大の鳥居を潜り駐車場へ戻る!
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2013/9/20

紀州の文化財・史址を見る!19.高野龍神スカイラインから熊野本宮大社へ向う!  文化財研修記

 高野龍神スカイライン(こうやりゅうじんスカイライン)は、起点を和歌山県伊都郡高野町奥の院交差点、終点を田辺市龍神村(旧・日高郡龍神村)とする延長42.7km、全線2車線のスカイライン。 和歌山県と奈良県の県境の1,000メートル級の尾根に沿って延び、護摩壇山の近くを通る。昭和55年(1980)7月21日、和歌山県道路公社が管理する一般有料道路として供用開始。有料道路時代は、一部が奈良県にもまたがっていて、一般国道にもかかわらずなぜか日本道路公団が管理せず、奈良県にまたがる部分も含めて和歌山県道路公社が管理していた。平成15年(2003)10月1日に和歌山県が道路公社の債務残額を一括返済し、一般国道371号の一部として無料開放された。その背景としては、開通から一度も黒字化せず、その目処も立たなかったということも挙げられるが、来たる『紀伊山地の霊場と参詣道』の世界遺産登録に備えて、観光客、観光バスが自由に往来できる無料道路を確保するという理由が主たるものである。景観は優れており、幾重にもカーブが折り重なることから、20033年の無料開放後はドライブ・ツーリングの名所として、交通量は増大した。特に紅葉のシーズンには観光客であふれ、車が数珠つなぎとなる。その後、竜神温泉から425号線を通り十津川を渡り168号線から熊野本宮大社の故・大斎原(おおゆのはら)へ140キロのドライブです。

1.高野龍神スカイラインから高野山の山々を見る!
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2.下記をクリックして「音声付動画」で高野の山々を見て下さい!
http://youtu.be/xyHFgdpmxb4


3.花園アジサイ園
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4.道の駅「田辺市龍神ゴマタワー」
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5.現在地の地図
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6.下記をクリックして、「音声付動画」で護摩タワー近辺の山々を見て下さい!
http://youtu.be/aeXa3U7oaz4

7.国道425号線に入る!
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8.十津川に入る!
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2013/9/18

紀州の文化財・史址を見る!18・高野山の宿坊・大圓院!  文化財研修記

 高野山町には金剛峰寺を中心に123ヶ寺が、大學、高等学校も有りますが、驚いたことには宿坊が55ヶ寺もあることでした。精進料理で1泊夕食、朝食付で一人部屋和室が9,500円でした。高野山は過去2回参拝していますが宿坊に泊まるのは初めてでしたが、気さくな若いお坊さんのお世話で安心して、8畳和室を独り占めで楽しみました。精進料理も美味しくて写真撮り忘れてしまった次第です。
 最後にこの大円院のHPを掲載しますのでクリックして見て下さい。
この大円院は延喜年間)(901〜923)理源大師の開創で、もと多聞院と呼ばれていたが大檀那の立花宗茂公の法号大円院を殿を寺名とした諭旨です。
 当院の第8世住職は元平家の武将で斉藤時頼のの後身で、寺内に恋人の横笛が鶯となって来たという梅ノ木」や井戸があります。この物語とともに滝口入道が横笛の菩提を弔う為、自ら彫刻したという本尊阿弥陀如来像(撮影禁止ですがHP)で見れます!があり朝5時55分から45分の勤行をして朝食を頂きました。

1.大円院の駐車場より山門を見る!
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2.大円院玄関
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3.8畳の和室を一人で占有!(夕食、朝食とも若い坊さんが部屋へ運んでくれました、精進料理は美味で写真撮るの忘れて食べてしましました。)
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4.部屋の天女の掛軸
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5.部屋に供えつきの「滝口入道と横笛の本」表紙
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6.風呂も大変清潔で綺麗でした!(殆ど撮影禁止)最後の本院のHPで良い写真見て下さい!
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7.お土産に貰ったものですが、2,000円で家内安全祈願しました。
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8.大広間の襖絵は描き中で撮影可能でした。1。
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9.同上
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10.本堂前の「横笛の鶯が飛んで来た梅ノ木と横笛の井戸」
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11.本院の墓地は前回の「石田三成供養塔」のあたりです!本院のホームページは下記をクリックして良い写真等を見て下さい!
http://www.daienin.com/g/index.html

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2013/9/16

紀州の文化財・史址を見る!17.高野山奥之院7.!  文化財研修記

 寺院群の東端にある一の橋から中の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道沿いに無数の石塔が立ち並ぶ。御廟橋を渡ると空海入定の地とされる奥の院である。一番奥には空海が今も瞑想されている御廟があり、その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂がある。空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、今も高野山奥の院で生きていると信じている人もいる。「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのためである。
 奥の院参道に沿って並ぶ石塔の数は10万基とも10万基とも言われ、皇族から名もない人々まで、あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立した。日本古来の信仰では、山中は「他界」であり、死後の魂の行くところであった。高野山周辺には、人が死ぬとその人の頭髪を奥の院に納める「骨上せ」(こつのぼせ)という風習がある。こうした古来の山岳信仰に、弘法大師の永眠する土地に墓碑を建てたいという人々の願いが加わって、この石塔群が形成されたものと思われる。今回は中の橋から奥之院へ。

1.慶長4年(1599)島津義弘・中垣公が高麗の戦いの両国の霊を慰める碑の「駒札」
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2.同上碑
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3.芭蕉の発句碑
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4.安芸浅野家供養塔
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5.地蔵堂と結城秀康(越前松平家)石病
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6.豊臣家墓所
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7.織田信長公供養塔
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8.御廟橋
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9.水向地蔵の駒札
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10.水向地蔵
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11.右、燈籠堂、左は弘法大師の眠る奥之院(撮影禁止)
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2013/9/14

紀州の文化財・史址を見る!16.世界遺産高野山奥之院への道・中の橋付近6.!  文化財研修記

 高野山は、約1200年前の816(弘仁7)年に弘法大師空海が開いた真言密教の修行道場であり、高野山真言宗の総本山である。真言宗開祖である弘法大師空海が眠る奥の院は御入定のあと、その弟子たちによって、建てられた。高野山奥の院へは一の橋、中の橋の2つの参詣ルートがあり、今回は最短とされる中の橋ルートを選択。奥の院まで続く参道は樹齢数百年を越える杉木立が続き、数多くの歴史にゆかりのある人物の墓石や供養搭、祈念碑、慰霊碑が霊的な雰囲気をかもし出している。

1.中の橋付近の「武田信玄・勝頼供養塔」
クリックすると元のサイズで表示します駒札

2.同上供養塔
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3.弘法大師腰掛ヶ石
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4.紀州徳川家供養塔(吉宗公父上光貞公他)
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5.上杉謙信・景勝公供養塔
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6.伊達正宗公供養塔
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7.薩摩島津藩初代家久・二代光久公供養塔
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8.明知光秀公供養塔
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9.石田三成公供養塔(この付近の墓所地が小生が泊まった大円院の所有地です。)
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10.ご縁が有ったので泉州岡部藩供養塔
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