2013/7/16

畿内の文化財・史址を見る!43.僧行基が指導して作った久米田池の古刹・久米田寺!  文化財研修記

 久米田寺(くめだじ)は、大阪府岸和田市にある高野山真言宗の寺院で山号は龍臥山(りゅうがさん)院号は隆池院。本尊は釈迦如来です。
 この寺は、この地域は水に乏しかったため、聖武天皇が行基に命じ、神亀2年(725)から天平10年(738)にわたる14という歳月をかけてこの池を竣工し聖武天皇が当寺院に対して維持管理を命じ、院号を「隆池院」にしたと言われている。
 平安時代になると奈良興福寺一条院の支配下であった。平安時代後期、承久の乱により武士が乱入し荒廃した。鎌倉時代に入り安東蓮聖によって再興された。室町時代になると足利尊氏・直義兄弟により全国に設けられた安国寺のひとつに指定された。南北朝時代に入ると応仁の乱で当寺も寺領を脅す事も多かったが、南北朝時代の歴代天皇、皇族の帰依も深く、楠木正成とも密接で手厚い保護が与えられた。戦国時代の久米田の戦いや、安土桃山時代、織田信長の高屋城の戦いの兵火等によりほぼ焼失したが、永保2年(1674)には復興した。桜の季節には花見の名所となる。
 久米田池は現在周囲4キロメートル、面積6.2平方キロメートルもある。
また、この池を指して、「籠田(込田)」(田に籠めるもの = 水)と呼んだことから、のちに「久米田」に転じたとする説がある。
 池には、年間100種類以上の野鳥が訪れまた、絶滅危惧種のカワチブナ]の養殖も行われている。

1.大阪府指定史跡の岸和田市の久米田寺(くめだじ)山門(宝永3年(1706)再建)
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2.駒札
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3.金堂(明和7年(1770)再建)
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4.大師堂(文政7年(1824)再建)
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5.開山堂(文政5年(1822)再建)
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6.四つの塔頭の一つ五大院
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7.鎮守社の白龍弁財天
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8.白髭稲荷大明神
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9.鐘楼
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10.観音堂(享和3年(1803)再建)
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11.久米田寺多宝塔(平成15年(2003)再建のもの)
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2013/7/14

畿内の文化財・史址を見る!42.秀吉の根来攻略の前線基地であった見事な天守閣を持つ岸和田城!  文化財研修記

 大阪府岸和田市岸城町9−1には岸和田城(きしだじょう)がある、がいつ、誰によって建てられたのか詳しいことはまだわかっていませんが、戦国時代末期(16世紀半ば)には、当時泉州地区を治めた松浦氏のい居城となっていたという。
 織田信長の家臣津田信張・蜂屋由頼隆がしばらく在城した後、羽柴秀吉は家臣中村一氏を岸和田城主として、紀州の根来寺や雑賀衆への押さえとしました。一氏は紀州勢の大軍を相手にしろを守り抜き、天正13年(1585)、秀吉は岸和田城を拠点として根来寺を焼き討ちして、泉州地域から根来寺勢力を一掃しました。その後、秀吉は叔父の小出秀政を城主とし、秀政は城下町と城郭の整備にかかり、天守閣も秀政によって建てられました。
 豊臣氏滅亡後、松平(松井)氏二代を経て、寛永17年(1640)、摂津高槻から岡部宣勝が入城し、以後、明治維新まで岡部氏が13代にわたって岸和田藩5万3千石を治めました。江戸時代の岸和田城は、大阪の南の守りとして、幕府の西国支配に重要な役割を果たしました。 この間、文政10年(1827)、落雷によって天守閣は焼失し、以後長らく再建されませんでしたが、昭和29年鉄筋コンクリート造りで三層の天守閣が再建され、また昭和44年に城壁と櫓が再建されました。

1.掘りに映える岸和田城天守閣
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2.三の郭
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3.現在地
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4.本丸への道と大手門
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5.大手門を内側から見る!
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6.隅櫓
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7.甑用(こしきよう)大釜(お酒作りに使用します。
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8.岸和田合戦記念碑
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9.岸和田城天守閣(この場所は元隅櫓跡に天守閣が作られて、現在内部は岸和田市立資料館となっています。)
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10.本丸広場は現在庭園となっています!
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11.下記をクリックして、「音声付動画」で岸和田城を見て下さい!
http://youtu.be/P9K7lLp3Rys


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2013/7/12

畿内の文化財・史址を見る!41.岸和田だんじり祭で有名な岸城神社!  文化財研修記

 大阪府岸和田市岸城町11−30には天照皇大神、素盞嗚尊、品陀別命の三柱を御祭神とする岸城神社(きしきじんじゃ)がある。創建年代は不詳ながら往古より かつての和泉国南郡岸和田村のうち現在の宮本町・上町・五軒屋町の産土神として祀られてきた。 桃山時代、豊臣秀吉より岸和田3万石を与えられた小出秀政が、岸和田城内に社殿を築造した。 江戸時代はじめの元和5年(1619)に岸和田城主となった松平康重が、 寛永年間(1724〜43)に新たな社殿を建立し、春日大明神・愛宕大権現・天満天神の三社を勧請した。 その後、岡部宣勝が6万石で岸和田城主となった。万治4年(1661)、宣勝は廃壊していた社殿を修復、 彫物などで美しく飾り立てて再建した。以後、岡部氏代々の崇敬が厚く、氏子も宮座を組み祭祀を務めた。
明治の初め、「御宮」の名称で親しまれていた牛頭天王社と八幡社を合祀して「岸城」神社と改称、 岸和田城内の「神明門」附近にあった「神明社(神照太小社)」の社殿を現境内に移した。 岸城神社の神紋の「木瓜と橘」は、木瓜が「牛頭天王社」に、橘が「八幡社」に由来するものである。 明治6年(1872)郷社に列し、明治29年(1896)には旧藩民・氏子の奉賛により現在の境内が整備された。 ついで明治40年(1907)には神餞幣帛料供進社に指定され、 大正4年(1915)大工町にあった「蛭子神社(岸和田戎神社)」、大北町にあった「琴平社」を合祀 して、現在の二十ヶ町を氏地とする産土神社となった。
 岸和田だんじり祭は 古くは獅子舞や相撲、俄芸などが行なわれていたが、大坂の祭礼の影響を受け、次第に現在のような 地車曳行を中心とした祭礼へと変化していった。 岸城神社は村のお宮が城主の信仰するお宮となった歴史があり、「地車祭」も一時期城入りがメインと なっていたが、明治維新後の廃藩によって元岸和田村の産土神に戻され、 宮本町・上町・五軒屋町に加えて、新たに町と浜が氏子となり現在のような「だんじり祭」となった。 だんじり祭は岸城神社の最も重要な大祭であり、平成18年より「敬老の日」前日前々日の土・日曜日に 開催されています。

1.岸城神社と鳥居
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2.駒札
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3.手水舎
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4.二之鳥居と参道
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5.石燈籠と拝殿
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6.舞殿
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7.拝殿と本殿
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8.摂社稲荷大明神
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9.摂社戎神社駒札
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10.摂社戎神社
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2013/7/10

畿内の文化財・史址を見る!40.国宝の大塔を持つ新義真言宗総本山・根来寺!  文化財研修記

 根来寺(ねごろじ)は和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院。山号を一乗山と称し、詳しくは一乗山大伝法院根来寺と号する。本尊は大日如来、開山は覚鑁(かくばん、興教大師)である。
 平安時代後期の高野山の僧で空海以来の学僧と言われた覚鑁(かくばん)が大治5年(1130)に高野山内に一堂を建て、伝法院と称したことに始まる。鳥羽上皇は覚鑁に帰依し、荘園を寄進するなど手厚く保護した。2年後の長承元年(1132)、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院(みつごんいん)を建立した。さらに2年後の長承3年(1134)、覚鑁は金剛峯寺座主に就任し、高野山全体を統轄する強大な勢力をもつに至る。覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は対立しあうようになった。保延6年(1140)には、覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされるという事件が発生。覚鑁一門は高野山を下りて、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移した。さらに新たに円明寺を建て伝法会道場とする。豊福寺・円明寺を中心として院家が建てられ、一山総称としての根来寺が形成される。覚鑁は3年後の康治2年(1143)、円明寺で没する。それから1世紀以上後の正応元年(1288)、大伝法院の学頭であった頼瑜は大伝法院の寺籍を根来に移し、この頃から大伝法院の本拠地は高野山から根来(現在地)に移った。室町時代末期の最盛期には坊舎450を数え一大宗教都市を形成し、寺領72万石を数え、根来衆とよばれる僧衆(僧兵)1万余の一大軍事集団を擁した。また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られ、僧衆による鉄砲隊が作られた。織田信長とは石山合戦に協力するなど友好関係を築いたが、信長没後、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の戦いにおいて徳川方に通じ留守の岸和田城を襲ったほか南摂津への侵攻を図ったことで豊臣秀吉の雑賀攻めを招くこととなった。 生産地となった近在の雑賀荘の鉄砲隊とともに秀吉方に抵抗するが各地で敗れ、天正13年(1585)、秀吉軍は根来寺に到達。大師堂、大塔など数棟を残して寺は焼け落ちた。根来寺における戦いでは寺衆はほとんど抵抗を行わなかったため焼き討ちの必要性は薄く、炎上の原因は、秀吉による焼き討ち、寺衆による自焼、兵士による放火など多説あるが、定かではない。 大坂の陣で豊臣家を滅びた後、徳川家康によって秀吉が鶴松を弔うために建立した祥雲禅寺が根来寺に寄進された。江戸時代には紀州徳川家の庇護のもと一部が復興された。

1.根来寺境内図(非常に広大で見て廻るのが大変です!バスターミナルで大門を撮影しから、駐車場へ乗用車で移動しました。)
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2.根来寺大門(現在の大門は嘉永5年(1852)再建のもので、県指定文化財です。)
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3.鐘楼門
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4.手水舎
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5.光明真言殿(鐘楼門の正面には県指定文化財で文化元年(1804)再建のもの。)
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6.本坊
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7.本坊近くから大谷川を見下ろす!
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8.駒札
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9.納骨堂
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10.方向案内板
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11.駒札
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12.国宝大塔(根来寺多宝塔を横から見る!)
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13.左、大師堂(国重文)真中は大塔(根来寺多宝塔、国宝)、右は大伝法堂(県指定文化財)
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14.大塔(根来寺多宝塔、国宝)
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15.大伝法堂(県指定文化財、文政10年(1827)再建のもの)
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2013/7/8

畿内の文化財・史址を見る!39.西国第3番札所で粉河観音宗の粉河寺!  文化財研修記

 和歌山県紀の川市粉河2787には粉河観音宗(こかわかんのんしゅう)でご本尊を千手千眼観世音菩薩とする古刹・粉河寺(こかわでら)がある。
奈良時代末 宝亀元年(770)の開創で当時、紀伊国那賀郡に住む 猟師大伴孔子古(おおとものくじこ)は、いつも幽谷の樹幹に足場を定めて、夜ごと猪や 鹿を狙っていたが、ある晩、光明輝く地を発見、発心してその場所に柴の庵を建てた。
 後日、一夜を泊めてもらった童行者は、孔子古の願い(庵に仏像を安置すること)をかなえてやろうと、七日七夜、庵にこもり、等身の千手観音像を刻み立ち去った。
 その後時移り、河内国の長者佐太夫の一人娘が長患いしていた。そこへ童行者が訪ね来て千手陀羅尼を誦して祈祷、やがて娘の病は回復した。童行者は長者がお礼にと申し出た七珍万宝を断り、娘が捧げるさげさや(お箸箱)と袴のみを手に「紀伊国那賀郡粉河の者だ」とのみ告げて立ち去ったという。
 翌年春、長者一家は粉河を訪れたが、探しあぐねて小川の傍らで一休み、ふと流れる水が米のとぎ汁のように白いのに気がつき、粉河の証しであることを確信、さらにその川を遡り庵を発見した。扉を開けると千手観音が安置され、娘が差し出したさげさやと袴を持たれていたので、かの童行者は、実は千手観音の化身であったことが分かった。この開創の由来は、当寺所蔵の粉河寺縁起絵巻(国宝)等にて伝えられている。
 粉河寺は多くの人達の信仰をうけて繁栄し、鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ヶ坊、東西南北各々四キロ余の広大な境内地と寺領4万余石を有していたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、偉容を誇った堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失した。その後、紀州徳川家の庇護と信徒の寄進によって、江戸時代中期から後期に現存の諸堂が完成した。

1.粉河寺大門(国重文、江戸時代、規模の大きい三間楼門、総ケヤキ造り、金剛力士は仏師春日の作で像は桂の巨木から造られている。)
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2.同上 駒札
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3.右、阿形像
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4.左、吽形像
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5.粉河寺案内図
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6.童男堂(県指定文化財、江戸時代の廟建築を模しており、正堂と礼堂からなっており延宝7年(1679)の建立で当寺の本尊千手観音の化身である童男行者を祀っている。)
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7.仏跡石(文久3年(1863)作で、後方の石碑は江戸時代の傑僧願海上人に筆です。)
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8.出現池駒札
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9.出現池
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10.念佛堂
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11.阿弥陀如来坐像(露座像)
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12.太子堂
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13.市指定文化財の荷葉鉢
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14.中門(国重文で三間一戸の楼門で東西南北を四天王が護っている。)
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15.中門の四天王の内の一人、右側正面の多聞天像)
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16.芭蕉句碑
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17.本堂(国重文、現在の本堂は享年5年(172)の再建で、西国観音霊場33ヶ寺の中で最大である。)
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18.本堂の扁額等を見上げる!
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19.国指定名勝「粉河寺庭園」の一部
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20.下記をクリックして、「音声付動画」で粉河寺の六角堂、本堂、名勝庭園など見て下さい!
http://youtu.be/A0cjezf8qpk


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2013/7/6

畿内の文化財・史址を見る!38.和歌山県岩出市の古社で日本武尊を祀る大宮神社!  文化財研修記

 和歌山県岩出市宮75番地には日本武尊、三部権現、高皇産霊命、神皇産霊命、足産霊命、魂留産霊命、大宮比賣命、事代主命、生魂産命、御食津命(配祀神)、素盞鳴尊、天児屋根命、三筒男命、誉田別命、八衡彦命、八衡姫命、大己貴命、猿田彦命、大国主命、市杵島姫命、 天照皇大神、豊受大神など12神及び摂社を祀る大宮神社(おおみやじんじゃ)がある。
 当社は人皇43代元明天皇の御代和銅5年(712)勧請にして明治6年村社に加列、大正12年郷社に列せられる。
 日本武尊(熱田大明神)は尾張より勧請し、古くは東熱田の森に鎮座したのを此の地に遷座し旧社であるので世俗岩出の里神として崇敬する。
三部権現は康治元年(1142)興教大師が根来寺の開基に当り、其の守り神として祀られたもので、金剛部・仏部・蓮花部に分かれている。
 素戔鳴尊については出雲民族がこの地を開拓していた時、素戔鳴尊とその子五十猛命が天降りまして多くの樹種をまかれ、其の育った木が他国より優れていた事から、木の国と呼ばれ、それが紀伊の国の根源であり、郷土の神として祀られている。
其の他末社は明治の終り頃、10ヶ寺より合祀する。
当社の古くは東御旅所まで20丁、西御旅所まで40丁であったが、豊臣秀吉根来攻めの折社殿や、宝物類が悉く焼失領地も没収され現在はその10分の1になっている。
しかし其の名残りとして古くより齋刺(よみさし)と言う領地確認の為のおまつりがある。
 例祭の齋刺祭(よみさしまつり)10月第1土曜日昼、渡御・本殿での祭が行なわれ、獅子舞・稚児舞が奉納される。
夜には深夜渡御と呼ばれる祭祀があり、夜10時頃よりみそぎをし身を清め、11時30分神官と永年務めている先走りの者が「祓へ給え、清め給え」と唱えながらお渡りの道を清めていく。
12時にみさきと呼ばれる榊の木の御神体をかついだ者、金棒でそれを守る者等の本隊が東西に分かれ、お旅所へ走る。お旅所に着けば、御神体のみさきを御影石の台に立て、神事が執り行なわれる。終わりて榊の枝は人々に分けられる。


1.大宮神社鳥居
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2.摂社護国神社
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3.忠魂碑
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4.摂社五社(八幡大神など)
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5.摂社魔除獅子殿
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6.手水舎
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7.拝殿
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8.拝殿から本殿を見る!
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9.拝殿横から本殿を見る!
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10.摂社三部権現
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2013/7/4

畿内の文化財・史址を見る!37.国宝の八角円堂と梵鐘を持つ榮山寺!  文化財研修記

 栄山寺(えいさんじ)は、奈良県五條市にある真言宗豊山派の寺院で藤原武智麻呂により創建された。山号は学晶山(がくしょうさん)。本尊は薬師如来。奈良時代の建築である八角堂(国宝)と小野道風書の梵鐘(国宝)があることで知られている。
 現代の五條市にあたる地域は古代には阿陀郷と呼ばれた。「阿陀」の地名は『万葉集』にも見え、式内社(『延喜式神名帳』に記載された神社)の阿陀比売神社(あだひめじんじゃ)があるなど早くから開けた地域であったと思われる。
 栄山寺は古くは前山寺(さきやまでら)と呼ばれ、藤原不比等の長子である武智麻呂が養老3年(719)に創建したと伝わる。その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄えた。南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていた。そのため「栄山寺行宮跡」として国の史跡に指定されている。
 現存する八角堂は、藤原武智麻呂の没後、子の藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝える。武智麻呂の墓は当初は佐保山(奈良市街地北部の丘陵地)にあったが、天平宝字4年(760)、栄山寺北側の山上に改葬された。八角堂(国宝)の建立時期はこの年から仲麻呂の没した天平宝字8年(764)までの5年間に絞られる。正倉院文書に天平宝字7年(7763)12月20日付けの「造円堂所牒」(ぞうえんどうしょちょう)という文書があり、この「円堂」は栄山寺八角堂を指すものと考証されている。国宝の梵鐘には「延喜十七(917)」の銘があり、銘文は菅原道真撰、小野道風書と伝えられている。南北朝の時代南朝3代の天皇が滞在したところから、栄山寺行宮跡として国の史跡指定されている。
 栄山寺は役小角の修行地とも伝えられ修験道にも関係があったが戦国時代末期には八角堂を除く堂坊を焼失した。その後、本堂、阿弥陀堂、塔ノ堂が再建され、さらに塔頭六宇が再建された。寺は元来は興福寺の末寺であったが江戸時代初期に一時無住寺となり、その後泉涌寺雲龍院(京都市東山区)の末寺となり、さらに護国寺(東京都文京区)の末寺となった。

1.栄山寺駒札
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2.栄山寺の歌碑(寺のいたる処に歌碑があります。)その一例「さるときは八重一となき桜かな」当地五条出身の石工の成功者・落合亭慶丸が明治31年2月25日還暦での寄贈歌碑!
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3.国宝の梵鐘蔵
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4.国宝梵鐘の駒札
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5.国宝の梵鐘(青銅製で高さ157.4センチ、口径89センチ、京都神護寺、宇治平等院の鐘と共に平安三絶の鐘とされています。)
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6.七重石塔婆(国重文で奈良時代の建立で、我国でもっとも古い石造塔の一つで総高350センチ、石質疑石灰岩です。)
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7.国重文塔之堂(大日堂)駒札
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8.同上 正面から見る!
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9.堂内(右は弘法大師像、真中は観世音菩薩像
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10.堂内、左側は不動明王
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11.本堂(薬師堂)(堂内には国重文の木造漆箔、永享3年(1431)寄木造の薬師如来坐像と護る国重文の十二神将像が祀られています。又、本堂前の石灯篭は弘安7年(1455)の銘がある総高243センチのいわゆる栄山寺形灯篭があります。)
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12.国宝の八角円堂(外観は平面八角形ですが、内部の身舎(もや)は四角形で内陣周囲にはは八角柱が4本で支え、四方は板扉、連子窓です。)
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13.鎮守社の小島町御霊神社駒札
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14.同上 鳥居(この神社は栄山寺境内にあります!)
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15.同上 拝殿を見上げる!
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2013/7/3

畿内の文化財・史址を見る!36.西国観音霊場第6番札所で天竺インドよりの壺阪大仏を持つ壺阪寺!  文化財研修記

 奈良県高市郡高取町壺阪3には壺阪寺がある。大宝3年(703)に元興寺の弁基上人が修行していた所で、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した像を刻んで祀ったのが始まりと言う。
寺の宗派は真言宗、西国33ヶ所第6番札所でもあり、壺阪は山号で、正式には平等王院南法華寺という。
 南に桜の名所・吉野山、北に大和三山の奈良盆地・飛鳥を一望におさめる標高300mの丘に建っている。ここは、仁王門を通って石段を登ると三重塔が建ち、その奥に礼堂(らいどう)と本堂があり、付近には阿弥陀堂・弁天堂・権現堂・鐘楼・納札堂・多宝塔などの堂宇がある。
また、高台には、本寺の医療支援に対する返礼として、インドで作られ寄進された20メートルの観音像が立っている。
 本尊の大きな千手観音は目の病に効験があると信じられてきて、お里・沢市の説話「壺坂(阪ではない)霊験記」で広く知られており、八角の本堂に安置されている。
壺阪寺は、枕草子や今昔物語集などに登場しているて、平安時代から吉野・長谷とともに南大和の名所であったそうです。
白鳳の瓦が出土することから大宝3年の創建はほぼ間違いないと言われている。何回か火災にあっているが、現存の三重塔(重文)は室町時代に再建されたもので、礼堂(重文)も同じ頃に建てられた。その他の堂宇は高取藩は成立した江戸時代初期のものです。
 壺坂霊験記とは300年以上も前、寺の近くに住んでいて、目の病で見えなくなった座頭の沢市は、三つ違いの女房・お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた。しかし、3年前から、お里が毎夜そっと家を出て行くのを怪しみ、男に会いに行くのであろうと邪推し、お里を問い詰めた。お里はそれを悲しみつつ、壺坂観音に沢市の目が治るようにと願をかけていることを打ち明けた。 疑ったことを恥じた沢市にも一緒にお詣りに行くことにした。しかし、妻の幸せを思うと自分などいない方がよいと思い、谷に身を投げてしまう。それを知ったお里もあとを追って身を投げるが、壺坂観音の霊験で二人とも助かり沢市の目も治った。
この説話を浄瑠璃では、「三つ違いの兄さんと・・・」、浪曲では「妻は夫をいたわりつ、夫は妻を慕いつつ・・・」という名文句が生まれたと言う。

1.壺阪寺(南法華寺)駒札
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2.参拝道、左の石像は天竺インド渡来の第一番「聖観音像(第1番〜13番まであります。)
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3.仁王門
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4.仁王門の右側の阿形像
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5.仁王門左側の吽形像
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6.仁王門から本堂方面を見上げる!
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7.左、灌頂堂で右は多宝塔
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8.天竺インドから渡来の第2番「壺阪大仏」、右は第3番千手観音石像、左は象に乗った普賢菩薩石像!
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9.第7番の十一面千手観音像
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10.明応6年(1497)再建の国重文の三重塔
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11.明応6年(1497)再建の国重文の礼堂
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12.第8番の眼鏡供養観音石像
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13.仏伝図レリーフの最後の一部
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14.再度壺阪大仏を見下ろす!
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2013/7/2

畿内の文化財・史址を見る!35.日本三大文殊第一霊場・安倍文殊院!  文化財研修記

 安倍文殊院(あべもんじゅいん)は奈良県桜井市にある華厳宗の寺院である。山号は安倍山。本尊は文殊菩薩。開基(創立者)は安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)である。切戸文殊(京都府宮津市)・亀岡文殊(山形県高畠町)とともに日本三文殊に数えられる。宗教法人としての公称は文殊院です。
 大化の改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の氏寺として建立されたとい言われ、創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところであり、鎌倉時代に現在地に移された。旧寺地(桜井市安倍木材団地1丁目)は「安倍寺跡」として国の史跡に指定され、史跡公園として整備されている。発掘調査の結果、安倍寺は東(右)に金堂、西(左)に塔が建つ法隆寺式伽藍配置をもっていたことがわかり、出土した古瓦の様式年代からも創建が7世紀にさかのぼる寺院跡であると見られる。「東大寺要録」巻6には、東大寺の末寺の1つである「崇敬寺」が安倍倉梯麻呂の建立であることと、「崇敬寺」の別名が「安倍寺」であったことが記載されている。当院では陰陽師・安倍晴明が陰陽道の修行をしたともいわれ、平成12(2000)には安倍晴明堂が建立されている。
 本堂は寛文5年(1665)に建立された建物で、快慶作の木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像が安置されている。金閣浮御堂(仲麻呂堂)は昭和60年(1985)に建立された文殊池の中に建つ金色の六角堂で、安倍仲麻呂像、安倍晴明像などを祀る。
 又、 文殊院西古墳(特別史跡)文殊院西古墳(特別史跡)で本堂近くにある7世紀中頃の古墳で、豪族安倍(阿倍)氏一族の墓であることはほぼ確実視され、安倍倉梯麻呂の墓であるともいわれる。古墳の原状は不明だが、径25メートルほどの円墳であったと見られる。横穴式石室が露出しており、切石造石室の代表的なものとされている。文殊院東古墳7世紀前半に築造されたといわれる古墳で、古来から閼伽井窟(あかいくつ)と呼ばれ、信仰の対象とされてきた。
 文化財としては国宝としては木造騎獅文殊菩薩及び脇侍1、4躯(附:仏頂尊勝陀羅尼・文殊真言・文殊種子1巻、木造最勝老人立像1躯)鎌倉時代を代表する仏師快慶の作で「知恵の文殊」として親しまれている。巨大な獅子にまたがる総高約7メートルもある文殊菩薩像を4体の脇侍像が取り囲む文殊五尊像である。文殊五尊像の脇侍は、通常、善財童子、優填王(うてんおう)、最勝老人、仏陀波利三蔵と呼ばれるが、文殊院では「最勝老人」にあたる像を「維摩居士」、仏陀波利三蔵にあたる像を「須菩提」と称しています。これらは全て国宝の像です。

1.鐘楼
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2.伊勢神宮への大道標
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3.本堂(この本堂の中には上記説明文の通り鎌倉時代の快慶作の7メートルもある巨大な国宝の渡海文殊菩薩群像が祀れています。)
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4.本堂の駒札
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5.文殊池と金閣浮御堂
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6.安倍仲麻呂公望郷詩碑!
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7.安倍仲麻呂公のしだれ梅!
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8.金閣浮御堂の参拝!
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9.堂内参拝
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10.展示物の一部
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11.史蹟文殊院西古墳
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12.同上駒札
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2013/7/1

畿内の文化財・史址を見る!34.女人高野と呼ばれる大本山の室生寺!  文化財研修記

 室生寺(むろうじ)は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院です。山号を宀一山(べんいちさん)と号する。『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)によると、奈良時代末期の宝亀年間(770−781)、時の東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、室生の地において延寿の法を修したところ、竜神の力で見事に回復したので、興福寺の僧・賢環など5人の高徳の僧によって行われ、造営は同じ興福寺の僧である弟子の修円に引き継がれた。修円は承和2年(885)に没しているが、現存の室生寺の堂塔のうち、この時期(9世紀前半)にまでさかのぼると見られるのは五重塔のみであり、現在のような伽藍が整うまでには相当の年数を要したものと思われている。草創にかかわった2人の人物が興福寺僧であった関係から、室生寺は長らく興福寺との関係が深かったが、時代は下って江戸時代の元禄11年(1698)、興福寺の法相宗から独立して、真言宗寺院となった。女人の入山が許されたことから「女人高野」と呼ばれ、これは室生寺の代名詞にもなっている。近世には5代将軍徳川綱吉の母桂昌院の寄進で堂塔が修理されている又1964年には真言宗豊山派から独立し、真言宗室生寺派の大本山となった。
 室生山の山麓から中腹にかけてが境内となっている、典型的な山岳寺院である。室生川に架かる朱塗りの太鼓橋を渡ると、正面が本坊で、右方にしばらく行くと仁王門(近代の再建)がある。仁王門を過ぎ、最初の急な石段(鎧坂という)を上がると、正面に金堂(平安時代、国宝)、左に弥勒堂(鎌倉時代、重文)がある。さらに石段を上ると如意輪観音を本尊とする本堂(灌頂堂)(鎌倉時代、国宝)があり、その左後方の石段上に五重塔(平安時代初期、国宝)がある。五重塔脇からさらに400段近い石段を上ると、空海を祀る奥の院御影堂(みえどう、室町時代前期、重文)に達する。
 五重塔は800年頃の建立で、木部を朱塗りとする。屋外にある木造五重塔としては、法隆寺塔に次ぎわが国で2番目に古く、国宝・重要文化財指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小である。高さは16メートル強、初重は1辺の長さ2.5メートルの小型の塔で、高さは興福寺五重塔の3分の1ほどである。
 心柱には江戸時代の明和5年(1768)の修理銘を記した銅板が打ち付けられており、明治33年(1900)から翌年にかけても半解体修理が行われた。このほか、部材には鎌倉時代末期頃のものが含まれることから、その頃にも一度修理を受けていることがわかる。部材には当初材のほか、鎌倉時代、江戸時代(明和)、明治時代のものが含まれ、各重の側柱には明和と明治の修理で取り換えられたり、当初位置から移動しているものが多い。屋根は建立当初は板葺きで、明和の修理で檜皮葺きに変更したものとみる。
 この五重塔は、1998年9月22日、台風7号の強風でそばの杉(高さ約50メートル)が倒れた際に屋根を直撃、西北側の各重部の屋根・軒が折れて垂れ下がる大被害を受けた。しかし、心柱を含め、塔の根幹部は損傷せずに済み、復旧工事を1999年から2000年にかけ行った。修理に際し奈良文化財研究所により、当初材を年輪年代測定法で調査したところ、7944年頃に伐採されたものであることが判明した。このことからも塔の建立年代を800年頃とする従来の定説が裏付けられた。

1.女人高野室生寺標柱
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2、室生川を渡る!
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3.本坊の山門
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4.仁王門
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5.仁王門の右、阿形像
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6.仁王門の左側の吽形像
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7.バン(梵)字池
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8.鎧坂から国宝金堂を見上げる!
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9.国宝の金堂
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10.弥勒堂(国重文でかって伝法堂とよばれ、鎌倉時代前期の創建)
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11.国宝の本堂
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12.国宝の本堂を斜めから見る!
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13.国宝の三重塔を見上げる!
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14.同上
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15.北畠親房卿の墓
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16.奥の院への参道
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