2013/7/31

神鍋山ジオパーク現地学習会に参加1(神鍋山火口巡り)  文化財研修記

綾部自然の会第6講座43名の参加で大型バスに乗り好天気のもと実施された。暑い日差しを浴びたり冷んやりした風穴、風のある木陰など風景と火山活動の高原溶岩流の溪谷美を楽しんだ

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JR綾部駅北口を7:30に出発、写真の白い大型バスに乗り但馬楽座でトイレ休憩

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道の駅・神鍋高原に到着

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株)万場の岡藤泰明さまなどガイド4名の紹介

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2班に分かれ、前後のガイドさん2名から説明を聞きながら神鍋山火口巡りに出発

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高山植物

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火山から放出されたスコリア層の大きな露頭を見る。スコリアの小塊も手に取り調べる

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風穴に向かう山道を降りる

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神鍋山火口巡りの33観音像の一つ

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山陰海岸ジオパーク 風穴(溶岩洞穴)の案内

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神鍋火山活動で残った風穴を見る2班の一行

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風穴の中は真っ暗、ライトが1つ光っていた

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神鍋山山頂に向かい山道を登る

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神鍋山山頂まで0.5Kmの標識

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このあたりでは、アカマツ林と落葉広葉樹林がみられ・・アカマツーユキグニミツバツツジ群集とミズナラークリ群集に区分されます。・・・

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途中で休憩する一行

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山頂展望台と火口巡り案内標識

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岩を積み上げた神鍋神社の展望台に到着

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火口の向こうに大岡山スキー場などの山々が見える

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右手の山麓から伸びる名色スキー場、万場スキー場が見える

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緑の神鍋山火口周縁の風景

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神鍋神社の前にも十一面観音像

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日照があり暑いので東屋に避難して休憩する1班

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神鍋神社をバックに1班の写真をガイドさんに撮ってもらう

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2班が到着したので写真を撮ろうとするとカメラ持参の人が居られず、私のカメラで代行する。ガイドさんにも入ってもらう

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1班の人を追いかけ、追いついた

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緑で埋まった神鍋山火口。進入禁止のロープが周縁に張られている。スキーでも火口に入った記憶がない

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火口に咲く高山植物

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火口周縁の植物

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火口周縁の植物

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リフトの鉄柱脚をバックに千手観音菩薩像

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もう秋の紅萩が咲いている

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そよ風のある木陰で一息する1班

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神鍋山山頂リフトを見る。アップカンナベ北の壁は好きなゲレンデ・コース
上から見下ろすと勾配が恐ろしいが、斜面に入ってしまえばそれまでの急傾斜、傾斜を見切ってしまい下まで止まらず自己流で滑るのが面白い

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途中まで上がっているリフトの頂上駅
白いブラシの上を滑るブラシ・スキー、草の上を滑るグラス・スキーも出来る由

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リフトの端から見下ろす。横向きに初心者のリフトが走っている。遠くの村には泊まった民宿がある

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大正12年に神鍋スキー場が開設され・・60周年記念碑(昭和58年2月1日建立)

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遅れて登ってくる2班が到着 山田松雄事務局長も2本杖で到着された

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なでしこの花

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キク科の植物

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茶色の火山土の中を下山する一行

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秋の彩で黒く熟した山野草

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草原を下りる一行を撮る

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道の駅・神鍋高原に到着 昼食をとる

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GPS軌跡 神鍋山火口一周

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2013/7/30

シデ山〜大栗峠の登山会に参加 峠の地蔵さんに赤い前垂れがついた  綾部の文化財

前日の綾部自然の会の神鍋山噴火口めぐりの参加につづき、連日好天気に恵まれた登山行になった。長岡京市、舞鶴市からの参加者もあり22名の参加であった。鳥垣渓谷を遡上しシデ山頂の素晴らしい景観を眺め、大栗峠、大栗山を縦走して弓削集落へ下山した

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前回と同じ小野田橋に集合。参加者22名を前に説明される桜井克彦会長

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桜井克彦会長の軽トラなど三台に分乗して吉水の横を通り、鳥垣林道に入り広場で車を降り、鳥垣溪谷沿いに林道を歩く

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「おりと」の滝で鳥垣渓谷を渉り登山道に入る

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鳥垣渓谷の渓流を左右に渉りながら登る。ロープの張られた細い崖道も所々ある

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3段に流れる滝の下を渉り斜面に取りつく

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斜面を登っていく

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梅雨明け時期なので至るところに多種類の色形の茸が生えている

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登山道の間から流れる滝を見る

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第6の滝の滝壺に降りて滝を見上げる

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GPSの歩行軌跡

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滝壺から元の山道に戻り登ると「やすみと」に到着して休憩
さらに登ると前回は林間を登るルートにつづら折れ道がつけられている

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鳥垣林道と交差する「「みと」に到着。素晴らしい展望を楽しむ。
眼下に君王山光明寺、綾部温泉、遠くの山々が眺望できる

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林道を軽トラが上がってきて冷たいポカリをコップでいただく。
持参の弁当を食べる

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眺望を楽しみながら弁当を食べる

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記念写真を撮ってもらう

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設置された「シデ山周辺の山々」の案内を囲み説明される桜井会長

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新しく付けられたシデ山登山ルートの案内板
「みと」から直接、シデ山の稜線に登れるルートがついた

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新しく付けられた山道ルートを登りシデ山稜線に出る

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「野草みんなで見守っています」鳥獣避けのネットで囲まれている野草

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シデ山頂735mに到着。新しく開かれた北側の眺望を楽しむ
「みと」より高いので上林谷の様子が遠くまでよく見える。菅谷、養老山、青葉山などしっかり確認する

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対峙する京都北部最高峰の長老ガ岳もよく見える

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シデ山山頂の一行

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稜線を進み大栗峠を目指す、鳥垣林道終点に降りる分岐標識

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大栗峠を目指し稜線を進む

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開かれた稜線にシデ山ー大栗峠の案内標識

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大栗峠に到着 綾部山の家と和知山の家を結ぶハイキングコースの案内板
桜井会長の話ではコース設置一年だけの行事で終った(風水害で山道が荒れた)とのこと

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昔から祀られた大栗峠の地蔵に赤い前垂れをつけられる桜井克彦会長

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桜井克彦氏の心意気で新調された大栗峠地蔵の前垂れ(高齢者の手縫い製とのこと)
地蔵2体の基部には施主として和知と上林の両者の名前が見える。現在も両地域で嫁入関係の数組がおられる由。以前は交通の種々な往来が大栗峠にあったとのこと

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志古田と和知の道しるべ
志古田への山道を下りずに大栗山への稜線に取り付く

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大栗山3等三角点681m

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腰につけていたGPSを取り出し、入れていた日本地理院の三角点座標を目指す
以前に浅原林道終点から藪こぎで登った稜線は、この地図左下の市境稜線に上がり、反対側から三角点に到着した
 http://nbcayabe.com/snk3/okuri/okuri.htm

ここで山田・弓削道分岐に向かい山を降り始めた。私はGPSを腰に納めながら一行の前三分の一の位置におり、桜井会長など5名ほどが急な斜面を降りられるので、少し遅れて付いて降りた。残りはそのまま稜線を直進するのと2隊に分かれた。私の後続は少し離れておられ直進の方に向かわれた。既に降り始めているので引き返し登るのは大変なので、下に見える山道を目指した。先に降り着いた桜井会長が左に進まれるのを見ながら急斜面を降り立ったが、既に人は見えず私も左に追いかけた。
しかしこの山道は曲者ではっきりせず、等高線に沿い直進か下るか更に左に登りながら回り込むのか迷った。稜線を直進された一隊を考えて左手に登り回り込む方向へかなり進むと、一行の姿を見つけた。

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南無遍照金剛 右:ゆげ、左:わちの道標

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弓削への長い山道を降りる

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弓削に降り立ち鳥獣防止索のゲートを閉じられる桜井会長

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弓削の谷奥に立つ「大栗峠(大栗山)への登山道」の標識

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弓削公民館にあらかじめ手分けして止められていた車に便乗させていただき、出発点の小野田橋に戻る。有難うございました。

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今日の一周したコース GPSマップ

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2013/7/30

畿内の文化財・史址を見る!50.大阪府羽曳野市にある式内社の大津神社!  文化財研修記

 大津神社(おおつじんじゃ)は、大阪府羽曳野市高鷲にある神社で、延喜式神名帳に記載されている、河内国丹比郡の式内社。 厄除開運、縁結び、安産、家内安全、交通安全、引越しや住居のリフォーム等の方災除けのご利益があるとされる。おついたち(一日)は一日参りで賑わうが、平素は人通りが少なく、静かである。羽曳野市内の氏神様として祭日には多くの人々が参拝している。祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)、奇稻田姫命(くしいなだひめのみこと)、天日鷲命(あめのひわしのみこと)であり、配祀は大山咋命(おおやまくいのみこと)、菅原道真公が祀られている。 
 大津神社は、十世紀はじめ、醍醐天皇(885〜930)の御代に編纂された『延喜式』(927)に 「大津神社三座鍬・靱」と明記されている由緒の古い神社で、「丹下の郷の大宮」と称えられていた。 応仁天皇(4〜5世紀はじめ)の御代に、文字をはじめ各種の大陸文化が朝鮮半島を経由して我国に伝来した際、当河内地方は難波の港と大和を結ぶ要路であったことから渡来人が土着し、荒地を開拓し産業を興して、遂に河内文化の繁栄を見ることに至った。 当時、この地方には、百済貴須王(近仇首王)の子孫といわれる「葛井氏・船氏・津氏」の三氏が勢力を張っており、この三氏のうち津氏一族がこの地を領して「大宮山」と称し、自分達の守護神を奉斎したことが「大津神社」の発祥だろうと云うのが古来からの定説です。 このように、大津神社は津氏一族の守護神として創祀されたが、津氏一族が朝廷に召されて大和に移住し、また時代の推移に伴って氏姓制度が衰退していくと、中世以降には、大津神社はこの地方9ヶ村の人々の「氏神」として受け継がれ、「河内の大宮」と称えられた。 その後、仏教の隆盛に伴い、『本地垂迹説』に基づいて「午頭天王社」と称し、境内に宮寺真言宗大宮山南之坊を設けて神仏混淆となり、社僧の支配を受けることとなる。広く世の人々からは、「北宮の午頭さん」と称えられ、親しまれた。 明治維新になると、新しい神社制度が定められ、神仏混淆が厳しく禁じられたため、高鷲・埴生両村の氏神として明治5年5月村社に列格され、「神道大津神社」となった。 第二次大戦後は、占領政策の神道指令によって国家の管理を離れ、昭和21年6月宗教法人令に基づき神社本庁所属の「宗教法人大津神社」として発足、現在に至る。 今日では、羽曳野市西部、南西部、広域の氏神(産土神、鎮守神)として崇敬されている。


1.式内社大津神社標柱
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2.鳥居と参道
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3.駒札
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4.神社説明碑
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5.摂社 平和之社
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6.拝殿を見る!
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7.摂社 大宮稲荷社
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8.拝殿
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9.拝殿内陣を見る!
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10.摂社 大宮戎社
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2013/7/28

畿内の文化財・史址を見る!49.大阪府羽曳野市の源頼朝寄進の国宝の神輿を持つ誉田八幡宮!  文化財研修記

 大阪府羽曳野市誉田3丁目2−8には源頼朝公寄進の国宝の塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ)を持つ誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)がある。
 旧社格は府社。主祭神は応神天皇で、応神天皇陵のすぐ南に鎮座する。
社伝では、欽明天皇の命により、応神天皇陵の前に社殿を建立したのに始まるとしており、そこから「日本最古の八幡宮」を称している。実際には、もっと後の八幡信仰が盛んになった時代に建立されたものとみられる。永承6年(1051)、元の鎮座地から1丁(約100メートル)ほど南の現在地に遷座した。
 八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護されたが、享徳3年(1454)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃した。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領を全て奪われた。
 その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586)に社殿が焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
 江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。
神宮寺として長野山護国寺があったが、明治初年の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残っています。

1.誉田八幡宮駒札
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2.大鳥居
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3.境内案内図
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4.駒札
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5.大鳥居をアップで見ます!
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6.南大門(楼門、元神護寺のものです!)
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7.安産社
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8.姫持稲荷神社
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9.神馬像
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10.恵比須神社
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11.拝殿
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12.源頼朝公が寄進したという国宝の神輿(鎌倉時代、写真は羽曳野市よりお借りしました。今でも秋祭りには担がれています。誉田八幡宮の祭りは有名です。)
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13.境内にある「誉田林古戦場址」
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2013/7/26

畿内の文化財・史址を見る!48.大阪府羽曳野市にある河内源氏三代のお墓!  文化財研修記

 壺井神社で頂いた源氏の家系によれば、この地に居を構え、河内源氏を興した源頼信は源満仲の3男である。
 源満仲は摂津多田荘に土着して武士団の棟梁としての地位を確立した。大江山の鬼退治で有名な長男源頼光は父の跡を継ぎ摂津源氏、2男頼親は 大和源氏を興している。清和源氏の嫡流は兄頼光の摂津源氏の流れであるが、この河内源氏の流れは鎌倉幕府を開いた源頼朝やその弟の義経につながっており、いわば源氏の本流となった。
 源頼信、頼義、義家三代の墓が、河内源氏のかっての菩提寺であった通法寺跡を中心に点在している。
家系図:
清和天皇−貞順親王−経基王−満仲−頼光├頼親頼信−頼義−義家−為義−義朝−頼朝−頼家
 壺井八幡宮から石段を下り、案内板に従っていくと通法寺跡の再建された山門に至る。
通法寺は長久4年(1043)河内源氏の租源頼信が子の頼義が浄土宗に帰依して、阿弥陀仏本尊としてから河内源氏の菩提寺となった。
 南北朝、戦国時代には兵火で再三焼失。元禄13年(1700)江戸幕府5代将軍のときに、子孫の多田義直の上表を受け、大僧正隆光や柳沢吉保らにより、壺井八幡宮とともに再建されたが、明治維新の廃仏毀釈で廃寺となった。

1.再建された通法寺の国史跡の山門
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2.源氏館跡駒札
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3.再建された源氏館一部焼失の文章
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4.再建され焼失した鐘楼の一部
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5.通法寺跡にある源頼義公の墓(国史跡)
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6.同上碑文
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源頼義は源頼信の長男。永延2年(988)の生まれ、1075年(承保2年(1075)の没。 父頼信に従ってを平忠常の乱を鎮圧し、早くから坂東の武士に名声を得た。後に前九年の役といわれる戦いで、陸奥の豪族安倍頼時・貞任父子を討ちこれをを滅亡させた。
この功により正四位下伊予守となり、晩年剃髪し伊予入道と称された。前九年の役の勝利により東国での源氏の棟梁としての地位は確固たるものとなった。
墓前の灯籠(奥の方)は1702年(元禄15年)再建の際、柳沢吉保が寄進したものです。

7.源氏三代(頼信公と義家公)駒札と碑文
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8.源義家公墓と源頼信公・大僧正隆光案内碑
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9.源義家公碑文
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10.源義家公墓(国史跡)
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11.同上(源義家は源頼義の長男。長暦3年(1039)当地壺井で生まれている。嘉承元年(1106)没。 義家は「八幡太郎」と号し、前9年の役では父とともに安陪貞任を討ち、出羽守に任ぜられた。後に陸奥守兼鎮守府将軍となり、後3年の役を平定したが、私闘とみなされ、 朝廷からの恩賞には与かれなかった。義家は自分の財産を家来達に分けあたえ、東国における源氏の勢力を固めた。
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12.源頼信公墓(国史跡)
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源頼信は源満仲の3男。安和元年(968)生まれ、永承3年(1048)没。
初め藤原道兼の家人となり、左兵衛尉に任じられ盗賊捜索などに活躍したが、後に藤原道長に仕え上野・常陸・石見・伊勢などの国司を歴任した。鎮守府将軍。 晩年には従四位上・河内守に任ぜられ、この壺井の里に本拠を構え土着し、河内源氏の祖となった。

13.大僧正隆光墓駒札
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2013/7/24

畿内の文化財・史址を見る!47.河内源氏の源頼義が勧請した壺井八幡宮!  文化財研修記

 大阪府羽曳野市壺井605−2には壺井八幡宮(つぼいはちまんぐう)がある。八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇后を主祭神とし、玉織姫・武内宿禰を配祀する。
 源義家(八幡太郎義家)が愛用したとされる黒韋威胴丸(くろかわおどしどうまる・重要文化財)や天光丸の太刀(重要美術品)などが伝わっている。社家の高木氏は、河内源氏・八幡太郎義家の六男・源義時(陸奥六郎義時)の子孫である。
 一帯は河内源氏の本拠地で、寛仁4年(1020)に源頼信が河内国国司に任じられて以降、頼信・頼義・義家の3代にわたって当地に居住し、河内源氏と呼ばれるようになった。
 康平7年(1064)5月15日、前9年の役に戦勝して凱旋した源頼義が、現在地である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りである。この時、地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神とした。
 その後、源頼義は、河内源氏の東国進出の拠点として、鎌倉にも石清水八幡宮を勧請した(鶴岡若宮。後の鶴岡八幡宮。)。頼義の5世孫である源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟にして当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏神となる。
 南北朝から戦国時代にかけたびたび兵火にかかり荒廃した。現在の社殿は、元禄14年(1701)、徳川綱吉の命により柳沢吉保が再建したものである。
 又、境内摂社として壺井神社(権現)がある。社伝によれば、天仁2年(1109)、源義時(源義家の五男)の夢枕に源頼信・源頼義・源義家の河内源氏3代が立ち、三者を祀れば源氏を守護するであろうと語ったことから、源頼信・頼義・義家の三者を祀る社として壺井八幡宮西側に創建されたのが始まりとされます。
 源氏3社(残る2つは京都の六孫王神社と摂津の多田神社)の一つ。

1.壺井八幡宮一之鳥居
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2.一之鳥居の裏側を見る!
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3.清泉「壺井」の駒札
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4.清泉「壺井」
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5.壺井八幡宮駒札
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6.源義家公28代後裔の三王紀将氏碑
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7.二之鳥居
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8.参道
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9.天然記念樹推定樹齢1000年の楠の木
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10.拝殿
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11.拝殿と本殿を横から見る!
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12.源義家公歌碑
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13.摂社の壺井神社(権現)の鳥居を内側から見る!
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14.壺井神社手水舎と鳥居
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15.壺井神社鳥居と拝殿
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16.石垣青箱子(せいしょうし)の歌碑「若菜つむ河内源氏まつる野と」
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2013/7/22

平家打倒の旗を揚げた高倉宮以仁王を祀る高倉神社の土用の丑祭!  綾部の文化財

京都府綾部市「元何鹿郡(いかるがぐん)」には高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)を祀る高倉神社がある。明治9年5月に明治政府令により作成された「延喜式内並国史見在神社考証(えんきしきないならびにこくしじんじゃこうしょう)京都府立総合資料館所蔵」には天田郡(現、福知山市にはったたの3社、元何鹿郡の我が綾部市には12神社がる。その1つがこの高倉神社で、12世紀後半、平安時代末期には徐々に武士の時代になりつつあり、まさに平家の全盛の時代であった。平清盛は太政大臣として権力を振るい、治承3年(1179)には後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、翌4年高倉天皇(以仁王の異母兄弟)を退位に追い込み、自らの孫を安徳天皇として即位させた。源氏の有力者源三位頼政は、後白河法皇の第二皇子として将来を期待されていた以仁王を中心に挙兵する計画を立て、以仁王は平家追討の令旨を諸国の源氏に発し,自らも頼政を総大将として平家追討の兵を挙げられた。しかし、頼政方に利あらず、宇治の合戦で敗北、頼政は平等院で自刃。以仁王はそこを逃れ,南都で再興しようと数十騎の側近と南進された。丁度井出の渡し(木津川市山城町)で追撃の平家軍の猛攻撃を受け、以仁王の身代わりとして影武者が討ち死に、以仁王は13名の側近と丹波に逃れ頼政の領地であった吉美卿有岡村目指して10日余りの旅で何鹿郡綾部に着かれ由良川を渡たられたのは治承4年5月下旬か6月初め、農作業の中、里人は都からの高貴な方の到着を喜び笛、太鼓で田楽踊りを舞い今も伝わる「ひやそ踊り」で以仁王を慰めたという。しかし以仁王の矢傷は悪化し、同年6月9日「後世、庶民の腹痛の悩みを我代わって救わん」という言葉を残して昇天された。翌年養和元年(1181)9月9日以仁王の神霊を奥谷の森、高倉に移し奉り、ここに高倉神社が創建された。四方幸則宮司作成文を略す。宵宮祭の神事が午前0時に行なわれ、今は午前8時の本殿祭を掲載します。

1.夜中12時宵宮祭の神事が有りました!今は午前7時30分の高倉神社前です!写真右側の真中の赤いテントが名物「天一さんの土用の丑のはらわた餅」売り場です!家内の依頼で購入しました。
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2.吉美公民館、吉美商工繁栄会、吉美自治会連合会の出し物に子供が一杯です!
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3.同上 2.
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4.京都府指定文化財の拝殿
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5.威容を誇る京都府指定文化財の拝殿(元本殿を移築)と本殿
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6.奥之宮への参道
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7.奥之宮(イザナギノミコト、イザナミノミコトの二神を祀る)裏は綾部市古木・名木100選の夫婦杉
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8.巫女さんが名物縁起物の「五葉の笹の葉」を販売中1.
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9.同上    2.
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10.手を清め遥拝所へ向う塩見真理子市会議員、宮司様達、ご来賓達
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11.遥拝所で清めの儀式です!
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12.参列者へのお祓い!
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13.本殿及び拝殿のお祓い!
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14.拝殿から本殿祭を見る!
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15.四方宮司様による「開扉の儀」
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16.「献饌(けんせん)の儀」(神様へお食事を順次リレーでお供えして行きます。お神酒を始め6種類位!
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17.四方宮司様の「祝詞奏上」
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18.四方宮司様の「玉串奉納」
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19.強田正治吉美地区連合自治会長を始め各町自治会長、塩見市会義員、井上吉美小学校長んだどご来賓が順次、玉串を奉納されました。
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20.この後、「撤饌(てっせん)の儀」があり、お供えの「献饌(けんせん)」が逆順序でリレーで元へ返されました。

21.四方幸則宮司様の高倉神社の「記事」は下記をクリックして見て下さい!
http://ayabun.net/kaiho/70/takakura.html

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2013/7/22

畿内の文化財・史址を見る!46.国指定天然記念物の大蘇鉄がある妙國寺!  文化財研修記

 大阪府堺市堺区には日蓮宗の本山(由緒寺院)妙国寺(みょうこくじ)がある。山号は広普山(こうふさん)で幕末に起こった堺事件ゆかりの寺として知られる。開基は三好之康(三好義賢・実休)。永禄年間(1558〜1570)に、当時四国の阿波より兵を起こし畿内を支配していた三好四兄弟の一人である摂河泉を領した三好義賢(実休)が仏教に深く信奉して開山し、東西3町南北5町及び大蘇鉄(大正13年12月国指定天然物)と寺領500石を寄進さたのに始まります。
 本能寺の変の際、堺を訪れていた徳川家康は妙國寺に宿泊していたが、変を聞き、妙國寺僧、油屋親子の助けを得て難を逃れたと伝える。
 堺事件とは妙国寺にある土佐藩士供養塔では慶応4年2月15日、フランス軍艦より水兵100人が上陸し、市内を闊歩し婦女子を追回すなど傍若無人の振舞いに、堺警備隊の土佐藩士が応対したが、双方言葉が通じないため両者銃撃応酬の末、フランス兵13名の死傷者を出すにいたり国際問題となり、本事件はフランスに賠償金を払うと共に、箕浦猪之吉、西村左平次等土佐藩士20名は切腹を命じられた。同2月23日、妙國寺において日仏立会人の面前で堂々と割腹自刃しました。12人目にかかりフランスの立会検視人もその凄絶の様に見るに忍びがたく切腹は中止となり、9名は土佐へ流刑となったのです。

1.妙国寺駒札
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2.妙国寺標柱
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3.妙国寺山門
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4.鐘楼
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5.手水鉢
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6.本堂
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7.国指定天然記念物の大蘇鉄
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8.宇賀徳正龍神(大蘇鉄の霊であり、この寺の守護神の宇賀龍神を祀る)
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9.堺事件の土佐藩十一烈士の墓
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2013/7/20

畿内の文化財・史址を見る!45.国重文の本堂と障壁画を持つ堺市の大安寺!  文化財研修記

 大安寺(だいあんじ)は、堺市堺区にある臨済宗東福寺派の仏教寺院で山号は布金山(ふきんさん)です。室町時代の初め、応永元年(1394)に後小松天皇の命により、徳秀士蔭(とくしゅうしいん)が東福寺の末寺として開山したとされる。創建時は堺の町の中心に位置し、広さは二町四方、六つの塔頭を有していた。
 慶長20年(1615)大坂夏の陣により、寺は焼失。その後、慶安年間に、現在の南旅籠町の地に移転した。
 本堂は総檜造りの書院造の建物で、方丈として使用された。1996年から1999年の修理で、江戸時代初期(17世紀前半)に建てられた邸宅の部材を再利用し、1683年に間取りを変更して移築したものと判明した。屋根は本瓦葺の入母屋造、内部は上段の間を有し、書院造の部屋もある豪奢なもの。もとは、桃山時代の豪商・納屋助左衛門(呂宋助左衛門)の豪華な邸宅であったとの伝承がある。1955年6月22日に国の重要文化財に指定された。本堂4室の襖、計76面に描かれている。江戸時代初期の狩野派の作と推定されている。寺伝では、西湖図は狩野元信の作、他は狩野永徳の作とされる。1996年から2002年に保存修復が行われ、本堂と同様に、移築前の邸宅に用いられていたものを再利用していたことがわかった。1981年6月9日に重要文化財に指定された。
下一之間(6畳) 紙本金地著色 鶴図13面、下二之間(12畳) 紙本金地著色 百日紅遊猿図14面、紙本金地著色 黄蜀葵図2面、室中(18畳) 紙本金地著色 松梅図5面、紙本金地著色 檜図6面、紙本金地著色 藤図8面、紙本金地著色 黄蜀葵図4面
上間(8畳) 紙本墨画 西湖図24面、附指定では紙本金地著色 白梅図4面、著色杉戸絵8面(鶴図2・朝顔図2・吉野山図2・竹虎図2)
 第二次大戦前の日本の国定教科書に「画師の苦心」として取り上げられていた逸話は、この障壁画の松の「枝添えの松」とされている。
 開山堂は1706年、大安寺中興の祖、大円長根(だいえんちょうこん)が建立。当時、朱印地であった築尾村(現・堺市西区津久野町)の北村了貞が寄進したと伝えている。

1.大安寺駒札
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2.大安寺山門
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3.大安寺参道
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4.大安寺山門を振り返って見る!
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5.下一之間(鶴の間の一部)
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6.大安寺開山堂(宝永3年(1706)大安寺中興の大円長根が現津久野町の豪農北村了貞の寄進により建立)
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7.牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)供養(牡丹花肖柏1443−1527は堺と縁の深い京都の公家出身の連歌師。外出の時は何時も牛に乗っていたといわれ江戸時代に建てられた供養塔も牛に乗っています。)
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8.時雨寂露之碑
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9.大安寺庭園の一部
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10.同上
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11.下記をクリックして、大安寺庭園を「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/I7JAnWo28xA


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2013/7/18

畿内の文化財・史址を見る!44.堺市の高野山真言宗の古刹・法道寺!  文化財研修記

 堺市南区鉢ヶ峯寺401には7世紀中ごろに、法道(空鉢)仙人が開いたとされる高野山真言宗の寺院で、古くは長福寺といい多数の寺坊がありました。「食堂(じきどう)」は鎌倉時代後期に建てられ、僧侶が法会の際に食事などを行った建物で、同時代のものでは大阪府下で金剛寺と2棟のみで大変貴重なものです。「多宝塔」は屋根の丸瓦の正平23年(1368)に作ったという銘文から、南北朝時代中期に建てられたと考えられ、食堂とともに重要文化財に指定されています。同じく重要文化財の十六羅漢像は漢画の系統に属する作品で、宋画の写しと考えられています。
また、楼門に安置される「金剛力士像」は、解体修理中に吽形(うんぎょう)から発見された墨書木札で、鎌倉時代の弘安6年(1283)に造像されたことがわかり、同時代から室町時代にかけて興隆した法道寺と、上神谷(にわだに)地域の仏教文化の精華を、現在に伝える大変貴重なものです。「阿弥陀三尊図」は赤・緑を基調とした濃厚な色彩と金泥を多用する点、朱の衣に配された細かい金泥円文、独特な桃色を施した体などの特徴がみられる高麗仏画で、日本に伝来しているなかでも最も古い時代に作られたものと思われ、金剛力士像とともに市の指定有形文化財になっています。

1.法道寺楼門(仁王門)
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2.市指定文化財の金剛力士「阿形」
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3.同上「吽形」
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4.駒札
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5.手水舎
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6.金堂(江戸時代)
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7.法道寺多宝塔(南北朝時代中期建立で和様・唐様の折衷様式で国重文です!)
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8.大師堂(江戸時代)
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9.室町時代の五輪塔など
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10.現存する法道寺の最も古い建物「食堂(じきどう)」で僧侶が法会で食事した建物で国重文です!
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