2013/6/30

畿内の文化財・史址を見る!33.国宝の本堂・重文の登廊を持つ長谷寺!  文化財研修記

 長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺です。山号を豊山神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧の道明とされる。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。
 大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。
 長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。承和14年(847)12月21日に定額寺に列せられ、天安2年(858)5月10日に三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている。なお、貞観12年(870)に諸寺の別当・三綱は太政官の解由(審査)の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺とともに朝廷(太政官)の統制下に置かれた。それを裏付けるように10世紀以後の長谷寺再建に際しては諸国に対しては国宛を、諸寺に対しては落慶供養参加を命じられるなど、国家的事業として位置づけられている。
 長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。万寿元年(1024)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。
 長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され僧正頼瑜により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588)、豊臣秀吉により根来山(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。
十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く240寺程存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。
 初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)を上る。本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。国宝の本堂のほか、仁王門、下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊が重要文化財に指定されている。このうち、本堂は慶安3年(1650)の竣工で、蔵王堂、上登廊、300余社、鐘楼、繋廊も同じ時期の建立である。仁王門、下登廊、繋屋、中登廊の4棟は明治15年(18882)の火災焼失後の再建であるが、江戸時代建立の堂宇とともに、境内の歴史的景観を構成するものとして重要文化財に指定されている。

1.長谷寺標柱
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2.仁王門(国重文)
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3.宗宝蔵入口
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4.登廊(国重文)
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5.手水舎
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6.登廊の「繫屋」
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7.本堂(国宝)
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8.本堂の左の鐘楼(国重文)
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9.大和七福神八宝大黒堂
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10.開山堂
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11.写経殿
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2013/6/29

畿内の文化財・史址を見る!32.日本最古の神社の大神神社!  文化財研修記

 大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社。式内社(名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。別称として三輪明神、三輪神社とも呼ばれる。祭神は主祭神大物主大神 (おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命)配神大己貴神 (おおなむちのかみ)少彦名神 (すくなひこなのかみ)で大物主神は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神(軍神)、氏族神(太田田根子の祖神)である一方で祟りなす強力な神(霊異なる神)ともされている。
 日本で最古の神社の1つとされる。三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されている。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである  例年11月14日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で拝殿に杉玉が吊るされる、これが各地の造り酒屋へと伝わった。
 摂社の檜原神社は天照大神をはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられ、元伊勢の一つとなっている。また、作者不詳の能「三輪」ではキリ(終りの部分)の歌に「思えば伊勢と三輪の神。一体分身の御事。今更、なんと、いわくら(磐座・言わくら)や」との言葉があり、伊勢神宮との関係が示唆されている。
 なお、全国各地に大神神社・神神社(美和神社)が分祀されていることについては、既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)にも記述がある。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。吉備国を征服する時に大和王権によって分祀されたのではないかと推測されています。
 記紀には、次の記述がある。大国主神(大己貴神)は出雲国を拠点に国造りに励んでいたが、協力者である少彦名神が常世国に去ったため思い悩んでいると、突如、海原を照らして神が出現した。その神は「吾はお前の奇魂幸魂である」といい、「吾は大和国、三輪山に住みたいと思う」といったという。その神が大物主神であるが、大物主神は大国主神の子孫であるという説もある。崇神天皇7年に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である意富多多泥古(太田田根子)を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる。日本書紀では天皇が天変地異に加え疫病の流行に宸襟を悩まされているとき、夢枕に大物主神が立ち、「こは我が心ぞ。意富多多泥古(太田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げたとされる。天皇は早速、太田田根子を捜し出し、三輪山において祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったといわれている。
 国史には奉幣や神階の昇進など当社に関する記事が多数あり、朝廷から厚く信仰されていたことがわかる。貞観元年(859)2月、神階は最高位の正一位に達している。


1.大神神社の巨大な一の鳥居を眺める!
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2.大神神社標柱と鳥居
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3.鬱蒼とした参道
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4.大宮川を渡る!
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5.祓戸神社
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6.見事な桧皮葺の手水舎
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7.拝殿への参道
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8.鳥居と拝殿
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9.拝殿前の御神木
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10.拝殿(国重文、本殿は拝殿から見る三輪山だが、拝殿参拝所からは見えない!)
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11.大神神社と謡曲「三輪」の駒札
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12.下の宮の三柱鳥居
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13.下の宮
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2013/6/28

畿内の文化財・史址を見る!31.弘法大師が大和神社の鎮守社として建てた長岳寺!  文化財研修記

 長岳寺(ちょうがくじ)は奈良県天理市柳本町にある高野山真言宗の寺院で山号は釜の口山(かまのくちさん)、本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は空海(弘法大師)で大和神社の鎮守社として建立したとされる。関西花の寺25ヶ寺霊場第19番札所です。日本最古の歴史の道といわれる山の辺の道のほぼ中間点に位置している。釜口大師の名で親しまれている。
 ご本尊は阿弥陀如来で創建年は天長元年(824)で開基は空海で淳和天皇の勅願寺です。盛時には48もの塔頭が建ち並んでいた。
 境内の面積は約4万平方メートルと広く、八十八箇所道が竜王山中腹の奥の院まで巡らされている。本堂は天明3年(1783)に再建された建物で、阿弥陀三尊像と多聞天・増長天立像を安置している。
 楼門は国の重要文化財(国指定)。かつては上層に鐘楼が吊られていたために鐘楼門と呼ばれる、日本最古の鐘門である。下層は室町〜安土桃山時代、上層は平安時代。寺伝では空海による創建当初から現存する建物というが、上層部分も空海の時代まではさかのぼらず、平安時代末期頃の建築とされる。
庫裏(旧地蔵院本堂及び庫裏) 重要文化財(国指定)。かつて48もあった塔頭のなかで唯一残った旧地蔵院の遺構で、1630〜1631年建築であるが室町時代の書院造の様式を伝えている。
大師堂は 正保2年(1645)に建立されたと伝わる建物で、開基である空海(弘法大師)像が安置されている。五智堂は 重要文化財(国指定)。鎌倉時代の建物。境内から数百メートル離れた位置に建つ。「堂」といっても方一間、全面吹き放し(建具、壁等を設けない)の小規模な建造物である。中央の心柱の上部に四仏の種子を表し、心柱を大日如来に見立て、全体で五智如来を表す。その形状から「傘堂」、四方どちらの面も正面に見えることから真面堂(まめんどう)の別称がある。

1.長岳寺五智堂駒札
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2.五智堂(国重文)
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3.山門
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4.広い境内の参道
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5.駒札
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6.日本最古といわれる「鐘楼門」(但し、現在は鐘は無い!)
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7.内側からこの鐘楼門を見ます!
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8.本堂(国重文)
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9.見事な菖蒲が咲く池
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10.大師堂
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11.境内には多くの石仏があります。これは元亨(げんこう)2年(1322)の紀年銘のある「石造笠塔婆」です!
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2013/6/27

畿内の文化財・史址を見る!30.大和大国魂神を祀る大和神社!  文化財研修記

 大和神社(おおやまとじんじゃ)は、奈良県天理市にある神社。旧称は朝和之宮(あさわのみや)。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社です。御祭神は中段:大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)、左殿:八千戈大神(やちほこのおおかみ)、右殿:御年大神(みとしのおおかみ)を祀っています。
『日本書紀』によれば、元々倭(日本)大国魂神は天照大神とともに大殿に祀られていたが、世の中が乱れ謀反を起こすなどするのは、両神の勢いだと畏れられた。そのため崇神天皇6年、倭大国魂神を皇女渟名城入姫を斎主として祀らせたが、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。崇神天皇7年、倭迹迹日百襲媛命が夢で「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受けた。また同年11月にも同じようなことが起こり、大倭直の祖・市磯長尾市(いちしのながおち)を祭主として、神地が定められ鎮座・創建された。 この伝承からアマテラスを天神とし、ヤマトノオホクニタマを地祇とする性格をはっきりさせたことが読み取れる。垂仁紀はもっと詳細に出ている。
 当初の鎮座地は、現在の鎮座地の東方の山麓大市の長岡崎(現在の桜井市穴師および箸中の付近)であるとみられ、後に現在地に遷座したとされるが、遷座の時期ははっきりしない。一説には現在の長岳寺の位置であるという。長岡崎が長岳寺付近の丘陵を指す可能性もある。
 朱鳥6年(692)、持統天皇は藤原京の造営にあたって、伊勢・住吉・紀伊の神とともに当社に奉幣し伺いを立てた。寛平9年(897)、最高位である正一位の神階が授けられた。『延喜式神名帳』には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。後に十六社・二十二社の一社ともなった。
 平安初期までに、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛した。源頼朝からも「守護不入の許可」があたえられていたと言う。時代と共に衰微し、中世には社領を全て失っていた。明治4年(1871)、官幣大社に列せられた。江戸時代には社殿は寺院様のものに作り変えられていたので、官幣大社列格の際に新たに社殿が造営された。
 戦艦大和には、同名であることから当社の祭神の分霊が艦内で祀られていた。戦艦大和は昭和20年(1945)に沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名の英霊が末社・祖霊社に合祀されている。昭和44年(1969)、境内に「戦艦大和記念塔」が建立された。

1.大和神社(おおやまとじんじゃ)一の鳥居
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2.二の鳥居
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3.戦艦大和記念塔(昭和44年建立)
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4.租霊社(戦艦大和は昭和20年(1945)に沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名の英霊が末社・祖霊社に合祀されている。)
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5.手水舎
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6.拝殿
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7.駒札
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8.摂社の高龗神社(こうれいじんじゃ)
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9.厳島神社等末社群
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10.拝殿より本殿を見る!
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11.本殿をアップで見る!(中座、左座!)
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12.本殿を横から見る!
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2013/6/26

第44回春の研修旅行、滋賀県の有名な湖東三山の国宝・文化財を訪ねて1(西明寺)  綾部の文化財を守る会研修

綾部市文化協会後援
西国薬師霊場第32番札所・神仏霊場136滋賀4番札所・龍應山・天台宗・西明寺
ボランテアガイドさんの案内で国指定名勝庭園「蓬莱庭」から見学を始めます。

 西明寺は、平安初期の承和元年(834)三修上人が仁明天皇の勅願により創建され「日本の百古寺」「近江の水の宝」に選ばれた天台の古刹です。本堂は鎌倉時代の代表的な建築物で、国宝第一号に指定されています。本堂内には国重文の秘仏薬師如来、釈迦如来、不動明王などが安置され、中でも頭に十二干支えとの動物の顔を乗せた十二神将のユーモラスな親しみやすさで、自分の干支の十二神将に願いを託す「えと寺」としても有名です。

 三重塔は総桧造りの優美な塔として国宝に指定されています。国の名勝庭園「蓬莱庭」は四季折々の変化が楽しめます。

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京都交通の大型観光バス2台に乗り 新しく開通した京志バイパスを使い予定(午前11時30分西明寺駐車場到着)より1時間以上も早く到着

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マイクロバスで足の悪いメンバーだけ先に社務所受付へ送ってもらう。残りの会員は現地ガイド3名と共に長い参道を歩いて散策

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二天門まで長い石段の参道が続いている

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神木の夫婦杉(1000年杉)

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神木の夫婦杉(千年杉)案内

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大きな草鞋の下がる二天門

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二天門の案内

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阿吽の持国天・増長天立像

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阿吽の持国天・増長天立像

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国指定名勝庭園「蓬莱庭」案内

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名勝庭園「蓬莱庭」

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名勝庭園「蓬莱庭」

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本堂は鎌倉時代の代表的な建築物で、国宝第一号に指定されています。本堂内には国重文の秘仏薬師如来、釈迦如来、不動明王などが安置され、中でも頭に十二干支えとの動物の顔を乗せた十二神将のユーモラスな親しみやすさで、自分の干支の十二神将に願いを託す「えと寺」としても有名です

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三重塔は総桧造りの優美な塔として国宝に指定されています

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鐘楼

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緑の参道を降りる

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昼食は西明寺門前の「一休庵」

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1号車・2号車一緒に懐石を食べる

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美しく盛られた懐石料理を楽しむ

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2013/6/26

畿内の文化財・史址を見る!29.大和郡山市にある古社・薬園八幡宮!  文化財研修記

 薬園八幡神社(やくおんはちまんじんじゃ)は大和郡山市材木町32番地に鎮座しており、 御祭神は八幡大神、比鷽世鱆・辰討い泙ケ。ヒ本殿は一間社隅木入春日造桧皮葺で宝暦9年(1759)改築で奈良県文化財です。
 当社の創建は奈良朝孝謙天皇代の天平勝宝元年(749)であって、『続日本紀』に詳述のとおり、藤原広嗣の乱の平定と聖武天皇の病気平癒の祈願に、さらに大仏造顕に協力する神として、宇佐の八幡大神はあらたかな霊験を現され、その絶対的神威は中央第一の神として朝廷の厚い崇敬をうけるに至った。
 749年7月孝謙女帝が即位、年号は改まって天平勝宝となったこの年の11月、大仏完成擁護の神託を奉じた八幡大神は宇佐から都に向われ、天皇は石川朝臣年足、藤原魚名等の重臣を迎神使として遣わされて、12月平城宮の南、梨原の薬園新宮内に設けた神殿に迎え祀られる。梨原の地はもと広大な薬園のあったところで、新宮の名もこれに因む。そしてここより東大寺へ遷座の際、八幡大神の御分霊をこの新宮内の神殿に留めて奉斎し、由緒ある薬園の地名を冠して命名されたのが、すなわち当社の創始であり、由緒またこれより生まれる。こうして翌2年9月今の御旅所の地清澄荘薬園に遷座され、時移り延徳3年(1491)に至って現社地の南薬園に鎮座せられたのである。薬園八幡神社は聖武太上天皇の仰せをうけ、創建以来朝廷より勅額・神階・神領を賜って奉幣にあずかり、社殿の造修も受けつつあったが、星霜を経て幕府の政権となって遂に途絶え、足利時代末期に現社地への遷祀となった。しかし近世に至って藩主等の尊敬もうけ、やがて、薬園地域全ての氏子をもって存する天井、本庄、塩ノ庄等の総社となり、薬園の旧蹟に厳存して歴史を誇る社頭を保持しつつ、市の中心部地域の殆どを氏子に擁する産土神として、親しまれている。

1.駒札
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2.鳥居と門
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3.手水舎と楼門
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4.神明社
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5.拝殿
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6.拝殿正面
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7.神輿蔵
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8.末社群
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9.奈良県指定文化財の春日造りの本殿(とても撮影が出来ず、大和郡山市のものをお借りしました。)
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10.珍しいイブキジャコウウ草
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2013/6/25

畿内の文化財・史址を見る!28.日本三大稲荷神社の一つ大和郡山市にある源九郎稲荷神社!  文化財研修記

 源九郎稲荷神社(げんくろういなりじんじゃ)とは、近鉄郡山駅の南西約500メートルに鎮座する、源九郎狐や綿帽子を買った狐の伝説で有名な神社である。童謡『やまとの源九郎さん』に歌われている場所であり、地元では「源九郎さん」の呼び名で親しまれている。小さな稲荷であるが、日本三大稲荷の一つに数えられ、北向きの本殿に『白狐源九郎』が祀られている。五穀豊穣・商売繁盛の御利益があり、4月の第一日曜日に、白狐面をつけた子供行列が練り歩く『源九郎稲荷春季大祭』が行なわれる。
 義経が兄頼朝との戦に際し、義経は幾度もこの稲荷に助けられ、この稲荷に源九郎の名を贈ったという伝説が、社名の由来となっている。
 翁の姿をした源九郎狐が、長安寺村の宝譽という僧の夢枕に立ち、郡山城に自分を祀ってくれたら城の守護神になろうと告げたので、宝譽は豊臣秀長にこのことを告げ、城内竜雲郭に稲荷が創建されたと伝えられている。
 享保4年(1719)、現在地に遷座。大正14年(1925)、現社殿が完成している。
 忠臣狐伝説:義経が兄頼朝に追われ、吉野山まで逃げる道中、佐藤忠信に化けた白狐が、静御前を守り通した。義経はその白狐の忠義に感服した。狐の意中の物は、親の皮で出来た御前の鼓であったが、それを知った義経は、自分の名を与えて「源九郎」と名乗ることを許した。妖刀子狐丸伝説:菅田明神の境内に住む小狐が、近くの淵で村人を苦しめている大蛇を源九郎狐の加勢を得て退治した。大蛇の尾から宝剣が見つかり、村人はこの宝剣を「小狐丸」と名づけ、天理の石上神宮へ奉納した。元和の鎮火伝説:元和元年(1615)、豊臣方大野治房による郡山城攻撃が行われた際城下も焼け、その中心へと火が迫ってきたのを見た洞泉寺住職天誉和尚が、源九郎狐に祈願をしたところ、突然大雨が降り大火を免れた。綿帽子を買った狐伝説:大和郡山の柳三丁目に帽子屋があり、ある冬の夜婦人が綿帽子を三つ買いに来た。代金を源九郎神社へ取りに来て欲しいと言われたが、神社では誰も心当たりがないという。主人が不審に思っていると、境内から綿帽子をかぶった三匹の小狐が現れたという伝説も残っています。

1.大和郡山市街図(源九郎稲荷神社位置図)
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2.源九郎稲荷神社参道
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3.別な参道
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4.源九郎大明神碑
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5.鳥居と拝殿
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6.手水舎
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7.拝殿
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8.6代目中村勘九郎襲名記念植樹「枝垂れ梅」平成24年9月26日
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9.拝殿正面
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10.拝殿横に掲載されている神社の案内文
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11.拝殿から奥の本殿を見る!
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12.拝殿横から奥の本殿を見る!
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2013/6/24

畿内の文化財・史址を見る!27.鑑真和上創建で多くの国宝を持つ唐招提寺!  文化財研修記

 唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院で。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の国宝の金堂、講堂を初め、多くの文化財を有しています。
唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されています。
 多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。
「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。
金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。現在では、奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっています。

1.南大門
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2.ユネスコ世界遺産登録記念碑
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3.境内図
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4.金堂(国宝、天平宝字3年(759)に創建され、井上靖氏の小説「天平の甍」の呼び名で親しまれている「金堂」(国宝)は、今回の大修理によって中世の大改修は行なわれず、江戸・明治時代の2回の大修理が行われたことが判明しました。創建以来、約900年の長きに亘って金堂は建ち続けたのです。平成7年(1995)の阪神淡路大震災をきっかけに文化財建造物の耐震性が再認識されるなかで、平成10年(1998)には、金堂を含む唐招提寺の伽藍建築が世界文化遺産となり、その保存に対する機運の高まるなか、国宝唐招提寺金堂保存修理事業専門委員会が結成されて、年間に及ぶ建物調査が実施され平成の大修理も無事終了しました。堂内には中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像のあ体の巨像を安置するほか、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する(仏像はいずれも国宝です。)
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5.鼓楼(国宝で鎌倉時代、仁治元年(1240)楼造・入母屋造・本瓦葺です。右後部の建物は礼堂・東室でいずれも弘安7年(1284)入母屋造・本瓦葺で国重文です。)
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6.経蔵(国宝、奈良時代8世紀、校倉造(あぜくらつくり)・寄棟造・本瓦葺)
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7.宝蔵(国宝、奈良時代8世紀、校倉造(あぜくらつくり)・寄棟造・本瓦葺)
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8.鑑真和上廟入口
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9.見事な美しい苔の庭
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10.鑑真和上御廟
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11.茶室「三暁庵」
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12.鐘楼
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13.梵鐘(平安時代の代表作、国重文)
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14.講堂(国宝、入母屋造、本瓦葺き。正面9間、側面4間。平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、天平宝字4年(760年)頃、平城宮の改修に伴って移築された。東朝集殿は、壁や建具のほとんどない開放的な建物で、屋根は切妻造であったが、寺院用に改造するにあたって、屋根を入母屋造とし、建具を入れている。鎌倉時代の建治元年(1275年)にも改造されているが、奈良時代宮廷建築の唯一の遺構として極めて貴重である。堂内には本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)を安置している。
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2013/6/23

畿内の文化財・史址を見る!26.珍しい国宝の楼門を持つ般若寺!  文化財研修記

 般若寺(はんにゃじ)は、奈良市北部・奈良坂(奈良きたまち)に位置する真言律宗の寺院。山号は法性山、本尊は文殊菩薩。コスモス寺の名で知られている。
 般若寺は東大寺大仏殿や正倉院の北方、奈良坂と呼ばれる登り坂を登りきった地点に位置する。般若寺門前を南北に通る道は「京街道」と呼ばれ、大和(奈良県)と山城(京都府)を結ぶ、古代以来重要な道であった。この道はまた、平城京の東端を南北に通っていた東七坊大路(東大寺と興福寺の境をなす)の延長でもある。
 般若寺の創建事情や時期については正史に記載がなく、創立者についても諸説あって、正確なところは不明である。ただし、般若寺の境内からは奈良時代の古瓦が出土しており、奈良時代からこの地に寺院が存在していたことは確かである。寺伝では舒明天皇元年(629)、高句麗の僧・慧灌の創建とされ、天平7年(735)、聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したというが、これらを裏付ける史料はない。別の伝承では白雉5年(654年)、蘇我日向臣が孝徳天皇の病気平癒のため創建したともいわれている。鎌倉時代の文永4年(1267)、当時の本尊・文殊菩薩像を開眼供養した際の願文(がんもん)では、「般若寺は聖武天皇が創建し、平安時代に僧観賢によって再興された」とする説を採用している。しかし、観賢(854−925)が関与した「般若寺」は山城国(今の京都市右京区鳴滝般若寺町)にあった寺であり、上記の説は同名別寺院を混同したものである。この、観賢再興説が誤りであるという点は、すでに江戸時代・享保20年(1735)刊の『奈良坊目拙解』(村井古道著)で指摘されている。
その後平安時代末頃までの歴史はあまり明らかでない。治承4年(1180)、平重衡による南都焼き討ちの際には、東大寺、興福寺などとともに般若寺も焼け落ち、その後しばらくは廃寺同然となっていたようである。
廃寺同然となっていた般若寺は、鎌倉時代に入って再興が進められた。寺のシンボルとも言える十三重石塔は僧・良恵(りょうえ)らによって建立され、建長5年(1253)頃までに完成した。その後、西大寺の僧・叡尊によって本尊や伽藍の復興が行われた。叡尊は、西大寺を本山とする真言律宗の宗祖で、日本仏教における戒律の復興に努め、貧者・病者救済などの社会事業を行ったことで知られる。般若寺の位置する奈良市街北方地域は、中世には当時「非人」と呼ばれて差別された病者・貧者などの住む地域であり、般若寺の近くには「北山十八間戸」(国の史跡)というハンセン病などの不治の病の人を収容する施設もあった。叡尊は建長7年(1255年)から般若寺本尊文殊菩薩像の造立を始め、文永4年(1267)に開眼供養が行われた。この文殊像は獅子の上に乗った巨像で、完成までに実に12年を要したという。

1.国宝楼門の駒札
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2.般若寺楼門(国宝、鎌倉再興伽藍の回廊で和様に天竺様式を取り入れ、美しく軽快な屋根のそりを見せる。楼門遺構では日本最古作例です。)
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3.楼門を通して国重文の十三重石塔が見える!
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4.地蔵像群
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5.西国33ヶ寺観音像
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6.中興上人良恵供養塔(建長5年(1253)国重文の十三重石塔を創建)
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7.国宝楼門を内側から見る!
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8.向井去来の歌碑(江戸時代前期俳諧師)この寺には各所に歌碑がある。
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9.相輪(十三重石塔のまえにはこの相輪が建てられる。)
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10.国重文の十三重石塔
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11.境内と本堂
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12.十三重石塔(国重文、高さ約14.2メートル、左の本堂前の石灯篭は般若寺形又は文殊形と云われ各部に獅子、牡丹、鳳凰などの装飾があります。写真失敗でした。)
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13.本堂(奈良県指定文化財)
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14.国重文の一切経蔵(鎌倉時代)
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2013/6/22

畿内の文化財・史址を見る!25.生駒の聖天さんと呼ばれる宝山寺!  文化財研修記

 宝山寺(ほうざんじ)は、奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。生駒聖天(いこましょうてん)とも呼ばれる。山号は生駒山(いこまさん)。延宝6年(1678)に湛海律師によって開かれた。本尊は不動明王。鎮守神として歓喜天(聖天)を天堂(聖天堂)に祀っている。仏塔古寺十八尊第十五番札所です。
 生駒山は伝承によれば斉明天皇元年(655)に役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝わる。その当時は都史陀山 大聖無動寺(としださん だいしょうむどうじ)という名であったという。
 江戸時代には、宝山寺は商売の神として大阪庶民の信仰を集めた。京都の皇室や江戸の徳川将軍家、郡山藩主柳沢家からの祈願もあり、聖天信仰の霊場として名高い寺です。大正7年(1918)年には日本最初のケーブルカー、生駒鋼索鉄道(現、近鉄生駒鋼索線)が敷設されるほどだった。歓喜天を祭り、現在でも年間300万人の参拝客を集めるとされる。宝山寺のある霊峰・生駒山には宝山寺以外にも在日韓国人系のシャーマニズム信仰の場(朝鮮寺)が多く集まっています。

1.長い石段表参道
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2.宝山寺(生駒の聖天さん)総門
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3.駒札
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4.石仏群
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5.七福神像
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6.鐘楼
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7.中門を見る!
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8.中門正面は客殿
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9.見事な手水舎
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10.本堂、左側は生駒聖天の拝殿
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11.本堂を正面から見る!(堂内には湛海作の国重文の木造不動明王像が祀られています。)
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12.拝殿(この拝殿には大聖歓喜自在天が祀られており、之が俗に言う生駒の聖天さんです。この裏の岩山の中腹は般若窟と呼ばれ天和2年(1682)作の弥勒菩薩が祀られています。)
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13.アップした般若窟!
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14.途中の文殊堂
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15.生駒聖天拝殿と本堂を見下ろします!
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