2013/4/30
春の京の文化財・史址を見る!15.銀閣寺の鎮守の八神社! 綾部の文化財
御由緒 創建は、大同以前(806年以前)とも延喜年間(901から922)とも伝えられるが、 喜永6年(1853)の浄土寺村一村全焼により、当神社古文書又近在に所蔵されていた古文書等が焼亡してしまい為に由緒は明らかではない。
ただ、「諸社根元記」に、延喜5年(905)12月26日宣下、於山城国愛宕郡如意峰神祇斎場所、 奉安鎮3132座之神体、とあり、また鎮魂八神殿、亦在神祇官、神祇官者古在平安城宮内省、 則今二条所司庁之西也。自茲移東山如意嶽、後土御門院天皇文明16年移吉田神楽岡とあり、 当社本殿の御祭神と併せて考えると、この如意嶽(大文字山)の神祇斎場所は当社ではなかったかと考えられる。以後は、浄土寺や慈照寺(銀閣寺)の鎮守として、またこの地域一帯の産土神として広く崇敬を集めている。
御祭神:
本社 高御産日神(たかみむすびのかみ)、神産日神(かみむすびのかみ)、生産日神(いくむすびのかみ)、足産日神(たるむすびのかみ)、玉積産日神(たまつめむすびのかみ)、大宮賣神(おおみやめのかみ)、御食津神(みけつのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ、相殿は十禅師大明神(じゅうぜんじだいみょうじん)末社は稲荷社、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、雨社は高龗神(たかおかみ)です。
1.八神社の石の大鳥居

2.参道途中の摂社雨宮神社

3.摂社の樹下稲荷大明神

4.同上の鳥居と拝殿を見る!

5.手水鉢と舞殿

6.拝殿

7.八神社の祭神碑

8.社殿の奥にある霊水の出る井戸

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ただ、「諸社根元記」に、延喜5年(905)12月26日宣下、於山城国愛宕郡如意峰神祇斎場所、 奉安鎮3132座之神体、とあり、また鎮魂八神殿、亦在神祇官、神祇官者古在平安城宮内省、 則今二条所司庁之西也。自茲移東山如意嶽、後土御門院天皇文明16年移吉田神楽岡とあり、 当社本殿の御祭神と併せて考えると、この如意嶽(大文字山)の神祇斎場所は当社ではなかったかと考えられる。以後は、浄土寺や慈照寺(銀閣寺)の鎮守として、またこの地域一帯の産土神として広く崇敬を集めている。
御祭神:
本社 高御産日神(たかみむすびのかみ)、神産日神(かみむすびのかみ)、生産日神(いくむすびのかみ)、足産日神(たるむすびのかみ)、玉積産日神(たまつめむすびのかみ)、大宮賣神(おおみやめのかみ)、御食津神(みけつのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ、相殿は十禅師大明神(じゅうぜんじだいみょうじん)末社は稲荷社、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、雨社は高龗神(たかおかみ)です。
1.八神社の石の大鳥居

2.参道途中の摂社雨宮神社

3.摂社の樹下稲荷大明神

4.同上の鳥居と拝殿を見る!

5.手水鉢と舞殿

6.拝殿

7.八神社の祭神碑

8.社殿の奥にある霊水の出る井戸

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2013/4/29
春の京の文化財・史址を見る!14.哲学の道の「関雪桜」から浄土院! 文化財研修記
浄土院(じょうどいん)は、京都市左京区銀閣寺町にある浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来です。山号は清泰山。五山送り火のひとつ「大文字」を管理することから「大文字寺」とも称される。この寺は、かつて慈照寺(銀閣寺)の場所に浄土寺という天台宗寺院があった。この浄土寺の創建年代等については不詳であるが、寛和2年(986)浄土寺で有明親王(醍醐天皇の皇子)の妃である藤原暁子が出家し、有明親王の子明救(みょうぐ)が入寺している。その後、皇室との関係が深かったが、室町幕府8代将軍足利義政が山荘(後の慈照寺銀閣)を建てるにあたり、相国寺付近に移されその後廃絶した。その浄土寺の跡を引き継ぐにあたり享保年間(1716〜1736)に建てられたのがこの寺とされてる。
当会の記事の写真はクリックすると720ピクセルの画面となり、駒札等が読みやすくなります。
1.ホテルロビーで京都市バス一日乗り放題500円券を購入して、河原町松原バス停から銀閣寺道まで乗車!此処から哲学の道を歩く!

2、関雪桜の並木道

3.関雪桜の碑

4、現在地

5.久し振りに銀閣寺を拝観しようと思ったが、入山は午前8時30分からで、お隣の浄土院を参拝!山門です。

6.浄土院の駒札

7.お釈迦様に甘茶をかけて参拝です!

8.二位の局の駒札

9.境内の仏足石

10.本堂は早朝で空いていません!斜めから拝観!

11.境内の仏像郡

12.同上

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1.ホテルロビーで京都市バス一日乗り放題500円券を購入して、河原町松原バス停から銀閣寺道まで乗車!此処から哲学の道を歩く!

2、関雪桜の並木道

3.関雪桜の碑

4、現在地

5.久し振りに銀閣寺を拝観しようと思ったが、入山は午前8時30分からで、お隣の浄土院を参拝!山門です。

6.浄土院の駒札

7.お釈迦様に甘茶をかけて参拝です!

8.二位の局の駒札

9.境内の仏足石

10.本堂は早朝で空いていません!斜めから拝観!

11.境内の仏像郡

12.同上

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2013/4/28
春の京の文化財・史址を見る!13.崇徳天皇・源頼政を祀る安井金比羅宮! 文化財研修記
安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)は京都府京都市東山区にある神社である。「安井のこんぴらさん」で知られる。祭神は崇徳天皇(すとくてんのう)、大物主神(おおものぬしのかみ)、源 頼政(みなもとのよりまさ)である。
藤・山吹の名勝の地であり、天智天皇の治世に藤原鎌足が当地に藤原家一門の繁栄を祈願した仏堂を建立し、藤を植樹して藤寺と号した。崇徳天皇は藤寺の藤を愛でるとともに、寵愛した阿波内侍を住まわせて、たびたび御幸した。崇徳上皇は讃岐国に流刑になった後、阿波内侍に自筆の尊影を下賜した。崇徳上皇が讃岐国で崩御すると、悲嘆にくれた阿波内侍は出家して尼になり、崇徳上皇の自筆の尊影を藤寺観音堂に奉納して、日夜ひたすら勤行した。治承元年(1177)、崇徳上皇の自筆の尊影が奉納された藤寺観音堂に大円法師が参拝した際、崇徳上皇の霊が現れたことから、後白河法皇の詔によって建治年間(1275〜1277)に光明院観勝寺が建立されたのが当社の起こりとされる。光明院観勝寺は応仁の乱の戦渦で荒廃したが、明応6年(1497)住持の幸盛が御影堂(現在の崇徳天皇御廟])を再興し、崇徳上皇を慰霊した。元禄8年(1695)に太秦安井(現在の京都市右京区)の蓮華光院(安井門跡)が移建されると、光明院観勝寺はその管下になった。後代になって、光明院観勝寺は廃絶した。なお、近年において崇徳上皇を慰霊した光明院と観勝寺、通説では観勝寺の別名とされていた東岩蔵寺は元は全て別の寺院で、光明院・観勝寺が東岩蔵寺の末寺であったものが応仁の乱による東岩蔵寺の廃絶などによって最終的には光明院を経て蓮華光院に統合され、その過程で東岩蔵寺・光明院・観勝寺の寺伝が混同されるようになったとする指摘が出されている。
都名所図会巻之三「安井光明院観勝寺」によれば、真言宗の僧侶の大円法師が参籠した際に崇徳上皇の尊霊が現れて往時の趣を示したので、後白河法皇に奏達したところ、詔が下って崇徳上皇の尊霊の鎮魂のために堂塔を建立して仏堂に准胝観音を本尊として祀り、奥の社には崇徳天皇を祀るとともに、金毘羅権現・源三位頼政を合祀し、安井の金毘羅と称したとあり、「崇徳帝・金毘羅は一体にして和光の塵は同じうして擁護の明眸を... 利生霊験いちじるし」と記されている。
源頼政が合祀されたのは、蓮華光院(安井門跡)の初代が道尊僧正が高倉宮以仁王の遺児であったためと考えられている。
明治維新の神仏分離(神仏判然令)により、蓮華光院(安井門跡)は廃寺に追い込まれ、当時の国家神道の安井神社に強制的に改組された。併せて、祭神の金毘羅権現は、大物主神に改められた。明治6年(1873)村社に列し、更には明治15年(1882)郷社に昇格した。第二次世界大戦後、国家神道から神道の宗教法人に改組されるに伴って「安井金比羅宮」の名称となり現在に至る。
1.京都リッチホテル(河原町五条西側上る)で安くて便利だ、今後ここを利用しょうと思っている。

2.優雅でパソコン設備もあるロビー

3.早朝、朝食前に河原町松原橋をわたり、建仁寺正面を通る

4.建仁寺横の道を通り東山の安井金比羅宮へ向う

6.安井金比羅宮の一つの鳥居(反対側にも鳥居がある、入口は3ヶ所ある)

7.同上 駒札

8.古木の桜もう散ってしまっている!

9.もう一方の鳥居

10.この鳥居には寛政8年(1886)見事な銘が刻まれている

11.絵馬堂への道(早朝で絵馬堂は閉まっており余り格好が良くないの撮影せず)

12.手水鉢

13.拝殿は平成の大修理で仮拝殿だ!

14.悪縁を切る(良縁、縁結)石の駒札

15.同上 物凄いお札が貼られて覆われている「悪縁切石」(良縁、縁結びにも良い)

16.有名な崇徳天皇が愛した藤が4月11日朝には咲いていた!

17.仮拝殿

18.境内社の一つ

19.三つ目の入口の鳥居

20.第一の鳥居から見る

21.建仁寺を通り抜けて国重文の仏殿を右手に見て、ホテルへ7時前に帰る!

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藤・山吹の名勝の地であり、天智天皇の治世に藤原鎌足が当地に藤原家一門の繁栄を祈願した仏堂を建立し、藤を植樹して藤寺と号した。崇徳天皇は藤寺の藤を愛でるとともに、寵愛した阿波内侍を住まわせて、たびたび御幸した。崇徳上皇は讃岐国に流刑になった後、阿波内侍に自筆の尊影を下賜した。崇徳上皇が讃岐国で崩御すると、悲嘆にくれた阿波内侍は出家して尼になり、崇徳上皇の自筆の尊影を藤寺観音堂に奉納して、日夜ひたすら勤行した。治承元年(1177)、崇徳上皇の自筆の尊影が奉納された藤寺観音堂に大円法師が参拝した際、崇徳上皇の霊が現れたことから、後白河法皇の詔によって建治年間(1275〜1277)に光明院観勝寺が建立されたのが当社の起こりとされる。光明院観勝寺は応仁の乱の戦渦で荒廃したが、明応6年(1497)住持の幸盛が御影堂(現在の崇徳天皇御廟])を再興し、崇徳上皇を慰霊した。元禄8年(1695)に太秦安井(現在の京都市右京区)の蓮華光院(安井門跡)が移建されると、光明院観勝寺はその管下になった。後代になって、光明院観勝寺は廃絶した。なお、近年において崇徳上皇を慰霊した光明院と観勝寺、通説では観勝寺の別名とされていた東岩蔵寺は元は全て別の寺院で、光明院・観勝寺が東岩蔵寺の末寺であったものが応仁の乱による東岩蔵寺の廃絶などによって最終的には光明院を経て蓮華光院に統合され、その過程で東岩蔵寺・光明院・観勝寺の寺伝が混同されるようになったとする指摘が出されている。
都名所図会巻之三「安井光明院観勝寺」によれば、真言宗の僧侶の大円法師が参籠した際に崇徳上皇の尊霊が現れて往時の趣を示したので、後白河法皇に奏達したところ、詔が下って崇徳上皇の尊霊の鎮魂のために堂塔を建立して仏堂に准胝観音を本尊として祀り、奥の社には崇徳天皇を祀るとともに、金毘羅権現・源三位頼政を合祀し、安井の金毘羅と称したとあり、「崇徳帝・金毘羅は一体にして和光の塵は同じうして擁護の明眸を... 利生霊験いちじるし」と記されている。
源頼政が合祀されたのは、蓮華光院(安井門跡)の初代が道尊僧正が高倉宮以仁王の遺児であったためと考えられている。
明治維新の神仏分離(神仏判然令)により、蓮華光院(安井門跡)は廃寺に追い込まれ、当時の国家神道の安井神社に強制的に改組された。併せて、祭神の金毘羅権現は、大物主神に改められた。明治6年(1873)村社に列し、更には明治15年(1882)郷社に昇格した。第二次世界大戦後、国家神道から神道の宗教法人に改組されるに伴って「安井金比羅宮」の名称となり現在に至る。
1.京都リッチホテル(河原町五条西側上る)で安くて便利だ、今後ここを利用しょうと思っている。

2.優雅でパソコン設備もあるロビー

3.早朝、朝食前に河原町松原橋をわたり、建仁寺正面を通る

4.建仁寺横の道を通り東山の安井金比羅宮へ向う

6.安井金比羅宮の一つの鳥居(反対側にも鳥居がある、入口は3ヶ所ある)

7.同上 駒札

8.古木の桜もう散ってしまっている!

9.もう一方の鳥居

10.この鳥居には寛政8年(1886)見事な銘が刻まれている

11.絵馬堂への道(早朝で絵馬堂は閉まっており余り格好が良くないの撮影せず)

12.手水鉢

13.拝殿は平成の大修理で仮拝殿だ!

14.悪縁を切る(良縁、縁結)石の駒札

15.同上 物凄いお札が貼られて覆われている「悪縁切石」(良縁、縁結びにも良い)

16.有名な崇徳天皇が愛した藤が4月11日朝には咲いていた!

17.仮拝殿

18.境内社の一つ

19.三つ目の入口の鳥居

20.第一の鳥居から見る

21.建仁寺を通り抜けて国重文の仏殿を右手に見て、ホテルへ7時前に帰る!

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2013/4/27
春の京の文化財・史址を見る!12.木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀るわら天神宮! 文化財研修記
わら天神宮は古くは北山の神として、大古山背国葛野郡衣笠村に降臨された天神地祇で、古くより土地の人々の信仰を集めてました。天長8年(831)この地に氷室が設けられ、その夫役が加賀の国より移住し、その地で崇敬していた菅生石部神の分霊を勧請して、子々孫々の氏神とすべく、北山の神の西隣に祀って、祭神を菅生石部神の御母木花開耶姫命と定めました。応永4年(1397)足利三代将軍義満が西園寺北山殿を山荘として造営するに方り、参拝に不便になり、両者を合祀し、現在地に移転600年を過ぎます。祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)で安産、子授、家内安全、災難厄除、開運必勝、心願成就などを祈ります。今日も平日なのに1組が初参りであった。摂社に六勝稲荷神社があり試験合格の神として信仰を集め、入試シーズンには受験生達でにぎわいます。また司法試験、公認会計士、税理士等の資格試験にもご利益あり。参拝者も数多く訪れます。
摂社の綾杉明神は境内本殿西側に祀っています。「捨遣集」十神歌の部に清原元輔が安和元年(968)「生ひ繁れ平野の原のあや杉よ、濃き紫に立ちかさぬべく」と詠む。
応仁の乱の兵火を免れましたが、明治29年8月の台風に惜しくも倒壊致しました。昔から神木として崇拝する者多く、今や素屋根をかけ「綾杉明神」と敬い奉る。
1.わら天神宮の石の大鳥居

2.平日なのに1組のカップルが赤ちゃん連れて御礼参りか!

3.二の鳥居

4.手水舎

5.舞殿

6.わら店神宮(敷地神社拝殿)拝殿と右は六勝神社

7.本社・敷地神社(わら天神宮)駒札

8.わら天神宮(敷地神社)拝殿

9.摂社六勝神社の駒札

10.摂社 六勝神社

11.拝殿後部から本殿を見る

12.末社 綾杉大明神

13.末社 大山祇神社

14.逆サイドから本殿を見る

15.六勝神社はバックシャン

16.末社 八幡神社

17.サヨナラわら天神

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摂社の綾杉明神は境内本殿西側に祀っています。「捨遣集」十神歌の部に清原元輔が安和元年(968)「生ひ繁れ平野の原のあや杉よ、濃き紫に立ちかさぬべく」と詠む。
応仁の乱の兵火を免れましたが、明治29年8月の台風に惜しくも倒壊致しました。昔から神木として崇拝する者多く、今や素屋根をかけ「綾杉明神」と敬い奉る。
1.わら天神宮の石の大鳥居

2.平日なのに1組のカップルが赤ちゃん連れて御礼参りか!

3.二の鳥居

4.手水舎

5.舞殿

6.わら店神宮(敷地神社拝殿)拝殿と右は六勝神社

7.本社・敷地神社(わら天神宮)駒札

8.わら天神宮(敷地神社)拝殿

9.摂社六勝神社の駒札

10.摂社 六勝神社

11.拝殿後部から本殿を見る

12.末社 綾杉大明神

13.末社 大山祇神社

14.逆サイドから本殿を見る

15.六勝神社はバックシャン

16.末社 八幡神社

17.サヨナラわら天神

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2013/4/26
春の京の文化財・史址を見る!11.江戸時代に岩清水八幡宮から分霊された金攫八幡宮! 文化財研修記
金攫八幡宮は(きんかくはちまんぐう)、別名、小北山八幡宮(おぎたやまはちまんぐう)とも呼ばれ、江戸時代の貞享2年(1685)正月に、京都府八幡市の岩清水八幡宮から、祭神の八幡神(応神天皇)を分霊して、現在の地(当時は、葛野郡衣笠村字小北山(かどのぐんきぬがさむらあざおぎたやま)と呼ばれていました)に創建された神社です。
その後はこの地の産土神として、人々の崇敬を集めてきたようです。祭神は、もちろん応神天皇ですが、古来、文教の祖、殖産興業の守護神として、また長寿だったことから延寿(寿命を延ばす)の神として拝められました。
創建当時は、この地は田圃の中にわずかな住居が点在するような寂しい場所でしたが、現在は京都市内の西北の一角(京都市北区平野桜木町)となり、多くの人々に親しまれる神社となったということです。また境内の東側には、大きな(高さ8.5m、周囲1.63m)のクロガネモチ(「黄金(こがね)モチ」)の木があり、秋には赤い実を付けます。
本殿は昭和42年(1967)秋に改修され、桧皮葺屋根から銅葺屋根に改め現在に至っています。また境内には稲荷神社も祀られています。神社駒札より抜粋。
1.金攫八幡宮の鳥居

2.現在地(平野神社から道を渡りわら天神へ向う、左側に好きなクロガネモチの木がちらりと見えたのでこの神社を取材することにした。モチノキは凄く強く広島の原爆に生き残った巨大なクロガネモチノキも見ている)

3.手水舎

4.拝殿

5.横から拝殿を見る

6.摂社の稲荷神社

7.境内のソメイ吉野はもう散りかけている

8.驚くなかれ!之が10月撮影したクロガネモチノキで赤い実を一杯つけている。昔の
CDから取り出したものです!3代前のカメラで画像をクリックすると500ピクセルで見れます。今のカメラは全て720ピクセルで見れます。

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その後はこの地の産土神として、人々の崇敬を集めてきたようです。祭神は、もちろん応神天皇ですが、古来、文教の祖、殖産興業の守護神として、また長寿だったことから延寿(寿命を延ばす)の神として拝められました。
創建当時は、この地は田圃の中にわずかな住居が点在するような寂しい場所でしたが、現在は京都市内の西北の一角(京都市北区平野桜木町)となり、多くの人々に親しまれる神社となったということです。また境内の東側には、大きな(高さ8.5m、周囲1.63m)のクロガネモチ(「黄金(こがね)モチ」)の木があり、秋には赤い実を付けます。
本殿は昭和42年(1967)秋に改修され、桧皮葺屋根から銅葺屋根に改め現在に至っています。また境内には稲荷神社も祀られています。神社駒札より抜粋。
1.金攫八幡宮の鳥居

2.現在地(平野神社から道を渡りわら天神へ向う、左側に好きなクロガネモチの木がちらりと見えたのでこの神社を取材することにした。モチノキは凄く強く広島の原爆に生き残った巨大なクロガネモチノキも見ている)

3.手水舎

4.拝殿

5.横から拝殿を見る

6.摂社の稲荷神社

7.境内のソメイ吉野はもう散りかけている

8.驚くなかれ!之が10月撮影したクロガネモチノキで赤い実を一杯つけている。昔の
CDから取り出したものです!3代前のカメラで画像をクリックすると500ピクセルで見れます。今のカメラは全て720ピクセルで見れます。

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2013/4/25
東大寺盧舎那仏(るしゃなぶつ)(国宝)などを拝観 文化財研修記
家内のリクエスト興福寺の次は東大寺参拝であった。
写真説明は平成17年秋に行われた「世界文化遺産・奈良東大寺の国宝を訪ねて」から引用する。
東大寺(華厳宗総本山)の略歴
奈良、春日山の西麓に建つ東大寺は、盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とする華厳宗(けごんしゅう)の総本山。 仏教を中心とする国造りを進めた聖武天皇の発願で、総国分寺として創建。
大仏建立は国力を傾けた一大プロジェクトでした。その背景には、皇太子もとい基親王の病死をはじめとして、当時の世上は、政治の中枢を占めていた藤原(なかとみ中臣)かまたり鎌足の第二子のふひと不比等の子供、南家・北家・武家・京家の四兄弟の病死や、疫病の流行、全国的な飢餓の広がりがありました。又、幸いにも奥州で砂金が見つかり、大量の砂金が大仏の塗金のため寄贈されたとも言われています。
天平勝宝四年(752)、開眼法要が盛大に営まれました。治承四年(1180)、平重盛の南都焼き討ちで大半の堂塔を焼失したが、すぐにじゅうげん重源の勧進で復興。しかし、永禄十年(1567)に松永久秀の兵火で再消失。
江戸中期の元禄五年(1692)になって五代将軍綱吉の母・桂昌院を動ごかし幕府の多大な援助を引き出し、大仏開眼をしたのは大和出身の僧・隆光でした。
この境内には数得れないほどの国宝があります。例として、南大門とその仁王像・大仏殿と大仏・鐘楼・三月堂(法華堂)と内部の十二の像などであります。 大仏殿(国宝)東大寺の金堂である。二度兵火に遭い江戸時代に再建されたが、天平・鎌倉時代の大仏殿は十一間であったが、財政困難で今は七間であるが、それでも世界最大の木造建築物である。東西57.012、南北50.48、高さ48.742メートルである。

東大寺南大門(国宝)に向かい行き交う人と鹿
天平勝宝四年(752)に創建された東大寺の正面で、十二世紀後半の台風による倒壊や治承の兵火を得て、重源上人が宋の技術を導入してつくらせた、いわゆる「大仏様式」の代表的な建物で重層入母屋造りの五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造である。また、屋根裏まで達する大円柱十八本は21メートル、基壇上25.46メートルに達する我が国最大の山門である。

世界文化遺産 記念の石標

東大寺南大門(国宝)と金剛力士像(国宝)
この門の中には東西相対し、阿吽(あうん)一対の金剛力士像(仁王)が安置されている阿形は8.43メートル、吽形は8.36メートルもある巨大なヒノキ材の寄木造りの工法でつくられた木造である。
又、この像は鎌倉初期・建仁三年(1203)に運慶や快慶ら仏師たちによってわずか69日で造像されたと云う。

東大寺中門前、後ろの屋根は、華厳宗総本山・国宝大仏殿に向かう

東大寺中門を左に歩いて回廊の中に入場受付がある

大仏殿(国宝)
東大寺の金堂である。二度兵火に遭い江戸時代に再建されたが、天平・鎌倉時代の大仏殿は十一間であったが、財政困難で今は七間であるが、それでも世界最大の木造建築物である。東西57.012、南北50.48、高さ48.742メートルである。

八角灯籠(国宝)
境内に入ると巨大な大仏殿が目に付く。此処から更に大仏殿の前に行くと、巨大な金銅の八角灯籠がある、高さ4.6メートルもあり、この灯籠は東大寺創建当時のものとされ、その後、多少手を加えているが天平時代の金工技術と工芸意匠の素晴らしさを現代に伝えている。非常に大きな火袋が特徴で東西南北の四面には両開きの扉に雲中を走る唐獅子と他の四面には優美な音声(おんじょう)菩薩(ぼさつ)の浮彫が見られる。

さわり仏 自分の痛む場所に触ると平癒するという信仰仏 人が群がっている

盧舎那仏(るしゃなぶつ)(国宝)
大仏様は正しくは毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)と云いその意味は、知恵と慈悲の光明を遍く(あまねく)照らし出されている仏ということである。
インドのカピラ城(今のネパール)に生まれた釈尊は29歳のときに出家され、以後6年間難行苦行を重ね、ついに尼連(にれん)禅(ぜん)河(げ)のほとりの菩提樹下で大いなる宗教体験を得られた。「大方広仏華厳経」は時間と空間を超えたほとけとなられたその瞬間の釈尊の姿を描いたお経で、偉大で、正しく、広大なほとけの世界を、菩薩のさまざまな実践の華(はな)によって飾ることを説いている。このお経によれば、鳥の声、花の色、水の流れ、雲の姿すべて生きとし生けるものを救おうとするビルシャナ仏の説法であり、大仏尊像の台座の周りの蓮弁には「蓮華蔵世界」と呼ばれている毛彫図が刻まれ、「華厳経」の説く「悟りの世界」を絵に表している。
尊像 像高:14.98m、目長:1.02m、耳長:2.54m、顔長:5.33m、鼻高:0.5m、台座3.05mです。

盧舎那仏(るしゃなぶつ)(国宝)、右側から

虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
江戸時代の木造で、大仏右脇(正面から見ると左側)にあります。虚空蔵とは広大無辺の功徳が虚空のように大きく壊れることがないという意味です。この菩薩を念じれば記憶力が増すと考えられ、特に知恵を授ける仏として信仰されるようになりました

如意輪観音菩薩像(にょいりんかんのんぼさつ)
江戸時代の木造で、大仏の左脇(正面から見ると右側)にあります。煩悩を打ち砕く法輪を持つものとされ、衆生に利益を与える菩薩であると言われています。

広目天像
江戸時代の木造で、大仏殿内の西北隅にあります。四天王のうち西方を守る神で、筆と経巻を持っています。

多聞天像
江戸時代の木造で、大仏殿内の東北隅にあります。四天王の一つで、北方を守っています。左手に矛を持ち、右手で仏塔を捧げています。

仏頭 2躯

金銅八角燈籠と東大寺中門
音声菩薩(おんじょうぼさつ)
大仏殿の前に金銅八角燈籠(こんどうはっかくとうろう)があります。音声菩薩(おんじょうぼさつ)という天女像をすかし彫りにしたものが、この燈籠の火ぶくろの扉に表現されています。国宝にふさわしい優れた工芸品といえます

東大寺中門の回廊を左に進み外へ出る。
法華堂(三月堂・国宝)、二月堂(国重文)へ行くには大仏殿に沿い左に進むが今回は行かなかった。高い石段を登るので、家内は足が悪く無理。
タイミング良く、市内巡回バスに載り近鉄奈良駅に戻った。
平成17年秋の世界文化遺産・奈良東大寺の国宝を訪ねてのHPは、次をクリックください。
http://ayabun.net/kensyu/todaiji/todaiji.html
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写真説明は平成17年秋に行われた「世界文化遺産・奈良東大寺の国宝を訪ねて」から引用する。
東大寺(華厳宗総本山)の略歴
奈良、春日山の西麓に建つ東大寺は、盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とする華厳宗(けごんしゅう)の総本山。 仏教を中心とする国造りを進めた聖武天皇の発願で、総国分寺として創建。
大仏建立は国力を傾けた一大プロジェクトでした。その背景には、皇太子もとい基親王の病死をはじめとして、当時の世上は、政治の中枢を占めていた藤原(なかとみ中臣)かまたり鎌足の第二子のふひと不比等の子供、南家・北家・武家・京家の四兄弟の病死や、疫病の流行、全国的な飢餓の広がりがありました。又、幸いにも奥州で砂金が見つかり、大量の砂金が大仏の塗金のため寄贈されたとも言われています。
天平勝宝四年(752)、開眼法要が盛大に営まれました。治承四年(1180)、平重盛の南都焼き討ちで大半の堂塔を焼失したが、すぐにじゅうげん重源の勧進で復興。しかし、永禄十年(1567)に松永久秀の兵火で再消失。
江戸中期の元禄五年(1692)になって五代将軍綱吉の母・桂昌院を動ごかし幕府の多大な援助を引き出し、大仏開眼をしたのは大和出身の僧・隆光でした。
この境内には数得れないほどの国宝があります。例として、南大門とその仁王像・大仏殿と大仏・鐘楼・三月堂(法華堂)と内部の十二の像などであります。 大仏殿(国宝)東大寺の金堂である。二度兵火に遭い江戸時代に再建されたが、天平・鎌倉時代の大仏殿は十一間であったが、財政困難で今は七間であるが、それでも世界最大の木造建築物である。東西57.012、南北50.48、高さ48.742メートルである。

東大寺南大門(国宝)に向かい行き交う人と鹿
天平勝宝四年(752)に創建された東大寺の正面で、十二世紀後半の台風による倒壊や治承の兵火を得て、重源上人が宋の技術を導入してつくらせた、いわゆる「大仏様式」の代表的な建物で重層入母屋造りの五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造である。また、屋根裏まで達する大円柱十八本は21メートル、基壇上25.46メートルに達する我が国最大の山門である。

世界文化遺産 記念の石標

東大寺南大門(国宝)と金剛力士像(国宝)
この門の中には東西相対し、阿吽(あうん)一対の金剛力士像(仁王)が安置されている阿形は8.43メートル、吽形は8.36メートルもある巨大なヒノキ材の寄木造りの工法でつくられた木造である。
又、この像は鎌倉初期・建仁三年(1203)に運慶や快慶ら仏師たちによってわずか69日で造像されたと云う。

東大寺中門前、後ろの屋根は、華厳宗総本山・国宝大仏殿に向かう

東大寺中門を左に歩いて回廊の中に入場受付がある

大仏殿(国宝)
東大寺の金堂である。二度兵火に遭い江戸時代に再建されたが、天平・鎌倉時代の大仏殿は十一間であったが、財政困難で今は七間であるが、それでも世界最大の木造建築物である。東西57.012、南北50.48、高さ48.742メートルである。

八角灯籠(国宝)
境内に入ると巨大な大仏殿が目に付く。此処から更に大仏殿の前に行くと、巨大な金銅の八角灯籠がある、高さ4.6メートルもあり、この灯籠は東大寺創建当時のものとされ、その後、多少手を加えているが天平時代の金工技術と工芸意匠の素晴らしさを現代に伝えている。非常に大きな火袋が特徴で東西南北の四面には両開きの扉に雲中を走る唐獅子と他の四面には優美な音声(おんじょう)菩薩(ぼさつ)の浮彫が見られる。

さわり仏 自分の痛む場所に触ると平癒するという信仰仏 人が群がっている

盧舎那仏(るしゃなぶつ)(国宝)
大仏様は正しくは毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)と云いその意味は、知恵と慈悲の光明を遍く(あまねく)照らし出されている仏ということである。
インドのカピラ城(今のネパール)に生まれた釈尊は29歳のときに出家され、以後6年間難行苦行を重ね、ついに尼連(にれん)禅(ぜん)河(げ)のほとりの菩提樹下で大いなる宗教体験を得られた。「大方広仏華厳経」は時間と空間を超えたほとけとなられたその瞬間の釈尊の姿を描いたお経で、偉大で、正しく、広大なほとけの世界を、菩薩のさまざまな実践の華(はな)によって飾ることを説いている。このお経によれば、鳥の声、花の色、水の流れ、雲の姿すべて生きとし生けるものを救おうとするビルシャナ仏の説法であり、大仏尊像の台座の周りの蓮弁には「蓮華蔵世界」と呼ばれている毛彫図が刻まれ、「華厳経」の説く「悟りの世界」を絵に表している。
尊像 像高:14.98m、目長:1.02m、耳長:2.54m、顔長:5.33m、鼻高:0.5m、台座3.05mです。

盧舎那仏(るしゃなぶつ)(国宝)、右側から

虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
江戸時代の木造で、大仏右脇(正面から見ると左側)にあります。虚空蔵とは広大無辺の功徳が虚空のように大きく壊れることがないという意味です。この菩薩を念じれば記憶力が増すと考えられ、特に知恵を授ける仏として信仰されるようになりました

如意輪観音菩薩像(にょいりんかんのんぼさつ)
江戸時代の木造で、大仏の左脇(正面から見ると右側)にあります。煩悩を打ち砕く法輪を持つものとされ、衆生に利益を与える菩薩であると言われています。

広目天像
江戸時代の木造で、大仏殿内の西北隅にあります。四天王のうち西方を守る神で、筆と経巻を持っています。

多聞天像
江戸時代の木造で、大仏殿内の東北隅にあります。四天王の一つで、北方を守っています。左手に矛を持ち、右手で仏塔を捧げています。

仏頭 2躯

金銅八角燈籠と東大寺中門
音声菩薩(おんじょうぼさつ)
大仏殿の前に金銅八角燈籠(こんどうはっかくとうろう)があります。音声菩薩(おんじょうぼさつ)という天女像をすかし彫りにしたものが、この燈籠の火ぶくろの扉に表現されています。国宝にふさわしい優れた工芸品といえます

東大寺中門の回廊を左に進み外へ出る。
法華堂(三月堂・国宝)、二月堂(国重文)へ行くには大仏殿に沿い左に進むが今回は行かなかった。高い石段を登るので、家内は足が悪く無理。
タイミング良く、市内巡回バスに載り近鉄奈良駅に戻った。
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2013/4/25
春の京の文化財・史址を見る!10.元平城宮にあった神社を桓武天皇が勧請した平野神社の桜祭り! 文化財研修記
平野神社(ひらのじんじゃ)は、京都府京都市北区にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「桜」。護り神は以下の4柱。第一殿:今木神 - 源気新生、活力生成の神第二殿:久度神 - 竈の神、衣食住の生活安泰の神第三殿:古開神 - 邪気を振り開く平安の神>第四殿:比売神 - 生産力の神。
延暦13年(794)、桓武天皇による平安京遷都にともない、平城京で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始まる。元々今木神は平城京の田村後宮に、久度神・古開神は大和国平群郡の式内・久度神社に祀られていた。比売神は承和年間より祀られるようになったものである。
仁寿元年(851)、今木神に従二位、久度神・古開神に従四位、比売神に正五位の神階が授けられ、その中で当社のことを「平野神宮」と記述している。その後も神階は昇って行き、貞観元年(859)には今木神に最高位の正一位の神階が授けられている。『延喜式神名帳』には「山城国葛野郡 平野祭神四社」と記載され、名神大社に列していた(2005年まで鳥居の扁額には「平野大社」と銘記されていた)。また、祭神について「平野大神」「皇大御神」という称号も使用されていた。 例大祭の平野祭には皇太子が奉幣する定めになっていた。また歴代天皇の行幸も円融天皇から後醍醐天皇までの17帝21回を記録するなど天皇家の崇敬も厚くそれに伴い、源氏、平氏、大江氏、菅原氏などの公家の氏神にもなった。中世には二十二社上七社の一社となった。
神紋は桜で、今も桜の名所として名高い。平安時代の中ごろ花山天皇によって境内に数千本の桜が植えられたのが起源で、寛和元年(985年)4月10日に臨時勅祭が開かれ、平野桜祭りとして今に残る。
応仁の乱をはじめたびたび社殿が焼失し、そのたびに再建を繰り返し、天文法華の乱によって、社殿および社領は完全に荒廃したといわれる。
江戸時代の伝奏役は、代々、堂上平家の西洞院家が勤めた。明治4年(1871)に官幣大社に列格した。
本殿は江戸時代、寛永年間西洞院時慶の造営。一間社春日造の社殿2つを左右に並べ、合の間で連結して2殿を一体とした独特の形式の社殿が2棟建つ。この建築形式は「比翼春日造」とも、社名より「平野造」とも呼ばれる。重要文化財に指定。拝殿は東福門院による寄進。拝殿に飾られた36歌仙絵は、平松時量の寄進で、書は近衛基煕、絵は海北友雪のものである。
1.4月10日が今尚、平野神社の桜祭りで今回初めて参拝した!

2.朱の大鳥居を潜ると左手は「桜の通り抜け」

3.午後3時45分露天商の並びを通る!

4.華やかな毛氈の店だ!

5.もう一方の朱の大鳥居

6.平野神社の門

7.平野神社の桜の案内板

8.手水舎

9.摂社の猿田彦・稲荷神社

10.舞殿

11.日本一大きなすえひろかね!

12.霊験あらたかな御神木をなでて一周する!

13.平野造・比翼造(ひよくつくり)と呼ばれ、一間社流造の春日造の社殿を二つを1間の間(あい)の間で結いでいるため、三間社に見え、それが二つあるので比翼造という国重文の拝殿!

14.拝殿前の桜

15.同上

16.下記をクリックして、「音声付動画」で平野神社の「桜行列の帰着」を見て下さい!
http://youtu.be/c0Tg3Sh9SHk
17.係りの方に押し出された!撮影はこれ以外ないです!

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延暦13年(794)、桓武天皇による平安京遷都にともない、平城京で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始まる。元々今木神は平城京の田村後宮に、久度神・古開神は大和国平群郡の式内・久度神社に祀られていた。比売神は承和年間より祀られるようになったものである。
仁寿元年(851)、今木神に従二位、久度神・古開神に従四位、比売神に正五位の神階が授けられ、その中で当社のことを「平野神宮」と記述している。その後も神階は昇って行き、貞観元年(859)には今木神に最高位の正一位の神階が授けられている。『延喜式神名帳』には「山城国葛野郡 平野祭神四社」と記載され、名神大社に列していた(2005年まで鳥居の扁額には「平野大社」と銘記されていた)。また、祭神について「平野大神」「皇大御神」という称号も使用されていた。 例大祭の平野祭には皇太子が奉幣する定めになっていた。また歴代天皇の行幸も円融天皇から後醍醐天皇までの17帝21回を記録するなど天皇家の崇敬も厚くそれに伴い、源氏、平氏、大江氏、菅原氏などの公家の氏神にもなった。中世には二十二社上七社の一社となった。
神紋は桜で、今も桜の名所として名高い。平安時代の中ごろ花山天皇によって境内に数千本の桜が植えられたのが起源で、寛和元年(985年)4月10日に臨時勅祭が開かれ、平野桜祭りとして今に残る。
応仁の乱をはじめたびたび社殿が焼失し、そのたびに再建を繰り返し、天文法華の乱によって、社殿および社領は完全に荒廃したといわれる。
江戸時代の伝奏役は、代々、堂上平家の西洞院家が勤めた。明治4年(1871)に官幣大社に列格した。
本殿は江戸時代、寛永年間西洞院時慶の造営。一間社春日造の社殿2つを左右に並べ、合の間で連結して2殿を一体とした独特の形式の社殿が2棟建つ。この建築形式は「比翼春日造」とも、社名より「平野造」とも呼ばれる。重要文化財に指定。拝殿は東福門院による寄進。拝殿に飾られた36歌仙絵は、平松時量の寄進で、書は近衛基煕、絵は海北友雪のものである。
1.4月10日が今尚、平野神社の桜祭りで今回初めて参拝した!

2.朱の大鳥居を潜ると左手は「桜の通り抜け」

3.午後3時45分露天商の並びを通る!

4.華やかな毛氈の店だ!

5.もう一方の朱の大鳥居

6.平野神社の門

7.平野神社の桜の案内板

8.手水舎

9.摂社の猿田彦・稲荷神社

10.舞殿

11.日本一大きなすえひろかね!

12.霊験あらたかな御神木をなでて一周する!

13.平野造・比翼造(ひよくつくり)と呼ばれ、一間社流造の春日造の社殿を二つを1間の間(あい)の間で結いでいるため、三間社に見え、それが二つあるので比翼造という国重文の拝殿!

14.拝殿前の桜

15.同上

16.下記をクリックして、「音声付動画」で平野神社の「桜行列の帰着」を見て下さい!
http://youtu.be/c0Tg3Sh9SHk
17.係りの方に押し出された!撮影はこれ以外ないです!

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2013/4/24
春の京の文化財・史址を見る!9.最澄の直弟子の円仁が建立し、良忍が再建した魚山声明の「来迎院」! 文化財研修記
来迎院(らいごういん)は、仁寿年間(851〜854)、比叡山に天台仏教を開いた伝教大師最澄の直弟子である慈覚大師円仁(794〜864)によって中国からもたらされた声明(しょうみょう)の修練道場。円仁 (えんにん)は唐(中国)の五台山(山西省)の支峰の一つの魚山(ぎょざん)で14間の仏教修学のうえ帰国、比叡山で密教や声明などを伝えたが、後に衰退する。寺の山号となっている魚山は、中国の声明の聖地・魚山(ぎょざん)の名に因んでいる。声明とは、インドが起源で仏教の発生とともに始められ梵唱とも言われる。寺院で行われる法要儀式で経文に音曲をつけて歌詠するもので、仏教儀式音楽。後の邦楽(浄瑠璃・謡曲・民謡など)に強く影響を与えたとされている。現在では天台声明と真言声明が主となっている。
天仁2年(1109)、融通念仏の開祖・聖応大師良忍(りょうにん)が叡山東塔・阿弥陀房の堂僧を離れ再興した。良忍上人は、円仁が伝えた声明を統一し“魚山声明”とした とされ、後に魚山流が天台声明の主流となる。天仁時代、大原は比叡を離れた念仏修業僧の隠棲の里となっていて、長和2年(1012)、大原入道寂源(じゃくげん)がこの寺から北へ1kmほどの所に勝林院を建立している。平安末期の大原は、上院来迎院と下院勝林院を中心にとして49もの坊が集落化する別所となり、盛時には法儀声明を修業する僧侶や貴族が数多く集まり、声明のこだまする里として隆盛 している。別所は、魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)と総称するようになり、比叡山は保元1年1156)、梶井政所(現三千院)を設置し魚山大原寺の統括を図ったとされている。
盛時の来迎院は、多数の堂塔伽藍があったが、応永33年(1426)の火災で焼失。再建されたがまたもや罹災。天文年間(1532〜55)に再建された本堂が現在の建物である。
1.三千院を出て来迎寺に登る角には案内の碑がある!

2.その右側には「一福茶屋」食事処、お店がある

3.1,050円のそば定食はお徳で美味であった!

4.お茶の器も中々のものだった!お薦めです。

5.三千院の開かずの朱雀門を左手に参道を登って行く!

6.左手に蓮華華院があるが入山は禁止だ!

7.来迎院本坊への入口

8.来迎院山門

9.京都市指定需要文化財の鐘楼(藤原国次作、室町時代の永享2年(1431))

10.本堂(室町時代後期の天文2年(1534)再建のものです。

11.本堂内陣の見事な仏像郡(国重文の薬師如来、釈迦如来(中)、弥陀如来)脇侍左、不動明王、右は毘沙門天(両方とも藤原時代後期作)前卓は牡丹唐草透かし彫り(鎌倉時代初期のもの)

12.同上を斜めから見る!

13.獅子飛石(鎌倉時代)

14.地蔵堂(鎌倉時代など)

15.聖応大師良忍上人廟への参道

16.御廟

17.国重文の聖応大師良忍上人三重石塔

18.良忍上人絵伝の一部

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天仁2年(1109)、融通念仏の開祖・聖応大師良忍(りょうにん)が叡山東塔・阿弥陀房の堂僧を離れ再興した。良忍上人は、円仁が伝えた声明を統一し“魚山声明”とした とされ、後に魚山流が天台声明の主流となる。天仁時代、大原は比叡を離れた念仏修業僧の隠棲の里となっていて、長和2年(1012)、大原入道寂源(じゃくげん)がこの寺から北へ1kmほどの所に勝林院を建立している。平安末期の大原は、上院来迎院と下院勝林院を中心にとして49もの坊が集落化する別所となり、盛時には法儀声明を修業する僧侶や貴族が数多く集まり、声明のこだまする里として隆盛 している。別所は、魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)と総称するようになり、比叡山は保元1年1156)、梶井政所(現三千院)を設置し魚山大原寺の統括を図ったとされている。
盛時の来迎院は、多数の堂塔伽藍があったが、応永33年(1426)の火災で焼失。再建されたがまたもや罹災。天文年間(1532〜55)に再建された本堂が現在の建物である。
1.三千院を出て来迎寺に登る角には案内の碑がある!

2.その右側には「一福茶屋」食事処、お店がある

3.1,050円のそば定食はお徳で美味であった!

4.お茶の器も中々のものだった!お薦めです。

5.三千院の開かずの朱雀門を左手に参道を登って行く!

6.左手に蓮華華院があるが入山は禁止だ!

7.来迎院本坊への入口

8.来迎院山門

9.京都市指定需要文化財の鐘楼(藤原国次作、室町時代の永享2年(1431))

10.本堂(室町時代後期の天文2年(1534)再建のものです。

11.本堂内陣の見事な仏像郡(国重文の薬師如来、釈迦如来(中)、弥陀如来)脇侍左、不動明王、右は毘沙門天(両方とも藤原時代後期作)前卓は牡丹唐草透かし彫り(鎌倉時代初期のもの)

12.同上を斜めから見る!

13.獅子飛石(鎌倉時代)

14.地蔵堂(鎌倉時代など)

15.聖応大師良忍上人廟への参道

16.御廟

17.国重文の聖応大師良忍上人三重石塔

18.良忍上人絵伝の一部

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2013/4/24
興福寺国宝特別公開2013 南円堂・北円堂・国宝館を拝観 文化財研修記
また天候不順で気温も低い4月23日(火)、家内のリクエストで延び延びの奈良行き、明日は雨の予想なので急遽繰り上げ、近鉄奈良線で行ってきた。
先ずは国宝館で阿修羅像をたっぷり拝観、南円堂で不空羂索観音菩薩坐像、四天王立像を拝観、北円堂では弥勒如来坐像、無著・世親菩薩立像、四天王立像を拝観した。
説明文は、HP:綾部の文化財の研修旅行記から引用しています。
興福寺は天智天皇8年(669)、中臣(藤原)鎌足の私邸(山城国宇治郡山階)に建てられた山階寺(やましなでら)を起源とし、天武朝には大和国高市郡に移って厩坂寺(うまやさかでら)と称されました。
元明朝の和銅3年(7 1 0)に都が平城に遷されると、鎌足の子息藤原不比等(ふひと)は、厩坂寺を新都に移すべく、平城京左京三条七坊の地に寺地を確保して寺名を興福寺と改めました。和銅7年(714)に金堂が創建され、不比等の一周忌の養老5年(721)に北円堂が建立されました。
その後、聖武天皇や不比等の娘である光明皇后の発願によって東金堂や五重塔が建てられ、やがて、七堂伽藍の大寺院になりました。
奈良・平安時代に寺観・内容ともに充実した興福寺は藤原氏の氏寺として栄え、平安中期以降は春日社をも支配して勢力を拡充し、法相(ほっそう)教学を研鎌する法相宗の大寺として南都仏教界の重鎮となりました。
しかし、長い歴史のなかで、戦火や天災などによって度々堂塔が焼失しました。とくに治承4年(1180)の兵火は興福寺を焼亡させましたが、仏師院尊や成朝・明円・康慶・運慶などの有名々巧匠たちが参画した、いわゆる鎌倉復興造営がおこなわれました。
鎌倉時代は武士勢力が強くなりますが、幕府は大和に守護職を置かず、興福寺をしてその任に当たらせたということは、往時の興福寺が各方面に与える影響がいかに大きかったかがわかります。
戦国時代になると武士勢力が強大となり、織豊時代は、検地によって寺領削減がおこなわれ、寺院勢力の弱体化が進行しました。
江戸時代になると、亨保2年(1717)の大火で中心髄藍のほとんどが焼失レました。この火災では、かろうじて東金堂・五重塔・食堂・北円堂・三重塔・大湯屋が罹災からまぬがれ、その後、ようやく南円堂と中金堂のみが再建されました。
明治初頭、神仏分離による廃仏殿釈(はいぶつきしやく)が断行され、興福寺は瓦解同様の姿となりましたが、その後の努力で法灯護持がなされ、現在もなお復興途上にあります。

興福寺国宝特別公開2013 南円堂・北円堂の案内

鹿がいて子供達で賑やかな、興福寺北参道

世界文化遺産 記念の石標

東金堂(国宝)、五重塔(国宝)

国宝館国宝で阿修羅像(八部衆像)・十大弟子像[乾漆造:奈良時代・天平6年(734)]など拝観の後、阿修羅像の絵葉書を求める
国宝館
昭和34年(1959)、旧食堂・細殿跡に興福寺宝物収蔵庫を建設して一般に公開。通称名「興福寺国宝館」として、広く海外にも知られています。当館は仏像彫刻・絵画・工芸品・典籍文書・考古資料・歴史資料などの寺宝(文化財)を多数収蔵し、この中の優品を展示公開しています。
国宝 薬師如来仏頭[銅造:白鳳時代・天武14年(685)]写真@
国宝 阿修羅像(八部衆像)(表紙写真)・十大弟子像[乾漆造:奈良時代・天平6年(734)]写真A
重文 仏手[銀造:奈良時代]
国宝 板彫十二神将像[木造:平安時代]写真B
重文 薬師如来坐像[木造:平安時代]
重文 釈迦如来坐像[木造:平安時代]
重文 地蔵菩薩像[木造:平安時代]
国宝 法相六祖坐像[木造:鎌倉時代:康慶作・文治5年(1189)]写真C
重文 梵天像[木造:鎌倉時代:定慶作・建仁2年(1202)]
国宝 金剛力士像[木造:鎌倉時代]写真D
重文 釈迦如来仏頭[木造:鎌倉時代]
国宝 天灯鬼・竜灯鬼像[木造:鎌倉時代:康弁作・建保3年(1215)]写真E
国宝 千手観音像[木造:鎌倉時代]写真F
重文 梵天・帝釈天像[木造:鎌倉時代]
重文 阿弥陀如来坐像[木造:鎌倉時代]
重文 弥勒仏半跏像[木造:鎌倉時代]
重文 吉祥天倚像[木造:南北朝時代:寛慶作・暦応3年(1340)]写真G
磬[銅造:中国唐時代]写真H
国宝 中金堂鎮壇具[銀鋺:銀製鍍金鋺・水晶玉:奈良時代]
国宝 南円堂灯篭・火袋扉[銅造:平安時代:弘仁7年(816)]写真I
県指定 舎利厨子[木造:南北朝〜室町時代]
*これらの収蔵安置のものは、随時移動がありますのでご了承下さい
@仏頭、A須菩提像、B迷企羅像、C伝玄啻氈ォグし疏氈ォξ掬ウ漢氈ォЮ藜蟯儔餐氈ォ┻半妖経畫氈ォQ攜金氈ォー仟淅睫段
先ずは国宝館で阿修羅像をたっぷり拝観、南円堂で不空羂索観音菩薩坐像、四天王立像を拝観、北円堂では弥勒如来坐像、無著・世親菩薩立像、四天王立像を拝観した。
説明文は、HP:綾部の文化財の研修旅行記から引用しています。
興福寺は天智天皇8年(669)、中臣(藤原)鎌足の私邸(山城国宇治郡山階)に建てられた山階寺(やましなでら)を起源とし、天武朝には大和国高市郡に移って厩坂寺(うまやさかでら)と称されました。
元明朝の和銅3年(7 1 0)に都が平城に遷されると、鎌足の子息藤原不比等(ふひと)は、厩坂寺を新都に移すべく、平城京左京三条七坊の地に寺地を確保して寺名を興福寺と改めました。和銅7年(714)に金堂が創建され、不比等の一周忌の養老5年(721)に北円堂が建立されました。
その後、聖武天皇や不比等の娘である光明皇后の発願によって東金堂や五重塔が建てられ、やがて、七堂伽藍の大寺院になりました。
奈良・平安時代に寺観・内容ともに充実した興福寺は藤原氏の氏寺として栄え、平安中期以降は春日社をも支配して勢力を拡充し、法相(ほっそう)教学を研鎌する法相宗の大寺として南都仏教界の重鎮となりました。
しかし、長い歴史のなかで、戦火や天災などによって度々堂塔が焼失しました。とくに治承4年(1180)の兵火は興福寺を焼亡させましたが、仏師院尊や成朝・明円・康慶・運慶などの有名々巧匠たちが参画した、いわゆる鎌倉復興造営がおこなわれました。
鎌倉時代は武士勢力が強くなりますが、幕府は大和に守護職を置かず、興福寺をしてその任に当たらせたということは、往時の興福寺が各方面に与える影響がいかに大きかったかがわかります。
戦国時代になると武士勢力が強大となり、織豊時代は、検地によって寺領削減がおこなわれ、寺院勢力の弱体化が進行しました。
江戸時代になると、亨保2年(1717)の大火で中心髄藍のほとんどが焼失レました。この火災では、かろうじて東金堂・五重塔・食堂・北円堂・三重塔・大湯屋が罹災からまぬがれ、その後、ようやく南円堂と中金堂のみが再建されました。
明治初頭、神仏分離による廃仏殿釈(はいぶつきしやく)が断行され、興福寺は瓦解同様の姿となりましたが、その後の努力で法灯護持がなされ、現在もなお復興途上にあります。

興福寺国宝特別公開2013 南円堂・北円堂の案内

鹿がいて子供達で賑やかな、興福寺北参道

世界文化遺産 記念の石標

東金堂(国宝)、五重塔(国宝)

国宝館国宝で阿修羅像(八部衆像)・十大弟子像[乾漆造:奈良時代・天平6年(734)]など拝観の後、阿修羅像の絵葉書を求める
国宝館
昭和34年(1959)、旧食堂・細殿跡に興福寺宝物収蔵庫を建設して一般に公開。通称名「興福寺国宝館」として、広く海外にも知られています。当館は仏像彫刻・絵画・工芸品・典籍文書・考古資料・歴史資料などの寺宝(文化財)を多数収蔵し、この中の優品を展示公開しています。
国宝 薬師如来仏頭[銅造:白鳳時代・天武14年(685)]写真@
国宝 阿修羅像(八部衆像)(表紙写真)・十大弟子像[乾漆造:奈良時代・天平6年(734)]写真A
重文 仏手[銀造:奈良時代]
国宝 板彫十二神将像[木造:平安時代]写真B
重文 薬師如来坐像[木造:平安時代]
重文 釈迦如来坐像[木造:平安時代]
重文 地蔵菩薩像[木造:平安時代]
国宝 法相六祖坐像[木造:鎌倉時代:康慶作・文治5年(1189)]写真C
重文 梵天像[木造:鎌倉時代:定慶作・建仁2年(1202)]
国宝 金剛力士像[木造:鎌倉時代]写真D
重文 釈迦如来仏頭[木造:鎌倉時代]
国宝 天灯鬼・竜灯鬼像[木造:鎌倉時代:康弁作・建保3年(1215)]写真E
国宝 千手観音像[木造:鎌倉時代]写真F
重文 梵天・帝釈天像[木造:鎌倉時代]
重文 阿弥陀如来坐像[木造:鎌倉時代]
重文 弥勒仏半跏像[木造:鎌倉時代]
重文 吉祥天倚像[木造:南北朝時代:寛慶作・暦応3年(1340)]写真G
磬[銅造:中国唐時代]写真H
国宝 中金堂鎮壇具[銀鋺:銀製鍍金鋺・水晶玉:奈良時代]
国宝 南円堂灯篭・火袋扉[銅造:平安時代:弘仁7年(816)]写真I
県指定 舎利厨子[木造:南北朝〜室町時代]
*これらの収蔵安置のものは、随時移動がありますのでご了承下さい
@仏頭、A須菩提像、B迷企羅像、C伝玄啻氈ォグし疏氈ォξ掬ウ漢氈ォЮ藜蟯儔餐氈ォ┻半妖経畫氈ォQ攜金氈ォー仟淅睫段
2013/4/23
春の京の文化財・史址を見る!8見事な樹齢700年の五葉松と血天井の天台宗魚山大原寺・「宝泉院」! 綾部の文化財
宝泉院(ほうせんいん)は、京都市左京区大原勝林院町にある天台宗の寺院。天台宗の三門跡寺院の一つである三千院の参道奥にある。大原寺(勝林院)の僧坊の一つとして、長和2年(1012)に創建されたものである。
庭園としては額縁庭園、鶴亀庭園(建物内の格子ごしに鑑賞する)をもち、額縁庭園には樹齢300年の沙羅双樹の木が茂る。樹齢700年の「五葉の松」も観光客に人気がある。こちらは京都市指定の天然記念物に指定されている。また、坊内にある「血天井」は、関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いの際に徳川家臣鳥居元忠以下数百名が自刃した伏見城の床板であり、その霊を供養するため天井板としているものである。
拝観客は、盤桓園・五葉の松の見える座敷に通され、境内入口で渡されたお抹茶券と交換に一服の抹茶と茶菓子を供される。境内には宝楽園という仏神岩組雲海流水回遊花庭もある。
お抹茶つきで入山料800円、小生一日に二度もお抹茶頂いたのは初めでだったが大変美味であった。又ご住職自身が血天井の話をされてのを「音声付動画」で撮影もしたので是非見て頂きたい。
1.宝泉院の山門

2.見事な桜の境内

3.樹齢700年の巨木の五葉松が門越に見えます!

4.法然上人の衣掛石

5.五葉松の駒札(画面をクリックすると720ピクセルで眼鏡無しで読めます)

6.鶴亀庭園(江戸時代中期の作、部屋の中から格子を通して見ると良いのだが撮影が上手く出来ないので外から撮影した。・)

7.同上 2.

8.囲炉裏のある院内

9.盤桓園(ばんけいえん、立ち去りがたいの意味)とも呼ばれる額縁庭園(竹林の間から大原の里が見える風情ある庭です。)巨大な五葉松!

10.血天井(慶長5年関ケ原合戦前、徳川の忠臣鳥居元忠以下数百名が豊臣の大軍と戦い伏見城中で自刃した。その武将達をなぐさめ、供養のために自刃した床を天井にして祀ったものです。)

11.同上 もう一箇所が良く解ります!

12.下記をクリックして、「音声付動画」で血天井の説明をされるご住職です。庭は額縁庭園です。
http://youtu.be/C83iR4RVu3o
13.血天井を見た後で、出された「お抹茶」は喉がからからで大変美味だった!一日2回もお抹茶頂いたのは生まれて初めてだった!今晩は七転八倒で眠れないと思ったが、実際は午後にも平野神社の4月10日の桜祭りやわら天神を見て廻り疲れて、ビールと焼酎でバタンキューと良く眠れた!

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庭園としては額縁庭園、鶴亀庭園(建物内の格子ごしに鑑賞する)をもち、額縁庭園には樹齢300年の沙羅双樹の木が茂る。樹齢700年の「五葉の松」も観光客に人気がある。こちらは京都市指定の天然記念物に指定されている。また、坊内にある「血天井」は、関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いの際に徳川家臣鳥居元忠以下数百名が自刃した伏見城の床板であり、その霊を供養するため天井板としているものである。
拝観客は、盤桓園・五葉の松の見える座敷に通され、境内入口で渡されたお抹茶券と交換に一服の抹茶と茶菓子を供される。境内には宝楽園という仏神岩組雲海流水回遊花庭もある。
お抹茶つきで入山料800円、小生一日に二度もお抹茶頂いたのは初めでだったが大変美味であった。又ご住職自身が血天井の話をされてのを「音声付動画」で撮影もしたので是非見て頂きたい。
1.宝泉院の山門

2.見事な桜の境内

3.樹齢700年の巨木の五葉松が門越に見えます!

4.法然上人の衣掛石

5.五葉松の駒札(画面をクリックすると720ピクセルで眼鏡無しで読めます)

6.鶴亀庭園(江戸時代中期の作、部屋の中から格子を通して見ると良いのだが撮影が上手く出来ないので外から撮影した。・)

7.同上 2.

8.囲炉裏のある院内

9.盤桓園(ばんけいえん、立ち去りがたいの意味)とも呼ばれる額縁庭園(竹林の間から大原の里が見える風情ある庭です。)巨大な五葉松!

10.血天井(慶長5年関ケ原合戦前、徳川の忠臣鳥居元忠以下数百名が豊臣の大軍と戦い伏見城中で自刃した。その武将達をなぐさめ、供養のために自刃した床を天井にして祀ったものです。)

11.同上 もう一箇所が良く解ります!

12.下記をクリックして、「音声付動画」で血天井の説明をされるご住職です。庭は額縁庭園です。
http://youtu.be/C83iR4RVu3o
13.血天井を見た後で、出された「お抹茶」は喉がからからで大変美味だった!一日2回もお抹茶頂いたのは生まれて初めてだった!今晩は七転八倒で眠れないと思ったが、実際は午後にも平野神社の4月10日の桜祭りやわら天神を見て廻り疲れて、ビールと焼酎でバタンキューと良く眠れた!

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