2012/9/29

綾部人の見た鎌倉・横浜の文化財・史址第18回国宝の梵鐘を持つ鎌倉五山第一の建長寺!!  文化財研修記

 鎌倉五山第一の建長寺の開山は蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)と号した大覚禅師は中国西蜀淅江省に生まれた。
13歳のとき中国中央部にある成都大慈寺に入って出家、修行のため 諸々を遊学した。のちに陽山にいたり、臨済宗松源派の無明惠性禅師について嗣法した。そのころ中国に修行に来ていた月翁智鏡と出会い、日本の事情を聞いて からは日本に渡る志を強くしたという。禅師は淳祐6年(1246)筑前博多に着き、一旦同地の円覚寺にとどまり、翌宝治元年に知友智鏡をたよって京都泉涌寺来迎院に入った。智鏡は旧仏教で固められている京都では禅師の活躍の場が少ないと考えたのであろう、鎌倉へ下向するよう勧めた。こうして禅師は鎌倉の地を踏 むことになった。日本に来てから3年後で時に36歳であった。
 鎌倉に来た禅師はまず、寿福寺(鎌倉五山第3位で紹介済)におもむき大歇禅師に参じた。これを知った執権北条時頼は禅師の居を大船常楽寺にうつし、軍務の暇を見ては禅師の元を訪れ道を問うのだった。そして、「常楽寺有一百来僧」というように多くの僧侶が禅師のもとに参じるようになった。
 そして時頼は建長5年 (1253)禅師を請して開山説法を乞うた。開堂説法には関東の学徒が多く集まり佇聴したという。こうして、純粋な禅宗をもとに大禅院がかまえられた、 その功績は主として大覚禅師に負っているといえる。入寺した禅師は、禅林としてのきびしい規式をもうけ、作法を厳重にして門弟をいましめた。開山みずから 書いた規則(法語規則)はいまも国宝としてのこっている。 禅師は鎌倉に13年いて、弘長2年(1262)京都建仁寺にうつり、その後また鎌倉に戻ったが叡山僧徒の反抗にあって2回にわたり甲斐に配流されたりした。
 禅師はのち弘安元年(1278)4月、建長寺に再住、そして7月24四日、衆に偈を示して示寂した。ときに66歳であった。残した辞世「偈 用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋」。後世におくり名された大覚禅師の号は、わが国で最初の禅師号である。

1.総門(この四脚門は天明3年(1783)建立の京都般船三味院の表門で、関東大震災で倒壊後、京都の選仏寺の努力で昭和15年(1940)に移築されたものである。)
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2.総門から三門を見る!(山門=三門とは、空・夢想・無作(むさ)の三解脱門のことである。
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3.見事な三門
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4.三門に向かって右側の鐘楼
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5.この鐘楼の梵鐘は国宝であって、建長7年(1255)の銘があり、高さ2.08M、口径2.24Mもあり開基北条時頼を大旦那とし、の蘭渓道隆が銘を選び、大和権守物部重光が鋳造した当代第一の名鐘といわれている。梵鐘は平安時代以来の古式を継承し、鐘銘の「巨福山建長禅寺」というのは禅寺の称号のはじめと言われている。
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6.ちょっと右側の禅道場、塔頭寺院を見てみましょう!
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7.同上 参道
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8.塔頭寺院の西来庵の西来門!元塔頭寺院は49ヶ寺もあったというが、現在は10寺です。
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9.仏殿(国重文、この建物は東京芝の増上寺の江戸幕府2代将軍徳川秀忠室崇源院(すうげんいん、   )の御霊屋を移築したもので、寛永5年(1628)に建てられた方五間,重層の寄棟造りです。)
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10.仏殿の中央に祀られている本尊地蔵菩薩坐像(室町期の寄木造りで、座高2.4M、台座をいれると4.8Mにもなる巨像で禅宗で本尊が地蔵菩薩とは大変珍しいが、建長寺造立以前からこの地にあった地蔵信仰に基づくものと思われる。
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11.三門と仏殿の間の参道の両脇には8本の巨木(幹周7Mにおよぶ)のビャクシンが植えられている部分は連帯列樹と言われ周囲より一段低い中庭庭園となっている。このビャクシンは開山の蘭渓道隆が中国より苗木を持ってきたもので樹齢760年以上もあるものであり、現在保存に努力中です!
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12.同上
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13.法堂(国重文の建長寺の法堂は最初、古代時代の講堂であり、元来法座には住職が上がって大法を説くものであったが、近世になって仏像が安置されるようになった。関東では現在もっとも大きな法堂で文化11年(1814)の建立です。
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14.堂内正面には物凄い結果趺坐瞑想の釈迦如来像とその後ろに本尊千手観世音菩薩が祀られています。
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15.法堂裏の国重文の唐門(屋根が唐破風となっており、東京芝の増上寺徳川秀忠の御霊屋の楼門を移したものであり、勅使門とも言っている。裏は方丈が見える。
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16.同上 唐門を横から見る!
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17.建長寺の国名勝庭園のい一部
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2012/9/27

綾部人の見た鎌倉・横浜の文化財・史址第17回閻魔王を含む十王を祀る円応寺!!  文化財研修記

 鎌倉市山ノ内には鎌倉五山第一位の建長寺があるが、東門跡から鎌倉方方面に向かうと、山ノ内1543の小高い岡の上に臨済宗建長寺派の閻魔大王を中心に十王を祀る新居山「円応寺」がある。新居閻魔堂(あらいえんまどう)とも呼ばれている。開山は有名な蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の法嗣である桑田道海(くわたどうかい、知覚禅師)が建長2年(1250)開いたと伝えるが、寺蔵の初江王(しょこううおう、国重文)の胎内銘によると建長3年(1251)に禅勧坊が願主となって仏師幸有(こうゆう)が造立したとある。閻魔堂は初め由比ヶ浜にあったと言われるが、江戸時代の元禄16年(1703)に、建長寺の火番給分(ひばんきゅうぶん)の地であったと伝える現在地に移された。堂内には頭部は運慶作と言われた国重用文化財の閻魔王を含めて、冥土を司どる十王が順に祀られていて、秦広王(しんこうおう)、初江王、宗帝王(そうだいおう)、五官王、閻魔王、変成王(へんじょううおう)、泰山王(たいざんおう)、平等王、都市王、五道輪転王(ごどうりんてんおう)とされている。閻魔大王とはインドの最古の神話「リグ・ベーダー」における「ヤマ」のことで、最初人間として生まれて、死後には「楽園」の主となった諭旨です。インドの「ヤマ」が中国に伝わり「エンマ」となり、道教の影響で閻魔大王を中心とした、「十王思想」となりました。
 室町時代には「十三仏信仰」となり日本仏教独自のの宗派を越えた葬儀・法要の元となっています。円応寺の「十王」は鎌倉時代に中国より伝わった「十王思想」を彫像したものです。

1.円応寺への急な参道
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2.円応寺の駒札
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3.見事な茅葺きの鐘楼
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4.本堂と前庭
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5.本堂右前の見事な巨木
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6.本堂
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7.本堂内の右側の十王像の一部
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8.中央が閻魔王の十王像
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9.頭部のみが運慶作と言われる国重文の閻魔大王のアップ
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10.閻魔王に向かって左側に祀られている十王像の一部
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2012/9/25

綾部人の見た鎌倉・横浜の文化財・史址第16回関東十刹の一つで鎌倉公方の寺・瑞泉寺!!  文化財研修記

 鎌倉市二階堂710の天台山の麓にある臨済宗円覚寺派瑞泉寺は鎌倉幕府の重臣であった二階堂道蘊(にかいどうどううん)が嘉暦2年(1327)、夢窓疎石を開山として創建した寺で、当初は瑞泉院と号した。足利尊氏の四男で、初代鎌倉公方の足利基氏は夢窓疎石に帰依して当寺を中興し、寺号を瑞泉寺と改めた。以後、鎌倉公方足利家の菩提寺となっている。禅寺として、鎌倉五山に次ぐ十刹(じゅっせつ)の筆頭格の扱いを受け、以後、夢窓派の拠点として重きをなしたが、公方家4代足利持氏による永享の乱で衰亡した。
 瑞泉寺は、文学や学問とゆかりの深い寺でもある。鎌倉時代には五山文学の拠点として栄え、近世には徳川光圀が自信の鎌倉旅行を『新編鎌倉志』として編纂をさせたという。境内には、久米正雄の墓、高浜虚子、久保田万太郎、吉野秀雄、大宅壮一、山崎方代、吉田松陰などの碑がある。

1.瑞泉寺総門
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2.山門への長い石段参道(紅葉時は素晴らしい諭旨である。)
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3.瑞泉寺の駒札
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4.山門に至るまでの長い石段と背後の標高141メートルの天台山図(本堂背後の夢窓疎石のやぐらと池の国名勝庭園を覚えておいて下さい。最後に音声付動画で見て頂けます。)
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5.三門
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6.三門から入った右側には茶室一覧亭(再建のもの)があります。
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7.表庭
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8.本堂前横の庭
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9.さらに本堂に向う
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10.本堂
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11.本堂のご本尊釈迦如来像と脇仕!(三禅宗の内臨済宗、黄檗宗は比較的仏像の写真を撮らせて頂けます!感謝!)
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12.夢窓疎石作庭の国名勝指定庭園!はここから!
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13.同上 前の地蔵堂!(仏像撮影は失敗していました、お許し下さい!)
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14.下、やぐらと池! 現在、寺内には古建築は残っていないが、発掘復元された池庭と十八曲して一覧亭に至る登り参道の遺構はよく保存されており、寺背の山に多くのやぐら(洞窟で昔の住居、或いはお墓地)郡を含む境内地が良く保存されています。
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15.下記をクリックして、「音声付動画」で国指定名勝庭園を見て下さい。無料のU−tubeの画面が出たら、更にその右下の拡大画面をクリックして大画面で見て下さい。
http://youtu.be/9_nL96p87sA

19.多くの句碑の一つ吉野秀雄先生の句碑です!
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2012/9/23

綾部人の見た鎌倉・横浜の文化財・史址第15回大塔宮を祀る鎌倉宮と土牢!!  文化財研修記

 日本三天神の一つ荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)のすぐ横の二階堂154番地には地元では大塔宮(だいとうのみや)と親しまれている鎌倉宮(かまくらぐう)がある。明治2年(1869)明治天皇により後醍醐天皇の皇子護良親王(もりよししんのう)を祀るため建てられた。護良親王は僧となってその門室を大塔(おうとう)といったので大塔宮と呼ばれた。親王は天台座主ともなったが、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画に加わり、還俗して護良と改め、千早城の楠木正成と呼応して吉野城で鎌倉幕府の軍勢を悩ませ、倒幕に貢献した。
 建武の親政では征夷大将軍・兵部卿となったが、後醍醐天皇や足利尊氏と対立を深め、ついにとらえられ鎌倉の現在地・鎌倉宮の辺りにあった東光寺に幽閉され、建武2年(1335)北条時行が鎌倉に乱入した中先代の乱の祭、鎌倉にいた足利直義の命により、淵辺義博に殺された。

1.鎌倉宮の鳥居と碑
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2.同上 鳥居
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3.神奈川県教育委員会の駒札
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4.見事な手水舎
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5.拝殿
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6.拝殿には珍しく獅子頭が3頭飾ってある!
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7.拝殿に向って右側には、鎌倉宮の「身代わりさま」が祀られています!
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8.大塔宮幽閉の土牢・宝物館入口
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9.拝殿から回廊と本殿を」見る!
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10.拝殿を横から見る
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11.大塔宮御聖所碑
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12.大塔宮を幽閉したという土牢
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13.大塔宮の碑
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14.宝物館の騎馬の大塔宮
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15.宝物館には多くの著名人の筆が陳列だれています。山本五十六連合艦隊長筆!
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16.境内には天然記念物のオガタマ(小賀生)の木が見事に枝を広げています。
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2012/9/21

綾部人の見た鎌倉・横浜の文化財・史址第14回日本三天神さんの一つ荏柄天神社!  文化財研修記

   鎌倉市二階堂74(源頼朝公墓から直ぐ近くです。)には九州の大宰府天満宮、京都の北野天満宮、そして、この鎌倉の「荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)」を日本三天満宮と言っている。縁起によれば長治元年(1104)8月25日に雷雨とともに天神画像がくだり、里の人が社殿を建てその画像を納め、イチョウの木を植え、神木としたという。大倉幕府の鬼門の守護神として崇敬されたという。明治の神仏分離までは京都の東寺の末寺であ一乗院(廃寺)が別当として管理していた。巨大なビャクシンの大木が覆っている参道を登って行き、神門を入ると、左右に紅梅、白梅を配した先に、鶴岡八幡宮の仮殿を移した拝殿があり、国重文の本殿は元和8年(1622)鶴岡八幡宮修復のおり、八幡宮の若宮社本殿を移した、鎌倉における最古の木造建築である。本殿は三間社流造の型式で、現在、拝殿・幣殿があらたに加えられている。若宮は正和5年(1316)の再建後、明徳3年(1392)から応永元年(1394)にかけてと、天正20年(1952)に修理を加えた記録があり、14世紀の建築様式をよく残している。江戸時代には鶴岡八幡宮の造営のたびに残木、古木をうけて社殿を造営していた。

1.ビャクシンの大木の下を通る参道
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2.ビャクシンの大木と鳥居
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3.長い石段の参道
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4.神奈川県教育委員会の駒札
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5.楼門
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6.社務所
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7.鶴岡八幡宮に次ぐ大銀杏の木
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8.拝殿
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9.拝殿と後部は国重文の本殿
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10.国史跡指定の駒札
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11.川端康成筆の「かっぱ筆塚」
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2012/9/19

綾部人の見た鎌倉・横浜の文化財・史址第13回鶴岡八幡宮の池水回遊式庭園「神苑ぼたん庭園」!  文化財研修記

 鶴岡八幡宮に向って左側の池は「平家池」と名付けられており、右側の池は「源氏池」と名付けられて、池の中の島には鎌倉・江ノ島七福神の一つ、旗上弁財天社があり既に紹介しました。この源氏池の周りは池泉回遊式庭園「神苑ぼたん庭園」があります。入口は斉館(鶴岡幼稚園)側にあります。ボタンの時期でないのは残念ですが、見て下さい。

1.池泉回遊式庭園入口
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2.石筍(せきじゅん、鍾乳石)
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3.源氏池の蓮(はす)
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4.下記をクリックして、「音声付動画(無料)」で回遊地泉式庭園を見て下さい。U−tubeの画面が出たら、更にその右下の拡大画面をクリックして、大画面で見て下さい。
http://youtu.be/RnKj5AtQpdc

5.庭園2.
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6.神苑ぼたん庭園です。
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7.湖石の庭
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8.同上 2
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9.同上 3.
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10.下記をクリックして、「音声付動画」で神苑ぼたん庭園や源氏池を見て下さい。
http://youtu.be/Wwk0XkFEC1Y

11.出口前
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2012/9/17

綾部人の見た鎌倉・横浜の文化財・史址第12回鎌倉の法華堂跡(源頼朝・北条義時)!  文化財研修記

 寛喜3年(かんぎ、1232)の大火で右大将家法華堂(源頼朝の墓)とそれに治められていた頼朝の遺品の数々は、右京兆法華堂(北条義時)とともに焼失した。法華堂は、元来消失後は再建しないのが普通であったが、特別の例として寺家で再建することにし,貞永元年(1232)に完成している。宝治元年(1247)北条氏の不意打ちで邸を焼かれた三浦泰村・光村兄弟や一行70人以上が、右大将家法華堂に立てこもり総勢500余人が自害した。
 近年の発掘調査の結果、白旗神社境内中央辺の現地表下1.5メートルところに岩を掘って北に登る階段の痕跡が発見された。現在頼朝の墓の前に設けられている法華堂への階段は後世のものであり、当時はもっと西(左)にあった。現地形の源頼朝墓の西にある一段低い平坦地に階段がつき、この広場を堂前広場として、法華堂はこの広場に対して西向きに建てられていたのではないかと推察されている。源頼朝の墓近くから、鎌倉初期の瓦や青白磁香合の破片も多数出土している。法華堂跡(源頼朝墓)として周囲の谷も含めて国史跡に指定された。

1.源頼朝公墓の東側には現在の北条義時の法華堂へ行く石段がある。
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2.北条義時の法華堂への上り坂
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3.北条義時の法華堂の駒札
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4.洞窟へは草木が邪魔して行くのを中止した!
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5.村田清風の詩
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6.同上 句碑
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2012/9/15

綾部人の見た鎌倉・横浜の文化財・史址第11回鶴岡八幡宮の白旗神社と源頼朝のお墓!!  文化財研修記

鶴岡八幡宮を訪れたのは丁度7月7日で「七夕祭」の飾りつけが太鼓橋にあった。この鶴岡八幡宮は源頼義公「みあもとのよりよし、河内源氏の棟梁」が勧請した由比の若宮を、治承4年(1180)に源頼朝公が現在の地に移したが、建久元年(1190)に火災で焼失したため、裏山(現在の上宮の位置)に改めて、京都の源氏の神社と云われる岩清水八幡宮を勧請し、上下両宮とした。鎌倉幕府2代将軍源頼家公も白旗神社や新宮を造営した。鶴岡八幡宮は、幕府の祈祷(きとう)の中心をはたした。また、源頼朝公が長年待ち望んだ征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)をはじめ、2代将軍源頼家公も、3代将軍源実朝公も叙位任官の祭には、本来なら京都の内裏(だいり)で行われる拝賀の儀式のすべてを、この鶴岡八幡宮ですませていることから、内裏(だいり)としての機能をも併せ持ったと考えられている。また、武家政権を保障する神として、政権担当者により代々修造が行われて来た。三ノ鳥居を潜ると国史跡の境内に入り源平池に至る。国重要文化財の下宮(若宮神社)、上宮(楼門、拝殿、本殿を見学しましたので、第2代鎌倉将軍源頼家が建立の白旗神社を見て見ましょう!
白旗神社のある所は、源頼朝の館のあった大倉御所の北隅で持仏堂があった所。頼朝の死後は、法華堂と呼ばれ、ここに葬むられていました。源頼朝の持仏堂であったことから鎌倉幕府の保護も厚く鶴岡八幡宮、勝長寿院と並ぶ崇敬を集めた。宝治元年(1247)6月5日、三浦対北条・安達の宝治の乱のおり、三浦泰村は館を攻められ、一族を率いて、この法華堂に立て篭もった。北条時頼の兵に攻められ、終に泰村、光村以下の三浦一族と此れに加担した島津、毛利を含めて500人が、この法華堂で自害した。明治維新に白旗神社と改められた。神社奥の山上には源頼朝の墓がある

1.史跡鶴岡八幡宮の境内社の白旗神社
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2.同上2.(実際の源頼朝のお墓を守る白旗神社はここから数百メートルも東にあります。)
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3.鎌倉国宝館前を通って白旗神社へ向います!
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4.更に東へ向かいます!
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5.白旗神社前の駒札にようやく到着
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6.源頼朝顯彰碑
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7.白旗神社駒札
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8.白旗神社1.
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9.同上 2.
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10.法華堂跡へ登る急な石段
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11.源頼朝公法華堂顕彰碑
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12.源頼朝公の墓(五輪塔)
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13.同上 アップ
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2012/9/13

綾部人の見た鎌倉・横浜の文化財・史址第10回鶴岡八幡宮の大銀杏と上宮拝殿・本殿と竹之内宿禰命神社!  文化財研修記

 鶴岡八幡宮を訪れたのは丁度7月7日で「七夕祭」の飾りつけが太鼓橋にあった。この鶴岡八幡宮は源頼義公「みあもとのよりよし、河内源氏の棟梁」が勧請した由比の若宮を、治承4年(1180)に源頼朝公が現在の地に移したが、建久元年(1190)に火災で焼失したため、裏山(現在の上宮の位置)に改めて、京都の源氏の神社と云われる岩清水八幡宮を勧請し、上下両宮とした。鎌倉幕府2代将軍源頼家公も白旗神社や新宮を造営した。鶴岡八幡宮は、幕府の祈祷(きとう)の中心をはたした。また、源頼朝公が長年待ち望んだ征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)をはじめ、2代将軍源頼家公も、3代将軍源実朝公も叙位任官の祭には、本来なら京都の内裏(だいり)で行われる拝賀の儀式のすべてを、この鶴岡八幡宮ですませていることから、内裏(だいり)としての機能をも併せ持ったと考えられている。また、武家政権を保障する神として、政権担当者により代々修造が行われて来た。三ノ鳥居を潜ると国史跡の境内に入り源平池に至る。今日は手水舎、拝殿まで参拝したで、天然記念物であった大銀杏から見ていきます。

1.舞殿から上宮の石段に向かう右側に「国重文の下宮の若宮神社」がある。ご祭神は仁徳天皇です。
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2.上宮の石段の左側には元天然記念物であった大銀杏の木が途中から、保護されています。この銀杏は「隠れ銀杏」の名の鶴岡八幡宮別当公暁(くぎょう)が源実朝を暗殺した謂れがあります。
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3.もとの大銀杏の写真と上宮への階段
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4.上宮の見事な階段と楼門
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5.見事な楼門(国重文)
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6.楼門右側の随身
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7.楼門左側の随身
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8.この楼門から舞殿や第3鳥居を見ます。
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9.国重文の拝殿(参拝に人で一杯)
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10.見事な拝殿の建築!
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11.此処からは有料です!拝殿から本殿への見事な建築!
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12.宝物殿の横には国重文で式内社・竹之内宿禰命を祀る竹之内神社があります!
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13.宝物館内の一部
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14.宝物館横には7基の神輿が祀られています!
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2012/9/12

綾部人の見た鎌倉・横浜の文化財・史址第9回鶴岡八幡宮の太鼓橋と旗上弁財天社!  文化財研修記

 鶴岡八幡宮を訪れたのは丁度7月7日で「七夕祭」の飾りつけが太鼓橋にあった。この鶴岡八幡宮は源頼義公「みあもとのよりよし、河内源氏の棟梁」が勧請した由比の若宮を、治承4年(1180)に源頼朝公が現在の地に移したが、建久元年(1190)に火災で焼失したため、裏山(現在の上宮の位置)に改めて、京都の源氏の神社と云われる岩清水八幡宮を勧請し、上下両宮とした。鎌倉幕府2代将軍源頼家公も白旗神社や新宮を造営した。鶴岡八幡宮は、幕府の祈祷(きとう)の中心をはたした。また、源頼朝公が長年待ち望んだ征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)をはじめ、2代将軍源頼家公も、3代将軍源実朝公も叙位任官の祭には、本来なら京都の内裏(だいり)で行われる拝賀の儀式のすべてを、この鶴岡八幡宮ですませていることから、内裏(だいり)としての機能をも併せ持ったと考えられている。また、武家政権を保障する神として、政権担当者により代々修造が行われて来た。三ノ鳥居を潜ると国史跡の境内に入り源平池に至る。

1.鶴岡八幡宮第3の鳥居
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2.同上 駒札
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3.太鼓橋
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4.七夕飾りの太鼓橋
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5.源氏池の旗上弁財天社への橋
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6.鎌倉・江ノ島七福神の旗上弁財天社への第2の橋
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7.同上 鳥居
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8.源氏池の島にある旗上弁財天社
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9.旗上弁天社近くの両側には巨大な江戸時代の献灯があります。
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10.ここから舞殿左側の「手水舎」まで100メートル以上あります!
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11.漸く見事な「手水舎」に至る
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12.見事な朱色の舞殿(以降は次回で!)
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