2011/12/31

東近江の文化財・史址を見る!19.近江八幡市を歩く4.稲荷神社・かわらミュージアム・ロープウエー!  文化財研修記

近江八幡市は、約400年前に豊臣秀吉の甥の秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展した。いわゆる近江商人の発祥の地である。近世の風情がよく残る新町通り、永原町通り、八幡堀沿いの町並みおよび日牟禮八幡宮境内地は「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、時代劇の撮影場所としてもよく使われる。ウィリアム・メレル・ヴォーリズが住み、多くの近代建築作品を遺した地としても知られている。2005年9月1日には水郷地域160ヘクタールが景観法に基づく「景観計画区域」に指定された。これは同法の適用第1号である。さらに2006年1月26日には「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定された。
 11月21日(月)前日ホテルニューオオミのフロントで1,000円で購入の「近江八幡観光パスポート」6ヶ所の見所と八幡山ロープウエー(800円)が含まれている大変お得な券とナップザック姿でホテルを出発、新町通りの織田信長公の廟所がある西光寺から、さらに伝統的建築物保存地区の「新町通」を通り、日牟礼八幡宮参拝しました。今回は近江商人の中で最も早い時期から活躍していた八幡商人たちが商売繁盛を祈願した稲荷社。彼らの守護神として信仰を集めた日牟礼八幡宮の近くに立ち、古くから親しまれている。幸福稲荷神社と瓦ミュージアムを見て八幡山ロープウエーで頂上の八幡山城跡を目指します。

1.地元の案内駒札
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2.幸福稲荷神社(この神社は近江商人の中で最も早い時期から活躍していた八幡商人たちが商売繁盛を祈願した稲荷神社です。)
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3.見事な拝殿と本殿を見る!
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4.「かわらミュージアム」へ観光パスポートを使って入館!巨大な「獅子口(ししぐち)」この様な瓦には「鬼瓦、鬼板、鳥衾(とりぶすま)、獅子口(京都東本願寺本堂のが獅子口)、鴟尾(しび)、鯱(しゃち)があります。」
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5.瓦用の登窯(のぼりかま)
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6.通路はびっしりと瓦が埋められています。
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7.ミュージアムの一部です。
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8.同上 
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9.瓦窯のための木材作りの機械
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10.八幡掘が見える出口
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11.出口から出た所は「八幡堀」です。
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12.八幡山ロープウエー乗場です!3分で山頂271.9メートルへ行きます。
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13.ロ−プウエーから八幡山を見る!
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14.ロープウエーから近江八幡市街を見る!
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15.更に上から近江八幡市街を見る!
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2011/12/30

東近江の文化財・史址を見る!18.近江八幡市を歩く3.八幡掘と日牟礼八幡宮!  文化財研修記

近江八幡市は、約400年前に豊臣秀吉の甥の秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展した。いわゆる近江商人の発祥の地である。近世の風情がよく残る新町通り、永原町通り、八幡堀沿いの町並みおよび日牟禮八幡宮境内地は「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、時代劇の撮影場所としてもよく使われる。ウィリアム・メレル・ヴォーリズが住み、多くの近代建築作品を遺した地としても知られている。2005年9月1日には水郷地域160ヘクタールが景観法に基づく「景観計画区域」に指定された。これは同法の適用第1号である。さらに2006年1月26日には「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定された。
 11月21日(月)前日ホテルニューオオミのフロントで1,000円で購入の「近江八幡観光パスポート」6ヶ所の見所と八幡山ロープウエー(800円)が含まれている大変お得な券とナップザック姿でホテルを出発、新町通りの織田信長公の廟所がある西光寺から、さらに伝統的建築物保存地区の「新町通」を通り、日牟礼(ひむれ)八幡宮の大鳥居をくぐると「八幡掘」があります。堀にかかる白雲橋からは、堀端に並ぶがくさんの蔵が見えます。これらの蔵は全国各地から送られてきた物産を船から陸揚げして一時保管するためのものであった。天正13年(1585)豊臣秀次は八幡城築城に際し、山麓の低い地を開削して内堀とし、この内堀は南方の樹下町からの敵の防衛と同時に、西の湖から津田内湖へ流れる湖水を利用して港としての機能も備えた。そして、琵琶湖を航行する船はこの港に寄港して城下町は賑わったのです。京極高次が大津転封後、町民は町の発展のため、瓦産業、奥島のイグサを利用しての近江表や灯心の製造、数珠・八幡蚊帳・麻布・綿布などもこの港で船積みされた。

1.日牟礼八幡宮大鳥居(滋賀県指定文化財)
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2.白雲館(現在は観光案内所です。明治10年に擬洋風建築として建設された八幡東小学校です。平成6年に解体修理され、観光案内所、お土産販売所、2階はギャラリーの展示場となっている。)
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3.白雲橋は八幡掘りにかかる橋です!
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4.たくさんの江戸時代の蔵が残っています!
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5.八幡掘の反対側です!
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6.八幡掘説明板
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7.日牟礼八幡宮の見事な楼門
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8.見事な楼門をクローズドアップして見ます!楼門の楼脇には見事な阿吽形の随身が守護していますが、金網が細かくて撮影は駄目でした。
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9.楼門を潜ると右手には見事な「能舞台」があります。
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10.日牟礼八幡宮拝殿!前にある緑の塚は「護摩」の用意に準備されたものです。
 天正18年(1590)豊臣秀次が八幡山城築城のため、上の八幡宮を下の社に合祀した。替地として日杉山に祀る予定であったが、文禄4年(1595)秀次が自害に及び、日杉山に社殿は建立されず、現在のように一社の姿となった。秀次自害により八幡城は廃城となったが、城下町は近江商人の町として発展し、当社は守護神として崇敬を集めた。慶長5年(1600)9月18日、徳川家康が関ヶ原の戦い後、武運長久の祈願を込めて参詣し、御供領五十万石の地を寄附した。後に、家光や家綱も御朱印を残している。年明治9年(1876)に郷社、大正5年には県社に列せられる。昭和41年、神社本庁別表神社に加列し、神社名を日牟禮八幡宮と改称する。以上ウイキペヂアより抜粋。
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11.拝殿から本殿(神殿)を見る!祭神は誉田別尊(ほんたわけのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、比賣神(ひめかみ)の三柱で鎌倉時代の木造座像は国重文であり、鎌倉〜南北朝時代の木造神像が16体ある。
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12.本殿表
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13.振り返って本殿から舞殿内部を見る!
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14.鎌倉時代の見事な木造狛犬
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15.神殿から御祈祷所への見事な渡り廊下です。
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16.御祈祷所(ごことうしょ)
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17.左義長(例年3月14・15日に近い土・日曜日に催行される左義長(さぎちょう)の祭りは女装した各町の若者が干支(えと)にちなんで作り物を飾った山車を担いで練り歩き「チョーヤレ」の掛け声も勇ましい。と4月14・15日に催行される松明(たいまつ)祭・太鼓祭は滋賀県民俗文化財に指定されている。)
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18.19.境内社・地主神の大嶋神社、天満宮がある。
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2011/12/29

東近江の文化財・史址を見る!17.近江八幡市を歩く2.伝統的建造物保存地区「新町通」!  文化財研修記

近江八幡市は、約400年前に豊臣秀吉の甥の秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展した。いわゆる近江商人の発祥の地である。近世の風情がよく残る新町通り、永原町通り、八幡堀沿いの町並みおよび日牟禮八幡宮境内地は「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、時代劇の撮影場所としてもよく使われる。ウィリアム・メレル・ヴォーリズが住み、多くの近代建築作品を遺した地としても知られている。2005年9月1日には水郷地域160ヘクタールが景観法に基づく「景観計画区域」に指定された。これは同法の適用第1号である。さらに2006年1月26日には「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定された。
 11月21日(月)前日ホテルニューオオミのフロントで1,000円で購入の「近江八幡観光パスポート」6ヶ所の見所と八幡山ロープウエー(800円)が含まれている大変お得な券とナップザック姿でホテルを出発、新町通りの織田信長公の廟所がある西光寺から、さらに伝統的建築物保存地区の「新町通」の国重文の旧西川家住宅、近江八幡市指定文化財の旧伴家住宅、郷土資料館等を見ます。

1.新町通「伝統的建物群保存地区」!正面は八幡山!豊臣秀次の八幡城跡へはロープウエーで登ります。
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2.郷土資料館
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3.あきんどの里公園から郷土資料館に入る!入館料500円だが「千円の観光パスポート」提示でOKです。
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4.館内1.
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5.館内2.
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6.館内3.
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7.館内4.
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8.安土桃山時代の近江八幡の街!
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9.国重文の旧西川利右衛門宅(江戸時代初期からの屈指の八幡商人の住居、西川家は寛永16年(1639)以来江戸の蚊帳(かや)仲間に名を連ね、蚊帳・畳表などを商い幕末のころ迄盛んであった。明治の中頃没落。昭和5年(1930)11代当主・徳洋氏の死後、空家となり、1982年3月近江八幡市に寄贈された。旧西川家の母屋は間口16.9M、奥行き16.7Mの平面積で、1階は246平方m、2階は26平方m、棟の高さ8m、建築年代は不詳だが、その形式や手法から18世紀中頃と推定されている。)
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10.同上 庭園
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11.同上 屋敷内!人々に愛された近江商人!近江商人とは近江を本宅・本店とし、他国へ行商した商人の総称で、個別には「高島商人、八幡商人、日野商人、湖東商人」などと呼ばれそれぞれの特定の地域から発祥し活躍した場所や取り扱う商品にも様々な違いもあるのが特徴です。いずれも三方よし「売り手よし、買い手よし、世間よし」と多くの人々に認められ愛される商いを心がけました。
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12.新町1丁目の「お願い地蔵尊」堂
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13.同上 石造地蔵尊
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14.挑戦人街道(朝鮮通信史はこの近江八幡から安土を通り、能登川を通って江戸へ向かった。)
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15.旧伴家住宅(近江八幡市指定文化財、伴庄右衛門家は江戸時代初期から活躍した八幡商人で扇屋の屋号をもち、主に、蚊帳・畳表・蝋燭等を扱って豪商になった。今の住宅は7代目伴庄右衛門が文政10年(1827)から天保11年(1840)の10数年をかけて建築したものです。一時図書館であったが、平成9年から資料館の一部となっている。)
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16.八幡掘を渡る!以降次回は「日牟礼八幡宮」等を掲載します。
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2011/12/28

東近江の文化財・史址を見る!16.豊臣秀次が築いた近江八幡市を歩く1.信長公廟所西光寺!  綾部の文化財

近江八幡市は、約400年前に豊臣秀吉の甥の秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展した。いわゆる近江商人の発祥の地である。近世の風情がよく残る新町通り、永原町通り、八幡堀沿いの町並みおよび日牟禮八幡宮境内地は「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、時代劇の撮影場所としてもよく使われる。ウィリアム・メレル・ヴォーリズが住み、多くの近代建築作品を遺した地としても知られている。2005年9月1日には水郷地域160ヘクタールが景観法に基づく「景観計画区域」に指定された。これは同法の適用第1号である。さらに2006年1月26日には「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定された。
 11月21日(月)前日ホテルニューオオミのフロントで1,000円で購入の「近江八幡観光パスポート」6ヶ所の見所と八幡山ロープウエー(800円)が含まれている大変お得な券とナップザック姿でホテルを出発、新町通りの織田信長公の廟所がある西光寺へ向かった。
  龍亀山西光寺は浄土宗の寺で、織田信長が能登の西光寺の僧貞安を開山として安土城城下に天正8年(1580)に建立、豊臣秀次が現所在地に移転したとされる。八幡山城の麓の近江八幡の旧市街地にあり、寺の規模は際だって大きい。
 寺宝には、木造地蔵菩薩坐像(重要文化財)、および円山応挙の絹本著色芦鯉図(市指定文化財)がある。

1.ホテルニューオオミ(近江尾八幡市で一番のホテル、JR駅前直ぐ近くで便利、1泊朝食込み、シングル部屋@9,450JTBで予約クーポンを購入した。)
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2.6階の部屋から八幡山(標高271メートル、山頂には元豊臣秀次が築いた八幡山城跡がある。ロープウエーで3分)
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3.9階の展望レストランの朝食バイキングは大変美味だった!
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4.同上から近江八幡市街を見る!
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5.

5.ホテルニューオオミのロビー(ここのフロントで1,000円のお得な「近江八幡観光パスポート」を購入した。)
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6.ブーメラン通り、小幡町通りを「織田信長公廟所の西光寺」へ向かう、途中、新町通りから八幡山を撮影!
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7.龍亀山西光寺の山門1.
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8.同上 正面から撮る!
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9.本堂
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10.見事な鐘楼
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11.織田信長公のお墓(五輪塔)
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12.引き続き、歴史民俗資料館へ行く! 詳細は次回!
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2011/12/27

東近江の文化財・史址を見る!15.西国観音霊場第31番札所・天台宗の長命寺!  文化財研修記

 かつての巡礼者は、三十番札所の竹生島宝厳寺から船で長命寺に参詣した。伝承によれば、第12代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願した。このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。実際の創建年次や創建の事情については未詳であり、確実な史料における長命寺の初見は、承保元年(1074)3月2日付の「奥島庄司土師宿禰助正解文」(おくしましょうじ はじのすくねすけまさげぶみ)という文書である。長命寺には中世以降の文書が豊富に残されている。それによると、中世の長命寺は比叡山(延暦寺)西塔の別院としての地位を保ち、近江守護佐々木氏の崇敬と庇護を受けて栄えていた。しかし、永正13年(1516)、佐々木氏と伊庭氏の対立による兵火により伽藍は全焼。現存する堂宇は室町時代から近世初期にかけて再建されたものである。近江八幡市の市街地の北方、琵琶湖岸にそびえる長命寺山の頂上近くの南側山腹にある。この地は1951年に当時の八幡町に編入されるまでは蒲生郡島村であった。長命寺山の東側には大中之湖干拓地が広がり、干拓以前の島村は文字通りの島であった。長命寺山の麓の船着場は安土への水路(長命寺川)の入口にもあたり、交通の要衝でもあった。長命寺本堂へは、湖岸から「八百八段」と呼ばれる石段の参道があり、登りには約20分を要するが、現在は本堂近くまで自動車道も整備されている。石段下の右には穀屋寺、左には日吉神社がある。穀屋寺は、かつて寺領から上がる米を納めたところである。石段途中に冠木門があるのみで、山門はない。石段の途中左手に妙覚院と真静院、さらに上ると右手に禅林院、金乗院があるが、元禄5年(1692)の記録によると、当時は上述の4ヶ院を含め19の子院が存在した。石段を登りきったところが本堂の縁下である。南に面した境内には本堂のほか、右方に三重塔と護摩堂、左方に三仏堂、護法権現社、鐘楼、やや離れて太郎坊権現社がある。主要堂宇は屋根を瓦葺きでなく檜皮葺きまたはこけら葺きとしており、独特の境内風景を形成している。本堂裏の「六所権現影向石」をはじめ、境内各所に巨岩が露出しており、かつての巨石信仰の名残と考えられている。以上ウイキペヂアによる文章を抜粋。

1.山腹の駐車場から天台宗の長命寺の碑!
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2.長命寺山の中腹の駐車場横から長命寺山門を仰ぐ!
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3.西国観音霊場第31番札所の長命寺山門
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4.神仏混淆時代の名残りの見事な手水舎
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5.国重文の三重塔(三間三重で杮(こけら)葺、)
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6.同上 2.
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7.国重文の護摩堂(露盤(ろばん)に慶長11年(1606)の銘がある。3間四方の宝形造・桧皮葺)
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8.国重文の本堂(全体が撮影できないので右側から撮る!大永4年(1524)の再建、桁行7間、梁間6間、入母屋造、桧皮葺、堂内には聖徳太子作と伝えれれる木造千手観音立像(国重文)が安置されている。)
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9.本堂左側から三重塔を見る!
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10.長命寺三仏堂(滋賀県指定文化財)
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11.長命寺護法権現社と拝殿渡廊下!(県指定文化財)
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12.三仏堂、本堂、三重塔を見る!
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13.修多羅岩(すだらいわ、仏教用語の天地開闢(かいびゃく)天下泰平、でこの岩は武内宿禰大将軍の御神体岩です!)
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14.国重文の入母屋造・桧皮葺の「鐘楼」
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15.商売繁盛の神様
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16.長命寺から琵琶湖の夕暮れを見る!1.
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17.同上 2.
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18.下記をクリックして「音声付動画」で長命寺から琵琶湖の夕暮れの風景を見て下さい。U−tubeの画面が出たら、更にその画面の右下の拡大画面をクリックして大画面で見て下さい。
http://youtu.be/CZRbbxrKBjw


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2011/12/26

東近江の文化財・史址を見る!14.県立安土考古博物館と西の湖!  文化財研修記

安土城大手口の有料駐車場から南東へ車で10分の所に「近江風土記の丘」があり、JR安土トンネルの上を越えると「県立安土城考古博物館」が見えてくる。ここは昭和45年(1970)に全国で4番目に誕生した歴史公園で、安土城跡を中心とした27万平方メートルの豊かな自然環境の中にあり、更に観音寺城跡・桑実寺・大中の湖南遺跡・海蘇の森などの史跡を控えた絶好の場所である。織田信長の天下統一の夢を託した安土城と、近江守護佐々木六角氏の居城で、日本最大の中世城郭と云われる観音寺城の山麓に所在する「滋賀県立安土城考古博物館」は1992年オープンした城郭をテーマとする博物館です。但し、毎月曜日が休刊で今日は正に11月21日(月)で残念ながら中は見れなかったが、その野外の展示物や雰囲気は十分に楽しめました。その後、琵琶湖の西の胡の近江八幡の水郷をえて、西国33ヶ寺の31番札所の長命寺へ向かいます。

1.滋賀県立安土城考古博物館一帯の案内板
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2.同上博物館(月曜日休館)
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3.滋賀県指定文化財の「旧柳原小学校校舎」全景
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4.安土城天主信長の館(月曜日休館)
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5.野外の展示物「追分の道標(みちしるべ)」
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6.同上
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7.大津の近江国の国分寺の礎石群を展示しています。
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8.滋賀県指定文化財の「旧柳原小学校校舎」
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9.JR安土駅前に立つ織田信長公銅像
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10.ここから西国33ヶ寺第31番札所の長命寺へ向かいますが、途中琵琶湖の「西の湖」を左手に見たので撮影した。
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11.西の湖
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12.西の湖水郷めぐり船着場
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13.西の湖
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2011/12/25

東近江の文化財・史址を見る!13.近江八幡市指定文化財の活津彦根神社!  文化財研修記

 彦根城を後にして、近江八八幡市に向かう途中に大規模名「活津彦根神社(いくつひこねじんじゃ)」の碑を見たので下車して見学した。
創祀年代不詳。社伝によると豊浦庄の産土神の意を以て竜神大明神と称す。社宝として永禄7年(1564)2月23日飯道寺善光坊法印行慎佐々木豊浦村山王大権現正神大明神の墨書の銘ある十一面観音像を蔵す。慶長15(1610)年8月杉田九郎兵衛の寄進の金燈寵銘文にも正神大明神と記されている。正徳3年(1713)6月に吉田家より正一位の宗源宣旨を受け、その宣旨には正一位活津彦根大明神と記されている。詔勅6年石鳥居を建つ、現在の社殿は寛永3年(1626)柱を根継ぎ等の大修理せしものである。明9年村社に列す。同42年神饌幣帛料供進指定。以上は滋賀県神社庁の掲載記事を抜粋。織田信長は安土城を築くにあたり参詣寄進、彦根城主の井伊直孝も彦根神を尊崇、自分の城に彦根の名を付けた諭旨、多くの武士も崇敬した。村社としては非常に大規模な神社であると云える。

1.活津彦根(いくつひこね)神社碑
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2.神社正面の石造り鳥居と舞殿が見える!
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3.神社正面に向かって左側の古木!
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4.近江八幡市指定文化財の「活津彦根(いくつねひこね)神社」駒札
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5.舞殿を斜めに、拝殿、本殿を見る!
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6.拝殿、本殿
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7.見事な近江八幡市指定文化財の本殿(三間社流造り、桁幸3間、梁間2間、寛永3年(1626)造営、江戸時代の神社様式を代表する神社造りです。)
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8.摂社「津島神社」他に、蛭子神社があります。
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2011/12/24

東近江の文化財・史址を見る!12.国特別史跡・安土城址と總見寺2.  文化財研修記

安土城は、滋賀県近江八幡市安土町下豊浦にあった標高199メートルにあった山城である。城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域である。
天正5年(1576) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始した。天正7年(157955月、完成した天守に信長が移り住む。同年頃に、落雷により本丸が焼失したと、ルイス・フロイスが著書『日本史』に記している。天正10年(1582) 5月15日には明智光秀が饗応役となった徳川家康の接待が行われている。同29日の京都本能寺に信長が光秀の謀反により横死した本能寺の変の際は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、信長の横死後、蒲生賢秀・氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土から移動させ退去。山崎の戦いの後、明智秀満率いる明智軍の退却後、天主とその周辺建物(主に本丸)を焼失した。
 本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議の後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、天正13年(1585)をもって廃城されたと伝わっている。

1.天主台跡へ向かう!
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2.天主台説明板
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3.天主台跡から琵琶湖方面を遠望する!天主跡は背丈ほどの高さの石垣に囲まれ、東西、南北それぞれ約28メートルの台地。今は礎石が1.2メートルおきに整然とならぶだけであるが、天主は五層七階(地上6階地下1階)あり、イエスズ会のルイス・フロイス宣教師によればヨーロッパにもないほど壮大で高さ33メートルの木造高層建築は当時我国初おもので巨匠・狩野永徳達の豪壮な障壁画や表装であったと云う。
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4.天主台より二の丸の「信長公本廟」を見る!
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5.織田信雄四代供養等の案内板
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6.同上 織田信雄四代供養塔
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7.国重文の總見寺の三重塔(山の中腹に見える三重塔は三間三重の塔で屋根は本瓦葺き。室町時代の建物で棟柱に、享徳3年(14549建立、天文24年(1555)修理の墨書きがある。天正3〜4年に織田信長公が甲賀の長寿寺、甲賀市石部町)から移築したものとされている。慶長9年(1604)豊臣秀吉の嫡男・秀頼が一部修理している。
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湖南三山の一つ「長寿寺」は下記をクリックして見て下さい。
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/324.html

8.三重塔の下から更に下にある二王門(楼門)を見る!
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9.国重文の二王門(楼門)!棟木に「元亀2年(1571)7月甲賀武士・山中俊好建立」とある。屋根は入母屋造り、本瓦葺き。門内に安置されている金剛力士阿形・吽形も門同様国の重要文化財で頭部の内側に応仁元年(1467)因幡院朝作の造像銘が残っており、信長公が天正年間に移したものである。
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10.国重文の仁王阿形像
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11.国重文の仁王吽形像
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12.總見寺発行のパンフレット(安土城は日本100名城の第51番目の判がある。)
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2011/12/24

恒例の第11回綾部市「中筋地区サンタパレード」盛大に開催!  あやべの街

恒例となった第11回綾部市「中筋地区サンタパレード」主催:中筋親子クラブ:山本修会長が12月23日(祝)」に10台以上のトラクターやトラックを使って見事な電飾で飾り付けた「クリスマス サンタ パレード」が夕方5時上延町菅集会所出発、5時40分安場公会堂、6時15分綾部さくらホーム、6時45分高津荒倉橋、7時20分延町公会堂、夜8時フクヤ、モリイ綾部店駐車場(ここで解散)NO.1〜6まで音声付動画も取材!
みんなで楽しんで見て下さい!

1.上延町菅集会所前で勢揃い!
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2.同上 2.
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3.同上 3.
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4.同上 4.
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5.同上 5.
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6.同上 6.
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7.同上 7.
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8.同上 8.
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9.同上 9.
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10.パレードスタート!
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11.下記を順次クリックして、音声付動画で見て下さい。U−tubeの画面がでたら、その右下の拡大画面をクリックして大画面で見て下さい。
動画1. http://youtu.be/l72ordrAG0o
動画2.http://youtu.be/rpSnggRgC9E
動画3.http://youtu.be/ZafMQcxkQ7Y
動画4.http://youtu.be/2RAvtqZB8x4

12.写真では上手く撮れません!
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13.以後2回を音声付動画で見て下さい!
動画5.http://youtu.be/lBKaeN6AgN0
動画6.http://youtu.be/qdsDVYmFytY

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2011/12/23

東近江の文化財・史址を見る!11.国特別史跡・安土城址と總見寺1.  文化財研修記

安土城は、滋賀県近江八幡市安土町下豊浦にあった標高199メートルにあった山城である。城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域である。
天正5年(1576) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始した。天正7年(157955月、完成した天守に信長が移り住む。同年頃に、落雷により本丸が焼失したと、ルイス・フロイスが著書『日本史』に記している。天正10年(1582) 5月15日には明智光秀が饗応役となった徳川家康の接待が行われている。同29日の京都本能寺に信長が光秀の謀反により横死した本能寺の変の際は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、信長の横死後、蒲生賢秀・氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土から移動させ退去。山崎の戦いの後、明智秀満率いる明智軍の退却後、天主とその周辺建物(主に本丸)を焼失した。
 本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議の後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、天正13年(1585)をもって廃城されたと伝わっている。

1.駐車場は有料で500円、更に入場料500円を支払い「大手通」から安土山城址(標高199メートル)の峻険な石段を登る!
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2.直ぐ左手の土手の上に「西側上段部と竈(かまど)跡の碑」がある。
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3.更に「大手通」を登る!
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4.左側に羽柴秀吉邸宅跡の碑がある!(邸宅は3段であったのでしょう!)
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5.同上 邸宅跡
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6.「大手通」の反対側の右手には前田利家邸跡の虎口!
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7.同上 宅跡(此の頃はすっかり、秀吉の妻・ねねと利家の妻・お松も仲が良く、大手通りを挟んで両側に両家の邸宅跡ですね!)
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8.石段には各地から石を集め、足らないので「石仏」を多く石段に使っています。
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9.前田利家宅跡の更に上には現在の「總見寺」(元徳川家康邸跡と云われています。)があります。
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10.總見寺入口
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11.總見寺は臨済宗妙心寺派の寺で、遠景山「總見寺(そうけんじ)」と云い、安土城築城の天正4年(1576)信長公が他所より移築し安土城の西方の峰に身らの菩提寺にしたと伝えられている。天正10年(1582)の天主崩落の際にも焼け残ったが、安政元年(1854)11月16日の火災により本堂等ほとんど焼失した。今は基礎石のみ三重塔の北に残っている。その後、昭和7年仮本堂が徳川家康邸跡に建てられ現在に至っていおる。寺宝として、国重文指定の信長公所用の永楽銭を散らした銀象嵌(ぞうがん)の鉄鍔(まけしらずのつば)や信長公の陣羽織が伝わっている。
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12.總見寺の鐘楼
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13.現在の總見寺前から安土平野を見る!
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14.更に大手通を登ると左側に「今井夕庵宅跡」がある!今井夕庵は斎藤氏の滅亡後、織田信長に仕え右筆となる。秘書として信長そば近くに仕え、内政面だけではなく、外交面でも武田信玄、特に毛利家との友好関係のため小早川隆景、吉川元春らとの折衝にあたるなど、信長に重用され、活躍した。
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15.黒金門跡の説明板
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16.黒金門跡
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17.室町時代の仏足石!
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18.二の丸跡で織田信長公の本廟がある。
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19.織田信長公本廟(天主跡西下に織田信長公の本廟がある。重臣羽柴秀吉が天正11年(1583)1月三法師(信長公嫡孫)に年賀を表すべく登城し、翌2月信長公所縁の安土城二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂などの遺品を埋葬して本廟とした。そして、6月2日の一周忌に織田一族や家臣を集め、盛大に法要を行った。
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20.本丸跡説明板
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21.本丸跡!安土城天主から少し降りたところにある本丸御殿跡。「信長公記」によればこの建物に天皇を招きいれる「御幸の間」があったと記されている。その後の調査で慶長年間に改修された京都御所内の天皇の住居の清涼殿と酷似した構造になっていたことが判明、さらに礎石上の柱痕からこの建物は高床式であったこと、周囲の伝三の丸跡や天主取り付け台と渡り廊下で繋がっていたことが明らかになっている。  以降は次回で!
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