2010/6/13

平城遷都1300年祭を見る。その1.西ノ京・大和の匠・がんこ一徹長屋と墨の資料館  文化財研修記

今年は平城京が遷都1300年に当たり、6月10日(木)綾部市文化協会主催の「平城遷都1300年祭」の研修旅行一行23名に参加した。貸切バスは幅が大型バス並のハイデッカー中型27名乗りサロンカーでバス旅は快適であった。ただ真夏のように良い天候で、田所会長は麦藁帽子を持参でした。其れが正解で、小生の青のトレッキングの帽子は熱くなり、帽子無しで見学した。綾部市発午前8時で京都縦貫道から長岡京市を通り、第二京阪道、京奈和道を通り、最初は西ノ京を訪れた。奈良の特徴のある「大和の匠・がんこ一徹長屋と墨の資料館」です。我々のバスは大型バスと幅が同じなので途中から徒歩で行った。

1.西ノ京イラストマップ
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2.近鉄「西の京駅」
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3.大和の匠・がんこ一徹長屋と墨の資料館入口(入館料1人500円)見る値打ちはありました。
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4.博文堂(毛筆の専門店)
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5.一刀彫
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6.一刀彫その2.(他に、漆工芸、赤膚焼、表具、茶筅の専門店があります)
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7.墨の資料館入口
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「墨の歴史」古来より文房四宝の1つとして重宝がられてきた墨。現在のようにパソコンのワードもボールペンや鉛筆も無かった時代。筆記用具といえば筆と墨しかなかった。その墨で書かれた木簡(もっかん)、竹簡(ちっかん)をはじめ、古文書、古書画などは、年月を経て今なを墨色を保ち、歴史や文化を今に伝えてくれます。墨は今から1300年の昔,高麗の僧・雲徴によって伝えられたと「日本書記」(推古天皇18年・AD610)にあります。墨のルーツを辿れば、中国の漢の時代に固形墨の前身・墨丸が造られていたと資料に残っていますが、さらにその前の周の時代(BC1050〜770)に墨らしきものが実存したといわれ、又、後漢時代に紙が発明されると墨丸では書けず、球状の墨丸からすり易い棒状の現在の墨の基礎が出来たと言われています。

8.墨の形造り
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9.墨造りの行程
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10.多種多様な墨その1.
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11.多種多様な墨その2.
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2010/6/12

明日香の国宝と文化財を訪ねて5 橿原考古学研究所附属博物館  文化財研修記

今日の「明日香の国宝と文化財を訪ねて」の綾部の文化財を守る会の研修旅行の最後は、「橿原考古学研究所附属博物館」である。

世界的にも有名な博物館のあらまし
この博物館は、橿原考古学研究所が昭和十三年(1938)以来行なってきた発掘調査の出土資料を中心に展示されています。展示は発掘調査で出土した実物資料の常設館「大和の考古学」は日本の考古学基準資料をもとに「目で見る日本の歴史」となっています。

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沢山の見学者が詰めかけごった返す博物館案内所。92名が4班に別れ博物館のガイドに従い研修。
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2号車第2班は一般展示から見学
第1展示室:二上山麓遺跡群 ナイフ形石器、桐山和田遺跡 隆起線文土器など
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第2展示室:葛本弁天塚古墳 特殊器台、下地山古墳 内行花文鏡など
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石見遺跡 人物埴輪頭部
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藤ノ木古墳 金銅製冠(国宝)など
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埴輪など
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甲冑 刀剣など
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見学する一行
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第3展示室:牽牛子塚古墳 七宝飾金具(重文)、御坊山3号墳 三彩硯とガラス管(重文)など見学
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石棺など
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刀剣や土器など

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今回は「平城遷都千三百年記念春季特別展」で唐王朝の皇帝と皇族の陵墓にスポットを当て、最新の考古学的成果を用いた、世界最高権力者が眠る唐皇帝陵の実態を見学した。有料特別展は写真撮影不可。

1週間後の10日に綾部文化協会主催の「平城遷都1300年」の研修旅行に参加したが、遣唐使の船が復元されていた。この大唐皇帝陵展にも詳しく遣唐使の往来について説明されており、直後の見学だったので大変役立つ知識をえられた。
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館内案内図
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外へ出て巨大な石を乗せた修羅石を見る。石舞台古墳の巨石もこんな仕掛けで運んだのだろう。舟形の下に丸太のコロを並べたとしても大変な重量だ。数十人の曳き手が重労働を行ったのだろう。
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修羅石説明


2010/6/11

飛鳥の国宝と文化財を訪ねて4 岡寺  文化財研修記

綾部の文化財を守る会の研修旅行、「石舞台古墳」見学のあとは再び2台のバスに乗り、西国三十三所第七番札所・東光山龍蓋寺:真言宗・岡寺にやってきた。
先ず朱塗りの「仁王門」(国重文)の石段に並び号車毎に記念写真を撮影する。

西国札所と岡寺(龍蓋寺)
 観音様の御名を呼べば観音様は三十三の化身により衆生を救済されるとの信仰のもとに、西国三十三所観音霊場巡りが盛んになってから約一千年の歴史がある。
 岡寺はその前から観音霊場として栄え、創建以来「熱祷千三百有余年」常に大衆の幸せを願ってきた。
 岡寺の石の鳥居を通リ坂道を五百メートルばかり、ゆっくり登ると朱塗りの「仁王門」(国重文)石段を左側へ登ると広い境内にでる。此処には南面した本堂・開山堂・書院・本坊・楼門・観音堂などが不規則に建つ。
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重文・仁王門
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仁王門を入ると4班に分かれた92名の会員がボランティア・ガイドさんの説明を聴講中で混んでいた。
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本堂へ登る石段手前の地蔵菩薩(室町時代)
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(熱祷千三百年)創建の伝説と義淵僧正
天智天皇二年(663草草)草壁皇子のお住みになっていた岡の宮を仏教道場に改め、当時の仏教の指導者であった義淵僧正に下賜され、創建1300余年の歴史を持っている。このため本尊や義淵僧正像など国宝、重文七件のほか多数の宝物がある。
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義淵僧正は奈良東大寺の基を開いた良弁僧正や菩薩と仰がれた行基、その他奈良時代の仏教を興隆した多くの先駆者の師として知られている。また「扶桑略記」(平安時代の史書)によると、義淵僧正の父母は子宝を観音に祈った。その結果生まれたのが義淵。この有り難い話を聞かれた天智天皇が岡の宮で義淵を草壁皇子と共にお育てになった。
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本尊・如意輪観音像(重文)は我が国最大の塑像で、如意輪観音像としては最古の作品。インド、中国、日本3国の土で弘法大師が造られた尊像に向かい手を合わす。

注)塑像胎内に一本の心木があり銅線で芯を造り、麻布や雲母の入った仕上げ土で固めて創ったものです。
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納経所も会員で混んでいる
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厄除け信仰と龍蓋寺:義淵僧正は優れた法力の持主でもあった。その頃、この寺の近くに農地を荒らす悪龍がいた。義淵僧正はその悪龍を法力によって小池に封じ込め、大石で蓋をした。この伝説が岡寺の正式名称「龍蓋寺」の原点となっており、本堂前に「龍蓋池」が今もある。

 こうした伝説は「災いを取り除く」信仰に発展、密教の普及と共に鎌倉時代には「二月(現在三月)初午の日に必ず岡寺に参詣した」という「水鏡」の記録もあるほどで、それまでの観音信仰に厄除け信仰が加わり、日本最初の厄除け霊場が形成された。
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仏足石など見ながら奥の院に向かって石段を上り詰めると稲荷社があった。
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右手山際に奥の院・石窟
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下りてくると十三重石塔が立つ。
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「岡寺の三重宝塔」:文明四年(1422)台風により倒壊し、実に五百余年ぶりに昭和61年秋、弘法大師記念事業として再建されたものです。ここから明日香の広がりを観望。
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大師堂よこから石段を下り仁王門に戻る
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史跡:岡寺跡 創建当初の伽藍は仁王門の西方、ここ治田神社境内地にあったと考えられている。・・


2010/6/9

飛鳥の国宝と文化財を訪ねて3 石舞台古墳  文化財研修記

橿原オークホテルで1、2号車92名が揃って昼食の後、再び明日香村に引き返し石舞台古墳に上がり、記念写真を号車毎に撮った。太陽が真上の好天気の炎天下で、顔が帽子の影で暗くなるのを防ぐためフラッシュを使ったが、手を額に当てられたり多人数なので人の影になられたりの写真があり、各3ショットを撮影したが使いものになったのは各一点だった。

 石舞台古墳は古くから墳丘の土が取り去られ、石室の天井石が水田のなかに露出していた。本格的な発掘調査は昭和八年(1933)から昭和十年にかけて行われ、石室や墳丘すそ、周濠のようすが明らかになった。第二次世界大戦後も周濠外堤付近の整備工事にともなって発掘調査が実施され、石舞台古墳の築造により破壊整地された小古墳などが発見されている。
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石舞台古墳の墳丘は、すその部分で東西各辺の長さ約五十五メートル、・南北各辺の長さ約五十二メートル・高さ約2〜3メートルのほぼ方形に残っているが、その上は既に破壊されてわからない。

 墳丘の周りには底辺幅約8.1メートルの壕と底辺幅約10メートルの外堤をめぐらし、墳丘四周と外堤の斜面には人頭大の花崗岩自然石を敷いている。
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石室は少し整形を加えた強大な花崗岩を積み上げた両袖式の横穴式石室で、南西方向に開口する。石室の規模は、全長20.5メートル玄室の長さ7.8メートル、幅約3.4メートル、高さ約4.8メートルで大小30数個の花崗岩が使用されており天井に使われている石の重さは北側が64トン、南側が77トン総重量は約2300トンという大規模な古墳であることが判明している。
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石槨のトンネルから出てくる会員
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石舞台の由来は、一般に石の形状からとされていますが、昔狐が女性に化けて石の上で舞をみせた話や、この地に遣って来た旅芸人が舞台が無かったので仕方なくこの大石を舞台に演じた話もあります。今は石の上に登ることは禁止されています。
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2号車1班の会員とボランティア・ガイドさん
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石棺の前で説明を聞く
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特別史跡 石舞台古墳の説明
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時々立ち止まって行われるボランティア・ガイドさんの熱心な説明

「綾部市史上巻の六十五頁に綾部の山家地区の「西原遺跡」のうちの「申酉遺跡」当会のホームページ「西原遺跡」を見て頂きますとこの明日香村の「石舞台古墳」と大変似たものがありますので是非機会があれば見学して下さい。


2010/6/8

飛鳥の国宝と文化財を訪ねて2 甘樫丘万葉展望台  文化財研修記

飛鳥寺見学の後は、甘樫丘万葉展望台に登った。標高148メートルの山で通路は舗装され、ゆっくり15分で展望台までいけます。此処からは素晴らしい大和三山が展望できます。左の方から畝傍山(標高198.1メートルで男山)でこの山を御神体とする橿原神宮があります。真ん中の山が耳成山(139.7メートル、女山)、一番右手が香具山(152メートル、女山)で、藤原宮は丁度その三山に囲まれた所にあります。又、万葉集巻1113で中大兄山歌(後の天智天皇)で「香具山は 畝傍をしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古
いにしへも 然にあれこそ うつせみも 妻を争そふらしき」と一人の男性を二人の女性が争っていることを歌で表しています。

 又、国特別史跡の藤原京は現在水田の中に史跡として大極殿と朝堂院の一部が復元され続けております。

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甘樫丘万葉展望台下の駐車場に着くとまだ1号車のバスが止まっており、次々と会員が戻ってきた。これから飛鳥寺に回り昼食で合流する。
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甘樫丘万葉展望台への登山途中でボランティア・ガイドさんから班ごとに説明を聞く
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万葉の植物園路の案内、途中に万葉植物のクイズ表示があり見ながら登る
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展望台でガイドさんを囲み、熱心な案内を聞くメンバー
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畝傍山など三山を見ながら藤原京の説明を聞く
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下りは反対側から降り万葉植物の説明に上を見上げる
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志貴皇子 うねめの そでふきかへす あすかかぜ みやこをとほみ いたづらにふく(巻1−51)の歌碑

以前青年会議所会員だった頃は、京滋奈ブロックが一つの単位であったが、ここ亀石古墳、石舞台古墳、大和三山の見える、山野辺の道を万葉博士の犬養孝先生と歩き、有名な犬養節を聞かせてもらった思い出が蘇った。

注)犬養孝(いぬかい たかし、1907年4月1日 - 1998年10月3日)、東京都生まれの万葉学者。大阪大学、甲南女子大学名誉教授、文学博士。文化功労者。高岡市万葉歴史館名誉館長。万葉集に登場する万葉故地を全て訪れ、万葉集研究に生涯を捧げ「万葉風土学」を確立した。また、テレビ・ラジオ番組や公演などで、多数の一般の人に万葉集を広めた。万葉集を朗唱する「犬養節」は独自の歌い方で、多くの万葉ファンに親しまれた。
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昼食は「橿原オークホテル」、一室では収まらず他の部屋も使っての昼食
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他にお土産売り場も少ないと云う事で「埴輪まんじゅう」を買い求める会員


2010/6/8

明日香の国宝と文化財を訪ねて1 飛鳥寺  文化財研修記

昨年春の研修旅行の予定が新型インフル流行の騒ぎで本年度に延期になっていた。6月3日(木)バス2台92名の参加で好天気の中で実施された。奈良県は「平城遷都1300年」と云うこともあり沢山の観光客が訪れていた。

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飛鳥大仏と記された石柱 飛鳥寺の山門をくぐる
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2号車の第2班が飛鳥大仏の前に入室して説明を傾聴
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今日までこの場所で保存されてきた国宝:飛鳥大仏
本尊飛鳥大仏(釈迦如来坐像)は推古天皇十七年(609)天皇が詔して、鞍作鳥(止利仏師)に造らせた日本最古の仏像である。旧伽藍は仁和三年(887)と建久七年(1196)の火災によって焼失し、室町以降荒廃したが、江戸時代の寛永九年(1632)と文政九年(1826)に再建され今日に至っている。現在は真言宗豊山派に属し、新西国霊場第九番、新聖徳太子霊場第十一番札所でもあります。
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本堂の裏に周り廊下から庭園を拝観
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陳列された宝物の数々を拝観する2号車2班
阿弥陀如来座像(木像藤原時代)、聖徳太子孝養像(木像室町時代)、弘法大師坐像(木像 時代不詳)、飛鳥寺形石燈籠(南北朝時代)、万葉歌碑(昭和十二年佐々木信綱博士の筆による山部赤人の長歌を、近衛文麿氏の筆による篆額が刻まれ、昭和の国宝的存在である)、他にも、飛鳥大佛標石などや木像がある。
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外に出て思惟殿を拝観
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飛鳥寺縁起;飛鳥寺は第三十二代崇峻天皇四年(596)の時、蘇我馬子が発願し、創建された日本最初の寺であり、寺名を法興寺、元興寺、飛鳥寺(現在は安居院・真言宗)とも呼んだ。近年(昭和31年)の発掘調査により、創建当時の寺は塔を中心に東西と北にそれぞれ金堂を配する日本最初の本格的寺院で、その外側に回廊をめぐらし、更に講堂を含む壮大な伽藍であった。
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木陰で現地ボランティア文化財ガイドさんから説明を聞く
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ボランティア・ガイドさんの説明を聞く、2号車2班(手前)と1班(向こう側)
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蘇我の入鹿首塚(南北朝時代の石塔)
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明日香村観光マップ



2010/6/5

明日香の国宝と文化財を訪ねて92名の参加で終了  文化財研修記

奈良の記念行事ブームの影響もあり綾部の文化財を守る会の研修旅行で過去最大の参加を得て好天気の6月3日(木)に「明日香の国宝と文化財を訪ねて」が実施された。
午前中に飛鳥寺・甘樫丘万葉展望台をバス2台をそれずれ2班の計4班に分け現地の4人の文化財ガイドさんの案内で回った後、午後は石舞台古墳と岡寺を見学し、最後に橿原考古学研究所付属博物館で特別展「大唐皇帝稜」を参観した。
(写真をクリック拡大してご覧ください)

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石舞台古墳にて 2号車1班、2班文化財ガイドさん、バスガイドさん
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石舞台古墳にて 1号車1班、2班文化財ガイドさん、バスガイドさん
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岡寺国重文:仁王門前にて 2号車1班、2班文化財ガイドさん、バスガイドさん
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岡寺国重文:仁王門前にて 1号車1班、2班文化財ガイドさん、バスガイドさん


2010/6/4

天下分け目の山崎合戦の明智光秀の城と細川忠興と妻ガラシャの愛の城・勝竜寺城  文化財研修記

JR京都・大阪間の京都よりの長岡京駅から南500メートル行くと勝竜寺城(しょうりょううじじょう)跡公園がある。この城は南北朝時代暦応2年(1339)に足利方の細川頼春が始めて築城したと言われている。その後、織田信長が入京し、京都近辺を順次制圧し、この勝竜寺城は細川幽斎に預けられた。織田信長は明智光秀の長女・玉(たま・洗礼後ガラシャと名付けられた)を大変可愛がっていたので幽斎の嫡男・細川忠興と婚姻を勧め天正6年(1578)新暦9月には結婚し、2年間の短い間ですが忠興・ガラシャが新婚生活をした城で有名です。その後、細川幽斎は今の京都府舞鶴市の田辺城、忠興は丹後の宮津城を預けられた。しかし、皮肉な事に明知光秀が謀反で織田信長を殺し、幽斎・忠興を味方に付けようとしたが、先見の明のあった幽斎は羽柴秀吉に味方し、明智光秀に決して味方しようとはしなかった。忠興は妻・ガラシャを子供達から引き離し丹後半島の山の中に幽閉した。明智光秀は勝竜寺城を占領し、山崎合戦ではこの城を拠点としたが、守れないので近江の居城・坂本城へ帰ろうとした途中で討ち死にし、羽柴秀吉が天下をとった。後、石田光成は徳川家康が武闘派の大名達を率いて上杉景勝打倒に行っている間に、毛利輝元を西軍の大将として、武闘派大名の妻子を大阪城へ集め牽制しようとしたが細川忠興の妻・ガラシャはキリシタンは自殺を認めないので留守居役に槍で殺されるようにして捕虜とならなかった。長岡京市は1993年に古城跡、1995年に掘を発掘して、10年掛けて城を整備した。そしてガラシャとの縁を元に毎年11月第二日曜日には行列巡航、楽市楽座等一大イベントを実施している。

1.勝竜寺跡公園の南堀と再建された城門
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2.城内への橋
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3.城内の展示室
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4.沼田丸への道
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5.沼田丸跡
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6.北門跡
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7.本丸井戸跡
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8.本丸跡庭園
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9.ガラシャおもかげの水(飲めます)
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10.細川忠興と妻ガラシャ像
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2010/6/1

羽柴秀吉が明智光秀と天下分け目の山崎合戦の地・大山崎町歴史資料館を見る!  文化財研修記

要衝の地・石清水八幡宮から羽柴越前守(福井県の守)秀吉が明智光秀と天下分けめの山崎合戦の地、大山崎町資料館を訪ねました。明智日向守惟任(こてとう、九州の名門の名前)光秀は、羽柴秀吉と黒田官兵衛の謀略とも噂になる所謂、「本能寺の変」で織田信長公を本能寺で焼失させ、嫡子・信忠は二条城にて滅亡させられました。織田家の重臣・柴田勝家は北陸で上杉景勝との戦いで明智光秀の謀反を打ち滅ぼす機会がありませんでした。一方明智光秀は近隣の諸大名や長女の娘婿・織田信澄、次女ガラシャの婿・細川忠興、三女は大和の筒井順慶の息子・定次に嫁いでおり当然味方の確認を十分にすべき所を怠って、重臣・溝尾勝兵衛に今の長岡京市の勝竜寺城を守らせ、自分は近江の居城・坂本城へ帰り、織田信長公の壮大華麗な安土城を攻めた。又、遠方の大大名や朝廷へ多額の銀を贈呈するなど近隣の諸大名・親戚との連絡は蜜に出来ていなかった。一方、羽柴秀吉は信長直参の堀尾茂助を味方に引き込み、当時対陣していた高松城(水攻めで有名)の清水宗治を毛利一族の交渉相手・安国寺恵瑣(あんこくじえけい、後、豊臣秀吉に仕え5万石の大名となる)を得て切腹させ、堤防を決壊し、毛利の後追い攻めを防ぎ、所謂「中国大返し」で居城・姫路城へ戻り、近隣の大名達,中川瀬兵衛、高山右近、池田信輝を味方に付け、更には四国攻めの準備の織田信孝・丹羽長秀軍をも後添えとして引き込んだ。天正10年(1582)6月13日天下分け目の天王山(標高270・4メートル)の取り合いでほぼ勝負が決まった。男山八幡から山崎駅までの幅は約10町(1キロメートル)で川原の広い淀川があるのだから陸路はせいぜい7・800メートルの幅です。男山の更に向こう側にある「洞ヶ峠」には筒井順慶が形勢観望中。従って大阪側から向かって左側、街道を見下ろす形でそびえたっている天王山の占領が勝敗の鍵となる。羽柴秀吉はよく其れを理解していたので元山男の堀尾茂助に命じ鉄砲隊を登らせた、一方明智光秀もその事にきずき松田太郎左衛門に命じて同じく鉄砲隊を登らせたがほんの少し、堀尾隊の一部が先に頂上に登りじゅ17・18人位の少人数だが喚声を上げ、鉄砲を発射、岩をも押し転がした為、松田隊はほぼ壊滅した。次回は勝竜寺城址を訪れます!

1.大山崎歴史資料館(入場料20円)
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2.2階の資料館入口
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3.ボランテアガイドの案内で見学する
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4.洛外図屏風「承応三年(1654)〜万治二年(1659)」のもの
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5.現在の大山崎町のイラストマップ
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2010/6/1

平成22年は石清水八幡宮の御祭神第15代応神天皇壱千七百年式年祭です!その4その摂社と石庭を見る!  文化財研修記

石清水八幡宮は鎌倉時代には源氏の氏神であったため、源頼朝も再三参拝した。又元寇の際には当社で敵国降伏の祈願が行われた。南北朝動乱期には善方寺家が北朝方として幕府の御師(おんし)となり、田中家は南朝方として一時,後醍醐天皇の後継の村上天皇の行在所(あんざいしょ)となっている。室町幕府の足利氏は源氏の家系であったため、当社の尊崇が厚かった。三代将軍足利義満の母は善方寺家の出身で、義満は15、義持(よしもち)は37度も当社に参拝している。また6代将軍をめぐるくじも当社で行われ、義教(よしのり)が選ばれている。しかし室町幕府の衰退とともに当社も勢力を失い、応仁の乱前後に臨時祭と放生会も中止され、再開は江戸時代となった。京都府綾部市のもう1つので4月第一日曜日のお田植式で有名な綾部八幡宮は最期にクリックして見てもらえます。

1.摂社(広田社・生田社・長田社)
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2.校倉(あぜくら)左、信長塀
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3.住吉社・右は一童社,裏は信長塀
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4.龍田社・貴船社、裏は信長塀
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5.北門
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6.若宮社(応神天皇の皇子・16代仁徳天皇を祀る)
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7.若宮殿社(応神天皇の皇女を祀る。女性のための守護神)
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8.書院石庭「数多くの名園を手がけた作庭家・重森三玲(しげもりみれい)氏により昭和27年に作られた石庭。南北約8メートル、東西約6メートル。八幡大神の「海神」としての神格に因んだ海洋を表現している。この下部の写真の石灯籠は「永仁三年(1295)未乙三月」刻銘があり、国の重要文化財に指定されている。
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9.書院内部を説明する神官
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毎年4月の第一日曜日に実施される「お田植式」で有名な綾部八幡宮は下記をクリックして見て下さい。
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/405.html

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