2009/7/14

ぶらり城下町宮津を歩く!第9回今回のハイライト浄土真宗の古刹佛生寺  綾部の文化財

ぶらり城下町宮津を歩く!は第9回目となったが、第1回から第4回目は導入部分で小生にとっては不本意であった。この第9回目に初めて読者の皆様のご期待に添える記事となった。浄土真宗本派本願寺(ほんぱおんがんじ)即ち、西本願寺派(お西さん)の古刹である「佛生寺(ぶっしょうじ)」を紹介します。織田信長の命により、丹後攻めを開始した細川幽斎(実は将軍義輝の異母兄)は天正八年(1580)に田辺(今の舞鶴)に進攻、この地の海岸に城(田辺城)を築こうとし、この地の巨大な力をもつ一向宗(浄土真宗)集団の力を借りることとし、その有力者の楠正成(くすのきまさしげ)の末裔・楠源吾「後、明誓上人(めいせいしょうにん)」に娘を嫁がせ縁戚として力をかりた。そして、田辺城(古今和歌集伝授・綾部山家藩谷の空鉄砲でも有名)を完成し、明誓上人にはこの田辺の地に見事な一向宗の寺「瑞光寺」を建立した。又楠源吾は武術・楠流ゲリラ戦にもたけており息子・忠興の武術の師にも迎えられている。この明誓上人の隠居寺として建立されたのが宮津市の「佛生寺」である。綾部市にある同派の「浄光寺」の三つは兄弟寺として今日も栄えている。さて小生綾部から来たこと知り、この佛生寺の鷲尾住職の好意により、1時間近くも山門、細川九曜紋(ほそかわくよううもん)、幕末の勤皇画家・佐藤正持(さとうまさもち)、見事な欄間の話を拝聴した。綾部山家藩の谷の空鉄砲の話などは読者諸氏は良く知って居られると思うので割愛する。
編集後記:後日、旧綾部町内広小路の浄土真宗「浄光寺」を訪ねてみた。不在なので近所の方にご住職の姓は「楠さん」かと訪ねると確かに楠さんだとの事、楠正成の末裔ですね!と確認すると!楠正成?の答えであった。この綾部に楠正成の末裔が実在して居られるのです。上杉謙信公の上杉の姓は綾部の上杉庄からきたことはかなりの方々がご存知ですが、さすがの私も綾部に楠正成公の末裔が実在して居られることを初めて知った。明治初期の調査の何鹿郡(いかるがぐん)寺院名簿は手元に無いが、電話町で調べてみるとその寺の付近に3件の楠姓の家が実在しているので後日アポイントを取り訪問予定です。その節はこの日誌で報告します。

1.佛生寺の唐風の屋根を導入している見事な山門とその裏手に本堂が見える。
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2.山門の見事な浮き彫り彫刻
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3.山門に浮かぶ「細川九曜紋(ほそかわくようもん)とその云われ:当初細川家の家紋は板倉巴九曜紋(ともえくようもん)とよく似ていたが延享四年(1747)に江戸城本丸にて第七代細川宗孝が家紋故、間違われて板倉修理に刺殺(江戸城本丸七刺殺の一つ)され、その後、間違われないようにこの紋となったと云う。と云うと、この門は細川家が熊本に移封された随分後で創建された山門と云うことになる。
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4.見事な須弥檀(しゅみだん、仏壇のこと)と本尊阿弥陀如来像
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5.美しいお顔の阿弥陀如来様(正面から撮影出来ず残念)
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6.正面の見事な須弥檀の両側の襖には幕末の勤皇画家・佐藤正持の大変珍しい「源氏物語・明石にいる明石君の処に光源氏を迎えに!帰京後、光源氏は大納言に昇進す!」が描かれている。
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7.本堂内の巨大な梁の欄間(らんま)の浮き彫りは見事だ!その1.
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8. 同  上  その2.
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2009/7/13

ぶらり城下町宮津を歩く!第8回大久保山城跡と桜山天満宮  綾部の文化財

和貴宮神社から西へ100余メートル、大久保山は標高30メートル余の小高い山だが下には「大久保城跡」宮津市教育委員会の駒札が立っている。折角だから登ってみようと上がりかけるとたかが30メートルだが大変きつかった。この古城は丹後守護職一色氏の有力家臣の小倉播磨守の城であったが、天正六年(1578)の明智光秀、細川幽斎・忠興父子の丹後・丹波攻めで滅亡した処である。頂上は桜山児童公園となっており、小倉播磨守を祀るちっぽけな神社があるのみでした。其処から道を下ると、左手下に「桜山天満宮」が見える。この天満宮は豊臣秀吉が身辺に守護神として持っていた「菅原道真公の像」を側室・愛妾の兄・京極高知(きょうごくたかとも)を身辺に用いて出世させる条件で、この愛妾・本名・ 龍子(気が強く見込みの無い若狭の武田氏から離婚した)をくどき落として愛妾としたこの「松の丸殿」の甥・高広に下げ渡した像が祀ってある。この愛妾・龍子にしても、糟糠の妻・ねねにも子供はできなかったの残念至極である。二人とも才色兼備でひとりでも子供があったら豊臣家は万全であったろうに!予断だが、長浜には「ねねの赤子の墓」がある。

1.大久保山城跡の駒札
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2.大久保山城跡への登り道・鳥居が見える。
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3.山頂の広場は「桜山児童公園」で奥に一色一族と家臣を祀る小社
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4.山頂から桜山天満宮へ降りる道・左手の木々の間に天満宮がみえる
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5.豊臣秀吉が愛妾・近江佐々木源氏末裔の京極高知の娘・龍子(二の丸殿)のため甥の京極高広に贈った念持の「木造り神像菅原道真公」が祀られている天満宮
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6.横から撮影した桜山天満宮,右手の赤い屋根は摂社の稲荷社
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2009/7/12

ぶらり城下町宮津の社寺を歩く!第7回宮津の名の発祥の和貴宮神社  文化財研修記

宮津市の素晴らしい「カトリック宮津」から南に100メートルのところに「和貴宮神社(わきのみやじんじゃ)」がある。宮津の地名は、当神社の祭神・天之水分神(あまのみまくりのかみ)を宮の津即ち宮祭る港の址と記されている。他に祀る神々は伊邪那岐・伊邪那美神、豊受神、海津見神、猿田檜彦神、我野姫を祭るが古代には丹後一ノ宮籠神社(このじんじゃ)の別宮で別き宮(わきのみや)と呼んでいたと云う。この神社正面右手後方には「波越巌(なみこしのいわ)」があり、往時には波がここまで来ていたと記されている。文明二年(1470)四月十一日、時の守護職一色氏(いっしきし)が丹後国一ノ宮の祭神・天水分神他三柱を合祀したとも記されている。丹後一ノ宮籠神社については最後にクリックして見て頂くようにした

1.和貴宮神社正面
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2.拝殿内部
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3.波越巌(なみこしのいわ)と幹周3メートルの巨木(宮津市では古木・名木の調査が少ないのは残念だ!。往時はここが海岸であった。
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4.和貴宮神社はパリのノートルダム寺院と同じでバックシャンです。裏側の写真.
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丹後一ノ宮籠神社は下記をクリックして見てください
http://www.ayabun.net/kensyu/tango/tango.html

2009/7/12

ぶらり城下町宮津の社寺を歩く!第6回日本で2番目に古いカトリック宮津教会とその見事なステンドグラス  文化財研修記

宮津市役所からほんの徒歩で数分で無料で貰った「歩ら輪ぐ散歩名所ガイド」を見て歩く。古びた街の中に見事な教会が見えてくる。このカトリック宮津教会は10数年前に一度見学したことがありその見事なステンドグラスを今も覚えていました。この教会は明治21年に宮津にこられたフランス人でパリ外国宣教教会から日本に派遣されたルイ・ルラーブ神父が丹後地方のカトリックの創設者として丹後地方で始めて創設されたものです。今残っている教会の建物は地元の旧家,田井氏(舞鶴には田井の地名がある。魚のたいの苗字もある。)の寄進によるもので,珍しいフランス風の建物です。又内部には畳が敷いてあり、和洋折衷の大変珍しい教会内部です。その素晴らしいステンドグラスを飽きずにずっと眺めて居れます。久しぶりの教会でドーネーション(寄進)も久しぶりでした。

1.フランス風の「カトリック宮津教会」左の建物はルイ・ルラーブの名前を付けています。
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2.内部は「聖櫃(せいひつ)」ーーーー十字架の真下の白い覆いのある部分を云い、ミサ中に聖別されてキリストの体となったパン、すなわち聖体が中に保存されています。
「祭壇(さいだん)ーーー教会の中心となる部分で「最後の晩餐の式(バチカンの十二使徒とユダの絵が有名)」が行われる所です。教会内部の両側のステンドグラスが凄いです。
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3.私は仏教徒でクリスチャンではありませんが、明治21年(1888今から130年も前)当時に布教に来られた神父様には敬意を捧げます。当時のフランス直輸入のステンドグラスは見事で呆然と数十分見ていました。和洋折衷の畳が良く見えます!
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2009/7/11

ぶらり城下町宮津の社寺を歩く!第5回KTR宮津駅と丹後守護職であった一色氏の一色稲荷神社  文化財研修記

国道178号線で宮津市内に入ると左側に「KTR宮津駅」の案内板が信号機の上に見える。そこで左折してKTR宮津駅の観光案所へ立ち寄ろう!いろいろと豊富なパンフレットが無料でもらえます。今回重宝したのは「歩ら輪ぐ散策名所ガイド」のパンフレットであった。貸し自転車は2時間以内400円、1時間増すごとに100円、中学生以下は200円、50円であるが、小生はリュックサックで「ぶらり歩き」と洒落込んだ。乗用車はちゃっかりと無料の宮津市役所に止め、用事有るが如くに通りぬけした。

1.KTR(北近畿タンゴ鉄道)宮津駅と観光案内所(無料のパンフレットをもらおう)大正15年(昭和元年1926)鉄道が開通、現在は「海園都市みやず」のイメージの駅舎
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2.市役所前の大手川に「宮津城大手門」が昔はあったが、今は大手川と左手に工事中の宮津市役所がみえる。
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3.市役所前の「宮津旧市内案内図」
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4.元丹後守護・一色(いっしき)義清を祀る「一色稲荷神社」その1.
 室町初代将軍足利尊氏公に古くから仕えた足利一門である一色氏は南北朝末期明徳三年(1392)正月に丹後守護職に補任された一色満範を初代としている。その後若狭の武田氏にその職を奪われたがこともあったが、七代義清(1500年前後)の代までは不明であるが、明智光秀、細川幽斎・忠興の丹波・丹後攻めで滅亡。しかしその末裔は綾部志賀郷(しがさと)の豪農・遠藤三郎兵衛(えんどうさぶろべえ)として現代まで続いている史実がある。有名なのがグンゼ三代目遠藤三郎兵衛(芦田均元総理大臣の叔父で養子)である。詳細は綾部志賀卿(しがさと)遠藤三郎兵衛を参照。
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5.上記その2.(後ろは巨大な古木がみえる。宮津市の古木・名木が選定されると面白いのだが!
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2009/7/11

ぶらり城下町宮津を歩く!第4回名勝・奈具の海岸と昼食場所  文化財研修記

由良海岸から国道178号線を宮津市方面に行くと、つずら折れの難所で・景勝の地「奈具(なぐ)の海岸」に至る。スピードを落とし、特に大型車とのすれ違いには十分注意して中央ラインをオーバーしないようにして下さい。途中数ヶ所に「駐車展望台」があるので楽しんで下さい。晴れた日には遠方左に「栗田(くんだ)半島」真ん中遥か遠方に「天然記念物のおおみずなぎの鳥の居る大鳥(冠島)」、そして右手には舞鶴半島先端の岬が見えます。小生がいつも行く昼食場所「双子岩(食事処・キヤンプ場)」は1,050円の定食を楽しんでいるのですが木曜日で休み。仕方がないので,引きかえし、レストランで海鮮どんぶり1,280円を食した。カップルやグループで海岸美を楽しみ昼食事の最中であった。次回はいよいよ「徒歩でぶらぶら城下町旧宮津の町の寺社を見学」します。請う、ご期待を!

1.駐車場から「栗田半島と関西電力の魚っち館」が左遠方に見える。左の建物はレストラン双子岩(食事と砂浜のキャンプ場がすばらしい」
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2.このレストラン「しきふ」は海鮮どんぶり1,280円(2食付宿泊が一人8,000円からが魅力)
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3.平日なのに多くのカップルとグループが海岸美を楽しみながら食事中。通常双子岩
は大混雑、午前11時30分か午後1時からがすいている
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2009/7/10

ぶらり城下町宮津の社寺を歩く!第3回京都の自然200選由良の門(戸碑)  文化財研修記

更に、国道178号線を宮津方面に向かっていくと、由良海岸の左へカーブになる。其処には地元銘酒の「白嶺酒造」があり、無料でお酒の試食ができる。小生も夕食時、飲んだことがあるが中々乙な味わいであった。更に進み、由良海岸の終わり頃、左手に大きな石の碑が見える。車を止めて、「京都の自然200選の由良の門(戸碑)」と海岸美を楽しもう。この海岸美は多くの歌人に歌われているが、この由良の戸碑は天保元年(1830)に京都の歌人の賀茂季鷹 (かもの・すえたか江戸中期) が若狭小浜から天橋立に行く途中にこの由良の沖を通り、曽根好忠(歌人にして丹後掾たんごのじょう・役職、中古三十六歌仙の一人、900年代末の人)が次のように謡った「由良の門を渡る舟人かじを絶え ゆくへも知らぬ恋の道かな」そのことを思い出して、曽根好忠は「由良の戸に梶を絶えしは昔にて 安らに渡るけふの楽しさ」と謡った。そして、天保12年(1841)にこの碑は建立された。又、由良の海岸美は格別なものである。

1.京都の自然200選由良の門(戸碑)の」駒札
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2.戸碑「天保12年(1841)」の銘が読める
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3.素晴らしい由良の海岸美(あいにく今日は雨模様で期待した程の写真撮れず)
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4.上記の代わりに「看板」で海岸美をお楽しみ下さい
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2009/7/10

ぶらり城下町宮津の社寺を歩く!第2回安寿と厨子王像  文化財研修記

国道178号線を更に、由良・宮津・天の橋立方面に向かうと、ほぼ由良川の河口近くになる。ここは「みかんの産地」で有名で11月末から3月前まで「温州みかん」ついで格安の「伊予みかん」が直売される。その近辺左手に「安寿と厨子王の銅像」が見える。無料の休憩所と自動販売機があるので一休みして行くと良い。尚、後ろの山手は「つつじ公園」で車で上がれる。そこから北近畿タンゴ鉄道の橋と由良川河口の絶景が見える。小生、高等学校卒業旅行はお金が無いので友人3人で日帰り旅行でこの橋を丹後神崎方面から由良へ向かって、自転車を引っ張り渡っていると、汽笛が鳴り、モクモク噴煙を吐く列車が近ずいてくるではないか!大慌てで冷や汗をかき、自転車を引っ張り橋を渡った40数年前がここではいつも思い出される懐かしい所です。

1.安寿と厨子王の銅像
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うらが2.案内の駒札のアップです
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3.上の「、もみじ公園」から京都府北部の大河・由良川河口と北近畿タンゴ鉄道由良川鉄橋
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2009/7/10

ぶらり城下町宮津の社寺を歩く!第1回・山椒大夫屋敷跡  文化財研修記

久しぶりに、福知山から国道178号線宮津市に向かう。右手に京都府北部の大河「由良川の河口」が見えてくると、左手にここからは「宮津市」の大看板が左手に見える。その先は左側に車の駐車用の空き地があり、トラック、自家用車なら数台駐車できる。ここに乗用車を留めて再び、左を見ると「由良の歴史をさぐる会」建立の大きな縦型の「山椒太夫屋敷跡」の駒札がある。其処か左の道を数十メートル行くと同じく由良の歴史をさぐる会の駒札「三庄太夫屋敷跡」がある。山庄太夫とはの地方の三地区世話をしていた大庄屋であり、史実が伝えることとはまったく違って善政を布いたのが実情であったと理解している。安寿と厨子王の記念碑は由良川右岸にある。この紹介は数年前したので割愛する。ここ数回はがまんして見て下さい。宮津旧町内の寺院は見事な仏像も紹介します。

1.由良の歴史を守る会の「山椒大夫屋敷跡」の縦型の大駒札
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2.由良の歴史を守る会の駒札
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3.古い石の駒札
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4.山椒太夫の屋敷跡
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2009/7/8

はるか1900年の昔・古代の竪穴式住居・円形周溝墓のあった新庄遺跡記念碑  綾部の文化財

綾部の古木名木100選新庄家のツバキを見に行き、家を探す間に市道脇に建てられた「新庄遺跡」を見つけた。
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新庄遺跡
この区画整理された新しい街並みの下には、古代の集合遺跡があった。「新庄遺跡」と呼ばれるこの遺跡では、はるか1900年前から人々が住居を構え暮らしていた。
 発掘調査の結果、竪穴式住居や円形周溝墓がみつかり、土器などが多数出土している。
これらの中には、遠く播磨や山陰地方との交流を示すものもあり、この遺跡に暮らしていた人々の盛んな活動が想われる。
発掘調査 平成5年11月〜平成6年3月
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写真の拡大図
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となりに「上延土地区画整理事業 竣工記念碑」が建てられていた
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事業概要
施工期間 自 平成5年度
     至 平成12年度
施工面積 6.6ヘクタール
総事業費 10億1千万円
組合員数 50名
平成12年12月吉日
綾部市上延土地区画整理組合



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