2009/6/30

高倉宮以仁王を祀る延喜式内社・高倉神社の夏越の大祓式  綾部の文化財

京都府綾部市「元何鹿郡(いあるがぐん)」吉美地区(きみ)の高倉町には高倉宮以仁王(もちひとおう)と近臣大槻光頼、渡辺俊久等の十二士を祀る延喜式内社の高倉神社がある。毎年6月30日には「夏越(なごし)の大祓式」があり取材した。治承年間平清盛の横暴極まり、後白河法皇を幽閉し以って孝心深き第二皇子の高倉宮以仁王(もちひとおう)は源三位頼政に令旨を下し賜いて、決起したが、逸道の激戦に官軍利あらず、頼政は宇治の平等院にて自刃した。しかし、宮は南都へ御落延の途中光明寺下で流矢で薨去と偽り、首記家来の十二士とともに頼政の領地丹波路へ危難を避けたが、宮は不幸にして当地御着馬の頃から御矢傷次第に重く、治承四年(1180)六月九日吉美郷里村にて矢傷のため薨去された。翌養和元年(1181)九月九日神霊を奥谷の森今の高倉村(現在地)に奉遷し、高倉天一大明神と勧請した。降って天文年間には大火災で御神像以外は悉く鳥有にきしたが、延享三年(1746)に再建した。明治四十三年八月には本殿を拝殿に移築し、新たに本殿を再建した。この拝殿は平成14年に京都府指定文化財となった。

1.延喜式内社・高倉神社と文政十二年(1829)の銘を持つ一対の燈篭(左手前の燈篭)
クリックすると元のサイズで表示します

2.京都府指定文化財の拝殿と本殿(指定ではないが美しい)
クリックすると元のサイズで表示します

3.神社総代さま達による「茅輪(ちのわ)」作り 6月30日午前10時から
クリックすると元のサイズで表示します

4.夏越の大祓式始まる(四方幸則宮司様から茅輪をくぐられる。午後4時から
クリックすると元のサイズで表示します

5.ご来賓から順次「茅輪」をくぐる。
クリックすると元のサイズで表示します

6.ご来賓から順次拝殿で参拝
クリックすると元のサイズで表示します

7.京都府指定文化財の拝殿内で神事「大祓式」(一般の方も拝殿前でお祓いがある。)
クリックすると元のサイズで表示します

8.明治末から大正初めに作られた「高倉神社のポストカード」高倉神社提供
クリックすると元のサイズで表示します

9.明治9年に描かれた高倉神社(京都府立総合資料館延喜式内並国史見在神社考証より)
クリックすると元のサイズで表示します

10.茅輪(ちのわ)の作り方
クリックすると元のサイズで表示します

高倉神社や綾部市指定民俗文化財「ヒヤソ踊」は下記をクリックして見て下さい。
http://www.ayabun.net/bunkazai/annai/takakura/hiyaso.htm

2009/6/28

南北朝時代(1390)の見事な鰐口  綾部の文化財

京都府綾部市「元何鹿郡(いかるがぐん)」中上林地区(なかかんばやし)の睦合町に京都府指定文化財の南北朝時代(1390)の京都府指定文化財の鐘・鰐口(わにぐち)を持つ宝蔵禅寺(ほうぞうぜんじ)がある。奥上林地区の訪問から帰路途中であったので当会の村上高一会長と共に立ち寄り寺院の撮影をした。この指定文化財の鰐口は現在京都府立丹後郷土資料館に寄託中であるが写真を綾部資料館より提供頂いたのでここに掲載します。この鰐口は寺伝では元々付近の薬師堂に掛かっていたもので,堂が廃された時、他の什器と共に宝蔵寺へ移されたものである。鋳銅製で両面ととも同文で甲盛が強く、圏線によって三区に分かれ、中央には撞座を設けず素文であり、古様を示す。目、口唇は同寸出で、肩部に両面耳を鋳出す。表面外区に当初の刻銘、明徳元年四月十六日(1390、南北朝時代)、裏面外区に後刻印、承応四年(1655、江戸時代)を記している。比較的小型(面径26センチ、肩厚7.6センチ)だが撞座を設けない点など古様を示し、南北朝時代の鰐口としては注目すべきものである。綾部市資料館発行「あやべ歴史のみち」より抜粋。

1.宝蔵禅寺の寺門と本堂
クリックすると元のサイズで表示します

2.鐘楼門
クリックすると元のサイズで表示します

3.境内その1.
クリックすると元のサイズで表示します

4.境内その2.整備中の庭園
クリックすると元のサイズで表示します

5.京都府指定文化財の鰐口(面径26センチ、肩厚7.6センチ)表
写真:綾部資料館提供
クリックすると元のサイズで表示します

6.同 上 裏面
クリックすると元のサイズで表示します

2009/6/28

平安時代の見事な仏像五体を祀る下庄講中  綾部の文化財

京都府綾部市「元何鹿郡(いかるがぐん)」奥上林地区(おくかんばやしちく)の睦合町(むつあいちょう)には下庄講中(しもしょうこうちゅう)によりお堂に祀られてきた素晴らしい平安時代の仏像が五体ある。会報69号の掲載記事のため、当会・綾部の文化財を守る会々長村上高一先生と小生の二人で訪れた。お世話役の長野さんにアポイントを入れていたのですぐさま案内頂き撮影した。堂内には綾部市指定文化財の阿弥陀三尊とその前に二天の像が祀られている。阿弥陀如来はヒノキの一木造りで、これに両足部を矧寄、上品中印を結び、通肩であるのが特徴である。頭部は肉髺が高く盛り上がり、裸髪は大粒で、肩をいからせ胸腹部は厚く、大きく張った両足部には充実感があって平安時代の特徴をよく備えている。納衣の衣文は太く、両足部では深くくんだ足首に引き込まれている。像全体のいたみが甚だしく、後世の泥地彩色によって、像表面が厚く覆われているが、10世紀頃の作と考えられる。脇侍の観音菩薩と勢至菩薩も平安時代の後期の作と考えられるが,後世の補修が稚拙なため像がいたんでいるのはおしい。二天像は四天王の内、二天のみが造られたと思われる。像容に力感が溢れ,刀法も優れている。彩色は剥落しているが後補がないためかえって良さを残している。平安時代後期の作であろう。綾部資料館発行の「あやべ歴史のみち」より抜粋文。特別開扉の申し込みは!!お世話役:長野幸男氏(電話0773−55−0216)へ事前にアポイントを取って下さい。志納料は一グループ1,000円から。

1.綾部の文化財を守る会々長:村上高一氏とお世話役:長野幸男さん
クリックすると元のサイズで表示します

2.お堂内
クリックすると元のサイズで表示します

3.真中:阿弥陀如来坐像、左:観音菩薩、左前:二天その1.右:勢至菩薩
クリックすると元のサイズで表示します

4.阿弥陀如来坐像(像高58.1センチメートル)
クリックすると元のサイズで表示します

5.観音菩薩立像(像高150.3センチメートル)
クリックすると元のサイズで表示します

6.勢至菩薩立像(像高152.2センチメートル)
クリックすると元のサイズで表示します

7.二天その一(像高140.5センチメートル)
クリックすると元のサイズで表示します

8.同上 上半身のアップ
クリックすると元のサイズで表示します

9.二天その二(像高140.7センチメートル)
クリックすると元のサイズで表示します

10.同上 上半身のアップ
クリックすると元のサイズで表示します

2009/6/25

綾部市指定文化財「織田信長感状」「豊臣秀吉感状」  綾部の文化財

京都府綾部市「元何鹿郡(いかるがぐん)」山家地区(やまがちく)の広瀬町には山家城址がある。この山家藩は陸戦の武将・谷衛友(たにもりとも)が天正十年(1582)に山家に入部して始まった。谷氏は近江佐々木定綱の後裔で、近江国甲賀郡谷の郷に住み、最初には「谷野」と名乗りついで「谷」となった。この織田信長「感謝状」は谷衛友の父・衛好(もりよし)が信長に仕え、天正四年(1576)に石山本願寺戦の時、木津・難波表の戦功により、次のような感状を受けた。「於木津難波表相働首五到来感悦候 弥向後可抽戦功候也 天正四年五月廿三日 信長(朱印) 谷野大膳どのへ」。衛友は衛好の子で幼名は甚太郎といい後、出羽守となった。この豊臣秀吉「感謝状」は十七歳の時、父に従って三木城攻めに加わり、父・衛好戦死の時、ただちにその敵を打ち首を取り返した。秀吉は父・衛好の戦死を哀れみ、衛友に、下の感状を与え、父の本領6千石と新規に2ヶ所の加増を行った。「今度別所誅伐の剋父大膳亮抽軍功遂討死別而不便被思食本領之外二ヶ所被宛行者也 天正七年九月廿八日 秀吉(朱印) 谷甚太郎どの」。衛友は秀吉に仕え、伊勢・賤ヶ岳・長久手・和泉の戦・九州の島津攻めなどと転戦・加増を受重ねて大名となり,山崎合戦の後,天正十年山家城主となった。関ヶ原合戦ではやむなく西軍とななったが舞鶴・田辺城攻めで「谷の空鉄砲」で有名な話だが、その戦後、細川父子のとりなしで本領を安堵され何鹿郡内で1万6千石を領し、明治維新まで続いた。

1.綾部市指定文化財NO.77谷野大膳宛「織田信長感謝状」綾部市資料館提供
クリックすると元のサイズで表示します


2.綾部市指定文化財NO>78谷甚太郎宛「豊臣秀吉感状」綾部市資料館提供
クリックすると元のサイズで表示します

綾部九鬼藩と山家谷藩については下記をクリック願います。
http://www.ayabun.net/35nen/kuki/kukisiryo.htm



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ