2007/7/16

兵庫県豊岡市但東町の国重文「日出神社」と縣「環境保全区指定の大生部兵主神社」  文化財研修記

兵庫県豊岡市但東町「たんとうちょう(城下町の出石町いずしちょうの東にある)」には国の重要文化財の「日出神社(ひでじんじゃ)」がある。この神社は式内社であり、室町時代の建築物である。但馬神話では出石を中心とする但馬地方を開いた天日槍(あめのひぼこ)四世の多遅摩比多詞(たじまひだか)を祀っている。本殿は三間社流造りで内部の蟇股(かえるまた)は日出神社独特のものである。神社の創立は明らかでないが建築技法から室町末期の16世紀のものと考えられ、その後宝永元年(1704)、享保11年(1726),明治21年(1888)に修理された事が棟札で知られている。兵庫県指定環境保全地域にある大生部兵主神社(おおいくべひょうずじんじゃ)は同じく但東町にある古式豊かな神社であり舞殿と手水社や拝殿・本殿の彫刻も素晴らしく、縣指定重要文化財であってもおかしくないが、「シイの生育する樹林としては、県下で最も寒冷地であると推定され貴重な存在である。」と記されていた。

日出神社(国重要文化財)
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日出神社本殿
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日出神社の舞堂
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大生部兵主神社(おおいくべひょうずじんじゃ)左側の建物が舞殿で拝殿・本殿は右側
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素晴らしい彫刻の手水舎
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拝殿と本殿
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本殿の素晴らしい彫刻の象鼻等
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2007/7/11

別所熊野神社とその舞堂と別当寺・願成寺  綾部の文化財

京都府綾部市「元、何鹿郡(いかるがぐん)」別所町には熊野十二所権現を祀る「別所熊野神社」がある。この神社に隣接する別当寺の願成寺には藤原(平安)時代の作と云われる熊野十二所権現の本地仏が分置されている。藤原時代に流行した浄土教の影響で紀州の熊野神社に十二ヶ所の本地仏が定まり、永歴年間(1160〜61)京都に新熊野神社として勧請され、王城鎮護の神として祀られた。吾雀庄「あすすぎしょう(志賀郷)はその荘園として寄進され、守護神として別所熊野神社に十二所権現が祀られたのである。この神社の舞堂には明治時代の舞台装置の見事な襖絵があり、神社総代(お一人は当会の会員)さんに見せて頂いたので掲載しますが7通りのうち、3箇所のみ掲載しますが8枚のうち千畳式には干時天保二歳(1831)南呂星写之と落款があります。例年7月24日夜7時頃には舞台装置を作って、祭礼と講が行なわれるそうですが、若者が少なく、今では全部は出来ないそうです。

別所熊野神社(石の鳥居には大正七年四月建立の銘有り)左の建物が舞堂
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別所熊野神社
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舞堂の舞台装置の襖絵1.
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同 上2.
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同 上3.
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別当寺の願成寺の仁王門跡
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別当寺の願成寺
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綾部市指定文化財HPは、熊野神社 願成寺
をクリックください。

2007/7/8

八坂神社「綾部の祇園祭」  綾部の文化財

京都府綾部市「元何鹿郡(いかるがぐん)」青野町には「綾部の祇園さんと呼ばれる八坂神社」が二宮神社境内にある。この二宮神社は江戸時代の寛政八年十二月(1796)建立、三宮神社は安永九年ニ月建立され、この天神ニ柱を二百有余年この地区の守護神守ってきたが、一千年以上と推定される神木の老衰と安全を鑑み以って昭和四十年(1965)此の二柱を合社して二宮神社とされたと記されている。又、この祇園さんこと八坂神社は江戸時代旧青野村に広がった疫病を払う為、京都市の祇園のハ坂神社から分社されたと伝えられ、家内安全などを願って、茅輪(ちのわ)くぐりの神事等が7月8日(日)午後2時から催行された。茅輪くぐりは、又若宮・高倉神社と違い、左廻りで8の字で2度くぐり、同じく左廻りで1度の計3回くぐる。

右側は二宮神社、左側の茅輪(ちのわ)のあるのがハ坂神社
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先ず二宮神社に参られる宮司様
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竹筒からお神酒を受け、茅輪を廻る神社総代・自治会長達
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御祓いされる宮司様と御祓いを受ける神社総代・自治会長達
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茅輪を8の字に三回くぐり、御祓いされる宮司様
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榊をお供えする神社総代・自治会長
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2007/7/7

春日局生誕地の興禅寺と国史跡・黒井城跡  文化財研修記

兵庫県丹波市春日町(旧、氷上郡春日町)には徳川三代将軍家光公の乳母として有名な春日局の生誕地の興禅寺(曹洞宗)がある。春日局父は斉藤利三(としみつ)で明智光秀の有名な武将で光秀の娘を嫁に貰い、明智光秀と共に丹波攻めを行い、黒井城(元は保月城とも呼ばれていた)にて氷上郡を支配した。したがってその末娘・お福は此処で生まれたといわれている。黒井城は猪ノ口山(標高375M)の頂上にあり、その下館がこの興禅寺であった。この寺の前は七間濠という堀をめぐらせ、高石垣と練塀は小さな城郭おもわせるもので、黒井城の下館としてふさわしいものである。お福の産湯は寺の中にあり、12年前は茅葺きであったが今回みるとトタン葺きとなっていた。

七間濠の興禅寺
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右側から見る興禅寺正面と鐘楼
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興禅寺前の地蔵堂の見事な地蔵菩薩様
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興禅寺の仁王門の一つ見事な「阿形」高さ約2M
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お福の産湯の井戸(元は茅葺き)
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国指定史跡・黒井城の東曲輪跡
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黒井城(保月城とも呼ばれていた)本丸跡
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2007/7/5

京丹波町の府指定重要文化財「阿上三所神社と名門片山家」  文化財研修記

平成19年7月4日(水)綾部史談会の有志11名は京都府京丹波町中(旧、船井郡和知町中)の片山杲(かたやまたかし)家、片山一族の本家をご本人(綾部史談会々員)の案内で訪れた。この片山家の庄屋文書200点以上もあり「旧、和知町の重要文化財」に指定されている。又、片山氏系図によると片山氏の先祖は皇位50代光孝天皇の七代末裔従五位下・平光孝「治歴三年(1067)」であり河内国坂戸郷を所領とした北面の武士であった。源頼朝が鎌倉幕府を開き、全国を掌握しようとし、又、承久の乱後、執権北條家の命で、七代目片山平九郎右馬丞=平廣忠が新補地頭として承久四年(1222)に和智庄(1500石)に赴任した。観応元年(1350)に片山三郎左衛門は「阿上三所神社(あじょうさんしょじんじゃ)」を和知坂原の元寺地(真言宗)に片山一族の氏神として創建した。この旧・和知町には四ヶ所に阿上三所神社があるが、平成17年3月10日京都府の重要文化財に指定されたのは、坂原の「阿上三所神社」のみであり、祭神は伊佐那岐命、伊佐那美命を祭る。神社本殿前には「舞殿」があり、綾部市にある数十ヶ所の神社では、「舞堂」を持っている神社もあるが、このような本格的な「舞殿」はない。又、この神社の鳥居を越えた所、舞殿手前右側には巨大な「うろ」のある樫の木と藤があり、この神社が創建された時,これらは既にあったといわれている。即ち樹齢700年以上と推定できる。尚、片山家は「六間取りの家屋」であり、舞鶴の京都府指定文化財「行永家住宅」に匹敵するものであり、片山家の墓所は曹洞宗・東寓寺の裏山にあり二基の宝篋印塔(室町時代後期のもの)がある。向かって右側のものは、花崗岩、相輪を失い、現高は56.4センチメートル。等身四面に蓮華座上の月輪内に金剛界四仏の種子が刻んである。

片山本家住宅
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京都府指定重要文化財「阿上三所神社」の舞殿(茅葺き屋根にトタンで覆てある。)
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本殿
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本殿の見事な彫刻
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本殿に奉納された「16歌仙」の額
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観応元年(1350年)神社創建の時、既に存在した樹齢推定700年以上で、うろを持つ巨大な樫の木と藤
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片山家の墓所の二基の宝篋印塔を前に、青い傘が片山杲氏、桃色斑の傘が綾部史談会々長の山崎巌先生、黄色の傘が副会長の川端ニ三三郎先生
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2007/7/3

日本の滝百選・名水百選の養老の滝  文化財研修記

岐阜県養老郡養老町にはかの有名な「養老の滝」がある。いつも近くを通りながらこの滝を見たことがなかったので先日、家内と見に行った。この滝は名神高速道路の養老SAからすぐ近くにあり、近鉄養老線の養老駅からは歩いて行ける。又、自家用車なら自動車参道で直ぐ近くまで行けるが歩いて見る楽しさを得れないので今回は、養老の滝駐車場ら歩いて登って行った。帰りは片道400円のリフトを利用した。リフトから濃尾平野が見事に見える。この養老の滝は「日本の滝百選」と環境省の「名水百選」に選ばれている名瀑・名水で、落差32メートル、幅4メートルである。駐車場から歩いて35〜40分。途中に養老神社もあり、又自動車参道の近くには「元正天皇(女帝)715〜717年)行幸跡」の石碑があるので撮影した。この頃「古事記」が書かれたのである。又、小生も飲んでみたが、水は美味であり、水がお酒になった親孝行の「養老孝子伝説」やこの地を行幸した元正天皇は「醴泉は、美泉なり。もって老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して、霊亀三年を改め養老元年と成すべし」との詔を出し「養老」に改元したという。

駐車場からの道
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養老神社参道
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岐阜県指定「養老神社」
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謡曲「養老」と菊水泉
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養老の滝
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元正天皇行幸跡
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2007/7/1

あやべ西国観音霊場第11番札所瑞亀山・隠龍寺とその由緒  綾部の文化財

京都府綾部市「元何鹿郡(いかるがぐん)」高津町にはあやべ西国観音霊場第11番札所であり曹洞宗の瑞亀山・隠龍寺(いんりゅうじ)がある。綾部の西端の深い谷間にあるこの寺は札所御詠歌「法の雨み山は亀と現れて 龍の隠るる寺囲いとぞ知る」の通り、「龍が隠れる」とされるこの寺は古くからこの谷の奥で信仰を集めていた小さな庵を前身としています。弘治元年(1555)になり、時の高津城主大槻安芸守(おおつきあきのかみ)辰高の発願により正式に寺として創建されたもので、後に曹洞宗寺院として再建されました。堂前の梵鐘は、そもそも高津岩清水八幡宮あった八幡山極楽寺という寺の鐘として鋳造されたものでしたが、その廃寺により明治二十年今の地へ移されたもので、現参道はこの鐘の輸送のために新たに開かれたという。和尚の出世についてはいろいろな記録があるそうですが、特に明治中期まで活躍した十世和尚は闊達な禅風で知られ、後に加賀藩前田公の菩提寺である金沢の天徳院に転任されました。如意輪観音を祀る本堂の左手のお堂はその和尚の徳を慕い集まる修行僧の為に建てられたといわれています。

隠龍寺への参道1.
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さつき参道2.(時期を逸しましたが、大変素晴らしいと云われてます。)
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参道から見る「鐘楼」
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庭から見る鐘楼と高津の谷間
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如意輪観音堂と前庭
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如意輪観音堂の素晴らしい彫刻
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三月末から四月にかけて見事に咲く花桃の木々
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