2005/3/31

福田神社発見の棟札と鬼面(大島町)  綾部の文化財

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大島町の福田神社を尋ねて、中筋小学校前の川に沿う道で5人連れの墓参途中と思われる人に聞くと、知らないと云われた。少し行くと甲ケ岳に向かって道があり鳥居が見えた。そこが福田神社で随分大きなお宮さんだった。しかし彼岸の中日、好天気にも関わらず取材中、人姿がなかった。
社寺の所在地は、地元でも年輩者に聞かないとまず分からないのかも。
故山下潔己氏の記事をHPに再録、福田神社の写真を追加しました
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2005/3/28

史蹟 廣胖堂跡(栗町)  綾部の文化財

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史蹟 廣胖堂跡
石碑裏面に書かれた文章:HPアップしました
慶応2年(1866)8月、十代綾部藩主九鬼隆備が郷学校として、この地に廣胖堂を設立する。明治6年、廣胖尋常小学校となり、後に彛典校と統合し、明治26年、以久田尋常小学校となる。

藩校および郷学校
 綾部藩では四代隆寛の頃、藩校を進徳館と改め、藩士の教育に力を注いでいたが、慶応元年、十代隆備は藩の碩学近藤勝直を総督に任じ、大いに藩校を充実すると共に、領内栗村、高津、小畑等六ケ所に郷学校を建てて庶民教育に努力した。中でも栗村の広畔堂は、郷学校中随一のもので、近藤勝直の高弟沢井広重が専任教師として指導にあたった。門人には羽室嘉左衛門、芦田鹿之助、波多野鶴吉他地方のために活躍した人を多数輩出し、明治における綾部発展の基礎となったことは郷土の教育史上特筆すべきである。
 封建制度下百姓町民も自由に入りうる学校が藩の力で作られたことは日本の歴史のうちでも稀なことで、綾部はおろか遠く亀岡あたりからも入学を希望して多くの人が集まった。
 こうしてこれらの郷学校は明治五年学制発布によってその伝統を受け継いでいく各地小学校として発展して行った。

2005/3/28

長福寺(栗町)  綾部の文化財

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四方續夫事務局長より廣胖堂蹟の場所を聞いていたが、分かり難いとのことで、長楽寺の取材報告で出来上がったHPコピーを西田好三先生に持参した帰りに寄ってみた。栗町交差点の北で適当に入り、若い人に尋ねたが知らないとのこと、さらに車を南に走らし年配の方に聞くと判明した。写真の「長福寺」前の道を少し行った所にあった。物部街道からも見える所であった。本尊:十一面観音(綾部西国観音霊場札所 番外2番)クリックすると元のサイズで表示します

2005/3/26

長楽寺と源頼光の伝説(新庄町)  綾部の文化財

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鬼退治と源頼光の伝説
 今から996年前、一条天皇の正暦元年(西暦990年)源頼光が大江山の鬼退治を無事に終っての帰り道、この長楽寺にお参りして休息をとったと伝承されている。
 この時、頼光が杖についていた槌の木を境内に挿しておいた処、その櫨(はぜ)の木がやがて芽を出して、遂に見上げるような大木に成長したといわれ、このことによってこの寺の山号を、櫨の名をとって久櫨山長楽寺と名づけたと伝えられている
会報より西田好三先生の記事をHPに収録し写真を追加しました
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2005/3/23

彫刻師:柏原の中井氏について  綾部の文化財

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会報より故山下潔美氏の書かれた表記のレポ−トをHPに収録した
改めて八津合八幡宮に行き彫刻の写真を撮ってきた。京都府指定文化財の本殿正面。鳳凰?が上から下がり、欄間?は上段に龍の彫り物、下段に唐獅子三頭?が彫られている。内側に力士が柱を支えたり、右面に鶴、左面に亀、角柱にも像、獅子など立派な彫刻があまたの豪華な内容であった。
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2005/3/19

図書紹介  図書紹介

修験道って面白い!:田中利典氏著
綾部の文化財を守る会からの回覧です。
見出し:修験道の修行は、大自然の中で風を拝み、岩を拝み、本を拝みながら行われる。現代の日常生活では考えられない過酷さである。
しかし、その修行に魅せられ、何度も繰り返していくうちに不思議な力を得るのである。それは、こころと身体の理想的な調和であり、生と死を超越する「行」の世界の体験である。
大峯奥駆修行は、その代表である。近年、多くの一般の参加者か山伏たちとともに修行に入っている。
山中修行の体験で蘇った人々はやがて、日常生活の中で自分とその回りを変えていくだろう。
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大挙修行:大峯修行とは
 古野から熊野にかげて紀伊半島の中心を背骨のように貫いて存在するのが、霊峰大峯山脈。修験道の開祖役行者によって聞かれた、最高にして最大の修験根本道場である。
 未だに女人禁制を堅持することで知られる大峯山山上ケ岳。その山上ケ岳一帯を含む北端の古野山から南端の熊野本宮に至るまで、弥山、八経ケ岳、釈迦岳、行仙岳、笠捨山、地蔵岳、大黒天岳など仏縁に繋がる山名を冠した、千五百メートル級の山々が続く大峯山脈全体を信仰的に尊称して大峯山と呼ぶ。まさにここは修験道の聖地中の聖地なのである。
 因みに大峯山のうち、古野山から山上ケ岳に至る山々を金峯山(きんぷせん)と呼び、山上ケ岳とは金峯山の山上にあたるところからその名を得たといわれる(だから本来は大峯山山上ケ岳ではなく、金峯山山上ケ岳か正しい)。この古野・大峯を中心に、我が国独特の民族宗教・修験道は千三百年の歴史と文化を刻み、その信仰を脈々と現代に伝えてきたのだ。
 一般にその名が知られる修験道の奥駈行は、大峯山脈を尾根づたいに約百七十キロにわたって跋渉する修行である。大峯奥駈道こそ、開祖役行者に由来する修験道史上最も尊ばれた修行道なのである。
 古野・大峯とそこにはぐくまれた修験道の営みを知ることは、むずかしく言うならば日本の基層の文化と宗教に触れることである。またそこを体験することは単に自然に親しむということだけではなく、大袈裟に聞こえるかもしれないが、日本人としてのアイデンティティ(自己同一性)のひとつを取り戻すことでさえあると私は思っている。・・後略
行力(ぎょうりき)
前略:かといって修行をして、なにも験力を得ていないのかというとそうでもない。私は常々「葬式は霊魂の存在を前提として行うものであるし、加持祈祷は奇跡を前提として行うものである」と思っている。その体で言うなら普段の法務で行っている護摩供修法や加持祈祷の諸作法は、基本的には人智を超えた神仏による奇跡が前提とたっているのであり、その奇跡が行われるのは偏に行者の行力が背景にあるからこそであろう。いわゆる験力ともいえよう。私も頼りないながらも、修行で得た験力を基本として、加持祈祷に臨んでいるのである。実際、行中にいろんな不思議を経験することは多い。・・後略

2005/3/17

久田山H1号墳(久田山)  綾部の文化財

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久田山H1号墳
この古墳は直径豹18mの円形の古墳で南側に幅約10m長さ約7mの小さな「造り出し蛾」が付属することから帆立貝式古墳とも呼ばれるものです。
由良川流域の平野部を見下ろす丘陵上に築造されていることから青野遺跡などに住居を構えていた豪族のお墓と考えられます。
この古墳の築造された年代は古墳時代中期、西暦5世紀ころ(今から1500年程昔)とされています。
久田山にはこのほか60基ほどの古墳があり、円墳のほかに方墳、前方後円墳なども見られます。
 久田山古墳群は、綾部市内では以久田野古墳群に次いで大規模な古墳群で、また最も保存状態の良い古墳群です。
 古墳=埋蔵文化財は、私達の祖先の歴史を知る上で失うことのできない貴重なものです。これらの文化財を大切にし、私達の子孫に伝えていくようにしましょう。綾部市教育委員会 クリックすると元のサイズで表示します

2005/3/4

日前神社・聖権現 湯立神楽(釜輪町)  綾部の文化財

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綾部の文化財の会報から故林貞美氏の書かれた、釜輪町の日前(ひのくま)神社・聖権現に伝わる湯立神楽の記事をHPに収録しました
写真は、昨春、三角点名:釜輪=上滝ノ尾に登った時のものです。
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