2013/12/28

山陽の文化財・史址を見る!8.伊予松山の延喜式内社の伊佐爾波神社!  文化財研修記

 伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)は、愛媛県松山市にある延喜ぶ式内社で、旧社格は県社で神紋は「左三つ巴」です。別称として「湯月八幡」・「道後八幡」とも呼ばれています。
 松山市市街地の西部、道後温泉近くの道後山山腹に鎮座する。国の重要文化財に指定されている社殿は、全国に3例しかない八幡造である。このほか、重要文化財の太刀(銘 国行)が伝えられている。御祭神は主祭神譽田別尊 (ほんだわけのみこと) 応神天皇、 仲哀天皇、 神功皇后 - 宗像三女神の3柱、市杵島姫尊 (いちきしまひめのみこと)、湍津姫尊 (たぎつひめのみこと、田心姫命 (たぎりひめのみこと)です。配神東照大神 (東照大権現)。
 社伝によれば、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来湯した際の行宮跡に創建されたという。旧鎮座地は「伊佐爾波岡」と呼ばれていた場所で、現在の湯築城跡とされる。
 平安時代中期の『延喜式神名帳』には「伊予国温泉郡 伊佐尓波神社」と記載され、式内社に列している。神仏習合の時代には、宝厳寺と石手寺は、共に伊佐爾波神社の別当寺であったとされる。伊予国守護・河野氏による湯築城の築城に際し、現在の地に移転した。当社は湯築城の守護神として河野氏から崇敬されたほか、道後七郡(野間・風速・和気・温泉・久米・伊予・浮穴の各郡)の総守護とされた。松山藩の藩主となった加藤嘉明は、松山城の固めとして松山八社八幡を定め、当社は「湯月八幡宮」として一番社とされた。また武運長久の祈願社として、社領に久米郡井合の土地100石を寄進した。寛文2年(1661)、弓の名手といわれた三代藩主松平定長は、将軍家より江戸城内において弓の競射を命じられた際、湯月八幡宮へ必中祈願をした。寛文4年(1664)6月、定長は、将軍家の御前で弓を無事に射ることができ、祈願成就の御礼として社殿の造替に着手した。寛文7年(1667)大工697人、延べ人数69,0177人を要し新社殿が完成。松平家より代参として家老竹内家が参拝し、遷宮式が挙行された。新社殿は石清水八幡宮を模したとされる八幡造で、宇佐八幡宮とあわせて3例のみの現存である。
 「八幡造」といわれ、後殿・前殿の2棟の社殿が前後につながった形をとる。後殿は祭神の夜の座所、前殿は昼の座所とされる。後殿は切妻造、檜皮葺、桁行9間、梁間2間で、三間社を横に3つ繋げた形となる。前殿は流造、檜皮葺き、桁行9間、梁間2間。国の重要文化財です。申殿(もうしどの)本殿の前に位置する。桁行1間、梁間1間、一重、切妻造平入りで檜皮葺。前方に桁行3間、梁間1間、妻入の廊下が接続する。国の重要文化財です。楼門は社殿正面に位置する。入母屋造、本瓦葺。初層正面は唐破風とする。国の重要文化財です。廻廊は楼門の左右から伸び、本殿等の社殿を囲む。国の重要文化財です。

1.伊佐爾波神社の標柱
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2.石段参道
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3.国重文の楼門
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4.国重文の楼門
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5.拝殿内陣
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6.拝殿から国重文の本殿
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7.同上
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8.本殿
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9.本殿をやや後部より見る!
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10.拝殿から本殿
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11.八幡造りの向拝
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