2013/8/27

紀州の文化財・史址を見る!7.高野山の表玄関の総門「大門」  文化財研修記

 国道480号線を高野山に登っていくと高野山開山以来の表玄関の総門である、丹(に)塗りの大きな門が建っており、「大門」と呼んでいます。現在のような門となる以前は、数百メートル下方の旧道、「九折谷」という場所に鳥居があって、これが門になる前身だといわれています。現在の位置に移された時期は、永治元年(1141)ともいわれ、その際、鳥居から門の形式に変更されました。さらに寛喜2年(1230)には五間二階の楼門に改められたと記録されています。その後、天正5年(1577)に焼失しましたが、慶長9年(1640)、木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)によって再建されました。
 現在の大門は、元禄元年(1688)に焼失したことにより、同13年(1700)造営の釿始を行ない、同14年7月大門中柱を建て始め、同16年9月上棟、宝永2年(1705)8月に至って落慶供養が行われました。
 その後、文政元年(1818)に屋根、箱棟の修理が行われ、近年においては明治28年(1895)に屋根の部分修理および二階の縁廻り、一階側柱の根継が行われており、昭和61年(1986)には、全面解体修理が施されました。この時、白木の状態であった表面を丹塗りとし、昔の状態に戻されました。
 大門の中央二本の正面柱には、「日々影向文」(にちにちようごうぶん)の後二句が柱聯(ちゅうれん)として掲げられています。
 大門の仁王像(金剛力士立像、国重文、元禄16年造立)は、その大きさからすると、奈良の東大寺南大門の仁王像に次ぐ、我が国二番目の巨像となるようです。阿形像の像高は 546センチメートル、吽形像は558センチメートルもあります。向かって右の阿形像は、京都の仏師であり高野山大仏師をも名乗った康意が造立し、吽形像は同じく京都五条の仏師、運長が造立したことが胎内の背位置に留められていた銘札から判明しています。また両像の造立に関わる関連資料が別に伝わっており、それによると、元禄9年(1696)から10年にかけて、康伝、康意、康敬、運長など、当時の著名仏師による仕様見積書等がそれぞれに提出されていたことがわかりました。当時の仁王像造立過程を知る上で貴重な資料ということから、重要文化財金剛力士立像の付属品として取り扱われることになりました。
 
1.高野山の表玄関「大門」前の標識
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2.大門を斜めから見る!
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3.大門を正面から見る!
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4.大門正面をアップして見る!
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5.大門の駒札
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6.国重文大門の阿形の仁王像
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7.同上 吽形の仁王像
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