私の生い立ちを、アルバムを捲りながら、意識の変わり様を思い出して行きたいと想います。
2006/4/21
写真は 私の生まれ育った安房の景色
創造の力
14・8・23
創造の力は、何処から来るのだろうか。
私は、自分の人生を振り返って見ると、自分が行った事が人真似ではなく、自分が想い着いて始めた事ばかりだと気が付いた。
此の場合の「おもい」は、どの漢字を使用すれば適しているのかが分からない。普通には「思い付く」である。
「おもいつく」とは、「良い考えが生れる事」を意味しているが、「考え」は「年寄りの思い」だから、発見には繋がり難い。
何故なら「思い付き」は、若者の方が得意だからである。
「おもいつき」を、別の言葉で表せば、「ひらめき」がある。
「おもいつき」と、「ひらめき」では、言葉を日本列島に持ち込んだ民族が、異なるのだろうか。
「ひらめき」とは、言葉が音楽的で外向きであり、「おもいつき」は、内側の「念い・惟い」から、自然に生れて来る感じがある。
「ひらめき」は男性的で、「おもいつき」は女性的でもある。
私の場合は、其の両方の傾向が有る様だ。
私は、男性で、屋久島で37歳まで、第一次産業を行っていたので、現場の作業が多かった。
だから、仕事をしていて、問題が起きた時や、手段を考えなければならない場合に、急いで、アイデアを思い付かなければならない。
その時には、深く想像していては間に合わないので、早急な答えを出さなければならないのである。其の時の発想は、ヒラメキが勝負である。
是は、戦いの場合にも必要なので、男社会で鍛えられて来た世界だろう。
一方、「おもいつき」や「おもう」の言葉は、一口に言えば、芸術的、文化的な創造力の意味合いが有るのではないだろうか。
此方の世界は、現場の作業や、命が懸かった戦いをしている時には、生れるものではなく、静かに「ものおもい」を続けている時に、生じて来るものである。
思想や哲学、文学や音楽、絵画や建築デザイン等は、静かな場所を必要とする世界である。
私の場合は、子供の頃より「ものおもい」に耽る事が多かった。
何かを、おもい始めると、母親の呼ぶ声が聞えないで、怒られた事が、何回も有った。
そしてまた、27歳で結婚して、新婚旅行から帰って一週間もしない間に、私がもの想いに耽って居て、フト気付いて妻を捜しても見つからないのである。其れは、私が返事をしないとの事で、妻が怒って、実家に帰ってしまっていたからである。
其れに、学校でも、ボーッとしている事が多かったので、生理学的に言って、それがどう言う状態なのかは分からないが、他人とは、少々違っていた事は確かである。
そんな私だが、20歳代から、他人からの相談事が多く、自分の事より他人の事で、時間を取られる事が多かった。
此れは、父親譲りの性格と謂うか、性質の様である。
私の父親は、他の人に「礒邉さんが言う事は 三年くらいすると 本当に その様になるから 不思議だ」と、云われていたので、私の血筋や霊系には、その様な傾向が有る様だ。
私が、誰も他人が行わない内に、行った事を拾い出して見ると、次の様な事が有る。
一、小学生の頃から、山に竹の子を採りに行って、リヤカーで町に持って行き、お金にして豚肉を買って帰り、父親に「たまには 肉も食べたら」と云って渡すと、父親が涙を浮かべた事がある。
一、自分で父親から畑を借りて草花を栽培し、町の店に5円と10円の花束にして売り、学用品を買っていたので、中学校の時は「販売部長」の名前を先生に付けられ、学校の園畑の産物の値段も私が決めていた。
一、屋久島の山岳には、寒蘭が澤山生えていたので、其れを採って家に持ち帰り、澤山植えていたので有名になった。
植物を鉢植えにすると、水遣りを毎日しなければならないので、よほど余裕がなければ出来ない。
其の頃は、誰も、何百鉢と寒蘭を植えている人はいなかった。春牧の「前岳」と、安房の「明星岳」は、私が一人で、寒蘭取り尽したと言えるだろう。
私が17歳の秋に、父親が49歳で亡くなって、其れ等の事が出来なくなってから、後に寒蘭やエビネのブームが起きて来た。
其れは、私の方が、人々より先に動いている事に成る。
中学の頃は、これ等の事で、屋久島の山々を歩き廻っていた。
ある時は、安房の町から営林署のトロッコに乗って、午前6時頃出発し、小杉谷から愛子岳へ一人で歩いて行き、反対側の小瀬田に降りて、夜8時頃家に帰り着いた事もあった。
一、 17歳で父親が死んで、19歳から黒毛和牛の多頭飼育を始めた。
其の頃は、農家は1頭か2頭しか飼っていなかったのに、40頭近くも飼う処まで進んだので、NHKの「明るい農村」にも出演したり、新聞にも数度載ったりした。
一、村人が、皆畑に歩いて行く時に、村で最初にオートバイ(カブ)の中古を買って乗り、草刈機を最初に買ったのも私だった。
一、牛飼いがブームになった頃、其れとは逆の行動に出て、一番先に牛飼いを止めたのも私である。
一、現在は、屋久島に不動産業が10社くらい在るが、最初に其れらしい事を、島の人間として始めたのも私だった。
これ等の事が有り、私の人生が一番変化したのが、今も続いている、此の神の世界に入った事である。
此れは、既に18年続いているが、未だ、此の世界の結論は出ていない。
私の55年間の人生は、「おもいつき」と「ヒラメキ」の連続と言って良いだろう。
文章を、本格的に書き始めて三年目になるが、私の文章は「おもいつき」と「ヒラメキ」と、「夢」と「現実」と、様々な内容である。
其れ等の事柄を、文章にしているのは、自分の頭の整理をする為だが、ペンを持つと、不思議と次から次に言葉が出て来る。
此れは「おもいつき」なのか、「ヒラメキ」なのかは判らない。
私の文章は、未だ、現実社会の役には立っていないが、是から、21世紀の社会の為に、参考になる事は間違いないと思う。
何故なら、世界に傳えられている、基本的な生活(くらし方)の原点が、私の認識の内に治まっているからであり、古の人々が積み上げて来た「文化」と言う名の「おもいつき」と「ヒラメキ」の集大成が、今一度証らかにされ、未来の創造に役立たせようとの流れが、起きて来ているからである。
4300人もの神霊達が、私の肉体を借りて、何をしようとしているのか。
其れは、未来を想像する為に、皆協力し合って、私の認識を高める事であろう。
私の文章は、私の想像ではなく、目に見えない世界からの、働き掛けに因るものである。
其れ等の、大きな仕組みの力を「創造の力」と名付けたらどうだろうか。
これも、私の「おもいつき」か「ヒラメキ」かは、定かではない。
これ等の事が、神の働きと言うのであれば、この力を欲しいが為に、日本には神社や寺が多く建てられた事になる。
私が、何故、その働きの役割を担わされる事に成ったのか。
其れは、この宇宙を創造している、大きな力が原因であろう。
其れを「神」と呼ぶならば、私は、神の一番間近に居る事に成る。
「創造の力」とは、「神」の名の別名でもあるのだろう。
其れを、創造主と呼ぶならば、当たっている事になる。
そして、私も、其の創造力の一部を担っている事になる。
子供の頃から、私は何故、他人が遣らない事を、真っ先に始めてばかり居たのか。其れは、私の脳の基盤を、作る為であったのだ。
是からの、私の人生も、まだまだ、神の創造力の舞台の上にあるようだ。
平成14年8月23日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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