私の生い立ちを、アルバムを捲りながら、意識の変わり様を思い出して行きたいと想います。
2003/8/27
右側の男性が川東さん。94年6月撮映
父の職場
15・8・27
今朝起きて、タンポポコーヒーを飲みながら書き物をしていると、今月17日に夢に出て来た女性の息子さんが、立ち寄ったので、「お母さんが 夢に出て来たよ」と云って、母親が何故かの事務所に座って居た事を告げると、母親が若い時に、私の父親の職場で事務員として働いており、同じ職場に働いていた父親(川東さん)と結婚したとの事を教えてくれた。
私は、其の事を聞いて、私に意見書の事を教えてくれた人も、父親に関係が有った人間だと想えて来た。
私の父は、昭和21年の8月3日に鹿児島から、当時明星岳の裏に在った、重石鉱山の主任として来島している。
その会社の事務所に、友人の母親「川東淳子さん」は働いていたとの事である。
夫である「川東義信氏」は、既に亡くなっているが、私は30年程前、船で遭難をした時、其の義信氏に救助されている。
義信氏は、戦争の時、大砲の筒を、一人で担いで運んだ事が有ったと、伝えられている程の力持ちで、安房の漁業では草分け的存在である。
息子さんの哲義さんも、孫の「信樹さん」も、祖父の血を受け継いでおり、やはり力が強く飛魚漁の船主をしている。
潜りも得意で、昨日も信樹さんが海に潜って、銛で突いて来た魚を貰って、皆で食べたばかりである。
人々の縁と、人間の生業・なりわいとは、どの様な仕組みに成っているのであろうか。私の両親が、屋久島に渡って来た時に、一番初めに関係した人の孫さん達と、時を隔てて付き合っているのだ。
この世とは、神の計画が前に在って、人々の縁が結ばれて行くのか、人々が出会う事で、神の計画が出来上がって行くのか、それらの関係が、私に良くは解からないのである。
私の両親が、屋久島の鉱山の仕事に就かなければ、私は、屋久島に生を受けてはいない。そうすれば、私も存在しないし、私の文章も無い事になる。
私の存在が、重要な意味を持つのであれば、両親が屋久島の仕事を選ぶ事に成った原因こそ、大事と考えなければならないだろう。
太平洋戦争が起きなければ、私の両親は、中国の満州から引き上げる事も無く、私は中国で生れている事に成る。その様に考えると、戦争自体も、神が必要として起こした事に成る。
私の存在に、其れだけのモノ(現象)が必要だったのだと考え始めると、神の力が際限なく拡大されて行く。
イエスキリストは、「天の父を 証明する為だ」と、自分の存在を云っているし、釈迦仏陀は宇宙のダルマ・法を説明する為に一生を費やしている。
私も、彼等の様に、神の存在や、ダルマの法則を、人々に知らせて行かなければ成らないのだろうか。
私には、いま職場と言うものも無いし、説法をする舞台もない。
有るのは、インターネットのシステムに、毎日の心象風景の日記を、載せて行く事である。私の意識の過程が、人々の人生に役に立つ事に成るのであろうか。
中国の孔子の教えが、世の中に取り上げられたのは、孔子の死後3〜4百年経った後の事らしい。
地球の環境の悪化や、人間の価値観の不安定さを考えると、そんな時間のスパンでは、役に立たないであろう。
今朝も、安房の区長さんが顔を出して、「女子高生が 制服のまま 道路で煙草を吸っている」と云われた。
長年、中学校の教壇に立たれていた区長さんは、身を捩る様にして、「自適さん 早く 子供達の教育の事を 書いてくれ」と訴える。
川東さん一家は、子澤山で、全員立派に育ち、世の中の役に立っている。
川東家は、誰も酒は飲まないし、煙草も吸わない。余計な事は何もしないし、無駄なオシャベリもしない家族であり、実に謙虚な家庭である。
私の育った家庭も、両親は、煙草は吸わないし、父親も病気に成ってからは、酒も飲まなかった。
もちろん、両親が飲屋に飲みに行ったり、歌ったり踊ったりする姿は、一度も見た事が無い。
区長さんの心配は、学校の教育では解決出来ない事であろう。
学校で、決まりを作っても、子供達は、其れを隠れて破る。決まりとは、そんなモノである。
子供達の心が育つのは、家庭である。両親の立ち振る舞いが、口で言う事と異なっていれば、子供達は、親に不信感を抱いて、素直には育たない。
学校は、知識を学ぶ所であり、心の基礎が出来るのは、やはり家庭であり、両親の姿次第である。
私の両親は、何かの宗教に填っていた分けでは無いし、私に道徳的な説教をする事も無かった。唯一自分達の生きる姿を、子供達に見せて居ただけである。
川東家も、私の家と、同じ様に見受けられる。
学校の教育を、どうこう言う前に、親の姿を、どうにかしなければ成らないだろう。国の教育制度も、僅か二年で方針が変わってしまった。やはり、教育は、小手先では変える事が出来ないのだ。
現在の子供達は、殆どが、父親の職場を見た事が無い。
現在・いまでは、昔と違い、農家でも、子供達は親の仕事を手伝わないので、自分の家の畑が、何所に有るのか知らない有様である。
私は、両親が仕事をする現場で、土まみれで遊んで育っているし、川東家も三代漁師を続けて来た結果である。
教育とは、生きた両親の姿こそ、最大の効果を生み出すモノであり、親が自分の子供の悪さを、社会や教師の所為にするのは、間違いだと言うべきであろう。
今朝は、川東信樹氏と、安房の区長さんが訪れた事で、教育と父親の存在の関係を書く事になった。
良い子供が育っている家庭は、良い家庭と言う事が出来る。良い家庭を作る事こそ、人間にとって一番大事と考えなければ成らない様である。
手本と成る家庭を、人間が認識し易い社会制度を、創る必要が迫られて来ているのかも知れない。
平成15年8月27日
礒邉自適
2003/8/3
年譜
15・8・3
今朝のメッセージには「年譜」と有ったので、辞典で年譜を調べると、「個人一代の履歴を 年代順に記した記録」と、載っている。
私の個人的な事で言えば、今日8月3日は、私の両親が57年前の昭和21年8月3日に、安房川岸へ初めて上陸した日である。
私はその時、母親の腹の中に在って、四ヶ月だった事に成る。
57年前、両親が上陸した、其の場所に在る自宅の階下で、朝タンポポコーヒーを飲みながら、静かに瞑目していると、頭の中は、蝉の鳴き声で一杯である。57年前、両親が島に降り立った時も、同じ様に、蝉の鳴き声に包まれたのであろうか。
母親の話では、旅客船は安房川の沖に停泊し、客船「たちばな丸」から小さな「艀船・はしけ」に乗り移り、現在の、私の自宅前の川岸に着いたとの事。
一回目に、島の客が沖の舟に向かって本船に乗り移った後、鹿児島からの客が、空いた艀船に乗り移って島に着く。
そして今度は、屋久島からの荷物を本船に積んだ後、鹿児島からの荷物を積んで運んで来るのである。
母親は、自分の荷物が着く迄の間、川岸の砂浜の上に座って待って居たとの事。その間、1時間か2時間であろうけれど、安房川の流れの川面を見ながら何を想っていたのだろうか。
初めて、踏んだ、屋久島の土地が、母親に何を齎したのかは知る由も無い。
若しかしたら、何も考えられず、頭の中は、今朝の私と同じく、蝉の声で一杯だったのかも知れない。
母親は、東京生れで東京育ちである。当時の安房は、本当の田舎の風景だったのであろう。
腹の中には初子があり、夫は、風呂敷包みを数個持っただけの、中国からの引き上げ者である。
戦争が無ければ、とても来る事には成らない、南の小島である。
母親に、不安が全く無かったとは、とても考えられない。
私も、母親と同じく、57年前、今朝と同じ蝉の声を、母親の腹の中で聴いていたのかも知れない。
私の両親は、当時安房の明星岳に在った、重石・タングステン鉱山の会社の「主任」と言う名の仕事にあり付いて、就職して来たのだが、戦後、其の鉱山は再稼動する事は無く、間も無く会社は閉鎖される事に成り、父親は止む無く、会社の農場で、食料を生産して自給生活に入る事となった。
私はそんな中、翌年の昭和22年(1947)1月29日午前3時頃、会社の社宅で、此の世に産声を上げている。
その時、父親は33歳(1914・大正3年12月15日生)で、母親は27歳(1920・大正9年6月4日生)である。結婚して6〜7年子供が出来なかった両親にして見れば、初子は可愛かったものと思う。私は、大事にされた記憶しかないので、その様に想われるのである。
その父親は、私が17歳の秋に、49歳の若さで、五人の子供を残して、鹿児島の病院で此の世を去った。
忘れもしない、昭和39年(1964)10月23日で、東京オリンピックの最中であった。其れからの私は、一家の大黒柱と成って、母親と共に四人の弟妹を育てて行く事に成ったのである。
当時の農作業は、「砂糖きび」と「澱粉芋」の栽培が主で、他はグリーンピースの輸送園芸と、ポンカン園の手入れ、それに自給米の生産である。
私は、19歳から肉用牛を飼い始め、22歳の時には肉牛の数を40頭近くにまで増やしたが、価格の暴落で借金が膨らみ、農業を止める事にした。
それが、25歳の時である。其れから、27歳で借金が全部済んだので、 昭和47年3月3日に28歳で「名越美代子」と結婚し、安房の町中で商売を始めた。
そして、昭和58年(1983)3月18日に無庵師匠に捜し出され、翌59年3月5日より修行の世界に入る事に成ったのである。
最初の結婚から、丁度丸10年目の出来事である。
修行が始まって、丁度3ヶ月の59年6月4日(旧5月5日)に、神の世界に入る事と成ったのである。それから、丸19年が経過している。
無庵師匠に捜し出されてから、丸20年が過ぎ、神の世界に入って19年が過ぎた。今の心境は、一口に言えば静かな状態である。
昭和59年(1984)年3月5日から修行に入って、無庵師匠に、他人に会う事を禁止された。他人に会うと、折角溜めた生体エネルギーを、他人の体に吸収されてしまうからである。
59年の秋に、屋久島の荒野での修行が終わり、11月に本州に向けて出発した。60年7月2日まで他人に会う事を控えていたが、7月2日の夜に、日本列島の修行が終了した事を知らされ、3日より新しい人脈との接触が始まった。
7月3日の朝、京都府網野町に在る「龍献寺」の「安井桂造住職」に引き合わされ、その日の夕方には、亀岡市に在る「西光寺」の「田中真海住職」を訪ねる事に成った。
其処から、新しい人脈作りへと移って行く事に成ったのである。
7月26日には、奈良の野草社を訪ね「石垣雅設氏」に会い、翌27日には「矢追日聖法主」と出会う事に成る。
矢追日聖氏は、明治44年12月23日生まれの方で、其の日聖氏が、神の世界を継続している人間だと言う事が判明した。
翌61年6月3日に、高知県高岡町で「井上佳子」と出会い、63年11月21日に結婚した。しかし、平成10年4月27日に、妻佳子が病死した為に、12年間の付き合いで終わったが、佳子には、様々なメッセージを残して貰った。
其の一つに、61年12月31日の朝、世界中から多くの人々が、奈良の平城京跡に、何万人も集まっている様子を、霊夢で見せられるなどの事が有り、此の日本から、世界立て直しの神の計画が、始まる事などを知らされた。
其れ等は、矢追日聖氏が昭和20年8月15日に、神に告げられた事と連動している。「正傳矢追日聖」http://moon.ap.teacup.com/20061108/568.html
私が、何故、日本の地に誕生したのか、その理由は、段々と解明されて来ている。年譜を、事細かく書いて行くことは、紙面の都合があるので止めるが、今後起きて来る事を、正確に記して行くことが大事なのであろう。
今後、起きる事柄を正確に記すことで、過去の歴史や登場人物の年譜も、正しく読み取る事が出来るものと考えられる。年譜にこそ、神の働きが浮彫と成って来るのではないだろうか。
中国の易の世界も、その様な事が基本と成っているのだろう。
人間の、時間の認識法は、秒、分、時、日、月、年と成っているが、一年は、地球が太陽の周りを一回巡った意味であり、宇宙には、それ以上の時間のサイクルが在る。
人間は、120回太陽を巡る間、生きている人も在るが、長生きをすれば良いと言う分けでもない。
インドの教えに、転輪聖王との考え方が有って、天の法輪を回す「聖なる王」が現れると伝えられている。
天を回すとは、その者が自己本意ではなく、天の働きを受けて、此の世に作用する事である。若し今回、其の「転輪聖王・チャクラヴァルティン」が現れるとすれば、その事の為に、年譜を正しく記して、今世の指針としなければ成らないと想われる。
屋久島での礒邉家の年譜も、今日より58年目を迎える事と成ったのである。
・転輪聖王観 [編集]転輪聖王たる者は輪宝を転ずるとされるが、それがいかなる起源を持つものかについては定説が無い。起源論としては、インドラ神の力を象徴する戦車の車輪とする説や、世界を照らす日輪(太陽)とする説、或いは輪状の武器チャクラムとする説や、マンダラを表すという説もある。
この輪宝は理想的な王である転輪聖王の無限の統治権のシンボルであった。ヴェーダ時代(紀元前2千年紀)半ば以降から輪を王権のシンボルとする観念はインド世界に存在し、転輪聖王の概念もその延長上にあるものである。バラモン教においてもこの観念は継承されたが、「転輪聖王」の概念がよりはっきり形成されたのは、寧ろインドにおける非正統派宗教である仏教やジャイナ教においてであった。転輪聖王に関する記述は『転輪聖王師子吼経』や『大善見王経』といった仏典の随所に登場する。 ウィキペディア辞典
平成15年8月3日
礒邉自適
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