2003/4/30
明晰は氏で流れる
15・4・30
今日は、正午前に一寸と微睡でいると「明晰は 氏でながれる」との言葉が出て来た。
これは、聞いた事の無い言葉なので、意味を探って見ようと思う。
「めいせき」〔明晰〕@明らかではきりしていること
A(哲)(Claraラテン)概念の内包が一つ一つはっきりしていなくても、その対象を他の対象から区別するだけの明白さを持つ概念についていう語。
「うじ」〔氏〕@血縁関係のある家族群で構成された集団。氏族。
A古代、氏族に擬制しながら実は祭祀・居住地・官職などを通じて結合した政治的集団。その内部は、姓(かばね)を異にする家族群に分かれ、上級の姓を持つ家族群が下級の姓の家族群を支配し、最下層に部民(べのたみ)および奴婢(ぬひ)がある。と載っている。 (広辞苑)
この説明からすると、私の姓の「礒邉・磯部」は下層の部の民に成るのだが、天皇家の祭祈を行っていた「物部」も部が付いている氏族なので、此処ではその事は考えないでおこう。
氏族、血縁で一番分かり易いのが、日本の天皇家や、イギリス王室等の例であるが、旧約聖書のアブラハムの子孫の様な伝えられ方をしている血筋も在る。
天皇家や、西洋の王族は、政治的な要素を含んでおり、アブラハムの子孫は宗教的な要素を含んでいる。
釈迦や、イエスや、老子の子孫は継続されてはいないが、孔子の子孫は現在まで続いている。
日本では、天武天皇が日本書紀の編纂を命令し、次の持統天皇の時に、儀式を一本化させる迄は、18の氏族が其々異なる生活習慣を持っていたとされるので、18通りの血筋と、其れに伴う処の、価値観があったと思われる。
今日、私に出て来たのは「明晰は 氏で ながれる」なので、戦いに強い氏族や、権力に強い血筋の事ではなく、道理に明るい血筋の流れの、一族との事だろう。
私自身の血筋を謂えば、父親は鹿児島市上福元町(旧谷山市)出身で、住んで居た所の地名も「磯部」と呼んでいたらしい。
磯部は、錦江湾(鹿児島湾)に面した部落で、伊勢湾にも磯部町が在るので、湾に面した土地に住み、海を生活の場として居たのかも知れない。
確かに、私の父親「礒邉勲」は、道理に関して明晰だったが、祖父から前の代の事は、私には判からない。
私の、霊的な出来事を謂えば、物部の初代「宇摩志遅命・うましまじのみこと」の御陵に参拝した折に、「此処は 貴方の神社だ」とメッセージが有ったので、私に憑いている本霊は、物部の流れで、礒邉とも本家筋で繋がっているのかも知れない。
物部一族を祭る、奈良の石上神宮は「イソのかみ物部」で、石を大事にする風習がある。
伊勢神宮の「イセ」も、「石を敷く」事の意味から来ているらしい。
天皇家の武蔵野御陵も、墓の周りには、全面石を敷いてあり、神戸の明石に在る五色塚の墓と同じである。
五色塚の祭神も、物部系の王だと云われているので、祭式としては同じ物ではないだろうか。
岡本天明氏の日月神示には、「148の救世主が 日本から現れる」と出ている。
148とは「石屋(イシヤ)」と読める。
石屋の救世主とは、石とチャンネルが同調する者であるとの事だろう。
大本教の「出口ナオ」のお筆先にも、「やがて 石が モノを言う時が来る」とあるし、天理教の「中山ミキ」に懸かった神は、石上神宮の物部の神霊との事だから、其れも一つの流れに繋がって来る。
時代を、物部からもっと遡ると、岡山に古代吉備王国が在ったとされ、王墓山古墳から発見された、祭祈用の石は、アイルランドの5000年前の王墓から発見された、祭祈用の石とソックリである。
其れは、5000年以上も前に、アイルランドの「ダーナ神族」と同じ風習を持つ氏族が、岡山に住んでいた事に成る。
其れは、9000年前の南九州の文化遺物と同じ物が、南アメリカ大陸の西海岸で発見されているのだから、それ程不思議な事ではない。
アイルランドの「ダーナ神族」の文化も、石を大事にする文化である。
日本が元か、アイルランドが元かは分からないが、人間の魂と、石との間に、何らかの関連性を見出していたのだろう。
石を祭る事は、現代社会の様に金銭を大事としたり、権力を大事としたりする事ではなく、自分と神の関係を、明確にしようとするものである。
何故なら、石を祭っても、金銭や権力が直接手に入る分けではないのだから。
石は、宇宙の記憶を取り戻す事や、神の意志を受信する物として、考えられて来た。
「明晰」が、宇宙の真理、神の意志を明確にするとの事であれば、石の謎を解かなければならないであろう。
キリストとは、ユダヤ民族の「メシヤ」から発生した言葉で、「神に油を注がれた者」の意味であるとの事。
キリスト教の救い主「the saviorザ・セイヴィア(助ける者)」とは意味が違うだろう。
ユダヤの秘儀でも「石工が 石の上に立つ 兵士の謎を解く鍵とは 永遠に生ける力のダイナモ・dynamoを 正しく応用する事であると知る時 彼は結社の神秘を学び取り ルシファーの渦巻くエネルギーは 彼のモノと成る」と有り、石の持つ記憶を、自分の生体電気を使って引き出し、自分の能力とする事が示されている。
石の神秘を学びとる事こそ、明晰の意味ではないだろうか。
それは、その可能性を持った、血筋でなければならない事に成る。
その血筋が、「イソ部・石部」や「物部」であれば、私も、其の血筋の流れを受けている事に成る。
自分の先祖の霊が、其の秘密を知っており、私の身心を使って、記憶の再生を図っているのであれば、私の人生の不可思議も、納得が行くものと成って来る。
私が、18年前に神掛った時に、自動書記したメモ書きに「海渡族の謎を追え」と書いて有った。
伊勢神宮の神主で、磯部族の末裔である「渡部・わたらいべ」と名乗る氏が在ったらしい。
其れは、海を渡って来た部族の意味の渡辺であろう。
伊勢神宮が在る伊勢は、元は磯部の氏族が住む地であり、現在の伊勢神宮の神域は磯部族が斎宮「倭姫命」に土地を与えたと伝えられている。
磯部町に存在する「伊雑宮・イザワの宮・磯部の宮」が、伊勢の元宮とされているのも磯部族の古さを意味しているし、伊雑宮のカゴメの印(六芒星)は、古代ユダヤの紋章と同じ標である。
石の記憶を取り戻し、宇宙のシステムと同調出来る者こそ、今日のメッセージの「流れを組む者」の事であると思われる。
其の様に考えると、私の礒邉の姓も、値打ちが有る様に、想えて来るではないか。
平成15年4月30日
礒邉自適
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