悟りへの道
私が1984年6月4日に安房川岸で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて荒野をさ迷って修行した課程の記録
私が 1984年6月4日に 安房川の岸辺で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて 荒野をさ迷って修行した課程の記録
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2009/6/29
「9の数字の曼荼羅」
精進
9の数字の曼荼羅
21・6・29
明日6月30日は、暦の上では「夏越しの禊ぎの日」で、明日から半年後が12月の大晦日である。
其の、半年間の禊ぎの日を前にして、今朝は、三列に並んだ9の数字が、三段で現れた。
そして、其の九個の9が、中心に納まって、其の枠内から、外に数字が拡散して行く事で、世界が生まれている理・ことが示された。
「九・9」の数字は、中国では最大の「陽」の数字とされ、9月9日は九が重なる日として「重陽の節句」とされている。
中国では、九が一番大きな数字だから「九龍」の名が存在し、仏教伽藍も九重の塔が築かれていたのである。
其れに、算数の掛け算でも「9×9=81」で9は最大の数である。
其れは、10も100も1000も、元の「一」に返ってしまう数だからである。
何故なら、99%は完全な「一」ではないからである。
私が、25年前、此の世界に入った時には、三列に並んだ3の数字が、三段現れた。
其れが25年掛かって、今朝は、三列に並んだ9の数字に、進化したのである。
其れは、進化したと謂うか、完成か、完熟したとの事ではないだろうか。
明日の夏越しの禊ぎで、9・9・9・9・9・9・9・9・9に、0・000000001が加われば、9は「10・十・ジュウ」に変わり、「クロス・X」がトウトウ完成する事に成る。
其れは、「聖X・サンタクロス」の完成を意味するのかも知れない。
其れに、三列三段の9の数字並びは、大日如来の「曼荼羅・マンダラ」とも同じなので、其れが「十」に成る事は、「大日如来・マハー・ヴァイローチャナ」の完成であり、「十字架・キリスト」の完成と言うか、「トキ・十期・ブッダフィールド」が到来したとの意味に、成るのかも知れないのである。
「九」の漢字の意味を、いま漢語林で調べると、屈曲して尽きるの形にかたどる。数の尽ききわまった、ここのつの意味をあらわす。究・尻。と 載っている。
昨日の文章に「冬虫夏草」の題で虫の事を書いたが、昨夜は、民放のテレビ番組で「虫の知らせ」をテーマに放送が成されていた。
其の番組に紹介された、沖縄の「ノロ・巫女」の女性は、30年前に霊魂・神に憑依されて、三ヶ月間荒野を彷徨い続けたとの事であった。
私も25年前、無庵師匠の下で、安房川の岸辺で「バプテスマ・禊ぎ祓い」を受けて、4311体の精霊に満たされ、六ヶ月間、屋久島の荒野を彷徨い歩き、更に、11月の半ばに屋久島を出て、全国を18年間「行脚・あんぎゃ」し続けたのである。
何故、神に仕える者は、長い期間、生命を危険に晒してまで、荒野を彷徨い歩かなければ成らないかと謂うと、神に仕える者は、人間社会から切り離れる事が必要だからである。
だからこそ、釈迦牟尼佛は「出家」を勧め、イエスキリストは「家族や 仕事を止めて 私に付いて来なさい。」と、謂ったのである。
しかし、現代の日本の坊さんは、全部とは云わないが、自家の寺院を相続するのに免許が必要なので、出家どころか「入寺」をして、儀式の作法を習得し、葬式屋と成ってしまっているのである。
其れは、釈迦牟尼佛の訓えには、全く違反しており、イエスキリストが攻撃した神社の「儀式マン」と同じで、釈迦仏の名を騙る詐欺師なのである。
其の証拠に、現在の仏教界で大悟した者は、誰も居ない様である。
若し居るとすれば、屋久島の百性の小倅である私に、此の様な事柄・現象が起きる筈が無いからである。
私には、「イエスキリスト」が「ヨハネ」に水に拠るバプテスマを受けて、精霊に満たされた事や、釈迦が水浴びをして菩提樹に寄り掛かって休んだ時に起きた現象が、実際に此の身に起きたのである。
其れは、イエスキリストや釈迦の事を、研究して起きた事でもないし、其の為の修行をして、学んだ事でもないのである。
其の不思議が起きるからこそ、世界中で、宗教の世界・アニミズムが伝承されて来たのである。
私も、其の大きな流れの中で、自分の役割を果たしただけに、過ぎないのである。
今朝は、其の9の数字のマンダラと、其れから拡散して行く、数字の世界を視て居て、私が理解した理・ことは、人間の視覚に因る思い込みの深さである。
其の一例を上げると、シュメール文化やインドでは「牛」が神様であるし、エジプト文化や沖縄や日本では、「ライオン・高麗獅子(シシ)・シーサー(獅ー様)」が神様である。
何故、インドで「牛・水牛」が神様であるかを考えると、牛は草食で大人しいし人間の役にも立つ。
其れに、牛は食べた物を木蔭に寝そべって反芻する。其の姿は、ブッダの涅槃の姿の様でも在るし、反芻する行為は、自分の行為を「反省・吟味」して居る様にも、感じられるからではないだろうか。
一方、エジプト文化で「ライオン」を神の使いとしているのは、水の管理をする物としてである。
しかし、ライオンが水辺に居るのは、水辺に待ち構えて居れば、水を飲みに遣って来る草食動物を、餌として捕らえられるからであり、水を護っている分けではないのである。
其の、牛を始めとする草食動物を、狙っているライオンが、水の護り神として、池や浴場や「御手洗水・みてらい」の近くに置かれているのは、大きな人間の勘違いであるのだ。
其の様に考えると、お寺の教えや、神社の教えも、幼稚な世界であり、マルクスが謂う様に、宗教は、大衆を惑わす麻薬と同じモノであり、権力者が人民から搾取をする為の、手段にしか過ぎないとの謂いが、的を射ている事に成るのである。
しかし、其のマルクスの教えも、レーニンの思考を通過した為に、単なるイデオロギーと成ってしまい、闘争の原因と成り、戦争を引き起こす為の、道具にされてしまっているのである。
其れ等の事柄を考えると、今朝現れた9の数字のマンダラは、簡潔そのモノであり、何の矛盾も無いし、純粋其のものを、意識の対象とする事が、出来る物である。
地球の人間の哲学・思想は、他の星に行けば全く役には立たないが、数学は全宇宙何処に行っても、通用するとの事である。
其れを考えると、今朝の様に、純粋な数字だけで示されて来たのは、レベルが高いと言う事であろう。
其の様に考えると、釈迦の謂う「ダルマ・法」や、老子の謂う「タオ・道」や、イエスの謂う「永遠の命」は、数学的に捉えて行った方が正確であり、間違いや誤解を与えないのかも知れない。
其の様に考えると、是からの精神世界は、宗教的用語を使うのではなく、数学的に、科学的理論として語る事が、必要なのではないだろうか。
釈迦や、イエスの時代には「自由」との言葉の概念が、無かった様である。
だから「出家」とか、「私に付いて来なさい」「私は 貴方達の兄弟・親子の仲を 裂きに来たのである」との言い方がされたのである。
しかし、「自由」との言葉の概念が、世界に拡がったので、今では、世界中の人間が「自由」との言葉を理解し、其の概念を共有する事が出来ている。
其の「自由」との言葉の概念と同じ様に、世界中の人間が、共有出来る言葉や概念を、澤山創出して行く事が、是から最も大事な事であるし、其れが出来れば、現在の様な、宗教やイデオロギーの違いに因る戦争は、無くなるであろう。
其の為にも、昨日の文章に書いた「アレキサンドロス図書館」に代る様な施設を、建設する必要があるだろう。
其の新しい学問の中に、人間の肉体と、精神の本質を、突き詰めて行く研究が、一番大事な理・こととして、位置付けされなければ成らないのである。
其れを考えると、やはり此の美しい日本の国土の中で、守り伝えられて来た「食国の政(おすくにのまつりごと)」の文化は、中心に据えられなければ成らないのである。
其の為にも、新しい情報発信基地は、此の日本に、創出されなければ成らない。
其の課題として、日本の天皇が何故、山に木を植え、水を護り、田植えをして稲刈りを行い、新嘗祭の儀式を行なうのかを、世界に向けて、説明しなければ成らないのである。
其の事に関係があるのが、気仙沼のホタテ貝の養殖で有名に成った「森は海の恋人」の世界の、山林の落ち葉が積もった腐葉土から染み出して来る「フルボ酸鉄」等の存在であり、「EM菌(有効微生物群)」の世界である。
そして、落ち葉が醗酵する世界に、酵素の世界が有るのである。
其の酵母菌は、酒や、醤油や、味噌や、沢庵等を作るのに欠かせない物である。
今朝は、他の方のブログを見ると、次の様に書いて有る。
「全て電気(電子9で動いてる)
・・・人の体は全て電子を持って動いていると言っても過言ではない。神経の伝達媒体は電気だ。約60兆個の細胞同士の情報交換に使われるモノも極微弱な電子によって行われる。先日そのビジョンを見せられたから本日書こうと思った。そのビジョンは各細胞一つ一つに鎖のような髭を無数に持って居る様だ。これは何かと思い、(細胞、鎖)とYahoo!で調べてみると『糖鎖』と言うモノらしい、これは正常な場合はY字になっており、言わば細胞同士の糸電話の様なモノ。この糸電話が綺麗につながってないと細胞同士の情報交換は乱れ、体の調子にも影響してくる様だ。この糖鎖は何かキーになりそうな気がする。・・・
─引用終了─ 226さんの日記
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1209662821&owner_id=12775546
出雲の「神魂神社・かもすじんじゃ」は、日本で一番古い神社として、国宝に指定されており、鳥居の原形も洞窟の入り口に保存されている。
其の「神魂・かもす」とは、「かも」が「神・電気」で、「す」は「素・もと」の意味であり、「神の魂の素は電気」との意味に成り、酵素の活動である「醸す」とも、繋がりがあるのだろう。
私には、其の「神魂」が、2005年4月15日から16日に掛けて、屋久島の奥岳から降りて来る映像が映されて来た。
其れは、堆肥に生じる糸状菌の白い糸に似た形状で、正に「酵母菌のかもすの姿」と謂える物であった。
其れは、人間の身体の中で、60兆個の細胞を繋いでいる、電子信号の情報網と同じであり、地球上の68億の人類を、無意識に繋いでいる情報網のシステムと、同じ物・形態であるのだろう。
其れが、釈迦牟尼佛の謂う「因縁」の意味であり、大国主命の働きである「縁結び」の役割であり、日本の伝統である「注連縄」の結びの意味なのであろう。
「山が動く」
http://star.ap.teacup.com/170606/512.html
25日に益救神酵素を飲んでから、其の「醸す・かもす・神魂」の力が、私の身体の内側で強く働いているのだろう。
確かに「小林竜也君」が謂う様に、私の身体は、陽性に変化して来ている様である。
其の証しとして、陽の数字である9・九が、9文字もマンダラと成って現れたのではないだろうか。
「益救神酵素」
http://www5.synapse.ne.jp/sankeidou/
いま「酵素」を検索すると、次の様に載っている。
・・「酵素(こうそ)」とは、生体でおこる化学反応に対して触媒として機能する分子である。
酵素は生物が物質を消化する段階から吸収・輸送・代謝・排泄に至るまでのあらゆる過程に関与しており、生体が物質を変化させて利用するのに欠かせない。このため、酵素は生化学研究における一大分野であり、早い段階から研究対象になっている。
多くの酵素は生体内で作り出されるタンパク質をもとにして構成されている。そのため、生体内での生成や分布の特性、あるいは熱やpHにより変性し活性を失う(失活)といった特性などは、他のタンパク質と同様である。
生体を機関に例えるならば、核酸塩基配列が表すゲノムが設計図に相当するのに対して、生体内における酵素は組み立て工具に相当する。酵素の特徴である作用する物質(基質)をえり好みする性質(基質特異性)と目的の反応だけを進行させる性質(反応選択性)などによって、生命維持に必要なさまざまな化学変化を起こさせるのである。
また、人類は古来より発酵という形で酵素を利用してきた。そして今日では、酵素の利用は食品製造だけにとどまらず、化学工業製品の製造や日用品の機能向上など広い分野に応用されている。医療においても、酵素量を検査して診断したり、酵素作用を調節する治療薬を用いるなど、酵素が深く関っている。
生体内での酵素の役割は、生命を構成する有機、無機化合物を取り込み、必要な化学反応を引き起こすことにある。生命現象は多くの代謝経路を含み、それぞれの代謝経路は多段階の化学反応からなっている。
小さな細胞内では、その中で起こるさまざまな化学反応を担当する形で多くの種類の酵素がはたらいている。それぞれの酵素は自分の形に合った特定の原料化合物(基質)を外から取り込み、担当する化学反応を触媒し、生成物を外へと放出する。そして再び次の反応のために別の基質を取り込む。
ここで放出された生成物は、別の化学反応を担当する酵素の作用を受けて、さらに別の生体物質へと代謝されてゆく。その繰り返しで酵素の触媒反応は進行し、ひいては生命活動が維持されていく。
生体内では化学工業のプラントのように基質と生成物の容器が隔てられているわけではなく、さまざまな物質が渾然一体となって存在している。しかし生命現象をつくる代謝経路でいろいろな化合物が無秩序に反応してしまっては生命活動は維持できない。
したがって酵素は、生体内の物質の中から作用するべき物を選び出さなければならない。また、反応で余分な物を作り出してしまうと周囲に悪影響を及ぼしかねないことから、ある基質に対して起こす反応は1通りでなければならない。酵素は生体内の化学反応を秩序立てて進めるために、このように高度な基質選択性と反応選択性を持つ。
さらにアロステリズム、阻害などにより化学反応の進行を周りから制御する機構を備えた酵素もある。それらの選択性や制御性を持つことで、酵素は渾然とした細胞内で必要なときに必要な原料を選択し、目的の生成物のみを産生するのである。
このように、細胞よりも小さいスケールで組織的な作用をするのが酵素の役割である。人間が有史以前より利用していた発酵も細胞内外で起こる酵素反応の一種である。
─引用終了─ ウィキペディアフリー辞典 現在記載
此のウィキペディア辞典の説明に載っている、酵素の糸状の繋がりの絵を見ると、6月26日のビジョンに現れた、細い髪の毛を揉み込んだ様な、縦長の細糸の塊りが、そうであるかの様に描かれている。
此の絵を見ると、私が夢で観ている世界は、酵素の働きを、無意識で視ている事に成る。
其れは、正に昔の人達が、神の働きと感じていた事と同じ物を、私が観ている事になる。
私が、今日感じる理・ことは、「人間は 宇宙の法則に従って進化して来た物だから、自分の身体の中に、宇宙の理(ことわり)・ダルマ(法)・タオ(道)が有るのは、当然の事である」と言うことである。
だからこそ、釈迦牟尼佛は「真に頼れるのは 此の自分の肉体だけである だから精進に努めよ」と強く謂ったのである。
其の理・ことが、どれだけ仏教徒の中で守られているのであろうか。
其れが、仏教徒の中で守られていないのであれば、日本の伝統である「食国の政(おすくにのまつりごと)」一本に、絞り込んで行かなければ成らないのであろう。
平成21年6月29日3時15分
礒邉自適
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2009/6/14
「大往生・だいおうじょう 」
覚醒
大往生・だいおうじょう
21・6・14
今朝のメッセージの映像は、昨日の青色の七段階のテーマ(虹の階梯)を卒業している、男性の御霊の存在が示されて来た。
其の男性の御霊を、どの様に名付けたら良いかを考えると、大往生の言葉が思い出されて来た。
「大往生」とは、(天命を全うして)安らかに死ぬこと。また、立派な死に方。と 大辞泉には載っている。
しかし「大往生」の文字の意味は「大きく向こう(彼岸)に生まれる」なので、死ではなく、元の世界に誕生する事を意味している。
其れは、此の三次元世界に肉体を持って遣って来て、大きな学び・体験を得て、元の世界に帰還する理・ことである。
私達は、宇宙のプログラムに拠って、此の三次元世界に肉体を持って誕生(産声を上げ)し、学びを終えて往生(息を引き取る)するのである。
其の間が、人間としての人生である。
我々人類の肉体は、「12干支×10還=120歳」生きる寿命・プログラムを持って、此の三次元世界に送られて来て、夫々必要な「役割・学び・体験」を終えて、元の世界に「往路・おうろ」を辿るのである。
そして、立派な行為を為しえた者は、「天界・彼の世」にて、祝福を持って向かえ入れられるのである。其れが「大往生」の意味なのである。
今朝のメッセージの内容から、私が感じた理・ことは、横書きの弊害である。
と謂うのは、大往生の最高位置は「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」の「高御座・たかみくら」である。
そして、其の下に「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」と「神産巣日神(かみむすびのかみ)」の両神の働きが存在する。
そして、七段階の一番下が、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」と「伊弉冉命・いざなみのみこと」の両神の働きである。
其れが、横書きだと、「高御産巣日神」と「伊邪那岐命」が、左側に位置してしまう。
処が、古事記は縦書きなので、「高御産巣日神」と「伊邪那岐命」は右側に位置し、「神産巣日神」と「伊弉冉命」が左側に位置する理・ことに成る。
私の頭脳は、子供の頃から国語系ではなく、理数系であったので、縦書きは苦手であり、お婆さんへの手紙も、左から右への横書きで書いていた。
そんな頭脳なので、是まで「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の男性神は、何時も左側に位置していたのである。
処が、今朝のメッセージで「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の立場は右側であり、左側に位置する「伊弉冉命・いざなみのみこと」の住む、穢れ地から、逃げ帰る黄泉比良坂の坂道は、右上がりの階梯である理・ことが解かった。
私のイメージの中の「黄泉比良坂(よもつひらさか)」は、是まで、左上がりの坂道であったのである。
其れが、今朝、大往生を遂げた男性は、左から、右に上がる階梯を、登り終えたので、私が是までイメージしていた階梯は、逆であった理・ことに気付いたのである。
何と、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」が逃げ帰ったのは、左下の穢れ地から、右上の天国へだったのである。
「女・雌」の働きである「伊弉冉命・いざなみのみこと」は、「なみ・波・空間・円・広がり・陰性」であり、物を生み出す働きである。
そして「男・雄」の働きは、「なぎ・凪・時間・トキ・チョン・中心・柱・陽性」で、意識・トキを生み出す働きなのである。
だから、物を生み出す働きの「イザナミ」が、先に意識・トキを生み出す「イザナギ」に声を掛けると、手足の無い「未熟児・ヒルコ・蛭子」が生まれてしまうのである。
そして、正しく宇宙の「法則・ダルマ・道・タオ」に従って完成した「御魂・みたま」は、「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」の御魂として、17段目の「社・やしろ」を「終の棲家」とする事が出来るのである。
其れが、男性の御魂の働きなのである。
其れと反対に、「大日如来(マハー・ヴァイローチャナ)・ヌト」の「身」の働きである「女性・雌」の存在は、「地球・水球・大地・ガイヤ・ゲブ」であり、あらゆる生命を生み出す「土台・舞台・畑・イザナミの肉体」として、純粋に生きて行かなければ成らないのである。
其れが、「DNA・遺伝子・X染色体・代謝系」を継続する、女性・雌の大事な働きなのである。
今朝のメッセージで感じた理・ことは、男性である私の役割は、右側の最上段「高御産巣日神」に上がる為の、ノウハウを確立する事である。
其れは、昨日の映像に現れた、七つ階梯が書かれていた題の背景が、青色の場面であった事に関係が有り、男性の意識は、天空に向かう理・ことを意味している。
其の青色は、エジプト文化の天空の神・女神ヌトの身体の色と同じである。
其れは、男性が考え出した、意識の対象の姿形である。
エジプト文化では、世界を構成している神は、三神であり、上から「天空の女神・ヌト」中が、「大気の神・シュウ(ヌトを支える)」で、下は「大地の神・ゲブ(植物の実る豊な地面を表わす)」である。
其の分け方でも、古代から、同じイメージが人類に在った事が理解できる。
此処まで書いた時に、「癒やしの手さん」から電話が掛かり、一時間ほど是からの流れに付いて話をした。
其れは、茨城の皇祖皇太神宮の「三種の神器」の事と、宮城県五葉山の酒井勝軍が授かった「宝剣」や、群馬県の黒滝不動尊の「先代旧事本記大成経」の存在の意味などに付いてである。
二人で話して居て、北海道と屋久島に生まれた二人の意識が、終着駅と言うか、新しいスタート位置と言って良いかの、トキ・時節が巡って来ている理・ことを自覚できた。
「星が歩く・黒滝不動尊」
http://star.ap.teacup.com/170606/684.html
「イエスの手足・五葉山」
http://star.ap.teacup.com/170606/501.html
今朝は、岡山の「スーリアさん」からも電話が有り、今回スーリアさんの紹介で、6月9日に屋久島を訪れたオペラの四人組みが、お礼に立ち寄って、色々話したとの事であった。
スーリアさんと話していて、若い人達が、此の世界に澤山踏み込んで来ている事を自覚し、我々は先達として、其の若者達の相談相手と言うか、支援する立場に在ることも自覚したのである。
其れ等の事を考えると、神の計画は甚大である理・ことが解かる。
そして、是からも、我々が生きる此の世界は、宇宙意志・ヌトの意識内であり、観音菩薩の掌から、外に出てはいないと言う理・ことに成るのである。
「女神の願い」
http://green.ap.teacup.com/20060818/704.html
其の様に考えると、大往生の言葉の世界は、男性意識の世界であり、男性の意識が、生命の本体である雌のシステムに帰還する事が大往生であり、元々の本体の世界に留まる女性には、大往生との概念は必要ではない理・ことに成る。
仏教の言葉である「天国」や「地獄」や、旧約聖書に有る「エデンの園・楽園」も、男性思考が考え出した理屈であり、本来は、存在しない世界であるのだ。
子供や、女性を不幸に落とし入れているのは、みな其の男性の概念が原因であり、男性が概念の違いに因り、戦いを行うから薬園は崩壊し、地獄が生じるのである。
今朝の映像で、私が登り上がって到達した坂道は、男性自身が創り上げた思考の罠の世界であり、男性の意識の穢れであり、女性には何等関係が無いのである。
古事記の物語や、聖書の物語も、男性が創作した意識の塵・穢れなのである。
其の、男性が考え出した意識の穢れを、女性にまで押し付けて、無明の世界を創り出して来た結果が、現在の無明の世の中なのである。
其の、男性の「カルマ・犯罪」を消去する為の儀式が、日本の神社で行われる禊ぎ祓いの儀式なのである。
そして、花嫁に白無垢・角隠しを求めているのも、男性のエゴ・我が儘な行為なのである。
其の理・ことに気付けば、釈迦牟尼佛の訓えである十二縁起の意味が、益々理解できて来る。其れは、老子の謂う「雄の立場を知った上で 雌の立場に身を置け」との、言葉の真髄でもあるのだろう。
「十二縁起」
http://wave.ap.teacup.com/20060106/332.html
「大往生」との言葉も、男性が考え出した概念に因るものである。
私もようやく、其の「言葉・ロゴス・logos」の罠から抜け出して、本来の「御祖神・みおやかみ」の立場に、帰り着く事が出来たのではないだろうか。
其れが、本来の神の世界なのであろう。
平成21年6月14日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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