私が1984年6月4日に安房川岸で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて荒野をさ迷って修行した課程の記録
私が 1984年6月4日に 安房川の岸辺で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて 荒野をさ迷って修行した課程の記録
2009/5/7
安心立命
14・3・3
今朝は、まどろみの中で、私の意識が捉えるものを失って、何も無い状態がしばらく続いた。私が、何も無い状態を、言葉にしようと意識すると、「安心」の言葉が出て来て「そうか 安心か」と認識すると、次に「立命」との言葉が出て来た。
其れは、「安心」「立命」の両方を合わせて、考えなければならないとの事の様なのである。
朝起きて、言泉で調べてみると、『安心 (古くは あんじんとも)』
1、心が安じること。気がかりなことがなくて、心が落ち着くこと。また、そのさま。2、「あんじん」信仰によって、心が不動の境地に達すること。
『安心立命』1、人力を尽してその身を天命に任せ、どんな場合にも落ち着いていること。2、天命を知って心を動かさないこと。 と 載っている。
本日3月3日は、私が27歳の時1974年に、名越美代子と結婚式をした日である。
其れから丁度10年目で離婚して、神の世界の修行に入った。
其れから既に、18年が経過している。
ようやく自分の心に、何も浮かばない朝を、迎えた様である。
是までの、私の意識は、自分の本心ではなく、自分以外の何かの「念・おもい)・意志」が、私を衝き動かして来ていたのだろう。
1984年の3月5日に、私の師である土肥秀基氏が、屋久島に引っ越して来て、其の日から、玄米自然食の食事が始まった。其れから、18年が経過している。
18年の歳月も、経ってしまえば、短かった様な気がしないでもない。
しかし、18年間の家離・たびで出会った人達の数や、50冊にも上るアルバム帳を見ると、其れ等が、長い時間が掛かった、証となっているのが感じられる。
何か、目に見えない大きな力が、時空を読み込み、未来創造へと、繋いで来た事が理解される。其れは、私と、私に起きた現象を、共に、目にした者にしか理解できない事である。
私の、体験から云えば、何か、新しい事象の渦が、此の地球に起きて、世界が大きく展開をし始めている事は、間違いない様である。
私も、其の出来事の一部として、此の様に動かされているのである。
聖書の、ルカによる福音書・第10章21、22、23には、次の様に載っている。
「そのとき、イエスは聖霊によって 喜びあふれて 言われた。《天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。
これらの事を 知恵ある者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
父よ。これはまことに、みこころにかなったことでした。
すべての事は、父からわたしに任せられています。
そして 子が だれであるかは、父のほか知っているものはありません。
また 父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして 子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません。》
それから、弟子たちの方に振りむいて言われた。《あなた方が見ている事を 見る目はさいわいである。》」
其の、イエスキリストに起きた現象が、私の身にも、起った事に成るのである。
3月5日から「自然食・マクロビオティック」を始めて、ちょうど三ヶ月目の6月4日に、無庵師匠に見守られながらの、安房川岸辺での禊ぎ祓いに拠って、私は4311体の聖霊に満たされ、荒野での修行が始まり、其れが、秋まで半年間続き、11月から全国の旅が始まったのである。
旅の思い出を探って行くと、話すのには、何ヶ月も掛かるくらいの、思い出が詰まっている。その思い出は、アルバムに綴じ込めてある。
全国の、場所と、多くの人々の顔。全てが、過ぎ去った今、新しい芽吹きが待たれているのだ。
私は、ただ、静かに瞑目して、トキの始まりを、見詰めるだけである。
誰かが、考え付いた『安心立命』。その言葉の、熟成を計りながら・・・。
平成14年3月3日
礒邉自適
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