私が1984年6月4日に安房川岸で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて荒野をさ迷って修行した課程の記録
私が 1984年6月4日に 安房川の岸辺で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて 荒野をさ迷って修行した課程の記録
2008/4/18
つきよみのみこと
20・4・18
今朝は、ようやく私の意識が、私 其の儘の状態に成り、「メッセージ・ビジョン・映像・場面・言葉・お告げ・声」など一切無く、唯 自分が自分の意識を感じているだけだった。
其れは、動物の特徴である五感の感性が全て停止し、生命の本質である源に、自分の意識が還り着いた事を意味している。
其れが、本来の「祷り・帰命・ナーム・リリジョン・religion」の世界であろう。
其の意識状態は、自分の他には、別の物が一切無く「宇宙即我 我即宇宙」の状態であると言えるだろうか。
其れは、透明な光の世界に自分の意識が在り、その光が、宇宙全体であるとの一体感である。
もう、其の世界からは、何も生じては来ないし、自分からの働き掛けも、何も起こらないのである。
だから、今日は、何も書く事が無い。
そんな状態の中、事務所に出て来ると、全国から、電話が掛かり始めて、午後3時頃まで、PCの前に座る事が出来なかった。
そして、「大山邦博氏」が事務所に来て、今年の大山祇神のチラシを作成してくれと云うので、今まで、其のチラシを作成して居た。
今朝の電話は、熊本(楠木)、出雲(安部)、山口(松山)、愛知(前田)、などである。
其れ等の電話の内容は、皆 現実的な事の始まりに付いてであった。
そして驚いた事は、松山さんと話していて、今日の旧暦の日付が気に成って、松山さんに「今日の 旧暦は 何日だろうか。」と云うと、松山さんが「一寸待って」と云って、カレンダーを見て「ワーッ 3月13日だー」と驚いているのである。
私も、事務所に掛けてあるカレンダーを見に行くと、本当に、今日4月18日は、旧暦3月13日なのである。
何故、松山さんが驚いたかと云うと、松山さんは、私とは21年の長い付き合いなので、私の動きは全部把握しているし、3月13日の日付の意味も良く御存知だからである。
3月13日は、私が初めて、阿蘇に有る「日の宮弊立神宮」に参詣した日であり、昨年の3月13日には、日の宮弊立神宮で「すめみこ誕生」の儀式も行なっている。
「初参拝」http://moon.ap.teacup.com/20051112/251.html
「我らが皇御子」http://star.ap.teacup.com/applet/170606/52/trackback
「新しい御旗」http://green.ap.teacup.com/20060818/
其れが、今年の3月13日には、何もメッセージはなく、今日旧暦の3月13日に未明から、是までとは違う次元が、行き成り動き出したのである。
熊本県の阿蘇に在る「日の宮弊立神宮」は、其の名の通り、太陽を拝する日の宮である。
だから、其の「日の神」の働きは、20年前の3月13日に示されている。
しかし今年は、新暦ではなく、旧暦の3月13日に変化が起きて来たのである。
其れは、神の働きが「日・太陽・天照界・新暦」から「調読界・旧暦」へと移転した事を意味し、西洋のグレゴリオ暦は、もう神霊界の働きには、合わなく成って来ている事を、意味しているのではないだろうか。
其れは、2006年3月21日(弘法大師空海命日)に、大山祇神の動きが判明し「紀・トキの祭り」が行われる事が決定し、新しい歴史を創造する神の動きの拠点が示されて来た事と、関係が有るのだろう。
其れは、大山祇神の祭りは、旧暦の5月16日と決っているからである。
其れは、満月の「月の出」が、暗く成ってからあり、大潮の満潮時が、月の出と重なっているからである。
屋久島では、旧暦の1月・5月・9月の各16日に、大山祇神の祭りが行なわれ、特に、秋の中秋の名月の日である9月15日には、「綱引き」と「相撲」が行われるのである。
其れは、太陽の文化ではなく、月の文化である。
「大山祇神100周年」http://moon.ap.teacup.com/20060615/13.html
日本は、明治維新でグレゴリオ暦が導入されるまでは、旧暦に拠って政(まつりごと)も、生活も、文化行事も行われていたのである。
其れが、明治政府に拠って、変えられてしまったのである。
其れは、海から遠い、大陸の中に政(まつりごと)の中心である都が置かれ、月や海の運動から、人間のリズムが離れてしまった文化に、汚染されてしまう事を意味している。
だから今、マヤ暦に人気が有るのは、人間の生理・生体リズムに合った文化に、潜在意識が還ろうとしているからであろう。
其れはまた、此の世に暮らす人間だけではなく、神霊の世界でも、月の文化に還ろうとしているからであろう。
月の文化とは、夜の文化でもある。
夜とは、宇宙全体が人間の視覚に捉えられ、意識が拡大する世界である。
処が、昼の文化・太陽の有る暮らしは、色の世界・物の世界であって、宇宙のリズムの世界ではないのである。
昼の明るい世界は、物が見える為に、人間の視覚は其れに奪われ、「夜の世界・暗い世界・リズムの世界・調読界」から、目暗に成ってしまうのである。
其れは、神社で行う「禊ぎ祓い」の儀式には不向きの世界である。
そして、お神楽が昼間ではなく、夜に行われる事も、其の世界を大事としていたからであろう。
其の大事な夜の世界が、電気の発明で24時間、明るい世界に成ってしまったので、人間の意識から益々、神が遠く成ってしまったのである。
夜の、暗闇の神殿の中で、灯明を一つ点けている時こそ、「月読神・つきよみのかみのかみ」が、働けるのである。
今朝の状況は、何もメッセージが無かったからこそ、私の意識は自由に成り、多くの事柄に付いて、思索が進んだ。
しかし、今日は、電話が多数掛かって来て、其の事に付いては、何も文章にする事は出来なかった。
是から、神のメッセージが来ないのであれば、自分の顕在意識で、文章を書き始める事に成るのかもしれない。
文章には書いていないが、4日程前には、ビジョンに本のページが映し出されて来て、写真付きで、縦書きの文章が書かれていた。
其れを見て、私の意識は、其の様な本を書くべき時が来たのだと、認識していた。
もう、メッセージが来ないのであれば、是から、私の意識を、光の世界に投入して行かなければならないのかもしれない。
其れが、言葉として、世の中に拡がって行くのであれば、其れが「治ろしめす」との事に、成るのかもしれない。
平成20年4月18日(旧3月13日)
礒邉自適
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