悟りへの道
私が1984年6月4日に安房川岸で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて荒野をさ迷って修行した課程の記録
私が 1984年6月4日に 安房川の岸辺で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて 荒野をさ迷って修行した課程の記録
カレンダー
2007年
October
Sun
Mon
Tue
Wed
Thu
Fri
Sat
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
最近の記事
風邪の恩恵
ブッダの周期
神手の夢枕・かんだのゆめまくら
煩悩の世界
静かな革命が始まる
過去ログ
2011年2月 (1)
2009年12月 (1)
2009年10月 (3)
2009年7月 (3)
2009年6月 (2)
2009年5月 (1)
2008年12月 (1)
2008年9月 (4)
2008年6月 (1)
2008年4月 (2)
2007年11月 (4)
2007年10月 (1)
2005年5月 (1)
2002年2月 (1)
2000年5月 (1)
記事カテゴリ
ノンジャンル (0)
覚醒 (8)
精進 (3)
般若波羅蜜の智慧 (8)
帰命 (6)
完成 (3)
掲示板
リンク集
みいつ〜君の光〜
自適塾
いのちのアルバム
自適の今日
→
リンク集のページへ
最近のコメント
カウンター
本日のアクセス
昨日のアクセス
総アクセス数
検索
このブログを検索
ブログサービス
Powered by
2007/10/15
「人の数程世界は存在する」
覚醒
人の数程世界は存在する
19・10・15
今日は10月15日で、出雲の「熊野大社」や、和歌山の「伊太祁曽神社」それに、愛媛県大洲市の「少彦名神社」でも秋期大祭が行なわれる日だが、今年は、其のどれにも参加出来ずに、宗像大社の近くで、唯パソコンに向かう事に成った。
其れは、昨日、全ての過去の情報が、外れるビジョンを見た事に関係が有るのかも知れない。
昨日は、午前中、「花田志乃婦さん」が勝浦で開催している、アート展示の写真撮影をして、午後は、宗像大社で開催された「原さん」の祈願祭に参加し、夜の中洲で行われたパーティにも参加した。
其れは、昨日のビジョンに現われた、二つに別れた、コブラの尻尾に関係有りそうな、一日の出来事であった。
花田志乃婦さんのアート空間は、物の作品展示であるが、其の場には、神が降りて来て「人の数ほど 世界は在る」と、告げられた。
そして午後は、宗像大社での祈願祭で参加者は60人程であった。
祈願した物は、原さんの著書「神代の女神」である。しかし、其の場では、私には神のメッセージは降りては来なかった。
しかし、不思議な事に、私が一番会いたいと願って居た方が、私の隣の席で、其の偶然の縁にビックリした。
其れは、神が直接降りて来なくても、此の現象世界(相対界)が、神に拠って管理されている事を示している。
其れは、物の世界を管理する弁財天・サラスバティが、二つの世界を、尻尾として管理している事を、明らかにして来た事に成る。
昨日、隣の席に座った方とは、佐賀県武雄市山内町の「今心工房」の「草場一壽氏」である。草場一壽氏は、私に一番新しい作品の写真を下さった。
其れは、天照大神が稲穂を手に持っている姿である。
「今心工房」
http://www.imagine-koubou.com/
そして、現在位置番力を入れて居るのが、金色の光りが、円形に拡がって行く場面を、現す事であると話して居た。
其れは、花田志乃婦さんが現在、作品として製作している世界と同じである。
昨夜、花田志乃婦さんの家に帰って来て、志乃婦さんに草場一壽氏の事を知って居るかと尋ねると、知らないとの事であった。
其れは、未だ見知らぬ同士が、同じテーマに同時に取り組んでいる事に成る。
其れも、「布地」と「陶器」の違う素材にての創作活動である。
其処にも、弁財天の働きの分岐が見られる。
さて、今朝のメッセージの映像は、温泉場の様子が映し出されて来て、其処には泥湯などが有り、人間の癒しの場として、利用されている事が示されて来た。
其処には、食べ物や、師や、人材などが、最高のレベルで整えられ、其処を訪れる人間が、何時でも受け入れられる事が可能であることが、雰囲気で理解出来た。
此のメッセージの意味は、旧約聖書に載っている「神は 自分に似せて 粘土で人間を創った。」との言葉を裏付けるものであろう。
粘土は、アルミと珪素の化合物である。
現在の科学では、地球生命は36億年前に、ミネラルの泥の海で誕生した事が明らかに成って来ている。
其れは、植物の根の働きや、人間の胃腸の細胞に、其の始まりのシステムの証拠が残っているので、誰も、其れを疑う事は出来ない。
例え、宇宙人が存在したとしても、36億年より古い時代の生き物は、此の宇宙には存在しないであろう。
そうであれば、今朝の私のビジョンは、生命の一番古い魂しいの部分が、自分自身を思い出していた事になる。
今朝のビジョンの世界から考えれば、人間の人格霊を祭祀する神社等には、もう行かないでも良いと言う事に成るだろう。
其れは、私に起きた神霊の思頼(みたまのふゆ)が、其の目的を果たした事に成るのであろう。
ようやく私に、24年振りに自分の時間が還って来たのだ。
しかし、私には、屋久島の自宅も既に無くなっている。
其れを考えると、是からが、私の本当の「タビ・家離・たび(家を離れるの意味)」の始まりだと言う事に成るのではないだろうか。
其れこそが、釈迦牟尼仏陀や、イエスキリストや、松尾芭蕉などの乞食・こつじきの世界なのではないだろうか。
今日は未だ、福岡の花田志乃婦さんの家に居て、志乃婦さんのブログ「いやしろ空」を創る作業が有るが、其の先のスケジュールは、自宅の荷物を、西川氏の倉庫に預ける事だけで、他には何も無い。
今朝の温泉場が、現実として、此の世に存在するのであれば、其処に行って、皆の悟りの手伝いでもするのだが、未だ、現実にはそんな場は無いだろう。
昨日、告げられて来た「人間の数ほど 世界が在る」との言葉の意味は、人間と宇宙の関係を示しており、世界は一つではなく、人間は、個人個人が其々宇宙と繋がり、自分だけの世界を構築出来る理・ことを示して来ている。
其れは、人間は、他人の世界を覗いて、其れを、其の侭、真似てはいけないと言う事である。
そうすれば、自分の世界を持つ事が、出来ないと言う事である。
其れが、本来の「神惟らの道」であるのだから、「見ざる・聞かざる・云わざる」の、三猿の訓えが、正しい事に成るのだ。
其れを考えると、今朝のビジョンの温泉場も、不必要な物に成ってしまうのだが、其れはどうであろうか。
全国の至る所の神社で、今の時刻は大祭の儀式が行われている事であろう。
私は、其れ等から解放され、24年前の自分に返っている。
いや、もっと、其れ以前の次元なのかも知れない・・・・。
平成19年10月15日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
1
| 《前のページ | 次のページ》
/1
記事
画像
新着順
投稿順
teacup.ブログ “AutoPage”