私が1984年6月4日に安房川岸で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて荒野をさ迷って修行した課程の記録
私が 1984年6月4日に 安房川の岸辺で禊ぎ祓いのあと 聖霊に満たされて 荒野をさ迷って修行した課程の記録
2005/5/23
最後の答え
17・5・23
私は今朝、答えなど必要なかった事が分かった。
その様に、思念するのは、今朝の霊夢の所為である。
今朝の霊夢は、私の目の前に、私の目の前と言っても、私の肉体が姿として、其処に在るのではなく、目には見えない意識だけが其処に在った。
そして、其の意識の前に、実物ではないが、サーカスに使用する縄梯子の様な物の形が、上から下に有った。
私の意識は、是から遣って来る人々、特に男性を、右の道から梯子を昇らせて、左の上の方の世界に、上げて遣らねばならない様なのだ。
処が、多くの人々は、梯子に見向きもしないで、一人も、左の上の方に上がる事をしない。
私は、其れに対して、どうしてだろうと意って、左の上の方を見ると、一人の女性の姿が在った。
今朝の霊夢は、それだけで終って、何の答も、知らせも無かった。
夜が明けて、私は起き様にも、今朝の霊夢のメッセージが解らないので、其の侭ベッドの上で瞑想に入った(数日前からベッドで寝ている)。
そして、自分の意識を観じて居ると、仏教の彼岸の言葉が浮かんで来た。
「彼岸」とは、只単に、河の向こう岸の意味だが、仏教では、「生死の海を渡って到達する終局・理想・悟りの世界・涅槃」の意味に使われている。広辞苑
その意味は、臨死体験した人が、川の向こう岸に、先祖の霊や、光りの世界を見る事から来ているのかも知れないが、現代用語で言うと、三次元(現実世界)から、四次元(目に見えない世界、冥府)に、移行するとの理ではないだろうか。
私は、その彼岸の言葉を気にしながら瞑想を続け、彼岸の言葉で、今朝の霊夢の意味を探った。
そして、気が付いた理・ことは、男性は旅人であり、女性の方は高みに在って、男性が縄梯子を上って来るのを、静かに待っているのだとの理である。
その原因を探ると、遺伝子の仕組みが、そうなっている事が解った。
遺伝子は、女性の其れが「X(24)・X(24)」に対して、男性の方は「X(24)・X(23)+Y(1)」で、X・Yの組み合せが、一組だけ混じっているらしい。
其の、一組の染色体の違いの為に、男性は不完全であり、その不完全さを補う為に、旅を続け、手掛かりの梯子を見つけ出して、登らなければ成らないのだ。
そして、登り付いた処に、完全体の女性が存在するのである。
その女性と合体して、ようやく男性の旅が完成し、遺伝子は、自然の法則を守り続ける事が出来るのである。
人間の肉体も、地球に存在する、動物や植物と同じシステムで生きている。
だから、この遺伝子のシステムは、全ての生命に共通しているのだ。
そのシステムの理を、釈迦は「ダルマ・法」と呼んだのだろう。
それを現在では、全てが「仏・ほとけ」を内蔵していると、言っているのだろう。
その場合の「仏」とは、生命の事であり、釈迦はその原理を、解読したのである。
其の、生命の本質に、目覚めた姿を「ブッダ(Buddha)」と呼ぶので、ブッダは「佛陀」の漢字を当て、佛(仏)を「ほとけ」と呼ぶ様になっている。
2600年前、釈迦はその原理を、人々に、どの様に伝えたのだろうか。
当時は、電子顕微鏡も無いから、遺伝子が存在する事は知る由も無いし、電波望遠鏡も無いので、星の成り立ちも分からなかったのであろう。
しかし、それでも、生命のシステムを理解したという事は、自分自身の中に、生命情報が在り、瞑想をすれば、その生命情報が蘇って来る理に、気付いたのだ。
釈迦は、自分が獲得した情報を、人々に、40数年間も伝え続けている。
それでも、第二の佛陀は誕生していない。
その原因を、私は解かる様な気がする。
それは、釈迦の弟子は、何時も釈迦の姿を対象として見ているので、意識が外に向いており、内側の自分に、向かないからである。内側に自分の視線・意識が向かない限り、遺伝子の情報は、蘇って来ないのである。
釈迦は、人類全体が悟り、真実の門を通り抜ける迄は、門の外に在って、人類全体が悟りの世界に入るのを見届けたら、自分も門の中に入り、扉を閉めると云ったと伝えられている。
それが本当なら、釈迦は未だに、人々を導くために四次元に在って、その方法を探っている事に成る。
そうであれば、今朝の霊夢の中の、私の意識は、私自身の意識ではなく、仏陀である釈迦の意識だったのかも知れない。
釈迦の意識が、私の脳を使用して、情報の処理をしていたのではないだろうか。
釈迦は、お経を読めとか、覚えろとかは謂っていない。
釈迦の説いた理・ことは「人間が創作した 言葉や 文字を 使用するのを止めて、自分の内側の生命システムを見詰めよ。」との事である。
それは、キリストと呼ばれるイエスの説明とも合っている。
中国の老子も、その理に気付いており、「雄の生命システムを理解した上で、雌の生命システム側に 身を置きなさい。」と説いている。
今朝の霊夢の世界は、釈迦の念(おもい)と、老子の心象風景が集合して、映り出されて来たのかも知れない。
現代社会は、男性の方が、雄の象徴である顔の飾りの髭を剃り落して、女性に近付き、女性は目立ってはいけないのに、顔に化粧をし、飾りをそこら中に着けて目立とうとしている。
男性は、女性を真似し、女性は、男性を真似しようとしているのである。
それは、自分の意識が、外側の世界に、振り回されているからである。
女性が、外側を飾る意識を止めて、本来の世界に帰れば、その女性を母親として育つ子供は、本来の世界に生きて行く事が出来る。
そうなれば、男の子は本来の旅に出る事が出来るのだ。
そのシステムを、人間は無くしても、自然の中で生きているライオンや、鹿や、猿は、今でも其れを守っている。
人間だけが、忘れてしまっている世界を、動物達は伝え続けているのだ。
その理に、釈迦もイエスも老子も気付いたのであろう。
今朝の霊夢は、四次元に在る彼等の総決算ではなかったのだろうか。
そして、現在・いまの私は、自分の両親が理に適った生き方をし、私の生命を真実の意味で大事にし、私の意識を守ってくれたから、存在するのであろう。
そして、今までに、私の人生に関わって下さった多くの人々が、誰一人、無駄の無い存在であり、誰かが一人でも欠けたら、現在の私の意識は無いのである。
釈迦牟尼佛の言葉の、「三千世界に 我在り」とは、「本来は 己とは無く、全体が自分であり、自分が全体である」と言う感覚から、生じた言葉であろう。
今朝の心象風景を、言葉にしてみたので、最後に記しておこう。
「私達の 帰還する処は 自分の内側の 生命の本体である“雌”の立場である。」との理・ことである。
其れを、古の人は「自分」と書いたのである。
平成17年5月23日
礒邉自適
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