このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2006/9/8
臭
18・9・8
昨日は久遠元初の初めに意識が在り、其の意識からおもいが発生する意味で「想」の漢字が現れたが、今朝は「臭」の漢字が一字だけ映されて来た。
朝 辞典漢語林で「臭」を調べると「鼻+犬」の組み合わせで【字義】は「鼻の働きの良い犬」で、意味は「臭いを良くかぐ」である。
今朝は、其の文字が出た後、人が手折った様々な花が映されて来て、女性の手で、どの花の時期に合わすかの検討が行われていた。
其れは、カレンダーと季節と月日を意味しているのだろう。
そして、次の映像は、長距離の列車に私が乗り込んで居て、次の駅に止まった時に、昼食を摂るには、どこら辺から準備を始めれば、ピッタリとタイミングが合うかの、検討をしている場面だった。
其れは、現実世界の、物事のタイミングを計るものである。
此の二つの映像は、よく言われる「何時・何処で・誰が・何を・どのように」始めるかの計画を、イメージしろとのメッセージの様に想われる。
昨日は、想いの文字が出て来たので、今朝は、其の想いが、具体的に現象化する為の、段階や方法を示唆して来ているものと考えられる。
「臭」の文字が映されて来たのは、感覚器官の始まりが、鼻に在るからではないだろうか。
昨日の、想いの文字は心の世界であるが、今朝の「臭」は、動物の感覚器官において一番大事な器官である。
一番情報量の多い目・視覚の働きは、光りが無い時には役に立たないものである。其の点、臭いを嗅ぐ鼻と、音を感知する耳・聴覚は、闇の中でも通用するものだ。
其れ等の事柄を考えれば、今朝のメッセージは、新しき文化や、未来社会を創造する為には、先ず、心の始まりである人間の感覚器官の在り様から、意識下に置いて、作業を開始しろとの事ではないだろうか。
其れは、インドの釈迦仏陀が法華経の中で「12縁起」として、言葉と意識の成り立ちや仕組みを説明しているが、其のバージョンを、近代風に書き改めろとのことではないだろうか。
其処のところが、明確に成り、確立されなければ、教育は「百害有って 一利も無」と言う諺のとおりに、成ってしまうだろう。
「12縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/
其の点では、日本の神社の禊ぎ祓いの方法は、理に適っていると謂える。
其れに、世界一の言語学者であり、哲学者である中国の老子は「国民が学問を受けると 賢しらが増えて 世の中がどうしようもなく成る」と謂って、知識を増す事の危険性を説いている。
其れは、旧約聖書の物語に記されている、蛇が人間に勧めた「知識の実」と、同じ概念を含んでいる。其れ等の事柄を考えれば、是からの私の作業が、大きな意味を持っている事が理解されて来る。
「臭」の文字は「鼻+犬」で、犬は嗅覚が優れており、人間の数万倍もの感知能力が有るとの事である。其れは、臭いを感知する為の犬の鼻穴が長く、位置も肉体の一番先に付いているからである。
其れは、蛇と同じく、臭いを嗅ぐ事を、最重要に考えているからである。
人間は立ってはいるが、やはり鼻が一番前に位置しているし、鼻が詰まれば、食べ物の味がしなく成るので、舌の味覚よりも、鼻の感覚が大事だと言う理・ことにも成る。
我々人間は、風の流れの中に、花の香りを嗅げば、季節の彩りまで映像として浮かび上がって来る。
其れ等の感覚器官を使って、是から、どんな文化や未来社会を、構築して行くか、今朝のメッセージは、其れ等の基礎の部分を示して来たのだろう。
其れ等の指示が、何処から来るものなのかの答えは、未だ出せないが、判っている事は、何か途轍もない、巨大な思考システムが存在し、其のシステムと私の意識が、結び付いている事である。
其の情報の存在を、「神(示・祭壇+申・電気信号)」として、概念化した古代の人は正しかったのだ。
古代社会は、現代社会の様に、金銭感覚だけが重要な社会ではなく、神様の存在が主体に考えられていた社会である。
是から、築かれて行く未来社会は、其の古代の感覚が復活し、新しき社会システムと、上手く絡み合って、営まれて行く事に成るだろう。
其の前触れとして、私の思考が、動き出しているものと考えられる。
此の様子だと、明日は「耳」か「舌」の文字が出て来るのではないだろうか。
明日9月9日は、「重陽の節句」で「ククリの日」である。
菊理姫の働きである、「白山妙見大権現様」の御機嫌は如何であろうか。
大本教の出口王仁三郎は、9月8日に12の秘密が有ると云っている。
今日は、其の一つが、また解けたのかも知れないのだ。
平成18年9月8日
礒邉自適
2006/7/11
影絵
18・7・11
今朝の映像は、唯一木々の梢や葉の形が、黒い影の様にシルエットで、次々に映って来た。
其れは、言葉や文字や音も無く、唯 物の形として出て来たのである。
どうやら其れは、視覚神経のシステムの基盤と成っている部分が、明らかにされて来たものだろう。
其の事から、考えられる事は、私の脳の視覚神経の基盤と、都会で生まれ育った人間の視覚神経の基盤の違いを、考えろと言う事ではないだろうか。
私の生まれた実家は、自分の家から、他人の家が一軒も見えない場所で、家の裏には直ぐに、屋久島の原生林に繋がる森が有り、小鳥が子育てをしている様な環境であった。
自宅は、日本の典型的な木造建築で、天井板が張られていないので、屋根の斜めの構造が丸見えの部屋で、其れを見ながら、寝起きをして居たのである。
だから、都会の四角なコンクリートの物の形は、私の視覚神経の基盤には成っていない。
私が、物心付くまでは、家族と自然物の他には、殆んど、人工物が無かった事になる。
其れに、テレビが持ち込まれたのは、父親が死んだ時で、知り合いが「寂しいだろう」と言って、持って来たのが初めてだから、17歳まではテレビは無かったのである。
其れに、トランジスタ・ラジオを父親が買って来て、音楽を聴いたのも、其の1〜2年前なので、殆んど、人工的な音にも無縁だったと言えるだろう。
だから、現在の人間社会では考えられない程の、静寂の中に、私の子供時代は在ったのである。
今朝の私の意識は、子供時代に、母親の背中におんぶされ、周囲の植物の枝葉の形を、認識し始めた頃にまで、遡っていたのではないだろうか。
其処には、もう人間の言葉が無く、文字も無いので、神や仏の認識も、無い世界である。
私は遂に、知識の無い、元の世界に還り着いたのである。
確かに、今日の私の意識は、物事の判断が出来ない処に、落ち込んでいる。
だからと言って、何かの、不安や悩みがある分けではない。
是が、老子の謂う「道の実行者・愚人」の状態なのだろうか。
そうであれば、私は一切のカルマ・業が消え、無垢の人間に、成ったと言えるのかも知れない。
だとすれば、22年前に私に起きた、4311霊体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」も、全部片付いたと言う事に成る。
もう、霊界人や、神々の相手もしなくてよく成り、自由な自分に、還れるのであろうか。
後は、全てが抜けきった、脱力感との戦いが、残っているだけなのかも知れない。
それとも、完全な三次元での活動に、入る事に成るのだろうか。
どうやら、屋久島は梅雨も上がり、夏の強い日差しが照り付ける日々が、訪れようとしている。
何もメッセージが来なく成れば、暑い日は、直ぐ近くの中橋川で水浴びをし、木陰で、昼寝三昧の毎日を過ごす事が出来るのだが、果たしてそう旨く行くのだろうか。
神々が、是までの、支援の元を取り戻そうと考えているのなら、是からが、本番と言うことに成り、私は扱き使われる事に成るやも知れない。
しかし、木々の梢や葉の形しか映らなく成った、私の意識を、是から、神がどの様に使い回すのか、私自身には分からない。
そう成る迄でも、惟 ボーとして、老子の謂う「愚人」を、楽しまなければならないだろう。
平成18年7月11日
礒邉自適
2006/7/9
遺伝子存続の手助け
18・7・9
今朝の映像は、今までのメッセージの中でも、究極の内容だと想われる。
始めに、私が過去の情報を思い出して、記憶装置に送り込んでも、カラーで断片的に映像が記憶されているだけで、其の映像には、意味も言葉も音も付いていなかった。
何度、記憶仕直してもそうなのである。
どうしてだろうと思っていると、知り合いの「石垣雅設氏」が現れて、私を連れ出した。
私が、何処に行くのだろうと意いながら後を付いて行くと、其処には壁が在り、私は其の壁を塗る為の道具を渡された。其れは、白い色のペンキの様な物である。
其の壁は緑の色で、其処には、更に色の濃い緑色で、絵文字の様なものが書かれている。
どうやら、其の書かれている物の上に、白いペンキを塗って、前に書かれている内容を、消してしまわなければ成らないらしいのである。
私が、其の壁に向かい、白い色を塗り始めると、壁の左側の端は50p程綺麗な緑色のままで、下から上まで、余計な物が書かれていないのである。
私は、其の部分には、色を塗ってはいけないような気がして、誰かに尋ねる為に、壁の左側から、建物の奥の広間の方に入って行った。
すると其処では、10名程の女性達が、演劇の稽古をして居た。
私が、其の女性達に向かい、「左側の綺麗な部分にも 塗るのか?」と尋ねると、奥の方に居たリーダーらしき女性が「其の部分は 元の侭だから 塗らないでも良い。」と、答えた。
私は、其の答えを聞いて、其の部分は、生命の根本データが、記録されている部分であることが解った。
どうやら、私が色を塗っている部分は、是まで、男性が様々な情報を書き込んだ部分だった様である。
其の壁全体の幅は、3m程あるので、6分の1程は、雌の基本的な情報が記憶されている部分であり、6分の5は、後に雄が集めた情報が、書き込まれている部分らしいのだ。
どうやら、雌の基本的情報の部分だけを残して、男性が集めた情報は、全て、新しいモノに組み替えなければ成らないらしい。
私は、其の女性達が、何の為に演劇の稽古をしているのかと意うと、飛行場の様な景色が映り、其処に一機の旅客機が止まっている。
そして、其の旅客機には、女性だけが乗り込んでいた。
見ていると、乗り込んだ女性達は、皆カプセルみたいな容器の中に、頭を尾翼の方に向けて、横になっている。
どうやら、頭を、飛ぶ方向の後ろに向けているらしい。
其の意味は、女性の生命遺伝子は、意識を過去の方に置いて、足を未来側に向けているらしいのだ。
其れは、女性の遺伝子は、過去の情報を、正確に維持する事が重要であるらしい。
其の事から、理解出来る事は、女性は一番大事な、基本的な情報を護りながら、男性に、新しい情報を組み込む事を任せているらしい。
其の理を考えると、男性が、未来の情報を組み込まないかぎり、生命の進化は無いと言う事に成る。
道理で、私に、女神達が、未来の事を組み込めと、盛んに言って来るのだ。
今朝、私が、過去の情報を記憶しようとしても、断片的にしか、映像が記憶されないのは、基本的な土台の部分が、女性側に「生命ソフト」が在るからなのだ。
我々男性は、新しい情報を得たら、其の情報を女性側に渡し、女性の生命ソフトに組み込んで、繋いで貰わなければ成らないのだ。
男性の生命遺伝子情報は、途切れ途切れに成っているのだ。其れが、雌雄の生命のシステムなのである。
男性の意識が未来に向かうのは、其の生命システムの所為なのだ。
男の性は、過去の方角に足を向け、出来るだけ、未来に向けて背伸びをしようとしているのである。
何故なら、他よりも先に、新しい情報を手に入れなければ、雌に受け入れて貰えないからである。
何の事はない、男性は、女性の補助的存在にしか過ぎないのだ。
だからこそ、男性は、「俺が。俺が。」の意識が働いて、雌にアピールをするしか、能が無いのである。
其の理が解れば、男性のエゴこそ、生命の存続を繋ぐ原動力だと言う事になる。男性は、自信を持って、自分のエゴを強調すれば良いのである。
問題は、女性側の判断基準にあるのだ。
彼氏との約束を護るか、ダイヤモンドに目が眩むかは、女性の永遠のテーマなのである。
ダイヤモンドに目が眩んだ女性は、6分の5の情報が、正しくインプット出来ない可能性が高く成るだけである。
其れは、女性の自己責任であり、男性には、関係が無いことなのだ。
男性は、あの手この手を使って、自分の存在を売り込むのが本能だから、男性側には、罪は無いのだ。
私だって、こうして言い逃れをしながら、自己アピールを続けているのである。
今朝の壁は、石垣雅設氏が案内したので、石の壁であり、人間の脳波に拠る情報は、花崗岩の岩に記憶されているとの意味ではないだろうか。
そして、正しい情報に塗り替えられれば、雅・みやびが建設されるとの意味だろう。「石垣雅設」とは、目出度い名前だったのだ。
平成18年7月9日
礒邉自適
2006/7/8
生命の本質
18・7・8
今日は、目が疲れて来たのでソファーで休んでいると、行き成り緑色の世界が現れ、其の中から、子供を生み育てる女性の姿が、パワフルな感じで立ち現れて来た。
其れは、人間の女性の様に感じたが、人間だけの生命力と言うものではなく、生命全体の、根本エネルギーと言える様なものであった。
何故かと云えば、其れは、人間の顔形が定かであったのではなく、生物界全体の、雌の本質的なものが、立ち現れて来た様なものだったからである。
其のエネルギー体から、私が感じ取った事は、人類は、地球生命の本質から少し外れた世界を、暴走しているのではないかと言うことである。
例えば、蝶や、虫や、小鳥は、植物界の受粉を助け、種子を運ぶ役割を果たしている。其れは、植物が、自分の為に、其れ等を養っているかの様な、感じが有るからである。
猿や、象でさえ、其の延長線に位置し、種子を運ぶ役割を失ってはいない。
処が人間だけは、種子を砕いたり、煮炊きしたりして、殆ど、種子を運ぶ役割を放棄してしまっている。
人間は、自分の為に、植物や動物を改良してしまい、自然の中では生きて行けない物に、変えてしまっているのである。
それらの事は、別の事として、生命の本質の処に話題を戻すと、我々人間は、言葉や文字を開発し、情報社会を創り出した為に、自然界の法則から外れてしまい、独自の世界を生きてしまっている様に、感じてしまうのである。
其れを、進化だと捉え、正しきコトだと考えて、果たして良いものなのだろうか。
其の、自然界の生命と、人間社会との間にこそ、神の世界が在るように、私は感じるのである。
神の存在が、人間の思考から消え去るトキは、自然界の生命と、人間の存在が、完全に分離してしまうトキなのかも知れない。
果たして、そう成ったトキ、人間は地球生命としての、魂しいを維持しているのだろうか。
其の時には、花が美しいと感じたり、虫の声から季節を感じるとかの、情緒を失っているのではないだろうか。
今日、私の瞼に写って来たものは、私自身の中に、未だ植物の記憶が残っていて、其の生命の力が、最後の力を振り絞って、助けを呼んで来たのではないだろうか。
若しかしたら、私の目の奥に残っている視覚神経の一部が、危機感を覚え、目覚めたのかも知れない。
何故なら、目が正常なトキなら、意識が、視覚神経の一番元までは、還り着かないからである。私の視覚神経は、今 危機的状況に陥り、最後の防波堤を開いてしまったのだ。
其の防波堤の向こうには、人間の思考を超えた、別の世界が在るのかも知れない。若しかしたら、電子顕微鏡を使わないでも、遺伝子の世界が、視覚の中に浮かび上がって来るのではないだろうか。
30億年前に組み上がったDNAこそ、緑の色素の始まりである。
私は、其の緑色の世界に、扉を開けて侵入してしまったのだ。
何事も、プラス思考で進んで行けば、自分の未だ知らない世界が、認識されるかもしれない。
多分、其の先には、神も仏も存在しない、純粋な生命の世界が、存在する事だろう。
平成18年7月8日
礒邉自適
2006/6/17
顔が重たい
18・6・17
今朝の映像は、私にとっても、思い掛けないものだった。
其の内容を、一口で簡単に言えば「人間の顔は 蛋白質と脂肪が DNAの情報と 環境から 受ける情報とで 毎日変化している。」となるだろうか。
それは、今朝の映像に、天麩羅油で作った手作り石鹸に、豆腐が混ぜられている様な物が現れ、其の塊の中に、人間のマスクを埋めていたからである。
今朝の映像の元は、昨日の夕食で、揚げ豆腐を、茄子と一緒に油で炒めて、食べた所為からも知れない。
其の油が、大豆油であれば、大豆蛋白を、大豆油で炒めて食べた事に成り、大豆の遺伝子の情報が、私の意識に作用したものと考えられる。
今朝の映像には、石鹸の様な白い塊が現れて、其の塊に、人間のデス・マスクの様な物を、埋め込む作業をしていた。
私は、其の作業を簡単に考えて、其の白い40センチ角程の塊の中を、早々と削り取り、其の中に、人の顔の面を埋め込んで見た。
すると、深く掘り過ぎていた為に、其のマスクは、中にスッポリ入り込んでしまい、外から見えなく成ってしまい、面の役目をしない物と成ってしまった。
其れは、頼まれた形には、成っていない物である。
大事な人の顔と言う物を、誰にでも見える様に、制作しなければ成らない物が、顔形が中に埋没してしまった為に、役に立たなく成ってしまったのである。
次の映像は、紫の衣を着た女神が現れ、手に、弓と矢の様な物を持ち、両手を横に広げて回転を始めた。
其の回転は、先ず左に二度回り、今度は逆に右に一回転するものであった。
そして、其の女神の姿を視た後、何故か、私の顔が重たく成った。
其れは、私が、鎌倉の大仏さんの様に座り、少し俯き加減に、瞑目しているからだった。
私は、不思議と、穏やかな感情では居るのだが、自分の顔の細胞が蠢いて、常に変化しているのである。
其れは、自分の顔が、全宇宙の森羅万象の変化を、表現しているかの様であった。
其れは、まるで宇宙の在り様が、私の顔に、映り込んでいるかの様な感覚である。
私は、同じ風に、俯いた顔を持つ鎌倉大仏の様に、自分の顔に、時空の変化を観じていたのである。
すると、昨日「中山博さん」から送られて来た絵の、赤い鳥居と、沢山の短冊が付いた竹は、私の、其の表情の入り口である事が、理解されて来た。
赤い鳥居は、其の顔の入り口で、沢山の五色の短冊に書かれた祈りが、私の顔の表情を、変化させているのである。
今朝の映像は、どうやら中山さんのお筆先と、繋がっている様である。
赤い鳥居の色は、愛染明王の色の「赤・ラーガ」を意味しており、短冊は、愛染明王の色染めの意味を現しているのだ。
愛染明王は、此の世の色(森羅万象)の情報管理を、意味しているのではないだろうか。
HP・愛染明王・参照 金剛薩タ定一切諸佛母
「すべての世界で この明王を越えることができない。この明王の名は 金剛王の中で最高である。金剛薩タは、すべての仏の母であると定めました。」
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/aizennZ.htm
それと、左に二回転したのは、現状の時間を、過去に二周還しておいて、一回右に戻れば、先に行き過ぎたカルマ(人間の業)を、中和する事になる。
是も、中山さんのお筆先に出ている。
そして、其の愛染明王は、手に弓矢を持っているのである。
今回、大山祇神の祭りが行なわれた、麦生地区の神社は「弓矢八幡」である。
そして、中山さんに、次の日の朝出て来た神社の御神体の石は、「矢筈岬の矢筈八幡」で、其の日の朝の大分地震の震源地は「弓袋女・いぶめ」と言う地名で、私の生まれた所は「矢本岳」である。
何故か、大山祇神の神事なのに「弓矢」が絡んでいるのだ。
其れに付いて、考えられる事は、「トキの始まり」のトキの文字が、紀元の「紀」であった事がヒントになっていると想われる。
今月2日には、「宮崎続鵬」と文字のメッセージが来て、天から白い洗浄剤が撒かれる様子も出て来ている。
其れは、神武天皇の国造りの紀元を意味しているのだと考えられる。
神武天皇が、国を治めるに当っては、金色の鳶が、神武の手にする「弓」に止まった事が、伝説として伝わっている。
それ等の事柄に、意味が繋がっているのだろう。
今朝のメッセージは、ただ単に、新しい国造りの事だけではなく、人間の存在原因の、深い処が知らされて来ているものに思える。
人間の身体は、蛋白質が、DNAの情報に因って、組み上がっている物である。其れに、脂肪が、炭水化物や澱粉と絡んで、カロリーと成って動きを支えている。
だから、今朝の映像は、其の蛋白質や脂肪の塊が、人間の顔を構成している理を、伝えて来ているのだ。
其れは、人間の顔の表情が、遺伝子の情報と、人間が感情的に取り込む情報(六根)に因って、絶えず変化している理・ことを示唆して来ている。
更に、其の背景には、時間を管理する者が存在し、宇宙のエネルギーを管理する事で、森羅万象の物の形質までコントロールし、物質を管理運営し、環境を整え、人間の意識も操っている理・ことを示して来ている。
我々は、自分の意識は、自分自身で造り込んでいると想っているが、本当の処ではそうではなく、其の様に、意識が組み込まれる為に、管理されているのである。
其れを、古代から、神の名や、仏像の形として、伝え残して来たのである。
其の量が、余りにも多く成り、整理出来なくなり、意味も解らなく成ったが為に、皆が情報の海に溺れ、無明の闇に覆われてしまったのである。
古代の人々は、其の危険性を能く知っていたので、禊ぎ祓いの方法を考え出したのである。
今朝は、蛋白質・脂肪 =DNA =情報 =短冊 =赤い鳥居 =愛染明王=(キュウピット)=色紙 =短冊 =祈り(ハート)=弓矢 =文字 =七夕 =天の川 =宇宙 =脳 =大豆 =蛋白質 = と、一連の意味が、意識に流れ込んで来た。
其の意識の流れを、二度左に回し、一回右巻きに巻き返せば、丁度良い時間(イザナギ)と、空間(イザナミ)の次元に、落ち着くのである。
先ほど、中山さんから電話が有り、赤い鳥居と七夕の短冊は、自分の顔(意識)の入り口だと云って、お互いに大笑いをした。
インドの釈迦牟尼佛は、32相81種の顔をして居たと、伝えられている。
私は、中山さんと電話で話しながら、重たかった顔が軽く成って居る。
しかし、お釈迦さんは、話し相手が居なくて、重い顔のまま、俯いて居たのではないだろうか。
鎌倉の大仏さんも、顔を上に向けて、笑って居る顔に、造り変えるべき時節が来ているのではないだろうか。
平成18年6月17日
礒邉自適
2006/5/31
小学校の先生
18・5・31
今日は、また一年振りに、屋久島の神山小学校五年生に、漢字の話しをしに行って来た。
今年で三年連続となり 毎年、当てにされる様に成ってきた。
何故か、私の方が、純真な子供達に触れていると、楽しく成って来る。
それは 子供達の清い魂しいに触れる事で、私の方が癒されるからだろう。
私の漢字の話しは 象形文字にて、水の循環道理に進めるので、国語の時間と、理科の時間が、同じに成ってしまうのである。
今日は、私の次の時間は 環境省から女性が二人来て、水の話だった。
地球全体の水を、3000CCだとすると、人間が飲める水は、ただの一滴だそうである。其の水の大切さを、教えに来ていたのである。
私の、次の予定は、今月7日と8日に、現場での体験学習である。
7日の午前中は、世界遺産の森で、森と動物の説明。
午後は、海岸のタイト-プールで海の説明。
夜には、夕食作りの火の焚き方と、星空監察である。
8日は 竹を使って笛作りの工作と、川でのカヌー体験がある。
子供達と接触して居ると、時空が、未来へと繋がっている事が、実感出来て、やる気が沸いて来るから、不思議である
「自然と子供達」http://green.ap.teacup.com/20060819/
平成18年5月31日
礒邉自適
2006/5/21
純化
18・5・21
今朝のメッセージは、是までの総括の様なのだが、私にとっても始めての世界ばかりで、他人の言葉の引用も出来ないし、文章にするのは難しい。
しかし、明日の為に、理解出来る部分から、言語化しなければ成らないだろう。
昨夜、深い眠りに入る前に、「純化」との言葉と、もう一つ何かの単語があったのだが、其れは思い出せない。
【純化】@まじりけをなくすこと。純粋なものにすること。
A複雑なものを単純にすること。 広辞苑
その後、眠って、意識に送られて来た映像は、「日高昇さん」と言う方の車が出て来て、其の車を塗装し直さなければならない様子が映されて来た。
其の車は、黒い乗用車で、ボンネットの上の塗装が日焼けして、無数に小さな穴が開いており、黒い塗装の下地が鈍い金色で見えている。その車を、元の真黒の色に塗り直さなければ成らないらしいのである。
日高昇とは、屋久島に実在している方だが、本人とは全く関係が無く、其の名前自体に意味が有るのだろう。其のまま読めば、「日が高く昇る」である。
日本には、日高見の国と言う地名が各地にあるし、日向の名も有る。
其の概念から、日本の国名は「大和・倭」から「日ノ本」に成ったのであろう。其の事から考えれば、日高昇とは「日本から日が高く昇る」との意味である。
其の為には、混じりけの無い黒い色を、対象にしなさいと言うことである。
其れは、太陽や、月や、星の光りがなければ、地球は真っ暗な宇宙空間の中に浮かんでいるだけで、真っ暗な闇の世界こそ、真実だとの意味を現して来ている。
太陽が無ければ、光りの世界は無いので、此の宇宙は、ただの真の闇で、黒であり、色は全く無いのである。
色が無ければ、物は見えないので、人間の意識も全く無いのである。
人間の意識は、太陽の光りが存在する事で生じているのだ。
だから、真の宇宙の色である黒一色を認識して、其の黒を、絶えず意識して居れば、此の三次元世界の、全てが理解されて来るのである。
其の、黒一色の世界を認識する事が、「純化」の言葉の意味であろう。
黒一色を、瞼に浮かぶ色とすれば、意識は、根源の処に還り着き、全ての欲望や執着がなく成り、意識が安定する。
其の、無の黒色が視える様に成れば、自律神経が正常に働き始め、全てのストレスが外れて癒しが訪れるだろう。
其の無の状態から目を開けて、此の地球の自然を観れば、此の世界がどれだけ素晴らしいかが理解できるのである。
其れが「色即是空・空即是色」の教訓なのだ。
其の教えが、本当に理解されれば、感謝の念は、自から湧き上がって来るのである。
其の、宇宙が無色である理の認識が起き、更に、此の世界の存在意味が理解出来た者達が、日本から立ち上がるのである。
其れは、日本の皇室が、長く護り継いで来た伝統でもある。
「天皇・すめらのみこと」とは、一切の所有を離れ、宇宙開闢の闇の中に、座していなければ成らないのだ。其れが、本来の「スメミマ」の働き・役目なのである。
闇の中に身を置いてこそ、太陽のコントロールが出来るのである。
其れが、天照神が逃げ込む事が可能な、岩戸の世界であり、親神の「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」が存在している世界なのだ。
其の日本の伝統が、是から世界に伝えられ、新しい世界が創造され、人間の意識が塗り直されるとのことであろう。
ようやく矢追日聖氏に伝えられた、新しい神の世界が、創造される時節が到来したのである。
「正傳矢追日聖」http://moon.ap.teacup.com/20061108/568.html
其れは、政治的な祭り事の世界のメッセージであるが、今朝は、其の後に、更に深い内容の映像が送られて来た。
其れは、私の居る直ぐ右横に、大きな赤い縞模様の大蛇が居て、私の方に頭を持ち上げて、口を開けているのである。
私は、大きなマムシだと意い、慌てて立ち上がり、其処から離れた。そして振り返って其の蛇を見ると、其の蛇は、研究所の建物の中に飼われているもので、近くに、其の蛇に付いての説明書きが有るのが判かった。
私は、人間に飼われている蛇だと判ったので、少し安心して、また其の蛇に近付き、説明書きを読んで見た。すると其の蛇は、森の中の粘菌を採取して来て培養し、新しい姿に改良した物で、人間の技術で造り出した物である事が判かった。
粘菌は未だ、動物なのか、植物なのかの分類が出来ていない生物である。と言うことは、まだ粘菌は、動物と植物の中間の位置に存在する生物なので、人間の意識の中でも、其の存在が認識し易いのであろう。
人間の無意識の世界では、其の粘菌の意識が、根本の処に働いているとの理・ことである。
其の、蛇に関する様子が理解できたら、其の蛇が動き出し、建物から這い出して森の中に帰って行った。
私が、其の後を付けて行くと、其の蛇は、長さが縮んで幅が広がり、大きなナメクジの様な姿に成って、深い森の中に還って行った。
私は、そのナメクジが消えて行った森の中を見ていて、先日の霊夢の場面を思い出していた。
海に潜って行き、更に深い森の中をさ迷って居た自分は、此の生き物の魂しいだったことを理解した。
其れは、森の中に住む神の姿だったのである。
神社で唱える、大祓い祝詞に出てくる「高き山 低き山の 草草の陰に住む神」とは、此の神の姿だったのだ。その神の姿こそ、奈良県の三輪神社の御神山・三室山に住む蛇の神なのである。
其れが、南米まで伝わって「ククルカーン」の大蛇と成ったのである。
ククルカーンが、8段のピラミットの階段から這い降りて、地面に顎を着け、口を開けている形こそ「大山祇神・大物主・コンピラ・クンピラ」の姿なのである。
そして、其の頭と首の付け根だけを、魂の住まいとしたのが、前方後円墳の形であり、ピラミットの原形なのである。
其の、山から下りて来る大蛇こそ、水の循環を司るヤマタノオロチなのである。
其のヤマタノオロチは、大陸から海を渡って来た、天津神の素戔鳴尊に退治され、大物主の神の文化は、中央政治の世界から追い出されてしまったのである。
其の天津神のまつりごと・文化を拡げる為に、神楽としてヤマタノオロチ退治の劇が全国に広められたのである。
其の祭り事に、最後まで抵抗を続けた人達が「サンカ・山の民」なのである。
しかし、其の山の神は滅びる事はなく、祖母山や南西諸島などで大綱引きとして伝え残されているのである。
其の七回半トグロを巻くヤマタノオロチは、大山祇神や七枝剣の形として、日本文化の中に伝え残されているのだ。
其の大蛇に、羽根が生やされ、悪魔とされているのは、人間の中に、其の大蛇が住んでいるからである。其の大蛇こそ、自分の内側に何時も住んで居て、涎・ゆだれを流しているのである。
其の涎こそ、大蛇やナメクジが、人間の内側に住んでいる事の証明なのだ。
其の粘液性こそ、生き物の命の原点・源なのである。
其の粘液が、食べた物を溶かして消化を助け、生殖をして、遺伝子を伝え残しているのである。
「龍」の漢字は、「竜の落とし子」に角を着けた姿だが、元字は「虫」の字の原形から始まっている。
龍とは、私達生命が、永いトキを掛けて虫 →蛇 →大蛇 →龍へと育んで来た、意識の産物なのである。
だから龍とは、生き物全体の共有財産であり、智恵の貯蔵庫であり、総合無意識の本体なのである。
私達人類の現在の姿は、其の龍体の鱗として、トキを創造し続けている物なのである。
我々の此の肉体こそ、永遠に宇宙を創造し続けている、龍の身体の一部なのである。
悟るとは、一部の鱗の持ち場から離れて、龍体の意識の中枢には入り込み、龍体の全部のシステムを理解することなのである。其処には、愛とか、慈悲や善悪など、人間が創り出した余計な概念や言葉は一つも無い。
其処では、暗い永遠の無の世界で、「A・エる・アる・有る」の名を付けられた龍が、そのAを維持する為に、孤独な戦いを続けているのである。
其れが、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の本体であり、「阿・あ・A」と名付けられているモノの働きなのである。
其の、無と戦う龍の存在を、支える事が出来るのが、私達人類の存在なのだ。何故なら、我々の此の肉体こそ、其の龍の存在を支えられる思考を持ち、時間を存続させられるからである。
私達の、肉体を構成している意識の塊り自体が、是までの時間帯で生み出された龍の産物なのだ。其れを、我々人間は、龍が管理する球だと想い込み、恐れ慄いているのである。
何の事はない、我々自身の思考こそ、新しい龍が生まれる為の、卵を生産していたのである。
粘菌が造り出す「胎衣・エナ」の中で。
今朝の意識の先達は、南方熊楠だったのではないだろうか。
私自身は、気持ちの悪い粘菌の世界には興味は無い。粘菌の、生体や気持ちが解る人間は、南方熊楠以外に居ないだろう。
彼も、龍の存在を支える働きに功徳しているのだ。
平成18年5月21日
礒邉自適
2006/5/17
生命の源
18・5・17
今朝のメッセージは、宇宙の生命現象の源の始まりを、映像として示して来たモノの様である。
しかし、言葉や文字が一切使われないで、映像の流れだけの場面なので、私の能力では説明仕切れない。
だが、誤解される事は覚悟で、文字化しなくては、明日の神のスケジュールが成り立たないだろうから、取り敢えず文字化する事にする。
文字として残して措けば、後々の道標には成るだろうし、私の脳の記録の引き出しに納まる事にも成るからである。
今朝の映像の内容は、全宇宙に共通する森羅万象の約束事だから、全宇宙の意識が、此の認識に参加しているとの事だろう。
そうであれば、今回のプログラムの為に、全宇宙から参加している意識体も、共同歩調を取るものと考えられる。
本日は、私の四女「翠・みどり」の13歳の誕生日で、彼女も何処の星から来たのか知らないが、自分で名前を持って来た。
今日は、何の日かインターネットで検索すると、次の様にある。
・「生命・きずなの日」日本ドナー家族クラブが制定。生命の大切さ、生命の絆について考える日。
・「世界電気通信記念日」国連の専門機構・国際電気通信連合(ITU)の前進、万国電信連合が発足した1865年5月17日にちなんだもので、ITUが1968年(S43)より実地している。世界中の国とより速く、より正確に連絡をとる手段としての電気通信の普及と理解を深める日。
何故、今日と言う日の意味を記したかと言うと、丁度今朝のメッセージの内容と、今日の日付の意味合いが共通しているからである。
今朝の映像は、「生命の源・絆」に付いてであり、其の情報が、世界に発信されるのは電波に拠ってである。
そして、娘が持って来た名は「翡翠・みどり」である。
翡翠は玉・ギョクで、王の証しとされる物である。愈々新しき「治しめし・みいつ」が発信されるのだ。
今朝の映像は、私が、動物の様に四つん這に成っていた。
其処に、神人が現われ、後ろに立って、私の睾丸を抜き取る場面から始まった。
私は、其の様子に驚いて意識が目覚め、どう言う意味なのかと探っていると、今度は、紫色掛かった真っ黒な世界に、月夜茸が光って現われ、其の親茸から菌が周囲にばら撒かれ、放射線状に子供茸が生えているのが見えた。
其れから場面が変わり、今度は、丸い器の中の液体に、粒子が無限に溶け込んで、静かに攪拌されて行くのが見せられた。
そして、伝わって来た意味は、「雄が 生命情報を 進化させている」との意味合いである。
今朝のメッセージの意味は、宇宙の最前線の意識は、生物の雄の営みに在り、其の雄の意識が、生命の進化を即しているとの理である。
そして其の働きが、神の御手に、一番近い真理であると言う事である。
其の働きが、具体的にハッキリ目に見えるのが茸・きのこの生態であり、動植物の繁殖の基本パタンは「菌・茸」に有るとの理・ことだろう。
茸が、菌をばら撒く為の仕種・しぐさは、其のまま、動物の雄の生殖器に組み込まれているとの事だ。
そして、器の中で掻き回される粒子は、生命全体の情報の攪拌を意味し、其のシステムが、雌の卵巣の中で行われているとの理であろう。
だから、宇宙の存在に一番近い物は、雌の体の中に存在する、卵のシステムなのである。
其の雌の産む卵に、新しい進化の情報を組み込むのが、雄の生理システムなのである。
其れを定義付ければ、宇宙の存在は雌の卵巣に有り、其の進化を即しているのは、雄の睾丸・精巣に有るとの理・ことになる。
此の説明は、フロイトの深層心理の理論を先に進めるものでもある。
そして、昨日からの意識の流れは、レオナルド・ダ・ビンチや、ピカソの、物を見極めようと言う想い・エネルギーに支えられていることが分る。
私の意識は、過去の人達の、思考の最先端に立たされているのだ。
其れは、私が、宇宙の意識の最先端の現象として、ペニスの役割を果たしているコトにも成る。此の男性の意識が、インドのリンガー信仰や、日本の男根信仰を生み出したのだろう。
世界の文化や技術は、総て男が創造したものである。
女性がゼロから生み出したモノは、殆んど無い。言葉も文字も、衣食住の技術や絵画や音楽も、総て、男性が雌を獲得する為に努力した結果の産物である。
特に漢字は、全部男が考え出した物のようで、男遍は無く、女遍は漢語林に載っているだけでも134文字も有り、中国には1000文字も有るらしい。
其れは、男性が女性の動きを見て、創りだしたものである。
好きも、嫌いも、始まりも、皆女偏で、女性の姿を現す象形で出来ている。
其の事からも分るように、総ての進化の歴史は、雄の生命現象で綴られて来ていると言う理・ことである。
其れ等の理に気が付いたのが、釈迦牟尼佛や老子である。
彼らは、其の雄の業から脱出しなければ、雌の本体の様子が見えないし、宇宙の粒子の渦巻きが見えないと、知ったのである。
此の理に気付いた彼らは、其れに「ダルマ・法」とか「タオ・道」の名を与えたのだ。
しかし、今朝の三つの場面の映像に、与える名が、私には未だ見つからない。
今朝送られて来た映像で、重要な件は、昨日の横に並んだ三つの画面に対して、今朝の場面は奥行きを与え、世界を立体化させるものである。
月夜茸は、中央のスサノオの世界に重なり、攪拌されている器の中の粒子は、宇宙の渦を現しているから、宇宙の根源であるので、一番手前の源・みなもとの現象を意味している。
そして、尻に着いているキン・菌の玉は、情報を採集する先発隊であり、情報をばら撒く先鋭隊でもあるので、一番向こう側の鼻先の世界だから、昨日の横の仕組みに対して、縦の世界が組み合わされた事に成り、是で十字の形(左右と前後)が出来た事に成るのではないだろうか。
今朝は、此の三つの場面の後、午前1時頃一度起きて、お茶をのんでから又寝たら、明け方に続きが有り「不動明王」が現われたので、其れはページを替えて書くことにする。
平成18年5月17日
礒邉自適
2006/5/15
カミ(上下)は 横に成った
18・5・15
人類は、立ち上がる前はイモリだった。
イモリは、沼の草陰に隠れて住んでいたが、やがて沼から這い出て、9000万年前には前足を棄てて、蛇に成った。
或るイモリは、姿を大きくし鰐に成った。
そして或るイモリは立ち上がり、後ろ足を大きくして、猿と成った(6500万年前)。
其の猿の一部は、700万年前に、人の様に立って歩き始めた。
其の為に、意識は、前から上に移動してしまったのだ。
今朝、其の意識は、元に戻った。
佛・ブッダに成るとは、其の手足の動きを止めて、イモリの次元まで「還る・イノる」事なのだ。
其の為に、釈迦牟尼佛も「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」も水浴びをし、イエスは水浴びの後、岩場に行って「石龍子・トカゲ」の意識に戻ったのだ。
イエスが何故、逮捕される前日の夜に、波動の良い弟子二人を連れて山に向かい、二人に起きているように告げ、一人離れて、岩の側で祈って居たのか、其の映像をイメージすれば、其の世界が能く理解出来る。
何故、中国の「道・タオ」のマークが二匹のトカゲで、エジプトの神官の杖が二匹の蛇なのか、総ての答えは今朝、其の姿を現し、新しい世界に歩き始める為に、首を左右に振り、舌をペロペロ出して、風や匂いを捉え始めた。
人間が、長い間探し求めていた物が、其の影を映し出して来たのだ。
人間の意識の中の神は、上下から左右の働きに変わり、左(闇)ツキヨミ、中(水)スサノオ、右(日)の画面と成ったのである。
宇宙は、氣のエナジーから水を生み出し、水の渦を興し、龍としてトグロを巻き始めたのだ。
其のトグロが、吐き出した物が、宇宙の銀河である。
其のトグロの意識は姿を変え、ミネラルの集合体として、イモリの姿をとって生長を続けて来たのである。
其のイモリの目的は「あるく・すすむ・継続」である。
其れが、天津日嗣の真意である。
其れ以外には、何も無いのだ。
「鶴は千年 亀は万年」其の言葉こそが、命の最前線を表す言霊である。
たった、其れだけの真実の為に、どれだけの無駄なエネルギーが、使われたものか。
其れは、人間の大脳が暴走を続けたからである。
釈迦牟尼佛や、老子やイエスキリストが、ブレーキを掛けたが、余りにもエンジンの力が強く、ブレーキが利かなかった。
しかし、其のエンジンも、漸くオーバーホールが必要な時期を、迎えたのである。
二匹の蛇は、漸く元の安らぎを向かえて絡み合い、次世代の卵を産む段取りに入ったのである。
そして、杖の鳥は、真っ白き翼を拡げ、新しい世界に飛び立って行くのである。
平成18年5月15日
礒邉自適
1 2 3 4 5 | 《前のページ |
次のページ》