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このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2006/8/5
「平素」
言葉・文字
平素
18・8・5
今朝のメッセージは、昨日の「神籬・ひもろぎ」「磐境・いわさか」の儀式の所為か、光りの中に「赤軸 譲り葉」の枝が、一枝美しき姿で現れた。
其れは、「天津日嗣・あまつひつぎ」が、正しく譲られた理・ことを告げて来たのだろう。
天皇陛下の、代替わりの時だけに行われる「大嘗祭・おおにえのまつり・だいじょうさい」は、「大譲祭・だいじょうさい」の意味を兼ねている。
其の「譲る」意味と、正月の鏡餅や門松に使うユズリハの枝は、橙との組み合わせで「代々 正しく譲られる」の意味を表し、人間の祈りの原点を現しているものである。
今朝のメッセージは、諸々の事柄が正しく委譲された事を、神が知らせて来たのだ。私はどうやら、無事に役割を果たしたようである。
1984年6月4日に、紫陽花の花が一枝現実世界に届けられてから、22年が経過し、ようやく譲り葉が届けられ、一連の作業が終了した感がある。
やはり、言葉よりは、物がハッキリ現れた方が、納得出来るものがある。
其の譲り葉の枝の後に、「平素」の言葉が出て来て、「平素の心がけ」とかの「平素 なに なに」の単語が幾つかある事が告げられ、其の「平素・・・」を紐解くように告げられて来た。
今「平素」を漢語林で調べて見ると、「平」は、水面に水草が浮いている形の象形で「たいら・ひらたい」の意味で、「素」は「繭から糸を巻き取る」形の象形で、「白い モトのままの糸。」の意味である。
平素とは「元の侭で 何事も無く 平らかで在る。」との意味のようである。
今朝は、私に「是からは 平素で在りなさい。」と告げて来たのだろうか。
其れは逆に、是から色々様々な事が起きるので、「絶えず 平常心で在りなさい」と、告げて来ているのかも知れない。
大体、私の是までの体験から、神々の遣り口も見えて来た。
何かを示して来る時は、次ぎの段取りが出来ている時である。
次に起きる事の為に、私に、平常心で居ろと告げているのだろう。
其の自覚の為に、「平素」の言葉を送り着けて来たのだ。
其の事を、気にし出したら眠れなく成ったので、2時頃屋外に出て見た。
すると、空は見渡す限り満天の星である。
暫らく星空を観た後、再びベッドに横に成って寝て居ると、昨日と同じく4時頃から、雷が激しく鳴り始め、やがて雨が降って来た。
其の雨音を聞きながら眠ったら、再び映像が映り出されて来た。
其の映像は、男性が訪ねて来て、私に地図を見せて、開発に協力してくれと盛んに頼むのである。
私は、もう不動産業には興味が無いので、その場から離れようとするのだが、其の御仁は、私に関係がある所だと言う。
仕方が無いので、私が其の地図を見ると、地名が磯辺で、其れは、私の故郷に関係が有るらしい。
私が、其の地図を、もう一度良く見ると、其れは東南アジアの地図で、マレーシア半島から、インドネシアの島々が、載っているのが判った。
どうやら其の御仁は、「東南アジアの開発に 力を貸して下さい」と頼みに来たらしい。
其の50歳代の男性が、誰だかは判からない。
そんな事を話して居る処に、船が迎えに来たと云う。
見ると、私の居る高殿の下に、大きなクルーザーが着いた。
下を覗いてみると、五階だてに成っているマストの最上部が、私の居る立場と同じ高さに成っているのである。
私も、船を所有していた事があるので興味を示し、船に渡って、船室を見て回っていると、エンジンが掛かり船が動き出したので、慌てて外に出て、船がUターンしている時に、桟橋に飛び降りた。
しかし、何時の間にか、私の腰にロープが括られていて、其のロープの端は、船のとも綱を括る所に、括り付けられている。
私はロープを解く事が出来ずに、其の侭、向こう岸に着くまで引かれて行った。
どうやら、メッセージの内容からすると、東南アジアに行くのを断わる事が出来ない様に成っているらしい。
西川氏も、私を、タイ国に連れて行きたがっているし、私の知り合いの服を造る「うさと君」も、タイのチェンマイに住んでいる。
其れに、孔紀氏もインドネシアに、私に会わせたい人が居ると云っていた。
どうやら、私が是まで体験した事が、東南アジアに行けば役に立つらしい。
其れに、其方に、私のソウル・ルーツも在るようである。
何かしら、能く分からない部分はあるが、日本では認められない私の概念が、東南アジアに行けば、理解されるのかも知れない。
1万年前の氷河期には、海水が今より100m以上も下がっていたので、インドネシア付近の島々は、大きな大陸であり、多くの人々が住んでおり、温暖化で海水が上昇を始めたので、其の人々は、世界中に散って行ったのである。
其の民族の言葉がマレー語で、現在、日本・韓国・中国・アセアン地域・セイロンまで広がって残っていると言う。
其れは、黒潮に乗って、日本列島を経由して、南米にまで拡がっているのである。
同じ言葉がある所には、同じDNAの人間が存在し、同じ文化が伝えられているのである。
其の文化の流れを辿る事が、今後の、私のライフ・スタイルに成るのではないだろうか。
これから、愈々世界への旅が始まるのだろうか。
私には、守るべき個人的な物は、一切何も無い。だから、今日からでも、旅に出る事が出来る。
現在、私が行っている事は、携帯電話と、ノート型パソコンが一台有れば、出来る事である。
愈々、世界中の「大山祇神」と「海神」に会いに行かなければ成らないのだろうか。
言葉の流れを辿って行けば、神と人間の繋がりが、深く理解出来、言葉の力で、未来世界を創造する事が、出来るかも知れない。
昨日判明した、調和の「調」の漢字の意味が、「言葉に神経が行き届く、ととのう・やわらぐ。」だから、言葉が隅々まで行き届けば、世界の調和が計られ「しらべ・ひびき」が整うと言う事に成る。
其れこそ、「伊邪那岐・いざなぎ・イザ凪」と「伊邪那美・いざなみ・イザ波」の言葉の、語源の世界なのではないだろうか。
古い言葉が、正しく再生され、放たれる時、古代の神々が皆復活して来るのである。
それが、英語の「リリジョンreligion」の本来の意味で、神々と再び結ばれる時代が、近付いていると言う事なのだ。
新しい世界を創るのにも、やはり古い言葉の呪文が、必要だったのである。
私の「ネバー・エンディング・ストーリー」は、未だ続いて行くのだ。
「アウト・オン・ア・リム」として・・・。
平成18年8月5日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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2006/7/24
「言葉の元」
言葉・文字
言葉の元
18・7・24
昨日は、事象にとって、ひとつの区切りの日であったようである。
昨日は、過去の文章の中から、花崗岩の山に関係が有るものを選んで「雲母運営委員会」のHPに入力していたら、今年の2月26日の文章に「6月22から7月23日までが大事。」との、メッセージが有った事を書いてあった。
昨日は、其の期限の7月23日でもあったのだ。
昨日は、神界からも、黒いカバンが届けられ、其の内容らしき物も、今朝幾つか見せられた。
其れは、人間の意識の基本と成っている世界で、未だ、言葉が言葉として、組み立てられていない世界である。
其れは、動物界の世界と、現代人類の中間の世界で、未だ物事に、意味・名が与えられていない世界だ。
其の世界を、少し説明すると、渡り鳥は海・山・川の名も知らないし、春・夏・秋・冬の季節の理・ことわりも知らない。
しかし、何万年も生命を繋ぎ、間違うこと無く、旅を続けている。
其れは、名や言葉は無くても、物事の認識は、正しく行われている理を証明しているのである。
海を、海として、言葉で意味付けしなくても、海である事の認識は、チャント出来ているのだ。
今朝のメッセージは、人類の言語を「根本の処から 組み立て直せ」との内容のようである。
現在の言葉は、もう未来社会の人間の脳に、合わないらしいのだ。
其の、新しい言葉の世界は、森羅万象の存在と、人間の意識が同調し、一切の無駄が省かれ、人間の想いと森羅万象の流転が、同じ次元で、流れる様に成ると言う事である。
其れは、弘法大師空海が説いていた「真言・マントラ」の世界である。
其の世界は、「大日如来・ビルシャナ」の意識と、人間の意識が同じに成り、人間の言葉が正しく使用され、宇宙意識と、人間の意識の間に、ずれが無く成る事を意味する。
大日如来とは「宇宙の真理の本体」との意味で、この宇宙のあらゆる物質は大日如来の身であり、其の身には、意志があるとの考えである。
だから、其の一部である人間にも、其の同じ意志があるので、人間の言葉は、宇宙の意志の現れであると、言う事に成るのである。
今朝の映像は、物の形が写された写真に、直接、日本語や英語の単語が書き込まれていた。
其れは、物事と、人間の意識が、強く結び付く次元を、意味しているのだろう。
現在、パソコンや携帯電話の文字に、絵文字が使用されているが、其れも公認される事に成ったとの事である。
其れは、未来社会の文字の在り様を、示唆しているとも言える現象である。
近い将来、漢字の象形文字が、絵文字として、世界の共通文字と成るだろう。何故なら、物の形こそ、万物に共通の認識データであり、情報の伝達に食い違いの無い世界であるからである。
リンゴの絵は、何処に送られても、リンゴの絵の侭であるのだから。
今朝の映像は、其の、万物の存在の土台の所に、大きな螺旋の渦巻きが在った。
其れは、質量を生み出してくる渦ではなく、質量を吸い込む方の渦で、ブラックホールに類するものだろう。
其の、吸い込み側の渦の意味は、言葉の認識が薄い者は、存在する事から零れ落ちて、無の世界に、回収されて行くとの意味だろう。
これから、宇宙の次元が再編される時、物事に対して認識力の弱い者は、自分の自己管理が出来ないので、生き残る事が出来ないとの意味であろう。
イエスキリストは、最後に磔にされた時に、「天の父よ この者達を許して下さい。この者達は 自分が何をしているのかさえ 分らないのだから。」と、神に頼んでいるが、今回の其れは、人間の数を減らす(地球のバランスを計る)為だから、神に対して頼んでも、効果は無い。
人間の、自助努力だけに掛かっているのである。
生き残る為の努力をしない者は、生き残れないのは、極当たり前の事である。
この宇宙の存在は、認識力の有る人間を育てて、其の魂を収穫する為に在るのだから、質量を無駄にするばかりで、価値の無い者は、回収されるのである。
其れが、老子の謂う「嗇に しくはなし」である。
嗇にしくはなしとは、「天の目的は、生命を育て 良い物だけを収穫する。其れしか 他に目的は何も無い。」との意味である。
次の世に蒔く、良い種が収穫されれば、後は要らないのである。
其の為にこそ、人類に試練が与えられているのである。
其の、収穫された優秀な人間で、新しき人間社会の言葉を、創り出して行くのである。だから、言葉こそ、此の宇宙にとって、一番大事な物なのだ。
旧約聖書に「始めに言葉あり 言葉は神なりき」とあるのも、神の世界にとっては、言葉が一番大事である理・ことを、教えているのである。
言葉は、認識から生じるものである。だから、認識力(自己管理能力)の無い者は、神にとって、必要ないと言うことに成るのだ。
自己認識の出来ない者が、神の存在を認識できる分けがないのである。
今朝の映像は、私の能力では、此の程度にしか、文章化出来ない。
澤山映されて来た、ポストカードみたいな絵画は、是から私が取り組んで行かなければ成らない、文化の世界のヒントとして、与えられた物だと思われる。
神は、次の世界を構築する為に、動き出している様である。
新しき御代を創る為には、其れだけの質量が必要なので、無駄な部分は、分解して回収するのだろう。
其れに対して、私自身が、どうのこうのと言える立場ではない。
私は唯、送られてくる映像を可能な限り、言葉に変えて行く事しか出来ないのである。
其の作業を、預言者の行為と言うのであれば、そうなのかも知れないと想うだけである。
平成18年7月24日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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2006/7/19
「吾は いま 仕合せ」
言葉・文字
吾は いま 仕合せ
18・7・19
吾(わたし)は現在(いま)
しあがる・仕上がっているようだ
しがらみ・柵がほどけ・解
此の世界の しくみ・仕組みが分り
どう生きたら良いかの しかた・仕方が分り
しこと・仕事が出来ているので
神(宇宙)との関係は しあわせ・仕合せ である
其れは 他に対して しいる・強いる事も
しかける・仕掛ける事も
しきる・仕切る事も
しうち・仕打ちをする事も
しこむ・仕込む事も無いので
しくじる・しくじる事も無い世界である
だから おさまる・治まっている
なので 何事も おきない・起き無いし
おこる・怒ることも無いし
おいめ・負い目も無いし
おびえる・怯える事も無いし
もう おくれる・遅れる事も
おしえる・教える事も
おかしい・お変しい事も
おもう・想う事も
おとなう・訪う事も無い
全てを おえた・終えた私には
おもいで・思い出だけが残り
最早 おぼえ・覚えなければならない事も
おりかえす・折り返す事も必要なく
私は 是から 静かに
おいて・老いて行くだけである
「幸・コウ・さいわい・さち・しあわせ」象形。
甲骨文でもわかるように、手かせの象形。執が、手かせにとらえられた人の象形であるのに対して、手かせだけの象形で、さいわいにも手かせにはめられるのを免れて、しあわせの意味を表す。
【字義】「@さいわい。さち。しあわせ。幸福。Aさいわいする。幸福をもたらす。さきわう。Bさいわいにして。運よく。ありがたいことに。Cかわいがる。いつくしむ。Dめぐみ。いつくしみ。Eこいねがう。希望する。Fみゆき。天子の外出。
漢語林
言葉あそび
平成18年7月19日
礒邉自適
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2006/7/6
「雷」
言葉・文字
雷
18・7・6
昨日の文章に、雷の事を書いたら、今朝は雷が凄くて大雨に成って来たので、事務所の電源を全部切って、コンセントも抜き、裏の物置のソフーアに休んでいると、大山高則氏が遣って来て雷の話に成った。
大山高則氏は、10歳の頃、学校帰りに、麦生地区のお墓の所から、雷が大地に落ちるのを見たそうである。
其の雷が落ちた所が、丁度、現在「自適塾」が有る場所で、其の頃には大きな松の木が三本生えていたとの事。
其の雷は、此処の松の木に落ちたモノで、その雷の落ちた木は裂けてしまって枯れたそうである。
事務所から、麦生の墓までは、約3Km程の距離が有るので、其れ程遠くからであれば、雷が落ちるのを監察出来るらしい。
其の雷は、真っ直ぐに稲光で落ちたのではなく、丸い球が出来て、其れが斜め横に稲光を出して其処に移動し、其処で再び丸い球・団子状態に成り、更に斜め横に稲光を出して、其処に移動し、また丸い球に成るのを、四度繰り返した後、地上に落ちたそうである。
私は其の話を聞いて、漢字の雷の象形文字が、丸い団子が三個組み合わさる形なのを思い出し、事務所に入って漢語林で雷の文字を調べると、雨・うかんむりの下に、丸い中に十字が入ったのが四個有り、其の四個を結んでいるのが、稲光の形である事が分かった。
雷は「雨+畾」の組み合わせで、音符の畾・ライは、重なるの意味。いなずまが直線に重ねたように走るさまから、かみなりの意味を表す。
【字義】@かみなり。いかずち。Aかみなりのような。㋐大声の形容。㋑はげしいさまの形容。「迅雷」。㋒はやいさまの形容。㋓威厳のあるさまの形容。
漢語林より
大山氏と、漢語林を見ながら話していると、西川局長が帰って来て、其の話しに参加した。
其の話を聞いた西川氏は、近くの「清岡さん」の家に、雷が落ちた時には、家の中を丸い光りの球が転げ廻り、其の球が、奥さんの背中に触れた所には、引っ掻き傷が出来ていた事を、話し出した。
すると其処に、永久保に住んでいる平田氏が遣って来て、其の話に参加した。
平田氏の家の近くに、雷が落ちた時には、雷が落ちた所の地面に、10m四方の地面に丸い瘤が飛び出していたとの事である。其れは、道路の舗装を持ち上げていたそうである。
其れらの話で、雷は色々な力を、出す物らしい事が判った。
今日は、雷が、何故か丸い形をとる事が分かり、漢字の象形文字も、其れを見た事が有る人が、創り出した事が見えて来た。
昨日、大山祇神が「雷・いかずち」に関係が有ると書いたばかりで、今朝から、雷の正体が明らかに成って来たのである。
大山高則氏は、昭和16年6月2日生まれで、西川氏は昭和21年7月13日生まれである。
大山高則氏が見た雷は、西川良明氏の家の裏の松の木に落ちている。
其れは、蓮華の花が咲いていて、水田の代掻きが行われる頃で、近くに住む人は、腰が抜けて動けなく成ったそうである。
西川氏が、螺旋の渦に吸い込まれる現象が起き始めたのは、其の後、直ぐなのではないだろうか。
私が、「螺旋の渦・時空トンネル」に吸い込まれる減少が起き出したのも、其の後である。因みに、私は昭和22年1月29日生まれである。
どうやら、今回の大山祇神の物事は、其の頃から、開始されていたように思えて来た。
私が、22年前、神の世界に入った時に、一番身体に異常を感じ、車を止め車から飛び出したのも、丁度此の地点である。
昨年、屋久島の奥岳の峰から、白い稲妻(白蛇状態のモノ)降り始めたのが4月15日であり、翌日16日には、其れは高平岳まで降りて来た。
今回、大山祇神の祭りが行なわれた祠は、其の高平岳の「山の神」の入り口の祠(山口の神)である。
私の両親が、屋久島に上陸したのは、屋久島の岳参りの日の8月3日である。それから、今年の8月3日で、丸60年が経過する事に成る。
どうやら、一還暦で、神の計画が一応の結果を、見る事に成るのではないだろうか。
京都の「上賀茂神社・下賀茂神社」の祭神は「賀茂別雷大神・かもわけいかづちのおおかみ」で、京都で最も古い神社だとの事である。
京都は、桓武天皇が平安遷都をした事に因るものである。
平安京は、風水に拠って選ばれ造営されたものであり、山の形が風水の理に適っていたからである。其の、山の気を考えに入れての事なら、雷の神を祭るのは、当然の事と言えるだろう。
今回の6月11日の祭りの事が、私に告げられて来たのは3月19日だが、前日の18日には、儀式とカレンダーの事が出て来ている。
19日のメッセージは、新しき「紀」の始まりの儀式の意味が、伝えられて来ている。
其の3月18日は、私が23年前に無庵師匠に捜し出された日でもある。
23年前から、今回の儀式は設定済みの事だったのだろう。
確かに、6月11日(旧暦5月16日・月齢15日)から、新しき御代が始まったのである。其れは、私の意識には捉える事が出来ない、とても大きなシステム・仕組みで行われているのだ。
此の事が、正しく理解出来れば、人間の自我心などは、何処かに吹き飛んでしまう。私の思惑など、到底及ばない世界で、物事が起きているのだ。
今朝のメッセージは、私が下手な小細工をしない様に、前持って注意を与えて来たのだろう。其れも、石の様に動かずに、黙して語るなとの事ではないだろうか。
事務所の在る場所は、屋久島でも「雷の巣」だと呼ばれている所である。
私が、別段何かを気にしなくても、此処まで来た神の計画だから、もう止まる事は無いだろう。気楽に付き合って行くだけで、良いのかも知れない。
今日は、雷様が身近なモノに成っただけでも、良かったのではないだろうか。
平成18年7月6日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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2006/6/16
「キララ・ステアリング・リソップ」
言葉・文字
キララ・ステアリング・リソップ
18・6・16
今朝の映像は、結構ユーモアが含まれているが、内容は厳しいものがある。
私は、何処かの駅前に、黒い服を着て、寝そべって眠って居た。
そして、音がするので、目を開けて起き上がり、回りを見渡した。
すると、本箱の上に、人が跨り走っている。
私は、其の人が向かった先に、行って見た。
すると其処は、古本屋で、隙間無く戸棚に古本が並んでいる。
良く見ると、其の書棚は皆、骨董品の売り場の物で、全部寝札が付いている。
私が、其の店の人に「何故 値札が全部付いているのか」と尋ねると、他の所で骨董品の店を手広く遣っていて、税金対策の為に、此処に置いてあるとの答えであった。
私は成る程と想い、店の中を見て回ると、ゴリラの様な形をした置物が在った。私は、其の置物がめずらしいので、スイッチを入れて見ると、両手が動き出し、胸を拳で叩き始めた。
すると、胸の所に、明るい光りが、まぶしい程に灯るのである。
其れから、しばらく其の店の中を見回していると、子供を二人連れた母親が、店に遣って来た。
店の様子を見ていると、其の店に遣って来る人達は皆、本棚を乗り物にして動き回っている様なのである。
其の映像の意味は、人間は皆、他人が、過去に書いた物の情報を乗り物にして、行動しているとの事であろう。
そして、店の中にあったゴリラは、現代社会の、人間模様を意味しているのだろう。
人間は、他人の書いたものを沢山読んで、多くの事を知っていると、胸を叩いて、自分の自信の「エネルギー・光」として、動き回っている事を、示唆している。
其れが、現在の教育機関の在り様なのだ。
此の映像は、昨夜、私が「泊如竹翁」の事を書いた文章に触れたので、其の続きが出て来たものと思える。
王様は、昔の人が書いた本を、図書館に澤山集めて、其の蔵書の量を、皆に自慢しているのである。
処が、過去の情報は、未来を創造する為には、役に立たないのである。
神が望む、未来社会を創造するのには、過去の知識が邪魔に成るのである。
私が、そんな事を想っていると、店の人が、ゴリラの置物が、動かなく成ったと騒いでいるので、見に行くと、確かに動かなく成っている。
私が、其の店の人に代わって、原因を探ると、先ほど店に来た子供が、置物の裏に張って有る紙を破ってしまい、空気が漏れるので、動かなく成ってしまったらしい。
其れは、子供は無邪気なので、古い仕来たりや、情報を、破り棄てる事が出来る事を、意味しているのだろう。
未来を創る為に、地球に誕生している子供達に、古い概念を押し付けては成らないのだ。
其の点に於いては、現在の教育制度は、あまり良いものとは言えない。
学校の授業で、習う物は、殆どが過去の情報である。
人間の思考は、過去の情報を集めれば、集める程、自由を失ってしまう。
過去の情報に縛られ、未来を創造する為の、自由が失われてしまうのである。
人間の意識は、過去の情報の上に成り立っている。
だから、其の過去の情報に縛られてしまうのだ。
過去の情報に、縛られている意識では、未来を創造する事は出来ない。
だから、過去の情報を、一度棄ててしまわなければ成らないのだ。
其の理を、今朝の映像は告げて来たのであろう。
私が、駅前で、黒い服を着て寝て居たのは、私自身は、もう旅が終わって、還って来て休んでいる理を示している。
処が、未だ走り回っている人達は、未だ昔の人が考え出した過去の書物を、思考の乗り物として使っているのである。
処が、子供達は、其の世界の張り紙を破いて、空気を入れ替える事が出来るのだ。
今朝のメッセージは、最後に「キララ・ステアリング・リソップ」との言葉が来た。
「キララ」とは、漢字では雲母で、英語では「マイカ」である。そして「ステアリング」とは、進行方向を変える装置で、「リソップ」とは「ソップ」が痩せた体形なので、再び痩せるとの意味だろう。
其の意味を、私なりに繋ぐと「スリムな姿の方向に 立ち返る為に、花崗岩が動く・事象を運営する。」となる。
それは、日本語の「禊ぎ」を、英語圏の人にも解る様に、言葉を選んで来たものではないだろうか。
其の、一番の禊ぎが、行はなければ成らない世界が、知識の世界である。
其れは、日本の神社での儀式だけではなく、旧約聖書にもある「知識の実」を吐き出す事でもある。
人間は、言葉や文字で情報を繋いで来た。
其れが、カルマ・業と成って積み上げられ、未来を創造する為の、足枷と成っているのだ。其の古い情報を、意識の乗り物として、日夜動き回っているのが、現在人の在り様なのだ。
今朝は、其の習慣を止める様に、告げて来たのだろう。
そうしなければ、未来を創造すべき子供達が、その古い情報に汚染されてしまい、未来を構築出来ないと言う事である。
また、子供を自由にしなければ、折角開かれた岩戸も、再び閉じてしまうのだ。
イエスが謂った「一番 前を歩く者が 一番後に成る。」其の言葉が、現実と成る日が近づいているのである。
平成18年6月16日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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2006/5/23
「文字が行ったり来たり」
言葉・文字
文字が行ったり来たり
18・5・23
今朝の私の意識は、不思議な感覚である。
私は22年前、屋久島の山に何ヶ月も籠もり、他人との会話を止め、言葉を何ヶ月も使用しないで、日付や時間ばかりでなく、自分の名前さえ忘れていた、あの頃の感覚が蘇って来た。
其れは、人間が 人間で在る事を 止めた 瞬間である。
屋久島には、自分の生まれた群れから離れて、修業を続けている離れ猿がいる。
力の有る雄猿は、生まれた群れから離れ、3〜4年孤独の世界で生きて、智恵や体力を着け、自信が付くと、他の群れのボスに戦いを挑むのである。
其のボスに勝って、ボスを追い出せば、其の群れは、自分の物と成るのである。其れが、猿の社会である。
其の様にして、動物達は、遺伝子の混濁を防いでいるのである。
人間が、山に籠もると言う事は、其の猿と同じ行動である。
一度、自分が生まれ育った社会から脱出し、過去のデータを消去(出家)して、自然の中で、ゼロから情報を組み上げるのである。
其の新しい情報を携えて、大きな世界へ挑戦して行くのである。
其れが、自分の魂しいを確立し、遺伝子を残す方法なのである。
其れは、猿だけではなく、鹿やライオンなども同じである。
動物の雄の世界では、力や能力の有る者は、育った環境の中から、広い世界に旅立って行くのだ。
私は、其の離れ猿と、同じ行動を22年間続けて来た。
其の行脚の御陰で、松尾芭蕉や種田山頭火の心境も、理解出来る様に成ったのである。
彼等雲水は、離れ猿と同じ行動を採ったのである。
其の結果が、遺伝子ではなく、文脈を伝え残す結末と成ったのだ。
昨日は、A・あ・ア・エの文字と音を示した。
今朝は、其の後の、新しい言霊の綴りが始まるかと思っていたら、そうではなく、更に言葉が溶き解れて、バラバラに成り始めた。
其れは「あしたのあさ」が「あたしのあさ」の様に「あ・シ・タ」が「あ・タ・シ」とタシ・シタ・タシ・シタと、点滅信号の様に、絶えず、左右に入れ代わるのである。
シと、タが入れ代わるだけで、「明日の朝」が「私の朝」に意味が変わってしまうのである。其れが、どう言う意味を現しているのか良く分からない。
此の映像の意味は、何なのであろうか。
猿やゴリラなどは、吼える事は出来ても、音を組み替えて、意味を伝える事は出来ない。彼らは、同じ音に、強弱を付けて仲間に合図を送っている。
其れは、意志の伝達は出来ても、会話を交わす処までは、進化していないことを、我々人間に教えてくれるものである。
其の点、人間は、シとタを入れ替えるだけで、違う意味を、伝える事が出来るのである。
其の理を知れと言うのが、今朝のメッセージなのだろうか。
中山博さんの、昨日のお筆先には「ウタを詠いて ス・主と成りて フツなる魂を拾い出し 内なる光りで 此の地を照らす。」とある。
其の文面からすると、「詞を詠う事で 主に成る。」との意味が採れる。
其れは、言葉を発する事で「主・君」に成れるとのことである。
其の意味からすると、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊・あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと」の「国の事を 治ろしめす。(今日から 私が国を治めるので 貴方達のデザインは 今日で終りです。)」の概念が、思い出されて来る。
「主・君は、ふつなるたま・悉の御霊を拾い出だし 内なる光り・魂で 此の地球を照らす。」其れは、新しい国造りには、新しい御詠歌が必要である理・ことを、告げて来ているものである。
其の意味では、日本の天皇家も、アメリカ大統領も、ソ連や中国の書記長も、イギリス王室もバチカンも、何も新しい「詔・みことのり」を発していないと言える。
だとすれば、誰か、新しい御詠歌を詠う人間が、登場しなければ成らない事になる。
其の者の言葉が、新しい事象を抱え込み、森羅万象の渦を、未来に向けて、回転し直さなければ成らないのだ。
其の為には、過去に使用されていた、古い言葉は役に立たないとの理であろう。
使い古された言葉では、過去の情報の玉手箱を開ける事に成り、開けた瞬間に「浦島太郎は 白髪のお爺さん」現象を、起こしかねないのである。
だから、言葉の位置を組み替えて、新しい単語を創り出し、人間の意識を、過去の世界(ブラック・ボックス)から、新しい世界に、誘い込めとの事ではないだろうか。
今までの言葉や概念は、過去の世界の物であって、未来世界を創造するのには、役に立たないとの理・ことである。
特に、宗教での統合は不可能である。
宗教での統合を行なうならば、どれか一つの宗派が拡大し、他の宗教が全部抹消されなければ成らないが、そんな事は不可能である。
其れが可能と成るのは、60億の人類が皆納得出来る、新しい概念を構築するしか他に方法が無いのである。
其の為に、今朝 私の頭の中を弄くり回し、単語の文字をバラバラにして、言葉を再構築する様に仕向けて来たのだろう。
是は 22年前に無庵師匠が私に云った事が、再燃して来た事に成る。
何故、無庵師匠は、私に「自適さんが想った様に 全てが成るので、私が総理大臣を連れて来るから 自適さんが想う様に話してください。」と、云ったのだろうか。
其の様に云われてから、既に22年も経過して、漸く私し自身にも、其の事が理解されるトキが来た。
と言うことは、22年前に、無庵師匠は既に今の世界を見て居た事に成る。
確かに、今の私なら、何を訊かれても、答えられる自信はある。
しかし、其れは、訊く人に理解力があるかどうかが、問題ではあるが。
一休さんが、どんなにイライラしながら、本来の人間の在り様を復活させようかと、日夜意って居たのかが、眼に浮かぶ様な気がする。
アレアレ そんな事を言っている私の意識が そうではないか・・・・
道理で 誰か 貧乏神が絶えず付いていると想っていた。
平成18年5月23日正午ジャスト
礒邉自適
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2006/5/18
「過去の世界が消えて行く」
言葉・文字
過去の世界が消えて行く
18・5・18
今朝のメッセージの映像は、私自身も驚く程の内容である。
昨日の儀式が、宇宙の総てを変えた様である。
それだけ、昨日の儀式に現れた三名の家族は、凄い世界の、住人だったようである。
今朝、日付が気に成るので、インターネットで検索して見ると、本日18日は観音様の日である事が判った。
本日の日付は「18・5・18」で、18と18の間に、悟りを意味する5が入っている数霊の日である。
やはり、観音様の存在は事実だったのだ。
昨日の、三名の家族の姿を映し出して来る、其の物の存在こそ、宇宙を管理統率している「存在」其の物なのだろう。
其の意識体には、体は無く138億歳の宇宙が、其の物の本体なのだ。
其れが、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」と呼ばれる、宇宙の真実の正体なのである。
今朝の映像は、昨日までの3日間の認識作用で、宇宙の総てが再生される段取り・準備が出来た事を、明らかにするものである。
其の証しとして、其れ以外の世界は、今朝から、次々に現象世界から剥がれ落ち、溶けて消えて行く映像だったのである。
其れは、総ての過去の情報が、此の三次元世界から消えて行き、其のエネルギーを失う事を意味している。
是からは、過去の如何なる情報にも、執着しては成らないのだ。
過去の情報にしがみ付く者は、過去の時間帯に引き込まれて、未来世界に進む事は出来ないのである。
其れは、どんな宗教であれ、哲学や理論であれ、人間が創り出した言葉に因るものは、過去の時間帯のものであり、過去の世界の産物であるからだ。
其れは、本当の日本の伝統である「禊ぎ祓い」の世界が、復活する事でもある。
私は22年前、無庵師匠の指導の下、其の禊ぎ祓いの儀式を受け、其れに成功し4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」を受ける事と成った。
其れは、本来なら天皇家が果たす役割で、天皇陛下の代替わりの時点に、起きるべき事柄なのである。
其の天皇家の「すめみおや・御親(先祖代々の霊)」が、総て、私の躰を御杖として利用し、今日まで事が進んで来たのである。
其の結果が、此処数日の神界での動きであろう。
是からは、私に起きた現象が、日本全体、いや地球全体に起きて来るのだ。
此処に来て、漸く「四次元プログラム」の動きが、具体的に成って来たものと想われる。
今朝は、私の22年間の動きで、新しく出来たカルマも剥がれ落ち、22年前の状態に立ち返った様である。
何故、そう想えるかと言うと、時計の秒針の音が、大きく聴こえる現象が、また始まったからである。
22年前、総ての行為を止めて、静かに座っている私の耳には、時計の秒針が刻む音が、雷の様に大きく聴こえて、耐えられないので、総ての時計を外して全部動かなくしてしまった。
時計を止める事で、自分自身の時間を取り戻したのである。
其の時計の音は、人類を救わなければとの想いで、行動を起こした時から、聴こえなく成っていた。
其れが、今朝から再び、大きく聴こえ出したと言う事は、私の意識が元の状態に還ったとの事であろう。
漸く私は、22年前の振り出しの処へ、立ち戻ったのである。
其れは、時計の音が大きく聴こえる程の、静寂を取り戻したと言う事でもある。
今朝は次に、自然の景色を背景に、和歌が、黒字で書き込まれた場面が、二通り現れて来た。
右側の場面には、「十六島のゆまわり・・云々・」と在り、左側の画面は、岩に波が打ち寄せている海岸の景色で、書かれている文字の意味は「大事に護る事の 為は 海岸に吹いて来る 東風である」との、意味であった。
其れは、倭姫命世記で伝えられている「天照神」の言葉を、示唆している様に思える。
十六島は、天皇家の「菊花紋」に関係があり、ゆまわりとは禊ぎの事であるので、天皇家の「ゆまわりの儀式」の正当化を意味し、「東風の為」とは、神州である日本国土を護る為との意味であろう。
ユウラシア大陸で、海から東風が吹き付けるのは、此の日本の国土である。
其の国土を護る為に、「十六島・ウップルイ(我がみづの道)」を、斎まわりしろとの事であろう。
新しい神界の動きが始まって、今日で4日目である。
今朝の最後の場面は、私が「白土氏」が参加している、」催しの記念写真を撮ってプリントしていると、白土氏が見に来て、大写しに成っている写真を、喜んで持って行かれる映像であった。
どうやら、新しい動きに、白土宏氏が関係あるようである。
今朝、白土氏に電話を掛けようかと意っていると、付き人をしている「芳我美光君」より電話が有り、6月11日は白土代表が東京に上るので、参加出来ないと云って来た。
6月14日に、東京の国技館で市民会議があり、其れに参加する為に、一緒に車で上京しなければ成らないとの事である。
屋久島で、6月11日は大山祇神の祠建立百年祭で、白土氏の息子さんである「雅一君」に竹音の奉納をして貰う事に成っているが、雅一君は、東京の国技館でも開会に先立ち、「君が代」の演奏奉納をする事に成っているらしい。
「中山博さん」のお筆先には、6月14日より、東京で何かが始まると出ている。
中山氏と雅一君は、屋久島で初めて出会う事に成るので、多分一緒に14日の国技館の催しに参加する事に成るのであろう。其処から、新しい国造りの流れが起きるのではないだろうか。
白土氏の事務所に、3月31日に立ち寄った時に、「英雄は 美しい国土でないと生まれない。」と、白土氏が謂っていた。
其れが、今朝の「東風が吹き寄せる善き国」に通じる、日本人特有の感性の世界であろう。
愈々「日の本」の精神が、世界に向けて、光りとして放たれる時節が、到来したと言う事だろう。
此処まで、事が進んでくれば、私の苦労も、水の泡に帰す事には成らないだろう。漸く、長い旅の結果が現れて来た様である。
6月11日、旧暦5月16日の月の出は、新しい紀・トキの幕開けに成る事は間違い無い様である。
新しい世界統一の新カレンダーが作成される日は近い。
(カレンダーの語源は 月の出を知らせる為に 叫ぶからきている。)
暦・カレンダーは、始めに、月の運行に従って作られたのである。
そう言えば、今朝、和歌が書き込まれていた風景は、昼間の映像ではなく、月夜の景色であった。
どうやら伊勢の神は、天照大神ではなく「神宮皇后」に憑った神が、「つきさかき いづのみたま あまさかる むかつひめの みこと」と、応答しているので、「月讀尊・つきよみのみこと」なのかも知れない。
是から、総ての情報が書き直されるのだろう。
宇宙は、昼間が本体ではなく、夜が本体である理は、もう万民が知る処である。
平成18年5月18日
礒邉自適
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2006/5/16
「神の躯(むくろ)」
言葉・文字
神の躯(むくろ)
18・5・16
今朝事務所に出て来て、パソコンに向かうと「かみのむくろ」との言葉が出て来た。
パソコンで「むくろ」と打ち込むと「躯・骸」の二文字が出る。
其の二文字を、漢語林で調べると「骸」は、身体の脛の骨など硬い芯の部分を意味し、死んだ人間の固い骨が残るの意味らしい。
「躯」は「軀」の略字で、身体の各部分を意味しているらしい。
私は、今朝のメッセージの内容から、軀の漢字を、むくろに当てる事にした。
今朝の映像は、昨日のメッセージの続きに成っている。
昨日の映像に現れた、三面のパソコン画面が動き始めたのである。
取り敢えず、皆と未来世界を共有する為に、其の三面に、名前を与える事・名付ける事から、始めようと意う。
何故なら、其れが今朝のテーマだからであり、此の作業は、釈迦牟尼佛や惟神の世界の、次の次元の幕を、開ける作業に成るからである。
古事記の世界でも、岩戸に閉じ篭った「天照大神」を外に出す為に、説得の言葉が無く、笑い声と、鏡と、手力男の力を使い、騙して外に出している。
だから、日本には、祓いの儀式は在っても、「マントラ・真言」の世界が無いのである。其の為に、人間社会は未だに、迷妄の中に在るのだ。
今朝は、漸く神が、私を新しい旅に出発させたようである。
其れは、新しい名を「色(此の世)」の世界に、与えて行く旅である。
其れは、老子が「道・タオ」と仕方無く名付けた世界の、次の次元を開いて行く事でもある。
其れは、人類が、今まで一度も体験していない世界である。
と言うより、神の世界には在る事なのだが、人間の認識が、其処まで到達していないと言う事である。
「神のむくろ」とは、未だ、此の世の現象物に、名が与えられていない無垢な状態で、穢れの無い「あ字観」の世界なのである。
「あ・阿」は、大日如来の「躯・むくろ」である。
その森羅万象の体には、人間の意識の付着が無いので、清らかな存在「素の儘」なのである。
今朝は、其の大日如来の「躯・むくろ(各分野)」に、新しい名を与えて行かなければ成らない映像が、映されて来たのである。
其れが、どう言うものかと言うと、人間の子供が生まれた時に、名前を与えなければ入籍が出来ないし、誕生日も記録出来ない。
其れに、学校にも行けないし、会社にも勤められない。また、乗り物に乗る為の予約も出来ないし、貯金もする事が出来ないのである。
だから、名が無ければ、人間社会では生きていけない事と同じで、名付けなければ、認識作用が起こせないとの事である。
それ故に、物事に名前が着けられているのである。
物と、事が興せるのは、此の世の物に、名前を与えてあるからである。
人間は、物に名前を与える事が出来なければ、ゴリラやチンパンジーと同じ程度か、其れ以下の、生活しか出来ないと言うことである。
しかし、其の、人間が名を付けて、物事を動かす能力が、人間自身を、迷妄の世界に落し込んだのである。
だから今、60億人の中には、真の義人が一人も居ないのである。
それが、此処に来て、神が漸く一人の人間を歩かそうとしているのだ。
其の対策として、昨日、三面の画面を送り込んで来たのである。
今朝は、ともかく、其の三面のパソコン画面に名前を与えないと、物事が先に進まないので、共通言語として、取り敢えず三個の名を与える事にしょう。
其れは、私一人が知っている名では、何にも成らないので、取り敢えず日本人が共有出来る単語を、使用しなければ成らない。
其れが、人間界の言葉の世界なのだ。
左(1) 中(3) 右(2)
つきよみの鏡 すさのおの鏡 あまてらすの鏡
宇宙 地球 太陽
エネルギーの総合体 生命体・水 光りの情報
意志の発動は無い 名を使い物事を起こす 育てる力
存在そのもの ひと かみ
取り敢えず、上記の様に言葉にしますが、未だ確かなものではありません。
エネルギーの流れは(1)−(2)−(3)の順番ですが、(3)には 左(1)と右(2)の両方に 通じる回路の扉が(昨日の映像では)二つ着いていました。
昨日の映像では、天照の画面に、未来世界の情報が次々書き込まれ、須佐之男の画面に流れ込み、鰐の姿の影が、動き出す構えをしているのが映されて来たが、今朝は、其の須佐之男の画面が、中央で左右にハッキリ別れていた。
右半分は、青緑の色で文字は無く、左側の半分の真っ白い画面には、名簿の様にアルファベットの名詞らしきものが、黒文字で、上から下へ沢山並んでいるのが、浮き彫りの様に映って来た。
其の文字は、人の名なのか、物の名なのかは判断できなかった。
理解出来る事は、文字だけが入力されても、色(内容)の定着・焼付けが、右側の画面の様に行なわれなければ、須佐之男としての働きに、成らないとの事であろう。
そして場面が変わり、私は野外に出て、汽車に乗る為に、駅に向かって急いでいるのだが、行き先も、駅の名も、出発の時刻も判らない。
取り敢えず、多くの人が急ぎ足で歩いて行く方向に、私も歩き出した。
そして、右側を歩いて居る女性に、向かっている駅の名を尋ねたが、駅の名を答えられないのである。
そして次の場面は、山中を汽車が走っていて、窓から、高い山が進行方向に見え、手前の山の中腹にはホテルらしき建物が在り、窓には幾部屋も灯りが点っている。
しかし、其の山の名前も、ホテルの名前も判らず、行き先も判らないので、どの駅で降りたら良いのかも判らない。
今朝の映像は、言葉や名が無い世界なので、どうする事も出来ないし、思考さえ起こせない世界である。
今朝のメッセージは、自然の営みは別にして、人間社会は、言葉が無ければ成り立たない理を示して来ている。
今朝のメッセージの状況は、神と人間の間には、言葉が一番重要な意味を持っている事を、告げて来ているものである。
白川静さんが「中国の漢字は 神と 人間のコミュニケーションを図る為に 出来上がった物だ。」と謂って居るのが、当っている事になる。
今朝のメッセージは、其の世界を、新しく興せと、私に告げて来たものだろう。
不思議なものである。
私が、一番苦手なのが、漢字の書き取りなのである。
私は、小・中学校以外で、机に座って勉強をした事が殆ど無いので、漢字を書く事に出くわすと、小便をチビリそうに成るのである。
其の事は、電子手帳を買って持ち歩く様に成ってから、解消されてはいるが、今でも苦手である事は変わっていない。
だから、此のパソコンなる機器は、私に取っては、神様の贈り物の様に感じているのである。
しかし、眠りの中にまで現れて、私を扱き使うのは、少し行き過ぎなのではないだろうか。
其れは、其れとして「神の むくろ」とは、此の「大日如来の身」と言われている森羅万象の現象世界を、各部分毎に区別して、新しい名前を与えて、活性化させろとの事ではないのだろうか。
現在の、人間が使っている言葉は、人間の、欲望の我意識に因る穢れに拠って、パワー(定着力)を失ってしまっているのだ。
出来るだけ早く、新しい名を与えて「大日如来の身」に活力を与えなければならないのだ。
其れが、是から始まる、私の新しい旅なのだろう。
それにしても、大変な役目が回って来たものである。
此処までの事を、私を捜し出して此の世界に入れた、無庵師匠は知っていたのだろうか。
今はもう、無庵師匠は此の世の人ではないので、言葉を、音や文字にして応答してくれる事が出来ない存在である。
師の答えまでも、自分自身で、選び出さなければ成らないのだ。
平成18年5月16日
礒邉自適
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2006/5/4
「たった一言のうそもだめ」
言葉・文字
たった一言のうそもだめ
18・5・4
今朝は、私にとっても、非常に大事な理・ことが知らされて来た。
おそらく、是までの人間が、体験したり、観る事が有ったりしても、言葉にする事が出来なかった世界を、私は今朝、見せられたのだと意う。
此の世界こそ、22年前に、無庵師匠が私に「私は 七次元までは行って観て来たが 其処から先にどうしても行けないので 私が付いているから 自適さんが九次元まで視てきてくれ。」と、頼んだ世界なのだろう。
私はようやく、其の答えにまで、行き着いたのだと意われる。
今朝のメッセージは、先ず「どういたい」と有り、次に「いくめ」と言葉が有って、次に長野県松本市にお住まいの中島学氏が現れ、政治の手本を、示している映像が映されて来た。
「どういたい」とは、「同位体」とパソコンには出るが、私のイメージでは「同意体」ではないかと想われる。
其れは、同じ意識を共有する相手が現れれば、互いが共鳴して、情報が安定し、増幅を始めるからである。
「いくめ」とは、ハッキリしないが、多分「生目・生きている目」ではないかと想われる。
そして中島学氏は、現在私が知り得る人間の中で、一番信頼が於ける方で、松本市に合併されるまでの、四賀町の町長を長い間、無選挙で為されて居た方であり、人望が厚く清廉潔白な御仁である。
今朝の映像は、中島学氏の下では、1円の金銭の不正も無く、管理が行われている様子が映されて来たのである。
昨日から、政治の在り様が示されて来たが、今朝、中島学氏の姿が現れた事で、中島氏を手本として、事を進めて行けば良いことが分かり、意識の的が出来た事で、精神的に凄く楽に成って来た。
上記のメッセージは、午前3時頃だと思われるが、朝方には、昨日と同じくエナジーの天幕が現れたので、其の中心を見詰めていると、清らかな水が溜まっている湖畔の様な景色が、映し出されて来た。
そして其の湖畔に、数匹の龍みたいな動きをする、エネルギーの細長い渦巻きが飛び交い始めた。やがて、其の渦巻きは、竜巻の様に捻りながら、上空に拡がり始めた。
其の、渦巻きの周囲に飛び散る破片は、龍体から逆立つ、鱗にも見える物である。
其の映像から認識されるのは、水から立ち上る螺旋の捻りの渦巻きは、宇宙を構成している情報の電子信号体で、其の渦巻くエネルギーが、宇宙を存在せしめているのである。
其の渦巻きの、上空のラッパ口から吸い込まれる事が、タイムトンネルの渦に吸い込まれる事なのである。
私が子供の頃から、吸い込まれて居た銀色の渦巻きの坩堝は、其のエネルギーの内側を、源へと、通過する現象だったのである。
私は子供の頃より、瞼を閉じると、銀色の粒子の世界が現われ、其の銀色の世界に渦巻きが起きて来て、其の中に吸い込まれるので、大きな悲鳴を上げて居た。そして其れが起きると、父親が、懐に抱きしめて、寝かし付けてくれていたのである。
やがて、其の現象に慣れて来て、トンネルの奥にまで達すると、声が聴こえたり、映像が映って見えたりする様になって来た。
そんな中で、小学校6年生の時(36年も前に)に、ロシアのチェルノヴィリ原発事故が起きる事も、見せられたのである。
だから、其の竜巻の元が、神の情報の源である言が判るし、霊界の水面であることも理解出来る。
其の根源・みなもとの水のオモテには、総ての情報が記憶され、しかも整理されながら組み替えられて、新しく発生し、発動して、宇宙を管理しているのである。
其の水のオモテこそ、中国の四方神の北方の守護神である「玄武・げんぶ」の亀の前にある水瓶の水面なのだ。
そして、その螺旋の渦巻きこそ、ルシフェル(くしふるはたらき)の物であり、四方神の中心の位置である「タツ」の場なのである。
私は今朝、其の中心の活動を、視覚で捉える事に成功したのだ。
其の、宇宙のエナジーの流れを、自分の体(みま)を通して観る目が、(すめ)なのである。
日本語の「すめみま」とは、天津日嗣(あまつひつぎ)の働きを実行する、「日嗣の皇子」の心身を意味しているのである。
だから「同意体」とは、四方神の働きの中心である龍体(時間軸)の情報と、自分の心身の情報を、一体化させる者のカラダ(みま)の事なのであろう。
そして「生目」とは、其れを、シッカリと捉える「観音菩薩の働き」の事なのである。
今朝は、其の映像の持つ意味が理解出来たら、「たった一言の ウソも だめ。」と言葉が来た。
其の言葉で、其の渦の中心のミズのオモテが、大日如来の座であり「あ」の位置なのである理・ことに気付いた。
其の位置に在る者は、一切の自己意識が働いてはいけないのである。
其の位置には、一切の言葉が外れた者だけしか、到達出来ないのである。
其れが、釈迦牟尼佛が説いた法華経の十二縁起の神髄なのである。
しかし、何も、釈迦牟尼佛だけが偉い分けではない。
日本の惟神の世界こそ、其の神髄を伝え続けているのである。
神社や、玄関に取り付ける注連縄こそ、其の龍体の証なのである。
そして、社の中心に置く沈め石や、地面に埋めて頭が出ている心柱こそ、ミズのオモテの位置なのである。
其処に立ち上がるエネルギーこそ、「立つ・龍」の名なのであろう。
注連縄に着けられている「7・5・3」の藁の数こそ、人間の意識の始まりを表しているのだ。
言葉には嘘が含まれるが、数には嘘がない。
数こそ、龍体の情報を正確に伝えるものである。
言葉は「ナーム →オーム →アーメン →オーメン」と幾つにも変化して行くが、数だけは一は一、二は二のままである。
其の数霊で、龍体の情報は流れているのである。
人間のマインドから、言葉が消えたとき、龍の意識が目覚めるのである。
そして、38億年歳の遺伝子・DNAの記憶が蘇り、扁桃腺から情報が出され、「あ」の音と成って発せられるのである。
其れが「マントラ・真言」の世界であり「たった一言の嘘もだめ」と云ってくる、「一言主の神」の働きを取り戻すのである。
四方の、音響が整っている場で拍手を打てば、龍の鳴き声として音が返って来る装置は、自分の主体と、客体を合一させる為の仕掛けである。
其れは、自分の遺伝子の総合システムである此のカラダと、宇宙のトキ(森羅万象の流転)の共鳴を興し、神と自己が、同意体と成ることなのである。
其れこそが、大日如来(真理)と成る理なのである。
もう私には、何が起きても、呆れる(あ が切れる)事は無いだろう。
それは、もう言葉が必要無く成ったので、モノを云う必要がないからである。
もう私には、自分の為に、使用する言葉は要らないのだ。
イヤ、自分の為の言葉を発すると、嘘が発生するから要注意なのである。
処で、私は、何を打っているのだろうか。
今朝は、事務所に着いた途端に電話が掛かり、午前中は、意識がバラバラに成ってしまった。
もう あタマ(頭)が失せてしまっている。
平成18年5月4日
礒邉自適
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2006/4/7
「彫物・えもの」
言葉・文字
彫物・えもの
18・4・7
今回の旅で、一番大事な収穫は、文字と神の関係が、理解出来た事である。
私は、3月27日の新聞に載っていた、7000年前の絵文字発見の記事をコピーして、カバンに入れていたので、今回、其れが役に立ったのである。
其の記事を、「小田原修氏」に七枚コピーして貰っていたら、回る事に成った所が、1・道祖神神社 2・草壁神社 3・槵觸(くしふる)神社 4・天の岩戸神社 5・東の宮 6・高千穂神社 7・日の宮弊立神宮で、参詣した神社は丁度七社であった。
其の七社で、絵文字の記事の裏に、夫々皆が好きな絵文字を書いて、火で燃して神界に送った。
何故かと言えば、其れが、本来の文字の使い方だからである。
本来の、文字の意味は、神に対して、人間が祈りを表現する為に、創られた物との事なのである。
其の関連性で、二日目には、小国町の「河津耕治氏」の案内で、押戸岩の岩組に「牛」と「蛇」の古代絵文字が彫られているのが分かった。
そして三日目には、高千穂の天の岩戸神社の神楽殿で、神楽を舞う為の舞台上の、四方に張られた縄に、紙の切り絵が全面に下げられているのを見た。
其れは、中国で発見された絵文字が、発展して出来た物であり、其の切り絵の意味する事は、古代の人達と同じく、神に対する祈りが目的なのだと気付いた。
其の切り絵を「えもの」と呼ぶのだが、何故「絵物」と書かないで「彫物」と書くのか、其れは、古代では、岩や粘土の焼き物に、絵文字を彫り着けていたからだろう。
27日の新聞記事には、「昨年も 寧夏回族自治区で 1万年以上前のものとみられる大量の絵文字が発見された」と書いてある。其れは、一万年前から絵文字を使用して、神に対して、祈りが行われていた事の証拠でもある。
日本の高千穂にも、稲作文化と共に、伝えられて来たのだろう。
私が、絵文字を目にした、次の日の霊夢には、平仮名の文字形が澤山現われ、其の内から「と・や・ま」が紐に下げられ、上空に登って行った事は、既に書いてある。
しかし、其れが、神楽殿の「彫物・えもの」と同じものである事には、今まで気付いていなかった。
一万年も前から、人間は、神とのコミュニケーションに、絵文字を使用していたのである。
其れは、何故かと言えば、人間の思考は、物の形に因り組み込まれているので、物の形を彫り込む事で、意識が明確に成り、脳の働きが能力アップするからである。
其の事は、私の脳が、文字による情報脳ではなく、現場主義の映像脳だから良く理解できる。
神は、文字で動くのではなく、文字に表されている、映像の情報信号で動くのである。だから、文字だけの理屈を云っている人では、神は動かせないし、本人も、神の知らせを受け取ることが出来ないのだ。
其れが「不立文字(文字には龍が住まない)」との意味である。
これ等の事から考えれば、子供達を、3〜4歳から物の世界で遊ばせないで、文字ばかりを詰め込んで教育すれば、神の世界が、全く理解出来ない人ばかりに成る理・ことが、良く理解されてくる。
私は、其の事が理解出来る、最後の人間なのかも知れない。
何故なら、私は、中学校だけしか出ていないし、学校の授業時間以外は、殆んど机に向かった事がないからである。
私は、世界自然遺産に登録された、屋久島の大自然の中で、物の形だけに取り囲まれて、生きて来た人間である。
だから、私の、目や、耳や、手足に拠る五感は、38年間、その屋久島の大自然の中で、鍛えられて来ている。
そんな、私の脳だからこそ、神との、映像通信が上手く運び、情報の疎通が図られているのだ。
古代社会では、極当たり前の事が、現代では忘れ去られてしまっているのだ。
是から、どれだけの子供達を、本来の姿に返す事が出来るのか、其の一点に、人間の未来は、懸けられていると云っても、過言ではないだろう。
平成18年4月7日
礒邉自適
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