このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
このページには「神霊の思頼」18年10月18日掲載分より以前のメッセージを 記録として掲載します。
私の ふるさと 安房川の虹
2006/9/29
リスボンズの図形
18・9・29
今朝の映像は、パソコンに文章を書き込みながら、文章の中の文字に、リンクを張る場面が映り、其のリンクの題名は「リスボンズの図形」と言う物であった。そして、「コケシ・木人形」の様な形の物が現れた。
「リスボンズ」とは、どう言う意味か辞典で調べて見ると、「リスボン」が有りリスボンはポルトガルの首都で、旧王宮と美術博物館などが有る都である。
リスボンの、本来の意味が、何なのかは分からないが「ズ」が複数の意味であれば、リスボンの様な町が、複数との意味に成るのだろうか。
其れと、コケシの様な図形に、何が関係有るのだろうか。
コケシは、手足が無く、胴体の上に丸い頭だけが着いている形である。
其の形に、意味が有り「頭・王」の意味なら、王朝の意味に繋がるし、図形に意味が有るのなら、美術品の形と繋がるのかも知れない。
明け方には、是からの動きに関係有りそうな、日付で「4月18日」「5月27日」「沖縄」との言葉が、インプットされて来た。
それが、どう言う意味なのかは、未だ分からない。
今朝は、松山悦子さんのお世話で、下関のホテルで朝を迎えている。
いよいよ、今夜は「孔紀氏夫妻」と、月山の巫女さんに初対面と成る。
どう言う展開に成るかは、分からないが、私の身体の調子も、だいぶ復活して来たので、本格的な動きが始まるのかも知れない。
平成18年9月29日
礒邉自適
(20年5月6日 追記)
藤田さんが、フェニキア語の'Allis Ubbo(安全な港)の意味を調べてくれて、今其れを書き込む為に、此のページを開くと、右手の中指に強いカモ(神の電気信号)が来た。是は、よほど大事な事の様である。5月7日11時45分
2006/9/26
魂しいの発露
18・9・26
今朝の映像は、私自身にも、思い掛けないものであった。
と謂うのは、私の是までの価値観では、「縁」は、糸の様に繋がっているとのイメージで、「赤い糸で結ばれている」とか、「縁結び」と言って、見えない紐で結ばれていると考えて来た。
だから、日本国では「注連縄・しめなわ」が造られ、鳥居や神社の入り口に掛けられるし、人家でも正月には、玄関や車などに藁で編んだ「注連縄」が着けられて来た。
漢字の、「意識」の単語も「人間の意が 言葉に拠って 織られる。」との意味合いだから、やはり糸の感覚である。
処が、今朝は、其れが粒子の繋がりと成って、黄金比の放物線の様に、回転するのが見えて来た。
確かに、黄金比も図で書けば、其れは線である。
しかし、其の線を顕微鏡で視れば、墨の粉や色素の粒である事が判かる。
だから、此の世には線とは無く、全てが粒子の集まりなのである。
昨日のメッセージ映像に、「ナミオ氏・波男」が現れて「鍵を渡せ」と云ったのは、波である派動の感覚を、外せとの意味だったのではないだろうか。
そうであれば、親子の縁とか、仏教の結縁とかの概念を、排除しなければ成らない。
確かに、親子の関係は、遺伝子に拠る繋がりがあるが、親子は別の人格であるし、同じ両親から生まれても、一卵双生児の間は別にして、兄弟姉妹の性格や性質もバラバラである。
其れは、確かに、糸で繋がっているのではなく、情報に因る伝達の所為の結果である。
其の様に考えると、家系の系図も、線で繋いでいるのは正しいとは云えないし、釈迦から何代目の弟子だと云っても、何等かの確かな糸が、繋がっている分けでもないのである。
其れ等の事柄を、別な角度から見れば、此の世には「因縁」とかで繋がっている物は、何も無い事に成って来る。
何故、其れが、繋がっていると考え始めたのだろうか。
其れは、「縁で繋がっている」との言葉が存在し、其の言葉で、人間の思考に概念が生まれ、其の概念が伝え続けられているからではないだろうか。
其れ等の概念を忘れさせるのが、釈迦牟尼佛の説なのであろう。
釈迦牟尼佛とは、ブッダに成った「釈迦(姓)シッダッタ(名)」の事だが、彼は、池の水で禊ぎをしてから、菩提樹の枝の下で休んで、全ての言葉を頭から排除した時に、悟りを得ている。
其の釈迦牟尼佛の教えは、成仏・覚醒したければ「出家」をして、人間社会との「縁・えにし・ゆかり」を切りなさいとの理・ことである。
日本語の、「えにし」と「ゆかり」が、どう言う意味合いかは解らないが、日本の古神道では、神が降りるのは「ちぎ」であり、儀式は「ちはやふる」である。其の世界には、糸は無く、電気的な粒子を意味している様である。
振るは、「振り撒く」に発展するので、「たまふり」とは粒子的な振る舞いを起す事ではないだろうか。
其の意味から考えれば、巫女さんの舞いは「ちはやを 振り撒く」事であり、出雲の「お国さん」が踊りの始まりであるのも理解できて来るし、天の岩戸が「天のうずめ」の踊りで開かれたとの伝説の意味も、謎が解けてくる。
其れに、日本語の「ふるまい・振る舞い」や、「しぐさ・仕種」の言葉の持つ景色も見えて来る。
私には、昨日から、男の口調で言葉が聞こえ始めて来た。
今朝の、私へのメッセージの言葉も、訛りの有る男性の声だった。
今朝のメッセージの内容は、私の立場が、現場から下げられて、長老組の方に回される内容である。
其れは、野球の現役選手が、肉体の限界を感じて、グランドで活動する事から、身を引く様子と同じである。
現場から引退した後、能力の有る者はコーチか監督を務め、其のグランドに関わりを持って行くが、採り得の無い者は、其処から去るしかない。
其れ等の理を、知っている御仁のお出ましなのだろう。
どうやら、今朝のメッセージからすると、私の活動も終りを向え、何事からも現役を退かなければならないらしい。
其れは、ネィティブ・アメリカンの長老の様に、部族長の相談相手に成る様なものである。其れは、シャーマンとも違い、全ての業を終えた者の役目である。
私は、来年1月に満60歳を迎えるが、母親の体内に宿った時点から数えれば、丁度60歳で還暦と成る。
還暦とは、12支×10干の120年が大還暦であり、60歳は其の半分の「半還暦」だから、是からは、生命の消滅に向かって行く年代である。
だから、何時死んでも良い様に、段取りをして措かなければ成らないのである。其の為には、あらゆる事の第一線から、身を引いて措かなければ成らない。
其れは、後継者が育つ為に、場・グランドを空ける事を意味している。
是からの私の役割は、コーチか監督の様な立場なのであろう。
其れも、「欽ちゃん」の様に、自分で球団を造って監督を務めるのではなく、自由で気儘な「雇われ監督」である。
其して、ピッチャー型の「星野監督」式ではなく、キャッチャー形の遣り型で、相手の行動を受けながら、対応して行く立場である。
今朝のメッセージは、昨日のメッセージの続きである様だ。
私は、是から全ての面に置いて、現役で在っては成らないようである。
現役とは、寝ても覚めても、其の事を考え続けていなければ成らない役割だから、其の活動の間は、他の世界の事には、眼が行き届かない。
其れを避ける為には、あらゆる世界から、足を洗って措かなければ成らないのだ。
何故、此処に来て、この様な事柄を示して来るのだろうか。
其れは、今月30日より、新しい体制が動き出す事に関係があるのだろう。
其の動きに、私自身が嵌ってしまえば、私の意識が、三次元に定着してしまうからである。
其れに、今朝告げられた事は、是まで、22年間取り組んで来た行動からも、足を洗えとの事のようだから、シャーマン的な行為からも、外れろとの事のようである。其れは、四次元世界からも脱しろとの意味らしい。
私は22年前、37歳の時に、三次元世界を捨て、四次元世界に触れながら生きて来た。其の世界からも、離れて生きろとの事である。
其れが、何次元の世界なのかは私には判らないが、今朝の黄金比の放物線の映像からすれば、拡大する宇宙の模様を、視る事が出来る立場である事は間違い無いようである。
私は22年前、水断食を続け、脈拍が止まり、魂しいが自由に成り、時空を越えて視て来た宇宙の始まりの世界を、今度は、違う角度から観られるのである。
其れは、22年前に観た「宇宙の始まりに 自分が在り、此の世の事象は 全て自分の分身である。」との感覚とは、違うものだろう。
おそらく、釈迦牟尼佛が説明しようとした世界は、其の世界であり「三千世界に我が在り 衆生一切我が子。」の言葉は、其の世界を言い表しているものと想われる。
しかし、今朝の雰囲気は、其れと違い、「此の世界が、粒子に拠り 黄金比の螺旋で 拡大して行く」映像である。
それは、自分がそうであると言うのではなく、新しく創造される世界を、見詰める目線である。
其れは、釈迦牟尼佛が体験した世界より、もう一段深い世界と言うか、見られなかった世界であろう。
此処から先の世界は、誰も体験した事が無く、其の為に、言葉も概念も無いのかも知れない。
しかし、そう思うのも私の身勝手で、言葉も概念も有るのに、私の見識が未だ浅いから、気付かないだけなのかも知れないのである。
ただ謂える事は、釈迦牟尼佛も、老子も、イエスキリストも、自分の想う様な国を造る立場には至っていない。
自己顕示欲からではなく、神の支持に因り国造りが行なわれ、其れが現在まで保たれているのは、此の日本国だけではないのだろうか。
だからこそ、世界中の神霊が此の時代に、日本に皆集まって来ているのではないだろうか。
日本の国造りは、何度も、外来の男性が渡って来て、原住民・地祇の娘と結婚して行われている。
「須佐之男尊・すさのおのみこと」・「饒速日命・にぎはやひのみこと」・「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」・「神武天皇」等、皆自分が生まれた国ではなく、妻の里での国造りである。
其れ等を見ると、新しい国造りとは、他民族の男性の登場が必要らしい。
其れは、何故かと言えば、現状維持の体制側の人間では、革新が行なえないからである。
今回の新しき国造りが、どの様な形で始まるのかは判らないが、今朝のメッセージでは、私に現役から引退して、何も、しては成らないとの事のようだから、其れを守って、私は、全体の流れを眺めて居るだけにしようと想う。
今日は、此の文章を書いていると、月山の巫女さんから電話が有り、話していると途中で、インターネットも電話も携帯も一切通じなく成った。
其れは、4時間程で復活したが、種子島・屋久島全域だったらしい。
若し何か有れば、この様に成り、一切の連絡も取れないし、情報の入手も困難に成る。
電話線が繋がっているので、情報が手に入ると考え、安心して居ても、突然にして其れが切れるのである。
何もかもが切れて、繋がりが無く成る状態をシュミレーションしていないと、イザと言う時にパニックを起し、社会全体が混乱してしまうだろう。
そう成らない為にも、其々が独立して生きて行けるシステムを、完成させなければ成らないだろう。
そして、自立心を育てる教育を、構築しなければ成らないのだ。
今日の題を「魂しいの発露」としたのは、私が今朝、パソコンの前に座った時に出て来た言葉だが、其の意味は「人間の魂しいは、其々が 自分で体験を積んで 現場の映像を蓄えていないと、イザと言う時に アイデアが湧かないし 現実に対して 手も足も出せない。」との事ではないだろうか。
魂しいとは、「たま」が沢山詰まっている様を言っているのである。
其の「たま・魂・霊」とは、現場の映像の数であり、密議が図れる能力を意味している。
其の事は、私の人生の記録を見れば、参考に成るだろう。
其の、私の脳内の現場の多さは、他には、類が無いかも知れない程である。
現代文明だけの事か、自然生活だけの事かの、片一方だけなら、私以上の者は多いだろうが、両方のバランスを考えれば、私が、天の働きで遣らされた体験は、幅が広くしかも多彩だと想われる。
其れが、私の意識の特徴だとも考えられるのだ。
其の場数の多さが、是から社会の役に立つのだ。
そして、私には、是から「何もしない」と言う事を、修行する現場が待っているのだ。
平成18年9月26日
礒邉自適
2006/9/22
謂うに五段階有り
18・9・22
今朝メッセージの映像には、「謂」の世界に五色と言うか、謂の世界が五層に成っている事が、知らされて来た。
私は昨日から、足の力が抜けて、意識も弱り思考が進まない。
また、持病の十二指腸の出血が始まっての貧血かと意ったが、未だ下血の症状は見られない。
私の身体は、パソコンに向かい一年半に成るので、運動不足の所為で胃腸も弱って来ている事は確かだが、其れだけが原因でもないだろう。
此処のところ、続いて来た胸の重苦しさは、胸の一番上にまで達して、首の付け根にまで届きそうである。
此の関所を抜ければ、嘔吐が始まりそうだ。
此の症状は、私の身体の死が近いのか、新たな次元への変容の為なのかは、未だ解らない。
私は十二指腸の出血の度に、毒気・カルマが抜けて、意識が純粋に成って来た。
それは、自分の自信が消える事と、仕事を休む事で、自由に成る事。其れに、他人が優しく面倒を看てくれる事など、色々な面で環境が変わるからである。
病気をすれば、お医者さんの有り難味も分かるし、薬の必要性も分かる。
其れに、病院の建物や器具、其れに看護婦さんが必要不可欠である事も理解できる。
何だかんだで、自分一人で生きて居るのではなく、社会が在る事で、活かされて居るのだとの自覚が出来るから、こんな私でも、少しは素直な気持ちに成るのである。
此の学びを、入院をする事なく認識出来れば、此の症状も消えるのではないだろうか。
いま一番認識しなければ成らない事は、此の胸の重たさの解決である。
此処数日で、アダムやイブの名が回収され、旧約聖書の概念が無くなれば、其れを対象に生きている20億人程の人々は、心の部分が空白に成り、動揺を起して来るだろう。
其の現象が、私の憶いの中で、胸に突き上がって来ているのかも知れない。
其れは、釈迦牟尼佛の謂う「三千世界が自分の胸の内に在り 衆生一切が我が子。」の言葉に繋がるモノであるし、宮沢賢治の「雨にも負けず・・・」の憶いが、繋がっているのだとの考えも出来る。
「謂」の漢字は「言+胃」の組み合わせで出来ているが、「胃」は月(胃袋)+田(米・穀物)の組み合わせで、謂は「言葉は 胃袋の中の穀物から発生する。」との意味である。
其れが、新嘗祭・大嘗祭の儀式に繋がっているのである。
今朝は、其の謂から発生して来る意識に、五層くらいの階梯が存在し、其の段階で発生する認識が、人間の性格や行動を造り出している事が、理解出来た。
その階梯の様子が、説明されて来た映像を、其々言葉に変換するのは、今の私の体調では無理なので、此処で述べる事はしないが、人間の身体は、各部分に様々な別の働きが内蔵されており、其れが、宇宙の存在と深く関係していることだけはハッキリとして来た。
ただ単に、身体を維持する為だけに、肺や心臓や消化器官が在るのではないのである。
謂(言ってくる)は、胃袋の食べ物に関係していても、其れが、人間の意識に上るのは胸の中心で、肋骨が集まっている骨の部分である。
其れが、咽仏の方に近く成る程、意識的には深く成る様である。
「意識・マインド」は胸に位置し、「ハート」は心臓に位置し、「勇気」は肝臓に位置し、「落ち着き」は腎臓に位置し、「神」は肺臓に位置しているのかも知れない。
「頭・脳」は、其れ等の働きの「総合司令室」と成っていると、言えるのではないだろうか。
其れ等の説明は、他の人の係りだろうから、私などが説明するより、インターネットで調べれば適切な答えが見付かるだろう。
私が、今日見せられた映像は、密教の「人体七つのチャクラ」の理論と重なっている部分が有るのだろう。
昔からヨーギの世界では、其れ等の理が、探求され続けて来ているのである。
私が今朝見た映像には、男女や子供達が、何人も現れて、様々な役割を演じて見せてくれた。
其の映像全体から、一口に云える事は、現代人は魂的に皆「幼く(長無く)」成っていると謂うことである。
花嫁は、直ぐ実家の母親に泣き付くし、花婿は爪を伸ばして仕事をしないで、先代の人の積み重ねを当てにして、自分で未来舞台を創造しないのである。
子供達は、成長しようにも、身近に頼りに成る先輩が居ない。
だから、人間の御魂が生長しようにも、生長出来ない環境なのである。
今朝の私へのメッセージは、人間の世界で一番重要である「謂」の世界を、もう一度確立しろとの事ではないだろうか。
其の内容は、宇宙原理(タオ・ダルマ)と人間の世界は、裏表に成っているので、其の真実を的確に把握する事と、着る物を前後逆に着ない事である。
其れは簡単に言えば、人間の存在の為に、神の世界が在るのではなく、神の世界の存続の為に、人間が在ると言う理・コトである。
其れさえ自覚出来れば、自分の為に、神に願いをする人は居なく成り、神に対して、「私は何をすべきか」とコールする者だけに、成って来る筈である。
其の理・ことわりさえ明確に成れば、人間の未来は約束され、明るいものと成って来るのではないだろうか。
今朝の映像は、現象化している人間世界だけの「表情(おもてじょうほう)」を見るのではなく、裏側の神の実情にも、目を向けろとの意味ではないだろうか。
我々は今一度、世界には表裏があり、時間的にも、前後があると謂う理を、把握するべき時節を迎えているのである。
平成18年9月22日
礒邉自適
2006/9/12
まめ料理「石松」
18・9・12
豆は、世界中で栽培されているので、品種も多いし、料理方法も多種多様にあると想われる。世界で、一番品種の多い作物かも知れない。
其れにヘルシーだし、貯蔵が効くので、年中安定して供給できる作物でもある。
インターネットで調べると、豆類は、世界中で食用として、経済的に重要な物で、約70種類程有り、豆科植物の種類に到っては、世界全体で凡そ650属1万8000種に及び、植物の中では菊科、蘭科に続いて三番目に大きなグループである。
何故、料理の店として、豆が指定されて出て来たのだろうか。
日本の、豆を使った食品としては、先ず、大豆を使用して造る豆腐・揚げ・納豆・湯葉・黄な粉・味噌・大豆油等が有り、小豆の赤飯やおはぎが有る。
他には、黒豆や空豆の煮た物などが有る。
野菜として食べる、ササゲやサヤエンドウにえんどう豆等も有る。
他にも、海外から導入された豆や、料理も数知れず有るだろう。
私が、今朝考えられる事は、是から、活動の輪を広げて行くのに対して、其の手段として「豆料理石松」との看板で、全国に活動拠点を造れとの事なのではないのだろうか。
現在、私が始め様と考えて居るのが「瑞穂の国造り」のネットワークである。そして、孔紀氏が始めるのが「NPO法人マザーグレース」である。
其の活動を拡げるのに、町の中に母親達が活動する「豆料理石松」が在り、其処に使う豆類を、瑞穂の国造りの仲間が栽培する構図が浮かび上がって来る。
お米の栽培と流通には、ある程度の規模が必要であるし、精米や流通も簡単には行かない。
其の点、豆類は小規模で栽培出来るし、流通も宅配便を使えば、少量から簡単に出来るので、取り敢えず始められる事としては可能性が高い。
是からの新しい世の中は、是までの様な、宗教団体や組織運営は要らない。
だから、私達も、宗教組織にて活動する事は出来ないのである。
他の方法で、環境に優しくて「生命・いのち」を大事にし、子供達が健やかに楽しく育つ社会を、創造して行かなければ成らないのである。
其れには、母親達が、子育てをしながら時間を上手く利用し、楽しく働ける場が必要であろう。
其処では、ミニパーティが開かれる空間が設定出来て、PCが有れば、情報の遣り取りが自由に出来る事に成り、新しい時代の井戸端会議が可能と成る。
また、田舎の「お爺さん」や「お婆さん」が、豆を栽培してくれれば、田舎の豆収穫にも、子供達が泊まり込みで手伝いに行ける事にも成るのだ。
名前の「石松」とは、少し変わってはいるが、名前は直ぐ覚えられるし、何となく親しみを感じる名でもある。
其れに、岩に生える松には、生物学的にも意味が有る。
何故、肥料分の少ない岩の上に、松が生育出来るのか、其の秘密も、近代科学で明かにされて来ている。
松は、根から酸を出して岩を溶かし、ミネラル分を吸収しながら、根にはバクテリアを養い、其れを養分としているのである。
其の賢い生き方は、人間がまだまだ自然から学ぶべき事柄が、多々有る事を教えてくれているのである。
今朝は、是から、取り組んで行かなければ成らない未来の社会構造に対して、一つの指針を示されたのではないだろうか。
其れが、神が、人間に対して望む事であれば、是からの我々の活動に対して、エネルーギーや智慧を、与えるとの第一弾だとも受け取れる。
取り敢えず、今日の処は、神の指示を受け取ったとの記録として、書き留めて措く事にしようと意う。
平成18年9月12日
礒邉自適
2006/9/10
嫁ぐ前に
18・9・10
今朝は、幾つもの、生活に関する事が映像で現れ、最後に「嫁ぐ前に」との言葉が告げられて来た。
今朝のメッセージは、男性に対しての物ではなく、嫁ぐ前の女性が、男性を見分ける基準とか、自分の心構えに付いての事だと考えられる。
始めの映像は、10名程の人数が、一軒の家の中に集まっていたら、大雨が降って来て、家の中に雨漏りが彼方此方で始まった。
すると、皆が慌てて、布団や家具の上にシートを掛けたり、濡れない様に、場所を移動したりしている。
其の映像の意味は、人間の衣食住の中で、雨に濡れない住家が、大切である理・ことを知らせて来ているのだろう。
家族や、食料に恵まれていても、雨に濡れては、生きて行けないと言う事である。
次は、男性が理屈を云っていて、其の男性の云っている理論と、森羅万象の働きが一致しているかどうかを、検討するものである。
どんなに、偉そうな事を云っていても、其れが、人間社会に現実として現れなければ意味が無いし、良い人生も送れない。
特に、農業や漁業は、季節や天候の動きを、正しく認識していないと、良い結果を出せないのである。
次の映像は、男性が五名程居て、其処に一人の女性が遣って来て、其の中から気に入った男性を一人選び、背中を合わせたり、前を合わせたりする場面だった。
其れは、自分に合っている男性かどうかを、計っている場面である。
其の内に、其の女性は、一人の男性を相手に決めたらしく、キリストが十字架に磔に成っている様に、其の男性に、自分の身体を委ねてしまった。
其の映像の後に、「嫁ぐ前に」との言葉が有ったのである。
昨日までは「想」「臭」「肌」とテーマが来ていたので、今朝は「聞く」か「食べる」事かに、成るかと想っていたが、今日のテーマは「住」に関しての様である。
住は、人間の生活に必要な条件である、「衣食住」の三大要素の一つだから、出て来るのは、当然と言えば当然である。
獣は別として、小鳥達は、パートナーが決まれば、先ず巣造りを始める。
其の事を考えれば、人間には住居が大事であり、雨漏りしないシッカリした家でないと、生活が出来ない事になる。
だから女性が選ぶ相手は、先ず、住まいが確りとしていない相手では、パートナーとしては、失格と言う事に成るのだ。
住まいが確保されても、生活を維持するだけの能力がなければ、女性が子供を産んで育てる事が出来ない。
身重の女性や、小さな子供を抱えた女性は、誰かの、手助けが無いと生きて行けないのである。
其の為には、自然や社会の中で、男性としての実力を、発揮出来る相手でないと駄目だし、他の男・雄よりも、自分のパートナーが優秀でなければ、生存競争に敗れてしまうのである。
其れ等の条件には、身体が丈夫で、健康であるかどうかも掛かっているだろう。
全ての条件が適って、初めて女性は、其の相手に、身を心から委ねられるのである。
今朝のメッセージは、最後に「嫁ぐ前に」と有ったので、其れ等の事は、嫁ぐ前に決めろとの事だろう。
嫁いだ後で気が付いても、もう遅いのである。
現代女性の相手の選び方は、合コンだとか言って集まり、相手の人生背景も能く調べない内から、身体を任してしまうので、好い加減な結び着きと成り、離婚率アップに、拍車を掛ける事に成るのである。
親が、好い加減な結び着きをすると、産まれた子供が、被害者と成ってしまうのである。
特に、相手の背景に、宗教等が存在すれば、子供の時から、意識は自由なものではなくなり、偏った生き方しか出来ないように成る。
今朝のメッセージで、最も重要な理・ことは、相手の男性の言っている事が、天地一切と共鳴しているかどうかである。
其れが一致しないのは、其の男性が、思想か宗教か、お金に意識が汚染されていて、大自然の営みから、外れているからである。
今でも、近代文化に汚染されていない民族は、自然と一体に成って暮らしている。
誰にでも、近代文明が、此の侭、永遠に存続出来ない事は、理解出来る筈である。
化石燃料が切れる前に、森林は失われ、水不足は起きるし、食料生産も落ち込んで行く。更に、環境汚染も進み、人間の病気も、拡大の一途を辿る事は間違いない。
そんな未来社会を、生き残るには、女性が、能力のある相手を選ぶ事である。
其れは、結婚してからでは、手遅れなのである。
女性が為すべき事は、嫁ぐ前に、男性を見抜く力を着ける事である。其れなしには、生き残れない時代が、迫って来ているのだ。
今日は、此の文章を打っていて、あとの情報は、是までの文章に書かれてあり、既に、パソコンの中に納まっていると知らされた。
其れは、私が、新しい体制に取り組む日が、近付いている事を、暗示するものでもある。其の新しい体制とは、女性の子育て応援と、新しき瑞穂の国造りの活動である。
現場の活動が始まれば、今までの様に、神霊界の付き合いをしている暇も無く成るだろう。
大事な事は、此の六年間で、書き尽くしているのではないだろうか。
昔の文章は、未だ一部はパソコン内には入っていない。
急いで、其れ等の処理もしなければ成らないだろう。
平成18年9月10日
礒邉自適
2006/9/9
ヨーロッパの言葉
18・9・9
今日の午後、田記さんより電話が有り、7日に、私が夢に出て来たとの事で、私や「スーリアさん」が四名車に乗っていて、霊夢の話しをして居たとの事である。
其の夢の内容は、「紀子さん」が夢に出て来て、今度産まれた子供の事を、話して居たとの事である。
そして「ルネサンス」と言葉が有り、文化が復活する意味を、伝えられたと云う。
ルネサンスはフランス語だが、私の夢にも、7日には「想」の文字が映った後に、「そぎぃと、てびろ・ろいと」等の言葉が平仮名で現れた。
カタカナ事典で調べたが、其れ等に当る単語は見付からなかった。
何故、日本の皇室に男子が誕生した事で、ヨーロッパの言葉などが、出て来るのだろうか。
ソギートや、テビロ・ロイト等が古代の言葉で、世界中に広がっている言葉であれば、意味が共通しているか、繋がっているのかも知れない。
例えば、テビロが手色であれば、手で演奏する、様々な楽器の音色の意味であったり、ロイトがギリシャ語のロイコであったりすれば、白色の意味と成る。
田記さんと私に、ヨーロッパの言葉や、文化の意味が伝えられて来たのは、今度、日本の皇室に産まれた男子は、世界の未来にも関係があり、世界中の霊界から、喜びのメッセージが届いているのかも知れないのである。
8日・9日と、私にも、何かの変化が起きて来ている様なので、明日、何が起きるかは分からない。
此処には書けないが、色々な事が、起こり始めているのである。
平成18年9月9日
礒邉自適
2006/9/9
自分の中に住む白蛇
18・9・9
本日9月9日は「重陽の節句」である。其れに、「ククリの日」で「白山権現菊理姫」にも関係が有る。「ククリ」とは、神霊界と人間界が「結び合う・括り合う」との意味であろう。
昨日から、私の心身が変調を起して来て、具合が悪いと云うまでには至らないが、何だが落ち着かない。
其れは、大本教の出口王仁三郎の謂う、「9月8日の12の秘密」が、表世界に現われ始めたからであろうか。
私の神事の始まりは、出口王仁三郎に下駄を履かされた事が切掛けだが、其れより前に、霊夢の中で、「白龍」が私の身体にトグロを巻いて来て、私の左手の掌の上に、丸い地球を乗せ、管理する様に云い、私の頭を切り離して地球と重ねてしまい、私の胴体の上には、龍神が自分の頭を据えてしまったのである。
其れは、身体は自分の物だが、其の胴体には「白龍」が巻き付いており、頭は龍の頭と取替えられ、自分の頭は、地球として左手の上に乗っていると言う、説明し難い有様である。
其れは、不思議な感覚で、自分の頭が地球で、身体とは分離されており、自分の意識は屋久島の岩山を通してでなければ、肉体に還れないのである。
私は、自分の意識に辿り着く為には、宇宙から地球に帰り、屋久島の花崗岩の岩を経由しなければ、手足の付いている肉体には帰れないのである。
其れは、自分の意識が自分ではなく、何か得体の知れないモノと掏り替っている事に成る。
今朝、明確に成って来たのは、其の得体の知れないモノとは「ククルカーン」なのである。ククルカーンとは、アステカの神で、8段積んだ石のピラミットの階段から、地上に降りて来る水を齎す大蛇である。
其の、8段の階段の段差に出来る隙間の三角部分が、蛇のトグロを巻く7つの空間なのである。
其れは、八段の又に住む「やまたのおろち・八又大蛇」なのである。私の身体に巻き付いて来たのは、其の「ククルカーン・括る神様(くくるかんさあー)」だったのである。
私は、1985年3月5日に、初めての全国の旅の途中で、島根県の出雲大社に参詣した。其の時、導かれる様にして、「大国主命」を祀る大社と、神楽殿の間に在る川筋の道を、山の方に向かって歩いて行った。
1kmくらい坂道を登って行くと、其処にあまり大きくない社「大穴持御子神社(三歳社・みとせのやしろ)」が一つ在る。
私は、其の社にお参りし、其の夜は大社の参道の近くにある大島屋旅館に宿泊した。
すると、夜中に、其の山の社から、女のコケシみたいな物がピョッコン・ピョッコン・ピョッコンと下りて来て、宿に寝て居る私の布団まで遣って来た。
すると、其れに対応する様に、私の身体から直径30センチくらいで、長さ2mくらいの白い蛇の様な物が抜け出し、コケシに導かれ大社の方に向かって進み始めた。
私の意識は、其の白い大蛇と一体に成って、空中を移動して行った。
其の、コケシと白い蛇の様な物は、大社の表側から社の壁を抜け、後ろに在る「須佐之男尊・すさのおのみこと」を祀る社に行き、更に其の社も抜けて、後ろ側の岩板の土手に突き当った。
すると、其の途端、其の白い蛇の身体の様な物は、白い光りと成って爆発して消え去ってしまったのである。其の光りの現象の後、私の意識は又宿の布団の中に在った。
其の映像を、今朝思えば、屋久島で私に入り込んだ白龍が、出雲大社の裏山に住む「コケシ神(シャクジ神?)」に導かれて、大社の裏山の磐座に還った事に成る。
出雲大社の裏山は、「弥山」と呼ばれて居るが、地元では昔から蛇山と呼んでいるらしい。其れは、奈良県の三輪神社の三輪山(三室山)と、同じ言い伝えを含んでいるものである。
どうやら、出雲も三輪も白山も、同じオロチが関係している様である。
「大穴持御子神社(三歳社)」http://wave.ap.teacup.com/894019/2137.html
其のオロチを信仰する、古代の「国津神・祇(くにつかみ)」から「櫛稲田姫」を奪って妻にしたのが、渡来系の「素戔鳴尊・櫛御気命」なのであろう。
私の体に、トグロを巻いて来た龍神は、七回トグロを巻いて、頭を其の上に出している、祖母山の水神と同じモノだったのであろう。
今朝のメッセージの映像は、歌舞伎役者の大物が出て来て、様々な顔をしたり、身体を動かして、色々な動作を繰り返した。
其の役者の四方に、弟子らしき男性が現われると、其の舞台は水に覆われ、海中の舞台の様に成った。其の水の中で、五名が歌舞伎を演じ始めた。
其の様子は、無重力の中で手足をバタつかせている様な感じである。其の時、私の意識は、其の様子を見ながらエラブ(海蛇)の意識に成って居て、水中を揺ら揺ら漂いながら其の様子を眺めて居た。
そして、「大国主命」の名と、「瀬織津姫」の名が気に成っていた。其れは、先日現われた般若男が大国主で、お婆さんが瀬織津姫でコケシ神の様に想われるものである。
今朝、出雲の件を思い出したのは、日本の歌舞伎の始まりは、出雲のお国さんの河原芝居が基に成っているからである。出雲の「お国さん」を動かした本体こそ、弥山のオロチだったのかも知れない。
今朝、私が感じた事は、昨日「臭」がテーマで鼻の働きだったが、今朝は五感「視・聴・嗅・味・触」の内、物に触れる「触」の世界が現われて来た様である。
蛇は手足が無いので、臭いを嗅ぐ鼻の感覚の次は、身体が触れる物の感覚なのかも知れない。其れは、食欲を離れた処の性衝動の、触れ合いの出来事に関係があるのではないだろうか。
赤子が、母親の子宮の羊水の中から外に出て来て、水の肌触りからイキナリ接触するのは母親の肌である。羊水に浮かんで居た柔らかい肌が、イキナリ硬い母の手に抱き上げられるのである。
其の時に、感じた不安感がトラウマと成り、死ぬまで意識を左右していると考えても何等不思議な事ではない。
人間が、野生の猿と同じく、スキンシップを欲しがるのも、そこら辺りに原因が有るのではないだろうか。蛇が、雌雄絡み合っている姿を、神の姿と重ね合わせて憧れる人間の意識は、多分この「触」の世界に、要因が隠れているのかも知れないのである。
そう言えば、歌舞伎役者が水中で行なっていた仕種は、産まれたばかりの赤子が、産湯のタライの中で、手足をバタつかせている様子にソックリであった。
現在、人気の有る歌舞伎役者の仕種と、タライの中の赤子の仕種を重ねて見れば、生命の基本原理は、赤子も大人も、あまり差が無いのではないかと想えて来る。
歌舞伎役者は、顔に隈を描き、特別に表情を引き立てているが、其の顔の表情の世界こそ「想」を現すことにある。
私は今朝、事務所の横に在る汲み取り便所が汚れていたので、水で洗いながら掃除をした。ホースで便器を洗っていると、勢い有るホースの水で、下の糞尿が攪拌され、臭いが立ち上って来た。其の時、顔をしかめた私の顔は、歌舞伎役者に負けないくらい良い演技をしていたかも知れない。
其の無意識の表情こそ、物と、人と、蛇が、括り合った瞬間ではないだろうか。
私の内に、存在するオロチの意識こそ、全ての生命の意識の源なのだろう。
万物の霊長とは、人間自身ではなく、人間の意識の中に住んで居て、時には答えが見付からず、手足をばたつかせ、身もだえしている「蛇・エラブ(選ぶ)」の事なのではないのだろうか。
何故、釈迦仏陀の背後の護り神が、七又頭のオロチなのか、其の答えも見えて来たようである。
「白蛇・白龍」が分離して働く時、七色に別れるのである。其の時、プリズムの役割を果たすのが神社に備えられている鏡や、イシス神の頭上の鏡なのだ。
「鏡・かがみ」の名が、「カカチ・蛇」と「カガミソ・カガミッチョ・蜥蜴」の同語であり、正月に七段重ねられる「カガミ餅」は、其のまま「ククルカーン」のトグロを巻いた姿なのである。
其の「括る働き」が、「白山菊理姫」で、「瀬織津姫」の別の姿なのだろう。
成18年9月9日
礒邉自適
2006/9/5
日本国が滅びる日
18・9・5
今朝の映像には、自然豊かな土地に存在する、水田が映り出されて来た。
私が、其の水田を良い水田だと意い眺めていると、其の水田の持ち主である、50歳位の男性が遣って来て、此の水田には、春にお茶の苗を植えて茶畑にすると云う。
其の理由は、国の貿易自由化政策で米の値段が下がり、稲を栽培すると赤字が出るので、あまり手の掛からない、茶畑にするのだと云う。
私は、其れを聞いて、愈々日本国も終りだと思った。
日本は「豊葦原瑞穂の国」と呼ばれ、稲作が中心の農業国であり、長年 大名が「○○万石」と呼ばれた様に、米が貨幣の代りと成って来た程の、稲作国である。
其れが、最高の条件の土地で、稲が栽培出来ないと言う事は、日本文化の終焉を意味している。
其れも、水が涸たり、栽培する人間が居ない理由・わけではなく、海外から為替の影響で、安い米が輸入されるからである。
其れも、日本が米を作れない分けではなく、海外の米が安いからであるが、其の米を輸出する相手国自体は、日本が、米を買う事で値上がりし、低所得層は米が食べられなく成るのである。
美味しい米が出来る国で、米を無理に栽培せず、運賃を掛けて遠い国から、米を買って運んで来て、其の国の人を困らせるのである。
誰が考えても、無理(理が無い)な話で、真ともな人間の考える事ではない。
現在の政治は、地球全体の環境や、人々の平和と、幸福を考えている政策ではなく、一部の人達の利潤追求の為の政策が採られている。
其の歪みで、自然環境の良い田舎から、若者や子供達が、消えてしまって来ている。
其れは、人間の意識が、正しい世界から離れ、人類全体がカルマ・業の海に、溺れてしまう事を意味している。
其の内に、人間の魂しいは穢れ、正しき価値観の者が、人間社会から居なく成ってしまうだろう。
日本国は、食糧自給率が30%を割り込んでおり、先進国の中では最低である。イザ有事と成れば、70%の人達は海外に逃げ出すか、飢え死にするかしかないのである。
卵や肉や魚は、自給出来ている様に感じているが、其れ等に与える餌は、90%以上が輸入の穀物である。
円安と成り、穀物が買えなく成れば、パンは疎か、麺類に使用する小麦を始め、味噌も醤油も豆腐も皆、輸入大豆で作っているので、スーパーの店頭から殆どの食料品が消えてしまうだろう。
唯一、自給出来ていた米を作らなくなれば、日本人の生き残る術は無いのだ。
今朝のメッセージは、我々日本人に、死の宣告を告げて来ているのではなく、生き残る為の、智慧を授けて来ているのである。
其れは、山を護り、水を護り、水田を護る事である。
其れ以外に、大事な事は無いのである。
其の事を、忘れてしまえば、日本人には未来が無いのである。
フランスやドイツ等、ヨーロッパの国々は、殆んど自給率100%を硬く護っている。其れは、イザ何か有れば、誰も他国を助けるだけの余裕が、無く成るからである。
もう地球には、第二次世界大戦後の復興時の様な資源は無い。
其れは、此処60年で資源を食い尽くし、森は消え、大地は疲弊し、海の魚は減り、化石エネルギーは浪費され、空気は汚染され、人心は荒廃し、何等、善い事は行われていないからである。
世界一の大国アメリカは、日本が国債を買い支える事で成り立ち、其の日本は国民に其の付けを回す為に、国債を発行し、700兆円もの借金を抱えている。
其れは、老人や赤子を含め1億3000万人全員が、漏れなく一人当り640万円もの負債を抱えている事になる。
年収が、40兆円しか無い日本国と言う会社が、年間、其の倍の80兆円もの金を使っているのである。
其れは、小学生に考えさしても、どうなるかの答えは出せる事である。
郵便貯金の300兆円が、後何年で「日本国国債」と書かれた、紙切れに替るのか、其の時が過去の世界の終りである。
其の、残り数年の間に、新しい社会の仕組みを創らなければ、人間社会は崩壊を向え、大混乱が起きるであろう。
私は、其の事は40年前に感じており、其れに対応して、是までの人生を送って来た。だから、どうなっても私は驚かないし、其の準備もして来ているので、私には、何が起きても何等関係が無いのである。
関係有るのは、未来社会を創りに、地球に来ている人達だけである。
其の人達は、既に400万人程存在するとの事なので、私が心配する程の事でも無いだろう。
大事な事は、地球の緑を護り、水の循環を支え、「豊葦原瑞穂の国」の概念を伝え残す事である。
其の為に八百万の神々が働いているのである。
日本国と言う国は滅びても、「豊葦原瑞穂の国」と呼ぶ国は残るのである。
其れが「山門・大和・倭・やまと」の神々の働きなのである。
私は、其の神々の働きに、22年間身を捧げて来たのだ。
平成18年9月5日
礒邉自適
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