このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2006/10/18
新しい錦の御旗
18・10・18
昨日朝9時、愛媛県大洲市を出発し、三崎から佐賀関に渡り57号線で熊本に抜け、九州自動車道を走ってえびのインターに降りたのは、丁度夕刻の5時のチャイムが鳴り響き渡る時刻であった。
インター近くの知り合いのホテルに着き、友人と午後8時から夕食を摂っていると、8時30分に左手の中指と薬指にビリビリ(神の信号)が有り、再び、9時2分に今度は人指し指に強く来た。
其の9時2分は、大事な数霊を示している。21年前にも、京都府亀岡市の亀岡温泉「憩いの家」で同じ現象が起きている。
9時2分は「9x2=18」を意味しており、菊花紋が16方位から18方位に変る事を意味するものである。
其の9とは、是から人類の意識が、8次元から9次元に移行する事を意味している。
其の意識とは、人類の意識だけではなく、地球の水の意識が変る事をも、意味しているのである。
其れは、別の説明をすれば「八代龍王水神」の代・世から、「九代龍王水神」の御世に、世界が変る事を意味している。
其の為に、陰陽の八次元の印から、九次元の印へと、認識パターンが変化するのである。
16菊花紋は、シュメール文化の物で、其の認識で、是までの7000年間の文化が綴られて来た。
其れが、今回、ようやく次元進化するのである。
私は昨夜、11時過ぎにベッドに入ったのだが、グッスリ眠れずに時間を過ごした。
其の間に、意識に上って来たのは「力を抜け・力を抜け・・・」の言葉で、やがて「錦の旗を揚げろ」との意味が伝えられて来た。
此のホテルに、前回泊まったのは、昨年10月4日で、其の時には「いずの目・ラーの目」が現れ「開眼」の題で文章にして有る。
其の文章を読むと、新しき人間の動きが現れる事が、告げられて来ている。
どうやら、其の事が、現実として動き出す時が来たようである。
私の文章は、1年前・2年前と同じ日の文章を見て行くと、何等かの関連性が有る事が見えて来る。
其れは、霊界の人々が、私の心身を使うのに暦を使って、使える日を振り分けている為であろう。
今年の10月4日は、出雲に居て「瑞穂の国」のHPを作成していた。
来年の同じ日に、何が有るのかは分からないが、今朝の私の話を聞いて、友人が18方位の菊花紋のマークの付いた旗を創り、九代龍王水神の名を幟として掲げる事に成った。
今日は、日付も18・10・18である。18・8・18には、マヤの神である「ククルカン」が現れ「約束を守る」と有り、HPの画面が出て来たので、其の日にブログも開設して有る。
「約束を守る」http://green.ap.teacup.com/20060818/
えびの市は、「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」を祭る霧島神宮の近くでもある。
今朝のメッセージには、其の瓊瓊杵尊が関係しているのかも知れない。
屋久島の山には、瓊瓊杵尊と「木花之佐久夜毘売命・このはなさくやひめ」との間に誕生した息子である「山幸彦」も祭祀してある。
其れ等も、みな関係しているのではないだろうか。
何れにしても、ようやく新しい流れが起き始め、新しき蜂起の時が迫っているようである。
平成18年10月18日
礒邉自適
2006/10/9
自然との共生
18・10・9
今朝のメッセージの映像には、人間が削り取った山の修復を、どうするかがテーマとして映し出されて来た。
山は、昔から神の住まいであり、敬う事の対象だったのである。
それが現代では、何の恐れも無く削り取ったり、穴を開けたりしている。其れは、地球に意思が有るとすれば、痛みを伴っている事だろう。
何故、私に其の様なイメージが映されて来るのか。
其の要因は、出雲には「須佐之男尊・すさのおのみこと」と、須佐之男尊の次男「五十猛命・いそたけるのみこと」や、娘二人「大屋津姫命・おおやつひめ」「都麻津姫命・つまつひめ」が全国に公孫樹などの樹木を植林して、環境保全に勤めた事の情報が、自然環境の中に記憶されているからではないだろうか。
私が、出雲の地に縁が出来たのも、やはり須佐之男尊と五十猛神の霊魂の為せる業・わざであった。
私が、京都の大徳寺の近くに住んでいた1996年8月23日には、安部忠宏氏の住む雲南市下佐世の「下佐世神社」に生えている須佐之男尊が植えた木が霊夢に現れ、9月11日には安部忠宏氏が生まれた横田町の五十猛神が祭神の「伊我多氣神社」の境内に生えている御神木が霊夢に現れた。
其の二本の御神木の事は、見た事も、聞いた事も無い神社の御神木で、其の年の11月に安部忠宏氏に出雲を案内されている時に、実在する事が初めて判った物である。
何故、其の様な現象が起きたのか。
其の出来事こそ、霊魂が不滅である証拠と成るものである。
だから、樹木に神霊が宿ると考えられ、神籬・ひもろぎとして、神社に樹木が植えられ杜・もりが造られたのである。
日本の天皇陛下が、何故自分の手で植林をするのか。其れは、3000年にも亘り須佐之男尊と五十猛命の行為が伝え続けられているからである。
昨日は、午後タタラに使う砂鉄が採取されていた、かんな流しの地を訪れた。だから、其の昔の映像が映されて来たのかも知れない。
何れにしても、是から、人間が未来社会を構築して行く為には、須佐之男尊と五十猛命の霊魂の存在を、無視する事は出来ないであろう。
11日には、和歌山の五十猛命の終焉の地と伝えられている「伊太祁曽神社」に参詣して、宮司さんと話す予定である。其の前触れとしての、今朝のメッセージではないのだろうか。
此の処のメッセージから考えられる事は、人間が新たな心構えで生きて行けば、神々は其れを支援する方向が見えて来ている。其の流れに、どれだけの人々が組みするかは分からないが、人類の未来に、幾ばくかの希望の光が燈っていることは間違い無いだろう。
私も、其の灯りを心の糧として、今後も進んで行かなければならないのだ。
平成18年10月9日
礒邉自適
2006/10/8
足腰を鍛える
18・10・8
今朝の映像は、腰と足首に、何らかのサポートを着ける場面だった。
其れは、物を着ける意味ではなく、本人が、自分で、腰の部分と、足首を鍛えなければならない意味を、伝えるものである。
今朝の映像は、足腰が丈夫な者が行動を興し、其の者達が考え出した概念に因って、新しき文章が綴られ、向こうに待っている、薄紫の服を着た女神に、面会出来る事が、示されたのである。
其の、小豆色の紅紫の衣を着た女神は、弁財天である。
どうやら、其の弁才天がお好きなのは、足腰を鍛えた、丈夫な男性の思考のようである。
現代社会に、出回っている文章は、机にしがみ付いて、頭で考えた人間の文章が多い。其れは、俗に言う、頭デッカチ人間の、価値観の文章と言える。
今朝のメッセージの映像に、現れた女神が、必要としている価値観の文章は、「三蔵法師」の文章ではなく、「孫悟空」の体験談の方が、有意義だと告げて来ているのではないだろうか。
其の点から、日本の文章を見れば、「二宮尊徳」や「安藤昌益」などの文献が、其れに当たるのではないだろうか。
日本には、他にも「佐倉惣五郎」や「宮沢賢治」など、沢山、其れらしき人物が存在する。
日本の文化は、平安貴族の文化や、中国から導入された「道教」や「儒教」の価値観とは、別の世界を築き上げて来ているのである。
今朝のメッセージは、日本文化の特徴である、自然相手に働く者の思考や、概念を、早く完成させろとの事ではないだろうか。
其れは、マルクスの想いにも、繋がるものであろう。
旧約聖書では、大地を耕し、麦を栽培している兄の「カイン」よりも、羊の番をして遊んでいる「アベル」の方が、神に喜ばれた事に成っているが、身体を使って労働をして居る者の価値観こそ、現実的であり、大事である理を、見直さなければ成らないのではないだろうか。
現代社会にも、体を動かすスポーツ等が有るが、子供の頃から、スポーツばかり行っていると、俗に言う「スポーツ馬鹿」と云われる事に成ってしまう。
人間は、スポーツをする為に、生まれて来ている譯・わけでもないし、机に座って文字を見る為に、生まれて来ている譯でもないのである。
人間の本来の働きは、自然の中で、生命活動に勤しみ、五感を鍛え、遺伝子の存続を、支える為に有るのだ。
そして、大自然の奥に潜んでいる、偉大なプロセスを感じる為に、第六感を鍛えなければ成らないのである。
其の理想的なお手本が、「二宮尊徳」や「南方熊楠」の様な人物ではないのだろうか。
彼等の書き残した、文献こそ「大説」であり、現代社会の、森林減少に拍車を掛けている、小説家の文章等とは、比較に成らないモノなのである。
「大説」とは、身体を動かした者の、智慧から生まれるモノであり、「小説」とは、巷の噂話しの様なモノで、人心を惑わす物に過ぎないのである。
其の点から言えば、現代社会の物書きのレベルは、弁財天の意識外に、あると言えるのではないだろうか。
今朝のメッセージの意味は、男性の働きとは、自然の中で身体を動かし、鍛えた者の思考こそ、本来の人間のモノであり、現代社会の其れは、神の意識からは遠のいているとの理を、示して来ているのであろう。
其れは、現代社会の官僚組織や、受験地獄の過ちを、指摘して来ている事にも成る。
其れ等の、事柄を考慮すると、全く新しい価値観の社会を、構築しなければ、弁財天も、人間に対して、協力をしないとの事ではないだろうか。
不思議な事に、いまお世話に成っている「安部忠弘氏」の自宅の横には、川が流れており、屋久島の「西川良明氏」の自宅近くにも川が流れ、四国の道場の横にも川が流れ、私の安房の自宅も、安房川の縁である。
私の移動先には、何処にでも水の流れが有る。
其れは、私の意識が、水と共に存在している事の証であろう。
其れを考えると、私の思考とは、水から生まれていると言っても、過言ではない。
今朝の文章も、嘗って「須佐之男尊・すさのおのみこと」や「大国主命」が飲んで居たであろう、タタラが築かれた出雲の「真砂土」から湧き出して、流れて来ている水である。
出雲に来て、5日である。
私の思考も、屋久島の水から、出雲の水の思考へと、換わりつつあるのではないだろうか。
平成18年10月8日
礒邉自適
2006/10/6
縦横のブロック
18・10・6
今朝のメッセージの映像は、私の意識が、山中に有る遺跡の中で、火を焚いていた。
其の遺跡は、横に二列か、三列のブロックが組まれており、縦にも同じ様にブロックが組まれていた。其の、縦横に組まれたブロックの意味は、良く分からないが、何かの組み込みが、縦横に組まれるとの事だろう。
遺跡の中で火を焚いていると、其処に、私の弟が遣って来た。
そして、弟が消えると、次に軍隊時代の格好をした30歳頃の父親が、馬に乗って現れた。
其の次に、明治維新の立役者である「西郷隆盛」や「坂本龍馬」達の写真が並んだ映像が映り、次にシャーリーマックレーンの本を訳した「山川絋矢氏」の写真が、文章の左上に出て来た。
そして、最後に、右下に基壇に「祖」の「且」の形に積み上げられた、金色の金属らしき物が現れた。
今朝のメッセージの映像は、「積む物・積み上げられるモノ」が、テーマの様である。
今朝の映像の内容は、遺跡を組み立てているモノの意味。人間の親子関係(縦)兄弟(横)。戦争の歴史や、時代変革の在り様。其れに、文化や文明の交流や、積み重ね等、多岐に亘っている。
其れは、此の世界が、縦横に繋がる出来事や、情報に因って成り立っている理・ことを、知らせて来ている。
其れが、何を意味しているのか考えて見れば、人間は、大昔し、裸で岩穴に住み、やがて火を燃やす事を覚え、言葉を発達させ、道具類も開発して、現在の文明社会を築いて来た事を示唆している。
今朝の映像は、其れが、是からも続けられる事を、伝えて来たのではないだろうか。
出雲は、日本の文化の始まりの地である。其れに、10月は、出雲だけが「神有り月」である。
昔は、年に一回、出雲の地に各部族の代表者が集まって、文化や意識の交流を図っていたので、其の世界が、今朝、私の意識の中に映り出されて来たのかも知れない。
今朝の映像が、何故、映されて来たのかを考えて見ると、我々人間の存在が、再び、神にとって必要なモノとされ、新しき組み込みを始める様に、示唆して来たものとも受け取れる。
そうであれば、新しき文化や文明を、組み立てる必要が有るのだろう。
今日は、朝から、広島県の環境改善の実践者達を、安部さんの案内で訪ねる事に成っている。其の事も、未来社会の組み立てに繋がるものであろう。
私の第三ステージは、既に始まっているようである。
私の行動や、文章が、山川絋矢氏の手で、英文にて、世界に紹介される日が近づいているのだろうか。
其の事は、既に1987年9月29日に、山川絋矢氏に自宅に泊めて貰った時に、直接頼んである。其れが、現実に移されるトキが、来たのだろうか。
平成18年10月6日
礒邉自適
2006/10/4
神様はミュージカルがお好き
18・10・4
今朝のメッセージの映像には、父親と、息子と、娘の三名の姿が現れた。
其の三名は人間なのだが、特別に位が高いと言うか、人間離れした感じの風貌であった。
其の感じから、想像できる人間は「「饒速日大王・にぎはやひ」と、息子の「宇摩志麻遅命・うましまじ」と、娘「いすすき姫」である。
其の場面は変化し、父親である「ニギハヤヒ・天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」の前で、二人が芝居を始めた。
其れは、日本の芝居や神楽の様な形式ではなく、ミュージカルの様な形式である。
其の二人が演じ始めると、其の二人の間に「乙武洋匡(おとたけひろただ)氏」が現れ、其の三人が並んで寄り添い、歌を歌いながら、体を揺らして居るのである。
今朝のメッセージの意味は、私にも能く分らないが、是から、私が進んで行く道を、暗示している気がする。
新しい人間社会を構築して行く為に、何から始めれば効果的なのかを考えれば、ミュージカルで意識に訴える事は、以外に効果的なのかも知れない。
都会の人達が、農村に出掛けて、農業体験をするのには時間的にも大変であるし、気持ちとしても勇気が必要である。
しかし、日常生活をしている都会であれば、誰でも直ぐに、新しい概念に触れる事が出来る。特に、乙武洋匡君が参加してくれれば、一気に拡がる可能性は有る。
新しき社会を構築する為には、新しき概念が必要である。
其れを、構築して行くには、ミュージカルは効果的な方法であると云えるだろう。残された時間は、六年間しかない事を考えれば、社会に影響を与える方法として一番効果的であろう。
其れが 何故、「饒速日大王」と二人の子供なのであろうか。
其れは、日本の政(まつりごと)を始めたのが、饒速日大王だからではないだろうか。
須佐之男尊の代では、まだ部族だけの暮らしであるが、饒速日大王の御代に成って、奈良や尾張で、他部族を巻き込んだ政(まつりごと)が始まっている。其の延長線上に、現在の政治が有るのである。
其の、新しき政(まつりごと)を始めた饒速日大王が、新しき次元の祭り事を始め様としているのだと考えれば、何ら不思議な事ではない。
其の方法として、ミュージカルが取り入れられようとしているのである。
考えて見れば、現在の歌舞伎は出雲の「お国さん」が始めた、一人芝居が元である。若しかしたら、お国さんを動かしたエネルギーが又、動き出したのかも知れない。そう考えれば、是から始まるミュージカルは、新しき神芝居・紙芝居と言えるのではないだろうか。
それに、9月29日には「リスボンズの図形」として、メッセージが有り、胴体の上に、頭の付いた人形が現れたが、其の形を考えれば「乙武洋匡君」こそ神の使いであり、新しい社会に対して、メッセージを伝えている事に成る。
昨日、松山悦子さんより電話が有り、10年前と、その後一回、神社で人型が現れた事が有ると云って来た。
私も22年前に、「出雲大社」と「北島さん」の間の道を上がって行き、山中に在る「大穴持御子神社(三歳社・みとせのやしろ)」にお参りした夜、人の型をしたモノが向かえに来た事がある。
北島さんは、「饒速日命」を祭る神社だが、其れは、国を譲ってくれた「大国主尊の霊(出雲大社)」を、御守りする為のものである。
昨日は、狩山八幡様にお参りしたら、大国主命の霊魂を感じたが、今朝は、大国主に国を譲って貰った「饒速日命・ニギハヤヒ大王」と、子供二人が出て来た事になる。
10月は、全国は神無し月だが、出雲だけは神有り月である。
其れは、年に一度、全国に散っている神々(人格霊)が、出雲に帰って来て、会議をする月であるからだ。
其れが、単なる昔話しとしてではなく、現実の事として、動き始めているのではないだろうか。そして、新しきミュージカルが始まるのである。
中村孔紀氏は、今年6月11日にお神楽の神に出会ったとの事。
其の日は、私は屋久島で紀・トキの始まりの儀式をしている。
中村孔紀氏は、四年前の6月11日に、人型をしたモノに出会ったとの事である。中村孔紀氏は、其の人型のモノを「ヤハエ」と呼んでいるが、私にとっては日本の神の原型の様な気がする。
同じ形の物を、愛媛県西条市の「津島氏」も神としているし、「日子さん」も同じ物を神として創作している。
私が22年前の11月に、伊勢神宮にお参りした時に現れて、「過去に8回失敗した。今回が最後のチャンスで 今回また失敗すれば、この地球ではもうやり直しが出来ない。」と告げた神は、顔は有ったが、其れは上半身だけで、手足は見えなかった。
其れ等の事柄を考えれば、軒下にぶら下げる「テルテル坊主」こそ、神の姿の原型なのかも知れない。
「乙武洋匡君」がどう想うか分らないが、新しき時代の幕明けとして、劇団の座長に成って貰えるのなら、一気に流れが起きるだろう。
其れこそ「座長」の言葉、其のものであり、乙武洋匡君の母親こそ、母性の鏡と云えるのではないだろうか。
今回行われた「マザーグレイス」の発足の動きは、乙武洋匡君の母親の姿として、現に存在している事に成るのではないだろうか。
今日は、時間が有れば、北島さんと、山中に有る「三歳社・みとせのやしろ」に、22年振りにお参りしてみたいと想う。
平成18年10月4日
礒邉自適
2006/10/2
Playと花束と18
18・10・2
今朝のメッセージは「Play・プレイ」の英語のスペルが出て、次に花束が映り、更に「18」の数字が現れた。其れは、昨日、第一回の「WAOの集い」が行われ、NPO法人「マザーグレース」の動きが始まる切っ掛けが、生じたからなのかも知れない。
「Play・プレイ」とは、何かが始まる事であり、花束が現れたのは、其れを神々が喜んでいるとの知らせであろう。
そして18の数字は、是から始まる新しい世・代は、是までの「十六島(うっぷるい)」から18の菊花紋へと、次元上昇が行われる事を意味している。
是までは、「八代龍王水神(八次元)」の陰陽16の世界(伊邪那美命から「高御産日神まで)だったのだが、是からは九次元の陰陽「2x9=18」の世・代が開かれて行くのである。
其れは、神の意識が高まり「九代龍王水神」の世界が、始まる事を意味している。
其の神の意識の姿は、太陽の光を背に受け、緑(葉緑素)の服を着た、身重の女性の姿である。其の女性が、立って居るのは、水の惑星「地球」である。
地球に、生命が存在するのは、地球に水が存在するからである。だから、其の身重の新しきマリアの姿は、水の化身であると言える者だから、九代龍王水神の姿であるとも言える。
今、インターネットでプレイを検索すると、名詞のplayは「場」の意味であるとの事である。今朝のメッセージのplayは、其の「場・グランド」の意味なのではないだろうか。
参考HP「プレイ」http://washuu.hp.infoseek.co.jp/play.html
「十六島・うっぷるい」とは、16方に分けた空間・場の意味であり、平面の「16(方位)x16(縦の段)=256(島・場・空間)」で、人間が一段目の「磯の段・お白砂」から、神の座である「天御中主」の意識に到達するまでには、256の場数を踏み、其の過程を終了しなければならない理・ことを意味している。
其れが、今回は「18x18」だから、324の場を終了しなければならないので、「324−256=68」で、68の場「Play・プレイ」が、増やされた事に成るのだ。
現在の、天皇家の菊花紋は16紋の世界だから、今のままでは、取り残される事に成るのである。
確かに、現在の天皇家のシキタリの侭では、今回のアセンションには合わない事は確かである。それに、宮内庁も、神社庁も、其れに対する心構えも出来ていないのであろう。
インドのお釈迦さんが、2600年前に予言している様に、現代人は皆「無明(明かりが無い)」の中に落ち込んでいるのである。
今朝のメッセージは、其れ等の人々に対する警告であり、新しき世界に取り組む者達にとっては、花束が授けられる事に成るのである。
今回の宮島での集いは、確かに、水の神の三姫の一神である辺津宮の「イチキ島ひめ・市杵嶋姫(いちきしまひめ)」が働いているのかも知れない。
後は、中の島「中津宮 - 湍津姫(たぎつひめ)」と、沖の島「沖津宮 - 田心姫(たごりひめ)」が動き出せば、「十六島・うっぷるい(我が水の道)」が完成するのだろう。
平成18年10月2日
礒邉自適
2006/9/30
あたらしい道
18・9・30
今朝の映像には、「道」の漢字の「首」が外された文字が映って来た。
そして、其の文字は、水色をした印鑑の文字として、使われる意味が知らされて来た。
其れは、今回の新しき時代の始まりは、敵の首を刎ねなくても、出来るとの理・ことであろう。
「道・衜」の漢字は、行の間に、手に首を下げた人が、存在する意味で、字義は「自分と違う考えを持つ相手の首を刎ねて、違うイメージを持つ人々を消し、自分の考え通りにする。」との意味から、清まる・征するの意味を表すものである。
今朝の映像は、其の首が外されていたので、是からの国造りは、自分以外の人間の首を刎ねる必要が無いとの理・ことであろう。
昔は、インターネットの様な、情報操作の方法が無いので、自分の考え通りにするには、自分の考えを受け入れない者は、総て排除するしか、他に方法が無ったのである。
しかし、現代社会はインターネットを利用すれば、世界中に、自分の考えを拡大する事が出来るのである。だから、別の考えが有っても、其れを排除する必要はなく、自分の考えが拡がれば、世の中を替えて行く事は可能である。
そして、其の代表印は、水色の文字である事が示されて来た。
水色は、水を意味し「弁財天・サラスヴァティー」」の働きを意味しているのであれば、「九代龍王水神」が新しき御世を、創出する段取りをしているとの事ではないだろうか。
私は、今回29日・30日と、宮島の国民宿舎に泊まっている。
宮島は、「厳島神社」の存在だけで、経済が成り立っている様な島である。
厳島神社の祭神は「市杵嶋姫(いちきしまひめ)」で、元は宗像神社の祭神であり、宗像の三女神の名前は、田心姫神(たごりひめかみ)湍津姫神(たぎつひめかみ)市杵島姫神(いちきしまひめかみ)で、沖ノ島の沖津宮には田心姫神、大島の中津宮には湍津姫神、田島の辺津宮には市杵島姫神がそれぞれ祭られている。
宗像大社の三女神は、天照大神の娘と成っているが、海から産まれた三女神は、インドのヒンズー教のブラフマンから生まれた、水の神の三女神が、日本に伝わったモノであろう。
住吉三神も、おそらく其の流れから、生じたモノではないだろうか。
どちらにしても、海の神・水の神が生命に関わりを持っている事には、間違いないのである。
何がどうあれ、今回 此の宮島で行われた「WAO&マザーグレース」の集いは、新しい国造りに向けて、確かな動きを興した事には、間違い無いようである。
平成18年9月30日
礒邉自適
2006/9/27
最後の警告
18・9・27
何故か、今日は、文章の題名が「最後の警告」と出てしまった。
今日からは、私の第三ステージの始まりで、旅に出発しなければ成らない。
新しい出発だから、悦び勇んで良いのだろうが、気分はあまり良くない。
ニートとか、引き籠もりの人達の気分は、こうなのかも知れない。
其れが、何故かとの理由は、分かっている。
其れは、是から、人類の大禊ぎが待っているので、中身は良い(充実と新生)のだが、外側は、崩壊と苦しみが起きて来るからである。
其れを、見詰めなければ成らないので、喜びの感情が湧かないのである。
しかし、其の峠を越えれば、神の望んでいる理想世界が待っているのだから、気が進まなくても、歩き出さなければ成らないのだ。
今朝の映像は、地球の内部から、外側に吐き出さなければ成らない物が、一杯に詰まって来ているのが、映されて来た。
其れは、地球のマグマが、周期的に内に溜まったガスを、外に吐き出さなければ成らないからであるらしい。
其の吐き出し口を、いま何処にしようかと、数箇所で混沌が起きている様である。其の吐き出し口が、何処に成るかは、地上に暮らす人間の行動に、関係が有るらしいのだ。
其の出口に成らない為には、人間側が、地球を守る行動を起せば良いようである。特に、水を汚さない様に、努力をしている人が居る所は、其の災害から逃れられるようである。
水が汚れるのは、森が無く、人口が多い都会である。
だから、マグマが影響を与える所は、水を汚す人々の多い都会だろう。
今朝の映像では、マグマの様子の映像が終わった後、私が、簡易水道貯水池の水の排出口で、顔を洗い、うがいをしていると、人間の糞が、上から浮いて流れて来た。
私が、ビックリして上の方を見に行くと、其処等中に誰かが糞尿をしているのである。
私は、其れ等を皆、清掃しながら上流に向かって行くと、一人の女性が居て、私の行為を見ていた。
そして、私に、優しい眼差しを掛けてくれたのである。
其れは、水の女神が、私の行為を認めてくれた事を意味している。
私が、是まで侵した罪は、ようやく許されたのである。
と言うのは、私は魚釣りをするのに、屋久島で一番先に「冲アミ」の撒き餌を始めて海を汚したし、不動産業をして居たので、山を削り、谷を埋め自然破壊をして居たからである。
無庵師匠に始めて会った頃、私は師に「自適さんは こんなに自然を破壊して よく 神様に殺されないね。」と、云われたのである。
其の師の訓えで、自分の行為に気が付き、不動産の仕事も、化粧品や宝石の商売も、マージャン屋も全部止めて、神の世界に入ったのである。
其れから、私は23年間、紙屑一つ捨てた事が無い。
一番罪に成るのは、空き缶を捨てる事である。
捨てられた空き缶の中には、雨水が溜まって閉じ込められるので、水の循環が止まって腐れてしまうので、水に対して一番の罪を、犯す事に成るのである。
其の水の量が、自分の体内水の量を超えた時、其の人の運命がどうなるのかは分からないが、良い結果が待っているとはとても思えない。
今朝の映像から考えられる事は、川に直接汚水を流している人は、あまり良い人生が待っているとは、考えられないのである。
私の人生は、17歳の秋に父親を失って、一家6名の大黒柱と成って働き、20年間、世間の中に普通に居た事に成る。
そして、38歳から是まで、神の世界に奉仕して22年が経過した事に成る。
更に是から、また未知の世界を、体験して行かなければ成らない。
此処から先は、過去の人達が未だ、体験をした事がない未知の世界である。
其れは、ブッダのステージを越える、新しいビジョンの世界である。
是から、宇宙の森羅万象の質量をどう変化させて行くのか、其れは、是からの人間の行動と、宇宙とのコミュニケーション如何に、掛かっているのである。
此の三次元の現象世界と、神の世界である四次元世界は、物事の表裏に成っており、其の姿は、粒子的存在で映し出されている。
空き缶を一個、自然の中に投げ捨てれば、其れは其の侭、粒子を繋ぎ止めているプログラムの影として記憶され、人生のカルマとして積み重なって行くのである。
其の、積(罪)んだモノを消して行くには、また其れだけの時間と、努力が必要なのである。其れが「罪 穢れ 祓もうば・・・」の祝詞の意味である。
偉大な「お釈迦さん」でさえ、其れに6年間も掛かっているし、イエスは其の人間のカルマの為に、磔に成っている。
其れに、日本では神様である「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」さえ、小戸のあわぎ原で禊ぎ祓いをしているのである。
イエスや、釈迦や、伊邪那岐命までが禊ぎをしている、其の大事な水を、汚す者は許されないのである。
地球の内部はマグマで、表面は水で出来ている。
其の間に在る大地は、平らにしてしまえば3000mの海底に沈んでしまうのである。
なのに、どうして大地が水面に出ているのか、其の訳は、大地を手足の様に水面に出している、マグマに聞いてみなければ分からない。
私は22年前、禊ぎ祓いの後、椎の木に寄りかかって海を眺めていたら、突然太平洋に火柱が立ち、其の火柱の中に「末法」との文字が現われた。
そして、大地から赤い龍が出て来て、私の身体に巻き付いたのである。其の現象こそ、マグマの意志ではなかったのだろうか。
昨日までの体調不調は、其の地球の苦しみを、体現する現象だったのかも知れない。
昨夕、孔紀氏より電話を戴いた。
孔紀氏も、大変な苦しみの中に在るらしい。其れは、正に、地球の最後の踏ん張りを、一身に受け止めて居るからではないだろうか。
今回の旅で始まる、新しきステージが、孔紀氏を始め、苦しみの中に在る人々の救いに繋がるのであれば、旅の途中で行き倒れに成っても、其れは、私の本望でもある。
其の私の「カルマ・業(背景)」は父親譲りだから、どうしようも無いのかも知れない。
今日は、屋久島は朝から快晴で、新しい出発には相応しい日和である。
私は未だ、「人生とは何なのか」の、明確な答えを掴んではいない。
漸く、「いのち」とは何なのかと言う答えが、おぼろげに解り掛けて来ただけである。
此の調子だと、後 何回輪廻して来れば、全ての答えが見付かるのか、其れも解らない。ハッキリしている事は、だからこそ宇宙が存続できて、永遠のトキが刻まれるのだと言う理・ことである。
若し、其の答えが出るとすれば、其の時、此の宇宙は存在の意味を失い、瞬間にバイブレーションが停止して、消滅してしまうのだ。
其れが「色即是空・空即是色」の言葉の意味であり、我々の疑問の裏には、何時も、真っ暗な闇が天幕として張られているのである。
其処に、光りの映像を映し出し、神の姿を映し続けて行くには、此の人類の旅は、まだまだ続くのである。
其の幕に、映し出される映像は 其れぞれが そう願う者達の 影であるのだ。
屋久島の水の祟り 2004年7月6日
「白州」http://moon.ap.teacup.com/20061108/324.html
平成18年9月27日
ようやくの旅立ち
礒邉自適
2006/9/24
思い派工房
18・9・24
今朝の映像は、人間の暮らしにとって、最小限必要不可欠な物事が、示されて来た。
其れは、昨日の「スメラのミコト」の儀式に必要な物と違い、人間の生活にとって必要な物事に付いてである。
其れは、人間の生活にとって必要だと神が認め、資源を使う事を許す部分に付いてであろう。
今朝の映像では、車が通れる程の道幅の道路を造る場面と、川を渡る為の橋が映り、其処を行き来する人々の姿が見えた。
そして、其の人達は、皆自分の好みの服を着て居て、カラフルな通行風景である事が理解出来た。
そして、雨が降って来て、雨具が必要である事や、雨に濡れる事の無い、住居も必要である事も示された。
他には、魚釣りの為に必要な、竿や釣り針も出て来た。そして、最後の方では、カラオケの道具を買う事も、許可される様子も映されて来た。
これ等の映像は、我々人間が、豊に暮らして行く為の、必要不可欠の部分は、神が許可すると言うか、許されるとの意味であろう。
人間社会の、経済を維持する為には、車が通行できる道路や橋がなければならない。
其れに、人間が生きて行く為には、或る程度の「衣食住」の条件は、確保しなければ成らない。
其れと、釣り針が出て来たのは、人間の暮らしには、道具が必要であるとの理・ことである。
さらに、カラオケは、暮らし自体には必要ないが、在る程度の、楽しみや娯楽は許されるとの事であろう。其れと、カラフルな装いは、其々の自由な人生を、意味しているのだろう。
今朝のメッセージは、人間が存続する事を、神が許す事を告げて来たのではないだろうか。
と言うより、人間が神の望む方向に向い始めたので、未来を保障して来たのかも知れない。しかし其れは、人間が、不必要な事を起さない事が条件なのである。
現在の消費型文明を見ると、余りにも、不必要な物事が多く、人心は荒廃し、自然は破壊され、公害で生命の存在は脅かされ、何も善い処が無い。
現状を見る限りでは、人間が存続しない方が、地球の為には良いと考えずにはいられない程の在り様である。
何故、天・神はこの様な人間を、何時までも許して措くのだろうかと、疑問に想えて来る程である。
今朝の映像では、川の様子が映り、清らかな水が流れていた。
そして、水の流れを堰き止めて、水の働きを害しては成らない事と、人工物を川に捨てては成らない理も、示されて来た。
其れは、水の循環を妨げては成らないとの事である。
そして、最後の映像は、美味しそうな出来立てパンが、店先に並んでいる所が映り「思い派工房」との文字が出て来た。
其の文字は、其の店の看板ではないが、其処に出されているパンは、主人が材料を吟味し、何から何まで、思いを込めて焼いている事が示されたので、お客さんに対して、想いが込められているとの意味であろう。
其れは、其の「パン屋さん」だけの事ではなく、全ての工房が、そうでなければ成らないとのメッセージのようである。
其の意味での、「思い派工房」との言葉なのである。
今朝は、昨日より、更に胸の重たさは軽く成っている。
是は「胸の支えが取れる」の言葉が、実感できる状況でもある。
昨日は、スメラの命の儀式に関する事を書いたが、今日は、庶民の暮らし向きに付いて書かされている。
其の事から、考えられることは、現在の「民主主義・資本主義」や「共産主義・社会主義」等のイデオロギーは、全て人間のエゴから発生した価値観で、どちらも正しくないとの事である。
だからと云って、キリスト教や、イスラム教の様に、神を信じれば良いとの考えも間違いである。
宇宙には、確かに、唯一の意識が存在し、此の世界を映し出している事は確かだが、其れを信じている者は、何をしても可いと言うものではないのである。
一番正しい考えは、老子が謂う「タオ・道」に従う事や、釈迦牟尼佛の謂う「ダルマ・法」に従って生きる事である。
此の世界の決まり(タオ・ダルマ)は、人間サイドが、勝手に決められる物ではなく、既に、絶対不変の法則として存在しているのである。
我々人類も、他の地球生命と同じく、其のタオ・ダルマに従えば良いのである。我々人間が、決まりを創るのであれば、其の「大自然の法則に従う事が第一だ」と言う決まりを、創れば良いのである。
そうすれば、誰が一番、其の道の実行者かと言う事が、明確に成って来る。其の実行者を、指導者の立場に据えれば良いのである。
現在の日本の政治は、720人もの人々が関わって行なっているが、誠に比能率的だと云えるものである。
国会で、人間界のくだらない事柄を扱っている間に、現状はドンドン悪く成っている。いい加減に、価値観を替えて、別な社会構造を造らない限り、都会の崩壊は免れない。
一番困るのは、田舎で道・タオに従って生きて居る者にまで、都会のカルマ・業が影響を与える事である。
現在・いまの都会には、人間の暮らしにとって、本当に必要な物は殆んど無いのが現状である。
都会に生きる人々が、目線を変えて、本来の人間の暮らしを見詰めない限り、近代社会は神の御加護から外されるだろう。
イエスキリストが謂う「其の日」が、間近である事は確かである。
神の存在や、他人の事に思いが届かない者は、神の御心から遠く成るばかりなのである。其れが、今朝のメッセージのテーマなのであろう。
平成18年9月24日
礒邉自適
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