このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2006/10/10
スピードの違い
18・10・10
今朝のメッセージの映像は、トップを進む者と、末端に居る者の格差を、どう埋めて行くかが、テーマとなっていた。
先を進む者は、段々と勢いが着いて、ドンドン先へ行ってしまう。処が、とり残されている末端の者は、何も分からず、其の侭の場所に止まっている。
其れで、何が起きるかと言うと、末端の処で、エネルギーが水漏れして、全体に影響を与え、先端を行く者達も、最後には其の影響を受けて、スピードが落ちてしまう事である。
其れを避ける為には、末端の処を、何とかして底上げしなければならない。
其れが、政治の本来の役目であろう。
頭脳優秀な者は、思考だけで幾等でも先に進む事が出来る。
しかし、現場は物事が伴成っているので、簡単には先へ進めない。其の、現場に居る者達を、どう先へ進めるかが、今後の課題となるのであろう。
今後の私の役割は、其の現場の底上げにあるとの事だろうか。其れは、正しく政治家の仕事である。其の事を、精神的にやろうとすれば、宗教に成ってしまい、おかしな事に成ってしまう。
其れを、正しく行うには、教育的な要素で行わなければならない。
其れは、学校が無い時代には、村や部族単位で行われていた、慣習や風俗の世界だったのである。
其の世界は、先祖代々から伝わって来て、自分から、また子孫に伝えられて行くものである。其の事を考えれば、学校教育や政治の在り様も、社会風習が一番大事である事が見えてくる。
子供の時より、其の風習や風俗・習慣に馴染んでいれば、特に教育として無理やり押し付ける事もなく、自然に身体で覚えて行くのである。
日本には、日本の慣わしが有り、外国には外国の其々の慣わしが有る。
細かく言えば、日本には沖縄から北海道まで、季節の違いが有るので、国内でも慣習や風俗の違いがある。其の、土地柄や風土に合わせて、生活習慣を築いて行く事が、伝統文化である。
人間が、人間として生きて行くには、其の事が一番大事であるのだ。
其れは、カルガモやチンパンジー等が、親の仕種を真似て大人に成って行くのと、共通している、命のシステムの基本部分なのである。
其の土台が揺るげば、アイデンティティが壊され、自己管理が出来なくなるのである。其れが、文化の意味なのである。
中国には「竹林の七賢人」の世界が有り、トップを進む人達のイメージが確立されている。日本には、「大国主命」と智慧の神である「少彦名神」の、国造り物語が有る。
其れは、今では失われているとしても、嘗って存在した世界だから、再構築する事は可能なはずである。
今朝の映像は、先を進む者達と、とり残された人達の間を、私の意識は行ったり来たりしていた。其れは、神々が、両方の世界のバランスを採ろうとしているからだろう。
私は、いま出雲の地に居る。今朝の映像は、国造りの原点と成っている、出雲の古代の神々が作用して来ての、現象なのではないだろうか。
先に進み過ぎる者達には、ブレーキが必要であり、後に取り残されている者達には智慧を与えて、歩き出す事を学ばさなければ成らないのだ。其れを、私に行えとの事だろうか。
今朝の処は、良く判らないので、取り敢えずは、文章にだけでも残して措かなければならないだろう。
平成18年10月10日
礒邉自適
2006/4/14
「白山白龍大権現菊理姫」
18・4・14
昨日4月13日は、私の長男「海生」の誕生日で、岡山の、太陽の化身「朱雀」のハートである「スーリアさん」の誕生日でもあった。
其の「生命・ネイチャースピリット」の言霊と、「翁と嫗」のメッセージがダブルで届けられた。
其れは、人間の、生命の究極の姿と、其れを表現する言葉が、ペアーになって伝えられて来た事に成る。
其れは、未来に向かって育って行く、青少年の目線を護る事であり、目標と成る景色を意味している。
此の殺伐とした、世の中の未来を明るく照らすテーマは、翁と嫗の幸せな姿が、身近に存在する事である。
其の為に、神々が、今日から動き出すとの事であろう。
私が、1985年7月2日に京都府丹後半島の網野町で、全国一周の旅が終り、翌日3日から、新しい人脈に繋がり始め、2002年4月24日に屋久島に18年振りに帰り、再び新しい動きが始まったのが、2003年7月3日である。
何故、其れ等の日付が7月3日であるのか、其れは数霊が「73」が、「なみ・波」の言霊に関係があり、此の三次元世界を動かしている「神・はたらき」が、「伊邪那美命・いざなみのみこと・イザ波」だからであろう。
其れを考えると、愈々、空間を維持する「伊邪那美」が動き出し、「たまふり」が開始されるのであろう。
平成18年4月14日
礒邉自適
2006/4/8
本当に怖い霊
18・4・8
今朝は本当に凄い体験をした。
其れは、如何に此の世界が、「野狐霊・ヤコ霊」に汚染されているかと言う事である。
今朝、事務所に出て来て、パソコンの前に座ると、何か不自然な感じがするので、霊せんを開けると、後頭部で女性の声で「貴方は 間違っている。」と云って来た。
私は、「エッ 何が間違っているのか」と意い、自分の意識の中を探って見た。すると、其の声の主が、正しくない事が見えて来たので、其の声の主に質問をすると、其の霊が答えて来るのである。
「アレ 是は変しい」と思い、意地悪な質問をすると、其の霊は抵抗をして、段々云う事のレベルが低下して来たので、私がハッキリと怒ると、コソコソ逃げだした様である。
其れが、何故、いつもの女性の声と、異なると判ったかと言うと、声がいつもの声より、少しトーンが高いし、いつもの女神の声は、私の胸の処から出て来るのに、今朝の声は、私の頭の後ろから聴こえたからである。
それで、(通常)いつもの神霊とは違い、低レベルの霊魂だと気付いたのである。
私の修行が足りなければ、其の声を、神様の声だと信じて、云う通りにしていたであろう。
私は、「危なかったなぁー」「是だと 殆どの人間は 騙されるなあー」と、考えて居て、凄い事に気が付いた。
其れは、私が、既に狐霊に騙されて居たからである。
其れは、昨日、狐霊を遣り込めた文章を書いたので、其れが公表されれば「狐霊」を祭る神社に、不都合が起きて、狐霊が供養を受けられず、住処が少なく成るので、私に、其の文章を破棄させようとして来たのである。
全国には、豊川稲荷を始め、相当数の稲荷神社が存在し、其の狐霊を養っている。
其れは、狐霊の霊力が強く、三次元では霊力を示せるので、其の霊の恩恵を受けた人々が、供養を続け、其の霊体を育てて来た事の証明だ。
其の霊が、私しが、其のテリトリーに先日入ったので、私を騙しに掛けて来ていたのである。
真実としては、私の意識を騙す為に、私の意識の中で、私の姿を使用し、狐の霊と、其の黒幕を退治する場面を、演じたのである。
其の映像を見た、私の意識は、自分が、狐の悪霊を退治したと思い込む事は、間違いない。
其の作戦が成功して、私は「霊界で 狐の霊を退治した」と、思い込んで居たのである。
是は、実に巧妙な仕掛けであると言うか、罠である。
正に、狐霊は其の作戦に成功していたのだ。
しかし、私は無神論者だし、霊力を欲しいと意ってもいないので、私の霊夢の中で、古狐の霊を退治した意識が、誰のモノかと、考え続けていたのである。
其れは、釈迦牟尼佛や、老子の行為でもないし、床を踏み鳴らすなどの行動を、レベルの高い聖霊がする理由・わけが無いと、考え続けていたからである。
其れが、昨日書いた文章で、狐霊は良くないと書いてしまったので、其れを止めようと、今朝パソコンの前で、待ち伏せして居たのだ。
「悪い事は続かない」との言葉があるが、正に悪い行為にボロが出たのである。
此の事を公にして、狐霊を祭る事を止めれば、騙されている人間も減り、人間の欲望も減少し、世の中は一気に善く成るのではないだろうか。
先日、鳥居の前に置かれている「高麗獅子」が、水を護るライオンではなく、水辺で草食獣を待ち伏せする姿だと、文章に書いたが、国産でも、悪い風習が蔓延し、世の中を欲望の坩堝・るつぼに変えていたのである。
しかし、私は、狐が悪いと意っている訳ではない。
何故なら、狐も人間に依り憑いて生きるより、自然の中で、自分の姿を有して生活したい筈である。
そうして遣る為には、自然環境を元に戻し、野生の狐の個体数を、増やして遣らなければならない。
そう考えて遣らなければ、私の命も危ないだろう。
私を、利用しようと段取りした狐霊が怒れば、私を始末する為に、他の人間に憑依して、交通事故を仕組んだり、刃物で襲わせたりする事は簡単である。
何しろ、私を騙す程の才知に長けた古狐である。
昔から、「狐に騙される」との言葉があるが、其の言葉の意味を、今回はツクヅク味わった。
騙されずに済んだのは、本日が「釈迦牟尼佛」の誕生日なので、私がお釈迦さんの霊魂を意識して、身近に引き付けていたからであろう。
同じ霊魂でも、えらい差がある。
お釈迦さんの姿が、お稲荷さんの姿と全て入れ代われば、此の人間社会は、正しい者の方が都合の良い世の中と、成るのではないだろうか。
此の言葉が、釈迦牟尼佛の、今日の供養に成れば良いのだが・・・。
平成18年4月8日
礒邉自適
2006/3/20
みすず・美鈴
18・3・20
今日は、私には「レコード」と「文字」が映し出されて来て、宇宙と人間の関係性が示されたが、田記さんには、人の姿と音で、宇宙と人間界の関係が示されて来ている。
其の内容は、真珠色をした霧が立ちこめる天空から、釈迦牟尼佛らしき人物が先頭に立ち、後ろが見えない程の神霊達が一列に並んで居て、何とも言えない声明らしき音が、大きく響いていたとの事で、起きてからも、其の音が胸の中で鳴り響き続けているとの事である。
其れは、男性の私のメッセージには、人間が使用する道具や文字で現われ、女性の田記さんには絵と音で、向こうから、沢山の神霊が遣って来る映像が映されている。
私と、田記さんに来るメッセージは、内容的には同じ意味らしいのだが、田記さんには、魚の卵や、馬や、神様等が、沢山向こうから自分の方に訪れる映像で、私には何時も、文字や人間が使う道具の形で映像が来る。
其の事から、理解出来る事は、男性と女性の脳の構造や、意識の組み立てが違っているので、同じ情報源からのメッセージでも、内容が違って受け取られる可能性を、秘めている事が理解出来る。
其の、性的意識の違いから、男性と女性の、潜在意識の違いも生じている。
例えば、中国の秦の始皇帝は、モンゴルの騎馬民族が、定期的に宝物や若い女を盗りに来るので、万里の長城を造ったが、女性が政治の実権を持っていれば、もっと違った関係性を、構築したものと考えらえる。
中国が砂漠かしたのも、万里の長城に使用する為の、レンガを焼く為に、木を薪として切り尽くしたからだとも云われている。
女性中心の社会なら、中国には、未だ緑の森が残されていたかも知れないのだ。
女性は、受け入れ型の思考だから、他国の男性が攻めて来ても、巧く対応するだろう。
しかし、男性は、自分達の文化や物を護ろうとして、あらゆる物質的な対策を採ろうとするのである。
其れは、女性は、優秀な子孫を残す事が出来れば、他の条件はあまり重要ではない事を示している。
それは、DNAの本能がそう成っているのだから、しかたがないのである。
今朝の中山博さんのメッセージも、文字や祭器の絵である。
文字の「美鈴」は、神社で使う鈴であり、お寺の僧が、経を唱える戒壇の上にも、沢山の鈴が着けられている。
御鈴と祭器は、人間と神霊界を繋ぐ儀式に、欠かせない物である事を告げて来たのだろう。其の事から、中山博さんも、男性の脳と意識を有している事が判る。
中山博さんの絵を見ると、文化を発展させて来たのは、確かに男性だと言う理・ことが理解出来る。
若し女性が、中心に成って社会を組み立てて来ていたら、戦争も無い替わりに、道具や文化の発達が、無かったであろうと思われる。
何故なら、現在の携帯電話を始め、飛行機や刃物まで、全部戦いの為に開発されて来た物ばかりだからである。
今回の未来社会創造は、これ等の理を良く熟知した上で、組み上げろとの事であろう。
今朝の、三人分のメッセージを合わせると、愈々新しき世界が始まる事が示されて来ており、中山博さんのメッセージには、渡邊さんに「一歩前進しろ」とも、出て来たそうである。
渡邊さんは、テレビ番組のプロデュサーを行っていた方だから、其処のところは良く理解して居られるであろう。
日本の「惟神・かんながら」の世界は、云ってもいけない。訊いてもいけない。見せてもいけない。の世界である。
其れは、皆が、自分の運命・ミコトを持って来ているので、他人の真似をしたり、自分の遣り方を、他人に教えてはいけない決まりの世界である。
唯 教えて良いのは、禊ぎ祓いの必要性だけである。
皆が、自分の罪穢れを祓い切れば、自分の役割が明確に成り、自分の役割が明確に成る事で、他人の役割も見えるように成って来るのである。
其の禊に必要な物として、祭器道具が在り、其の世界に入る事が出来れば、美しい声明が聴こえて来るのである。
そして、言葉や文字の大事さも、悟る事が出来るのだ。
そして、必要な人材が全部揃った事を、皆が理解出来たトキが、其の侭「ことあげ・言挙げ」の時なのである。
愈々、其の時節が到来したと言えるだろう。
平成18年3月20日
礒邉自適
2006/2/23
鶯の初鳴き
18・2・23
昨日の朝 今年初めての鶯の声を聞いた。そして、愈々春なのだと感じて、庭の寒椿の花の写真を何枚か撮った。
其の中の一枚を、横にしたり・縦にしたり・反転させたり・逆さにしたり・拡大したり・縮小したり・傾けたりしていると、絵が変わる度に、感情が安定したりイライラしたりするのに気付いた。
それで、私は ハッ と、活け花の神髄に触れた様な気がした。
皆様も、此の写真を取り込んで実験して見てください。面白いですよ。自分の感情の仕組みや、視覚神経の監察にも役に立つかも・・・
其れに、花を視る事と、異性を観る事の、脳のシステムは同じ処に有る様です。何しろ、花は植物の生殖器なのですから。愛でると言うくらいですから。
昨日の文章の、ダビンチや夢二の魂しいは、現実でも、私の心身を使って実験を試みて居た様である。
一体 誰の意識が、パソコンに向かっているのか判らなくなって来る。
今朝も、鶯が鳴いて居た。今日も雨で、NHKの撮影は中止。
自適今日 HP http://wave.ap.teacup.com/applet/894019/200602/archive
18年2月23日
礒邉自適
2005/12/21
愛より深く
17・12・21
明日は冬至で、明後日からは、また太陽が返って来る。
其れは、太陽カレンダーで生活する者には、冬至が一番大事な日である事になる。
其の事だけではないだろうが、今朝は、私にとっても最大のイメージが訪れた。
其れは「愛・アイ」の言葉が、人間の自我意識からのモノで、浅い真理を説明する言葉だと言うことである。
日本には、相手の事を「おもう」との言葉は在るが、「愛」の言葉は無い。
漢字の「愛」を使い始めてからも、そう長くはない様だ。
万葉時代には、「貴方のことを思って 愛しい」と、「愛」の漢字は「かなしい」に使用している。
漢字の「愛」の象形は、困っている人の存在に気付いて「どうして 上げようか」と、思案して居る人の、心の振る舞いを表している。
其れを、英語の「ラブ・love」に当てて使う処に、問題がある。
佛教には「愛」の言葉は無く、「慈悲・ジヒ」の言葉が在る。
「慈悲」の言葉は、日本語では「いつくしむ こころ」と成るだろうか。
佛教での慈悲は、「いつくしみと 同情」で、全ての人々へ楽を与えるのが「慈」で、人々の苦をなくすのが「悲」と説明されている。
漢字の、慈悲の「慈」の意味は「増える心」で、「悲」は「心が引き裂かれて痛む」の意味である。
私が、自分の体験から謂えば「慈悲」とは「仏に成った人が 衆生を救済しようとしても ナカナカ想う様にいかないで、悲しみが積み重なる。」との意味ではないかと想われる。
現代では、「愛・エ」は男女関係の「ラブ・情欲」に使われるので、本来の意味からは遠く離れてしまっている。
そんな、こんなで、私は「愛」の言葉を気安く使う人間に、懸念を抱いて居たのだが、今朝、其れに対する答えが有ったのだ。
今朝は、現代人が使う言葉の「愛」には、未だ自我心が有って、本来の、絶対なる宇宙の意志からは、外れているとの理が伝えられて来た。
其のイメージは、永遠の果てし無い宇宙空間の暗闇の世界に、銀河が誕生する事を許している、大きな存在である。
其れは、「無が 自分の中に、有が生じるのを 静かに 見詰めている状態」と謂った方が、解かり易いだろうか。
其れは、母親が自分のお腹の中に、見えないモノが、日に日に大きく成るのを許しているのに似ているし、悪戯小僧が暴れ回るのを、見て見ぬ振りをしているのにも似ている。
余計な手出しをしないで、懐に抱え込んでいるのである。
其れは「愛しているよ」と言葉にする事ではないし、本人が答えを出さない内に、余計なチョッカイを出す事でもない。
しかし、其れは、拒否するでもないし、無責任と言う事でもない。
唯、一時の休む間も無く、胸中に抱いて、想いの海に、遊ばせている姿なのである。其れが、宇宙の存在意志であろう。
其の、宇宙意志の中に、自分の意識を投入した者がブッダであり、ブッダとして成仏した者は、真の慈しみが理解出来るのだ。
老子の言葉に、「我に三宝有り 第一は人をいつくしむこころ。第二は物事を控え目にすること。第三は行動において あえて人前に立たないこと。」と有る。 (徳間書店 老子 奥平卓訳)
老子も、自分にとって一番は「慈」であると謂っており、行動も控え目にする理を説いている。其れは、行動する事は、懐を狭くする事に成るからだ。
行動する事を止め、懐を深くすれば、宇宙が、自分の懐に入り込んで来るのである。其れが、エジプト文化の「女神イシス」の概念である。
宇宙の意識は、母心と似ている。
だからこそ、老子は「雄の立場を知った上で 雌の立場に身を置け。」と謂ったのである。
其れは、レオナルド-ダ-ヴィンチが、自分の自画像と、モナリザを重ねて画いた事と通じている。其の、老子と同じ思考が、今朝リンクした形で出て来たのだろう。
今朝の情報を、現実世界に転写して行くには、レオナルド-ダ-ヴィンチの様な分析力と、認識力が必要なのだが、其れが、私に出来るだろうか。
今朝、ただ一つ理解出来た理は、宇宙は決して、邪魔をしないと言うことである。
関わりを持って来るのは、其の宇宙との間に存在する、霊界人だけである。
霊界が、味方に付けば、恐れるモノは何も無く成るのだが、どうなるだろうか。
自分を動かそうとする霊魂と戦いながら、自分が何を出来るのか、是からも其の路は険しい。
道しるべとしては「恕・ゆるす」の一字が有る、当分は、其れを胸の「アヤ・文」として措こう。
平成17年12月21日
礒邉自適
2005/12/20
水の管理
17・12・20
再び「みいつ」に返って。
今朝のメッセージは、三段に成っている事が分かった。
「きらら」と音魂が有って、次ぎに「ぜんまいしかけのねこ」と有り、次ぎには水が流れている村が映されて来た。
是は、「月讀界」「天照界」「須佐之男界」と、三つの世界を、順番に伝えて来ている事が解かる。
最初に「発条仕掛けの猫」を書いて「みいつ」に入力し、次ぎに「きらら」を書いて「つきさかき・いづのみたま」に入力し、済んだと思ったら、今朝現われた長い映像が映し出されて来た。
全く、人使いの荒い、神霊界の連中である。
しかし、今日の事は、今日の内に済まして措かないと、明日がややこしいので、頑張って書く事にしよう。
「きらら」は雲母の事だから、岩戸で「振動・調べ」で「月読界」なのは解かり易い。
「発条・ゼンマイ」は、光りのエナジーの螺旋の渦で、「猫」は「夜子・根子」だから、物質の根本世界だと解かる。
そうすると、須佐之男は「海原界」で、水の世界なのだから、「いのちの世界」と言う事になる。
今朝の映像は、水と自然環境の問題が、長く映されて来た。
其れは、何処かの打ち棄てられたリゾート村の跡地で、其れを、友人と使えるかどうかを見に行った。
既に10年程放置されているので、植物が繁って、建物も植物に覆われている。先ずは、通り路を切り払いながら、水道の施設を見て廻った。
そして、水源地を掃除して、建物の中の風呂場やトイレ等を点検した。一番メインの建物の中から、外を見ると、麓の方には、耕作されている畑が在り、作物が育っている。
帰り掛けに管理煉に寄ると、男性が一人来て居て、私の事を、インターネットを観て知っていると言う。
其の人に挨拶を済ませ、リゾートの敷地を後にすると、同行の女性が「詰まらない物を 創ったのね」と(だから潰れて当然なのよ)との意味を込めて、一言云って、其の映像は終わった。
其の村は、日当たりが良く、土地も肥沃で、水も有り、暖かい気候の場所である。其れなのに、何故、直ぐ利用されなく成ったのか、其の原因までは解からなかった。
もう、今日は疲れたので、余り考えたくないから、是で止めるが、今日のメッセージは「きらら」と「ぜんまいじかけのねこ」の世界と、地上世界の三つで、この世が成りたっている理を、知らせて来たのだろう。
メッセージの出方が、段々分かれて来ている。
是は、老子が謂う「始めに一が有り、一から二が生まれ、二から三が生まれ、三からこの世の全てが生まれた。」の概念が、現われたモノではないだろうか。
そうであれば、最後に老子の思念を解く必要が、生じて来たのかも知れない。とことん無に近づく為に、エナジーが動いている様である。
であるなら、もう「弥勒菩薩」の兜率天の概念は、消去されたのだろうか。
全ての、過去の言葉が消え去れば、私の役目も終わるのだが。
最後に、疲れた頭に「エホバ」の言葉が思い出されて来た。
「わたしは 今新しい天と地を創造している。もう昔の事は 思い出される事も 心の淵にのぼることも無い。」
平成17年12月20日
礒邉自適
2005/6/7
神界の次元変化
17・6・7
この日で、私の古い世界が終わり、明日6月6日より新しい段階が始まる事は、この時点では分からない。
其の意味では、5日が締め括りであった事になるが、5日のメッセージは未来の風景でもある様だし、昔の風景が出て来た様にも想われる。
どちらとも取れない映像が この段階を示している。
この日からは 以前の文章の中からメッセージの分だけを選び出して書き込み 後の為に役立つ様にしたいと考える。
平成17年6月7日
礒邉自適
2005/5/25
角・かど
17・5・25
昨夜は、漢字の「角」が一文字だけ出て、カドと読むことは解ったが、何を伝えるものか、その意味が分からないので、暫く眠れなかった。
朝起きて、漢語林で角の意味を調べてみた。
「角」は、中が空に成っている固い、つのの形にかたどり、つの・かどの意味を表す。と 載っている。
しかし、それだけでは意味が取れないので、今度は、広辞苑で角を調べることにした。広辞苑では「角」は、次の様に載っている。
(1)物のとがって突出した部分。「机の角」
(2)物の隅。「部屋の角」
(3)道路のまがり目の所。「角の煙草屋」
(4)人の性格・言動が円満でないこと。「角のある言い方」
其れでも、私には、何の事を告げてきたメツセージなのか解からない。
私はジーッと考えていると、「角番」との言葉が、頭に出て来たので角番を調べて見ると、(1)囲碁・将棋などで、何番か勝負を行なううちの、それで勝敗が決まるという局番。
(2)相撲で、その場所に負け越せばその地位から転落するという局面。と載っている。
此処まで、調べても未だシックリと意味が掴めない。
だが、何かの角・かどに達している事は間違い無いだろう。
今日は、先日に続いて、屋久島の町立神山小学校の5年生に、自然観察の説明に出掛けなければならない。
午前中は、西部林道で世界遺産に登録された森の説明をし、大川の滝で昼食の後、栗生のキャンプ場の海岸で海の説明をし、夕食の後星空観察である。
昨年は、夕方時間が空いたときに、竹笛の作り方も教えた。
其れ等の事も、何か関係が有るのだろうか。
私の是からの人生が、角番を向かえているのだろうか。
是までの、私の21年間の家離・たびは、精神的な事柄が中心であった。
しかし、その謎解きが大体の処で終って、是から現実的な世界に、手を染めて行かなければ成らないのだろうか。
7月には「屋久島おおぞら高等学校」の生徒達も来島し始める。
其の生徒達にも、触れる事となるのだろう。
私が、58年間生きて来た体験を土台にして、生徒達に何が教えられるか、真剣に取り組んで行かなければ成らないのかも知れない。
中学校までしか、卒業してはいない私が、どう子供達に接して行けば良いのか。
しかし、私に取っても、初めての体験であるので、退屈する事は無いであろう。
私が、子供達に接して影響を与える事が、神にとって一番大事な事柄であり、其の動きの中心が、私に関係しているのなら、角番との意味は感じ取れるものがあるのだが、果たしてどうであろうか。
平成17年5月25日
礒邉自適
2005/5/18
弁財天の発進
17・5・18
今日は、霊夢に有ったメッセージに従い、事務局長の西川良明氏が青竹を切って来て、近くの川の水をいれ、御目石(花崗岩)の丸い石を探して、事務所のカウンターに置いた。
すると、パソコンに向かっている、私の右手の薬指からビリビリが始まって、中指にも反応が起き、次に左手の人差し指も反応を始めた。
時計を見ると、午前10時である。
右前の机で、今日のメッセージを、インターネットのHPにアップしている「ひびお氏」に、「反応が無いですか。」と尋ねると、暫くすると「来た。来た。」と言って、頭上の百合(ひゃくえ)を押さえている。
私も、21年間の修行中には、頭蓋骨が変形するのに加え、頭に電気が流れる感覚が、暫く続いた事がある。
私の百合(ひゃくえ)は少し変化しただけだが、ひびお氏の頭の其れは、大きく飛び出している。
私の友人で、四国で密教のお寺をやっている明神君も、修行の後、項(うなじ)の盆の窪に「肉髻・にくけい」が出来ている。
肉髻とは、梵語usnjsa烏瑟膩沙(うしつにしゃ)。仏頂とも訳す。仏の三十二相の一つ。仏の頭頂にある、髻(もとどり)のように突起した肉塊。
と 広辞苑には 載っている。
現に、ひびお氏や、明神君には、仏の三十二相の一つが現れているのである。其のひびお氏や、私の数本の指に、反応が始まったと言う事は、いよいよ「弁財天・サラスヴァティ」の働きが、始まるとの事ではないだろうか。
仏は、指を組んで印を結んでいるが、私も大事な事は、指に信号が来て、電気が流れる現象が有るので、仏の三十二相の一つが、備わっている事に成るのだろう。
水を通して、どうしてサラスヴァティが、三次元の物質を管理出来るのだろうか。サラスヴァティが、三次元に姿を現して、自分の手足で物を動かしたり、自分の口で命令を下す事は出来ない筈である。
所詮、電気エネルギーを使って、人の脳の情報をいじるか、電気で動いている機器に、影響を与える事くらいしか、行動は起せないのである。
勿論、水の神だから、大雨を降らせたり、洪水や旱魃を起こしたりする事は、お手の物だろうが、人間の意識を変える事は、人間の協力が無ければ無理である。
今日の出来事は、私達に、協力をしろとの事にも受け取れる。
私達人間も、自分の力だけでは、どうしようもない処まで来ているし、神の方も、人間の協力が無ければ、手も足も出ないのだろう。
新しい段階が、迫って来ている様である。
私達には「待っていました」の世界だが、神など一切気にしないで、三次元の物質世界の虜に成っている人々には、気の毒な事に成るやも知れない。
私に取っては、21年も待たされた世界である。
一日でも早く始まって、私を支えてくれた人々の、笑顔が見たいものである。
今日は、旧暦では4月11日である。
奈良の天河弁財天は、旧暦の今日、春季大祭が行われていたのかも知れない。天河弁財天は、私も縁が深い。天河神社には「日輪天女降臨の太柱が立つ。」との云われもある。
屋久島の山岳と、高野山系が繋がったのだろうか。
平成17年5月18日
礒邉自適