このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2005/11/1
ライト・セーリング
17・11・1
今朝のメッセージの映像には、英語版のパソコン画面が現れ、画面中央の上面に、人間の男女が跽いた形で、向き合った図形が有り、其のトップ画面の文字は全て英語で書かれていた。
図形の男女の位置は、左側が男で、右側が女の形である。
私は、英語が全然解からないので、どんな意味だろうと想うと「ライト・セーリング」と「ライト・?・・・」と、2つの言葉が有ったが、一方は思い出せない。其れは、「ステージ」か「スタッフ」の単語だったのかも知れない。
「ライト」は、光りとか・明るいの意味で、「セーリング」は、航海・帆走の意味である。「ライト・セーリング」とは、光りへの航海が開始されるとか、光りへの出発との意味であろうか。
それなら、いよいよ船の帆を一杯に張って、光りを受け、帆走を始めなければならない事になる。
今朝は、其の映像の前に、光りのエネルギーが詰まった、壺が現れ、其れは言葉のエナジーの壺である事が理解出来た。
其の壺は、29日のメッセージに有った、水色の透明なグラスの意味より、更に深い、言葉の震源地を意味している。
人間は、言葉に因って上下、左右、前後、良し悪し、明暗等の二者選択をしているが、今朝のエナジーの壺は、全ての言葉の基礎になっている、音や、エネルギーが発生する、源の世界を、映し出して来ているモノである。
更に、一歩思索を踏み出せば、漢字の「言」の文字は「辛+口」の組み合わせで、「口」は、白川静さんの辞典には「言葉を彫り付けた札を 入れる容器の意味」だと載っている。
しかし、今朝の映像の意味からすれば、言葉を生み出す思考の根源の壺のことである様な気がする。
何故なら、インドの「マントラ」の単語の意味が「言葉は 人間が モノを考える為の 容器」であり、「マン」が「考える」で、「トラ」が「容器・皿(トラ・サラ)」の意味であるからである。
其れを、弘法大師空海は「真言」と訳しているのだ。
弘法大師空海の密教では、「言葉」は「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の身体である「人間」の意識を通じて、発生しているモノであると教えている。だから、此の宇宙を生み出している光りのエナジーこそ、大日如来・マハーヴァイローチャナの本体と言うことが出来る。
今朝は、其の大日如来の本体が、意識下に収まった感じがある。
21年前、私が神の世界に入った時に、神は言葉であり、言葉は時空の流れの中を飛ぶ、光りのエネルギーの絨毯である事を認知した。
だから、私の当時のお守りは、母親に書いて貰った「いろはにほへとちりぬるを わがよだれそつねならむ うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせず」の、いろは47文字の歌だった。
弘法大師空海は、其の言葉の世界を「真言」と名付け、宗派を興した人である。是までの、私の体験から考えると、其の弘法大師空海が、私の意識の中核に陣取って居る事は間違いないだろう。
人間の言葉は、人間を生み出した、宇宙のエネルギーをモトとしている。
其の原初のエネルギーに、人間の意識が辿り着けば、言葉もまた其処から発生していると感じる事は、極自然な事であろう。
神のライトを浴びて生きる人には、神のエネルギーが与えられ、その存在は神の力に満たされる事になる。そう成れば、人生もまた順風満汎と言う事に成るのだろう。
そして、其の言葉が発生した原因を考えれば、それは人間と成る前の、動物の雌雄の関係性からではないだろうか。
雄と雌が、求め合うトキの意思表示として、言葉のモトが出来たと考えても何等不自然ではない。
今朝の、パソコン画面の、テーマであろう男女が跽いて向き合っている姿形は、根源の命の働きを、表現していると言っても良いのではないだろうか。
光を浴びて、一番明るい世界として在るべきモノが、雌雄の間で取り交わされる「言葉(音・ことのは)」であるとの理・ことなのであろう。
「ラブ」の言葉の本来の意味は、そこら辺りに有る様な気がする。
其れは、漢字の「愛」の意味とは明らかに違っている。何故なら「愛」は不特定多数の人に対して行なわれる、行為自体の意味だからである。
男女が、お互いの「性・ラブ」のシステムに気付けば、全ての生命の秘密は明らかになる。
今朝のメッセージの「ライト」の意味は、神の愛のエネルギーが、シッカリとお互いを認識するペアに、注がれるとの理・ことなのかも知れない。
其処のところが、シッカリと出来上がれば、他の社会機構は、自ずと立ち上がって来るとの事ではないだろうか。
中国の老子に拠って生まれた「タオ・道」のマークも、やはり陰陽・雌雄の「蛇」か「蜥蜴・トカゲ」の組み合わせの形で出来ている。
今朝のビジョンで、壺の中から一つだけ生まれた言葉が、「借りを返す」であった。
私達生命は、全て、何等かの借りを作りながら生きている。其の借りを、全ての存在に返して行く事が、本当の「愛」とか「慈悲」の言葉の意味なのかも知れない。
「借りを返す」とか「感謝」とかの言葉は、法律の用語には無いそうである。現在の人間社会は、一番大事な言葉が無い所で、毎日闘争が繰り返されているのだ。
神の光りを、全身で浴びて生きる人達には、人間が創り出した法律など、何ら関係が無いだろう。
全ての存在に、借りを返す為にも、帆を一杯に拡げて神のライトを受け、新しい航海に旅立たなければならない。私は、是まで、11月1日の日付で、何回も人生の転機が訪れている。
今日から、再び新しい次元が始まりそうな予感がする。
今朝のメッセージの最後の場面では、私に電話が掛かって来た。私が、受話器を受け取ると「わたしよ」と、一言有ったままで、私が「だれ」と訊ねても、もう返事が無かった。
見え無い世界で、私とペアに成っている相手が存在する様である。
若しかしたら、其の相手は、水の化身である「弁財天・サラスヴァティー」だったのだろうか。
平成17年11月1日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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