このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2006/9/30
あたらしい道
18・9・30
今朝の映像には、「道」の漢字の「首」が外された文字が映って来た。
そして、其の文字は、水色をした印鑑の文字として、使われる意味が知らされて来た。
其れは、今回の新しき時代の始まりは、敵の首を刎ねなくても、出来るとの理・ことであろう。
「道・衜」の漢字は、行の間に、手に首を下げた人が、存在する意味で、字義は「自分と違う考えを持つ相手の首を刎ねて、違うイメージを持つ人々を消し、自分の考え通りにする。」との意味から、清まる・征するの意味を表すものである。
今朝の映像は、其の首が外されていたので、是からの国造りは、自分以外の人間の首を刎ねる必要が無いとの理・ことであろう。
昔は、インターネットの様な、情報操作の方法が無いので、自分の考え通りにするには、自分の考えを受け入れない者は、総て排除するしか、他に方法が無ったのである。
しかし、現代社会はインターネットを利用すれば、世界中に、自分の考えを拡大する事が出来るのである。だから、別の考えが有っても、其れを排除する必要はなく、自分の考えが拡がれば、世の中を替えて行く事は可能である。
そして、其の代表印は、水色の文字である事が示されて来た。
水色は、水を意味し「弁財天・サラスヴァティー」」の働きを意味しているのであれば、「九代龍王水神」が新しき御世を、創出する段取りをしているとの事ではないだろうか。
私は、今回29日・30日と、宮島の国民宿舎に泊まっている。
宮島は、「厳島神社」の存在だけで、経済が成り立っている様な島である。
厳島神社の祭神は「市杵嶋姫(いちきしまひめ)」で、元は宗像神社の祭神であり、宗像の三女神の名前は、田心姫神(たごりひめかみ)湍津姫神(たぎつひめかみ)市杵島姫神(いちきしまひめかみ)で、沖ノ島の沖津宮には田心姫神、大島の中津宮には湍津姫神、田島の辺津宮には市杵島姫神がそれぞれ祭られている。
宗像大社の三女神は、天照大神の娘と成っているが、海から産まれた三女神は、インドのヒンズー教のブラフマンから生まれた、水の神の三女神が、日本に伝わったモノであろう。
住吉三神も、おそらく其の流れから、生じたモノではないだろうか。
どちらにしても、海の神・水の神が生命に関わりを持っている事には、間違いないのである。
何がどうあれ、今回 此の宮島で行われた「WAO&マザーグレース」の集いは、新しい国造りに向けて、確かな動きを興した事には、間違い無いようである。
平成18年9月30日
礒邉自適
2006/9/29
リスボンズの図形
18・9・29
今朝の映像は、パソコンに文章を書き込みながら、文章の中の文字に、リンクを張る場面が映り、其のリンクの題名は「リスボンズの図形」と言う物であった。そして、「コケシ・木人形」の様な形の物が現れた。
「リスボンズ」とは、どう言う意味か辞典で調べて見ると、「リスボン」が有りリスボンはポルトガルの首都で、旧王宮と美術博物館などが有る都である。
リスボンの、本来の意味が、何なのかは分からないが「ズ」が複数の意味であれば、リスボンの様な町が、複数との意味に成るのだろうか。
其れと、コケシの様な図形に、何が関係有るのだろうか。
コケシは、手足が無く、胴体の上に丸い頭だけが着いている形である。
其の形に、意味が有り「頭・王」の意味なら、王朝の意味に繋がるし、図形に意味が有るのなら、美術品の形と繋がるのかも知れない。
明け方には、是からの動きに関係有りそうな、日付で「4月18日」「5月27日」「沖縄」との言葉が、インプットされて来た。
それが、どう言う意味なのかは、未だ分からない。
今朝は、松山悦子さんのお世話で、下関のホテルで朝を迎えている。
いよいよ、今夜は「孔紀氏夫妻」と、月山の巫女さんに初対面と成る。
どう言う展開に成るかは、分からないが、私の身体の調子も、だいぶ復活して来たので、本格的な動きが始まるのかも知れない。
平成18年9月29日
礒邉自適
(20年5月6日 追記)
藤田さんが、フェニキア語の'Allis Ubbo(安全な港)の意味を調べてくれて、今其れを書き込む為に、此のページを開くと、右手の中指に強いカモ(神の電気信号)が来た。是は、よほど大事な事の様である。5月7日11時45分
2006/9/27
最後の警告
18・9・27
何故か、今日は、文章の題名が「最後の警告」と出てしまった。
今日からは、私の第三ステージの始まりで、旅に出発しなければ成らない。
新しい出発だから、悦び勇んで良いのだろうが、気分はあまり良くない。
ニートとか、引き籠もりの人達の気分は、こうなのかも知れない。
其れが、何故かとの理由は、分かっている。
其れは、是から、人類の大禊ぎが待っているので、中身は良い(充実と新生)のだが、外側は、崩壊と苦しみが起きて来るからである。
其れを、見詰めなければ成らないので、喜びの感情が湧かないのである。
しかし、其の峠を越えれば、神の望んでいる理想世界が待っているのだから、気が進まなくても、歩き出さなければ成らないのだ。
今朝の映像は、地球の内部から、外側に吐き出さなければ成らない物が、一杯に詰まって来ているのが、映されて来た。
其れは、地球のマグマが、周期的に内に溜まったガスを、外に吐き出さなければ成らないからであるらしい。
其の吐き出し口を、いま何処にしようかと、数箇所で混沌が起きている様である。其の吐き出し口が、何処に成るかは、地上に暮らす人間の行動に、関係が有るらしいのだ。
其の出口に成らない為には、人間側が、地球を守る行動を起せば良いようである。特に、水を汚さない様に、努力をしている人が居る所は、其の災害から逃れられるようである。
水が汚れるのは、森が無く、人口が多い都会である。
だから、マグマが影響を与える所は、水を汚す人々の多い都会だろう。
今朝の映像では、マグマの様子の映像が終わった後、私が、簡易水道貯水池の水の排出口で、顔を洗い、うがいをしていると、人間の糞が、上から浮いて流れて来た。
私が、ビックリして上の方を見に行くと、其処等中に誰かが糞尿をしているのである。
私は、其れ等を皆、清掃しながら上流に向かって行くと、一人の女性が居て、私の行為を見ていた。
そして、私に、優しい眼差しを掛けてくれたのである。
其れは、水の女神が、私の行為を認めてくれた事を意味している。
私が、是まで侵した罪は、ようやく許されたのである。
と言うのは、私は魚釣りをするのに、屋久島で一番先に「冲アミ」の撒き餌を始めて海を汚したし、不動産業をして居たので、山を削り、谷を埋め自然破壊をして居たからである。
無庵師匠に始めて会った頃、私は師に「自適さんは こんなに自然を破壊して よく 神様に殺されないね。」と、云われたのである。
其の師の訓えで、自分の行為に気が付き、不動産の仕事も、化粧品や宝石の商売も、マージャン屋も全部止めて、神の世界に入ったのである。
其れから、私は23年間、紙屑一つ捨てた事が無い。
一番罪に成るのは、空き缶を捨てる事である。
捨てられた空き缶の中には、雨水が溜まって閉じ込められるので、水の循環が止まって腐れてしまうので、水に対して一番の罪を、犯す事に成るのである。
其の水の量が、自分の体内水の量を超えた時、其の人の運命がどうなるのかは分からないが、良い結果が待っているとはとても思えない。
今朝の映像から考えられる事は、川に直接汚水を流している人は、あまり良い人生が待っているとは、考えられないのである。
私の人生は、17歳の秋に父親を失って、一家6名の大黒柱と成って働き、20年間、世間の中に普通に居た事に成る。
そして、38歳から是まで、神の世界に奉仕して22年が経過した事に成る。
更に是から、また未知の世界を、体験して行かなければ成らない。
此処から先は、過去の人達が未だ、体験をした事がない未知の世界である。
其れは、ブッダのステージを越える、新しいビジョンの世界である。
是から、宇宙の森羅万象の質量をどう変化させて行くのか、其れは、是からの人間の行動と、宇宙とのコミュニケーション如何に、掛かっているのである。
此の三次元の現象世界と、神の世界である四次元世界は、物事の表裏に成っており、其の姿は、粒子的存在で映し出されている。
空き缶を一個、自然の中に投げ捨てれば、其れは其の侭、粒子を繋ぎ止めているプログラムの影として記憶され、人生のカルマとして積み重なって行くのである。
其の、積(罪)んだモノを消して行くには、また其れだけの時間と、努力が必要なのである。其れが「罪 穢れ 祓もうば・・・」の祝詞の意味である。
偉大な「お釈迦さん」でさえ、其れに6年間も掛かっているし、イエスは其の人間のカルマの為に、磔に成っている。
其れに、日本では神様である「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」さえ、小戸のあわぎ原で禊ぎ祓いをしているのである。
イエスや、釈迦や、伊邪那岐命までが禊ぎをしている、其の大事な水を、汚す者は許されないのである。
地球の内部はマグマで、表面は水で出来ている。
其の間に在る大地は、平らにしてしまえば3000mの海底に沈んでしまうのである。
なのに、どうして大地が水面に出ているのか、其の訳は、大地を手足の様に水面に出している、マグマに聞いてみなければ分からない。
私は22年前、禊ぎ祓いの後、椎の木に寄りかかって海を眺めていたら、突然太平洋に火柱が立ち、其の火柱の中に「末法」との文字が現われた。
そして、大地から赤い龍が出て来て、私の身体に巻き付いたのである。其の現象こそ、マグマの意志ではなかったのだろうか。
昨日までの体調不調は、其の地球の苦しみを、体現する現象だったのかも知れない。
昨夕、孔紀氏より電話を戴いた。
孔紀氏も、大変な苦しみの中に在るらしい。其れは、正に、地球の最後の踏ん張りを、一身に受け止めて居るからではないだろうか。
今回の旅で始まる、新しきステージが、孔紀氏を始め、苦しみの中に在る人々の救いに繋がるのであれば、旅の途中で行き倒れに成っても、其れは、私の本望でもある。
其の私の「カルマ・業(背景)」は父親譲りだから、どうしようも無いのかも知れない。
今日は、屋久島は朝から快晴で、新しい出発には相応しい日和である。
私は未だ、「人生とは何なのか」の、明確な答えを掴んではいない。
漸く、「いのち」とは何なのかと言う答えが、おぼろげに解り掛けて来ただけである。
此の調子だと、後 何回輪廻して来れば、全ての答えが見付かるのか、其れも解らない。ハッキリしている事は、だからこそ宇宙が存続できて、永遠のトキが刻まれるのだと言う理・ことである。
若し、其の答えが出るとすれば、其の時、此の宇宙は存在の意味を失い、瞬間にバイブレーションが停止して、消滅してしまうのだ。
其れが「色即是空・空即是色」の言葉の意味であり、我々の疑問の裏には、何時も、真っ暗な闇が天幕として張られているのである。
其処に、光りの映像を映し出し、神の姿を映し続けて行くには、此の人類の旅は、まだまだ続くのである。
其の幕に、映し出される映像は 其れぞれが そう願う者達の 影であるのだ。
屋久島の水の祟り 2004年7月6日
「白州」http://moon.ap.teacup.com/20061108/324.html
平成18年9月27日
ようやくの旅立ち
礒邉自適
2006/9/26
魂しいの発露
18・9・26
今朝の映像は、私自身にも、思い掛けないものであった。
と謂うのは、私の是までの価値観では、「縁」は、糸の様に繋がっているとのイメージで、「赤い糸で結ばれている」とか、「縁結び」と言って、見えない紐で結ばれていると考えて来た。
だから、日本国では「注連縄・しめなわ」が造られ、鳥居や神社の入り口に掛けられるし、人家でも正月には、玄関や車などに藁で編んだ「注連縄」が着けられて来た。
漢字の、「意識」の単語も「人間の意が 言葉に拠って 織られる。」との意味合いだから、やはり糸の感覚である。
処が、今朝は、其れが粒子の繋がりと成って、黄金比の放物線の様に、回転するのが見えて来た。
確かに、黄金比も図で書けば、其れは線である。
しかし、其の線を顕微鏡で視れば、墨の粉や色素の粒である事が判かる。
だから、此の世には線とは無く、全てが粒子の集まりなのである。
昨日のメッセージ映像に、「ナミオ氏・波男」が現れて「鍵を渡せ」と云ったのは、波である派動の感覚を、外せとの意味だったのではないだろうか。
そうであれば、親子の縁とか、仏教の結縁とかの概念を、排除しなければ成らない。
確かに、親子の関係は、遺伝子に拠る繋がりがあるが、親子は別の人格であるし、同じ両親から生まれても、一卵双生児の間は別にして、兄弟姉妹の性格や性質もバラバラである。
其れは、確かに、糸で繋がっているのではなく、情報に因る伝達の所為の結果である。
其の様に考えると、家系の系図も、線で繋いでいるのは正しいとは云えないし、釈迦から何代目の弟子だと云っても、何等かの確かな糸が、繋がっている分けでもないのである。
其れ等の事柄を、別な角度から見れば、此の世には「因縁」とかで繋がっている物は、何も無い事に成って来る。
何故、其れが、繋がっていると考え始めたのだろうか。
其れは、「縁で繋がっている」との言葉が存在し、其の言葉で、人間の思考に概念が生まれ、其の概念が伝え続けられているからではないだろうか。
其れ等の概念を忘れさせるのが、釈迦牟尼佛の説なのであろう。
釈迦牟尼佛とは、ブッダに成った「釈迦(姓)シッダッタ(名)」の事だが、彼は、池の水で禊ぎをしてから、菩提樹の枝の下で休んで、全ての言葉を頭から排除した時に、悟りを得ている。
其の釈迦牟尼佛の教えは、成仏・覚醒したければ「出家」をして、人間社会との「縁・えにし・ゆかり」を切りなさいとの理・ことである。
日本語の、「えにし」と「ゆかり」が、どう言う意味合いかは解らないが、日本の古神道では、神が降りるのは「ちぎ」であり、儀式は「ちはやふる」である。其の世界には、糸は無く、電気的な粒子を意味している様である。
振るは、「振り撒く」に発展するので、「たまふり」とは粒子的な振る舞いを起す事ではないだろうか。
其の意味から考えれば、巫女さんの舞いは「ちはやを 振り撒く」事であり、出雲の「お国さん」が踊りの始まりであるのも理解できて来るし、天の岩戸が「天のうずめ」の踊りで開かれたとの伝説の意味も、謎が解けてくる。
其れに、日本語の「ふるまい・振る舞い」や、「しぐさ・仕種」の言葉の持つ景色も見えて来る。
私には、昨日から、男の口調で言葉が聞こえ始めて来た。
今朝の、私へのメッセージの言葉も、訛りの有る男性の声だった。
今朝のメッセージの内容は、私の立場が、現場から下げられて、長老組の方に回される内容である。
其れは、野球の現役選手が、肉体の限界を感じて、グランドで活動する事から、身を引く様子と同じである。
現場から引退した後、能力の有る者はコーチか監督を務め、其のグランドに関わりを持って行くが、採り得の無い者は、其処から去るしかない。
其れ等の理を、知っている御仁のお出ましなのだろう。
どうやら、今朝のメッセージからすると、私の活動も終りを向え、何事からも現役を退かなければならないらしい。
其れは、ネィティブ・アメリカンの長老の様に、部族長の相談相手に成る様なものである。其れは、シャーマンとも違い、全ての業を終えた者の役目である。
私は、来年1月に満60歳を迎えるが、母親の体内に宿った時点から数えれば、丁度60歳で還暦と成る。
還暦とは、12支×10干の120年が大還暦であり、60歳は其の半分の「半還暦」だから、是からは、生命の消滅に向かって行く年代である。
だから、何時死んでも良い様に、段取りをして措かなければ成らないのである。其の為には、あらゆる事の第一線から、身を引いて措かなければ成らない。
其れは、後継者が育つ為に、場・グランドを空ける事を意味している。
是からの私の役割は、コーチか監督の様な立場なのであろう。
其れも、「欽ちゃん」の様に、自分で球団を造って監督を務めるのではなく、自由で気儘な「雇われ監督」である。
其して、ピッチャー型の「星野監督」式ではなく、キャッチャー形の遣り型で、相手の行動を受けながら、対応して行く立場である。
今朝のメッセージは、昨日のメッセージの続きである様だ。
私は、是から全ての面に置いて、現役で在っては成らないようである。
現役とは、寝ても覚めても、其の事を考え続けていなければ成らない役割だから、其の活動の間は、他の世界の事には、眼が行き届かない。
其れを避ける為には、あらゆる世界から、足を洗って措かなければ成らないのだ。
何故、此処に来て、この様な事柄を示して来るのだろうか。
其れは、今月30日より、新しい体制が動き出す事に関係があるのだろう。
其の動きに、私自身が嵌ってしまえば、私の意識が、三次元に定着してしまうからである。
其れに、今朝告げられた事は、是まで、22年間取り組んで来た行動からも、足を洗えとの事のようだから、シャーマン的な行為からも、外れろとの事のようである。其れは、四次元世界からも脱しろとの意味らしい。
私は22年前、37歳の時に、三次元世界を捨て、四次元世界に触れながら生きて来た。其の世界からも、離れて生きろとの事である。
其れが、何次元の世界なのかは私には判らないが、今朝の黄金比の放物線の映像からすれば、拡大する宇宙の模様を、視る事が出来る立場である事は間違い無いようである。
私は22年前、水断食を続け、脈拍が止まり、魂しいが自由に成り、時空を越えて視て来た宇宙の始まりの世界を、今度は、違う角度から観られるのである。
其れは、22年前に観た「宇宙の始まりに 自分が在り、此の世の事象は 全て自分の分身である。」との感覚とは、違うものだろう。
おそらく、釈迦牟尼佛が説明しようとした世界は、其の世界であり「三千世界に我が在り 衆生一切我が子。」の言葉は、其の世界を言い表しているものと想われる。
しかし、今朝の雰囲気は、其れと違い、「此の世界が、粒子に拠り 黄金比の螺旋で 拡大して行く」映像である。
それは、自分がそうであると言うのではなく、新しく創造される世界を、見詰める目線である。
其れは、釈迦牟尼佛が体験した世界より、もう一段深い世界と言うか、見られなかった世界であろう。
此処から先の世界は、誰も体験した事が無く、其の為に、言葉も概念も無いのかも知れない。
しかし、そう思うのも私の身勝手で、言葉も概念も有るのに、私の見識が未だ浅いから、気付かないだけなのかも知れないのである。
ただ謂える事は、釈迦牟尼佛も、老子も、イエスキリストも、自分の想う様な国を造る立場には至っていない。
自己顕示欲からではなく、神の支持に因り国造りが行なわれ、其れが現在まで保たれているのは、此の日本国だけではないのだろうか。
だからこそ、世界中の神霊が此の時代に、日本に皆集まって来ているのではないだろうか。
日本の国造りは、何度も、外来の男性が渡って来て、原住民・地祇の娘と結婚して行われている。
「須佐之男尊・すさのおのみこと」・「饒速日命・にぎはやひのみこと」・「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」・「神武天皇」等、皆自分が生まれた国ではなく、妻の里での国造りである。
其れ等を見ると、新しい国造りとは、他民族の男性の登場が必要らしい。
其れは、何故かと言えば、現状維持の体制側の人間では、革新が行なえないからである。
今回の新しき国造りが、どの様な形で始まるのかは判らないが、今朝のメッセージでは、私に現役から引退して、何も、しては成らないとの事のようだから、其れを守って、私は、全体の流れを眺めて居るだけにしようと想う。
今日は、此の文章を書いていると、月山の巫女さんから電話が有り、話していると途中で、インターネットも電話も携帯も一切通じなく成った。
其れは、4時間程で復活したが、種子島・屋久島全域だったらしい。
若し何か有れば、この様に成り、一切の連絡も取れないし、情報の入手も困難に成る。
電話線が繋がっているので、情報が手に入ると考え、安心して居ても、突然にして其れが切れるのである。
何もかもが切れて、繋がりが無く成る状態をシュミレーションしていないと、イザと言う時にパニックを起し、社会全体が混乱してしまうだろう。
そう成らない為にも、其々が独立して生きて行けるシステムを、完成させなければ成らないだろう。
そして、自立心を育てる教育を、構築しなければ成らないのだ。
今日の題を「魂しいの発露」としたのは、私が今朝、パソコンの前に座った時に出て来た言葉だが、其の意味は「人間の魂しいは、其々が 自分で体験を積んで 現場の映像を蓄えていないと、イザと言う時に アイデアが湧かないし 現実に対して 手も足も出せない。」との事ではないだろうか。
魂しいとは、「たま」が沢山詰まっている様を言っているのである。
其の「たま・魂・霊」とは、現場の映像の数であり、密議が図れる能力を意味している。
其の事は、私の人生の記録を見れば、参考に成るだろう。
其の、私の脳内の現場の多さは、他には、類が無いかも知れない程である。
現代文明だけの事か、自然生活だけの事かの、片一方だけなら、私以上の者は多いだろうが、両方のバランスを考えれば、私が、天の働きで遣らされた体験は、幅が広くしかも多彩だと想われる。
其れが、私の意識の特徴だとも考えられるのだ。
其の場数の多さが、是から社会の役に立つのだ。
そして、私には、是から「何もしない」と言う事を、修行する現場が待っているのだ。
平成18年9月26日
礒邉自適
2006/9/25
ナミオ
18・9・25
断食状態で三日目の映像。
今日の映像は 書かない方が 良いかも知れない。
そして 読んで貰わない方が 良いのかも知れない。
昨夜 久し振りに、テレビの日曜洋画劇場を観た。
其の映画の題名は「アナコンダ」である。アナコンダの映画は、予告では何度か目にした事はあるが、観るのは初めてである。
其の映画の内容の所為か、今朝の映像は、今までの物とは違っていた。
私の意識の中に住むアナコンダが、映画の内容に違和感を持って、混乱を起しているのだろうか。
映画の内容は、アナコンダを捕まえて見世物に売ろうと考えている者と、アナコンダ自身との戦いなのだが、其の森に住む現住民は、其のアナコンダを護り神として祀っているのである。
私の立場は、原住民側だと想うのだが、現代社会の人達は、ジャングルの神秘を、お金に替えたいと意う者が多いのだろう。
映画では、都会の人間側が、知識と道具とで、アナコンダには勝つのだが、其れで善いのかどうかは良く分からない。
現実的には、森林は人間にドンドン破壊されて、アナコンダの住むジャングルは狭く成っている事は確かである。アナコンダの住む領域を、人間側が侵略し続けているのだ。
其れは、其れとして、一応 今朝の映像を掻い摘んで記して措こう。
今朝の映像では、是までとは様子が違い、私が、自分でする行為が、全部上手く行かないのである。
何処かへ出かけても、帰りには、自分の置いた車の場所が分からないし、ポケット中のキイーの区別も出来ない。
オマケに車を運転しても、前後の操作が上手く行かないし、写真を撮ろうとしても、カメラとレンズの取り付け部分が、巧く合わないで撮影が出来ないのである。
更に、ガイドの仕事も、客の方が私より先に出掛けてしまう在り様である。
今朝の映像では、私には、採り得が一つも無いのである。
其れが、どんな意味を示しているのかさえ、理解出来ない。
ただ、現場に遣って来て、私にキイーを渡すように云った人は、35年前一緒に仕事をして居た、東京の「七三雄さん」と言う方であった。
ヒントとすれば、其の「七三雄・なみお」と言う名前だけである。
其の七三雄氏が、キイーを渡すように言うのだから、謎解きのキイーが七三雄の名に、有るのだと考えられる。
ナミオのナミが、「イザナミ・イザナギ」の「ナミ」に関係が有るのなら、「イザナミ・伊邪那美命」に鍵を渡せとか、返せとの意味にも受け取れる。
其れは、「此処から先は お前では出来ないから 鍵を伊邪那美命に返還しろ。」との、意味にも受け取れる。
二日後には屋久島を出て、広島の集いに参加して、パネラーとして話しをしなければ成らないし、各地を転々としてから、15日には愛媛県大洲市の「少彦名神社」の秋季大祭にも顔を出さなければ成らない。
屋久島に帰るのは、10月18日ぐらいに成りそうである。
其れまで、此の身体の状態で持つのだろうかと不安がある。
自分の家で、クタバルのなら他人に迷惑を掛ける事には成らないが、島を出てから倒れれば、大変な迷惑を他人に及ぼす事に成る。
迷いがある侭、残りの日数が無いので、今日は27日のフェリーの予約をした。
今の私には、是から全てが始まるのか、それとも、私の役割が完了したのかの、区別が付かないのである。
其れは、私が長年、自分の価値判断で行動を続けて来たのではなく、「神霊の思頼」に心身を全て預けて行動して来たからである。
今朝の映像を、其のまま素直に受け取れば、私が自分でする事は、全て無く成ったと言う事に成る。
私が元気なら、張り切って、自分が先頭に立ち、事を仕切ろうとするだろう。
しかし、此の体調なら、他人の後を、付いて歩くのがヤットの状態である。
其れが、御魂の作戦で、私の行動を止めようとしているのなら、私にも理解出来ない事ではない。
何も、口を出さないで、動く事もしないで、惟一椅子に座って居るだけなら、何とか持つのではないだろうか。
「何もしてはいけない」との理を悟れば、身体の調子も良く成るのだろうか。
私は、農林漁業の一次産業で生きて来たので、何もしないで座って居るのは、犯罪的行為だと意ってしまう。
其のカルマは、なかなか取れそうに無い。其れを、カバーするのには、病気は手っ取り早い処方である。
今回の旅は、全ての行為を、他人に委ねて、ジーッと座って居る事にしよう。しかし果たして、他人が働いて居るのに、何もしないで見て居るだけの姿勢が、私に保てるだろうか。
変った修行が、在ったものである。
平成18年9月25日
礒邉自適
2006/9/24
思い派工房
18・9・24
今朝の映像は、人間の暮らしにとって、最小限必要不可欠な物事が、示されて来た。
其れは、昨日の「スメラのミコト」の儀式に必要な物と違い、人間の生活にとって必要な物事に付いてである。
其れは、人間の生活にとって必要だと神が認め、資源を使う事を許す部分に付いてであろう。
今朝の映像では、車が通れる程の道幅の道路を造る場面と、川を渡る為の橋が映り、其処を行き来する人々の姿が見えた。
そして、其の人達は、皆自分の好みの服を着て居て、カラフルな通行風景である事が理解出来た。
そして、雨が降って来て、雨具が必要である事や、雨に濡れる事の無い、住居も必要である事も示された。
他には、魚釣りの為に必要な、竿や釣り針も出て来た。そして、最後の方では、カラオケの道具を買う事も、許可される様子も映されて来た。
これ等の映像は、我々人間が、豊に暮らして行く為の、必要不可欠の部分は、神が許可すると言うか、許されるとの意味であろう。
人間社会の、経済を維持する為には、車が通行できる道路や橋がなければならない。
其れに、人間が生きて行く為には、或る程度の「衣食住」の条件は、確保しなければ成らない。
其れと、釣り針が出て来たのは、人間の暮らしには、道具が必要であるとの理・ことである。
さらに、カラオケは、暮らし自体には必要ないが、在る程度の、楽しみや娯楽は許されるとの事であろう。其れと、カラフルな装いは、其々の自由な人生を、意味しているのだろう。
今朝のメッセージは、人間が存続する事を、神が許す事を告げて来たのではないだろうか。
と言うより、人間が神の望む方向に向い始めたので、未来を保障して来たのかも知れない。しかし其れは、人間が、不必要な事を起さない事が条件なのである。
現在の消費型文明を見ると、余りにも、不必要な物事が多く、人心は荒廃し、自然は破壊され、公害で生命の存在は脅かされ、何も善い処が無い。
現状を見る限りでは、人間が存続しない方が、地球の為には良いと考えずにはいられない程の在り様である。
何故、天・神はこの様な人間を、何時までも許して措くのだろうかと、疑問に想えて来る程である。
今朝の映像では、川の様子が映り、清らかな水が流れていた。
そして、水の流れを堰き止めて、水の働きを害しては成らない事と、人工物を川に捨てては成らない理も、示されて来た。
其れは、水の循環を妨げては成らないとの事である。
そして、最後の映像は、美味しそうな出来立てパンが、店先に並んでいる所が映り「思い派工房」との文字が出て来た。
其の文字は、其の店の看板ではないが、其処に出されているパンは、主人が材料を吟味し、何から何まで、思いを込めて焼いている事が示されたので、お客さんに対して、想いが込められているとの意味であろう。
其れは、其の「パン屋さん」だけの事ではなく、全ての工房が、そうでなければ成らないとのメッセージのようである。
其の意味での、「思い派工房」との言葉なのである。
今朝は、昨日より、更に胸の重たさは軽く成っている。
是は「胸の支えが取れる」の言葉が、実感できる状況でもある。
昨日は、スメラの命の儀式に関する事を書いたが、今日は、庶民の暮らし向きに付いて書かされている。
其の事から、考えられることは、現在の「民主主義・資本主義」や「共産主義・社会主義」等のイデオロギーは、全て人間のエゴから発生した価値観で、どちらも正しくないとの事である。
だからと云って、キリスト教や、イスラム教の様に、神を信じれば良いとの考えも間違いである。
宇宙には、確かに、唯一の意識が存在し、此の世界を映し出している事は確かだが、其れを信じている者は、何をしても可いと言うものではないのである。
一番正しい考えは、老子が謂う「タオ・道」に従う事や、釈迦牟尼佛の謂う「ダルマ・法」に従って生きる事である。
此の世界の決まり(タオ・ダルマ)は、人間サイドが、勝手に決められる物ではなく、既に、絶対不変の法則として存在しているのである。
我々人類も、他の地球生命と同じく、其のタオ・ダルマに従えば良いのである。我々人間が、決まりを創るのであれば、其の「大自然の法則に従う事が第一だ」と言う決まりを、創れば良いのである。
そうすれば、誰が一番、其の道の実行者かと言う事が、明確に成って来る。其の実行者を、指導者の立場に据えれば良いのである。
現在の日本の政治は、720人もの人々が関わって行なっているが、誠に比能率的だと云えるものである。
国会で、人間界のくだらない事柄を扱っている間に、現状はドンドン悪く成っている。いい加減に、価値観を替えて、別な社会構造を造らない限り、都会の崩壊は免れない。
一番困るのは、田舎で道・タオに従って生きて居る者にまで、都会のカルマ・業が影響を与える事である。
現在・いまの都会には、人間の暮らしにとって、本当に必要な物は殆んど無いのが現状である。
都会に生きる人々が、目線を変えて、本来の人間の暮らしを見詰めない限り、近代社会は神の御加護から外されるだろう。
イエスキリストが謂う「其の日」が、間近である事は確かである。
神の存在や、他人の事に思いが届かない者は、神の御心から遠く成るばかりなのである。其れが、今朝のメッセージのテーマなのであろう。
平成18年9月24日
礒邉自適
2006/9/23
あぶくま
18・9・23
本日は彼岸の中日で、屋久島の安房地区では「岳参り」の行事が行われる日だが、残念ながら、私の体調が今一なので、岳参りに参加する事は中止した。
例年なら、私が三コースのどれかの「所頭・ところがん」と成って、皆を先導するのだが、今日は、其れ以上の大事が有ったらしい。
今日は、父方の祖父の59回忌であり、父親の月命日でもある。
昨夜は、久振りに長く寝付けないので、ベッドの上で本を読んだり、座禅を組んだりして、眠く成ったのは夜半を過ぎてからである。
そして、見せられた映像は、今までに無いパターンだった。
其れを、簡単に一口で言えば「スメラの命を育てる為の係りが、総動員で現れた。」と、云えるだろうか。
其の映像から、私に考えられる事は、今の天皇家の儀式が正しく行なわれていないと言う事である。其れが、何時頃から、正しくないのかは判らないが、西洋の文化に汚染されてから、全部駄目に成っている様である。
始めの映像は、天皇の子供が二人出て来て、其の子を、親から離して育てる場面だった。
其れは、学校とかの施設の、世間の人と、同じ世界に出してはいけないとのことである。スメラ王は、民衆を、神の立場で見詰める役目だから、民の意識や概念の影響を受け、一般的な目線を持ってはならないのである。
次の映像は、建物や家具や書物などが現れて、其れ等は、総て一般的な物ではなく、良質の物で、波動が極めて高い物なのである。
次は、テーブルが出て来て、其の上に、料理が用意されていた。
其の料理は、伝統的な物で、肉類は無く、薬膳料理の様であり、一品だけは、スメラ王が其の日に食べたい物が、注文出来るらしい。
今朝の場面では、スメラ王が指定した物は魚の刺身だった。
其の施設で働く者は、皆、神の世界を理解している者達で、あまり歳若の人は居ない様である。王の身近に着く者は、他の所で、相当修行を積んで措かなけれ成らないようである。
今朝、其の映像で判った事は、現在の時代の物品の様に、大量生産された様な物は一つも無く、昔から、伝統的に伝わっている古い物ばかりである。
特に、西洋の石や金属性の無機質な製品ではなく、植物性の素材で出来た建物・家具・衣類・用紙なのである。
其れに、掛け軸や、祝詞の言葉も東洋的なもので、西洋文化は、殆んど目には映らなかった。
今朝の映像の雰囲気では、明治維新で、完全にスメラの働きが無く成っている様に感じるものが有った。
明治維新は、天皇の意思は関係なく、薩長連合の新幕府が、其れまでと形を替えて出来たものであり、真のスメラ王が誕生しての出来事ではないのである。
特に、現天皇の子供の頃の家庭教師には、キリスト教の女性が成っているし、美智子妃の実家もキリスト教だと聞いている。
キリスト教の教義は、イエス一人が神の子で、後は皆、罪の子だとの訓えだから、誰も神には成れないのである。
其の概念では、スメラ王が育つ土壌は何も無い。
其の環境の中で育った皇太子では、とてもスメラ王に成る事は不可能である。
たった一つの望みは、今回誕生した男の子を、スメラ王に成れるよう、正しく育てる事である。
処が、今朝の映像から察するに、全く其の環境は、現在の天皇家にも、宮内庁にも、神社庁にも備わっていないし、其の事を自覚している御仁も、居無い様である。
私が、今朝見せられた場面は、書物には、書き残されてはいない世界であろう。在るとすれば、私の師が全てを記録して残して有れば、資料として参考に成るだろうが、其の可能性は薄い。
何故なら、起きた事の内容が複雑で、高度で、深いモノだし、スピード(転回)が速いのと、大量の情報だから、文章には書き留められないのである。
其れ等に関する秘儀的な事は、私も、殆んど文章にはしていない。
其れ等が、御魂の準備が出来ていない者の目に触れれば、世の中が混乱する事は、目に見えているからである。
だから、大嘗祭の儀式の真実は、秘儀とされているのである。
其れでも、私の是までの文章の中に、多くのヒントは示されている。
其れに、其れらしき事は、群馬県南北村の黒滝不動尊に「潮音禅師」が持ち込んで保存されている、「先代旧事本紀大成経」に書かれていて、「金井南龍氏」に拠って世間に公表されているので、其の内容が理解出来る者には、私が何を謂っているのかは、少し解るのではないだろうか。
今朝のメッセージに現れた映像は、誰の霊魂の情報なのであろうか。
若しかしたら、旧事本紀の出所である、白川伯王家の儀式に関わって居た面々が、現れたのではないだろうか。
私が21年前、黒滝不動尊に行って、長岡良円住職と複数で話し合いをした夜に、とても不思議な現象が起きた。其れは、此の大成経が世に出る時には、真実のスメラ王が世に出る時だと、伝えられている事に、要因が有るのかも知れない。
今度産まれた男の子に、地球の未来が掛かっているのであれば、霊界が総動員で動き始めるのも納得が行く。
前のメッセージ・18年2月25日
「星が歩く」http://star.ap.teacup.com/170606/684.html
今朝は、最後に「あぶくま」と言葉が告げられて来た。
朝其れを辞典で調べると、「あぶ」は古語辞典では「浴びる」のことで、「浴ぶる」の「あぶ」らしい。
「くま」は、古語では熊野大社のクマであり「神」の意味である。
縄文時代は「神々しい」を「くまくましい」と表現していたのである。
其れから考えれば、「あぶくま」とは「浴びる神」と成り、神の気を浴びろとの意味に受け取れる。
今日は、岳参りを欠席したが、「岳参り」とは、山に登り神の気を浴びる事なのかも知れない。
私は22年前、数ヶ月間を屋久島の荒野で過ごした。其れは、神々の氣を浴びる事だったのであろう。
現在の皇太子は、今更、其の世界に入ろうとしても、もう手遅れであろうが、今度産まれた男の子なら、其の可能性は充分に有る。
人類の未来を護る為にも、天皇家・宮内庁・神社庁が一体と成って、日本の神事を復活しなければ成らないのだ。
人類は、魂しいを失い、世界は崩壊に向かっている。
最後に残された生存のチャンスは、日本の古神道の復活に掛かっているのである。数日前「あ部姓」に付いて書いたが、今度の総理大臣も安部姓である。
今朝の儀式の映像に、安部清明が絡んでいるのであれば、愈々神界の動きも激しく成るだろう。
安倍晋三総理の三年間に、大きな転換が起きる事を願いたいものである。
昨日まで、胸に痞えていた重いモノは、日本の神道のカルマ、其のモノだったのではないだろうか。
其れを、表に出した所為か、随分胸の所も楽に成った様である。
平成18年9月23日
礒邉自適
2006/9/22
謂うに五段階有り
18・9・22
今朝メッセージの映像には、「謂」の世界に五色と言うか、謂の世界が五層に成っている事が、知らされて来た。
私は昨日から、足の力が抜けて、意識も弱り思考が進まない。
また、持病の十二指腸の出血が始まっての貧血かと意ったが、未だ下血の症状は見られない。
私の身体は、パソコンに向かい一年半に成るので、運動不足の所為で胃腸も弱って来ている事は確かだが、其れだけが原因でもないだろう。
此処のところ、続いて来た胸の重苦しさは、胸の一番上にまで達して、首の付け根にまで届きそうである。
此の関所を抜ければ、嘔吐が始まりそうだ。
此の症状は、私の身体の死が近いのか、新たな次元への変容の為なのかは、未だ解らない。
私は十二指腸の出血の度に、毒気・カルマが抜けて、意識が純粋に成って来た。
それは、自分の自信が消える事と、仕事を休む事で、自由に成る事。其れに、他人が優しく面倒を看てくれる事など、色々な面で環境が変わるからである。
病気をすれば、お医者さんの有り難味も分かるし、薬の必要性も分かる。
其れに、病院の建物や器具、其れに看護婦さんが必要不可欠である事も理解できる。
何だかんだで、自分一人で生きて居るのではなく、社会が在る事で、活かされて居るのだとの自覚が出来るから、こんな私でも、少しは素直な気持ちに成るのである。
此の学びを、入院をする事なく認識出来れば、此の症状も消えるのではないだろうか。
いま一番認識しなければ成らない事は、此の胸の重たさの解決である。
此処数日で、アダムやイブの名が回収され、旧約聖書の概念が無くなれば、其れを対象に生きている20億人程の人々は、心の部分が空白に成り、動揺を起して来るだろう。
其の現象が、私の憶いの中で、胸に突き上がって来ているのかも知れない。
其れは、釈迦牟尼佛の謂う「三千世界が自分の胸の内に在り 衆生一切が我が子。」の言葉に繋がるモノであるし、宮沢賢治の「雨にも負けず・・・」の憶いが、繋がっているのだとの考えも出来る。
「謂」の漢字は「言+胃」の組み合わせで出来ているが、「胃」は月(胃袋)+田(米・穀物)の組み合わせで、謂は「言葉は 胃袋の中の穀物から発生する。」との意味である。
其れが、新嘗祭・大嘗祭の儀式に繋がっているのである。
今朝は、其の謂から発生して来る意識に、五層くらいの階梯が存在し、其の段階で発生する認識が、人間の性格や行動を造り出している事が、理解出来た。
その階梯の様子が、説明されて来た映像を、其々言葉に変換するのは、今の私の体調では無理なので、此処で述べる事はしないが、人間の身体は、各部分に様々な別の働きが内蔵されており、其れが、宇宙の存在と深く関係していることだけはハッキリとして来た。
ただ単に、身体を維持する為だけに、肺や心臓や消化器官が在るのではないのである。
謂(言ってくる)は、胃袋の食べ物に関係していても、其れが、人間の意識に上るのは胸の中心で、肋骨が集まっている骨の部分である。
其れが、咽仏の方に近く成る程、意識的には深く成る様である。
「意識・マインド」は胸に位置し、「ハート」は心臓に位置し、「勇気」は肝臓に位置し、「落ち着き」は腎臓に位置し、「神」は肺臓に位置しているのかも知れない。
「頭・脳」は、其れ等の働きの「総合司令室」と成っていると、言えるのではないだろうか。
其れ等の説明は、他の人の係りだろうから、私などが説明するより、インターネットで調べれば適切な答えが見付かるだろう。
私が、今日見せられた映像は、密教の「人体七つのチャクラ」の理論と重なっている部分が有るのだろう。
昔からヨーギの世界では、其れ等の理が、探求され続けて来ているのである。
私が今朝見た映像には、男女や子供達が、何人も現れて、様々な役割を演じて見せてくれた。
其の映像全体から、一口に云える事は、現代人は魂的に皆「幼く(長無く)」成っていると謂うことである。
花嫁は、直ぐ実家の母親に泣き付くし、花婿は爪を伸ばして仕事をしないで、先代の人の積み重ねを当てにして、自分で未来舞台を創造しないのである。
子供達は、成長しようにも、身近に頼りに成る先輩が居ない。
だから、人間の御魂が生長しようにも、生長出来ない環境なのである。
今朝の私へのメッセージは、人間の世界で一番重要である「謂」の世界を、もう一度確立しろとの事ではないだろうか。
其の内容は、宇宙原理(タオ・ダルマ)と人間の世界は、裏表に成っているので、其の真実を的確に把握する事と、着る物を前後逆に着ない事である。
其れは簡単に言えば、人間の存在の為に、神の世界が在るのではなく、神の世界の存続の為に、人間が在ると言う理・コトである。
其れさえ自覚出来れば、自分の為に、神に願いをする人は居なく成り、神に対して、「私は何をすべきか」とコールする者だけに、成って来る筈である。
其の理・ことわりさえ明確に成れば、人間の未来は約束され、明るいものと成って来るのではないだろうか。
今朝の映像は、現象化している人間世界だけの「表情(おもてじょうほう)」を見るのではなく、裏側の神の実情にも、目を向けろとの意味ではないだろうか。
我々は今一度、世界には表裏があり、時間的にも、前後があると謂う理を、把握するべき時節を迎えているのである。
平成18年9月22日
礒邉自適
2006/9/21
コーリング (Calling)
18・9・21
今日は、弘法大師空海の月命日である。
今朝のメッセージは、大きな立ち木の幹が、横に成って映り、其れに「Call・・」と大きくアルファベットが重なって現れ、コールと読む事が分かった。
其れが、何を、意味しているのかは判らないが、木が横に見える事を考えると、自分の意識が地面に寝て、木を眺めている事に成る。
朝 事務所に出て来て、カタカナ語新辞典(有紀書房)で「コール・Call」を調べると @呼ぶ、呼ぶこと、電話などの相手の呼び出し。と 載っており、上の項目には「コーリング・Callng」が有り @呼ぶこと、叫び声。A神のお召し。B訪問。と 載っている。
今朝のメッセージは、大きな木から、神のお召し、訪問が有る。との知らせのようである。
それは、私が22年前、神の世界に入った時の事を、思い出させるものである。
日本の伝統では、村に鎮守の杜・森が在り、大きな御神木が立っていて「鎮守の神様・産土神・氏神様」が祀られて来た。
其の文化は、簡単に、シャーマニズムとして片付けられてよい物ではない。
日本人の「DNA・遺伝子」には、死後の霊魂は「鎮守の杜」の樹木に住むのだと、シッカリ記憶されて来ている筈である。
だから、其の風習が途絶えてしまえば、霊界と、今世を生きる人間との絆・コミュニケーションが、執れなくなってしまうのである。
今朝の映像では、何故、日本語で「お告げ」とか「神の降臨」とかと出て来ないで、「Call・Callng」と、私の知らない英語の単語で、知らせて来たのだろうか。
其れは、其の世界が、日本人だけの物ではなく、世界共通の「モノ・世界」だと知らせる為だろう。
私が、神の世界に入り込んで行ったのは、父親を含む4311体もの霊魂が憑依して来て、私の肉体を占有し、毎日、私の意志を無視して、肉体を使用したからである。
普通だったら、家族が、精神病院に連れて行って、注射を打ったり薬を投与したりして、脳の働きを止めてしまうのだが、私の場合は、無庵師匠が付いて居て、其の指導の下で始まった事なので、病院に連れて行かれる事には成らなかったのである。
其の時の、不思議な行動の一つに、私は、妻にバスタオルを持って付いて来るように云い、妻と共に実家の裏山に行った。
そして、其処に立っている大きな木の側で、直ぐ脇を流れる川水にて禊ぎをし、次ぎに、其の川に有る縦長の石を拾って、其の大木の根元に立て掛けて、お祈りを済ましてから、妻を其の木に掴まらせて、後ろから行為に挑んだのである。
其の行為で、妻は、私が完全に変いと判断し、離婚の決心が着いた様である。しかし、後に、古代の文献を読んでいて、其れは、古代では一番重要で、聖なる儀式として、行われていた事が判明した。
其の様子を表す象形文字が、漢字の「色・シキ・いろ」であり、色の文字は女性が前かがみに成り、男性が後ろから、行為に挑んでいる姿の映像から出来ているのである。
だから、私の其の日の行動は、「色」の世界を実体験していた事に成り、古代では極当たり前の事だったのである。
だからこそ、色・シキの漢字は、有名な般若心経の「色即是空・空即是色」として、使われているのである。
此の世の、目に見える世界は皆「陰陽・いんよう」の働きで、出来ているとの概念は、中国の道(タオ)のマークである、陰陽のトカゲ(蛇)や、西洋のヘルメスの杖に巻きつく、雌雄の蛇と同じものである。
だから旧約聖書でも、智慧を持つ蛇は、木に住んで居る事に成っているのである。
今朝のメッセージは、大きな御神木の下で休めば「神のお召し」が有る事を、告げて来ているのだ。
其れは、私が22年間行なって来た「神霊の思頼・みたまのふゆ」の原点に、今朝、立ち返った事にも成るのであろう。
しかし、何故、今朝に成って、行き成り其の事が映り出されて来たのだろうか。昨日の映像は、「アダム」と「イブ」の名が、天空に回収されて行く映像だったのだが、今朝は、彼等が「エデンの園」を追放される事に成った原因である、木に住む智慧の神が、再びコーリングするとの意味であろうか。
不思議な事に、コーリングを漢字に置き換えれば「降臨ぐ」と成り、神が複数降臨するとの意味にも共通してくる。
其れは、日本人の八百万の神々の概念にも、共通するものである。
私の、22年間の体験では、4311体の霊魂の「神霊の思頼」の働きで、宇宙神から、星々の振動波、其れに水や太陽などの自然物へのチャンネル等、此の宇宙に存在するあらゆる物に対して、「同調・チャンネル」する事に成功して来た。
其の最後の場面が、また山の御神木の下で休む事である。
其れは、再び「釈迦仏陀」の様に、菩提樹の木陰で涅槃姿に成って、瞑目する事でもある。
其れは、私の意識が再び静かな眠りの中に入り、沈黙の世界に還る事を、意味している。
其れは、2600年のサイクルが節目を造って、再び次のサイクルまで、働きを休める事も意味しているのだ。
どうやら、次の時空で、誰かがコールするまで、其のブッダの守護霊の7つ頭の大蛇は、長い休みに入るのだろう。
そして人類は、山岳の峰の「水分け峠」の御神木に、藁でこさえた大蛇を7回半巻いて、次のサイクルまで、其の儀式を続けて行くのである。
屋久島では、今年の岳参りの行事が、明後日23日に行なわれる。
私は、安房川の上流に在る「中島権現様」の所頭(ところがん)として、先達の役目をしなければ成らない。
屋久島で一番大きな川は、安房川である。
其の安房川の、一番大きなカーブの内側の、花崗岩の絶壁の上に祀られているのが「中島権現」である。
インドでは、其々の河には一匹ずつ「アナコンダ・水神」の大蛇が住んでいるとの伝説がある。其の伝説は、山が存在して森が有り、水の流れている地なら、世界共通の概念である。其の伝説の通りに、私の旅も22年前に、安房川から始まったのである。
其の旅も、どうやら今朝一幕を降ろしたのではないだろうか。
今朝の映像では、私がまた御神木の下でコールすれば、其の神がコーリングして来そうだが、私自身には、何の願い事も無い。
私は唯、普通の人間に返りたいだけである。
其の私に、再び神のコーリングが有るのか、または人間側の願いを伝える為に、神にコールする必要が出て来るのかは分からないが、執り合えずは、何か大きな役割を果たした様な、安堵感は少しある。
後は、ブッダの様に、静かに木陰で瞑目をするだけである。
次のコーリングは、私ではなく、また未来の誰かに行なわれるのであろう。
其の未来人に、私が書き残した文章が、道標に成るのか、其れとも邪魔に成るのかは分からないが、私の此の作業が「4311体の霊魂」の鎮魂に成った事は間違いない。
是で、暫らくは、霊界も静かな時期を保つだろう。
後は、迷い人が出ない事を祷るだけである。
何故なら、迷い人の霊魂・残念霊が4311体の正体だからである。
是から、未来を生きる人間に一人も迷い人が出なければ、霊界は静かなままで、私の様な被害者は、再び出ない事に成る。
私は 是から一休宗純禅師と好きな蛸でも食べて、ゆっくりと「風餐水宿」と 行きたいものである。
多分、弘法大師は真面目なお方だから 其れには参加しないだろう。
オイオイ 俺も加えろよ・・・・・?
平成18年9月21日
礒邉自適
2006/9/20
此処が現実
18・9・20
今朝のメッセージは、今までとは違い、パソコン画面のHP・ブログが、下から上に、上がり始めた。
今までは、掲示版のコーナのページは、上から下へ降りて来ていたのである。処が、今朝は、初めて下から真っ白の掲示版が、上にあがるのが映されて来た。
そして、其の掲示版には何も書かれてないで、題名の所の窓に「アダム」と「イブ」の名が、片仮名文字で二段続いていた。
そして、其の物語が天に回収されて、白紙に返される意味が伝えられて来た。
今朝のメッセージの意味は、アダムとイブの名が回収されて、今後、使う事が無く成ると言う事であろう。
其れは、過去の時代の教えが回収され、新しい概念(神話)が始まる事を示して来ている。
人間の頭に、刻まれた言葉や文字は、黒板の文字の様に、消せば消えると言うものではない。
人間の頭の記憶は、忘れている事でも、写真を見たり、関係の有る言葉を聞いたりすれば、其れがキイ・鍵と成って、昔の事柄が思い出されて来る。
だから、新しい物語を与える前に「古い記憶を無くせ」と云われても、そう簡単には消せないのである。
其れは、恋に破れた女性に「早く忘れてしまえ」と云っても、忘れる事は簡単には行かないが、素晴らしい恋人が新しく現れれば、直ぐに、前の恋人の事は忘れてしまうのと同じ原理である。
今でも、戦争が続いている地域が何箇所かあるが、その争いの原因は「宗教」や「思想」の違いからである。
其の宗教や思想は、神が与えた物ではなく、殆どが、人間の勘違いや、想い込みで出来たものである。
だから今の争いは、神の存在とは関係なく、人間側の自我意識で組み上げた、偽りの世界で起きている事なのである。
其れ等の、人間の勘違いの世界が、今回全て回収され、消去されるとの事であろう。そして、其れは、消される方の情報に執着をしている者は、宇宙のシステムから外れ、滅びるしかないと言う事でもある。
何故、そんな事に成って来たのか。
其れは、宇宙は絶えず進化しており、新しい御代が、時節の因縁として廻っているからである。
其の、新しい時節の節目に在って、其の「トキの事象」に呼吸を合わさない者は、エネルギーを失って滅びるしか他に道が無いのである。
其の時節の節目に現れて、新しい情報・思念を結ぶ者が「チャクラブルテイン・転輪聖王・ブッダ・スメラの命・キリスト」なのである。
今朝のメッセージは、其の新しい世界が始まるので、旧約聖書の物語は回収され、アダムとイブの名も、今後使ってはならなく成るとの意味であろう。
愈々人類の意識も、2600年前の賢者達(釈迦・老子・神武)の意識が普通の事として受け入れられる様に成り、我々は、次の2600年間の世界を創造する為の情報を、組み込んで行かなければ成らないのである。
昨日は、未だリンク・アップは出来ないが、「天国の門」のブログのトップページを作成した。其れは、昨日のメッセージに従ったものである。
其のブログが出来たので、ブログの画面が天に上り始めたのであろう。
昨日から、新しい世界の準備が始まったのだと想われる。
今朝は、私し個人宛にも、メッセージが届いている。
私の、是からの動きが、直接新しい時代の物語として、刻まれて行く事に成るのだろうか。
その様に成るのなら、23年前に無庵師匠が私に云った事が、現実と成って来る事になる。
しかし、私には何等、其れに付いて、欲が生じる分けでもない。どちらかと云えば、最早面倒くさいだけである。
私も、自分の子供が居なければ、こんな世界を、引き受ける事も無かったであろう。
しかし、不思議な物で、22年前に「全て写真で記録しろ」と神に告げられて、カメラに出来事を収めて来たが、其の写真が、今HPを制作するのに役に立っている。
其の写真がなければ、一年半も事務所に籠もったまま、30以上のブログを立ち上げ、其の中身を造る事は出来なかったであろう。
しかし、未だ、其の写真の半分以上は、整理が出来ていない。
私にとっては、新しい世界は22年前に始まっている事なので、今は其の延長線上に在ると云える。其の証と成る物が、アルバムとビデオテープの山である。
其れ等の実績が、土台に成っているからこそ、未来創造が今日から出来るのである。
そして、其の事は、私が自分で遣った事柄ではなく、4311体の霊魂の「神霊の思頼・みたまのふゆ」にて、起きて来た事であるので、私の実績と言う事でも無い。
是から、起きて来るのであろう、新しい出来事も、皆 私の実力ではないのだ。私はただ、他の事柄に目を向ける事なく、毎日を、神の指示に従って生きて来ただけである。
それで、私が自分で謂える事は、この道は、自分の自我意識を完全に捨て切って、天・神の意志に従いさえすれば、簡単だと言う事である。
其の理を人類に知らせる為に、私の行動があったのである。
今朝は、最後に「今の此処が 現実」と言葉が来た。
それは、神の世界は、何処かに存在するのではなく、自分自身の自覚の中に「今」存在するのだと言う事である。
私は漸く、時代を其処まで進めて来たのだ。
その秘訣は、ただ「忍辱・にんにく」である。
(忍辱・もろもろの侮辱・迫害を忍受して恨まないこと。)
平成19年9月20日
礒邉自適
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