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このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2006/7/31
「無のダンスは宇宙の今を映す」
神界の動き
無のダンスは宇宙の今を映す
18・7・31
今日は、朝6時頃から、事務所に来てパソコンに向っていたら、目が変しいので、10時前に止めて宿舎に帰り休んだ。
すると、瞼に、次々に何かの映像が映り込んでくる。
其の映像は、ハッキリしたものではないが、是からの未来宇宙に、関係が有るものの様である。
と言うのは、昨日から、私の過去の世界が、完全に消去された感じがあるので、過去には関係がなく、是から始まる、未来の時空が、反応しているのではないかと想われるのである。
今日、感じた事は、何も決まりの無い自由なダンスは、其のまま、今の宇宙空間の事象に、反応しているのではないかと言う事である。
其れがコスミック・ダンスで、インドの「シバ神」が、ダンスをしている意味なのではないだろうか。
中国の漢字「無」の文字は、元字が「舞」で、「神の為に舞う時は 此の三次元世界には 何も拘わりが無い」との意味から、「ない・無」とされているものらしい。
其の漢字の意味からも、神の為にダンス・舞う時は、宇宙の今を、現していると考えても、良いのではないだろうか。
森羅万象の流転の姿が、其のまま、無で舞う人の姿であると言う事になる。
だから、天女は、美しく舞う姿で、現される様に成ったのではないだろうか。
今日、夜中から、私の身体が反応して、横に成ったまま、ダンスのリズムを刻み始めたのは、新しい時空が誕生しようとしている、証なのではないだろうか。
今朝の映像に、山から神が空中を飛んで、谷に降りて行った後、一場面の映像が映った。
其れは、自然の山を背景に、手前の中央に、白く透き通った岩の様な物が、人が座って居る様な形で現れ、其の左側の後ろに、大きな木の葉が着いた、枝が見えた。
其の映像の意味は良くは分らないが、木の葉だったので、女神の名が「木の花咲くや姫」で、男の神の方は「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」だったのかも知れない。
(白い透き通った物は トグロを巻いた白蛇の姿か。?)
「木花之佐久夜毘売命・このはなさくやひめ。別名神阿多都比売・かむあたつひめ」」は、「大山祇神」の娘だし、「瓊瓊杵尊」は屋久島の山に祭られている神である。今朝は、其の夫婦神が、降臨して来たのかも知れない。
昼間でも、瞼を閉じれば映像が映るのは、確かに、新たな事象が動き出している事の、証拠ではないのだろうか。
平成18年7月31日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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2006/7/31
「ピーコドンドン」
シャーマニズムの世界
ピーコドンドン
18・7・31
屋久島の山の神様の中に、「ピーコドンドン」と言う名の、神様の一行が存在している事に成っているが、今朝は、其の神様が降りて来た様である。
其の神様は、原(はるお)の村から、モッチョモ岳の「耳岳」を通り、奥岳を経由して栗生(くりお)の「太鼓岳」まで移動しているらしい。
夜中寝て居たら、私の右手が自動的に、団扇を持って動かす様な、動きを始めたので、其の身体の反応を何だろうと意っていると、映像が映って、山の上から二機の乗り物が降りて来た。
左側の乗り物には、40歳位の女性が、虹色の洋服を来て乗っている。
右側の乗り物には、年上の男性が乗っているらしいのだが、其の姿は見えなかった。
其の二機の乗り物は、私の上を通り過ぎて、谷間に在る川原の方に飛んで行って、着地した様子である。
私は、何処に降りたのだろうと意い、其方の方に行ってみると、其処では、お祭りが開かれるらしく、ステージや出店の施設が建ち始めていた。
未だ、祭りは始まっておらず、何人かの人が、近くの川や海で泳いだり、温泉に浸かったりして、遊んでいる状況であった。
どんな人達が参加するのか、主催者が誰なのか知りたいと意うと、数名の人達の顔が現われたが、皆私の知らない人ばかりなので、其れ以上、詮索するのを止めたら、其の映像は終わった。
私が22年前、屋久島で神の世界に入った時は、二ヶ月程よく踊って居た。
仕事ばかりして居た私が、仕事を全部止めて、川原や砂浜で踊ったり、夜はキャバレーに出かけてダンスをしているので、島の人達は、私は、気が触れたのだと、誰もが想って居たのである。
旅の間も、お祭りが有れば、たまには踊ったりして居たが、此処10年程は、殆んど踊る事は無かった。
其れが、今朝から又、身体が動き出したと言う事は、新たな展開が始まる予兆なのかも知れない。
何故、私が、川原で良く踊り、今朝の山の神様も、川の方に下りて行ったのか。
其れは、踊りの神様は「弁財天・サラスヴァティー」に関係が有り、水の辺でないと都合が悪いのかも知れない。
私が、又、22年前の様に踊り始めれば、島の人達は、私の病気が再発したと噂をするかも知れないのである。
しかし、22年前は、一人で踊って居たからそう想われただけで、今度は、お祭りの会場で踊るのであれば、当たり前の事だから、誰も何も云わないだろう。
世の中の事は、中山博さんや、悦子さんや、孔紀氏が始める事に成れば、私はまた神様とのお付き合いが始まり、シャーマンとして、音楽や踊りの世界に身を沈める事に成るのかも知れない。
どうやら、昨日の重たさは、踊りの世界に入る為の、準備だったのではないだろうか。
踊るには、足がちゃんと着地してからでないと、踵が浮いて居れば、浮幽霊の餌食と成ってしまう。
相撲の力士の様に、足の踵が、地面から浮き上がらない様にして措かなければ、霊魂の鎮魂には繋がらないのである。
是からの私は、パソコンに向かうのではなく、また自分の内側に意識が向かい、音を聴く耳や、匂いを嗅ぐ鼻の神経などの探求が、再開されるのではないだろうか。
今朝の処は、未だ、成り行きが良く見えないので、是くらい書いて措けば、良いのではないだろうか。
今日は7月31日で、明日からもう8月である。
今年の8月3日で、私の両親が屋久島に渡って来て丸60年と成る。
8月3日は、元々屋久島の岳参りの行事日であったとの事。
私に関わっている神様は、最初から、お祭りに関係の有る、芸能の神様だったのかも知れない。
屋久島の、山の神様の名前が「ピーコドンドン」とは、正に、其のまま音楽と芸能の神様である。
私が、文章を書き始めて6年が経過している。
もう苦手な文章を書く事から離れ、楽しく遊ぶ方に、役目が変るのかも知れない。
私も、其の方が、目の事を心配しないで済むから、良いのではと想う。
平成18年7月31日
礒邉自適
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2006/7/30
「明星を観なさい」
神様からの伝言板
明星を観なさい
18・7・30
今朝は、夜中に、ジャガイモの様な形の物が、明るい光りの中に、数個横に並んでいるのが、一瞬だけ映り去っただけで、何もメッセージらしきものは無く、唯一自分の存在だけが、重たく残っているだけであった。
其れは、沈黙の部屋の中に、唯一人取り残された感じのものである。
そして、其の長き沈黙から救ってくれそうな感じで、明け方「明星を 観よ」との言葉が一言だけ有った。
昨夜は、なかなか眠れないので、夜中2時頃外に出て見ると、満天の星空で、天の川が真上に横たわっていた。
其の空は、22年前 私が24時間荒野をさ迷って居た時の空と、何も変ってはいない。
何が変ったかと言えば、37歳だった自分が59歳と成り、体力が落ちて、眼鏡を掛けた孤独な初老が、誕生した事だけである。
たった 其れだけの事なのである。
しかし、今 自分の周りに有る文章や、アルバム帳の量を見ると、何も変っていない訳ではない事は明らかである。
確かに、今も「礒邉自適」と呼ぶ、昔と同じ人間なのだが、22年前の自適の頭の中身と、現在の自適の頭の中身とは、全く別人のものと言えるだろう。
何故、此の様な事が、起こり得たのであろうか。
それこそが、神秘の世界と言える世界であろう。
其れは、私自身が、何かの計画をして、此処まで辿り着いた分けではない。
私は唯、毎日起きて来る事象(物事)に対して、自分成りに対処して来ただけである。
其の事実だけを踏まえれば、何かが背後に存在して、一切を取り仕切っていると、考えざるを得ないのである。
其の背後の大きな力こそ、神と呼ばれる働きではないのだろうか。
其の働きの御陰で、現在の私の意識と、立場が組み上がったのであれば、「御陰様で」と言う日本語が、一番 的を射ている事に成るのである。
其の御陰様の存在が、私には、4311体の聖霊の姿として、現れたものと考えられる。
其の働きの中心が、弘法大師空海ではないだろうか。彼の経験と希望が、私の行動の中心を占めていたのではないだろうか。
だからこそ、今朝、重たい空気を破る為に「明星を観ろ」と、告げて来たのではないだろうか。
22年前、毎日観ていた明星は、空海の視線と重なっていたのかも知れない。
私の、22年間の動きで残された物は、私の思い出の他に、60冊のアルバム帳、数千枚の文章、其れに全国の仲間達である。
其れと、4311体の霊魂の鎮魂と、私の認識の変革もある。
無庵師匠に捜し出されなければ、私の人生も、人並みの人生で終わっていた筈である。其れがこうして、何等かの形で、未来社会の構築に手を染めようとしているのである。
何処までが、自分が生まれて来る前から、決まっていた事なのか、どれだけの事に、自分自身が貢献出来たのかも、未だ定かではない。
只、こうして、自分を振り返るだけの自我意識を、取り戻している事だけは、間違い無い。
良く此処まで、精神科の門を潜らないで、辿り着いたものである。
其処のところだけは、自分自身を、褒めて良いのではないかと意われる。
其の他の部分は、何処までが自分の力で、何処からが、神の働きなのかの区別が、着かないからである。
此の、何も無い重たい空間から、何を、新しく創造すれば良いのかの、判断も着かない。
此の、何も無い状態の背景には、中山さんの存在があるのだろう。昨日の文章までで、残されていた神の働きが、中山さんの方に移動したものと考えられる。
私は22年間、私に降臨して来た「神霊の思頼・みたまのふゆ」を、誰かに押し付け様として来たのである。
処が、其れは、おいそれとは、他人に移動するような物ではなかったのである。
しかし27・28・29日の様子からすれば、残されていた神のプログラムは、中山さんの方に移動した感がある。
其の結果が、此の私の重さなのであろう。
しかし、此処まで来られたのは、悦子さんの指示で、孔紀氏に縁が出来、霊界に対して具体的な取り組みが起きた事にも、大きな要因が有る。
孔紀氏との繋がりから、私もパソコンに取り組み始め、13ヶ月間寝る間も惜しんで、情報の整理に取り組んで来た。
其の結果が、漸く此処に来て、効力を発揮し出したのだ。
此の私の重さは何なのであろうか、
自分自身が、其のまま地球に成ってしまった様な、感覚が有る。
22年前、屋久島の自宅まで「白山大権現」の白龍が遣って来て、私の身体に巻き付き、地球を私の左手に載せて「管理を任せる。」と告げて来た事が、別の形で、現実感を持って来ている様である。
其の感覚とは、手に、地球を乗せて管理するのではなく、自分自身の意識が、地球其の侭に成ってしまっている様な、感覚なのである。
其れは、地球の女神「ガイヤー」が、私の意識に住み着いているからかも知れない。
其れを、確かめる為には、誰も来ない、山岳の頂上の花崗岩の上で、再び金星を直視すれば、自から、身体が反応するのではないだろうか。
もう一度、22年前の世界に帰り、今度は、自我意識の認識の下、宇宙意識の感覚に浸ってみるのも、良いかも知れない。
ともかく、何等かの区切りが、一段落した事は間違い無い様である。
13・8・23「幸福の女神は金星」
http://star.ap.teacup.com/170606/421.html
嗚呼、其れから、今朝現れた唯一の映像は、大地の土の中で、澱粉を溜めているジャガイモの、魂しい其のモノだったかも知れない。
若しかしたら、ジャガイモの生命こそ、ガイヤーの意識に一番近いのではないだろうか。
私の此の重たさは、土を被っている、ジャガイモの意識自体ではないのだろうか。
そう言えば、ジャガイモの煮物を、数日間食べ続けて居るなぁ・・・
其れで、身心が陰性に成り、此の重たさが有るのかもしれない。
平成18年7月30日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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2006/7/29
「21年振りの7月27日」
神界の動き
21年振りの7月27日
18・7・29
今日、久し振りに、東京の中山博さんより電話が有った。
其の電話は、私の昨日28日のメッセージに、中山博さんが出て来た事を書いて有ったので、其れを読んで、電話を掛けたとの事である。
中山さんの話では、27日に自分当てにメッセージが出て、何だろうと思って居たら、私のメッセージにも、自分の事が出たので「是は」と感じて、私に連絡をして来たものらしい。
私は、其の事を伺って、其のメッセージは、全体に対しても重要だし、私のメッセージとの関連性も有るので、是非送って下さいと頼んでFAXを貰い、4枚全部を「つきさかきいづのみたま」のブログに載せる事にした。
「全ては繋がっている」
http://white.ap.teacup.com/miitu1223/430.html
其の作業は、午前中に終わったのだが、昼食後、少し休んで居ると、妙に其の事が気に成り出した。
良く考えて見れば、7月27日は、私にとって大事な節目に成る日であり、其の日に中山さんに出て来た事は、私にも関係が深いのではと、思い始めたのである。
中山さんの前回のメッセージは、16日前の7月13日に私宛に出たもので、
「一人の男は一人なり 二人と一人は何人の力 是が大きな力です
やがて我われには 大きな力が必要と成ります
まずは二人 その後に一人です
是よりは 其の一人を抽出しますよ。」 と 書いて有る。
何か、謎めいた文章であるが、今回のメッセージに、関係が有るような気がする。
私と、中山さんのメッセージの出所が同じ所である事は、大体間違い無い様である。
では、其の出所は、一体何処なのだろうか。
7月27日の日付で考えれば、21年前の1985年7月27日に、奈良市に在る「大倭あじさい邑」に私が行き、理事長である「矢追日聖法主」に初めて出会った日である。
矢追日聖氏は、S20年8月15日の終戦の放送の直後に、日本から新しい御世が始まる事を神に知らされている。
15・4・7の文章「正伝矢追日聖」
http://star.ap.teacup.com/170606/210.html
17・8・8「あじさいネットワーク」
http://star.ap.teacup.com/170606/542.html
それに、大分県大野町の赤峰勝人氏(なずなの会)を訪問したのも、1991年7月27日である。
其れから、中山さんのメッセージの「7月13日」は、前田氏が初めて屋久島を訪れた日でもある。
どうやら神の計画も、大詰めの処に達した様である。
マヤ暦の年始めは7月26日だが、其の暦に関係が深い様でもある。
矢追日聖氏は、昭和20年12月23日を元旦として祝い始め、既に其れは61回目を向かえようとしている。
2012年12月23日は、第67回目の元旦と成るのである。
中山さんへの今回のメッセージも、其れに繋がる物か、其の仕上げの事を伝えて来ているのかも知れない。そうであれば、漸く神の計画が、実現可能な段階に達している事になってくる。
私自身も、本番を迎える事に成るのかも知れない。
今日は、昼寝をしようと意い、ベッドに横に成り目を閉じると、「学習ソフトを創れ」との言葉が出て来た。私にとって、忘れて成らないのは、新しい学問体系を整える事が、最も重要であるとの事だろう。
他の事は、誰かが出来ても、生命学習に付いては、私でなければ、駄目だとの意味ではないだろうか。
今日は、私に、今後の展開に付いて、新たな心構えが求められて来た様に感じている。先ほど、丹治氏から電話が有り、次の仕事の指示があった。
私もドンドン、三次元世界に、足元が近付いている様である。
平成18年7月29日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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2006/7/29
「勇気・好期」
神界の動き
勇気・好期
18・7・29
今朝のメッセージは、結論としては「勇気と好期」で簡単なのだが、其の内容を説明するのは、少し骨が折れそうである。
と言うのは、三次元に対する具体的な内容だからである。
何故なら、三次元世界である此の現実世界は、物や人物が実在するので、間違いが有れば、的確に誤りが指摘されるからである。
今朝の映像は、先ず、環境大臣が子供達に対する環境学習の実体を視察する為に、私の母校である、安房の中学校に視察に来る事に成り、屋久町全体が大騒ぎに成っていた。
屋久町の名士が、皆正装して、学校の玄関で大臣の到着を待っているのである。
どうやら、屋久島の中学校では、環境学習に力を入れているらしいのだ。
私は、皆が玄関で待っている間に、傍観者としてカメラを手にし、各教室を見て歩いて居た。
此の場面は、大臣が到着するまで続かないで、終わってしまった。
次の場面は二日目の様子で、大臣が屋久杉の森を視察したいとの事で、関係者がウイルソン株までのルート間に、飲み物や、おにぎりや、菓子類を用意しており、まるでお祭りの様な騒ぎである。
私は、大変な騒ぎだと感じながら、友人と二人で摘み食いをしている処で、其の場面も終わった。
次の場面は、私が黒くて大きな車を運転し、年配の男性で、偉い方を後ろに乗せ、助手席には、地元の女性が案内役で乗り込み、真っ直ぐな道路を、快適に走って居た。
すると、行き成り神社の境内に走り込んでしまい、慌てて急ブレーキを掛けて、ハンドルを左に切ったら一回転して、後ろ側が、其処に止めて在った白い大きな乗用車に、ぶつかってしまった。
私が、降りて行き様子を視て見ると、自分の運転していた車は無傷で、相手の車が少し真ん中の処が凹んでいる。
私が誰の車なのかと想い、神社の入り口の方に回って見ると、どうやら其れは大臣の行程三日目らしく、大臣が神社にお参りに来るのを、皆で待っている様子である。
私が、車の事を気にしていると、案内役の女性が「あの車は 私の父が貸している車だから 気にしなくて良いのよ。」と云うので、私は安心して、其の車の事は忘れて、大臣が到着するのを待って居た。
すると、左前方から、大きな竜巻が遣って来るのが見え、大騒ぎと成り、皆散り散りに逃げ始めた。
私も危ないと想い、境内の大きな木の側に行き、難を逃れ様とした。
すると其の竜巻は、私の立っている所に直撃し、私の身体の回りを渦巻くのである。
其の竜巻に、巻き込まれて浮きがりそうに成りながら、困っている私に、竜巻の中心の真上から「ゆうき・こうき」と言葉が降りて来た。
私が、何だろうと考えていると、私の右手に五本の竹竿が残されて、其の竜巻は消えてしまった。
其の渡された竹竿には、茶色の模様が着いている。其の模様は、蛇の背中の模様に似ていた。
そして、静かに成った神社の境内に、大きなフラスコの様な、透明のガラスの容器が現れて来て、その中には水が入っており、良く見ると、中に泡粒が一個、静かに立ち上って行くのが見えた。
今朝の、明け方の映像は是だけなのだが、夜中には、地球の姿がカラーで一枚だけ現れて、是から、何かが始まる予感が伝えられて来ていた。
今朝のメッセージを全体的に考えると、人類が此の地球を、大事に守らなければ成らない事が、テーマに成っている様である。
今朝のメッセージの意味を、箇条書きに書き出して見ると、
1 子供達に、地球環境に付いての学習を行なう事が大事である事。
2 屋久島は、其の課題にはピッタリの環境である事。
3 各地の神社の存在が必要であり其の神社の境内には木が植えられている事。
4 各地の、地元の実力者の奥さんや娘さんが、力と成ってくれるとの事。
5 其の動きを、竜巻(龍神・蛇神・大山祇神)が応援してくれるとの事。
6 竹竿は、運動の旗を立てろと言う意味。
7 其の時期としては、今が好期であり、勇気を持って立ち上れとの事。
8 始めは、一粒であっても やがて容器の中は、全体が沸騰して来るとの事。
9 それらの動きは、地球自身(ガイヤー)が望んでのことである事。
今日のメッセージは、私し自身の精神的な旅と、聖霊達のカルマが解け、未来に向かっての準備が整って来た事を、伝えて来ているものだと考えられる。
どうやら私にも、現実世界に向かって取り組めとの指示でもあるようだ。
しかし、旗竿を五本手渡されても、どの様なテーマの旗を揚げれば良いのか、其れに付いての具体的な指示は無い。
具体的な指示は 明日にでも有る事だろう。
取り敢えずは 今日の役割は 是で果たしたのではないだろうか。
平成18年7月29日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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2006/7/28
「子育てと老後 」
神様からの伝言板
子育てと老後
18・7・28
昨日、「屋久島自適塾」のHPがリニューアルされて、整理された所為か、今朝は具体的な行動が示されて来た。
其れは、子供達の教育の根幹と、老後の生活の指針に付いてである。
始めに、小学校の子供達を連れて、河口の水辺に向かった。
そして、水中を覗くと、上げ潮になって水位が増しているので、海老が餌を獲る為に這い出て来て、間隔を保って列を成している。
其れは、砂地だけではなく、船を括っているロープにも、同じ様に並んで居るのである。
其の映像の意味は、自然の生き物は皆、自分の力で餌を採って、生活している理・ことを示している。
自然環境は、一時も安定はしていない。
潮の満ち干もあるし、嵐や大雨の日もある。其れ等の自然情報を、自分の判断で管理しながら、生きて行かなくては成らないのだ。
其れが、家畜と成った動物や、自然環境から離れてしまった人間は、環境情報から遮断されてしまって、其の感覚を失ってしまっているのである。
田舎で生まれ育って、都会に出て暮らしている者は未だしも、大都会で生まれ育った者は、全く、其の情報が途絶えてしまっている。
其の人達が、有名大学を出て、社会の要職に着いているのである。
だから、田舎の自然環境の事を知らない人達が、政治経済を組み立てている事に成るのである。
其の事の弊害が、現在・いま日本全体を被い尽くしてしまっているのだ。
やがて、其の為に、「いのち」の理・ことわりが解らない人達が増え、社会が崩壊する日が来るであろう。
其れ等の誤りを正す為に、「子供達の教育を 立て直せ」と、神が示して来たのだろう。
屋久島には昨年、前田氏が、高等学校を設立し、現在全国に1600名の生徒が通信教育で学んでいる。
子供達は、スクーリングで屋久島を訪れ、僅か5泊6日の日程ではあるが「生命」との言葉が、何を意味しているのか感じて、島を後にしている。
其れは、自然がどんな「力・エナジー・風・氣」を有しているのかを、自分の皮膚感覚で捉えられるからである。
此の事が、全国に伝えられる事が、求められているのだ。
其れは、人間の言葉とは、身体と一体に成ったモノでなければ、成らないからである。
言葉が、身体を離れてしまった時、言葉は、中味の無い上滑りのモノと成って、口先だけのモノと成り、どんな嘘でもつける様に成ってしまうからである。
言葉とは、人間にとって、掛替えの無い財宝でもあるし、また武器以上の害毒にも成るものである。
現代社会の言葉は、無意識の処で、子供達の生命・いのちを害しているのである。早急に、此の事を、皆で解決しなければ成らないだろう。
今朝は、次に、場面が全く変わって、私は「中山博氏」と、東京の料亭らしき建物に居た。
其処には、中山博氏が案内して来た友人が同席していた。
その場面では、料理が運ばれて来る前に、私の下腹の所でカチッ・カチッと音がし始めて、私が何だろうと意い、丹田の所に手を遣ると、車のハンドルの様な物が手に触れた。
どうやら、其のハンドルが回転して音を立てていたらしい。
私が、其のハンドルみたいな物を取り出すと、中心の軸の所に、丸い箱の様な物が付いている。
私が、其の機械の部品の様な物を、中山博氏に渡すと、中山博氏は庭に其れを持って降り、庭に有る地下水を汲み上げる手押しポンプに取り付けてしまった。
すると、ドンドン清水が湧き出して、其の丸い箱の様な物から溢れ出した。
そして、其の水で、中山博氏と連れの人は、手や顔を洗い禊ぎを始めた。
其の映像の意味は、私の丹田の処に、新しきトキ(時空の扉)があり、新しき時間を刻んでいて、其のトキを回すハンドルを、中山博氏に渡せば、皆の禊ぎが出来る様に成るとの事ではないだろうか。
(私は22年前 屋久島の花崗岩の山のエネルギーを使い 新しい時間軸を形成し 自分の丹田に収めた。)
次の映像は、中山博氏が連れて来た方の、奥さんから「主人が変なので 直ぐ来て下さい。」との電話が掛かり、私は中山博氏と二人で、其の方の自宅に伺った。
すると、其の60歳代の男性は、転がり回って居て苦しんでいる。
其の理由は、急激に襲って来た不安からの物らしい。其の不安の要因は、
1 年金制度が崩壊して お金が貰えなく成る事。
2 都会に立派な自宅を持って居るのに 其処では生活が営まれない事。
(捨てなければ成らない。)
3 今までに自分が築いて来た、社会的地位や功績が 何も役に立たないと気付いた事。
其れ等の事に気付いた為に、自分のアイデンティティが崩れ去り、自我崩壊を起してしまったのだ。
其の結果、其の男性は夜も眠れず、食べ物も咽を通らないで、苦しみながら息が途絶えてしまったのである。
此の映像の意味は、只のブラック・ジョークとして、受け取る分けには行かないだろう。
現に、私は22年前、全ての業(人生の背景)を断ち切る為に、精神的苦難を受けたのである。
私は当時37歳だったので、新しき人生を立ち上げるだけの、基盤もエネルギーも持ち合わせて居た。
だから、此処まで立ち直る事が出来たのである。
其れが、60歳を過ぎて仕事が無く成ってから、年金は貰えなく成り、貯金は閉鎖され、家も捨てて田舎に行かなければ、水も食料も無いと成れば、八方塞がりである。
とても私の様に、悠長になど構えて居られないのである。
此のメッセージの意味は、都会の人々に、早く真実に目覚めて、対策を取りなさいとの、神の救いなのであろう。
其の鍵が、中山博氏に有るとの事ではないだろうか。
更に映像は続いて、中山博氏が関わっている修行道場に、私は連れて行かれた。すると、私が其処に居る事を知った人達が、次々に、私を訪ねて来始めた。
其の人達は、以前に会った事がある人や、初めて会う人も居る。
私は、中山博氏に「奥に 泊まれる部屋が 在るのですか。」と尋ねていた。
其れは、私が長期で、中山博氏に関係の有る道場に、関わる事に成るとの意味なのではないだろうか。
愈々、神の働きが具体的に動き出しそうである。
幸いにして、私は18年間、全国で同じ様な事をして居たので、諺に「昔し取った 杵柄」とある様に、何事も無いかの如くに熟せるだろう。
私は、自分の為に守るべき物は何も無い。
だから、何が起きても、他人事で済まされるのである。
自分に損得が何も無いので、自分の都合で、判断する事は無いだろう。
其れが、22年間の修行で残された、私の財産と言えば財産である。
其れを、守れなければ、豸(裁判の神)に刺し殺されるだけである。
其れさえも、私に取っては、如何でも良い事なのではあるが・・・。
今朝のメッセージは、子育てと、老後の事であるから、大事な人生の真ん中が抜けていて無い。
其処の処は、自分自身で、解決して行かなければ成らないのである。其れが出来ない人は、人間失格で、人間社会に飼い慣らされた家畜と同じである。
鶏舎で卵を産んで居る鶏は、目の前に餌が流れて来なければ、食べない。
鶏舎の外に出して、2m先に餌を置くと、食べに歩いて行かないで、其のまま死んでしまうのである。
その、鶏と同じ行動しか出来ない人間が、現代社会には、既に何割か存在するだろう。
そんな人達に、かまってくれる人間は、居ない時代がやがて来るのだ。其れは、自業自得としか云えないのである。
そんな事を云いながら、何処にも遊びに出掛けずに、不健康に、こうして毎日不慣れなパソコンに向かっているのは、私自身が、七人の子供の父親だからである。
私し自身が、未だ人の親なのである。
どうにかして、子供達の未来を、守らなければと言う本能までは、未だ捨て切れないで居るのだ。
其の、親心が、私の最後のエネルギーの素と、成っているのだろう。
平成18年7月28日
礒邉自適
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2006/7/27
「輪廻転生」
霊界の働き
輪廻転生
18・7・27
今朝の映像は、「いのち」のサイクルか、システムに付いての様だが、私にはあまり能く理解出来ない。
しかし、神霊界の明日の都合もある事だから、一応打ち出して見ようと意う。
始めに、緑り豊かな森の中に、背のスラリとした60歳位に見える「お坊さん」が、一人立っているのが映って来た。
そして、其の人が消えた後に、数字のカウントの窓が現れて「00」の数字が見えた。
そして、其の右側に、女性の姿が瞬間映り、其の後に「0002」と現れ、次に中央の窓に「163313」の数字が現れた。
其の数字が、何を意味するのかと思っていると、草木が何も生えていない、山の頂上付近の映像が現れた。
私が、禿山である事を認識すると、カメラの向きが右下の方向に向かい、映されている景色が、麓の方へ移り始めた。
其の映像には、中腹には木が生えていないので、森も林も目に付かない。
其れは、荒涼とした風景で、水の流れる川も無く、花も咲いていないし、小鳥の鳴き声も聴こえない世界である。
更に、景色が、麓の方に向いて行くと、漸く立木がチラホラ見え始め、緑が在る世界が現われて来た。
今朝の映像の意味は、此の我々の住む地球は、森が在る事で成り立っており、森が在る事で、全生命が生かされている理・ことが、伝えられて来たものだと思われる。
此の地球は、植物が存在しなければ、死の世界と成るのである。
だから、今朝のメッセージは、人間に、生命の原点を見詰めろと、伝えて来ているのだ。
示されて来た数字の「00」は、未だ「いのち」が何も無い状態を意味し、「0002」は未だ生命とは呼べないDNAのペアの始まりの事で、其れは雌の機能の始まりを意味しているのだろう。
そして、男性のお坊さんが一人出て来たのは、其の生命の一番進化した姿が、お坊さんであるとの事ではないだろうか。
今朝映って来たお坊さんの姿は、頭髪を剃ってはいないが短く、着ている服は白い下着の上に、坊さん用の洗いざらしの黒い服を着ているだけで、手には何も持っていないし、荷物も無かった。
其れは、智恵はあるが、非暴力で、無所有で、財産・権力・家・名声・家族・住所・全てが、無し無しの世界を現している。
だけど、其の姿が「163313回」輪廻転生した姿なのだ。其れは、其の侭、宇宙の進化の最前線に立っている姿なのである。
其の人は、自由で、智慧があるから、何時でも、王様にでも総理大臣にでも成れるのである。
其れに「いのち」の理が全て解っているのだから、家庭を持てば、立派な子供を育てる事も出来るのである。
其の姿こそ、完璧な人間の姿なのである。
其の、お坊さんの姿こそ「久遠実成・くおんじつじょう」の、ブッダの姿なのだ。其れは、イエスの謂う「永遠の命を生きる者」の姿なのである。
キリスト教では、輪廻転生があるとは説かないようだが、イエスが謂った「父と子と聖霊」の関係は、仏教の教えに出て来る十一面観音像の在り様と同じ概念であり、輪廻転生が無ければ成り立たない世界である。
イエスの謂う「天の父」とは「大日如来・ビルシャナ」のことであり、「子」とは現世を生きる我々人間の事で、「聖霊」とは過去に人間として生きていた人達の霊魂の事である。
勿論「聖霊」とは、生前に、神に近い精神で生きた人で、力(電圧・パワー)が有った者達のことである。
自分の我が儘一杯に生きて、エゴ丸出しの人間は、聖霊に成る事は出来ないのである。
だから人間として生きたイエスも、現在は、其の聖霊の一人なのである。
しかし、イエスは体制側を攻撃し、若くして殺されたので、生を全うしていないから、ブッダには成っていないのである。
仏陀と成れば、自分が宇宙意識の最先端に立つ事に成るので、自分自身が、父の立場に立つ事に成り、「天の父よ」と言う言葉は使えないのである。
其のブッダ(成仏した者)に付き従うのが、聖霊達なのである。
此の世を生きるブッダと、其の背後に着く聖霊の組み合わせの上に、森羅万象の形(ビルシャナ)を乗せてあるのが、十一面観音像なのである。
十一面とは、一番上の大日如来の面と、周りに九つ配置された聖霊の面と、今世を生きる菩薩の面を合わせて、11面と呼んでいるのである。(1+9+1=11)私には、その9面の代りに、聖霊が4311人も遣って来たのである。
だから書く事も、こんなに多面的に成ってしまうのである。
しかし、今朝は、どうやら其の聖霊の「神霊の思頼・みたまのふゆ」も解決した様で、久遠実成の坊さんの姿が現されて来た。
其のブッダが指し示す方向は、地球の緑を回復し、全生命のバランスを図ることらしい。其れこそが、日本精神の大和・やまとの概念なのである。
日本の天皇は、山に植林をし、水を守り、田植えをして稲刈りまでする。
そして、其の稲は神に奉納し、其の年の新しき米を食べる時は、先祖の御魂を皆呼び戻して、共に食すのである。
其れが、天皇家が一番大事としている「新嘗祭・にいなめさい」の儀式である。
其の日本の伝統を、世界に「しろしめす」時節が到来しているのである。
其れは、砂漠や草原に生きる人々には、理解し難い世界である。
日本の国土は、未来社会創造の教科書的役割を果たす事が出来るだろう。其の活動が、開始されるトキが迫っているのだ。
其れが「瑞穂の国造り」運動で、「風 麦東 陶・ふうれんとう」と「讜逓聖・とうていせい」」の、神の意志を実行する事でもある。
平成18年7月27日
礒邉自適
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2006/7/26
「豸(チ)」
神界の動き
豸(チ)
18・7・26
今朝のメッセージで、枠の中に、言葉が書き込まれる様に成っている、場面が出て来た時に、ページの上の方に「豸」の漢字が一文字出て来ていた。
そして、其処に書かれる文字は、過去の間違いを全部訂正して、新しき物にしなければ成らない事が知らされた。
「豸・チ」とは、裁判の神とされている霊界の神獣で、悪い側を角で刺し殺すと云われている物である。
私が、其の豸の姿を見た事は、私のブログの文章に書いてあるので、此処では詳しくは述べない。
「13・3・13 豸・かいたい」
http://moon.ap.teacup.com/20061108/87.html
今日は、其れだけではなく、出て来た女性が「持統天皇」か「額田王(ぬかたのおおきみ)」ではないかと、想われて来た。
持統天皇は天智天皇の娘で、天武天皇の皇后であり、額田王も天武天皇の妃である。後に、額田王は天智天皇の妃になる。
其れは、漢字の紀を調べていて、「紀」は「記す・しるす」の意味も有り「日本書紀」の事も、そう言うと分ったからである。
其の日本書紀は、天武天皇が編纂を命じたものでもある。
其れに今日、目を休める為に隣の部屋に座っていて、一冊の本が目に止まった。
其れは、人文書院発行の「持統天皇(日本古代天皇の呪術)」吉野裕子著である。
其れを手にし、開いた処に「鬼灯・ほおずき」の絵と、トグロを巻いた蛇の絵が描いてある。
其の本を、掻い摘んで読んで行くと、奈良の三輪山の神は七回半トグロを巻く大蛇で、「額田王・ぬかたのおおきみ」は「蛇巫」だったと書いてあるのだ。
私に憑依している霊で、一番強いのが天智天皇であるが、額田王は天智天皇の妃で、「持統天皇・じとうてんのう」は天智天皇の娘である。
やはり、天智天皇は、妻の額田王や娘も使って、新しき記紀を編纂しようと、企てているのではないだろうか。
其の計画が、今朝の私へのメッセージと成って、出て来たのではないだろうか。
其れに、本日7月26日はマヤ暦の元旦である。
同じ年の13年4月20日には「7月26日」の題で文章を書いてある。
7月26日の日付は、此れまでにも何回か、私の行動を変化させる節目の日と成って来ているのである。
7月26日
http://moon.ap.teacup.com/applet/20061108/112/trackback
今日は、新しき御世に向って、確かな動きが始まった感がある。
平成18年7月26日
礒邉自適
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2006/7/26
「時は過去には刻めない」
未来創造
時は過去には刻めない
18・7・26
今日は、マヤ暦では元旦である。
今朝は、其れに相応しい映像が送られて来た。
始めに、エプロンの紐を背中で括る様に、私の背中で、紐が真結びにしっかりと括られるのが映されて来た。
其れは、もう、どんなに私があがいても、後ろの紐を、解けない事を意味している。
其の意味する処は、過ぎ去った時空は既に無いので、過去には帰れないとの理・ことを、告げて来ているのだ。
是は、私に、未来に向かって進むしか、問題解決には繋がらないと、知らせて来たのだろう。
次は、パソコン画面が現れて、横書きに文字を入れる枠が、縦に幾つも並んでいた。其の枠は空色で、枠は皆右側に線が引かれ、縦に引かれた一本の線に結ばれていた。
其の枠の中に書かれる言葉は、未来に関する物で、文字を増やすには、左側に枠を繋いで行くしか無い様に出来ている。
右側には、縦に線が引かれているので、遮断されており、其れ以上、言葉や意味は広がり様が無いのである。
其れは、前の映像と同じく、過去の世界は過ぎ去っているので、過去の世界には、言葉や意識は、結びようが無い理・コトを意味している。
其れは、私が、新しい「みいつの君」のトップ画面の「kimi」の所に、ブッダに関する物として、「sovereign・ソブリン(君主)」の欄に、皇室のHPをリンクしようと考えて居たので、其れを止める為に、伝えて来たのではないかと思われる。
何故、其れが止められたのか考えると、釈迦牟尼佛も2600年前に存在した人であり、皇室の元に成った神武天皇も2666年前の人である。
だから、其の事をリンクすると、人間の意識は、過去の世界に向かい、未来へと向かわなく成る恐れがあるからだろう。
其れは、神や聖霊も、人間が、未来世界を創造する事に対してだけしか、協力をしないし、喜ばないと言う事である。
今朝は其の後、一羽の鳥が、羽根を拡げて飛び回る姿が映されて来た。
其れは、「隼・はやぶさ」か「時鳥・ほととぎす」で、新しい時・トキの到来を知らせるものだろう。
私が、22年前に神の世界に入った時は、夜明けに、寝室の窓にホトトギスが向かえに来て、不思議に意い外に出ると、上空に鷹が来て、自宅の上で弧を描いて居るのである。
其の鷹が、山に私を導いて行くので、私は抵抗する気も無く、自然に其れに従って行ったのである。
ホトトギスや鷹が、私が神の世界に入る切っ掛けを、創ったのである。
神武天皇が、奈良(大和)の地を治める事に成ったのも、金色の鳶・とびが降りて来て、神武天皇の手にする弓に止まったからだと伝えられている。
中国の古典にも、宇宙の気・波動が変わる時には、禽鳥が最初に其れを受けて、人間に伝えて来るとある。
其れと同じ事が、始まっているのである。
だから、神社の門を「鳥居」と呼ぶのである。
鳥居は、左右に立てる棒が二匹の蛇が巻き付く為の物で、上に渡している棒が「鷹・たか」や「隼・はやぶさ」が止まる、止まり木である。
其れは、マヤ文化の「翼を持つ蛇」と同じ概念である。
其の「蛇(トカゲ)」と禽鳥が、いま神の使いとして動き出しているのだ。
今朝は最後に、富山の人として40歳くらいの美しい女性が、カウンターの流しの様な所で、水を扱って居るのが映されて来た。
富山とは、豊かな山の意味であるので、富山の水を扱う女性とは、弁財天の事ではないだろうか。
「弁財天・サラスヴァティー」は、水の神で全ての財宝を管理する女神だとされている。其れに、弁財天の身体は蛇体であるとされている。
そうだとすれば、今朝は「蛇」と「鳥」が揃って出て来た事に成る。
今朝のメッセージは、私には過去に引き返す事が出来ない事を告げ、エプロンを真結びにして、もう自分では脱げない事を示して来ている。
どうやら私は、台所の用が済まない限り、此の役目から、逃れられない様である。
戦いを、させられるよりは好いが、台所で働くのが、私の役割とはどうしたものであろうか。
しかし考えて見れば、天皇家の神は台所・御饌殿の神だし、伊勢の外宮の神も、那智の熊野本宮の神も、出雲の熊野大社の神も、皆「食べ物・ケ・饌」の神だから、当然と言えば当然の事と言えよう。
出雲の一番古い神社の、神魂神社の家紋は(有)である。
神魂神社には、鳥居の原形も未だに伝えられている。
マヤ暦の元旦の日に、神の世界の根本原理が、示されて来たようである。
そして、私に、後戻りが出来ない事を告げ、覚悟をする様に知らせて来ている。
未来に向かうしか、人類に救われる道が無い事を、告げて来ているのは「エホバ・ヤハウェ神」の概念と、同じ意味を持っている。
エホバとは「在るトキから 有るモノ」の意で、宇宙が存在したトキから存在するモノの意を現している。其れは、大日如来・ビルシャナと同じ概念である。
其のエホバの言葉は「わたしは いま 新しき天と地を創っている。だからもう 古い世界は 目にする事も 心の内に上る事も無い。」である。
其の言葉が示す様に、過去の世界は、過ぎ去った物だから実在しないのである。
其れが、森羅万象の流転の姿である。
其れを、有ると考えるのは、人間の脳が、記憶のシステムを有しているからである。
人間の脳に記憶装置がなければ、過ぎ去った過去は、何処にも無いのである。
其の、過ぎ去って無い物を懐かしがっているのが、人間の欠点なのだ。
過ぎ去った、過去の記憶を消す為に、考え出された方法が「禊ぎ祓い」の儀式である。其の儀式の意味を、もう一度再認識して、是からの未来構築に備えなければ成らない。
何の為に、其の儀式が在るのか。
其れは、過去の情報に汚染されていれば、唯今・ただいまの世界を、認識する事が不可能だからである。
唯今の認識が出来ない者は、未来を構築する事は、不可能だからである。
其の点で言えば、人間以外の生命は、唯今の事しか考えていないのである。
何故、自然界の生き物は、未来の事を考えないで生きて居られるのか、其れは自然の条件下で、順応しているからである。
人間は、自然から離れて、特別な社会を構築しているので、そうは行かないのだ。人間社会は、人間自身で、営んで行かなければならないのである。
其れは、人間一人一人が自己責任で、何事も、行なわなければ成らない世界である。
他人の力を、当てにして居ては、宇宙を飛んでいる時間の絨毯から、零れ落ちるしかないのである。取り残された者は、闇の淵に置かれるのだ。
もう、残された時間は無い。一歩前に、自分の力で歩き出さなければ、此の世に生き残れないのである。
現に、此の私自身でさえ 一歩も休む事が出来ないのである。
今日は、マヤ暦の元旦である。
今日の様子からすると、マヤ暦の2012年12月22日のトキの締め括りは、確実に近付いているのだろう。
12月23日の新しき門は、既に開いているのである。其れを、一日でも早く捜して、潜るしか救われる道は無いのである。
本人が其の気に成らなければ、是だけはどうしようも無い世界である。
平成18年7月26日
礒邉自適
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2006/7/25
「トキは既にお前の上に」
神界の動き
トキは既にお前の上に
18・7・25
今朝の映像は、何階建てかの建物に、優秀な人達が、次々に集まって来るのが映されて来た。
其の中に、40〜50歳くらいの女性も二人居た。
そして、其処に、私の同級生が一人遣って来た。
其の同級生の名は、「岡元広美」と言う名前である。其の同級生は、何かが出来ると言う意味ではなく、名前に意味が有るのだろう。
其れは「岡の元が 広く 美しく成る。」との意味ではないだろうか。
其れから、先程、自分の頭の上の方で、もう30年程会っていない、実家の近くの、「日高昇さん」の奥さんの声が、聴こえて来た。
其れ自体も、奥さんに意味が有るのではなく、「日が高く昇る働きには 内助の功が有る。」との事ではないだろうか。
今日は、マヤの暦の「1日余りの日」であり「緑の日」でもある。
マヤの暦では、明日が元旦と言う事に成るのだ。
いま、今日の分を少し書いて措こうと意って、パソコンの前に座ると、「トキは 既に お前の上に。」と言葉が降りて来た。
私の上に在る「トキ」のエネルギーとは、如何なるモノであろうか。
私には、3月19日に紀元の“紀”の文字が出て来て、「トキ」の意味だと知らされて「みいつ建国 6月11日」と伝えられて来た。
しかし、其れよりも早く2月20日には「中山博さん」のお筆先に、伝・松山悦子「集いたるは 地なるたま」の内容で、松山紀子と出て来ている。
松山さんは、屋久島の岳参りには既に一度参加し、「中島権現様」に参詣もしている。其れに、今回大山祇神の百周年の祭りが行なわれた「ホテルあかつき」にも、一度宿泊している。
私の役目は、人前に出る事ではない。
私の事は、何人かの巫女さんの夢に出て来ているが、みな同じ様に、私は小じんまりした木造の家に居て、神のメッセージを受け取っているだけだと云う。
だから、誰かが人前に立ち、事を進めて行かなくては、神の計画は実行されないのである。
特に、是からの2000年間はアクエリアスの時代なので、女性の価値観でないと、未来は開かないのである。
男性が表に立てば、いつも戦いに成ってしまう。
男性の性分は、雌の取り合いに在るのだから、仕方がない事ではある。
しかし、もう「魚座」の競争社会や、戦いの時代は終わり、平和と協調の時代の幕開けだから、男性の闘争本能は、邪魔に成るだけである。
今朝、建物に集まって来た人達は、女性の感覚が理解出来る人ばかりで、二人の女性の意見を聞きながら、事を進めて行く事に成るのであろう。
私の書かされている文章の内容も、女性が、生命の中心的存在であり、男性は其れを補足する立場であると出て来ている。
其のメッセージにある様に、是からの社会は、女性が、子供を産み育てる事が、物事の中心に在らなければならないのだ。
もう、男同士がエゴのぶつかり合いをして居ても、神の働きの役には立たないのである。
新しき「紀元」は、女性の力で始まるのである。そう言えば、「スーリアさん」の名前も紀美子である。是から美しい「紀・トキ」が始まるのだ。
明日は、マヤ暦の元旦である。
明日から、新しき動きが始まるのだろう。
私は、「悠々自適」の名前通りに、本来の処に還って行けば良いのだ。
平成18年7月25日
礒邉自適
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