2006/6/10
最後の答え
18・6・10
今日は「時の記念日」で、岡本天明氏に「天津日嗣・日月神示」の神事が降り始めた日でもある。
今朝は、其の日に相応しく、最後の答えらしき映像が送られて来た。
其の映像は、ラーメンの丼の中に、豚の目玉が入っており「ぶたどん・豚丼」との、呼び名が付いていた。
そして「旧 鑑真」との言葉が、告げられて来た。
「鑑真」とは、奈良の唐招提寺に祀られている中国の人で、日本に佛教を持ち込んだ僧である。
「鑑真和上・がんじんわじょう」は、渡来の時に、屋久島にも立ち寄っている。
また鑑真和上は、数回の渡航の際に目を患い、目暗に成ってしまった人である。
どうやら、今朝のメッセージは「目」がテーマの様である。
目は、人間の意識を組み上げる為の、一番大事な器官である。
其の、目が見えない鑑真和上と、豚の目が丼に入っている映像は、何を意味しているのだろうか。
其れは、天津日嗣の世界を認識させる為に、別の角度から、謎掛けをして来ているのだろう。
豚は、猪が家畜化されたもので、豚には、最早猪の様に、自然の中で自立して生きて行く能力は無い。
豚は、腹が空けば、泣き叫んで、人間を呼び、腹が膨れれば、寝ているだけである。其れは、現在の人間の意識を、言い当てているのだろう。
現代社会の人間は、社会構造体制に飼われて居て、家畜化され、最早、猪の様な野生の感覚を失ってしまっている。
猪は、自然の中で生きて行けるが、豚は、人間が居なくなれば、死ぬしかないのである。
其れが、現在社会の人間と同じである理を、伝えて来ているのだろう。
特に、現在のラーメンには、科学調味料が澤山入っているので、何を食べても同じ味がして、一番大事な味を分析する感覚が麻痺してしまい、人間にとって一番大事な、判断力が失われてしまっているのである。
私の師は、「自適さん 食べ物の味が分からない人は 頭が悪い人間だ。」と云っていた。
其の理由は、人間にとって一番の本能は食欲なので、其のセンサーが曇っている人間は、何事に対しても、分析力が働かないと言う理である。
分けの解る人とは、分析能力に長けている人の事である。
其の人間を、漢字では「臣」と書き、臣は大きく見開かれた眼の象形で、字義は「物事の道理が 能く視えている者。」の意味である。
其れと、反対の文字が「民」で、民は「戦いに負けた男性が 敵に目を矢で潰されて 奴隷にされる。」の意味である。
豚の目の意識しかない人間は、もう「人・霊留」の魂しいではないのだ。
そして仏教僧でも、過去の情報に執着している人間は、目暗だと言う理・ことだろう。
「ブッダ」とは、覚醒した者の意味だから、目暗や民とは、反対の者である。其の「ブッダ・覚醒者」が、日本語で言う処の「スメラノミコト・スメミマ」である。
私が、明日、儀式が行なわれる「大山祇神」の祠に初めて行った時に、「つきさかき いづのみたま」との名が告げられて来た。
大山祇神とは、山の神だが、花崗岩に住む「大巳貴神・おおなむち」意識体で、花崗岩の振動波を操る神なのである。
屋久島では、其の花崗岩の事を「御目石・ごめいし」と呼ぶ。
屋久島に、昔から住んで居た人は、花崗岩に、神の意識が住んでいる事を知っており、山岳を「神の社・やしろ」として、祀り続けて来ていたのである。
其の大事な理を、仏教を日本に伝えて来た鑑真和上は、知らなかったのである。
其処の処が、弘法大師空海とは違うのだ。
昨日のメッセージの「よはひ」とは、女子と、年齢の行かない子供は、意識が弱いので、其の「岳の神」に参るのは、無理だと知らせて来たのだろう。
屋久島の岳参りの儀式は、村一番の、壮健者である男性が代表に選出されて、勉めていたのである。
屋久島の、険しい山岳に泊まり込みで挑む人間は、誰からも頼りに成る者でなければ成らない。其の事に、女・子供が参加すれば、皆の心配の種となり、神様を、村に連れ帰る事など出来なく成る。
昨日から、今朝に掛けてのメッセージは、明日の祀りに向けての心構えを、告げて来ていたのである。
人間にとって、一番大事な理・ことは、人生の指針と成る、人物の存在である。
其の役割が、戦前まではスメラノミコト役を伝えていた、天皇陛下だったのである。
其れが、戦後マルクスや、イエス等の人物が意識の対象とされ、尊敬する人物像がバラバラと成って来ている。
其の流れに因り、一番変ったのが、田舎の仕来たりである。
今や、村の神社のお祭りとか、綱引きの行事とかが、村を挙げての行事として営まれることが、不可能と成って来ている。
其れは、価値観の多様性と、分裂に因るものである。
村や、地域のコミュニケーションを元に戻すには、皆が納得する、新しい価値観を創り出さなければ成らない。
其れが、明日から始まる「紀・とき」の催しの意味だろう。
屋久島には、古い言葉が残っている。
花崗岩は「御目石」で、想いは「心の文・あや」である。
我々は、地球の魂である花崗岩からの情報で、意識の目を開き、「こころの文」を正しき物としなければ成らないのだ。
其れが、今回の催しの最大のテーマなのだろう。
人間の意識は、視覚・目から生じるものである。
其の意識が「こころ模様のあや」であり、其処に「御目石」が関わっているとの理なのである。
平成18年6月10日
礒邉自適
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