このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2006/5/31
小学校の先生
18・5・31
今日は、また一年振りに、屋久島の神山小学校五年生に、漢字の話しをしに行って来た。
今年で三年連続となり 毎年、当てにされる様に成ってきた。
何故か、私の方が、純真な子供達に触れていると、楽しく成って来る。
それは 子供達の清い魂しいに触れる事で、私の方が癒されるからだろう。
私の漢字の話しは 象形文字にて、水の循環道理に進めるので、国語の時間と、理科の時間が、同じに成ってしまうのである。
今日は、私の次の時間は 環境省から女性が二人来て、水の話だった。
地球全体の水を、3000CCだとすると、人間が飲める水は、ただの一滴だそうである。其の水の大切さを、教えに来ていたのである。
私の、次の予定は、今月7日と8日に、現場での体験学習である。
7日の午前中は、世界遺産の森で、森と動物の説明。
午後は、海岸のタイト-プールで海の説明。
夜には、夕食作りの火の焚き方と、星空監察である。
8日は 竹を使って笛作りの工作と、川でのカヌー体験がある。
子供達と接触して居ると、時空が、未来へと繋がっている事が、実感出来て、やる気が沸いて来るから、不思議である
「自然と子供達」http://green.ap.teacup.com/20060819/
平成18年5月31日
礒邉自適
2006/5/31
石上神の布留の御霊
18・5・31
今日は、午後2時過ぎに、遅い昼食を摂って暫らく休んで居ると、眠たく成ったので、少しベッドに横になった。
すると、大地の映像がカラーで流れて、何かが、起きる事が暗示された。
其れが、何だろうと思うと「2月5日」の日付が出て、其の日付の日に書いてある事に、関係が有るとの事が解かった。
事務所に出て来て、今年の2月5日の文章を見ると「門」の題で、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の禊の事に触れている。
そしてFAXでは、中山博さんより3時40分の、お筆先が送られて来ている。其の内容は、次の様な物である。
生まれた「ふる」は
ふーう と 一息なり
ふ の息 長く伸ばせば
ふ と う 一体なり
此の地のタマ ふる 成り。
其の、生まれた「ふる」とは、石上神神宮の「布留の御霊」の布留の事であろう。石上神神宮は、物部一族の代々の御霊を祭る神社で、祖は「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊・あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと」である。
「饒速日命」は別名「布留御魂大神」である。
そして石上とは、石神で「石工・メイソン」である。
だから物部の墓は、皆石を敷き詰めてあり、其れが伊勢神宮の「伊勢・イセ」の名の元に成っていて、天皇家の武蔵野の多摩御陵は皆、石を敷き詰めてあり、物部の仕来りを受け継いでいる。
「饒速日尊・にぎはやひのみこと」も「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」も天津族で、天照の孫と成っている。そして、日本に渡って来ているが、神の子孫と言うのではなくイスラエル民族に関係が有るのだろう。
そして、饒速日尊と瓊瓊杵尊が日本に定着出来たのは、日本の国土に元々の神のエネルギーが在って、其れに同調する事が出来たからこそ、日本で国造りをする事が出来たものと想われる。
其の、「イスラ・エル(エルは神・イスラは民)」の民族の神官は、「岩戸・山門」を開く、杖を渡される者である。
物部の大嘗祭では、「天の御臥間・あめのおふすま」に履物と杖が準備されており、正しく儀式が執り行えれば「天津日嗣」が起こり、新しき王は「神霊の思頼・みたまのふゆ」を受けて、其の履物を履き、杖を突いて「あめのおふすま」から出て来るのである。
其れが、布留の御霊が生まれるとの意味である。
そして、其の神官が執り行う儀式が、石工・メイソンの儀式「十六島・ウップルイ・宇宙振るい・我が水の道」である。
中山博さんの、11時20分のお筆先の「いし」は、石工・メイソンである「ルシフエル」が復活した事を伝えるものである。
是で、ハルマゲドンは回避されたのだ。
石工の秘儀は、次の様に伝えられている。
「岩の上に立つ 兵士の謎を解く鍵とは 生ける力のダイナムを 正しく応用する事であると知るトキ 彼は結社の神秘を学び取り 宇宙の渦巻くエネルギーは 彼の物と成る。」
其れは、生体電気のコントロールに目覚め、花崗岩の山をトランス体に使って、宇宙の渦巻きを情報操作する事が、可能と成った人物の事を意味している。
其の人物こそ、太陽神から杖を授かるラーの神官なのである。
新しき御世が、神に約束されたのである。
人類は、滅亡から救われるのである。
其れは、新しい未来への門が準備され、時間軸の扉が開かれた事を意味しているのである。
其の事を書かされたのが、2月5日の文章なのだ。其れは、権力や財産の有る無しには全く関係無く、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」や「イエスキリスト」や「釈迦仏陀」の様に、清い水で禊ぎをすれば良いだけなのである。
其れが、今月の25日〜27日のメッセージなのだ。
「山門が開いた」http://star.ap.teacup.com/170606/913.html
「68・06 プロ3年」http://star.ap.teacup.com/170606/912.html
「新神国の伝達」http://star.ap.teacup.com/170606/911.html
其の第一回目が、6月11日の屋久島での行事である。
其の儀式の案内は、HP「屋久島自適塾」の「お知らせ」に載せてあるが、私が企画したものでも考えたものでもない。
地元の、名も無い78歳の一老人が、神に知らされて行う神事なのである。
其れも、「大山祇神・おおやまつみ」の働きであり、石工が受け取るべきエネルギーの本体の働きなのである。
岩山から生まれる「風」は、チベットでは「ルン」と呼んで、台地を廻る神のエネルギーの、本体のことである。其れが、中国の風水の龍神である。
京都の平安京は、左右から腕を抱え込む、山の峰を龍体として捉え、其の中心の水が沸く処を「玄武」の水浴び場と考えて造られたものである。
奥の峰から7つの峰を超え、顎を地面に降ろした龍の頭が「神南備山(かんなび)・御室山(みむろ・蛇室 大蛇の住む部屋)・ピラミット」とされて来たのである。
その龍体が、マヤのピラミットを降る、ククルカーンの大蛇なのである。
其の花崗岩の神南備に、七回半巻き着く、長さの大蛇を管理・コントロールする杖を受け取るのが、「自由な石工・フリーメイソン」の役割なのである。
其れは、自由であるからこその役割であり、老子の謂う「無為自然」の生き方をする者であり、岡山の黒住教開祖黒住宗忠氏の様に、「無我の境地」に立っていなければならないのである。
無為自然の者で、サマディの生き方をしている者は、宗教は起さないし、政治にも手を出さないし、物売りもしない。だから、人間を救う事もしないのである。
ただ 其の者がする事は、花崗岩の山をトランス体として、地球のエネルギーを調和させるだけである。
だから、世界は救っても、人間自体に、手を差し伸べる事はしないのである。其の者は、救世主ではあっても、救人主ではないのである。
其れは、例えエデンの園は造られたにしても、其処には入る為の「禊ぎ祓い」は、個人個人が自分の力で行うしか、他に方法は無い事を意味している。
自分の意志で「禊ぎ祓い」を行わないで、全てを失っても、其れは自業自得と言うものである。
神は、人間を弱くする為に育てているのではない。生きようとしない者の手は、誰も引いてくれないのである。
生きようとしない者の為に、神社や教会や寺院が在るのではないのだ。
自分自身の手で禊ぎを済まし、自らの意識を変えるしか、この大峠を越える事は出来ないのだ。
禊ぎ祓いとは、物やお金を必要とするのではなく、其れ等が不必要な世界である。だから、万民が平等に出来る事なのである。
こんな簡単な事は、何処にも無いのである。
だから、イエス-キリストは「貧しい者は幸い成り 神の国は 彼らのモノである。」と、謂ったのである。
其れはただ、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の様に、全てを脱ぎ棄てられるかどうかに掛かっている。
その事の為に、釈迦仏陀は出家を薦め、イエスキリストは「私に付いて来なさい。」と云ったのである。
たった、其れだけの理しか無いのだ。
平成18年5月31日
礒邉自適
2006/5/30
見えて来た神の計画
18・5・30
今朝は ようやく 神の 本当の 計画が 見えて来た。
何と 奥深き 事かよ。
昨夜9時頃、NHKのジャワ島地震の番組を観ながら、テレビの前で眠ってしまった。
そして、11時頃目覚めてベッドに移ったが、今度は眠れなく成ってしまった。
仕方が無いので、ベッドの上に座って瞑想をして居ると、「自分」との言葉が遣って来た。そして、「苦しみも 悲しみも 超えて」との言葉が、脳裏を静かに流れて行った。
それから暫らく経って、足が痺れて来たので、横に成り其の内に眠ってしまった。
そして、明け方に映って来たのは、神武天皇の像を、正しく完成させる為の行動だった。
其れは、「すめらのみこと」の姿を完成する事である。其の姿とは、森羅万象の現れである此の肉体を、「現人神・あらひとかみ」として確立させるものである。
昨日の「小川源之介」の名は、「小さな川の みなもとに 隔たる。」の意味で「久遠元始」に立ち返るの意味だったようである。
今朝の映像の意味は、其の久遠元始に目覚めた者の姿を、人類の鏡として、像の形で制作することである。
其れは、イエスの磔の姿ではなく、釈迦牟尼佛の座った姿や涅槃像でもなく、老子の牛の背に乗った姿でもないし、勲章を澤山胸に下げた王様でもない。数千年のトキを生きた屋久杉の様に、毅然と立ちつくす姿である。
人類は未だ、久遠元始に立ち返った、還(いの)る事に成功した人間の姿を、きざむ事に成功していないのである。
今朝の映像には、芸術の達人が数名現れ、是まで何回か制作には取り組んでは見たものの、其の像を鋳造や彫刻出来ないでいる事を示して来た。そして、私に、神武天皇像を完成させる様に頼んで来たのである。
其の像とは、肩の上に、天の3方向からエネルギーの流れが繋がっていて、手に持っている物のバランスが、とれている姿なのである。
其の説明には、数千年生きた木が枯れてしまい、朽ちて幹だけが残っている姿をとって現れて来た。其の意味する処は、2600年が経過した時間を表し、手にしていた物が戦いの道具であるので、神の本来の働きの姿からは、外れている事を示している。
そして、天が輝いて金鵄が降りて来た現象は、肩の上に3つの宇宙の働きが繋がっていて、起きた現象であることを示して来ている。
其の、立っている古い根株を見ながら、私に意味を説明したのは、神武天皇自身の霊だったかも知れない。その霊が現れる前に、陶芸の窯元が出て来て、其の像を何回も制作しているのだが、1回も成功しないで、其れまでの作品が、土中に埋められているのが映されて来た。其れは、今までの芸術家が、誰も其の像の制作に成功していない事を伝えて来ている。
其の像は、単なる神武天皇だけの像・すがたの意味を伝えて来ているのではなく、人間の究極の完成像なのである。其の像が出来上がれば「百聞は 一見に如かず」で、人類全体が人間の存在の意味が理解出来るのである。其の理さえ、皆が理解出来れば、人間はどう生きたら良いかを、自ずから定めることが出来るのである。其れは、どんな教育や宗教よりも、人類の魂しいの完成に役に立つものである。其の大事な像を、私に完成させろと迫って来ているのである。
其れは、単なる像ではない。其れは、架空の人物ではなく、実在する人物像でなければ成らないのだ。其のモデルと成る人物を育てているのが、此の人間社会なのである。
其の神の計画が、中国の老子の謂う「嗇にしくは無し。」の言葉である。
「嗇にしくは無し」とは、「宇宙の存在の目的は、種を蒔いて育てて収穫する。ただ其れだけで 他には 何も無い。」との意味で、人間や他の地球生命も、皆 神が原因の種を蒔いて育て、良い物だけを収穫して、新しき種とするとの理である。
其の、神の計画の為に、私の両親や師も使われて来たのである。
其れは、此の私し自身も、わたしではないコトに成るのだ。
今朝のメッセージは、私に、神武天皇の像を制作しろとの事ではなく、私自身が其の像に成る事を示して来ているのだろう。其の為に、膨大な時間と、莫大な資源が注ぎ込まれて来ているのだ。其れは、私に神武天皇に成れと言うのではなく、「素目身真・スメミマ」の姿を示せと謂う意味合いである。
其の意味が、今朝の中山博さんのお筆先にも出て来ている。スメラのミコトとは、何か政治的な行動を起すのではなく、仏陀の様に、宇宙と人間の間に「介・はざま」として存在し、神と人類全体の介護に努めることなのである。
其れが、トランス体であり「みいつ」をする事なのである。
今朝の映像は、神武天皇の像の件の前に、二つの映像場面が映されて来た。
其れは、水田での草刈と田植えの様子である。其の様子を詳しく説明すると長く成るので、簡単に説明すると、日本は稲作中心の文化国家であり、お米を生産する事が一番重要である。其の稲作栽培技術が、様々な点に於いて発達して来たので、物質的には完璧に出来上がって来ていると言うことである。
其れは昔と異なり、
@ 耕地整理は 人力ではなく 重機械で出来る。
A 草刈や 稲の収穫も 機械が出来たので 簡単に出来る。
B 測量技術が発達して 距離が測れるし 耕地整理が正しく出来る。
C 代掻きが楽に成った。
D 稲の品種改良が進み 寒地でも栽培出来る様に成った。
など 自然が少なく成った事を考えなければ 三次元的には良いこと尽くしである。
しかし現実は、外国産の食料輸入に因り、国内の農家は苦しい農業経営に追い込まれているし、科学肥料や農薬を使用するので、人体には良くない結果を招いており、スメラのミコトが完成する状況ではない。それらの問題が解決されてこそ、天皇の心が休まり、本来の働きが出来るのである。
全人類が、宇宙の3つのエネルギーを正しく受け取る事が出来、手に持つ物が神の意に適った物と成った時、始めてスメラのミコトの顔が安らぎを迎えるのである。
其れが、代々の天皇の願いなのである。
今朝のメッセージは、未だ日本には神の働きが残され、神々が存在を続けている事が示されて来ている。岡本天明氏の神示には「老子だけを 宮の内に祭って 他の神は 外に祭れ。」とある。其れは、老子の概念だけがスメラの道に適っているコトを示している。
老子の言葉に「雄の立場を理解した上で 雌の立場に身を置け。」とある。
正しきスメラのミコトの存在は、女性の立場に身を置く者にあるようだ。
はたして、男性を卒業して、女性の立場に身を置く仏陀の姿は、何処に存在するのだろうか。其の姿が見付かれば、新しきスメラ像を創るのは可能と成るであろう。
「自分」との単語は、「自らを 刀で両方に切り分け 自分の存在の意味を 分かる。」との意味である。「苦しみや 悲しみ を乗り越えて、自分の命の源流に還る。」其れが、老子の憶いに応えるコトなのであろう。
今日は、神武のサポートを、老子がしていたのではないだろうか。
まだまだ神の懐は深い、しかし親鸞の様に「南無阿弥陀仏」と云って、逃げる分けには行かないのだ。
平成18年5月30日
礒 邉 自 適
2006/5/29
母系社会への復帰
18・5・29
今朝は「小川源之助」との名が出て来て、其の人が、銀色に光る縦長の細い心棒らしき物を、何かの中心の位置から外して、納屋の棚みたいな所に収納してしまう映像が映されて来た。
小川源之助さんとは、日月神事の岡本天明さんと親しくされていた方である。其の人が外した、心棒らしき長い棒が、何だろうかと考えていると、「天津日嗣・あまつひつぎ」の縦の心棒が取り替えられる意味が伝えられて来た。
其の意味を良く考えていると、日本の国の歴史は、母系社会で構成されている事が見えて来た。
つまり、他の民族の男性の血筋を導入する事で、「功・イサオ」を上げて来ているのである。
「須佐之男尊・すさのおのみこと」は、大陸から日本に渡って来て、出雲で「足ナズチ・手ナズチ」の娘である「櫛稲田姫」を娶り、須賀の地で新居を構え、四名の子供を残している。其の「足ナズチ」は「大山祇神」の子供である。
現在の、天皇家の元と成っている「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」は、大山祇神の娘「木花之佐久夜毘売命・このはなさくやひめ。別名神阿多都比売・かむあたつひめ」を娶り、其の姫から三人の子供が生まれている。
「神武天皇」は、奈良のナガスネ族に婿入りして、「媛蹈鞴五十鈴媛命」と結婚して、国の政治・まつりごとを任されている。
「神武天皇」http://moon.ap.teacup.com/20061108/567.html
日本の歴史は、出雲も、南九州も、奈良も、皆、余所者の男が、嫁の里で暮らし始めた歴史なのである。
其の事から考えれば、日本の国造りの元は、全て大山祇神の一族の里と言う事に成る。
「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」が日本に来た時には、既に、日本の国土には大山祇神の一族が、全国に住んで居た事になる。
其れは、稲田姫の祖父や、「木花之佐久夜毘売命・別名神阿多都比売」の父親などが、同じ先祖を有していた事になる。
おそらく、神武が婿に成ったナガスネの先祖も、三輪の大山祇神を祭る一族だったのであろう。
是で、今回6月11日(旧暦5月16日満月)に行なわれる、大山祇神の祠「建立百年祭」の意味が解けて来た。
今回の祭主は「大山邦博氏」で、協力者は弟の「大山高則氏」である。しかし、其の祠を建立したのは「日高太郎吉 他 」と刻まれている。
屋久島には、日高の性は多い。
其れは、神武の曽祖父の名が「日高彦火のニニギ」と成っているので、関係が有るのかもわからないが、何故か、今回は日高姓ではなく、数が少ない「大山姓」に神が掛かっている。其の事に、今回の意義が秘められているのだろう。
平成13年5月に、大山邦博氏(昭和3年1月25日生まれ・命名は早川宮司)が、自宅の仏壇の前でお経を上げて居ると、突然、自分の口から「大変だ、大変だ」との言葉が発せられ始め、何事かと想っていると、山の祠が目の前に映って来たとの事である。
其れで、早速山の祠を見に行くと、祠が台の上から下に落ちていたので、掃除をして立て直したとの事である。
そして、丸一年が経過した14年5月31日の夜、「山の神を祭って下さい。」とのお告げが有ったので、6月1日にお参りをした。
すると、今度は二日後の3日に、急に足が痛み始め歩けなく成ったので、鹿児島の霊能者に電話を掛けて、観て貰うと「泊如竹さんの霊が 掛かっている。」との事で、直ぐに泊如竹の廟にお参りすると、其の足の痛みが消えたとの事である。
(泊如竹は 屋久島聖人と呼ばれている 350年前のお坊さんで、旧暦の1570年1月17日生まれ〜1655年5月25日没・85歳)
私の動きにも、此の「泊如竹 翁」は深い関わりがあるが、此処では其の事に付いては述べない。
現在、日本の天皇家は、男系血筋と決められているが、其れは、イスラエル・ユダヤからの流れや、中国の皇帝制度の影響を受けたからであろう。
処が、歴史を遡って見れば、元は大山祇神のおおらかさにより、受け入れられた事で、妻の里で国造りが行なわれた事が解かる。
古代の日本社会は、女性が中心の母系社会だったのではないだろうか。
其れが、中国の財産管理をする為の、男性中心システムが入って来て、現代の様な、男性中心社会に成って来たものと考えられる。
今朝のメッセージは、其の男性社会のシステムである「天津日嗣・あまつひつぎ」を、女性中心のシステムに、切り替えろと告げて来たのではないだろうか。
今朝は、Aさんから電話が有り、同じ様に物の柄・棒を新しく取り替え、光が当る様にしろとメッセージが有ったとのこと。
更にAさんには、私より早く、今月12日には宍戸錠さんと、息子さんの開さんと、水前寺清子さんの名が出て来ていたそうである。そして、同じ様な意味が伝えられていたとの事であった。
何処の誰が、この様に、物事を管理して、メッセージをコントロールしているのだろうか。
其れが、神の働きだと言ってしまえば、一言で片付いてしまう。
しかし、何故、其の様に、全てを管理しているはずの神が、どうして、人間に頼まないで、自分の手で、全てを解決しないのか、其処が変しいのだ。
何故、天・神がそうしないのか。
其れは、人間が認識しない事を、神が行なっても、無駄だと言うことであろう。
人間が自覚した事柄しか、此の世界では、現実化しない様に成っているのであろう。
此の三次元世界は、人間自身が、物事を興さない限り、何も変化が起きないのである。
逆に言えば、悪い事でも遣りさえすればそう成るので、現在の様な社会が出来上がったのである。
しかし、現在・いまの人間社会の在り様や、人間の生き方が、神の意志に添わないものと成っているのは、確かである。
其処のところを、根本から遣り直せと告げて来ているのである。
今日、天皇家の在り様が話題に上っている。其れは、現在、皇室に男の子が誕生しないので、女子に天皇の継承権を与えるかどうかに付いて、議論が交わされているからである。
確かに、女性には「スメラノミコト・天皇・大君」に成る能力は無い。
其れは、女性と男性の脳の仕組みが、違うからである。
しかし、現在の世の中は、民主主義政治が行われているので、天皇はスメラノミコトの役割はしていない。だから、女性天皇が立っても、大して変わりは無いだろう。
「Y染色体が 大事だ」と云っている人が居るが、2千数百年遡れば、皆、婿殿なのだから、今回も、婿を迎えれば同じ事である。
ただし其れには、神の意志が反映されるかどうかである。
若し、神の意志が反映されないで、人間の勝手で事が済まされれば、天地のバランスは現在以上に、変しな事に成るものと考えられる。
今朝のメッセージは、其れ等の事も含んだ上で、是からの神柱を、どう立てて行くかを考えろとの事であろう。
現代社会は、昔と違い、インターネットが完備されているので、大きな権力中心の機構は必要ない。上から下への、命令系統は必要ないのである。
必要なのは、緻密な情報に拠る管理システムと、其れを、自由に使いこなせる、人脈のネットワークの存在である。
昔は、単一の民族や、部族毎に、スメラミコトの役割をする人間が居たのである。現在の社会の様に、政治機構がなくても、自分の民族の中に、スメラノミコトが一人存在して、部族間のコミュニケーションが計られれば、其れで良かったのである。
古代社会では、現在の社会の様に、他民族の事まで、管理しなくてよかったのだ。
しかし現代社会は、世界が大きな組織のもと、情報で繋がっていて、政治的にも経済的にも、単独では、上手く事が進まない様に成っている。
現在の組織は、アメリカが中心的役割を担っているかの様に見受けられるが、政治は、大きく治める者が、最後には疲弊して潰れるのが、古今東西の歴史で証明されているので、出来るだけ早く、小さな組織の連合体に、組み替えなくては成らない。
其れが、母系社会的な機構である。
人間の社会は、政治的に動き出せば、軍備中心に陥り易く成る。
其れを、家庭中心の文化国家に変えて行けば、軍備よりも、環境中心の国家体制に持ち込み易い。
今朝のメッセージは、地球の自然環境を大事にし、家庭中心の平和な社会を構築するように、神が、支持を与えて来たものと考えて良いだろう。
其れが、日本列島に今まで根付いて来た伝統文化である。其の頂点に、スメラのミコトが存在したのだ。
今朝は、其の伝統の中心軸を、新しく立て直せと言って来ているのだ。
その実現に、早く取り組む事が、神の協力を受けられることでもあるし、神を喜ばせる事にも繋がるのである。
大山祇神とは、地球の地殻や、水を管理する大蛇の神である。
天照神の太陽の様に、ただ見ているだけの神の働きではない。実祭に、行動を起こす、力を有した神である。其の神の働きが、動き出しているのだ。
6月11日の儀式が済めば、何かの動きが、明確に成って来るだろう。
平成18年5月29日
礒邉自適
2006/5/28
10602・神道伝道2
18・5・28
今朝のメッセージは「10602」の数字と、「神道伝達 2」の文字が現われてから、映像が映り始めた。
其の映像は、先ず、人間に憑依している霊を、如何に祓うかの儀式を、私自身が行なって、他の人に見せている様子の場面から始まった。
私は、其の人達、自身の体に立ち向かう事をせずに、側に立っている木を激しく鞭打って、「其の人の身体から 出て行かないと、この様に成るぞ。」との意味が伝わる様に、霊に念波を送りながら、木の皮が剥けるまで、其の木を鞭打って居た。
そうする間に、霊がどうやら其の人間から離れて行き、其の人は立ち直った様である。
次の場面は、私のアルバムに貼って有る一枚の写真が出て来た。
其の写真は、日本のダンス界の草分けで、勲章も授与されている「芙二 三枝子さん」が写っている写真である。
其の写真には、芙二さんの傍らに、誰か判らない男性が一人、グレーの作務衣を着て写っている。そして、其の作務衣の男性が、是から大事なので、私に「もう一度会う様にしろ。」と、告げられた。
「芙二 三枝子」HP http://www.fujimieko.jp/fujimieko.html
次の場面は、何処かの料亭が現れて、其処に40歳位の男性が、一人食事をしに遣って来た。すると、其の店の従業員の女性が「一見さんは お断りしています。」と、断わっている。
処が、其の男性は、どうしても食事をしたいと、頑張り始めた。
仕方が無いので、従業員が経営者である男性に電話を掛けて、どうしたら良いかを尋ねて居た。
すると社長が、男性と替わる様に告げたらしく、従業員が客の男性に電話を渡すと、社長が、男性に「貴方は 私の店で 一度でも 毅然とした態度で 食事をした事があるのか。」と言うと、其の男性は、何も答えられず、引き下がって帰って行った。
次の場面は、私が、料亭の建物の中に入って行くと、広間に食事会の準備が始まっていた。
どうやら、是から20名程の人員で食事会が始まるらしい。
私は、自分の席は何処だろうかと意って立っていると、従業員の一人が私を連れに来て、厨房の方に連れて行った。
其処には、10名程の人達が働いている。
私が厨房の中に入ると、厨房の責任者である70歳位の女性が、笑顔で出て来て「貴方に 会えるのを楽しみにしていました。是から 色々と教えて下さい。」と謂い、更に「今日は どうぞ 食事を楽しんで下さい。」と謂って、厨房の中に返って行った。
それからまた、映像の場面が変わり、今度は、大きな黒板がある学習教室みたいな部屋に着くと、痩せ型の中年男性が二人、畳に置かれた長机に座り、私が到着するのを待って居た。
其の二人との話しの内容は、高度なもので、宇宙の存在の意義や原理と、人間の存在理由の関係などで、三人で話し合った事は、未だ、一般の人達には理解不可能な内容である。
其の三名での会話の中で、漸く私は、理解者を得たとの気持ちが湧いて来た。そして、安堵した処で、今朝の映像は終わった。
今朝のメッセージが、意味する処を大まかに言えば、日本の伝統である食事の在り方と、霊魂の取り扱い方法を、しっかりと把握して、人を導けとの事だと想われる。
どうやら今朝も、昨日に続いて、エジプトのスフインクスが謎解きを迫って来ているようだ。
昨日の宍戸錠の息子の「開さん」と、「水前寺清子」の登場は、其の名に意味が有った様である。
「宍戸 錠」との名は、神社の鳥居の前に在る、高麗獅子の狛のコトで「狛の門(ししど)の鍵・キー」の意味の謎が、掛けられていたもので、息子さんの名は「開・ひらく」である。
其の様に考えると、もうエジプトのスフインクスの謎解きが是で済んで、扉の鍵が開けられたのではないだろうか。
それは、昨日の山門が開いた事と同じで、ピラミットの奥義が、開放されたとの意味を示している。
そして水前寺清子とは、鳥居の前に在る、御手洗の水の事で「清い水の 前の子の 寺(トキ)」の、意味だと想われる。
其れは、清い水が、事象の時間を司っている理・ことを意味している。
そして、今朝の「芙二 三枝子」の名の意味は「富士 見え」で、是から日本の文化が、世界に見直されるとの意味ではないだろうか。
芙二 三枝子さんは、西洋のダンスの世界を、日本に導入した方である。
今度は、逆に、日本の文化を、世界に拡げる人間が、必要との意味も含んでいるのではないだろうか。
其れに、作務衣の男性は、日本の臨済宗の「懐石料理」の食事作法が大事であるので、其の世界の男性に、接触しろとの事だろう。
そして、其の男性の顔がハッキリしないのは、私が未だ、出会ってはいない男性だと言うことだと想われる。
どうやら、今朝の映像の内容からすると、今回の新しき神の道は、天皇家の「御餐殿・ミケドノ・台所」の伝統ではなく、桜沢如一氏から始まった「マクロビオテック・正食・真生活」の世界が、臨済禅を通じて、世界に伝えられて行くとの事ではないだろうか。
私が22年前、神の世界に入り、4311体の霊魂の「神霊の思頼・みたまのふゆ」を受けた時に、最初に現れたのは「桜沢如一」の霊魂であつた。
そして、今やスローフードの第一人者と成った「武富勝彦氏」に連れられて、東京の「オーサワジャパン株式会社」の事務所に、平成4年(1992)8月25日に行ったとき、桜沢如一氏が座って仕事をして居た部屋の机の前で、「此処が お前の 新しい仕事場だ」と、霊に告げられた事が有った。
今朝、中山博さんから送られて来たFAXを見ると、どうも其の事と関連性が有るようだ。
私が、是から遣るべき事は、どうやら新しい大嘗祭の儀式を組み立てて、世界の食生活の理・ことや、霊界に対する鎮魂などの価値観を、正しくするとの事の様である。
それは、私に、第二の説法の旅を始めるように準備しろと、告げて来ているものらしい。
是で「神道伝達 2」の意味は、理解出来たと思うが、数字の「10602」の意味が判らない。
其れは、10月6日2時の意味なのだろうか。若しそうであれば、其の時間から、新しい「神へ道の伝道」が始まるとの事に成るのだが、未だ、今の私にはハッキリした事は分からない。
ただ、中山さんのお筆先には、私に、自覚を促すような内容が含まれている事は確かである。
今朝の、映像の場面の様に「貴方は 私の店で 毅然とした態度で 食事を一回でもした事が有るのか。」と云われたら、其の様な体験の無い人は、たじろいでしまうだろう。
其の点に於いては、私は無庵師匠の自宅で、数ヶ月間鍛えられたし、料亭「辻留」などに連れて行かれ、場慣れする様に、指導も受けているので、心構えは一応出来ている心算である。
其れと、私の特技は、食べた物に因る、身体や霊魂の反応が判る事にある。
それは、他の人には出来ない芸当である。
しかし、其れこそが、大嘗祭に一番必要な世界なのである。
其の、私の特技を生かし、次の天皇代替わりの時の、大嘗祭の儀式を成功させなければ成らない。
其れが、石上物部の血筋の役割であるのだ。其の儀式の為に、私に4311体もの霊魂が憑依して来たのである。
此処まで来れば、昭和64年1月7日の夜中、私の心臓に霊が飛び込んで来た、昭和天皇の御霊も、安心しているのではないだろうか。
昭和天皇は、2月24日の御大葬の日の未明にも現れて、「我が身 既に遠く 良き代を 願い奉る。」と告げて来た。
其れに、昭和61年(1986)1月10日には近江神宮で、天智天皇霊に「神籬の 代代のみだれを盃に 菊一輪と まわし飲み」とも、告げられている。
是から、日本の伝統である「惟神の道・かんながらのみち」を、どれだけ人々に理解して貰う事が出来るか、其れが、是からの私の人生模様であるようだ。
しかし、其れが、私の名前である「悠々自適」の生活に合っているのだろうか。
自分で持って来た名前と、違う人生に成ってしまうのかも知れない。
一休宗純禅師なら、「其れも また 一興 」と、笑って過ごすかも知れない。
平成18年5月28日
礒邉自適
2006/5/27
山門が開いた
18・5・27
今日のメッセージ映像は、今までのメッセージとは、全然異なる映像が現れて来た。
其れを、一言で云えば「山門が開いた」と成るだろうか。
その映像とは、火口を持つ山が黄金色で現れ、其の火口が競り上がって、左右に別れて開き、中から光った物が、飛び出して来る場面である。
其の山は、一つではなく、幾つか形の違う山が連続で、同じ様に開いたのである。始めの山は、阿蘇山だったかも知れないし、富士山だったかも知れない。
其の映像は、夜が明けてからだが、夜中には、別の映像が現れた。
其れは、人の顔が眼の前に現れて、私が、其の顔を見詰めると、顔の表情が変わり始め、様々な顔形に変化して行くのである。
其の顔の移り変わりは、段々と速く成り、ドンドンと変わって行くので、映画フィルムの早回しの様になった。
其れは、しばらく続いたので、おそらく何千・何万の顔に変わったと想われる。
仏教に、「地湧の菩薩・じゆのぼさつ」との言葉があり、地から澤山の未来仏が誕生するとあるので、今朝の映像は、其の事と関係が有るのかも知れない。
私は、其の映像を見て、カナダ国のインディアン文化の「トーテムポール」を思い出した。
トーテムポールの柱には、色々様々な人間や動物の顔が、彫刻されている。
其のトーテムポールの彫刻が、何の為に彫られている物なのかは、私には良く分からないが、若しかしたら、私が今朝見た様な映像を、昔し見た人が居て、其れが神だと想い、木の柱に其の顔を刻んだのではないだろうか。
日本にも、佛教の百羅漢像等が存在するが、其れと同じ様な、感覚なのかも知れない。
今朝の映像で、次々に変形しながら遷り変わる顔は、決して、気持ち好い物ではないが、私には、其れは一番大事な命の源の様に感じられた。
其れは、「生命の樹」の中心軸・命の柱の様に想えたからである。
其の、命の中心に立つ柱が、元気良く、しっかりと立ってさえいれば、地球生命は、例え形は変われども、永遠に存在を続けられるのではと想えた。
其れは、人類自体も、其の生命の柱から生まれた一部だと理解し、地球の全生命との調和が、図れればの話ではあるが。
今朝は、もう一場面映像が有った。
其れは、私が安房地区の人達数名で、安房川の左岸に植林をする準備をして居る場面である。其処は、屋久島町大字安房字里町1番地の1の場所である。
(安房は2800番地まである)
私は、人手が足りないので、弟に手伝いを頼む為に、電話を掛けた。
すると、電話に出たのは現存する弟ではなく、31年前に病気で亡く成った、直ぐ下の弟なのである。
電話に出た弟の返事は、「僕にも 大きな仕事が二つ舞い込んで、是から直ぐに 鹿児島の方に出掛けなければ成らない。」との事で、私は要望を断わられたのである。
其の映像の意味は、地球に木を植える事が第一番である事。
霊界人が協力してくれる仕事で、大事な事が二つあるとの事だと想われる。
其の事が、正しく行なわれれば、地球も人類も、未来が約束されるとの知らせではないだろうか。
そして、未来への新しい扉が開かれ、大山祇神やビシュヌ神も喜び、地球の山々も黄金に輝き出すとの事ではないのだろうか。
私は、平成元年3月13日に、昭和天皇の御霊に導かれ、阿蘇郡蘇陽町の「日の宮弊立神宮」に参詣した折り、神社の境内でメッセージが有って、蘇陽町に住む事に成り、其の歳の9月26日に、家族で小倉から蘇陽町に転居した。
そしてしばらくして、阿蘇の外輪の山々の峰に、大きな仏の姿が、立ち並ぶ映像を見せられた事があった。
今朝のメッセージの内容から考えれば、阿蘇の外輪にも植樹をして、地球の緑の保全をしなさいとの事ではないだろうか。
其れが、新しい地球を造り出す為の、雛形に成るのではないかと想われる。
日本の天皇家の伝統は、植樹をして水の循環を守り、田植えをして稲刈りを行い、収穫された新米を先祖の霊と共に食べる事にある。
其の日本の文化こそ、世界中に、胸を張って自慢出来るものではないだろうか。
其れこそが、宗教を超えた「宗教(大本の教え)」なのである。
其の、日本の文化が世界に拡がれば、地球は一気に、緑豊かで美しい水に恵まれた星と成る。
其れは、簡単に出来る事である。
何故かと言えば、世界中で戦いをしている人達が全て、手にしている銃を溶かして、シャベルに作り変え、軍備予算を全部そちらに振り向けるだけで良いのだから、何も、新しい資源や予算が必要無いのである。
そうしさえすれば、未来への扉は開くのである。
宗教や、哲学は、人間の幸福を築く為の研究である。其の学問や風習の為に、人間が不幸に陥るのは、愚かと云うしかない。
もう此処らで好い加減、余計な事は一切止めたらどうだろうか。
何故なら、未来創造の為に、働かなければ成らない時節が、直ぐ目の前に迫って来ているからである。
平成18年5月27日
礒邉自適
2006/5/26
68・06 プロ3年
18・5・26
今朝は、意識がややこしい。
と言うのは、現実と四次元情報が混ざり合い、私の意識が、整理し難いからである。
今朝の映像は、晴れた空の上から、フロッピーか円盤か判らない丸い物が、独楽の様に回りながら飛んで来て、私の頭上で飛び回るので、私は其れが煩わしく成り、竹の長い棒を持って来て叩き落そうとして、空中を振り回していると、其の棒が電線に触れてしまった。
すると、其の電線が着いていた電柱が、首の所からポキリと折れて垂れ下がり、停電に成ってしまった。
其の、折れて垂れ下がっている電柱の頭を見ると、何万ボルトの電流が流れる高圧電線なのである。
私は、大変な事に成ったと意い、どうしょうかと考えていると、其処に一人の女性が遣って来た。
そして、其の女性は、先が折れた電柱に登り、柱の中を覗いて居る。
すると、私の方を向いて「胡麻を取ってくれ」と言うので、私は黒胡麻を手に取って渡した。すると、其の女性は、其の黒胡麻を電柱の穴の中に入れて、手を其の中に突っ込んで、掻き回し始めた。
私は、何をしているのだろうと意い、私も電柱に登って、其の中を覗くと、内には油の様な液体が入っており、其の液体の中に、先ほどの黒胡麻が、万遍無く混ざり始めている。
其れは、宇宙の回転模様の渦巻きが、壷の中で演じられている様な、感じのものである。
其の映像が消えたら、今度は数字が示されて来た。
其れは、「68」「06」である。そして、「プロ3年」との言葉も告げられて来た。
68・06は直ぐに、2006年6月8日の日付である事が判った。
今年の6月8日で、スーリアさん一行が屋久島に来て、「スーリア・サロン」のセミナーを開催して、丸4年に成る。
其の時に参加された「伊丹由香さん」が、今回の11日の儀式の為に、6月8日から一人屋久島入りをする。其の事にも、関係が有るのだろう。
そして「プロ3年」とは、私がスーリア・サロン開催の為に屋久島に帰り、其の侭、島で暮らす様に成った事に、意味がありそうだ。
年数で言えば、帰島してから丸4年なのだが、始めの1年間は、18年振りに島に帰っての生活なので、島の環境に慣れるのにエネルギーを使ったし、生活を立て直すのにも骨が折れた。
だから、神の為には、あまり役に立っていなかったのであろう。
漸く一年が経過し、私が島の生活に慣れてから、メッセージが本格化したとのことではないだろうか。
其の意味であれば、確かに私は、プロ意識に達してから3年と言う事に成る。
其の意味から、今朝の映像の解釈に入って行けば、天から飛んで来たフロッピーの様な物は、神のメッセージであり、其れを受け取る事を、私が止めれば、地球には、大停電が起こされる事態が発生するとの事ではないだろうか。
大停電が起これば、現在の情報社会は完全に停止してしまい、麻痺する事は間違いない。
そして、油の様な液体が入った壷は、電柱に着いているトランス(変圧器)の意味で、神の情報を受け取るトランスの役割を意味し、其の内容は、宇宙の森羅万象の変化を伝えるものである。
其のトランスの油に、黒胡麻が混ぜられたのは、トランスの役割を果たす者には、黒胡麻を食べる必要があるとの理・ことだろう。
黒胡麻はリノール酸を多く含んでおり、脳細胞にとって大事な食物だと言われている。だから、神のメッセージを受ける役目の人は、黒胡麻を食べた方が良いとの理・ことだと想われる。
そんな指示を、出して来る女性の霊体は、一体全体誰であろうか。
其のヒントは、其の女性が、宇宙を手で掻き回していた事に在るだろう。
宇宙の渦巻きを、手で掻き回す事の出来る女性は、ヒンドウ教の神「ヴィシュヌ」に関係がありそうである。
インターネットで、ヴィシュヌを検索すると、次の様に載っている。
ヴィシュヌは、世界を維持する役目があるとされる。
引用開始 一般には、4本の腕を持ち、右にはチャクラ(円盤、或いは輪状の投擲武器)と棍棒を、左にはパンチャジャナ(法螺貝)と蓮華を持つ男性の姿で表される。 妻はラクシュミで、ヴィシュヌの化身に対応して妻として寄り添っている。メール山の中心にあるヴァイクンタに住んでいる。ヴァーハナ(乗り物)はガルダと呼ばれる鳥の王で、鷲のような姿をして描かれたり、鷲と人を合わせた様な姿で描かれる。
またヴィシュヌ派の創世神話によると、宇宙が出来る前にヴィシュヌは竜王アナンタの上に横になっており、ヴィシュヌのへそから、蓮の花が伸びて行きそこに創造神ブラフマーが生まれ、ブラフマーの額から破壊神シヴァが生まれたとされる。 終了 ウィキペディア辞典 現在記載
上記の説明に拠ると、チャクラ・円盤を投げて遣したのはヴィシュヌで、現れた女性は妻のラクシュミだったのではないだろうか。
そして、掻き回されていた螺旋の壷は、ヴィシュヌの臍を意味しているのではないだろうか。
其の臍からは、ブラフマーが生まれる事に成っているので、私に、その創造神ブラフマーの役割をしろとの事ではないだろうか。
私が、新しい世界を創造する仕事をしなければ、破壊神シヴァを使わすとの知らせなのかも知れない。
今朝は、其の映像の後、家の近くに車が来て止まり、何かを行なっている音が聞こえ出したので、何事だろうと意い、部屋の電気を点け様とするが、電気が灯かない。停電なのである。
手探りで、庭に出て見ると、作業車が来て、電柱の上に人が登って作業をしているのである。
私は一瞬、どちらが現実なのか、夢との境界が判らず戸惑ってしまった。
音の原因が判ったので、部屋のベッドに戻り、携帯電話機の時刻を見ると、午前2時半であった。
其れから1時間程、物思いに耽って、また眠りに入った。
そして、明け方映って来た映像は、知り合いが、数名で海に遊びに行こうと云うので、私も着いて行くと、着いた所は海で、彼らの遊びは、水上バイクで軽飛行機を引っ張って、海上を走り回るものだった。
其の飛行機は、とても薄い透明な塩化ビニールで出来た機体で、トンボの様な羽根が着いた機体の上に、人が跨って、空中に浮かんで飛ぶ物である。
彼らが遊んでいる世界は、空は晴れて海は青く、素晴らしい景色である。
其れは、素晴らしい未来が在る事が、暗示されている様な、感じを受けるものであった。
其の景色を眺めていると、また女性が一人出て来た。
其の女性は、霊感占いをして生活しているらしい。
私の意識は、その女性に「人間に憑依して来る霊は 皆 過去の世界で生きて居た人達で 未来を創るのには役に立たないのだから 昔の霊に付き合うのは止めて 未来の為に 自分の身体を動かして働きなさい。」と、云っていた。
すると、其の相手の女性は姿が変わり、生き生きとした、美しい顔の女性と成った。
今朝の映像は、是だけで終わったのだが、私の意識は、まだ思索を続けていた。其れは、人間の意識と、神の意識の繋がり・関係性に付いてである。
人間の視覚。→視覚に因り認識した情報。 →其れに因り発生した潜在意識。→其の意識が 松果体のシリコンから 花崗岩の山の珪素にチャンネル。→其の花崗岩の山から水に情報が転写され 雲に伝えられる。→其の雲を見る人間の視覚に 新しい情報が組み込まれる。→其れに因り潜在意識の世界が変化する。 等との、循環作用に付いてである。
其の情報の流れを支えているのが、水の世界なのである。
水が、あらゆる世界の情報を管理しているのだ。
と、其の様な事を想っているうちに、外には雨が降り始め、大雨と成って強い風も吹き始めた。
私は、その雨の音を聴いて居て、意識と雨が繋がった様に感じ、また意識が変しく成った。
停電の映像では、本当に停電に成って、電柱に実際に人が登って作業をしているし、水と雨の事を考えていると、大雨に成り、今日は飛行機もフエリーも欠航に成ってしまった。
霊夢の映像と、現実の区別が、怪しく成って来ているのである。
是は22年前、私が神の世界に、初めて入った時の様子と似ている。
再び、彼の世と、此の世の境目が無く成り、森羅万象の渦の中で、意識が混濁する次元が訪れるのだろうか。
しかし、今回は、前の時とは異なり、人類全体が、其の坩堝の中に吸い込まれるのであろう。
そう成る事で、新しき未来が創造されるのである。
其の働きの中心が、ブラフマーなのだろう。
今朝のメッセージの概要は、私が、此の世界のプロとして、ようやく4年目を迎える事に成り、2006年6月8日から、未来創造が愈々始めるとの事だろうか。
今朝の「中山博さん」のお筆先にも、其れらしき様子が伝えられて来ている。
私には、未だそれらの内容は良く理解出来てはいないが、22年間の体験と言うか、慣れで、何が起きても平気で居られるとの、自信みたいなものだけは在ることは確かだ。
6月8日まで残り13日である。何から、始まるのか、私にも未だ見えない。
どうやら、外の雨も、小降りに成って来た様だ。
平成18年5月26日
礒邉自適
2006/5/25
新神国の伝達
18・5・25
今朝のメッセージは、光りの中に、黄金色に輝く樹木が映り、其の木には、枝が右の方に四本程突き出ていた。
そして「新神国の伝達」の文字が出て、新しいHPのトップページが映り、「悦子さん」の上半身の正面写真が現れた。
其の下には、文字が横文字で書かれていたが、内容は覚えていない。そして、芸能人が数名現れた。
今朝のメッセージの内容は、愈々具体的に、動き出せとの知らせの様である。
昨日、「天波博文氏」と「スーリアさん」より電話が有り、今後の事を、其々と話した所為なのかも知れない。
今朝の映像で、始めに金色に光って出て来た木は、何の木だか判からない。
若しかしたら、五十鈴川に生えていて、5〜6百年に一度、実を着けると云われている、「日枝・ひえだ」の木ではないだろうか。
今朝の光り輝く木の枝は、正に「日の枝」である。
日枝だとは「火枝神社・ひえだじんじゃ」の神(別名は日吉神社)で、元は琵琶湖の西岸坂本村の住人「最澄・伝教大師」の家の氏神様のようである。
日吉とは、何百年かに一度「日の実」が枝に着く事から、「ひえだが良い・目出度い」の意味で「ひ よし」と成ったと、聞いた事がある。
京都の比叡山は、京の都を造営した桓武天皇に、最澄が丑寅の方角を護る様に頼まれて開いた山である。
比叡山の比叡は、日枝だの比叡である。最澄は、自分の氏神様の名を捩って、比叡山と名付けたのである。
現在の天皇家の家紋である菊花紋は、元々最澄の家の家紋で、後醍醐天皇の息子が、足利尊氏と戦う時に比叡山に立て籠り、菊花紋を自分の御旗のマークに借りたまま、返していないのだと聞いている。
今朝のメッセージを、私成りに紐解とけば、日枝とは、神の光りが枝として思考を伸ばす事で、今朝の四本の日枝は、十六菊花紋の内の、右四本が動き出したとの意味で、三次元に、其の枝を現実として、拡げろとの意味ではないだろうか。
其れは、昨日生まれた九次元の金龍が、自分の意識を広げ始めた事を、意味している。
其れに因り、十六菊花紋は八大龍王8x2=16から、九代龍王9x2=18の十八菊花紋へと、次元移行するのである。
其れは、私が21年前に、群馬県の榛名山に在る、榛名神社の鳥居の左横に立っている「雌 九代龍神」と彫られている、大きな石碑の前で、告げられた事でもある。
その事を、早速漫画家の「真崎守氏」に話したら、直ぐに「十八菊花紋」を作成して下さった。
「雌九代龍王」と彫った石を建立したのは、関東一の霊能者と言われて居た女性で、「何れ 九代龍神の雄が訪ねて来るから。」と、私が現れる事を、予言をして、其れを立てたとの事なのである。
私は、其の霊能者「水落ミツ」のパートナーであった「中屋龍洲氏」に、其処に連れて行かれたのである。確かに、其の石碑の前で、其れを裏付ける反応が起きた。
榛名山の頂上に祀られている神は、大山祇神の娘「木花咲耶姫・このはなさくやひめ」で、榛名神社の御祭神は「火彦霊神・ほむすびのかみ」と「植山毘売神・はにやまひめのかみ」で、主祭神は「大山祇神」と「大物主神」と「木花咲耶姫神」である。
名前からだけでも、今回のプログラムに関係が有りそうだ。
「ほむすび」の名も「日結び」で「日枝だ」の「造形・デザイン・イメージ」に繋が有りそうだし、他の三方の主祭神も重要メンバーである。
日枝だとは、宇宙の意識の思考パタンが、木の生長システムパタンを利用している事になる。
仏教の曼荼羅は、チベットで考え出された物で、最初の曼荼羅の絵は、大きな一本の木の中央に、釈迦牟尼佛が座って瞑想をしている絵から始まり、次に左右に二仏が配置され、其の後、回りに仏の数が段々に増やされて、しまいには樹木の姿が消え、現在の曼荼羅と成っている。
だから、やはり最初は、木の構造を利用して出来た物なのだ。
チベット密教の曼荼羅は、人間の思考を拡げる為の方法として、木の構造をイメージに取り入れて、制作して出来た物なのである。
其れはまた、現実的にも、人間霊が樹木に憑依して、御神木とされる事にも深い関係が有り、日本の神社の境内に生えている木が、「神籬・ひもろぎ」とされる事にも関係が有る。
今朝のメッセージは、新しい国・御代を創造する為に、新しい「日枝だ」を組めと言う事だろう。
其れは、神が、新しい「稗田阿礼・ひえだのあれい・語り部」の登場を要求しているとの事かも知れない。
今朝は、其の新しい語り部に接触して来る人達が、数名映像に現れた。
始めの二人は、誰だかハッキリしないが、後の人は宍戸錠氏の息子さんの「開さん」と、歌手の「水前寺清子さん」だった。
新神国の伝達は、やはりテレビ放送無しでは無理の様である。
新神国とは、「新しい瑞穂の国造り」の事である。
天波博文氏と、1995年8月3日より13日まで、富士の山中湖で「瑞穂の祭り」を開催してから、今年の8月3日で11年と成る。
其の時も、8月3日に木花咲耶姫を祀る浅間神社の参詣から始まった。
今年の8月3日で、私の両親が屋久島に渡って来て、丁度判還暦の60年に成る。8月3日は、本来の屋久島の「山の神・ヤマノカンサアー」の祭りの日であったらしい。
愈々、屋久島の山の神が、本格的に活動する時節が到来したのであろう。
是は、私が存在して始まるのではなく、屋久島の山に、私が動かされて始まる事である。
だから、私には、何の責任も義務もないし、勿論、私の実力でもない事は明らかである。
屋久島は、地球のマグマに溶かされた岩石が、おにぎりの様に、単独で1400万年前に浮上して来た物である。
だから、屋久島は孤立した花崗岩の塊りなのだ。
日本列島の屋根と呼ばれている両アルプスは、インド半島がユウラシア大陸を突き上げて、ヒマラヤの峰を押し上げたのと同じく、伊豆半島が日本列島を突き上げて競り上がった物で、「堆積岩・粘板岩」で出来ているし、富士山も伊豆半島の圧力で噴出した溶岩で出来た物である。
だから、屋久島の様に、花崗岩だけの単独の塊で、海抜2000m山を有する島は、他には無いのではないだろうか。
其処のところに、今回の神の動きの要因があると考えらえる。
地球が生み出した「卵」、其れが屋久島の実体なのだろう。
屋久島は、水の惑星地球の子供として、誰にも納得できる水の島である。
私は更に、その屋久島の水の子として、生まれたのだ。だからこそ、木の内側を流れる樹液の中に侵入し、木の仕組みを映し出す事が出来るのである。
日本では、水・樹木・岩・それらが皆「水神・神籬・磐境」として、神の存在に欠かせない物と成っている。
それらが、屋久島には嫌と言う程存在している。
屋久島程、アニミズムの世界として相応しい島は、他に無いのではないだろうか。其の島に、生まれ育った私は、屋久島の申し子と言う事に成る。
私の人生とは何なのか、自分自身に其れが理解されて来るのは、是からかも知れない。
平成18年5月25日
礒邉自適
1 2 3 4 | 《前のページ |
次のページ》