このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2006/1/31
牝牛の鳴き声
18・1・31
今朝は、朝から、近所に飼われている牛舎の牝牛が、盛んに鳴いている声が聞こえていた。
其れは、牝牛が発情して、雄牛を呼んでいる声なのである。
だが、幾ら鳴いても、雄牛は町営の牧場の牛舎の中に、人口受精用の種牛が一頭だけ居るだけだから遣っては来ない。
それでも、生理上、雄牛を呼ぶ為に鳴かなければ成らないのだ。
現在は、人間に飼われている牛は、全部人口受精なので、本当に雄と交尾をして子供を産んでいる牝牛は居無い。
もう随分と、その遣り方で世代交代をしているので、其の内に交尾をするという遺伝子が、消えてしまうのではないかと、少し心配にも成って来る。
人間とは、自分の都合で、可哀想な事をするものである。
そんな事を想って居て、次の様なことを考えてしまった。
其れは、雄の存在は、雌が自分の内側で周期的に起きて来る、命の炎のエネルギーに煩わしく成り、其れを半減させる為に、自分の「いのち・DNA」の一部を切り離し、雄を造り出して、分離したのではないかと言う理である。
そうすれば、自分がバタバタしなくても、必要な時にだけ、鳴き声や、匂いの合図を送れば良いし、能力アップを図るには、暫らく雄同士を戦わせれば、強いいのち・DNAの方が勝ち残る事に成る。
他にも、餌は運んで来るし、巣造りは遣ってくれるし、中には子育てまで代ってくれる物までいる。
総てが、雌に取って都合の良い事ばかりである。
是は、雄が考え出した事ではなく、間違い無く、雌の方が考え出したシステムである。
現在は、其の牛や豚の雄の遣る役割を、人間が、全部代って遣っているのである。
人間の雄は、自分が人間の雄としての役割を果たしながら、家畜の雄の役割まで担ってしまっているのだ。
現在・いま、アメリカの牛肉が輸入出来ないのは、広い牧場に、雌牛と雄牛を一緒に放牧しているので、子牛の両親がどれで、誕生日がいつなのかも把握出来ないので、戸籍が作成できない事にも、原因が有るのだろう。
其の点、日本は、総ての牛が種付け日もハッキリしているし、誕生日も血統書も明確に成っている。
人間にとってみれば、都合の良い日本のシステムも、牛側にとってみれば、最悪の状態なのかも知れない。
其の点、大陸の牧場の牝牛は、発情するのを雄牛が傍で待っているので、雄を呼ぶ為に鳴く必要も無いだろう。
今朝は、アメリカやオーストラリアの人達では、考えそうも無いコトを考えてしまった。
それは、私が農家育ちで、自分でも、牛を数十頭飼っていたので、そんな理屈を考えてしまうのである。
其れが、私の意識の特徴であると云えば、謂えるのかもしれない。
平成18年1月31日
礒邉自適
2006/1/31
「カギかっこ」
18・1・31
今朝のメッセージは、私の書く文章に、前文は見えないが、終わりの所に、 。」(かぎかっこ)が付いていた。
其れは、もう私の文書に、昔の人達の霊魂の概念が、介入出来ない事を知らせて来たのだろう。
私のメッセージは、自分で書き始めた訳ではなく、22年前に4311体の霊魂が肉体を借りに来て、其の「神霊の思頼・みたまのふゆ」に応じた結果として、始まったものである。
其れは、私の脳に映されて来る画像や文字、其れに聴こえる言葉等を、私が通訳して、紙に書き出し始めた物である。
だから、私は、書いてしまった後は、殆ど覚えていない。其れは、私が考えて書いた物ではないからだ。
よく書いた事に関して、質問を受けたりするのだが、相手に「エッ 自適さんは 数日前に自分が書いた事を もう忘れているのですか。」と、その方達が驚いている。
其れは、私が考え出した物ではないから、直ぐに忘れてしまっても、仕方が無いのだ。
今朝は、もう過去の人達の憶いが果たされ、言い分が無く成ったとの事であろう。
其れは、「ヤジロウどん」が長年の鬱積が取れ、カメラの練習を始めた事でも分かる。
もう天下を取ろうとか、他人を救わなければ成らないとか、そんな人間感情の出る幕は、無いのである。
新しい未来社会は、皆が自分の生命に対して、真剣に取り組んで行く時代である。
自分の修行が済んでもいないのに、他人を救おうとか、説法しようとかするのは、昔の勘違いをしたままの霊が、憑依しているからなのである。
日本の惟神の道は、禊ぎ祓いの儀式だけが大事とされている。
其れは、過去の情報・因縁が憑依していると、未来に向かって事が進まないからである。
神・宇宙は、未来に向かって転がだけしか、方向性を有していない。
宇宙・神には、過去の世界は無いのである。
人間が「有る。」と錯覚を起こすのは、アカシックレコードに記憶されているデーターを再現して、過去の映像を観る事で「過去が在る」と、勘違いをしているだけなのだ。
其れは、今でも、テレビに「美空ひばり」や「石原裕次郎」が、元気な姿で登場して、歌を唄って居るのと、同じ理屈である。
例え、神社に行って神霊が現れても、昔の世界が、其処に存在する訳ではなく、昔の人の霊だけが、今の世まで、存在を続けているだけなのだ。
肉体が無ければ、飲食もしないで良いし、風邪をひく事も無いので、永遠に、其の時間帯に情報・因縁として存在出来るのである。
22年前、私に憑依して来た霊魂は4311体であり、その後、昭和天皇や美濃部知事なども亡くなった時に、私に飛び込んで来た。
私は、其れ等の霊魂の「神霊の思頼」を引き受け、今日まで、彼等に付き合って来た。そして、彼等の残念を全部解いたのだ。
私の父礒邉勲や、無庵師匠は、其の理を知っていたので、神社やお寺には、決して子供を連れて行ったりはしなかった。
其れは、父や師が、自分の魂しいに自信を持っており、祭られている霊に頼む事柄が、一切無かったからである。
其の二人に育てられた私は、霊魂の言う事は聴いて遣ったが、彼等の憶いに自分の意識を預ける事をしなかった。
だから、今まで彼等に付き合って、彼らの想いやカルマの何処に、原因が在ったのかが良く理解出来た。
だから、私は、彼等の長所も解かるが、短所も能く観えるのである。
其れが、能く見得るので、彼等と同じ鉄を、踏まない様にしていられるのである。
普通の人は、霊が憑依すれば、守護霊が付いたと言って、喜んで祭るが、私はそうではない。
どんなに、昔業績が在った人でも、現在の世の中に、其の人の手法が、其の侭通用する訳が無いのだ。
だから、昔の霊魂に、自分の魂しいを預けている人間の言う事を、疑わずに聞いて、直ぐに行動する人は、未来に繋がる事が、出来ないのだ。
私は、父や師の御陰で、皆と同じ罠に掛からないで、「神霊の思頼」を消化して来たのである。
今朝のメッセージは、昔の人達が、漸く成仏して、私の邪魔をしないと、宣言して来たのだろう。
今朝は、此のメッセージの前に、不思議な映像を見せられた。
其れは、空に黒い雷雲が現れ、私を追いかけて来るのである。
私は必死に逃げたのだが、その雲から降りて来た人に、捕まってしまった。
そして、その人は、私を、地球に住んでいる、杖を持った男性に預けて、帰って行った。
私は、其の地球人の目を盗んで、山の中に逃げ込んだ。
しかし、どんなに上手く逃げても、直ぐに、発見されてしまうのである。
しまいには、私があんまり逃げ回るので、其の男性が、手に持っている杖で、私の胸をドンと突いた。
私が、それで観念した処で、其の場面が変わった。
其の意味は、神が、地球に新しい使命を与えた子供達を降ろしていて、日本に降ろされた子供の名は「陽介」と言う名前である事である。
朝起きてから、事務所で「陽介」の文字を調べると、何と「介」は、鎧の中に入った人の形の象形で、他の動きから 助ける。くぎる。の意味で、今朝のカギかっこ 。」と、同じ意味である事が判った。
「陽」は、岡の上に登る太陽の事である。
其の、太陽の意志を「助ける。他から区別する。」との意味を持つ名前の子供が、神の使いとして、日本に存在している事になる。
私は、其の子供に心当りが有るが、其れを言う事は出来ないのは、読者の皆様も御理解戴けるだろう。
何はともあれ、神の計画が、順調に進んでいる事だけは、ハッキリして来た。
今日は、旧暦の正月3日である。
今年は、新年から目出度い事が、知らされて来た様である。
平成18年1月31日
礒邉自適
2006/1/30
自立
18・1・30
昨夜、床に着くと「正伝 矢追日聖」の言葉が頭に出て来た。
その意味は、私の過去の文章15年4月7日に「正傳 矢追日聖」の題でブログに載せてあるので、其方を読んで貰えば良いのだが、矢追日聖氏がいつも謂っていたのは、「私が遣っている事は、霊界に存在する 過去の霊魂の成仏を図る事である。
何故なら、此の世が騒がしいのは、人間と、神・かみ・上・源・宇宙の間に、様々な霊が存在するので、其れが邪魔をして 人間が 神と直結出来ないのだ。だから 私は、霊界にいる者達が全部 成仏・因縁解き出来れば、人間と神が直結する世の中に成る。」と、言うものである。
「正傳 矢追日聖」http://moon.ap.teacup.com/20060403/133.html
私は、昨夜寝る前に、テレビで日曜洋画劇場の中国映画「英雄・ヒーロー」を観て、文字・書の意味する世界を気にしたので、文字と政治の世界にチャンネルしたのだろう。
15年4月7日に、私が居た場所は、吉田松陰の松下村塾の地「萩市」である。其の、吉田松陰に因縁の地で、何故矢追日聖の事を正しく伝えろと告げられたのか。
其れは、吉田松陰が「意・こころ」半ばで、死刑に遭ったので、其の憶いが矢追日聖の世界と繋がっているからだろうか。
其れに、4月7日は、日本の国名が付けられた戦艦「大和」が、屋久島の西南沖に沈んだ日でもあり、釈迦牟尼佛の生誕の前日でもある。
私は昨日、数え年60歳の還暦を迎えたので、今朝のメッセージは還暦の第一日目のメッセージと言う事に成る。
其のテーマは、「天下をどうするか」であった。
私は昨夜、人間社会だけが、文字を持ち、其れでルールを決めている。其の、言葉や文字が乱れ、現在の世の中の騒乱を生み出している事を思いながら、眠りに就いた。
そして、入り込んで行った世界は、脳と現象界の繋がりの世界である。
其の入り口には、もう霊界人の存在は無く、女神が、三次元世界が永続出来る様に、必死で願う悲痛な声だけが、脳裏の奥底に聴こえただけであった。
そして、私の、現象界の肉体が浮き上がらない様に、過去の情報が、私の両足を捕まえていたのである。
人類や、他の生命が、此の世に存在出来ているのは、過去の生命情報(DNA・遺伝子)が存在するからである。
それは、釈迦牟尼佛が「久遠元初・久遠実成」と謂った世界であり、「一大事因縁」の世界である。
其の過去の因縁が断ち切れたトキ、此の世は「空」に成ってしまうのである。其の、過去に繋がる一番の源の世界が、人間にとっては故郷である。
人間の存在は、138億年前に宇宙誕生と言う第一の因縁が生じ、第二に38億年前に生命としての因縁が生じ、第三に650万年前頃に人類と成り、5〜10万年程前に言葉を使い出し、現在にまで繋がる、新しい因縁を創りだしている。
そして、7000年程前から、社会を維持する為に、文字を使い始め、新しい葛藤が生まれているのである。
其の、「魂・いのち」の流れの歴史は、地球に記憶され、人間の脳のシステムに、残らず繋がっているのである。
それ等を原因として、今朝の私の脳は、其々の因縁・分野に分かれて、存在を確認し始めた。
脳内の情報量と、働きの区分が、画面の画像として映り出し、其の判別が出来てきたのである。
過去の因縁が、大量に詰まっているのが左脳の上で、右側の上には其れに対する「反抗・反省・後悔」が何分の一か在り、中心の少し奥には「炎・カロリー・感情」の因縁が在り、左側の下には「技術・わざ・ノウハウ」等の因縁が澤山詰まっている。
右側の下には、何故か、因縁が少ししか無い様であった。
其の様子から、私の脳の「因縁・情報」の在り様が見えて来た。
其れは、私が、殆ど机に座った事が無く、現場人間だと言う事である。
そして、現場人間でも、典型的な右利きで、左手で出来る事があまりないのだ。
私が苦手なのは、人の名前や電話番号の様に、文字や数字、其れに物品の名など、動きや変化が伴わない、決った名の記号を、覚えられない事である。
だから、ギターやピアノ等の演奏で、楽譜を見ないで弾く人は、私には皆天才に見えてしまうのである。
私も、ピアノやギターや笛等の、左手の指を使う作業を行っていれば、右側の下の因縁・情報回路も鍛えられていたのかも知れないのだ。
しかし、其の部分が開発され、其の部分の能力が、私に備わっていれば、今の様な、自由な頭の私には、成れなかったであろう。
其の点で言えば、私は欠陥人間なのである。
そう自覚できれば、何かを遣る時には、左手が器用に使える人で、その道の達人と組めば、良いだけである。
人間の、脳と意識の成り立ちは、現場を撮影する為のカメラと、映写機のレンズを通して映像が写される、垂幕の仕組みの関係だと考えれば分かりやすい。
幻灯機の世界が、上下左右が反対に投射される様に、五器官の感覚と、脳の関係が反転しているからだと想われる。
其の理が、古代の人達も解かっていたので、神社や、イシス女神の頭に、鏡を置いたのであろう。
今朝の世界は、昨日までの遺伝子・いのちの延長線上にあり、遺伝子の四点世界(塩基配列)は神の技の世界である理・ことが納得出来るものである。
其れは、私が22年間、霊界人の「神霊の思頼・みたまのふゆ」を受け、占領されていた自分の脳を、霊人達から取り戻せた事を意味している。
漸く私の脳も、他人に誘われて、横道に逸れ、道草を食っていた事から、本来の自分の道に還る事が出来たのである。
私は、本来の36億年の長さを持つ「いのち」の本通りに、ようやく復帰することが出来るのだ。
其れは、吉田松陰や矢追日聖や、無庵師匠の希望を繋いで行く事でもある。
もはや、脳が活動する時に出す電磁波と、パソコンの情報に使われる電磁波とは、同じチャンネル帯と成った。
後は、其れを、自分の脳が映像化出来るかどうかである。
本来の「神・生命・いのち」の世界には、言葉も文字も無い。
有るのは、「生命・宇宙・自然」に共通する画像だけである。
其の画像が、どう分析出来るかは、其れを読み取る方のソフトの力量だけである。
言葉で、何か云って来るのは、たかだか数千年前の、人格霊に過ぎない。
そんなモノに付き合っていたら、永遠に、自分の脳の仕組みにまで、還り着く事は出来ないのだ。
自分の、脳味噌の味が確かめられない内には、女房の味噌汁の味や、料理の腕前も判断する事は出来ないだろう。
何故なら、コンビニやスーパーの店頭には、宇宙や、地球や、自然の情報は、並べられていないからである。
今朝、悲鳴を上げながら、私に懇願して来た女神の声は、数億年前の私し自身を産み出した、母親からの物だったのかも知れないと、想われて来た。
自分の神様は、空の上に居るのではなく、自分の内側の「奥の院」に住んでいるのである。
女神の声が、虫の息に聴こえたのは、もう「いのち・生命」が、限界を迎えているからだろうか。
其の割には、自分の心臓は其れ程ドキドキしていないなあ。
中国の漢字では、「こころ・心」は心臓に在ると考えているのに、沖縄ではどうして気持ちを「キモチ・肝霊・きも霊」と、肝臓に在ると言うのだろうか。
私は、心臓に毛も生えていないし、肝っ球もあまり大きくないから、外側に意識が向かないで、内側へ内側へと「肝霊・きもち」が向かうのだろうか。
心臓が強ければ、気持ちは外側に向かい、他人の心臓を生きたまま取り出して、太陽に捧げたりしようとするのかも知れない。
そう言えば、今朝は最後に、右側の奥の方で「過不足無く」と、声がしたのを思いだした。
其れは、男性の声の様だったので、やはり理性脳は、男性側のDNAに受け継がれている様である。
男性が意見を述べたがる事と、女性が直ぐ泣きべそをかくのは、以外と歴史が古い様である。
内蔵と、脳と、意識の関係性を探って行けば、まだまだ「いのち・生命」の時間の奥は深い。其れを探って行けば、本来の自分の意識が、立ち現れて来るのだろうか。
是から先の世界は、大体に於いて創造が付く。
腹が立つとか、座るとか、自分の状態をイライラするとか、他人にメソメソ泣くなとか、人類が擬声音を使い出したトキまで、遡って終了するのだろう。
其処には、神は存在せず、自分の身体の「気分・きわけ」を楽器として、表現するだけの存在があるだけなのだ。
平成18年1月30日
礒邉自適
2006/1/29
天津金木
18・1・29
本日は、私の59歳の誕生日である。
昼食の後、少し眠く成ってベッドに入った。すると、易占いに使う様な木の棒が現れて、一本から数が増えながら、上に何段も組み上がって行くのが、一組だけ見えた。其れだけで、他には何の説明も無かった。
朝の映像は、DNAのいのちのシステムだったが、昼の映像は、物の世界である三次元を動かすシステムの様に感じた。
以前、天界を動かすのには、「天津金木・あまつかなぎ」と言う、易の世界が有ると聞いた事がある。
天津金木とは、易に使う為の、特別に決められた大きさの木片(算木)を使い、天界の動きを掴み、人間の行動を予測する様なものである。
其れは、生命のシステムが、DNAの組みあがりで出来ている様に、物の世界にも、ある決まりや法則が有るとの理・ことではないだろうか。
其れを、人為で探ったり、働き掛けたりするのが「易・えき」の世界なのであろう。
しかし今朝は、何も無い白い空間に、黒い棒が一から組み上がる場面だったので、全てがゼロから組み上がるとの理ではないだろうか。
そうであれば、私も少し、易の事を知らなければならない。
其の、極秘が理解出来れば、神界との通信がし易く成り、計画も立て易く成ると想われる。
現在の易学は、中国で約3000年前に開発されたもので、文字より少し遅れて出来ているので、文字の概念が土台に成って、其の上に、思考の使い方として産み出されたものであると想われる。
其れは、チベットのマンダラ図と同じく、人間の思考を組む時の補助的役割をするものだろう。
人間は、言葉を創り出してから、自分の脳が画き出す画像を言葉に置き換え、更に文字が開発されてからは、言葉を文字に拠って記録する様に成った。
そして、次に、現象界に対して具体的に動き出す為に、易の世界を考え出したのである。
其れ等の、人間が生み出した世界が、霊界にも情報として蓄えられ、人間と神の間に、特別な関係が創られたのだ。
しかし、其れ等も、人間が自分のエゴの為だけに使用する様に成れば、其の効力を失うであろう。
だから、易の世界では、正しい気持ちで取り扱う事が基本と成っている。
天界の、意志にそぐわない使い方をすれば、神霊は其の易の世界から手を引いてしまうだろう。
今日、私に出て来た金木は、私に、物ごとをゼロから組み上げろとの事だと想われる。
だが、私には、其の基本的な仕組みも解かってはいない。
是から少し、興味を持って取り組んで見たいと想う。
しかし、私が割り箸を何本か持って、或るコトをすると、机の上に置いて有る磁石の針が、180度反転したりするので、案外早く、その極秘を習得するかも知れない。
この様な件を、私が文章にするのは、初めての事である。其の点に於いても、何か、三次元的な動きが起きて来る事だけは理解される。
どっち道、誰かが私に憑いていて、其れ等の事を見せて来ているのだろうから、私はあまり気にしないで、居た方が良いだろう。
取り敢えず、そんなモノが出て来た事だけを、忘れない内に、記録して於くだけである。
59歳誕生日 平成18年1月29日
礒邉自適
2006/1/29
4494
18・1・29
本日1月29日は、旧暦の元旦である。
明治維新に拠り、旧暦から現在の暦に換わった年も、旧暦元旦が1月29日だったらしい。そして、旧暦元旦に行われていた祈年祭が、現在の2月11日の紀元節(名前を替えて建国記念日)である。そして、今年が建国2666年と数えられている。
其の日に、私は数え年満59歳を迎える事に成った。
そんな訳で、今日は何が起きるだろうかと意っていたら、夜中にいきなり身体全身に、霊動が起きて来た。
其れは、全身の細胞60兆個が、総て振動を始めたかの様な感じである。
昨年3月10日に、総ての情報が、自分の体に繋がって来る体験はしたが、今朝の体験は、外側から、何かが遣って来るのではなく、内側の全細胞の電子が、超高速で回転を始めた様な、感じがする現象である。
其れは、宇宙の誕生のシステムが、自分の内側で、再編される様な感覚のものだ。
私は20年前に、高知の桂浜で、シリウス星から銀色のエネルギーが流れ込んで来て、身体が霊動を起こした事があったが、其の時の現象とも、今回の感覚は違っていて、初めての体験であった。
其れが、暫らく続いた後「慎重のトキ」と言葉があり、更に「四点の神業・かみわざ」との言葉があった。
そして映像が映り、清められた部屋の、床の間の飾り棚の上に、右側にはお湯の入った、急須と湯飲み茶碗が一組有り、左側には、重ねられた布巾の上に、茶壷が置かれていた。
それは、人間が誰も居なくて、静寂そのものの空間である。
そして、明け方「4494」の数字が映り、今朝のメッセージは終わった。
今朝の、メッセージと体験は、60年間の私の「人生・旅・運命・定め・使命・みこと・やくめ」其れ等の名を、総て並べて、全部を足したモノの「答え、結末・成果・終演」の様なモノなのかも知れない。
今朝の、私の体験や、謎掛けの言葉の問答は、図書館に行って調べても、載っていないのではないだろうか。
私を捜し出して、此の神の世界に送り込んだ無庵師匠は、図書館に在る文献は全部読んでから、私を捜しに来たと謂って居た。
書物に在れば、其れなりの質問が、私に有ったと思うのだが、其れが無かったと言う事は、未だ、書物には載っていなくて、人間の概念の外に在る、世界なのかも知れない。
宇宙が、進化を目的としており、其の意志の最先端の現れが、人間の存在であれば、是までに現象化していない世界が、事象の表面に、現象化して来るのは当然の事であろう。
22年前の11月21〜22日に掛けて、伊勢外宮参拝の折に、神の姿が現れ「過去に8回失敗した。今回が最後のチャンスだ」と告げたのは、此処から「サキ・先・前・未来」の世界の事ではないのだろうか。
「定着した画像」http://green.ap.teacup.com/20060818/770.html
是までの、私の体験や認識は、過去に、何等かのデーターが残っている物であろう。
此処から先、未来への事象の壁を抜ける事が、メビウスの輪の世界の意味であり、次元の向うに抜けないかぎり、答えは見付からないのだろうか。
私は、個人的には、事象の鏡を向こう側に抜け出て、再び人々を迎える為に、此方側に引き返して来た。
そして、向こう側のチャンネルを、こちら側に設置し情報を入力し続けて来た。
其れも、初めの頃は、入力してから現象化するまで、三年ほど掛かっていたが、近頃では、数ヶ月で反応が現れる様に成って来ている。
しかし、是から、多くの人達が、次元の壁を越える為には、人間一人の肉体の容量では、質量がもたない。
私の身体は、其の振動に耐えかねないで、崩壊してしまうだろう。
私は昨年6月から、パソコンのシステムに霊界のチャンネルを設定するのに、不眠不休の様な状態が続き、頭髪が大量に抜け落ち、宿舎と事務所の中は、抜けた髪の毛だらけと成った。
其の努力で、漸く、未来の扉を開ける準備が出来たのであろう。
其れも、悦子さんや、孔紀氏や、大山氏の存在や、本人達は理解していないが、私の取り巻きの人達の、御陰様である。
今朝は「慎重のトキ」と有ったし、お茶の道具が映って来たので、余り無理をしないで、静寂の中に身を置けば良いのだろうが、「四点の神業」の意味が解らない。
其の事に付いて、私は、色々と考えて見るのだが、潜在意識からの「OK」は未だ出ない。
1)パソコンの存在 A文字の存在 Bデジカメの存在 C携帯電話
1)物質 A文字・言葉 B霊界 C人間の存在
1)太陽 A月 B地球 C人間
色々組み合わせては見るのだが、背中が喜ばないのである。
其れとも、遺伝子のA=アデニン・T=チミン・G=グアニン・C=シトシンの四点の事だろうか。多分、是が、正解の様な気もする。
髪の毛は、「血液その物」とも云われている。
髪の毛が、抜け落ちると言う事は、其れだけ血液循環に、負担が掛かっているとの事でもある。
血液と、細胞と、遺伝子と、神のチャンネル振動波の関係を解こうとすれば、残りの髪の毛が、無くなりそうなので止める。
4494の数字には こころ当りがある。
其れは、1111 ・ 4444 ・ 9999 の「123」の二乗「149」が、現象界に立ち上がって来た証だろう。
其れは、「4494」は右から二番目の世界が極まった。完成したとの意味で、後残りの世界「44・4」が完成すれば、良いとの理・ことだと想われる。
それは、既に、基礎の部分「1111」は、二次元として立ち上がったとの事ではないだろうか。
其れは、其れで良いのだが、今朝の振動の後遺症か、身体がフラフラする。
どうやら自立神経が、限界を迎えている様である。
もう好い加減で、此の作業を止めさせて欲しいものだ。
平成18年1月29日
礒邉自適
2006/1/28
DNAの道筋
18・1・28
今日は、満58歳の最後の日である。どんな内容のメッセージが来るかと想って居たら、其れらしき内容のモノが出て来た。
其れは、DNAの流れと言うか「拡散・スサノオ」の分裂の過程とでも、言えるだろうか。
始めに、放射線状に多角的に拡がって行くDNAの小さな二重螺旋構造が、画面一面に拡がっているのが視えた。其れを、意識が確認すると、今度は上下方向に、上の端と下の端が見えない四列のDNAの配列が見えた。
其の縦の配列は、左の二列が白っぽい色をしており、右側の二列が少し黒い感じに見えた。
今朝のメッセージは、其の他には何も無い。
其れは、此の情報が、余程大事な理だから、私が忘れては成らないと言う事であろう。
今朝のメッセージを、私が是まで築いて来た認識レベルで考察すれば、始めの方は「DNA・いのち」の全体的な広がりを現し、次の縦の四本の配列は、自分自身・個の「DNA・いのち」の「流れ・繋がり」を意味していると考えられる。
其れは、どちらも始まりは同じ処に在り、いのちの拡がりの元も、現在の自分のDNAの元も、38億年の時間を抱えているモノ・世界である理が理解出来る。
其れ等の事を考えると、神の意識は38億年の歴史の伝説を抱え込んでいる事になる。旧約聖書の中に「神は 自分に似せて 粘土で 最初のアダムを創った」と有るのは、「神は 始めに、自分が粘土(珪素とアルミの化合物の泥)の中で意識の本と成った」と、訳しても良いのではないだろうか。
其れも、神が云ったのではなく、3000年くらい前の誰かが云い出した言・コトである。
私達人間は、此の世に生まれた時は、何も余計な情報は持ってはいない。
生まれた後、其の身近な社会環境の中で生きて行く為に、都合の良い事だけを受け入れて育って来たのである。其れは、生きる社会が大型に成れば成る程、個人的な都合が消されて行くことでもある。
大きな社会に成れば成る程、指令系統が強く成り、権力体制の下、個人の情報は意識の下に潜り込んでしまう。
特に、現代社会の教育は、親が自分の子供を教育出来なく成っており、国民全体が同じ情報下に押し込まれ、自由な意識が消去される社会体制と成っている。
是は、いつ頃からの体制であるのだろうか。
私の調査に拠れば、天皇家の新嘗祭や、神社でのお祓い等は、其の流れとは別の処にある。特に、日本の神話の「神名」は、人間神ではなく「宇宙の働き」を現す為の、科学用語である。
「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の禊ぎに拠って生まれた三神は、「太陽の働き」と、「月のリズム」と、「水の惑星 地球の生命」を言い表しているに過ぎない。
特に、「須佐之男尊・すさのおのみこと」の「須佐の男・すさのお」とは「苆の尾・穂」で、苆の言葉は土壁のひび割れを防ぐ為に、草や藁を刻んで入れる物の意味であり、神社でお祓いに使う和紙を切り刻んだ物「ヌサ・幣」と同じ物言いである。
切り刻まれた形で、広がりを持つ物が、動物の尾・オと、植物の穂・ホである。
須佐之男を、植物的に物言えば「苆の穂」である。
「すさのおのみこと」は何故、海原を治めるのか、其れは水の世界が命の世界だからである。
其れに、「太陽」は、光りと熱をもたらし、意識を司り、「月」は、海水を動かし生理を司る物である。其の三つの世界が、地球の生命を育んでいるのである。
其の「理・コトワリ・事割・別け」が、教育の最前線になければ成らないのである。其の理を訓えないで、憲法や法律を幾ら創り出しても、抜け穴の数を増やすだけである。
「伊邪那美命・いざなみのみこと」と、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の魂しいの世界に「イザナウ・誘綯え」ば、意識の開発は簡単なのである。其れを行わないで、道理に外れた余計な理屈だけ詰め込むので、「糸・意図」が絡み、柵・シガラミが増えて、どうしょうもなく成り、「解脱者・ブツダ(ホトケ・解けた者)」を欲求する様に成るのである。
伊勢神宮の外宮の祭神は「豊受」であるが「トヨウケ」とは、食べ物の神で、那智熊野本宮の祭神「家津美御子・ケツミノミコ」と同じ神で、出雲の熊野大社の別御霊・ワケミタマである。
越前一の宮である氣比神社の「祭神伊奢沙別命・いささわけのみこと」も「御食津神・みけつかみ」で「筒飯大神・けひのおおかみ・筒に詰めた飯(めし・いい)の神」である。
出雲の、熊野大社の神名は「神祖熊野大神櫛御氣の命・かむろぎ くまのおおかみ くしみけぬのみこと」は、神霊の源に通じるのは 食べ物の気である の意味であり、須佐之男尊の別名とされている。
何故、天皇家が毎年新嘗の儀式を行い、代替わりのとき大嘗祭を行うのか、其れは、其の伝統を受け継ぐ役目だからである。
皇族の座に身を置く者が、此の理を自覚せねば、日本の神霊・御霊の世界が治まる理・わけが無いのである。
何故、日本では「飯・いい・稲」が神なのか、其れは穀物の胚芽にこそ「DNA・いのち」の鎖が納まっているからである。
4000年前の中国の漢字にも「謂」が有り、謂は「言+肉+米」の組み合わせで「胃袋の中に有る穀物が 言って来る」の意味である。
現代社会は、機械化が進み「白米」や「メリケンコ(アメリカ小麦粉・パン)」には、胚芽が全然含まれていない。
其れは、澱粉(カロリー・燃料)しか食べないで、胚芽のDNA(情報・本体)を全部棄てている事に成るのである。
私は、無庵師匠の指導を受けてからは、22年間食べ物に一番気を使って来た。其れが、今朝の「DNA・いのち」のメッセージに繋がって来ているのだ。
古代社会には、機械が無いので、穀物の胚芽が取り除かれる事無く食されていたのである。其の生活が、人間の無意識の安定を支えて来たのだ。
そして、古代社会では極当たり前であった一番大事な理が、現代社会で行われている儀式にも継続されているのにも関わらず、人々の意識からは其の理が忘れ去られてしまったのである。
其の結果が、現在社会の意識の乱れを醸し出しているのだ。
出雲大社は、昔は「杵築(きつき)大社」で、餅を搗く神社の意味である。
搗いた餅を「熊野大社」に納めるので、熊野の神の別命は「保食神・受餅の神・ウケモチの神」と呼ぶのである。他にも、火を熾す役目の「神魂神社・かもす」や、水を汲む「真名井神社」も存在する。
出雲地方に伝わっていた伝統が、「饒速日命・にぎはやひのみこと」の働きで中央に拡がって行ったのである。其れが、縄文文化を追い遣ったのは、又、別の問題であるので此処では述べない。
日本人が、何故、正月に鏡餅を神棚に飾るのか、其れは此の様な伝統が守り伝えられて来た結果である。鏡餅は、ただ飾れば善いと言う物ではないのである。学校や教育制度が無い時代には、それらの儀式こそ、教育制度の代わりだったのである。
其の一番大事な理が、家庭から消え、社会から消え、学校教育に含まれない事に、現代社会の無秩序があるのだ。
「天照」「月読み」「苆の尾・すさのお」の神名が、国語・社会・理科の教育に取り上げられる様に成れば、総ての日本の産土神は元の形に復活するだろう。そうなれば、私の役目も解かれ自由の身と成るのだが、其れはいつに成るのだろうか。
其れは、其れとして、私の七分裂の「DAN・いのち・子供」の流れは、みな健在であろうか・・・
平成18年1月28日
礒邉自適
2006/1/27
人間は何故走るのか
18・1・27
今朝の映像では、私自身も、マラソン・ランナーの中に居て、皆と一緒に走っていた。
昨日、昼飯の後、急に眠く成ったので昼寝をすると、元気な男性が三名ウエットスーツを着て、トライアスロンの選手の様に走って来るのが映った。
二日続けて、人間が走る夢を視たのは、私が三日続けて「鰹・カツオ」の刺身を食べた所為かも知れない。
海の回遊魚は、泳いでいないと酸欠に成って死んでしまうらしい。
絶えず泳ぎながら、口から鰓・エラの方に海水を送り込んで、呼吸をしているのである。
私は、食べた物の細胞の記憶が、意識に、多分に反応を起すので、刺身で食べた鰹のDNAの情報が取り込まれて、意識に影響を与えたのだろう。
私の父親が、私に教訓として残した三つの理の一つに、「皆が 走ったから 自分も走ったのだ。との、言い訳をするな。」と謂うのがある。
人間は、自己保存の本能が在るので、どうしても自分を守る為に、自分の責任を、他人に転換しようとする。
今回も、ホリエモン騒動で、武部代議士が、其の典型的な振る舞いをして見せている。武部代議士は、良い歳をして、未だに大人に成り切っていないのだ。
今朝は、走る事自体に目的が在って、走っている訳ではなく、皆が、走る為だけに往復の道を走っているのである。
走って、一番に成る事が目的の人は、私達が話をしながら、往路の中程に差し掛かった時には、もう復路を引き返して来たので、スピード感が全然違うのである。
私は、明後日で、数え年で満60歳に成る。
そんな私が、現実にマラソンに出て走る訳は無いので、どうして走る霊夢を視るのかが解からない。
マラソンの霊夢の前には、川を渡るのに、橋が壊れているので、船で渡っていると、上流のダムが決壊したのか、大量の水が津波の様に流れて来たので、慌てて岸に上がり高台に非難した。
其の霊夢は、地震で橋が壊れ、更に、上流のダムが決壊して、下流の町が洪水に遭うとの知らせであろうか。
そんな事を考えていると、今回のライブドアの事件は、1月17日が発端なのを思いだした。
1月17日は、阪神大震災から丸10年目であり、其の前の年には、同じ日にロス・アンジェルスの大地震があり、湾岸戦争が始まったのも1月17日である。
其れに、私の自適塾の電話が着いたのも、昨年1月17日である。
其れを、不思議に想っていると、「117」の数字は「いいな・良いな」と読めることが解かった。
其れは、神からの「始めても 良いな。」との、催促の信号とも、受け取れないこともない。
地震は、天災であるけれども、戦争や電話を引くことは人為である。
其れなのに、そんな事まで、天・神に管理されているのであれば、人間自身の意識は無い事になる。
其れが、神の存在の真実ならば、人間自身の努力は、一体何なのかと想われて来る。
人間は、一体何の為に努力をし、走り続けて来たのか、其の意味さえ可笑しくなって来る。
「人間は 何故 走り続けるのか。」其の事に疑問を持てば、対策としては座って動かない事である。
其れが、座禅の世界であり、釈迦牟尼佛や、老子の訓えに従う事である。
釈迦牟尼佛や、老子が生きた時代、以前にまで遡れば、漢字の「寺・ジ・てら」を考え出した人間が在る。
寺の字は「止+寸」の組み合わせで、「止・とまる+寸・はかる」で、意味は「出発地点で 右足が動き出そうとしているのだが、其処で立ち止まり、右手の脈を左手の親指で測る。」である。
其の様に、絶えず自分の息遣いや、心臓の鼓動を計りながら生活している人の、教えの巻物を置く建物が「寺」であり、其の様な生活態度人間が、勤めている建物が、政府の「府(广+付+貝)」の漢字の意味である。
それらの漢字の概念は、走る世界とは、全く逆の処に存在する。
疑うの「疑・ギ」漢字は、人が頭を上げ、思いを凝らして、じっと立ち尽くす形の、象形文字から始まったものである。
何も疑いを持たず、他人が走るから、自分も走る。他人が、株を買うから、自分も買う。そして、他人が売るから、自分も慌てて売る。
此処数日のニュースは、そんな事ばかりを取り扱っている。
其れは、日本人の意識が、自分のアイデンティティを失った証拠でもある。
そうではない人達も、居るには居るのだが、人間社会は何時の時代も、自分を見失った人達の、激しい動揺で揺れ動いて来た。
其れが、歴史から学べる教訓なのだが、未だに、其れが生かされてはいないのである。
今回は、人類の歴史に取って、最大の山場が来る。
其の衝撃を、出来るだけ抑えて通過させられるかは、どれだけの数の人間が、動揺する事無く過ごすかである。
「他人が走り出したから 自分も同じ方向に走る。」と謂うのだけは、止めなければならない。其れが、117の数霊の意味であろう。
他人が走り出しても、自分だけは「疑」の姿勢を崩しては成らないのだ。
私が、今朝、マラソンに参加する事に成ったのは、町の新聞配達所に張り出されているポスターを見たからである。
其れは、新聞等のマスコミ情報に、踊らされるなとの意味合いであろう。
神は、漸く、全世界の情報網を、衛星放送や携帯電話の開発で、造り上げて来たのである。
世界全体が、共通のチャンネルを有した時に、大禊の幕は切って落とされるのだ。
今朝の私へのメッセージは、其の事の始まりを、忠告するモノであろう。
しかし、其れは、私自身に当てたものでは無い。
私自身は、もう完璧な状態の処に位置している。
自動的な核戦争以外なら、矢でも鉄砲でも持って来いである。
何故なら、私は、全てを棄て去って居るので、護るべき物が一切無いし、自然豊かな屋久島に住み、生きる為の道具と技術は、全て獲得しているからである。
私は、唯一安全な処に居て、椅子に深く座り、自分の呼吸を計っているだけである。
其処には、森羅万象の移り変り行く姿が観えているだけなのだ。
私は、小学4年生の時に、父親に諭されてからは、人と同じコースを走らない様に努めて来た。其れは、今後も変わらない。
無庵師匠が、何故、私を認めたか、其れは、私がオリジナルで生きて来たからである
引き金を、何時・誰が・何処で・引くのか、引かされるのかは、未だ判らない。
平成18年1月27日
礒邉自適
2006/1/27
此の 世界は 何のか
18・1・27
私は若い時から、大きな柱の立っている神殿の管理をしている夢を時々見て居た。
其れは、屋久島には無いし、他で私が見た事も無い建物である。どうして、そんな夢を見るのだろうかと、長年不思議に思って居た。しかし此処の処に来て、漸く其の原因が解かって来た。
其れは、近頃云われている人間には前世が有り、其の魂しいが生まれ変わって来るのだと言う説が有るので、其れが現実として現われて来ている様な気がして来たからである。
私は22年前、師の指導の下、生活を一変させた。そして、まるで異次元の様な世界を生きて来た。其の原因の始まりは、大嘗祭の儀式で起きる事が私に起きて、杖を持たされた事である。其れから、不思議な事が次々に起こり出し、今日に至っている。
そして近頃、虎の意識が自分の意識に住んでいることも実感されるし、自分の身体には、深い所に蛇の記憶が在る事も理解出来て来た。
其れは、何故、約4200年前のエジプトの「王・ファラオ」の力と威厳の象徴がスフィンクスなのかも納得出来て来たし、3800年前頃、太陽神シャマシュからハンムラピが、ハンムラピ法典を授かる場面が、何故玄武岩に彫刻されているのかも、納得がいくようにも成って来た。
古代では、私に起きた様々な事は当たり前の事であり、現在の様な貨幣経済が起きる迄は、神々の現われ方が政治の中心だったのである。今の政府は、予算の取り扱いが一番の懸案事項であるが、4000〜5000年前までは、神の代理であるファラオの言葉が一番大事であつたのだ。ハンムラピが太陽神から受け取るモノは、文字ではなく1本の杖である。其の杖を受け取る時、言葉は目に見えない世界で直接脳にダビングされて来る。杖は、其の象徴的な物にしか過ぎないのだ。
太陽神の言葉を受け取ると言う事は、其の背景にスフィンクスの力が付与されている事にもなるのである。5000年前に物や形に現された意味を探ると、私に起きた此の22年間の出来事は、全くの現実世界であった事に気付く。其れは、現代社会では映画か劇画の世界であって現実の世界ではない。私だけが、誰にも理解されない侭、其れを現実として取り組んで来たである。其の世界が存在する事を知って居て、答えを待って居た師は、もう此の世の人ではない。私が確かに体験し、現実として捉えた世界は、其の世界を体験した者にしか理解出来ないのである。
第18王朝、3600年前のツタンカーメンの黄金のマスクには、スフィンクスの装いに額には聖蛇まで付いている。其れは、2600年前のブツダの世界にも通じるモノがある。
此の世界は、場所や時間を越えて繋がっているのである。日本の神社の入り口に有る狛獅子は、エジプトのスフィンクスと同じ物であり、ネパールやインドの寺院の入り口に置かれている獅子も同じ物である。其れは皆、犬ではなく猫科のライオンや虎である。
私の、鷹や鳶から始まった意識の旅は、蛇や龍を経過して、スフィンクスに迄辿り着いたのである。
其れが、是からどう進展するのかは私にも未だ分からない。其れが判る人は、其の世界の存在に気付いて、己の生き様を演出する者だけである。私の役割は、静かに森の中でタイガーの様に身を伏せているだけである。其れは、宇宙の玄の響きに、己の脳をトランス体として差し出している姿である。昼は縞模様が見えても、夜の暗闇の中では何処に移動したのか分からない。其れが、杖を持たされた者の生き方である。
漸く師が、私に告げた、私の本性が、自分自身で自覚される時が来たのだ。
還暦まで、後残りは明日1日だけである。明日は、旧暦の大晦日である。私の御用納めの日が漸く来たのだ。満59歳の誕生日は、旧暦の元旦に設定されていたのだ。
平成18年1月27日
礒 邉 自 適
2006/1/26
神社の階段の意味
18・1・26
今朝は、私の意識が、何段階にも別れて、機能している事が解かって来た。
神社には、8段とか16段の階段が造られ、奥の社・やしろに繋がっている。其れが、何故なのかが、今朝解かった様な気がする。
と言うのは、今朝の意識の変わり様が、幾段にも分離しているのが、感じられたからである。
始めは、いつもの様に、自我意識の無い、無意識の霊夢から始まった。
其れは、三本の画像・映画が必要だとの事で、屋久島の50年程前の人間の暮らし向きや社会の様子の画像が一本で、次が、其れから今迄の流れの様子のものが一本である。
そして、もう一本は、宇宙の真理の様なものらしい。
1と2に関した事で、女優の「吉永さゆり」が、身をよじって身悶える程、感動して居る様子が映されて来たので、其れ程の感動を、引き起こせる脚本が必要との事だろう。
次は、男の声で「懲りただろう。」とあった。
其の意味は、良く解からないが、思い当る事は幾つかある。
私は、是迄の人生で、他人の物事に付き合わされて、散々な目にも遭ったし、霊界人の頼み事を引き受けて、自分の人生は、ボロボロに成った。
其れを拡大して言えば、もう人間として、此の三次元に身を置く事に、ウンザリして来ているとなるだろうか。
私が、人間として存在する理由を考えると、自分が生まれたくて、生まれて来た譯・わけでは無いので、其の発生の意味が掴めないのである。
私にカルマが有るとすれば、悠々自適の「自適」を名として、此の世に持って来た者の存在が、其れに当る。
昔の誰かが、悠々自適の概念を覚えて、其れを実体験したくて、実行に移す為に、私の肉体を利用して来たとも考えられる。
私自身も、随分と、其の「自適」の名前を、是まで意識させられて来た。
其の悠々自適の概念が、私の意識から外れれば、私の頭は、其れこそ、空白を得る事が出来るかも知れないのだ。
そんな事を考えて居ると、今度は、女性の優しい声で「疲れたでしょう。もう 休みなさい。」と、あった。
其の声は、男性の声とは、別な次元に在る事が解かった。
其れは、今朝の頭の使い方だけではなく、私自身の人生全体に対しての、言葉の様に感じ取れた。
其れは、父親と母親が、違う次元の想いで、子育てをしている理が、理解されるものである。
母親は、自分の子供には、余り苦労をさせたくはないのだ。
しかし父親は、自分の出来ない事を、子供に遣らそうとして、子供を鍛え様とする。其の違いが、次元の違いとして、今朝認識させられて来たのだろう。
私は、もう直ぐ還暦である。
父親の指導よりは、母親の優しさの処に、心身を置きたいと想う。
其の様に考えながら、頭を休めると、自分の脳は、全宇宙と共鳴を起し、唸りを上げて、鳴り響いている事が解かった。
其れは、宇宙の最速の振動波から、最遅の振動波まで、総ての唸りを共用しているのである。
男の声や、女の声の存在する次元ではない所に、私の身体は、置かれているのだ。其れは、宇宙の存在其のモノが、今の瞬間を、振動して、存続せしめている理を意味する。
宇宙には、過去も未来も無く、唯一今だけが振動して、存在を続けているのである。だから、脳の唸りの音は、宇宙の存在其のモノの、音なのである。
人間は、此の宇宙の、最先端の現象を現している、神の存在其の物なのである。其の宇宙の唸りの音を、古代の人は「玄の響き」と傳ったのである。
人間は、自分の本来の意識に目覚めれば、人類全体の「カルマ・業・背景」を自分の物としてしまうのである。
其の、自分のカルマとは、人類の歴史を全部抱え込む事である。
物事の善悪等の概念を超えて、総ての情報を、我が体一身に引き受けてしまうのだ。
其の、人類全体のカルマを、消化する為の浄化システムの中心として、身を差し出すのが、ブツダであり、スメミマの身を有する王者である。
「スメラ」とは、太陽の意識と、一体化した意識の目を持つ、人体の事である。其れが、デザイン化されたのが、エジプトのラーの目である。
今朝の、私の意識からすると、過去に同じ状態に成った人が存在して、物事を興し、何等かの物を、形として残したのである。
そして今、其の情報の上に、私の脳を使用して、新しい情報・縁を結ぼうとしているのだ。
其れが、日本の「結び」の概念であり、インドのヨーガの意味でもあろう。
其れを、釈迦牟尼佛は「総ては 因縁で出来ている。」と、謂ったのであろう。
何故、チベットの密教では「曼荼羅・マンダラ」を造るのか。
其れは、何かの形を示さないと、人間の意識は、混濁して分別が着かないからであろう。
私は幸いにして、パソコン相手に、自分の脳にマンダラを造り混んで、分類する事に成功したのだ。
私の頭が、いま空白状態を向かえ、唸りを上げて、存続の為の振動を興し、エナジーを放出しているのは、私の実力ではない。
是まで、私に関わりを持ったあらゆる存在が、私を、そうせしめて来ているのである。是は、宇宙全体のシステムであって、私の個人的な立場は、何も関係が無いのだ。
今朝、私が感じた事は、無意識の霊夢が「三次元的」で、顕在意識で考える事が「四次元的」で、次元が逆転している事である。
是は、霊界のメッセージより、私の今の考えの方が、上に在る事に成る。
其の理由は、霊界の情報は、総て、過去のデーターを基にしているからだろう。
霊界には、未来を創造する権利は、与えられていないのだ。
未来を創造する権利を、霊界に与えると、神自体の存在が、不必要に成るからである。
霊界に与えられる権利は、未来を創造する人間を、創り出す事までなのである。
此の様な事を、パソコンを前にして、打って居る私は、一体何者なのであろうか。
私の意識は、22年前、無庵師匠の立会いの下で、禊を行った時に「大嘗祭」の儀式が成功し、私の意識は、神社の鏡を抜けていたのである。
そして、人類の2600年間の罪穢れを消化し切ったのである。
もう、宇宙と人間の間には、結び付きを阻害する、何の障壁も無いのだ。
有るとすれば、其れは、其の人個人の、罪穢れが埃と成って溜まっていて、絶縁帯と成っているだけなのである。
今朝、濱田ヒオキ氏のブログを見ると、25日23時59分に「ミッションを再開する・・・」と、書き込みしてあるだけで、何も他には無い。
ミッションの意味を、広辞苑で調べて見ると
(1) 使節団。また、その使命
(2) 伝道。伝道団体。 と、載っている。
私だけではなく、全体的に、人間の脳が、新しい段階に突入したのではないだろうか。
私は、1984年11月21日に伊勢神宮の外宮に参詣し、次の日22日の未明に神様の上半身のすがたが現われた。
そして、朝磯部町に在る「正傳寺」の境内に、神憑りに成っている車椅子に乗っているお爺さんが居て、私に「過去に 八回トンネルを潜るのに失敗した。今度が九回目で 是が最後のチャンスで 今度失敗すれば もう地球には 遣り直すエネルギーは残っていない。」と告げた。
「定着した画像」http://green.ap.teacup.com/20060818/770.html
何故、神が付いていて八回も失敗したのか。
其れは、人間に力を与えると、人間は直ぐに、自分のエゴに嵌り込んで、神の存在を忘れてしまうからである。
今回が最後のミッションであれば、其れこそ、チャンスは一度で、失敗は許されないのである。
私が、何故、22年前、地球の未来を任されたのかは、理解出来ては来たが、未だ動き出す気には成れない。
其れは、男の世界のエゴには、散々懲りたからである。
優しい母親の元に、還りたいのは山々だが、自分の人間意識を出さない為に、車で10分の所に居る実家の母親には、正月にも会いに行ってはいない。
当分、霊界の母親役の声で、自分自身を癒すしかない。
平成18年1月26日
礒邉自適
2006/1/25
自分の判断
18・1・25
自分の数え歳の「還暦」まで残り4日となった。
漸く自分自身の、判断らしきモノが出て来た。
其れは、「個人的な O・まる 」と「全体的な O 」の違いである。
ブッダやスメミマは、個人的な事に、Oを付けるのではなく、全体的な事を視て、Oを付けるのである。
例え其れが、自分の家族や・財産や・命まで・失う事に成ってもである。
其の視野に立てない者は、ブッダとは言えないし、スメミマの役割は勤まらない。
だから、現在の民主主義の体制では、ブッダの謂う「衆生一切 我が子」の言葉は理解出来ないし、スメミマの「吾が 民草」の言葉も、意味を持たない。
何故、「スメミマ・天皇」や「ブッダ・仏陀」に、女性が成れないかと言うと、両性には、夫々根本的な役目の違いが在るからである。
雌・女性は、自分の子供(遺伝子)を残す為に、生活物資や、交尾の相手を必要とするので、どうしても、個人的な視野にしか立てないのだ。
其の点、雄・男性は、出来るだけ広く、全体に種子を撒こうとする本能が仕組まれているから、全体の環境を把握しようとの意識が働くので、意識の立場が出来るだけ高い位置に、着こうとするのである。
其のシステムが、「天の父」と「地の母」の概念を、生み出しているのである。
今朝の意識の変わり様は、昨日、私の自宅が壊されて、無く成ったからである。私は長男だが、家督は弟に譲ったので、自分の自宅とは、自分で買って手に入れた、安房の家だけだった。
其の家も無くなり、土地の権利も会社の物と成った。
これで、私の個人的な私有財産は、何も無く成った。一切の、個人的な管理を必要とする物が全部無く成ったのである。
其れは、物質的な事だけではなく、精神的にも、帰る場所を失った事に成る。
私は、屋久島の安房に生まれ育ち、37歳まで、其の地を離れずに暮らした。だから、精神的な意識の土台は、故郷が、強靭な物として存在していたのである。
だから、時々は霊夢でも、子供の時に遊んだ「野・山・川・海」の景色が使用されたし、自分の自宅へ帰る場面もあった。
其れ等が、昨日で消えたのである。
是で、私の個人的な因縁は総て切れた事になる。
其の結果が、今朝の意識だろう。
漸く、釈迦牟尼佛と同じ立場に成ったし、老子が「函谷関・かんこくかん」を出た時と、同じ状態に、差し掛かったと謂うことが出来るだろうか。
しかし、私の意識は、其の個人的な身体の位置とは、丸で反対の所に、向かっている様である。
今朝の映像は、私が、皆の観ている舞台の上で、龍の舞を幾つか舞って居た。
そして、最後の舞の途中で、主催者を呼んで、何かを耳打ちした。
其の内容は、言葉に変換出来なかったが、是からの方針のようなものである。
私は舞いながら、ライトで浮かび上がる自分の影を見ると、其の影は、龍神なのである。私は、其の舞が終わってから、別の建物に向かった。
すると、其の建物の部屋には、身体全体に色々な綱を巻いた、雌龍の化身の女性が一人、私を待って居た。
私が、其の女性を抱きしめると、途端に其の女性が消えて、場面は変わった。其れは、広い建物の床下である。
私はその床下で、柱の長さを全部揃えなければ成らないのである。
私は、中心の柱に合わせて、総ての柱を同じ長さに切った。
其の作業が全部終わって、全体の床のレベルを見ると、中心の柱が少し高くて、床の中心が少し盛り上がっている。
其の中心の柱を、少し切らなければ成らなくなったのだが、もう総ての重量が其の柱に掛かっているので、どうしようも無い。
私の意識は、どうしたものかと考えあぐねていると、中心の柱だけに負担を掛けてはならない理が、知らされて来た。
それで気付いた理・ことは、スメミマ等の中心の人物に、負担を掛けては成らないとの事である。
中心の柱が長持ちする為には、全体の柱が、重みを均等に受け持ち、中心に掛かる負担を、軽減して遣らなければ成らないのだ。
皇太子が「雅子の人格が・・」と云ったのは、皇太子が全体的な事ではなく、個人的な立場の意見を、皇太子の立場で云った事に、問題があるのだが、皇太子にそう云わせてしまった、現在の体制の在り様も変えなければ成らない。
今朝の最後の映像は、上空から三人の人型が降りて来た。
其の中の一人は女性で、人間離れした知性の持ち主で、目が異常に光っていた。そして、私が何者かと意うと「龍家の人」との言葉が出て来た。
どうやら、私達人間の世界には、別の意識体が被い被さっている様である。
何故、私達が、其れに気付かないのか、其れは、地球の物質に意識が囚われているからである。
其れが柵・しがらみと成って、暗い世界に落ち込んで居るのである。
今朝の三名の霊体は、1985年に京都の亀岡市から「天河神社」に連れて行った、三人の霊体なのかも知れない。
亀岡市の、湯の花温泉に在る「憩の家」を午前3時頃に出発し、丹生神社(5時55分)を経由して、天川神社の弁財天(小豆色のコブラ)と面会し、裏の公園に有る「南北朝合意」の碑に、置いて来た霊である。
それらの映像が終わった後、私の意識として、私の個人的なOは、もう無くなっていると感じたのである。
29日には、私は満59歳を迎える。数え歳で言えば、還暦の60歳である。還暦の儀式は、赤いチャンチャンコを来てお祝いをする。
其れは、赤い色を見て視覚神経を刺激し、もう一度、生命を活性化させるものである。
何の為に、中枢神経を刺激しなければ成らないのか。
世の中の為に成らなければ、早く亡くなった方が良いのだ。
60歳から、遣らなければ成らない事は何なのか。
私にも、未だ、自分の所有物が在る。
其れは「自適」と言う名前である。
私も、此の「自適」と言う名前で、自我意識を積み上げ存続させて来た。
此の世に存在するあらゆる物の中で、名前を持っているのは、人間だけである。
其の人間でさえ、狼に育てられれば、其の名前は無いのだ。
他の名は、例え神の名であっても、全部人間が勝手に付けたものである。
私の名前は、自分で所有した物では無い。
私の名前は、父親が命名したものだが、実祭は、私が持って来た名前だとのこと(母の話し)である。
其の名前を捨ててしまえば、もう私に関わる物は、何も無く成るのだが、自分で持って来た物であれば、其の「命の名」が何であるのかを、確かめなければなるまい。
その「みこともち・御事持ち」の謎が解ければ、永遠の命の世界に溶け込めるのである。
其の前に、遺伝子を伝える大事な役目の女性達の、柵・しがらみの綱の縺れを解して、楽にして遣らなければ成らないだろう。
其の為には、私も、赤いチャンチャンコに腕を通さなければ成らないだろう。
誰か、其れを着せてくれる者が、在ればの話だが。
平成18年1月25日
礒邉自適
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