2005/12/17
風 麦東 陶(ふうれんとう)
17・12・17
今朝のメッセージは、愈々、三次元の組み立てを、始めるとの事の様である。
昨日の映像で、釈迦が顔を出し、精神的な概念の組み立ては、完成したらしい事を示して来たし、14日にはイエスキリストも、自分の言葉が、どれだけのカルマ・業を残したかが、悟れた様である。
釈迦牟尼佛も、イエスキリストも、精神・こころの問題だけに集中して、ライフスタイルの完成迄には、到っていない。
其れは、精神が先ず、本質に立ち返らなければ成らないので、止むを得ない事であったのは理解出来る。精神・こころの置き所が定まらない限り、生活の安定も精神の充足感も無いからである。
今朝は、是からの社会のライフスタイルを構築する為に、先ず、指導者が其の認識の為に、集まりを持つ必要が知らされて来た。
昔は、祭り事をするのに、世話係りが決められていた。
其れが、神社の祭り事が力を失った為に、機能しなく成って来ている。
現在・いまでは、若者はサッカーのサポーターや、人気歌手のコンサートのボランティアには精を出すが、明治維新の若者の様に、社会の構築の為に、真剣に取り組む人は少ない。
ライフスタイルに付いては、行政主体の催しは、時々開かれたりしてはいるが、其れが、社会の中に迄浸透し、若者達に希望を与える処までは、成果を挙げてはいない。
今朝は、公の施設の当直室の様な場所に、行政に勤めている人も、個人的に参加して、民間の人達と、話し合いを始め様としている映像が映されて来た。
其の会議の内容は、若者と老人達が集う機会が無くなっている社会を、どう立て直すか等に付いてである。
若者はスポーツやコンサートに行き、老人はゲートボール場に集まっている。昔の様に、若者が、老人の話を聞いて、長年生きた智恵を、受け継いだりする事が出来なく成っているのだ。
だから、若者の行動は、浅はかなものに成り、老人は孤独で退屈し、未来に対しての希望を失ってしまうのだ。
其れは、都会だけではなく、田舎にまで、浸透して来た近代文化である。
今の侭では、伝統的な田舎の文化まで、失われてしまう事になる。
昔は、都がどんなに変化しても、田舎の変化しない文化が、ブレーキの役目を果たし、時代の激しい流れを吸収し、安定した社会を保っていたのだ。
日本は、四方を海に囲まれ国境の無い島国であるし、徳川幕府の265年間の鎖国時代があったので、自然を大事にし、神々を敬い、祭り事を大事にする独自の文化を保っていた。
其れは、いま世界にとって、一番求められている未来型の文化で、世界に誇れる価値観である。
現在のアメリカの政治の在り方とは、反対の処に在るのだ。
其れは、アメリカの文化を批判するのではなく、現在の近代文化の良い部分だけを残し、自然と共に生きる、日本型の文化に流れを換える事にある。
世界は今、スローフードやロハス等の流れが起きて来ていて、日本型の食生活や考えが拡がりつつある。
それらの考えは、都会に在っても、自然が背景になければ成らない理・ことである。
是からは、生活の基本は、都会に在るのではなく、自然の中にこそあるべきだとの価値観を持ち、時代の指導者は、田舎にこそ住んで、自然を見詰めながら、思考を廻らせなければ成らないのだ。
其れが、古代からの、大人の暮らし向きである。
例え、都会に住んで居ても、水や食料は田舎から供給している物である。
其の、田舎の自然や、其処に暮らす人間の意識が乱れれば、其の影響は、都会に暮らす人に直接現れるのである。
現代社会は、都会のコンクリートの中で思考された事が、マスメデアで直ぐに田舎に迄到達する。
其の流れの方向を、速く切り替えなければ、人類の未来は無いのだ。
此処から先は、もう「イエスキリスト」や「お釈迦さん」でも手を差し伸べられない世界である。
其れは、我々現代社会に生きる人間が、自分の手で、取り組まなければ成らない課題である。
だからもう、神社やお寺に行って、お祈りをしている場合ではないのである。自分達の一挙一投足が、未来社会を創造するか、破壊するかに関わって来るのである。
是からが、真に人間の在り方が問われる時節なのである。もう、正しい方向に歩き出す人間にしか、神の守護は無いものと、覚悟しなければ成らない。
今朝の映像には、部屋に集まる熱意ある人達の集いには、若い女性のマネージャーが付いて居て、お茶の準備を始めていた。
野球部やサッカー部だけではなく、社会研究クラブにも、女性マネージャーが付く時代が、目の前に迫って来ているとの事だろうか。
平成17年12月16日
礒邉自適
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