2005/12/14
一乗
17・12・14
今朝のメッセージは、是までに無い程、長いメッセージだった。
場面の映像は、私が長い文章を書き込むのに付き合わされ、ようやく其れが終わった処で、誰かが、私の髪と、あご髭に、白毛が生えて来ているのを示した。
其の後、其の長い文章のパターンが、五通り程に分かれていて、一つに纏まらない。私の分も、枠外に在って一繋がりに成らないのである。
やがて、私の意識は疲れて、其の映像から離れた。
すると、地獄の蓋が開いた様に、死人の霊が集団で、目の前に押し寄せて来た。其の霊体達は、皆痩せており、病気や、飢餓や、弾圧等が原因で、死を迎えた人達の様で、不成仏の霊ばかりである。
私は、其の霊団と顔を見合わせるのが嫌で、又チャンネルを切り替えた。
すると再び、前の文章の世界に戻ってしまった。
すると今度は、オートバイが一台現れて、其処に一人の女性が登場した。
そして、其の女性は、私の運転するオートバイの後部座席に跨り、私の腰に両手を回して、出発しても良いと諭す。
私も何時の間にか、彼女と同じライダーの服装に、成って居るのである。
私は、彼女の感じが気に入った様子で、其れを受け入れた。
すると、分かれていた文章が、全部一つの文章に整理されて、見事に繋がった。
今朝のメッセージを、短く説明すれば、是だけの事なのだが、午前2時から7時まで掛かって、ようやく其の場面まで、イメージを持ち込んだのである。
五通り程の文章は、仏教の釈迦の言葉の経典、モーゼの教えの旧約聖書、イエスの言葉の新約聖書、マホメットの教えのコーラン、孔子の教えの儒教、其れに私の近くに有ったのは、老子の道徳経だったのかも知れない。
其れは、過去の人達の価値観を、伝え残す文献の事を、意味していた様である。其れを、誰かが、一つの文章に納め様として来たのだが、現在までの処、それが上手く行っていない様なのだ。
私も、少し手を出して見たが、全部が勝手に跳ね回って、一つの鞘に納まらないのである。
其れを、私が諦めたら、地獄の蓋が開いた様に、不成仏霊が押し寄せて来た。其れは、誰かが、正しい教えを残さないと、人類全体が無明の中に落ち込み、地獄界が拡大する事を示している。
そして、私の髪や顎鬚に、白髪が混ざり始めている事は、余り時間が無いので、ゆっくりとしては居られない事を、告げているのだろう。
しかし、私がオートバイの後ろに、一人の女性を乗せて走り始めれば、全ての文章が一つの鞘に納まり、効力を発揮する様に成ると言うことである。
其の女性として、私に心当たりがあるのはたった一人、水の神「弁財天(サラスヴァティ・龍宮乙姫)」である。
サラスヴァティが水を征し、私の意識の信号を、地球全体の水に溶かし込んでいるのだ。
其のサラスヴァティの力が、私の脳内の水分の中で、姿を変化させているのだろう。道理で、21年前から、世界中の人達の夢の中に、私の姿が現われ始めていたのだ。
屋久島は、世界有数の水の豊かな島である。
私は子供の頃から、其の水と戯れて来た。
イエスも、釈迦も、イザナギも皆、水で禊をして神の世界に入っている。
神の世界とは、水の世界なのだ。
世界の宗教で、儀式に水を用いない宗派は無いだろう。
其れは、水の無い所には生命が無いし、生命が無い所には、言葉が無い。そして言葉の無い所には、神も仏も存在する事は不可能だからである。
言葉が、神やブッダを、創り出しているのだ。
だから人類を救うには、言葉をモトに返さなければ成らないのだ。
言葉の源には水が有り、其処にサラスヴァティが存在しているのである。
今朝オートバイが走り出した方向は、右から左の方へであった。サラスヴァティが、我われを案内しようとしているのは、左の方向である。
右大臣の、戦いの為の「うて・右手・打て」の言葉は要らなく成り、左大臣に相談する為「さて・左手・サテどうしたものだろうか?。」の、補佐の世界に引き返さなければ成らないのだ。
私が、果たして、弁財天の左大臣として、補佐役が務まるかどうかは分からないが、此処まで導かれたのだから、続けるしか、他に路は無いのだろう。
今朝のメッセージは、イエスのカルマ・業が強い様である。
イエスが、弟子に云った言葉には「貴方たちの 今日の髪の毛の数を 神が知らないとでも意って居るのか。」とある。
其れは、誰も、自分の髪の毛を全部剃り落として、数えた者も居ないし、毎日数10本抜け落ちる髪の毛の数等、知る由も無いのである。
其れをイエスは、全部の人間が、現在何本の髪の毛を有して居るか、神は知っていると云っているのである。
髪の毛を、例に出して来るのは、イエスしかいないだろう。
それに、死人を墓から全部連れ出すのも、イエスの悪戯であろう。
イエスは「其のときには 全ての死人が墓から蘇る。」と云っているのだから。
神霊界の人々は、自分の名は誰も名乗らない。
其れは、名を残した事で、未だに三次元の人間に名前を呼ばれ、引き出されるからである。
名を残した神霊達は、現世の人間に、絶えず名前を呼ばれるので、もうウンザリしているのだ。
五人の中で、一番難儀なのがイエスである。
イエスは、若さの所為で、「私の教えを 広めなさい。」と、たった一言、余計な言を云った為に、2000年間も世界中で名前を呼ばれ、休む場所も時間も無くなってしまっている。
今朝も、老子の言葉は、枠外に在った。
其れは、老子は、他人に何も話していないし、自分の認識を、自分の手で5000字に纏めただけである。言葉を残しても、カルマ・業が無いのは、老子と一休宗純禅師くらいのものであろう。
しかし、イエスの代わりに、少し弁解をするなら、イエスはブロック建築の大工の息子で貧乏人の倅である。
だから、革命的行動が出来、言葉を貧しい者の味方として、使用できたのだ。だから、権力に対して反抗し、殺されてしまった。
しかし、インドの釈迦は、国民から税金を取って生活する、王の家に産まれ育ち、老子は王様の図書館の館長として給料を貰い、只で勉強が出来たのである。
だから、老子や釈迦は、イエスの様に、収税人を悪く扱き下ろす事は、出来なかったのである。
今朝は、そんな、何だかんだで、5時間も「マントラ(考える器)」に、取り組んでしまった。
昨日は、夕方宿舎に帰ると、NHKのBS放送で、「小椋ケイさん」ら三名が出演し、夢の事に付いて話しをして居た。
一昨日のテレビ番組の洋画劇場でも、主人公が七年間、夢の中で物語を演じるものであった。
私は、目が疲れて居るので、出来るだけテレビを見ない様にしているのだが、見せられるものは、どうして観なけばならない様に成っているようだ。
其れは、全てが、弁財天の意識の中で管理されているとの事だろう。
弁財天を七福神として、人間の男の中に加えてしまったバカ者は、誰なのだろうか。
それとも、其の御仁は、今朝のメッセージの予兆でも、受け取っていたのだろうか。
今朝の文章の題目を「一乗」としたのは、弁財天らしき女性と、格好良く同じオートバイに乗る事に成った事と、佛教が小乗佛教と大乗佛教に分かれてしまっている事からである。
釈迦の教えには、「小乗」とか「大乗」とかの言葉は無い。
小乗の世界でなければ、絶対に悟れないし、悟りを本当に得れば、大乗の世界に出て行くしか、他に道が無くなるのである。
其処に、弁財天の仕方のない活動が生じているのだ。
しかし、其の御陰で、私は自分では経験の無い、オートバイの相乗りを体験した。出来れば今夜も、またオートバイで誘いに来てくれないだろうか。
冬至まで、残り8日である。
まさかサラスヴァティまで、オートバイで師走の中を、走り廻るとは想わなかった。まさか「師走」の言葉遊びと、洒落ている訳ではないだろう。
其れに、本日は 岩手県の五葉山で1984年12月13日に、イエスキリストの御魂が、私に出て来てから丸11年目の日でもある。
平成17年12月13日
礒邉自適
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