このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2005/12/8
師の影を踏まず
17・12・8
今日は お釈迦さんの悟った日。
パソコンに向かうと「何か一つ 気付いていないものがある。」と、心が揺れた。
「何だろう」と、私の意識が憶うと 師の事が魂に上がって来た。
そう謂えば、無庵師匠の事は 唯「師」としか書いていない。
其れは、私が師の教えを護っているからである。
無庵師匠は 私に「自適さん 有名な人は二流なのですよ。本当に優秀な人は 名を出さなくても 生きて行ける人なのですよ。」と謂った。
だから私は、師の名も出さないし 写真一枚撮ってはいない。
しかし 私は、無庵師匠に会ってから、今の自分の意識があるので、師を忘れる事は無い。
其れが 今 改めて気に成ると言う事は、誰かが 無庵師匠に付いて、 今一度思考を廻らせと 云って来ているのだろう。
今日は お釈迦さんの悟った日。
私の中で 何かまた一つ 頭を持ち上げて来ている。
17年12月8日
礒邉自適
2005/12/8
天界の一年
17・12・8
本日12月8日は、一応「釈迦」が悟った日とされていて、太平洋戦争が始まりの日でもある。
今朝のメッセージは、不思議なものであった。
映像の内容が、確かに三段階に成っている。
其れを、ハッキリ感じたのは、今朝が始めてである。
初めの映像は、私の信頼している男性が、私を訪ねて来たので、自宅から事務所に向かった。
事務所に着いて、私は、自分の机に座り、彼は応接ソファーに座った。
処が、彼は静かに座ったまま、何も話さない。
私は、窓の外の車の音や、人通りのざわめきが気に成るので、立って行き、窓のサッシを全部閉めて、机に帰った。
すると、私の妻が、子供の手を引いて、裏口から入って来た。
そして「振り込んで来たよ。」と言う。私が、何の事かと思うと、彼の口座に500万円振り込んで来たとの事らしい。
其れは、私の知らない処で、彼が私の妻に、直接借金を申し込んだらしいのだ。
其の事で、私の自我意識が理由を探し始め、夢の場面から、顕在意識へと移行した。
この映像は、私は、金も持っていないし妻子もいない。
其れに、彼は、私にお金を借りに来る様な人ではないので、現実に関する事柄ではない。
なので、是は、他に何かの意味があるのだとの考えに到り、其の理由を想い始めた。すると、お金の貸し借りは、言葉が出来てから、発生した世界であるとの理解が生まれて来た。
物を貸したり、借りたりするのは、人間だけである。他の動物には、与え合いはあるが、物の貸し借りは無い。
其れは、人間だけに、時間の概念と、言葉の世界が有るから、出来る事である。時間の概念がなければ、カレンダーが無いので、期限が決められない。また「借りた」「貸した」の言葉がなければ、其の行為自体が、発生しないのである。
この事から、人間だけに、言葉や時間の概念があり、其れに拠って、文化や文明を築きあげて来ている事が理解出来る。
だから、新しい未来社会を創造する為には、時間の概念と、言葉がどう言う意味や働きを持っているかの、認識から始める必要があるのだ。
其の事が、今朝の最初のメッセージである。
私は、其の事が理解されたので、意識を休めた。
すると、今度は、暗い場面に粉雪が振り始め、「昨年は 奇跡的だったね。」との言葉があり、次々に、私の以前の事に関する人々や、其れに関する出来事が映し出されて来た。
其れは、子供の頃からのものではなく、私が結婚して子供が生まれ、実家を出て安房の町に出てからの物事である。
其れは、私が28歳の時だから、其れから丁度30年が経過している。
其の事から考えると、神界の一年は、地球時間の30年に当たる事に成る。
神の世界は「三」で動くとの話もあり、老子は「三から 全てが生まれる」とも謂っている。
イエスは、三日後に蘇ったとあり、釈迦は悟ってから、立って三歩あるいて立ち止まり「天上天下唯我独尊」と云ったとある。
其れに「三顧の礼」とか、「三宝」「三位一体」「三本の矢」「三人寄れば」等、挙げて行けば三が使われている言葉は、沢山出てくる。
宇宙のシステムは、三が基本数で出来ているかの様である。
私の、波乱万丈な人生の30年間は、神の世界では、たった一年間のプログラムに過ぎなかったのだろうか。
次の場面は、横に長い四角な枠の中で、数個の光りの球が、外に飛び出そうとして跳ね回っていた。
そして、次に、パソコンの画面が現われ、お気に入りのコーナーの登録名が光っており、点滅を繰り返しながら、次々に入れ替わって行った。
そして次に、RやN等のアルファベットの頭文字が、幾つか並んでおり、其の文字の右肩上に、皆二個のアルファベットのダッシュが付いていた。
此の一連の場面の意味は、言葉や文字が、新しい世界に、凄い勢いで、飛び出し始めるとの事ではないだろうか。
最後の場面には、また私の姿が用いられた。
私は、机に座り、文字を書きながら、何かの説明をしていた。
そして、筆で文字を書いていると、隣で「私の時間は いつまで有るの。」と、尋ねる声が聞こえたので、左側を見ると、私が未だ会った事の無い、30歳位の女性が座っている。
私の意識は、彼女と目が合い、お互いが気に入ったらしく、静かに向き合って居た。そして私は、左手に着いていた墨を、紙で拭き取り「永遠だよ」と云って、彼女を優しく抱きしめてやった。
そして、今朝の長い映像の場面は、終わったのである。
今朝は「振り込んで来たよ。」の言葉に始まり「永遠だよ。」との言葉で終わっている。
是は、文字や言葉の学習が、終わりの無い永遠の世界である事を、認識させるものの様である。
今日は、釈迦が悟った日とされているので、釈迦が、私の意識の舞台に登場するのには、都合が一番良い日である。
釈迦の訓えの神髄も、言葉がどう人間のカルマ・業に関わっているかである。
イエスも「私の言葉は 神のものである」と云っているし、老子も言葉の在り様を一番重要に考えている。
今朝は、其の言葉が、新しいエネルギーを持って、この三次元に噴き出そうとしている事を、告げて来ている。
旧約聖書の、アベルとカイン(自我意識と所有心)の事が、新しい言葉に拠って説かれる日は近いだろう。
其れに、日本の神社には、神の世界の入り口である鳥居の前に、何故「阿・あ、吽・ん」の言葉の、始まりと、終わりを意味する像が、置かれているのかが、ハッキリと自覚される様にも成るだろう。
(私が30年前に、買って引越した家が、安房で唯一軒の、神様事をする家だったのは因縁か。)
是からまた、私の新たな宇宙時間の一年が、30年掛けて始まるのであれば、未だ88歳まで生きなければ成らない。
そんなに、長生きをする自信も無いし、長生きしたいとも考えてはいない。
しかし、後30年生かされるのであれば、雪の降る暗い冬景色ではなく、桜の花が満開と成っている、春爛漫の景色の中で、「奇跡的な一年だったね」と、今朝と同じ言葉を聞いてから、今回の人生を締め括りたいものである。
そして其の結果が、素晴らしいものであれば、釈迦牟尼佛やイエスキリストと、女神の関係性も、明らかに成るのではないだろうか。
平成17年12月8日
礒邉自適
2005/12/7
珪素の真空管
17・12・7
今朝のメッセージは、相当意味深い。
嘗て、この領域まで入り込んだ、人間が居るのだろうか。居れば、古文書の端々にでも出て来そうだが、其れらしき形跡は無い。
初めに、女性の姿が、光りのぼやけた感じで現われ、その直ぐ隣に、女性より高さがある金属光沢をもった、二本の真空管の様な物が立っていた。
そして、平仮名の「い」の様な文字が一字現われた。
次に、二本の真空管を真上から見た形の、○○の形が現われた。
其れは、立ての「い」の文字に対する、平面の「の」の文字を表すイメージである。
(是等は、意識の立ち現われ方を意味している様だ。)
次に、私は、何処かの建物の中に居て、棚に置いて在るティッシュ箱から、中の紙を取り出そうとすると、其の紙の半分が、窓のカーテンの布糸と、溶け込む様に絡んでいて、どうしても離れない。
(是は、紙と布が、本来は同じ物であった事を知らせて来ている。)
そうして居る間に、誰かが玄関に入って来て、静かな声で、呼び掛けるので、玄関に出て見ると、40歳ぐらいの細身の女性が一人来て居て、「今日は、子供が一日中外で遊んでいて 早く寝そうだから。」と、私に云う。
(其れは、子供の事を言って居るのではなく、自分の夜の都合を暗に知らせているのである。)
今朝のメッセージをトータルして考えると、人間の意識と、文化の成り立ちを順番に知らせて来ているものだ。
紙が出来る迄は、文字や絵をパピルスや竹、木の板、其れに大事な事は、動物皮や布に書いていたのである。
女性が、動物と違って、発情期から自由に成って、交尾回数が無制限に成った為に、男性に24時間言葉が必要に成って、今日の様に、言葉が発達して来たのだろう。
自然界の動物の場合は、餌等の都合により、雌が発情する期間は、一時期に絞られていて、他の時期は、交尾に必要なコミュニケーションは無い。
其の点において、人間は言葉無しでは、社会が成り立たない様に成っている。現在はパソコン等が有るが、其れまでは、紙がなければ、社会は動きが止まってしまう程であったのだ。
手紙の遣り取りや、書類や本がなければ、文化の発展は、是れ程までには成らなかったであろう。
其れも、始めに言葉があり、文字が生まれた結果である。
では、言葉や文字が、どうして出来上がったのか。
其処に、今朝のメッセージの意味がある。
金属光沢の二本の真空管は、動物の意識のセンサーと成っている、シリコン・珪素の働きを意味しており、其れが、女性の傍に立っていたのは、メスの生命システムが、其のセンサーの基に成っているとの理・ことではないだろうか。
其れと、意識には縦(い・ll)の認識と、横・平面(の・OO)の認識があり、其れも二対に成っているとの事である。
其の二対の縦横の認識が、全ての思考の基に、成っているとの事である。
其の思考が、雄雌の働きを分離する事に繋がったのだ。
そう考えると、シリコンの働きは、植物の雌雄の関係にまで、遡ることに成る。そうであれば、今朝のメッセージの世界は、生物のいのちの原点にまで、遡る事になる。
私は、ここ数年、「いのち」と言う言葉が、本来何を意味していたものか、真剣に探って来た。
其の想いの結果が、今朝の潜在意識からのメッセージだろう。
出雲で一番古く、国宝に成っている「神魂神社」の名が、何故「かもす神社」と呼ぶのか、其の名の由来も分からない。
境内には、二本の棒が立っており、横に一本棒が渡されている。
おそらく古代は、其れだけが、神の世界の入り口とされていたのであろう。
「神の魂が かもされる所」其れが、二本の棒に関するものであるなら、私は今朝、神の魂にまで行き着いた事になる。
其の原因を探って行くと、今の私の食事に行き当たる。
私は6ヶ月間、殆ど収入が無いし、パソコンにへばり着いて居たので、食べ物には無頓着であった。
なので、今食べているのは、カビで黒く成った胚芽米と、カビが一杯生えた味噌の味噌汁と、近所の農家に貰った大根葉である。
何故、カビが生えても食べているかと言うと、添加物や防腐剤が入っていないから、カビが生えるのであって、安心出来る物だからであるし、人に戴いた物なので、棄てるわけにも行かず食べているのである。
だから、怪我の功名と言うか、醸す(かもす)世界に、侵入出来たのである。カビや麹の世界は、生物の原点であり「いのち」のシステムの一番単純化された世界でもある。
私は、カビの力を借りて、シリコンの真空管にまで、辿り着いたのである。
何故、知り合いに電話一本掛ければ、何でも贈って戴けるのに、無意識が嫌がって、電話を掛ける事をしなかったのかが、理解されて来た。
此処まで書いたら、何だか楽に成った。
明日にでも、武富さんに電話して、松井選手や、一郎選手が食べているのと同じ、お米を送って貰う事にしょう。
私の新嘗祭は、数日後に行われそうである。
カビが食べて、真っ黒に成った胚芽と、来年の情報を蓄えた新米との切り換えが、どう言う結果を生むか楽しみである。
平成17年12月7日
礒邉自適
2005/12/6
全てを棄てたら 其れが遣って来た
17・12・6
今朝のビジョンは、メッセージと言える物かどうか、判断ができない。
昨夜から、今朝に掛けて、私の意識は、殆ど起きている状態なのだが、現れるのは21年前の初夏、私が無庵師匠に全てを預け切った時の写真一枚と、「すべてを棄てたら ソレが 遣って来た」との、短い単語だけである。
何度、アクセスを開始しても、其れだけであった。
本日12月6日は、私が、神の世界に行って丁度21年半が過ぎ、今日から又新しい始まりの日となる。
私は、2000年12月6日に、HP「森の木」と「木のネット」を立ち上げ、其れが現在のHPの土台と成っている。
私は、21年前の1984年6月4日(旧暦5月5日)に「地球をお前に任す。期間は16年半。」「チャンスは一度 失敗は許されない。」と告げられた。
其れから、其の年の11月半ばから全国の旅が始まり、1999年7月26日(マヤの暦で元旦)の日に、飯田橋に有る「東京大神宮」の近くで「第一回 瑞穂の国造りの集い」を開催し、全国から70名程の参加が在った。
其れから、既に6年が経過している。
今朝、事務所に出て来ると、私の気持ちの中に「始まる 始まる」と、何かがざわめいている。
御目石の祭壇の水を取替え、タンポポコーヒーを入れて、机に座りパソコンを開くと、WAO・UPOの会合が開かれ、其の報告がITに数件入力されている。其れには、3日に東京大神宮に皆で参詣して、4日には熱田神宮にお参りしたとある。
私は、其れを読んで、1999年度に東京大神宮入り口の、向かいに在るマンションに、半年間住んで居た事を懐かしく思った。
私は、21年半の間、他人になかなか理解されない事を続けて来た。
21年前は9歳だった子供が、今はもう30歳である。
21年前、他人に云うと、気違い相手にされていた事が、今では、普通の事として話される様に成って来た。
私に、出会う方が、「自適さんに もっと早く出会えれば 回り道をしなくて済んだのに」と云う。
私が「20年前 貴方は 何歳だったのですか」と訊ねると、小学生や中学生だったと答える。
「其の時 私の話が理解出来ましたか」と再び訊ねると「ああ そうですね。今だから 理解出来るのですね。」と応える。
其れ等の現象の為に、私は、他人より先に、この道を歩かされて居るのである。
私を、探し出して下さった無庵師匠は、もう此の世には存在しない。
私が、現れる事を待っていて、喜んで下さった方々の殆どが、もう帰幽している。
人間は、夫々が、それぞれの役目を果たし、彼の世に還って行くのである。私も、何れ、彼の世に帰らなければ成らないが、もう暫らくは、総纏めの役をしなければ成らない様である。
「愈々始まる」と告げられても、私には、もう何の感動も感激も湧かない。
其れは、余りにも長い間、其の言葉に、振り回されて来たからであろう。
何の感動も湧かない処から、冷静な気持ちで、仕事が出来るのかも知れない。
「広池千九郎氏」のモラロジーの教えには、「40歳50歳は 洟垂れ小僧 60歳に成ったら 少しは 世の中の役に立つことが 出来るかも知れない」と有る。
其れに、モラロジーのテーマは「天爵を修めれば 人爵是に従う」である。其れに「義務先行」がモットーでもある。
私も、其の60歳に成るまで、残すところ一年と成った。
世界中に、自然食が広がる切掛けと成った、「桜沢如一氏」の言葉は「無限の自由」「永遠の幸福」「絶対の正義」である。
彼等の精神が、本当の日本の精神である。
他にも、二宮尊徳、安藤昌益等、世界に誇れる偉人は多い。
農文協では、中国共産党に頼まれて、安藤昌益全巻を、中国語に訳しているとの話も聞いた。
中国の要人も、今の侭では、国民全体が日本人の様に、金・金の世界に成る事を、心配しているのだろう。
女性の役割と、男性の役割は確かに違うモノがある。
女性は、子供を産めるので、確かな実感を得る事が出来るが、男性は自分の子供が、果たして自分の子供なのかの確信も薄い。だから、男性は、生きた証として、何か、目に見える物を造りたがるのである。
其のエネルギーが、歴史を動かして来ているのだ。
今回の流れが、新しい歴史と成るかどうかは、是からの、私達の働きに掛かっている。
私は、此の神の世界に入った時に、二つの組織が必要だと神に告げられた。
一つは「四次元プログラム」で、もう一つは「水素原子管理」である。
「四次元プログラム」とは、目に見えない世界の事で、絶対界のシステムの構築を意味している。其れは、神霊界や宇宙の意識に対応する事で、人間界では「精神」とか「魂しい」に関わるものである。
其れは、精神や魂しいも自分達でプログラムしろとの事であり、人間が自分自身の能力で、精神をコントロールしなさいとの事である。
そして、其れは、神が全権を人間に預けると言う事でもある。
「水素原子管理」とは、目に見える此の三次元世界の、あらゆる物質の管理である。
宇宙のあらゆる物質は、全て水素原子の組み合わせで現象化している物である。
水素原子管理とは、地球に関する全ての物を、正しく管理するとの事であろう。其れは、人間に物の管理を任すと言う事である。
私は1999年7月26日に、新しい国造りの発足を開催したが、其れに先立つ1987年11月22日に、奈良市に有る「大倭あじさい邑」で「第一回スピリチュアル・タイム」を「石垣雅設氏(現・新泉社代表)」と開催し、山川亜希子さん・真崎守氏・菅田正昭氏・川口由一氏・山田征さんら、全国から70名近い方が参加され、話し合が行われた。其れから、18年が経過している。
今朝、「始まる」と喜んでいる霊魂が、何者なのかは判らないが、今日から、何かが新たに動き出したのは、間違い無い様である。
11月22日から12月2日まで続いた、管理に付いてのメッセージも、21年前に「水素原子管理」と告げて来た神霊と、同じモノからなのであろうか。そうであれば、依然私は「吾」を続けている事に成る。
21年半前、全てを禊祓って、無の精神状態に成った私に遣って来たモノ、其れが「神魂の思頼・みたまのふゆ」であった事は、既に理解済みである。
是から、私が、何をさせられるのかは分からないが、老子の「我に三宝有り」の言葉からは、はみ出す事は無いだろう。
また、そうしなければ「元の木阿弥」と、成ってしまうのである。
平成17年12月6日
礒邉自適
2005/12/5
見なし法人・ハイライト
17・12・5
今日で、私が此の神の世界に入って、21年半が経つ。
漠然として思えば、言葉通り「夢の中」の21年半だった。
しかし、何が有ったかを思い起こせば、莫大な情報を取り込んでいる事が判かる。そして今朝は、また新たな世界に、飛び込んでいる事が解った。
昨日は、多くのモノが中に引き込まれたと書いたが、今朝は、其の一部が顔を出し、何時間も、新しい世界を認識させられて、漸くベッドから起き出したのは8時に成ってからである。
とても、今朝の映像を全部思い出して、書き込む事は出来ない。
大事と想われる場面だけを、思い起こして書き出して見ようと意う。
始めに、昨日の真由美の姿は、私の中に在る「いのちの本質」が、表層に浮き出たモノと考えられる。
言葉を離れ、人間の世界を通り越したので、生命の原質である雌の立場に里帰りをしたのだ。
老子や、釈迦が、老齢に成って雄の機能が減退したトキに見た、命の本質を、私も観たのだ。其れは、現代生物学では明らかに成っている。
日本の巻貝や、アメリカの五大湖の鰐等が、環境ホルモンの影響で、雄ペニスが皆縮んでしまい、雌化して子孫が出来なく成っている。
人間の女性が、老齢化すると生理が止まり、髭が濃く成ったりする現象の雄版である。
雄の精気が衰えて来ると、雄が、雌から分離された以前の、遺伝子情報にカムバックしてしまうのだ。
それは、雄の業が消えて、役目から開放され、自由に成った精神状態なのだ。
イエスは若死にしたので、其の次元までは、到達する事が出来なかった。
私の記憶は、是からは、「いのちの原質」の立場から、染み出して来るものと考えられる。
「亀の甲より 年の功」の諺が、適用出来る年代に、差し掛かったと考えても良いだろう。
老子の謂う「雄の立場を知った上で 雌の立場に身を置く。」が、ようやく自分の事として、考えられる年令に達したのだろう。
其の様に考えると、「壽」の漢字が嬉しく成って来る。
今朝其れらの認識が済んだら、パソコン画面が現われ、私の自適塾のHPに、新しいページがドンドン増えて行くのが、映されて来た。
そして「見なし法人」と「ハイライト」の言葉が来た。
其のページは、切り替わりの無いページで、幾らでも、人の情報と、遣っている事の情報が、下方から繰り上がって来るのである。
其れは、何百・何千との数に上るのだろう。
其れは、世界中に存在する、人間の未来社会にとって、必要な事を遣っている人達の情報である。
見なし法人とは、大企業の事ではない。そして、ハイライトとは、其の人間や遣っている事に対して、部分的に光りが当てられる事を意味している。
神界が、愈々物事を選択し始めた様である。
私は、それらの人々を探し出し、パソコンに、入力して行かなければ成らない様だ。
其の事を認識すると、今度は、神々の世界を、自由に遊んで廻った。
其処では、人間の言葉は一切使用されず、総べてが、テレパシーの様に、想った事が瞬時に相手にも伝わるらしい。
神霊界は、意識が共通であり、何人でも、音に拠る言語が必要ないのである。考えて見れば、意っただけで相手に伝わるのであれば、言葉は必要無いし、嘘をつく事が出来ないので、真実しか無い世界である。
重力や、引力が働かない世界だから、水の流れを、反対に進む事が出来るし、空中から虹の橋を渡る様に、地表に帰る事も出来る。
何の束縛も無く、自由な世界である。姿は在っても、食べ物を食べたりする必要が無いので、内蔵はいらないし排泄も無い。
水も、食べ物も要らないので、働く必要がないのである。
勿論、天国は、雲の上だから、雨が降らないので傘も要らない。しかし、面白いのは、天国にも、地表と同じく水が流れているのである。
旧約聖書にも「神は 水を 天と地に分けた。」とあるが、其れは、本当の様である。水は、水素が基で出来ており、宇宙の総べての物質は、水素原子から始まっていて、全てが水素原子を土台としているので、宇宙の情報は水無くしては、組み込めないのであろう。
今朝不思議なのは、天界を流れる川が、綺麗な土色をしていた事である。
私達は、水は水色だと想っているが、其れは、空の青さを写しているだけで、水色でも青色でもないのである。
今朝の天界の川は、粘土を溶かした色の、水が流れていた。
其れで、私が思うのは、旧約聖書に載っている「神は始めに 自分に似せて 粘土でアダムを創った。」の文句である。
粘土は、ケイ素とアルミの化合物である。
現在の太陽電池パネルは、シリコン(珪素)の薄い板に、アルミを塗り込んだ物である。其の板に、太陽光線が当たると電子が生まれるのである。
其れは、珪素とアルミが溶け込んだ水に、太陽光線が当たると、電子が発生する事にも繋がる。
水の神である「サラスバティ(弁財天)」は、湖の中の小島や、池の中心の島に祭られる。
其れは、水面に発生した電子が、中の小島に引き寄せられて、集まる事を示唆している。
神の漢字は「示+申」の組み合わせで、「示」は祭壇の形で「申」は電気である。神の祭壇の前で、申して来るのは、神の電気信号に因る命である。
何故、人間の額の中心にある、シリコンの松傘状の結晶が、光りのセンサーとして、自律神経をコントロールしているのか。
人間が太陽の光りを受けて、身体の70%の水が反応を起こし、電気を生み出しているのであれば、松果体が、光りのコントロールに関わりを持っているのは、当然の事と言える。
人間の瞼に映る夢幻しは、松果体がICチップの役目を果たしていると云っても、過言ではないだろう。
昔から、太陽を神の対象として考えたり、鏡を御身体としたり、水を信仰の対象とするのも、どうやら根拠が明確に成って来た様である。
今朝、情報の一部が顔を出し、其の中の一部を、打ち出して見たが、底は遥かに深い。
理解出来る事は、神の世界には、言葉が無いと言う事である。
言葉が無い世界に、神の名が有る訳がない。
天照も、エホバも、アミダ佛も、大日如来もいないのである。
其れは、人間が、宇宙の働きを認識する為に、便宜上、仮に名付けただけの世界である。
神の名を唱える事は、永遠に神に会えない仕草である。
神仏の名を頭から祓う事が、惟神の道であるのだ。其の理は、2600年も前に、老子や釈迦がハッキリ示している。
「タオ・道」や「ダルマ・法」の言葉さえ、天国への門を塞いでいるのである。
今朝解った事は、老子や釈迦、其れに一休さんも、子宮を持った事が無いので、陣痛に付いては一言も述べていない。
私も、自分の行動パターンは、男性の生殖器の働きが、土台に成っている事は理解しているが、果たして「フロイトさん」は、陣痛に付いてはどう認識していたのだろうか。
この答えが出せなければ、過去に女性だった人間が、男性に生まれ変わって来ると言う考えは、否定される事に成るのだがどうだろうか。
其れに、天国には、俗に言う男らしい男が見え無いのは、どうした事だろうか。
戦いが、好きな御仁は、ガキの魂しいのまま、成長していないと言う事だろうか。
クリシュナムルティが、何故、救世主の座を降りたのか。
全ての思考の本は、母親体験者に尋ねるしか無い様である。
其処に在る「嫗・媼・オウナ」が、全てを知って居るのだろう。
言葉を発しない、其の静けさの中に、答えは秘められているのだ。
ハイライトは オウナの場からだろうか ?
其の為に、サラスバティが・・・・
平成17年12月5日
礒邉自適
2005/12/4
真由美
17・12・4
今朝は、多くの物が奥に引っ込んで、表には出て来なかった。
唯一つ現われたのは、30歳くらいのスマートな女性が、静かに、何処かに向かう姿である。
そして「真由美」との名が有った。
今朝は、其れだけしか表面意識には出て来ない。
「真由美」とは、文字から意味を探れば「まことの自由は美しい。」である。
今朝現われた女性は、其の言葉を象徴する姿だったのだろう。
其れは、成人した女性が、親の管理を離れ自由に成り、未だ結婚もしていなくて、子供も居ないので管理をする事が何も無く、一番自由なトキの姿を、示して来たのだろう。
「女」の漢字は、女性が跽づき、かしずいて居る姿の象形であり、「母」は其れに乳房を付してハハの意味としている。
更に「毎」の漢字は、既婚女性が結婚している事を表明する為に、毎日結わなければ成らない髷・まげを結っている姿である。
それは、現在の結婚指輪に当たる物だ。
女も、母も、毎も、真由美の姿ではない。
今朝の女性の姿から、私に、何を知りなさいと諭して来ているのだろうか。
現在の日本の状況は、女性が独身を楽しんで居て、なかなか結婚をしない。
子供の出産数も、1・5を割り込んでいるらしい。
真由美は増えても、母が減って来ているのだ。
昨日の映像は、母子で始まって母児で終わったが、今日は、子供も居ない女性である。
女性の本能は、遺伝子を伝える為に在る。
子供を産まなければ、役目を果たせないで、遺伝子が途絶える事に成るのだ。
何故、現在の女性は、結婚して子供を産まなく成って来たのだろうか。
其れは、女性の職場が増え、一人立が出来るからだろう。
しかし、子供が少なく成れば、社会は先細りである。
此の侭の状況が進めば、今の人達の老後は、厳しいものと成ってしまうだろう。
若い女性が、真由美の侭で、果たして良いものだろうか。
今朝の知らせは、女性が結婚したく成る様な社会を、早く創造しろとの事だろうか。
水田の稲の害虫である「ウンカ」は、環境が良いトキには、自分が長生きしたいので、エネルギーを使う産卵は出来るだけしないらしい。
処が、人間が農薬を散布したりすると、慌てて、子孫を残す為に産卵を始めるらしいのだ。
水中に棲む「ミジンコ」は、環境が良いトキには、雌だけを産んで、数を増やすらしい。そして、環境が悪く成ると、今度は、雄を産んで交尾をし、有性卵を産むらしい。
其の有性卵は、環境が回復する迄、眠って居られるらしいのだ。
そんな小さな虫達でさえ、生きる智恵には長けている。
そんな能力が、人間からは消えてしまったのだろうか。其れとも、ウンカの様に、自分が生を楽しみたいので、子供を造らないのだろうか。
どちらが、女性の本能なのかが分からない。
聞くところに拠れば、高速道路の出口の所にモーテルが集中しているのは、速いスピードに危険を感じた女性が、ウンカと同じ現象を起こすからだと聞いた事がある。
人間の女性も、ウンカと同じ本能は未だ残っているのだろうか。
其れとも、都会で子供が減るのは、自然の摂理が働いて、過密化を避ける為に、個体数を減らそうとしているのだろうか。其方の方が、当たっているのなら、私が別に心を配る必要は、無いのだがどうであろうか。
私は、独身女性に「良い男性が居たら 紹介して下さい。」と、数十人に頼まれてはいるが、なかなか太鼓判で世話出来る男性が居ない。
私が、是はと想う男性は、既に女性の方がほっては措かないので、そう上手くは事が運ばないのである。
山から下ろされれば、こんな話に成ってしまう。
2日の年長の男性が、町に下りるのを嫌がったのも、分かる様な気がする。
真由美を止めろと言えば、嫌われるのがオチである。
優秀な男性が、澤山現われて、女性を口説いてくれれば、直ぐに解決すると想うのだがどうだろうか。
平成17年12月4日
礒邉自適
2005/12/3
児 (おのこ)
17・12・3
今朝は、何から書き始めれば良いのか判らない。
と言うのは、昨日、頭脳が空に成ったので、行き成り、大量の新しい情報が、雪崩れ込んで来たからである。
算盤の世界では「ごあさん に 願いましては。」と掛け声を掛けて、一度ゼロにしてから、一行ずつ数字を加算して行く。
処が、この世界は、前の分が全部解決されて空に成ると、次の分が、手加減無く容量一杯詰め込まれるらしい。
まるで堰が切られた池に、一気に大量の水が流れ込んで来て、池一杯に溜まったら、自然に流れ込むのが止まるのに似ている。
其れで、今朝気付いた事は、私が無庵師匠に、総べての事を委ねて修行をし、神の世界に入った瞬間に、私の自己意識が消え、私は「私・所有心の意味」と「我・戦いの意味」が消え、「吾・かみのことばを守の意味」の「あ・あたし」に成ってしまっていたのである。
21年前に、天神に「16年半掛かる」と告げられ、昨日まで、其のプログラムに従って来た。
そして、昨日の文章に「孔紀氏が 10月10日に世界平和機構・UPOを立ち上げて 愈々旗が揚げられた。」と書いた。
其れに拠って、21年間のプロブラムが完結したのであろう。
私は、一息入れられると意ったのは、とんでもない勘違いであったのだ。
吾にそう思わせて措いて、新しい情報の堰を切って落としたのだ。
今朝の情報を、脳内のDVDからパソコンに取り出して、説明して行くのには、何年も掛かるだろう。
是から先は、釈迦も、老子も、イエスも体験した事の無い世界である。
未来は総べて、人間が、自らの手で興して行かなければ成らないのだ。
釈迦が、仏陀と成り、過去の情報を取り込んで、想定した未来思念は、昨日で完了したのである。
釈迦自体が、言葉にした「十二縁起」の言霊自体が、釈迦のカルマ・業として「天幕・フロッピー」にこびり着いていたのである。
其れが、昨日の演劇で、見事に外れたのだ。
旧暦の10月は、出雲だけが「神有り月」で、他の所は総べて「神無月」である。
其れは、古代社会で年一回、全国に散っている人達が出雲に集まり、議会を開いていたからである。
其の名残が「神無月・かんなづき」で、全国の11月の月名である。
其の証拠と成る物が、現在、出雲大社の両脇に在る長い建物である。
其れは、全国から集まった人達の宿舎に使われていた物である。
其の、議会開催のプログラムもリニューアルされて、現世で始まる事だろう。
今回の、11月22日からの新嘗祭の儀式が、霊界では、昨日まで10日間続けられて、最後のスケジュールが、昨日の演劇だったのだ。
昨日の演劇は、観客は一人も居ないと思っていたが、実際はそうではなく、数知れない霊界人が参加して、結論を見守っていたのだ。
では、其の結果が如何になったかを、少し巻き戻して返り見てみよう。
今朝の映像は、先ず私が、21年振りに町の床屋に行って、髪を切り、髭を剃って、凄くスッキリした気分に成り、清清しい状態と成った。
その瞬間、私の意識がハツと目覚め、手を頭に遣って、髪を確かめると、未だ括った侭であるので、ホツとして又意識を元に戻した。
すると、誰かの紹介で、女性の部屋を訪ねていた。
其の部屋には、幼い子供が一人居て、若い女性が具合悪そうに、布団に寝て居る。
私が、其の女性を診ると、栄養が足りなくて痩せており、此の侭では、命が長くない事が理解出来た。
私が事情を聞くと、パートナーが、ヤクザな人で、家庭を顧みないのだと云う。此の侭では、母親も子供も、助からない事が判かつた。
しかし、今の私には何も出来ないので、どうしたものかと思案していると、相手の車が帰って来たので、誤解されては大変なので、私は裏口から退散した。
其処までが、一時半である。
私は、トイレに行ってからベッドに帰り、座ったまま瞑想を始めると、私自身の意識の中には、部屋の中に、白い新しい布が、一枚だけ有る映像が見えて来た。
其の白い布は、私が産まれた時に、初めて、身に着けた木綿の産着なのか、神社に納められる、麻布なのかは判らないが、私が、純粋意識の中に在る事の、証明であろう。
女性の事は、私個人の事ではないので、安心して再び横に成った。
すると其の侭、情報の海の中に溶け込んで行った。
其の情報の海は、是から数百年掛かって組み込まれて行く、未来社会のプログラムであろう。
最後の締め括りに、また幼児が現われ、ミルクを吐いて、服が汚れている。
私は、其の子を抱き上げて、顎を肩の上に持ち上げて、背中を摩り、ゲップをさせてから母親に返した。
若い母親は、そんな事も訓えられていないらしい。
其れを、残念に意った処で、漢字の「児」が一字だけ出て、今朝の長い映像は終了した。
今朝のメッセージは、始めの場面も母親と子供で、終わりの場面も母親と子供である。
其れは、未来社会を創るのには、子供を大事に護り育てる事しか、他に何も無い理を告げて来ている。
其の理は、世界中の人が納得する、原理原則と成り得るモノだ。
其の理を土台として、他の概念を、組み込んで行かなければ成らないとの事であろう。
今朝の最初の場面に、総べてのヒントが含まれている。
1)まずは、女性が夫の選び方を間違っている。
2)母親が、子供の生命を護る為の行動を起こしていない。
3)母親が、誰かに相談する社会システムが無い。
4)子供は、自分自身ではどうする事も出来ない。
5)ヤクザな夫は、何をしているのかは分からないが、大きな良い車に乗っている。家族の生活や、人権を護る考えが無い。
今朝の場面からは、これ等の事柄が観て取れるが、私の意識は、別な面から物事を捉えていた。
私の意識には、夫が帰って来た時に、部屋のガラス窓に、強い光りが当たった場面が、強烈に残った。
其れは、太陽の光りではなく、人間が創り出した人工的な光りである。
人間は、人工的な光りを創り出すまでは、暗く成れば眠り、明るく成れば起きる生活を、続けていたのである。其れが、電気が灯った為に、昼夜が逆転してしまった人が沢山居る。
近代社会には、自然のサイクルが無くなってしまっているのだ。
電気が無ければ、ヤクザな世界も、現在の様に悪くは成らなかったであろう。
そう言う私も、昔は夜の海に潜り、魚やイセエビを獲っていた。
其れも、水中電灯が出来たので行える漁法である。
月夜には、アオリイカを警戒して、岩穴から出ないイセエビも、暗い夜には浅い所まで、餌を探しに上がって来る。
昼間は、活発に泳いで居た魚も、夜は疲れて、岩穴や珊瑚の隙間に安心して眠って居る。
其れ等の、自然の営みを破壊するのも、人間が開発した光りや、科学技術である。しかし、其れを悪く言うばかりでは、問題は解決出来ない。
其の事に拠って、私ばかりでなく、総べての分野で、自然の生き物達の生態も明らかに成り、逆に、保護する手段も執れる様にも成って来た。
詰まり、光りの存在が、人間の文化や意識を変えて来たと言えるのだ。
科学の世界ばかりでなく、意識の世界も、教育が土台の処にある。
全ての問題も、教育が正しく行われなくては解決しない。
其の教育の結果が、現在のIT社会を創り出したのである。
そして、其の教育の世界も、光りファイバーの出現で、大きく変わろうとしている。
人間が創り出した光りの世界が、「天照」や「アミダ」や「ビルシャナ」等の、宗教の光りの概念を、変える処まで、時代は進んで来た。
今後、この新しい光りの世界を利用して、教育を正しくし、子供達を健康に護り育てて行けるかどうかが、我われに与えられた使命である。
「児」の漢字は、男の子の意味だそうである。
是までは、女性が家庭生活を護り、男性が社会を変えて来た。
新しい社会を創る為には、特に男の子をシッカリと護り育てる必要が、あると告げて来たのだろう。
子供が大きく成り、其れなりの働きが出来る様に成るのには、20数年の月日が掛かる。
私は、是で、生きて居る限り、新しい社会創造の為に、働いて行かなければ成らなくなった。
21年前は、神霊界が体を貸してくれとの事で、16年半の期限付きだったので、其の気に成ったのだが、今回は、期限も無い様である。
私は、やはり、昨日山を下りてしまったのだ。もう山には、帰れないのだろうか。
悠々自適の名を、自分で持って来たわりには、そう成らないのが、この世界の妙である。
平成17年12月3日
礒邉自適
2005/12/2
管理完結 (ことばをはずす)
17・12・2
今朝のメッセージは、と言うより、今朝送られて来た画像は、管理に付いての極まりの様に感じるモノである。
私自身が驚くのは、管理に付いての認識をして、文章を書いて、今日の分で丁度10弾と成る。
今朝は、神が、数遊びをしているかの様に、トウトウ完結の場面構成が、映し出されて来た。
劇場は、山の中腹の建物で、登場人物は、私と他に、男性二名である。
其の建物は、唯一軒だけ山中に存在し、他に人間は誰も居ない。
建物の状況は、柱と屋根が有るだけで、壁が何も無い。
座敷は板張りで、2間の4間の広さで、長い方に1m幅くらいの縁側が付いている。木造で、古びた木質の色の他には、装飾も何も無い。
座敷の他には、台所も無いし、仏壇や仏具、其れに神棚も神具も無いので、寺でも神社でもない。其れから、家具や食器や本など何も無い。
直射日光も当たっていないので、光りも無く、風も無いので風音も無く、小鳥や虫の声もしない。
ただ山中の一軒屋に、三名の男性だけが居るだけである。
向かって、右に居るのは、私より何歳か年長で、左の男性は私より年下の元気そうな若者である。
年長の方は、一重の衣を着流しに着てはいるが、若者の方は上半身裸である。私も、裸ではないが、大した衣服は、身に着けている感じは無かった。
其処で演じられた事は、唯「言葉を外す」との内容が、話されただけである。
右側の男性は、聞き役の様で、何も話さなかった。
左側の若者が、何か理屈を言い掛けたので、私が先に口を切った。
私が話した事は、釈迦の「十二縁起」に付いてである。
私はこう言った。
「釈迦は 人間は行く(すすむ)と 物事が目に着くので 其れに名を与える。名を与える事で 思考が生まれ 言葉を綴る様に成る。そうなると悩みを創り出し 其れで起きる感情が 様々の問題を発生させる。だから言葉を使う事を止めることだ。と云っている。」と、力強く話し、すかさず若者の肩を、平手で強く叩いた。
すると若者は、唖然として 空中を見上げ 茫然自失と成った。
私は、役目を果たしたらしく、縁側に出て、座敷の敷居に腰掛、外の景色を眺めた。すると、年長の方も縁側に出て来て、私の右横に座った。
その人も、感じる事が有ったらしく、満足している波動を送って来た。
そして、黙って、自分の食い掛けの柿を、私の方に差し出した。見ると、もう半分以上は齧っている。私は、其の柿を見て、どうしたものかと考えて居た。
其の御仁は、他には、何も持っていないのである。
最後の残り物を、私に差し出したのである。
私は、断って良いものかどうかの判断に迷いながら、自分の左側を見た。
すると、生味噌が一塊と、穀物を炒った「飯・いい」が、縁板の上に、其のまま無造作に置かれている。
私はどうやら、生味噌と、乾し飯を食べて、生活しているらしい。
私は、相手に「私は 食べ物は有りますので」と、丁重に答えて、其れを辞退した。
そして、景色に目を移すと、遥か向こうの眼下に、町が見える。
私が「町へ降りますか」と訊くと、否との意志表示をした。
私は其処で、「ああこの人は 未だ世間に対して 拘りが有るのだなあー。」と感じて、其の場を去る為に 自分の食べ物の後始末に掛かった。
若者を見ると、未だ、空中を見て居るのだが、其の顔の表情には、悟りの喜びが満ち溢れている。
私が安心した処で、今朝の劇場は終演と成った。
私は、今朝の映像を、忘れない様に反復してから、トイレに起きた。
時間は、午前3時丁度である。私は、再び床に入って大きく息を吸った。
すると、心臓の鼓動音と、自分の呼吸の中に、音色を聞いた。
そして、一つの作業が終わったのを感じた。
6月6日に孔紀氏と繋がり、其の事で、急速に神界が動き出し、慣れないパソコンに必死に立ち向かって来たので、呼吸が浅く成って居たのだ。
そして、其の事が理解されると「自適塾」との言霊が立ち上がって来た。
其れは、今朝の場面の続きが、自適塾で開始されるとの事ではないだろうか。
私は、再び、自分の立場へ還るときを、迎えたのかも知れない。
そうする事が、此処半年の現象を、役立たせる事に繋がるのかも知れない。
12月6日で、孔紀氏と繋がって丁度丸6ヶ月である。
2000年12月6日に、初めて、インターネットにホームページ「木のネット」「森の木」を開設した。其れから、丁度丸5年と成る。
私の考えていた事が、孔紀氏のはたらきで「UPO・世界平和機構」として、10月10日にインターネット上に立ち揚がった。
既に、世直しの旗が立てられたのである。
そして、其れとは別に、ミクシィーと言うサイトも在り、二年間で100万人を超えている。
是は、昭和20年8月15日に、奈良の矢追日聖氏に降りた天啓が、実現して来た事にも成るのではないだろうか。
愈々、私の一人言でしかなかった事が、現実の事として、世間に認識される日が来るのだ。
私は、肉体を持って町の中に降りて行かなくても、こうして、求めている人には伝わる様に、神霊から伝えられて来る画像を、言葉に変換して、届ける事が出来る。
神霊が、21年前に「16年半掛かる。」と云った事が、5年延びたが、其れは神霊にも予想しなかった展開が、起きたからだろう。
人類には、未だ、世界を一つの意識に結び付けた人物は、存在しない。
神霊界でも、始めての出来事なのだ。だからこそ、準備の為に、年月を要したのだろう。
今朝の演劇の建物は、誰も所有しない建物であった。
勿論、私の所有物でもない。誰も管理をしていないし、誰でも自由に出入りが出来て、使用可能な建物である。
人間は、意識が自由に成りさえすれば、自分の所有物は無くても、世界を楽しめるのだ。
其れが「極楽」の漢字「極・きわまった 楽・らく」の意味だろう。
自分の肉体を離れたり、この地球を離れては、極楽は何処にも無いのだ。
無の世界には、無しか無いのである。
「西方浄土」も、言葉のマジックで、何処にも無いのだ。
この素晴らしい、神の意識が現象化した世界の中で、魂しいを磨き上げて行くしか、他に道は無いのだ。
アレアレ、演劇とは違う場面に嵌り込んでしまっている。
是では、言葉を外す事には成っていない。ここらで止める事にしよう。
夫々の立場を、尊重しなければ・・・・
平成17年12月2日
礒邉自適
2005/12/1
十六の絵 (うつぷるい)
17・12・1
今朝の映像は長くて、とても全部は巻き戻せない。
大まかに結論を言えば、新しい菊花紋を画く必要が、出て来たと言う事である。
今朝のメッセージは、是から始まる、未来社会の価値観や生活の方法等、総べてを、企画運営して行かなければ成らないとの事だ。
其れは、誰かが、新しいイメージを組み立て、宇宙のシステムに送り込まなければ、現在の業のまま、時代が進行して行き、行き詰まってしまうとの事である。
昨日のメッセージに有った事が、現実社会に転写されたとの事であろうか。
これ等の事柄に付いては、過去の文献には書かれていないだろう。
其れは、惟神の世界として、公の場には公表しない様にして来たからかも知れないし、今までに無い次元に、人類が到達しようとしているからかも知れない。
しかし、今朝の映像は、決して格別な世界ではなく、ただの人間の暮らし向きに付いてだけであった。
其れは、様々な人間の日常の暮らしが、「愛」を基本として、営まれて行くとの事だけである。
今朝の最初の映像は、乳飲み子が三名出て、三歳くらいに成る迄に、二名に成っていた。
其れは、幼児死亡の原因に付いての問題であり、医療や栄養、自然環境等、社会環境の整備に付いて示しているのであろう。
次の映像は、私が買い物袋を抱えており、自分の自転車が故障して、通り掛かりの人の車に乗せて貰う事に成った。
バスや電車などの、行通機関が無いのである。是は、交通に付いてであろう。
次の映像は、私と妻が、雨にビショ濡れに成り、二人共、裸で毛布一枚被って、山小屋の軒先に雨宿りをして居た。
其処に、ヤマアラシが来て、「獣・毛物」は自前で服を着ているが、人間は衣類が必要である理・ことが認識された。
次の映像は、海の交通で、船が嵐に合うので、レーダーや無線通信が大事であることが示された。
次の映像は、私が、妹や娘が小さい時に、抱えてオシッコをさせているのが現われた。
其れは、私が、其の行為をする事で、愛の行動が、身に付いた事が知らされた。
他にも、未だ場面は続いたが、最後には、車のプレートの様な名札が出て来て、大事な人の名があった。
其のプレートに、書かれている名の人が、称えられているのは、薬の使用方法の本を出したかららしい。
其の映像の意味は、薬を作って売る人は、お金は儲かるが、薬の効き目だけしか説明せず、其の薬の害や副作用は説明しないので、代わりに、正しい立場で、本を出す必要があるとの事である。
その人の名が、アルファベットなので読めないのだが、意味として「アイマル」だと知らされた。
其れは「愛O」との意味で、丸の中に愛の漢字が入った形で、新しい社会のマークが(愛)との事だろう。
愛が、基本にある社会体制を創れと言うのが、今朝のメッセージの核心の様である。
現在の社会は、テレビや雑誌、其れにインターネット等の情報が、人間の意識を動かしている。
其の一番の問題は、後ろに、企業や団体や宗教等のスポンサーが付いていて、情報の中身をコントロールしている事である。
其のシステムが、子供や若者の意識を、正常では無い状態に導いているのだ。
現代社会の社会構造は、正しい教育者や、正しい政治家・宗教家等が、冷飯を食わされていて、表に出られない様に成っている。
皆から集めた受信料で、運営されているNHKまでもが、何やら、変しく成って来てしまっている。
菊花紋は、十六に分割された世界を意味するモノである。
人間の暮らしにも「智恵・力・技術・魂・勇気」とか、色々様々な世界が必要である。
其れを認識する手段として、菊花紋を考え出したのだ。
更に、神社では、平面の十六だけではなく、縦の十六として、神に到達する迄の、十六段の階段を社の中に作った。
16x16は、256である。
一番上の神(天の御中主神)に到達する迄に、十六の段階を踏まなければ成らないのだ。其れが、一番下の「伊邪那美命・いざなみのみこと」から、「高御産日神・たかみむすびのかみ」までの十六の階梯である。
其の一段毎に、十六の分野が有るのだ。
人間は取り敢えずの処、256縞の織り込みを、目標としなければ成らない。
其れが、昔から日本に伝えられている「上津文・うえつふみ」である。
今朝のメッセージは、「愛Oさん」が沢山現われ、正しい意識で、神々に代わり、企画を立てる様に告げて来たのだろう。
其の為に、昨日のメッセージには、宇宙のエナジーの世界が現われたのだ。
神は、人間に、其の権限を渡したのである。
もう神が直接ハルマゲドンを起こす事は無いのだろう。
そうであれば、尚更の事、人間が、本当に自覚を新たにし、努力しなければ成らない。
アイマル君の、人気グッズを作成したら良いかも。と、想う私も、未だコマーシャル・ベースに侵されている様だ。
平成17年12月1日
礒邉自適
1 2 3 4 |
《前のページ | 次のページ》