このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2005/12/31
だったらどうする
17・12・31
其れは 自問自答の声
古代脳と 近代脳の戦いが 始まっている
エホバと名付けた者も ブッダと成った者も
其の 自問自答の声に怯えた
其れは蛇と 人類の戦いだ
其の戦いに 勝った者だけが 聖者と成った
其処には 何億年の 時間の溝が有る
其の 溝に掛けられた橋で 近代脳は悩んで来た
其れは トキの 生命力が
生み出した 世界だ
其の トキの生命力が
生み出した物が いのちの鎖だ
其の いのちの鎖が 言葉を 創り出した
言葉は 雌雄が 引き裂かれた為に 起きた
悲鳴が 基に成っている
雄の 鶏冠の色や
雌猿の 赤いお尻は 彼等の 言葉なのだ
人間は 赤い色を 失った為に
言葉が 必要と 成った
しかし また 言葉の代わりに
口紅を 使い始めた
其の為に 男性は 自分の言葉が 使えなく成り
自分が 創り出した 言葉の中で
混乱を 起こしてしまっている
折角 雌を獲得する為に 開発して来た 言葉が
役に 立たなく成ってしまったのだ
其処では
神も 知も 智も 考も 消えている
もう 朋さえも 存在しない
其の 苦悩の中で
パスカルや フロイトや 賢治は 言葉を連ねた
其の 苦悩の中から
抜け出す方法を 見つけたのが ゲーテで
苦悩から 抜け出すのに 成功したのが 釈迦牟尼佛だ
わ ら や ま は な た さ か あ
ん を お
の48音の中に 自分の総ての基を 見っけたのだ
もう 其処では 自問自答の声は 消えている
アーメンも オーメンも オームも ナームも
一輪の 蓮の花の中に 消え去っている
花一輪には 人間が 創り出した 言葉を
消し去る 力がある
其の力に 気付いた者が
花を 俯いて観て「ウツクしい」の言葉を 生んだのだ
其れを 超える言葉は 未だに無い
拈華微笑の 答えは 未だ
三次元では 消化されていないのだ
其れは 蛇の脳が
色彩区別のセンサーを 持たないからだ
人類は未だ 蛇のもたらす 呪縛から
逃れられないでいるのだ
苦悩の中で 近代脳が
余りにも多くの 言葉を 創り出した為に・・・
平成17年12月31日
礒邉自適
私の詩篇だけのブログ
http://sun.ap.teacup.com/20061030/
2005/12/31
トキの生命力
17・12・31
是が、今年度最後の文章と成る。
今朝の意識の始まりは、22年前に、私が無理やり家から追い出した、妻のもとに帰って居る映像だった。
其の映像の意味する処は、私の意識が22年前に、戻ったと言う事であろう。
しかし、其れは、22年前の事であり、過ぎ去った時間と、過去の世界は、取り戻せない。
もう、22年前の昔に返って、遣り直す事は不可能なのだ。
何故、其の様な情報が、意識に浮かんで来るのだろうか。
其れは、私が神の世界に入った瞬間に、私の個人的な自我意識が停止して、霊界の情報の裏側に、隠されてしまっていたからである。
其れが22年振りに、4311体の神霊の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が片付いて、削除されたから、裏側に隠されていた面が、表に現われ出たのだ。
しかし、今更そう成っても、浦島太郎の物語と同じで、帰れる元の家も家族も無いのである。
在るのは、無に成って解き放たれた、たった一人の私である。
是は、刑期を終えて刑務所から出され、門の外に一人で佇んでいるのと同じだ。誰も、向かえに来てくれる家族も、知り合いも居ない。
まして、22年間付き合って来た4311体の霊界人達は、自分のカルマが解き放たれ、自由に成ったので、エナジーの中に溶け去ったのか、蜘蛛の子が散る様に逃げ去ってしまっている。
是は、イエスが捕らえられた時に、弟子が全部逃げ去ったのとは違う。
イエスの時は、弟子は逃げ去っても、其の劇を見る観客は大勢居たし、イエスに関わる役人等が大勢関わっている。其処には、単なる孤独感だけがあるのではない。
今朝の私の意識は、味方も、敵も居ないし、神さえも存在しない世界である。
其の無から逃げ出す為には、自分で一切を創造しなければ成らないのだ。
先ずは、神に、名を与える事から、始めなければ成らない。
神に名を与えなければ、思考を組み立てる当ても無いのである。其れは、パスカルの「我れ想う故に 我れ在り。」の心境に似ている。
先ず、「吾」の存在を確認し、「お前・you」の相手を探し、定義付けしなければ成らないのだ。
相手を見つけなければ、「知」(言葉を知らせて来るモノ)の存在も無いし、其れを伝える「智」(口を開けて伝える)の相手も存在しないのだ。
相手が居なけば、「考」(長生きして居る老人の体験知識)も、役には立たない。
目に映る景色(色)が無く、話す相手も存在しなければ、其処には「自問自答」しかなくなる。
神も 知も 聖も 知も 考も、成立する事が出来ないのだ。
天帝の存在を、前提としなければ、皇帝を名乗り様がないし、「朕想うに」と、国民に「治ろ示す」事も出来ない。
総ての意識が消去されれば、「素目身真・スメミマ」の概念も消えてしまう。
其処から、無理に思考を動かせば、自問自答の世界に、落ち込むだけである。其れは、人間の脳のシステムの欠陥だ。
自問自答の世界に、落ち込まない為には、自分の内側の「いのちの声」を聴くしかない。しかし「いのち」の声は、言葉ではなく、総てが画像の情報である。
其の、いのちの画像のフイルムは、食べ物が持っている、胃袋の中の穀物こそ、画像用DYDを保存しているのだ。其れが「謂」の漢字の意味である。
出雲の熊野大社の、「熊の大神」の名は「神祖熊野大神櫛御氣の命(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)・クシミケヌの命」である。クシミケヌのクシは、玉櫛のクシで、ミケヌは食べ物の事である。
食べ物の持つ情報こそ、森羅万象に繋がる「クシ・通し」の役割を果たす物なのである。
今日、日本では、神棚に御餅を供えて、玄関には門松を立てる。
其れは、先祖の霊魂を呼び戻す為の細工なのである。
保食の神(うけもちのかみ・受け餅の神)は、熊野大社の神の事である。
10月15日に、杵搗大社(出雲大社)で搗いた餅を、熊野大社が受け取るのが、保食神の名の由来である。
伊勢の内宮の神「天照大神」も、外宮の「熊野の神・トヨウケ」が居なければ、役に立たないのだ。
28日に出て来た、パソコンの赤いX印しは、もう神霊界の思頼が全部終わった事を、知らせて来たものだろう。
其れは、月読みの役割が終わった事をも、意味しているのかも知れない。
後は、三次元を司る天照の登場を待つしかないだろう。
天照には、自問自答する暇など無い筈である。
私は是から、22年間の空白の穴埋めを、何とかしなければ成らない。
本当に、酷い目に遭ったものだ。
無料で映画は観られたが、余りにも犠牲が大きかったと思う。
其れは、2600年間の歴史の垢を落とすのに、仕方が無い事だったのかも知れない。
落ちて行った垢も、私のアルバムや文章の文字に、其の足跡を残している。
其れが、子供達に、何等かの参考に成れば、私の罪も軽く成るし、父親としての責任を、少しは果たす事にも成るだろう。
子供の事を思う時、其処には自問自答はない。
其れが、生命の本当の純粋さだと想う。
平成17年12月31日
礒邉自適
2005/12/30
当然
17・12・30
今朝も、メッセージは来なかった。
メッセージが来なければ、私の脳は動かない。
動かなければ、自分が意識して「マントラ(言葉は考える器)」を引き出すしかない。
そう意えば、やはり対象は老子に向かう。
老子は何時も、今の私と、同じ状態に在ったのだろう。
老子の名を用いて、言葉を連ねる事は、老子の意志に反するのだが、其処は大目に見て貰うことにしよう。
老子は、「道から外れたら 神も 力を出せない。」と、謂っている。
其れは、神霊よりも意識が上に在る事を、伝えている。
老子の謂う「道」とは、「玄・ゲン・くらい」中に、最初に現われた働きに対してである。
私も、自分の脳を、霊界の誰かが使わなければ、意識の的はどうしても其処に行ってしまう。
其の同じ処に、釈迦牟尼佛の意識も到達していたし、イエスキリストも其の働きにチャンネルし、力(フォース)を使用している。
今回のプログラムは、彼等の後追いをして居ては、成功しないのである。
では、誰が、新しいイメージを創造し、フォース(力・勢力・軍隊)を使うのか。
其れが、是からの未来創造の鍵である。
未来とは、文字の如く、未だ来ていない世界である。
其の「未来」とは、待っていては来ないのである。
誰かが、道を実行しなければ、未来は生まれないのだ。其の、老子の謂う未来を、創造する者とは、愚の骨頂を、実際に実行して居る者である。
其の者として、釈迦牟尼佛がウッカリ名を挙げたのが、釈迦より先に死んだ、弟子の「彌勒・ミロク(マイトレイヤ)」である。
そして、ユダヤでは「メシア(キリスト・神に選ばれた者)」として、其の者の出現を待っている。
2000年前のイエスは、其れに、合格していない。
イエスは、フォースを使用したが、釈迦牟尼佛と老子は、其れを使ってはいない。
釈迦や、老子と同じ時代に、其れを使ったのが、日本の「神武天皇」である。
西洋の王様は、殆どが、海賊の子孫だそうだし、蒙古のジンギスカンは盗賊である。フォースの杖を授かったのは、モーゼの後は神武である。
ユダヤは、国を失ってしまったので、実際の流れは、中断してしまっているが、日本には、どうにか形だけでも残っている。
天智天皇や、後醍醐天皇は、其の復活を図ろうとしたのだ。
昭和天皇も、亡くなった日の夜中、私の心臓に飛び込んで来て、その後2月24日の大葬の日に現われ「我が身 既に遠く 良き世を 願い奉る」と伝えて来た。それから、17年が経過した。
私が、地球の未来を委託されたのは、1984年6月4日(旧暦5月5日日)で、期限は、神武の時と同じで16年半だった。
其の満了日は、2000年の12月5日だったのだが、新しい政(まつりごと)が未だ起きてはいない。
既に、其の時点から5年がオーバーしてしまっている。
其れは、2600年前とは、文化も文明も変わっているし、一番変わってしまっているのが、人間の価値観であるからだ。
現代社会は、お金や物が貰えれば、何処まででも遣って来るが、「神が 新しい政を始めろと 云っている。」と告げても、集まる人は居ない。
其れが、今回、神のプログラムの実行が遅れている理由である。
其れが、ようやく実行出来る時節を迎えている。
昨日は、書かなかったのだが、其れを書かないと、神が動けない様なので、今朝昨日の分を、此処で書く事にしよう。
昨日は、明け方に映像が映し出されて来て、空に黒い雲が現われ、其の雲から三極の稲光が地球に下り始め、地上の人間の体に流れ込み始めた。
すると、地上の人間は皆、慌てふためいて逃げ始めた。しかし、電気の流れが人間の逃げる足より速く、皆が其の電気に感電していた。
其の映像の意味は、雷の電気が、神の本当の「からだ・姿」だと言う事である。
漢字の「神」は「示+申」の組み合わせで、祭壇と雷の電気の組み合わせだから、祭壇の前で神の電気を受け、自分の神経に流し込むことを意味している。
其の現象が、実際に身体に起きたのが、「出口ナオ」や「岡本天明」である。
昨日の、雲から流れ出した三極(三本)の稲光は、人間に、新しい情報を流し込む事を知らせて来ている。
其れは、2600年振りの、新しい次元の金鵄の出現である。
雷は、水の分子構造に含まれている、+とーの電子で発生するものである。
人間の身体も、同じ電気の仕組みで動いている。
其の、電気信号で動いている脳のコントロール機能に、違う情報が流れ込んでくるのである。
其れに因って、人間の遺伝子を司っている「ウイルス・DNA」が、新しい動きを始めるのだ。
後は、旧約聖書にある「神は 自分に似せて 粘土(ケイソとアルミ)で 情報を組んだ。」との世界が、再現されて来るのだ。
其の為には、「カイン・所有」と「アベル・自我」を生み出さない、エデンの園を創造しなければならない。
今朝は、老子の思考が、自分の意識の土台であり、釈迦牟尼佛の「神霊の思頼・みたまのふゆ」も消化済みである事が理解出来た。
そして、「素目身真・スメミマ」の働きが出現しなければ、物事が動かない理・ことが認識された。それは、22年前知らされた事が、是から始まるとのことであろう。
今朝は、神の電気を流すトランスの役は、私しか出来ないのだろうかと思うと、「当然」との言葉が、脳のコア(壷)に響いた。
其の内面の音こそ、宇宙の玄の響きであり、日本語の「ことだま」の意味なのだろう。
自分の脳髄に響く音こそ、宇宙の存在に直結する「こだま」なのだ。
其の音を、奏でる糸が、漢字の直(瞼の中の十字架)なのだ。
其の十字架の糸が、傾げる(かしげる)トキに、ロダン作の地獄の門で考え込む「悩める」人が現われるのだ。
「御陵威・みいつ」をトランスする者は、北を背にし 椅子に座し 姿勢を正し 自我意識を動かしていけない。若し、自我意識を動かせば、脳が働いて血を送り出す心臓の動きが、変調を起こすからである。
「寸」の漢字の意味である、右手の脈を、左手の親指で測る事さえ、自分で行ってはいけないのだ。
其の事だけでも、心臓の脈拍が変調を起こすからである。
そんな、こんなで、次の大嘗祭までに、準備が間に合うのだろうか。
余計な事を、頼まれてしまったなあ・・・・・
ああ 其れから、「当然」とは 道理上からそうあるべきこと。あたりまえ。
広辞苑
「黨(当)」あたる。まさに。ねがう。 漢語林
「然・ゼン(月+狼+火)」 雷の稲光と 山の狼が怖いの意味。しかりしかり。
自適訳
平成17年12月30日
礒邉自適
2005/12/29
当てが無い
17・12・29
今朝の内容は、メッセージとは、云えないものだと考えられる。
と云うのは、今朝の内容は、外からのモノではなく、内側からのモノの様なので、他からのメッセージとは云えない様に考えるからである。
今朝の私の意識は、ベッドの布団が、ズレ落ちるのを感じている体のセンサーと、亡くなった無庵師匠の面影を求める、無意識が重なり合って、落ち着かない意識の流れを、生み出している感じだった。
其の、自分を知る顕在意識が目覚めて来て、何かを探ると「当てが 無い」との言葉が生じて来た。
其れは、私の内から神霊の働きも去って、自分の主体意識が、戻って来ている事の証ではないだろうか。
其れは、外からの意識の介入が止んで、自分の内側だけの情報網が、戻ったと言う風に、説明出来るのかも知れない。
もう過去の人達が、言葉にして残した、汚染データーが全部消化されて、神佛の名で生じていた概念が、全部溶け去ったのだと想われる。
もう神の名が消えて、自分の此の肉体だけが、宇宙の進化の縮図なのである。
其れは、動物の世界と同じ純粋意識であり、人間の匂いが何もしない、本来の世界である。
言葉が無いので、日常の暮らしの環境情報と、其れを背景とした、眠りの中の夢だけが、脳の中の画像なのである。
其の様な、状況の脳の立場では、「当て」が何も無いのである。
古代の人類の生活は、暗い夜が明けて、太陽が昇り、腹が減れば、餌を探しに出かけて行く。たった其れだけが、繰り返される連続の毎日である。
其処には、「名・名詞」で、病む(悩み)事も無く、こころを配る(心配)必要も無い、静寂な日々が、繰り返されているだけである。
何故、今朝、其の様な意識に成ったのだろうか。
私は、12月23日に「元旦」も「イエスキリスト」への想いも、既に通過してしまっているので、年の瀬が迫っているとの感覚も、一切無い。
仕事は何も無いし、妻や家族も居ないので、身の周りが騒がしい事も無いのである。
其の、何も無い状態で、毎日、気にしているメッセージが来なければ、其れこそ当てが外れて、意識を向ける「当て」が、何も無いのである。
日本の神社で、何故、正月に縁起物として「矢羽」が配られるのか、分かる様な気がする。其れは、新しくて縁起の良い、意識の的に向かう事が、出来る様に願うものであろう。
しかし、今の私には、もう何処かに向かおうとの、気持ちも無い。
だから、何も求めない心のもとでは、意識の動き様が無いのだ。
人類を、救おうとジタバタしていた霊達も、師走だから、自分の子孫の所へ帰ったのかも知れない。
私の肉体は、魂(球しい)が空に成り、本当に「体・空ダ・からだ」に成ってしまった様である。
だが、私の脳も、働きを止める事が出来ないので、思考先を探していた。
すると、漸く画像を拾い出す事が出来た。
其の画像は、半日、陰の場所になる、地べたの水溜まりである。
其の水溜りには、数匹の水澄ましが居るらしく、小さな波紋が、数環拡がって行くのが視えた。其れは、宇宙を表す、極限の姿なのかも知れない。
宇宙には、物としての存在が目に見えているが、其れには、目に見えない振動波が伴っている。
其の、目には見えない振動の波こそ、総ての調和を図る、基本的振動(イザナミ)なのではないだろうか。昔の人は、其の振動波を知っていて、「イザナミ・いざ波」の名を与え、総ての物は、イザ波の肉体から生じたと、概念化したのかも知れない。
神社での禊ぎ祓いは、人間の醸し出す、荒い不調和音を消し、基本的な波動に自分を帰す為に、行われていたのだろう。
其の調和を取り戻す為に、食べ物の持つ波動を大事に考え、新嘗祭の儀式を行い、食べ物の事を「け・ケ」と呼んで、「神祖熊乃大神櫛御氣の命・かむろぎ くまの おおかみ くしみケぬ の みこと」として、永く御祭りして来たのである。
今朝、何も無い私の意識の中に、波紋だけが映って来たのは、何故であろうか。其れを、私が見たのか、何者かに見せられたのかは、判別出来ない。
多分、其の世界が、神と人間の、意識の接点ではないのだろうか。
私の意識は、水溜りの波紋から、次の情報を探って居た。
すると今度は、昨夜見たテレビの映像が思い出されて来た。其れは、星の様に光りを反射している、綺麗に磨き上げられた革靴である。
其の靴は、渡邉恒雄と言う人に、久米宏の後を継いでいる司会者が、インタビューをして居る場面で、清原や堀内や視聴率の件に付いて話した。
私は、其れを垣間見て、別段何も感じてはいない心算だったのだが、二人が履いていた黒い靴が、思い出されて来たのである。
私の意識は、其の靴から、自分の現場には、必要ない人材だとの判断を下していた。
何故、そう想うのか、其の判断基準を探って行くと、私が是まで、現場で足に着けていた履物のデーターに、合わないからである事が解かった。
自分の、足の感覚のデーターを辿って行くと、「裸足」で地べたを歩いていた足、「草鞋」を履いた足、「下駄」を履いていた足、「運動靴」を履いた足、其れに「雨靴・地価足袋・磯足袋・田植え足袋・鳶足袋・スニーカー・革靴・靴下・日本足袋・雪駄・スリッパ・水中を泳ぐ時の足ひれ等、色んな履物を履いた記憶が在る。
そして、其の履物は、夫々全部異なった、現場の情報に繋がっている。
私の足は、様々な現場を歩き、色んな情報を紡ぎ出して来たのだ。
更に、手にした道具を思い出し、其れに関する現場を思い出して行けば、無限大に情報が膨らんで来る。
それらの情報が、どんな仕組みで、大脳の奥に収納されているのかは、現在進められている脳の研究の、成果を待たなければ成らないが、解かっている事は、水澄ましが波紋を出して居るのは、遊ぶ為ではなく、水面に餌が落ちて、波紋の返りが変わるのを、調べているのである。
私が、現在パソコンの前で、毎日行っている作業は、其の水澄ましの行動と何等違いが無い様である。
私は、パソコンに向かって言葉を文字化して、世界に向けて拡げ、其の波動の返りを調べているのである。
考えて見れば、私はパソコンの前に座り、莫大なエネルギーを消費しながら、水澄ましの真似をして居るだけなのだ。
何と、無駄な作業を続けているのだろうか。
昨日、パソコンの画面の真ん中に、赤色の「X」の印しが現われた。
其れは、もうパソコンに取り組む作業の、終わりを告げて来ているのかも知れない。と言うことは、もう無意識の世界で、完全な認識が、出来上がっているとの事だろうか。
昨日は、「舞台」との言葉を、不用意に使用してしまったが、観衆の居ない処では、舞台を設置する必要は無いのだ。
現在の私に、舞台が在るとすれば、インターネットの世界だが、其処にまでX(バッテン)が表示されれば、私の意識は的を失う事に成る。
是は、他人事では済まされない。自分自身の「風 麦東 陶・ふうれんとう」を確立して行かなければ成らないのだ。
早くそうしなければ「讜逓聖・とうていせい」のメッセージも、無駄に成りかねない。
「風 麦東 陶」も「讜 逓 聖」も、私自身の的として、神霊が授けてくれた物ではなかったのだろうか。
平成17年12月29日
礒邉自適
2005/12/28
強力な新型ウイルス
17・12・28
昨日のメッセージに「準備が出来たよ」とあったので、今朝はどんなメッセージが伝えられて来るかと、楽しみにしていたら、私が想っていた事と、全然違う内容が伝えられて来た。
今朝の映像の始まりは、暗くて何も映されていない、パソコンの画面が現われ、其の画面を私の意識が見ると、画面の中心に、赤いXのバッテンが表れ、他には何も映って来ないのである。
私の意識は、何度もアクセツを繰り返していると、右側のメニューが現われ、其処にカタカナで「スサノオ」や、他の神の名前が幾つか並んでいる。
其の、神々のアクセツ数を見ると、0とか3とかで、多いものでも20以下の数である。
私の意識が、期待外れに成り、少し戸惑っていると、突然、水色の文字が脳裏を横切った。其れは、「強力な 新型ウイルス」との意味である。
そして、いつもの様に、映像が映り出した。
其の映像には、30代のレインジャーの格好をしている女性一人と、普通の格好をして、ソツポを向いている女性一人が現れ、レインジャーの格好をしている女性だけが、是から、現場の活動に向かう様子が伺えた。
私は朝、強力な新型ウイルスが発生して、人類が減らされるのかと想いながら、事務所に出て来て、広辞苑でウイルスを調べて見た。
すると、次の様に載っている。
【virus ラテン語】遺伝情報を担う核酸(DNAまたはRNA)と、それを囲む蛋白殻(カプシド)から成る微粒子。蛋白・脂肪・糖質を含む外皮(エンベロープ)を持つものもある。大きさ20〜300ナノメートル。それぞれのウイルスに特異な宿主細胞に寄生し、その蛋白合成やエネルギーを利用して増殖し、それに伴い細胞障害・細胞増殖あるいは宿主生物に種々の疾病を起こす。宿主と種類により動物ウイルス・植物ウイルス・昆虫ウイルス・細菌ウイルス(バクテリアファージ)に大別。人や動植物の病原体。濾過性病原体。バイラス。ビールス。 ウィキペディア辞典 現在記載
今朝のメッセージの内容を、私なりに考えると、昨日「準備が出来たよ」と伝えられて来たのは、神々の方が、全部の準備を整えたので、何かを始めると言う事ではなく「過去の整理が済んで、舞台が準備出来た。」との意味の様である。
其れなら、未だ、舞台の上で演じる役者も、監督も、舞台装置も調えられていないと言う事である。
其れは、漸く、過去の人達の念いや、頼み事に関する、カルマ・業・柵が解けただけで、是からの未来は、未だ創造は出来ていないとの事だ。
つまり、ゼロから全てが始まるとの、事ではないのだろうか。
準備が出来たと言うのは、未来の準備が出来たと言う事ではなく、ようやく過去の整理が済んで、新しい舞台を建設しても、可との事の様である。
そうであれば、未だ何も、構築されていないのだ。
この事から、考えられるのは、神々は、何もしてくれないと言うことである。人間が、全部、自分の手で物事を興して行かなければ成らないのだ。
神々は、只 其の者達にエネルギーを与えてくれるだけで、直接は何も手出しをしないのである。
と言う事は、もう過去の神々の名を唱えるだけで、自分では、何もしない人は、取り残されるだけである。
そして、何者が、新しい舞台で事を始めるかと言うと、其れが「強力な新型ウイルス」である。
人間が、類人猿から別れたのは、700万年前である事が、アフリカの中央砂漠のチャドで発見された化石に因って、判明した。
人類は700万年前に、遺伝子の大きな変化を経て、今日に到っている。
其の時と同じ様な変化を、是から迎えるのかも知れない。
其れは、体形的な変化ではなく、大脳の使い方に於いてである。
人間の脳は、是まで、生きる為の知識や技術を習得する為に、多大な努力を積み重ねて来た。
一方、其の為にストレスが蓄積し、其れを忘れる為の対策を、執る事も覚えて来た。其の両能力の為に、混乱が生じて来て、悩みと不安、其れに病気の原因を、創り出してしまっている。
其れが、パーソナル・コンピューターの登場で、記憶しなければ成らない苦痛から、漸く逃れる事が出来る時代を、迎える事が出来るのである。
其の事が出来る御陰で、人間の脳は開放され、自由に成った脳は、本来の働きを取り戻し、新しい次元へ、向かう事が出来るのである。
其の新しい意識の開闢に、力を発揮するのが、新しきウイルスなのだろう。
其のウイルスは、コンピュータ上で、新しき情報を流す働きと、この現実社会で「この指止まれ」と、手を上げて物言う人の働きの、両方に姿を現すのだろう。
そして、30歳位のレインジヤー姿の女性は、其の新型ウイルスの遺伝子情報をターゲットとして動き出す、優秀な卵子を蓄えた、婚期の遅れた女性達の存在を、意味しているのではないだろうか。
そして普通の侭で、行動を起こさない方は、自分の遺伝子を残せないと言う事であろう。
女性の優れた能力は、優秀な種を選ぶ為の直感力である。
現在、女性の婚期が遅れているのは、雌の本能を、刺激するだけの力の有る雄が、なかなか見つからない所為であると考えられる。
子供の事を考えるのは、普通は、産まれてからの事である。
其れが、子供も居ないうちから、子育ての事を考えて、子供を産まないと言うのは、何処かが変に成っているからだ。
新しい新型ウイルスが登場し、力を発揮する様に成れば、人の価値観も変わり、其れに因って、社会の概念も、システムも変化するだろう。
今朝のメッセージは、新しき遺伝子に記憶を注入するウイルスが誕生し、新しき舞台で、コスミックダンスを演じる様に成るとの事ではないだろうか。
それが「準備が出来たよ」との意味ではないかと想われる。
そもそも私が、こんな事を遣って居る事自体が、新しいウイルスの為す技かも知れないのだ。そう考えれば、全部納得出来るものがある。
平成17年12月28日
礒邉自適
2005/12/27
「準備が 出来たよ」
17・12・27
昨日、私の宿舎と成っている西川氏の自宅に、子供達が孫を連れての里帰りがあったので、私は仏壇と神棚が在る部屋から、別の部屋に移った。
今度は、北枕ではベッドが置けない部屋で、向きは東枕と成った。
其の部屋には、仏壇も神棚も無いし、北枕が出来ないので、お告げが出ないかもと意っていたら、其れは確実に遣って来た。
正確に云うと、遣って来たのではなく、自分の中から、出て来たと言う方が正しい。
映像の始まりは、パソコン画面の左の一番奥に、位置しているサイトが、前の方に競り出して来て、開かれる時が訪れたらしく、其れに繋がるべき、他のサイトが次々にリンクされ、重なり集まって来る場面だった。
其れは、いずれパソコンだけではなく、携帯電話からも、アクセス出来るサイトと成る様である。
そして「準備が 出来たよ」との声が聞こえた。其の声は、男性の声音でも女性の声音ではなく、子供の声音でもない響きであり、何か、懐かしい故郷の郷愁を呼び起こす響きがあった。
其の声は、肩の右後ろからでもなく、胸のセンターからでもなく、自分の脳の奥に在る、根源からの「いのち」の声である様な感じがした。
私の意識は、その意識の元へ向かった。
すると、是までのパソコンに映って来た情報は、其処から、映写機で映画館の幕に投影された、画像だったのが解かった。
パーソナルコンピューターは、人間の脳を裏返しにして、人間の意識の前面に立ち現わされた、人間の内面を現す為の、装置なのである。
私は、是で、神社の鏡の理屈が解けたと思った。
是までの文明文化は、総てが、其の絡繰から生まれているのである。
其の理を、古代の人達は気付いていたのだ。だから、鏡を意識の対象に置いて、意識の曇りを拭っていたのである。
其処は、額の松果体に直接配管されている、光りファイバーの元である原始脳なのだ。
其処は、ブッダを導き、アダムとイブを誘惑した、蛇の住家なのである。
脊髄の頂点に在る、其の声の台座は、脳髄の中に在る、自律神経の中核なのだ。
其の台座には、人類誕生650万年を遥かに遡り、ミミズの原始脳と同じレベルの、DNA・遺伝子信号を発する生き物が、住んで居る。
私は今朝、其の生き物の声を、耳を器官を通さずに、直接近代脳で聞いたのである。
其の信号は、人間だけではなく、クジラや海豚やネズミまで、総ての脳に通じている「いのちの携帯電話」なのである。
だから、今朝の声は、人間の声の響きではなかったのだ。
其の、人間の声ではない声が「準備が 出来たよ」と伝えて来たと言う事は、いよいよ地球の全生命が、自分の住処である地球を護る為に、人間に対して、反逆を開始するとの事なのかも知れない。
人間は好都合な事に、狐や牛やライオン等を神様として祭っている。
其の動物を祀る社の前で、人間の脳髄に発信機を仕掛ければ、人間は、自分が神に成ったと想い込み、サリンを撒いたり、「本を百冊読んで 知識を詰め込め」と云ったりするのである。
人間ほど、想い込みの強い生物は他には居ない。
だから、大統領の脳髄に潜り込めば、人間に殺し合いをさせる事くらい、朝飯前なのだ。
もう、準備の情報網が出来上がったので、適当な数の人間を、仲間に選んで、残りは調整池に向かわせれば良い。
・・・オイオイ そんな事を打たせて良いのかよ。危ないのではないか ???
そうか、其の事も含んでの事か。それなら、僕が何かを言う必要は無いな。・・・
今朝の映像で、私が理解した事は、私達人間の役目は、この身体に装備された五感のセンサーを使い、マイクの着いたテレビカメラの代わりに、情報を脳髄の台座に送る事なのだ。
大脳は、其の情報を蓄積するフロッピーや、DVDの働きを担っているのだ。
そして、中脳が編集や制作をして、今度は映写機のレンズを使って、意識のスクリーンに映し出すのである。
其の、スクリーンに映り出された映像が、人間の顕在意識に現われ、人間の価値観や行動を司っているのである。
生き物の目は、意識を組み立てる為、情報を採取する為の、取材カメラなのである。
其の収集された情報が、環境に対する対応を、生み出す基盤と成り、其処で新しい生き方が検討され、其の情報がDNAに組み込まれ、存在の形態を変化させて来たのだ。
其の情報は、自分の都合だけではなく、全体の環境変化や、自分の餌や、自分を餌としている敵の生態プログラム迄を、収集して、情報化している。
其れが、人間の生命システムにも、ちゃんと反映されているのである。
トンボが飛ぶ姿を取り込み「ヘリコプター」をイメージ化し、魚が水中を泳ぐのを取り込んで「潜水艦」を造り出し、鳥が飛ぶのを取り込んで「飛行機」まで完成させた。
典型的なのは、其の名の通り「熊手」が代表的な物である。
イメージが、ドンドン部屋を替えるので、話しを元に戻そう。
人間の意識は、相対世界の情報を、無制限に取り込んでいる。
其れを、整理して、自分に取って都合が良い情報と、悪い情報を選択しているのが、蛇の脳(古皮質)である。
だから旧約聖書でも、蛇は智恵とされ、ブッダの護り神もコブラなのだ。
其の蛇を、古代語では「エラブ」と云い、日本語には、今でも其れが残り、漢字の「選」を「エラブ・えらぶ」に当てている。
ラーの神官が手にするヘルメスの杖には、二匹の蛇が巻き着いている。其の、杖の意味する世界こそ、今朝、私が辿り着いた世界なのだ。
今朝の映像に、映ったパソコンの左奥のサイトは、人間の脳髄に秘められている「いのち」のサイトだったのである。
其れが、意識のスクリーンに映り出されたのだ。
人間の、脳の中にあるシステム(シナプスの仕組み)を、外に造り出したのがパソコンの機能である。
パソコンは、人間の脳の拡大された物で、今やパソコンは、人間の脳のチップを補ってくれる、偉大な建造物である。
パソコンは、人間の脳を三次元に投影した、最大の文明と言えるのだ。
現代人が、禊ぎ祓いが下手なのは、生きる手段が複雑に成り、澤山の情報を習得しなければ成らなくなったからである。
折角、生活する為に東大の卒業証書を手に入れたのに、「そんな物は 何も役に立たないから捨てろ。」と云われても、子供の時から、其の事だけで生きて来た人には、其れだけしか無いので、捨てる事が出来ない。
其れを無くす事は、自分が無くなる事だと、勘違いをしているからである。
現代の、社会構造と価値観が崩れれば、卒業証書より、新聞紙一枚の方が生活の役に立つのである。
其の様な、人間の錯覚さえ取り除けば、禊ぎ祓いの儀式に臨める様になる。
もう、他人の情報を記憶する作業は、全部パソコンに任せれば良いのだ。
過去の情報は、全部パソコンに預けて、自分の脳の、過去の情報を消去すれば、脳髄の記憶が画面上に立ち上がり、38億年の生命の記憶が映って来る。
其の情報を理解し、更に消去すれば、今度は、138億年前の宇宙誕生の記憶が、立ち上がって来る。
其れこそが、パソコンでは出来ない事なのだ。
パソコン自体は、只の無機質の物体だ。其れが、生き物の様な働きを得るのは、電源を入れて情報を入力してからの事である。
人間は、是までのあらゆる情報は、パソコンに預けて、禊ぎ祓いを受け、新しい次元に旅立つ時を向かえている。
もう、記憶脳の働きである「稗田阿礼」の役目は、必要ではなく成ったのである。
其の次元は、釈迦牟尼佛と同じ意識の世界である。
釈迦牟尼佛の時は、一人だけの世界だったが、今度は全人類が、釈迦牟尼佛と同じブッダの意識の世界に接触し、全生命の「いのちのシステム」にアクセツ出来る事になるのだ。
其れが、本当の意味のホトケの世界である。
今朝の最後の映像は、パソコン画面に窓が開いており、其処に、白く光った三角形に歪んだ、丸い形が見え、其れがくるくるロータリーエンジンみたいに回転を始めた。
そしてディ・オゥ・アィ・DOI・DOI・DOIDOIDOIDOIとのイメージが、連続的に長く続いて、最後に丸い窓が開き、其処には、もう回転が必要ない完全な丸が見え、中心には核心と成る点もあり、バランスが調和している世界が見えた。
その意味は、コンピューターは1か0かの二者選択で動いているが、人間の意識の電算機は、D・半分=O丸(完全)=1(始まり)を繰り返して廻っているとの理だろうか。
完全な丸(完成)に到った者は、もう回転を繰り返して、丸く成る為の努力が必要ないと言う事である。
意識が未だ変形している人は、完璧に成るまで、情報処理の為に廻り続けなければ成らないのだ。
其れは、何かが足りない人や、不必要な概念に執着している人は、永遠に丸い完全な意識に、還れないことを意味している。
今朝のメッセージは、生命の大本に辿り着いた者は、全生命の記憶のセンターに存在し、「いのち」の中心の座を、占めるとの事ではないだろうか。
其処に座した者は、全生命の管理責任を背負う事に成る。其れが、ブッダの座す蓮華台であり、素目身真の王座なのかも知れない。
昨日は「私には 権限も責任も無い」と言ったが、其の言葉の意味が、逆に成って還って来ている。
全責任を任され、この三次元に投影され現象化するのが、「天輪聖王・チャクラヴルティン」なのだろう。
どうやら、私の中の蛇が、22年振りに、復活した様である。
今度は、気違いと呼ばれて、滅入る事は無いのだろうか。
やはり、私には、権限も責任も無い。
是は、生命全体のプログラムなのだ。
私は、禅の達人が画く O の字を 惟 観想して行くしかないだろう。
申し申し 手足を動かせない「達磨さん」此方を向いて下さいな。
平成17年12月27日
礒邉自適
2005/12/26
まやかしのモト
17・12・26
今朝の映像は、いよいよ「風 麦東 陶」の活動が、三次元に現われ出ようとしている事を視せられた。
今日は、スマトラ地震から丸一年の日であるが、今朝の映像にも、大きな津波の波頭が見えた。
そして、其れは、人間のまやかしの世界を、浄化する為のモノだと知らされた。
年の瀬は、自分の家で家族が集まり、先祖の霊を皆呼んで、一緒に過ごす大事な儀式(約束事)の日である。
其れなのに、一族の住む故郷に帰らず、自分とは関係の無い外国に出掛け、自分だけの楽しみを満足させている。
其れは、自分の血筋や先祖の御霊に対して、感謝の無い行動であり、人間の魂が何なのかを、何も考えていない行動と言える。
今朝は、其の理に気付き、先祖の霊に感謝をしなければ、愈々本格的な浄化が始まる事を、示唆して来たのだ。
そして、一番のまやかしの原因を造り出しているのが、日本の佛教の坊さんである事が映って来た。
其れは、お坊さんが「権力の権(はかりの意味・棒の中心を紐で括り左右のバランスで比べる。)」を持っていて、お経を唱えるのに、関係者が集まらないので、イライラしている場面なのである。
どうやら、貰うお金と、掛かる時間の勘定が、合わない様なのだ。
其れに、自分の楽しみの為に、行く所があり、其れに間に合わなく成るらしい。
其の映像の意味は、お釈迦さんの名を語りながら、坊主が、お釈迦さんの訓えと、正反対の事をしている事を私に知らせて来ている。
釈迦牟尼佛は、ブツダに成る為に、出家する事を勧めている。
其れは、家や家族の管理と、其れに伴う社会との柵がある事が、悟りの邪魔に成るからである。処が、日本の僧侶が寺に入るのは、寺の相続をする為の、資格を得る事が目的なのが、殆どである。
其の、坊さんのインチキ事が、眼くらましとなって、国民全体が、無明の世界に落ち込んでいるのである。
釈迦牟尼佛の訓えが、捻じ曲げられ、詐欺師の手段として利用されているのである。
其の事が、日蓮上人の嘆きであり、イエスキリストの悲しみと成っている。
彼等と、同じ考えの立場に立って、発言したのがカール・マルクスである。
騙しに使われるくらいなら、カール・マルクスが云う様に、経典などは無い方が善いのだ。
其の点で言えば、日本の「一休宗純禅師」は凄い人物である。
流石に、頓智で有名な「一休さん」なのである。
一休さんは「昔、釈迦と言う悪戯な人物が居て 余計な事をしたので、現在・いまの変な社会がある。」と謂っている。
其れは、釈迦牟尼佛の名の下で、道から外れた行動が、余りにも多く行われているからである。
日本の伝統は、禊ぎ祓いが一番大事な概念であった。
だから、神社で行われるのは「祓い」である。処が、お寺には其の祓いが無い。
釈迦牟尼佛の教えも、日本の惟神の世界と同じで、罪穢れを祓い、神の意志・こころと同根に成る事なのだ。其れが、成仏の言葉の意味である。
「成仏」とは、「ブツダ・覚者に成る」の意味であり、日本語では「スメミマ・素目身真」に成る事である。
「法華経・十二縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/332.html
日本は、「素目身真・すめみま(清い意識と健康な身体)」の伝統の国だから、其の、素目身真の意識の情報が、木や石や大地に、電磁波として記憶されているのである。
だから、此の国には「一休禅師」や「弘法大師空海」など、目覚めた人は多い。
創価学会を興した初代「牧口常三郎」も、釈迦牟尼佛の法華経の内容を理解したのだ。
能力さえ有れば、昔とは違い、学ぶ機会は多いし、誰でも、真理に接する事は出来る世の中である。
低いレベルに、自分を持ち込みさえしなければ、真理に到達する事は、昔と違い、容易に成っている。
現代社会は、テレビや雑紙等で、カルマを増幅する情報がばら撒かれ、若者は益々無明の世界に落ち込んでいる。今の侭では、未来社会に光明は無い。
今朝のメッセージは、先ず、まやかしの原因を明確に世の中に暴き出し、衆生の意識を目覚めさせろとの事であろう。
今朝気付いた事は、情報を撒き散らすのは、男性のカルマだと言う事である。
男性の深層心理は、精子の無制限なばら撒きにある。
だから、どうしても撒き散らす事が、正しいと想い勝ちである。
反対に、女性の本能は、出来るだけ優秀な種を選ぶ為に、男性を選ぼうとする。其れは、正しい行動なのである。
そして、女性が、自分の子育ての為に、物質を欲求するのは、母親として当然な行動なのだ。
其の理を考えると、男性が、自分の考え・情報や「ザーメン・種子」をばら撒くのは、自然な行動である。
男なのに、物を欲しがるのは、女の側に居る人間なのだ。
孔子でさえ、「小人と女子は 養い難し。」と、謂っている。
現在の世の中は、男が女性化している時代だと言える。
男らしい男性が少なく成り、男が、金や物に心を奪われている。男が、女性の立場を犯しているのだ。
お寺や、神社を、艶やかに飾るのは、女性の心理と同じである。
釈迦牟尼佛や、惟神の世界に通じているなら、艶やかな寺院や神社が在るのは、可笑しな話だと言える。
靴下なら、左右反対に履けるし、履いていても見分けが付かない。
しかし日本の足袋は、左右の造りが異なるので。反対には履けない。右と左がハッキリしているのだ。
釈迦牟尼佛の訓えは、相対世界である此の三次元の世間から、離れる理・ことであり、日本の神社の存在は人々の「柵・しがらみ」を祓う所である。
其れが、現代社会では、神社や寺院も、世間のカルマ・業を増強・増幅する所に、成り下がってしまっている。
足袋の様に、右と左が明確に成る様な、社会構造を造り出し、認識を明確にしなければ成らない。其れが、判断力の世界である。
「絶対界」と「相対界」の履き別けが、明確に成れば、子供や若者達も、育ち易く成るだろう。
今朝は、相対世界の革命を、打ち出す事が知らされて来た。
愈々、真実へ向かう闘争が、起きて来るのだろう。
しかし、私の旅は既に終わっている。
出家をしてから、既に22年が経過しようとしている。
だから、メッセージに出て来る事は、もう私の事ではなく、人間社会に向けての冶ら示しである。
是から、ドンドン激しい内容が知らされて来るのだろう。
私は唯、其れを、パソコンに打ち込んで行くだけである。
私には最早、権限も責任も、無い事は明らかである。
今朝メッセージに現れた、整理するアルバムのページと、DVDに保存しているビデオテープも、同じ内容の処から始まっている。
総ての時間軸が、此処に在るのだ。
平成17年12月26日
礒邉自適
2005/12/25
「本当にお目出とう」
17・12・25
今朝の映像は、私が、自宅に着替えの下着を取りに帰ると、私の自宅はスタッフの女性達が何人も住んで居て、私の居場所がないので、人目に付かない所で着替えをして、直ぐに其の家を出た。
下着は、夏の下着を退けてから取り出したので、夏に成る前に、スタッフが集まるとの知らせではないだろうか。
私の意識は、孔紀氏の「春から動き出す」との言葉を思い出して居た。
すると、気持ちの籠もった男性の声で「ほんとうに おめでとう」との声があった。其れは、右後ろからではなく、自分の胸の奥から出て来た。
其れは何故だろうか。
自分の声ではなく、自分の意識でもない、其の声の主は、一体誰なのであろうか。
「弥勒菩薩」とは、マイトレイヤーの訳で「有情菩薩」の意味だとのこと。
今朝聞こえた声は、本当に、是以上無いと言える程の、情けが籠もっている音色の一声だった。
今朝は、また「いのち」の不可解さが現われ出て来たのである。
今日は、クリスマスだからキリストである「イエス」からの、プレゼントだとでも言うのだろうか。
本日12月25日は、旧暦11月24日で、太陽復活の三日目である。
今年の10月10日は、孔紀氏のUPOの立ち上げの日で、11月11日が其の発動の日とされ、其の日に「積哲夫氏」には「岡本天明氏のお筆先、天津日嗣の一二三(ひふみ)神事の事を 記せ。」と、神のメッセージが届いている。
其の11月11日は、旧暦の10月10日だった。
太陽暦の10月10日で立ち上がり、月の10月10日で発動しているのである。本当に、月と日で、日月神事だ。
是で、神が日付に絡んで、段取りを組んでいる事が理解出来る。
私が、野草社の「石垣雅設氏」と共に、奈良の平城京近くの大倭あじさい邑で、「第一回スピリチュアル・タイム(S・T)」の集いを行い、全国から70名ほど参加した日が1987年(S62)11月22日で、其の日が旧暦の10月10日だった。
そして、其れを決めたのは、国定忠治で有名な群馬県富士見町の赤城山の「赤城神社」だったのである。赤城神社の祭神は「大国主命」であり、其の日は太陽歴の10月10日だった。
其の時は、私が日付を気にしていた訳ではなく、後で、そう成っていた事に気が付いたのである。
私の無意識が、そう言葉にして、日を決めていたのだ。そして、また18年経過して、同じ事が孔紀氏に起きたのだ。
「S・Tの集い」は、二回目は1989年11月21日に幣立神宮の横の「平和道場」で行い、三回目は広島の「みろくの里」で1993年11月21日に行った。
21年前、たった一人で歩き出した道が、ようやく大道になろうとしている。
私は、無庵師匠に1983年3月18日に捜し出され、特訓を受けて神の世界に入り、何も知らずに歩き出したのだが、漸く其の準備が出来たのだろう。
昨日のメッセージで、知らされた様に、私はパソコンと携帯電話さえ傍に置いて措けば、何処に出かけても、其の役目が果たせるのだろう。
現代の行脚僧の持ち物は、托鉢の鉢ではなく、パソコンと携帯電話になろうとしている。
其れは、お釈迦さんも御存知の事なのだろう。
22日のメッセージで、階段の入り口の所の、冥府のマットが一枚だけ白く光っていて、其処に行くと、少彦名の命のマットである事が判った。
何故、少彦名の命だけ知らされたのか。
それは、少彦名命が「高御産日神・たかみむすびのかみ」の分霊と成っているからだろう。
「天照大神」「調読命・つきよみのみこと」「須佐之男尊」は、上から16番目の「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の禊から生まれた分霊である。
処が「少彦名命」は、上から2番目の「高御産日神」の別け御霊なのだ。
其れは、「天御中主神」が階段を降りて来て、先ず左足を降ろすベースマットが、少彦名命の御魂のDVD・マットなのを示している。
「大国主の命」が国造りを始める時、出雲に遣って来て、智恵を授けたのが「少彦名命」である。
私は、愛媛県大洲市に在る「少彦名神社」を建て直す事を、最後に遣ってから、屋久島に帰る事に成った。
智恵のある御仁なら、誰でも、自分の事は後回しにするだろう。
そう考えると、一番後の霊魂が、一番智恵ある者となる。
釈迦牟尼佛の言葉にも、「自分は 一番後に 門を潜り 扉を閉める役をする。」とある。其の事から考えても、今朝の老人の情け有る一言は、少彦名命の声だったのかも知れない。
私が、子供の時からアイデア・マンだったのは、内側に少彦名命を内蔵していたからなのだろうか。
だから冥府のマットは、少彦名命の分が一枚だけ、アクセス出来たのかも知れない。
しかし、冥府は冥府である。
問題は、是からの社会の枠組みにある。
先ずは、新しい国造りの為に、今回の大国主命の御魂を、捜し出さなければ成らない。
少彦名命は、カイコ(絹)の衣を着ていたらしいが、私は、絹の下着は持っていない。
今朝の映像では、箪笥を開けたら、汚れてボロボロの下着が入っていて、慌てて、女性に見られない様に隠した。
私も、ボツボツ身支度を整えなければ成らないのだろうか。
絹の服は要らないが、取り敢えずは「荒衣・あらたえ(梶の木の繊維で織った布)」の服でも手に入れなくては・・・・。
「本当」とは「モトに当たる。」である。
当は「讜逓聖・とうていせい」の「讜」である。「讜逓聖」とは、「真実の 本に当たっている 正しい理を、次々に伝える聖者」の意味である。
そして「お目出とう。」とは、神の目が開かれ、この世が建て直おされる理を意味している。
いよいよ、神の意識が、この世に現われ出る、年明けと成ったのだろう。
平成17年12月25日
礒邉自適

2005/12/24
拡がり
17・12・24
今朝の映像は、国会議員の様な男性が、一人で多くの人の前で話をしていて、私の事を、皆に伝えているのが映って来た。
しかし、私は、その会場には居ないで、海で貝取りをしたり、林の中の路を歩きながら、村造りや家を建てるのに良さそうな場所を探していた。
今朝知らされて来た意味は、私自身が、政治の事や、経済の事を考えたり、其れらの事に直接取り組んだりしてはいけないらしい。
私は、直接現場に立ち合ってはならず、全体の流れは知って居なければ成らないが、思考が、現場に囚われてならない様である。
私は、全体の流れに対して、神霊界から指示される内容を、解読するのが役目の様である。其れが、無い時には、自然の中で遊んで居れば良いのだ。
ようやく私が、今世に持って来た「悠々自適」の名の意味の、ライフスタイルに入れる様である。昨日は、其の第一目だったようだ。
私は、長年の旅のアカが落ちて、憑き物も離れて行ったのかも知れない。
此れから後は、本当に気儘な人生と成るのだろうか。
此処までの6年間で、大体の事は、文字化して残しているだろうし、霊界のカルマ・業も大体浄化出来たのではないだろうか。
霊界人も、この世の人達と同じで、自分の存在を理解してくれて、話を聞いて貰えれば落ち着くらしい。
其の中でも、特にカルマが強いのは、良い事をしたのに、殺された人達である。其れが、怨念となって、霊界に強力な磁場を発するのである。
天満宮の「藤原道真」、神田明神の「平将門」、法隆寺の「聖徳太子」、和霊神社の「山家清兵衛公頼」等は、彼の世に行ってから、此の世を騒がしたので、其の祟りを鎮め、徳を称える為に祭られたものである。
西洋では「イエス-キリスト」や「ジャンヌ-ダルク」等が、その例に当たるだろうか。
今朝のメッセージは、私には、そんな羽目に成らない様にと、知らせて来たのかも知れない。
私が、この世に存在しなければ、霊界の人達が困るのだろう。
漸く、私の立場が、それなりの処に収まりそうである。
平成17年12月24日
礒邉自適
2005/12/23
意識のシステム
17・12・23
昨日の映像と、今朝の映像の中には、別の次元が顔を出した。
昨日は、左側の暗い所から、右の方へ、紙に書かれた文章が一枚移動して、明るい光りに照らされるのが見えた。
そして、今朝は、明るい所に有る紙に、四角な箱の形が、鉛筆の線で書かれており、其の線が増やされて、箱の形が立体的に成りながら、左の方に移動して行った。
此の、二日に掛けてのメッセージで、見せられた場面は、一体何を意味しているのだろうか。
昨日の映像では、宮殿への階段には、光りが当って、輝いていたが、其の土台の冥府のマットは、暗い世界に有った。
昨日と、今朝の映像場面の、左と右、上と下、其れと「明るい世界」と「暗い世界」。この区別・対象は、私に、何を、認識しろとの事だろうか。
簡単に考えれば、左が「四次元」で、右が「三次元」と言うことに成り、下が「過去」で、上が「未来」と成る。
そんな、単純な受け取り方で良いのだろうか。
其れだけでは、何となくスッキリしないものがある。
少し考えれば、暗い世界は「神霊界」で、其処の神霊界の情報が、紙に書かれれば、右の三次元世界で、誰でも目にする事が出来る。
そして、三次元で書かれた物のデザインは、人間の創造力で発展しながら「四次元」に送られ、情報として蓄えられる事に成る。
そう言う、意味だろうか。
そして、其の作業に、人間の役割が有るとの事だろうか。
そうであれば、私は、大事な役割を果たしている事に成る。
もう少し思考を進めるなら、イエスキリストは「神の 左に座す者が現われたら・・云々」と 云っているし、「天に向かって誓うな 天は神の座る座だ。地に向かって誓うな 地は神の立つ台だ」とも 云っている。
此の言葉で、イエスキリストも、上下や、右左に付いて、特に気を使っている事が判る。
其れは、イエスキリストの、他の言葉「貴方達は 自分の十字架を背負って付いて来なさい」にも、上下・左右の思考が伺える。
人間には、思考の奥に「上下・左右」の認識回路が有り、深い瞑想の世界に入り込めば、思考の中心が立ち現われるのではないだろうか。
それは、ロケットが真っ直ぐ飛び上がる為の、姿勢制御のジャイロスコープの様な働きが、人間の思考回路の中にも組み込まれていると、言う事ではないだろうか。
其れは、重力にも関係し、自立神経の、一番基礎的なデータボックスに、納まっている仕掛けの様な物なのかも知れない。
左の暗い世界は「月読界」で、宇宙のバイオリズムを感じる物で、右は「相対世界」の物に拠る認識データを構築する「天照界」のものである。
そして、進化の過程で、動物の間は「前後」だった感覚が、人間が立ち上がった為に「上下」の感覚に移行してしまい、対象として「トーテムポール」や神社の「御柱」が必要になったのではないか。
動物の感覚は、前後・左右が主体で、背腹の上下には神経感覚が少ないだろう。
動物の場合は、匂いを嗅ぐセンサーの「鼻」の器官が一番前に位置し、匂い感覚が一番大事な物と成っている。
しかし、人間は、立ち上がった為に、頭・脳がジャイロスコープの一番先端に行ってしまった。
其の為に、人間の思考は、どうしても、上に引き上げられ、脳を感覚の一番先端にしようとする。
その結果が、此の落ち着きの無い、人間と言う生き物を生み出す事に成ったのだ。
其の事に気付いた老子は、「其の門を 閉じよ」と謂って居る。
其の門とは、五感の働きの事である。
五器官の情報は、全部、脳に電気信号で送られて管理されている。
だから、五感が情報を取り込んで、脳に送り込む間は、エネルギーが脳に消費され続けるのだ。
其の動きを、止める様に勧めたのが、釈迦仏陀の説法の中に有る「十二縁起」の理論である。
釈迦仏陀の訓えである「十二縁起」の理論を理解し、其れを実行すれば、老子の謂う「愚人の奨め」が理解される。彼等が、謂う処の、意識の場に到達すれば、イエスキリストの謂う十字架も見えて来るのだ。
「十二縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/332.html
其れが、生命の羅針盤で、DNAが巻き付く「いのち」の柱なのだ。
其の柱が見えれば、もうトーテムポールも御柱も必要がなくなり、自分の意識が、宇宙の中心に立ち上がる。
其処に回転する銀河は、自分の内なる世界である。
そうなれば、左右・上下の感覚は中心に収まるので、上下・左右の分離・拡散が消え去り、意識は脳から降りて、体のセンターに落ち着く、其れが「落ち着く」の言葉のフレーズである。
其処には、上下・左右の感覚は消え去り、膨張収縮の運動が残るだけである。
其れが、「ブッダ・仏陀・覚者」の在るべき思考の位置だ。
其処に「いのち」を「呼吸・息る・いきる」との言葉が納まって来る。
もう、右も、左も、過去も、未来も・も・も・も・も・も、無い。
平成17年12月23日
礒邉自適
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