このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2005/11/30
六郡 (くにつくり)
17・11・30
今朝のメッセージは、是からは、私一人の能力では、とても間に合わない状況が起きることが、感じられるものであった。
と言うのは、神の世界が、次元の壁を壊して、一気に今の時間(トキ)にシフトして来たらしいからである。
別な言い方をすれば、「森羅万象が 今のトキに溶け込んで来て 情報(エナジー)が 人類の思考と同化する。」となるだろうか。
思考の仕草を導く為に、仮の絵柄を表記すれば
天のみなか主
タカミムスヒの神 カミムスヒの神
ウマシアシカビヒコジの神 アメノトコタチの神
クニトコタチの神 トヨクモの神
以下(男神)ウヒジニの神 スヒジニの神 以下(女神)
ツノグヒノの神 イクグイの神
オホトノジの神 オホトベの神
オモダルの神 アヤカシコネの神
イザナギの神 イザナミの神
の 神々と、名付けて呼ばれて来た、宇宙の働きが、其の拘束から解かれ、総べてが、一つの時空に溶け込んでしまったと、説明すれば、何となくイメージ出来るだろうか。
中国の老子が、「恍なり惚なり。惚なり恍なり。」と謂っている世界と云えば、簡単な世界ではある。
其処は、未だ、約束事が何も決められていない世界であり、拘束力が働いていないエナジーだけの世界である。
今朝の私は、其のエネルギーの満ちた世界の中に、意識が目覚め、パソコンのシステムを探り出そうとするのだが、其れさえも、エナジーの中に溶け込んで捜せない。
そうする中で、漸く「六郡」と言う言霊を捉まえる事が出来た。
其の言葉を、パスワードに使い、パソコンを操作すると、22日のメッセージに現われた、物の形が幾つも在った画面を、捜し出す事が出来た。
しかし、22日の映像には、黒い画面の中に白抜きで現われた物の形が、今朝はエネルギーが満ち溢れた、紫色の中に、金色で現われた。
其の色は、紫微垣(しびえん)として、中国の古典「普書」に出てくる、北斗星の北に有る天帝の居所とされている、紫微宮の色である。
古代の人達は、天位とは紫微北辰に在ると、ちゃんと概念化しているのである。総べての物は、其の紫微垣から生じる事を知っており、日本語では、其の場を「天の御中主」と呼んで来たのだろう。
今朝の言霊は「六郡」と出て来た。
何故「六合」か「六郷」ではなかったのだろうか。
【六合】は 天地と四方。宇宙全体。全世界。の意味である。
六合はクニ・国の意味に使われる。六の漢字は家屋の象形である。
漢字の、数字の文字は、家を建て・村を造り・暦を刻む事を順番に説明している。一・二・三・四(元字は4本線)は、家屋を建設する為の材料と成る柱の数である。
「五」は、基礎の上に柱を立て、桁を乗せて柱を真っ直ぐに正しく立てる。の意味である。
「六」は、其の上に屋根が被った状態で、村が出来上がって行く様子を意味している。
「七・八」は、木に刻みを入れる意味で、暦を刻む事から来ている。
「九」は極まる意味で、「十」は針の形である。
漢字の数は、村が出来て行く順番だが、日本の数字の「ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・ここ・と(たり)」は、宇宙の始まり「火・風・水・世」から、「飯・息(むす)・名(な)・矢・此処・当(足り)と、人間の暮らしを説明している様である。
漢字の十(針)も、日本語の当たるで、足りも、「とおす。通じる。完成。」の共通の概念を持つ様である。 (是は 私の勝手な解釈です。)
では何故「六合」ではなく「六郡」なのだろうか。
「郡」の漢字は「君+阝」で、「君」は神事を司る族長の意味。祝詞の意味。で、「阝」は邑の意味だから、「神事を司る族長を中心にして 群れる村・国」との意味に成る。
「六郡」とは、其の様な村に、家を造り 暦を刻む。との意味だろうか。
ようやく此処まで頭を整理して来たが、未だ、具体的な物事の把握までは至らない。
簡単に、今日感じる事を述べれば、現在、神社に御備えして有る鏡は、必要ではなく成ったとの事である。
現在の鏡は、キンピカな物であるが、其の前は銅鏡であった。
其の鏡の始まりは、岩鏡と言って花崗岩の岩が対象だったのである。
現在の鏡は、神通力が無く成った祭祀王が便利上、創り出した物である。
其れが、今世に成り、石英・珪素に拠る、光りファイバーや太陽電池パネル等が出来、クオーツ発信機等が出来たので、其の振動は、情報産業の機器類に拠って、各家庭まで隙間無く飛び交っている。
だから、神社の鏡を使用しなくても、宇宙の振動波には、誰でも気軽にアタック出来る様に成った。
人間の認識には上らなくても、携帯電話では、別の情報が、其の機器の電波に相乗りしているのである。だから、パソコンの存在は、新しい時代の岩鏡と言えるだろう。
私の脳は、其の相乗りの電波にトランスしているのだ。
其れを、神の世界と云うのは、もう時代遅れと成るだろう。
今朝の意識の世界は、愈々神(宇宙意識)と、人間の脳(電気システム)が、お互いに「意乗る・祈る」時点に、達したとの事だろう。
私は21年前、神に身体を貸せと云われた。
其の用は「新しい事象の特異点・新しい神の企画の座表軸」と、される為であった。其の事が、現実と成って来ている様である。
特異点と座標軸は、センター的な意味合いがあり、全体に対しての部分である。其れは「ゼロ・O・零」が、全体との掛け合いの処に位置している事が、理解出来るものだ。
「九」で極まって「トー・十」で抜けて行くのだ。
其処には、新たなOからの始まりが待っているのである。
王の位置が、目の前に現存した「老子」と、「王」の立場を捨てた釈迦の意識の位置関係が、現在・いま何処・いずこに在るのだろうか。
釈迦は、王の存在意義を、悟ることが出来たのであろうか。
其れに、神武は王の立場の認識があったのだろうか。
老子と、釈迦と、神武を、パネリストに迎えて「紫微垣」をテーマに、会議を開いて見たいものである。
私は、取り敢えずここらで一休みさせて貰おう。
私の答えは、トートー 的(まと)に 当ったのであろうか。
平成17年11月30日
礒邉自適
2005/11/29
力量不足(ちからふそく)
17・11・29
今日は、少し遅めの昼食後、テレビの議会中継を見て居ると、急に眠く成って来たので昼寝をした。
すると映像が現われて来て、ペットを飼ったり、植木鉢に植物などを植え、何かの管理をしなければ成らない人は、アセンション出来ない事が示されて来た。
何かの、管理義務を抱えて居る人は、自分が自由に成れないのだ。
アセンションを迎えると、自然の中に存在する、動物や植物と一体化する。
そうなれば、共通意識が生まれ、言葉が交わされる事が出来る。
処が、自然ではない生き物を、自分で養って居る人は、其の生き物が気に成って、アセンションには入れないのだ。
入ったとしても、生き物を、不自然な世界に追い込んで居た事に目覚め、罪の意識が被いかぶさって来て、其れ以上、先に進めなく成る。
特に、愛情が深い人程、其れが執着心として働き、自分を解放出来ない。
私は、農家の生まれなので、多くの家畜と犬・猫・小鳥を飼って居た。
だから、優しい気持ちの人間に、成れたのだと想う。しかし、神の世界に入る為には、妻や子供さえ置き去りにして進まなければ成らない。
とても、人間が世話をしなければ、死んでしまう様な生き物を、連れて行く事は不可能な世界である。
仕事でさえ、止めなければ成らない世界である。可愛いいペットを連れていれば、其れが心配で、とても自分の意識を手放す事は出来ない。
自分の自我意識を、総べて手放してこそ、神の意識の世界に入れるのである。
ペットを飼うのは、自我意識を満足させる為のものであり、自分の寂しさしを補う為である。
其れは、生き物の本当の幸せを考えてはいない。
犬は、元々は狼である。
其れが、今では、人間が自分のボスだと思い込んでいる。猫も、元々は山中に単独で暮らす生き物である。
近頃、豚をペットにする人がいるが、豚は元々イノシシである。
家畜化され、ペット化された生き物は、もう既に、本来の生命プログラムを失ってしまっているのだ。
アセンションに成功すれば、其の、人間の傲慢さの真実に、目覚めてしまうので、罪の意識が一遍に押し掛けて来る。
だから、早めにペットを飼う事を止め、草花も、野生に返して措かなければ成らない。
此の知らせは、神が人々に与える優しさである。
何故なら、人間も既にペット化された生き物だからだ。ペット化された人間が、ペットを護れる筈がないのである。
神は、人間を野生に返そうとしているのだ。
人間も、野生に返るしか悟りは無いのである。釈迦もイエスもモーゼも、昔の悟った人は皆、野生に返って行ったのである。
手には、自分を支える一本の杖だけである。誰も、ペットを抱いて、旅した者はない。
只、勝手に後から付いて来る動物は、神の使いだから、見掛けは同じでも、中身は違っているので、この範疇から外れている。
自分が自由に成るには、先ず、自分の周りの物を自由にし、自分の管理すべき物を、総べて外して措かなければ成らない。
其れが、自分を自由にする条件である。
此れも、管理に関する事の様だから、今朝の文章も、管理の第八弾に数えて於こう。
平成17年11月29日
礒邉自適
2005/11/29
検査(やすみ)
17・11・29
今朝のメッセージは、管理の第七弾と成るものである。
此処のところ、「饒速日命・にぎはやひのみこと」の登場から、物事の管理にテーマが絞られて来ている。
此れは、日本語では「結び」の言霊の範疇だろう。
神の世界は、解放から収縮に向かい、物の確かな結び付きに、エネルギーが向かっている様だ。
其れには、言霊が一番大事な様で、漢字ではなく、純粋な日本語が、意識のセンターに治まって来ている。
此れが「かんながら・惟神」の世界なのだろう。
日本語には「しろしめす・治しめす」との言葉が有り、古代では「スメラの尊・天皇」の発する言葉で「政・まつりごと」が行われていた。其の事が、いま復活しようとして来ている様だ。
私の意識には、ここ数日、一つの物事に言葉がダブッテ、出て来る様に成って来た。其れが、ここ数日の漢字に対する、ルビの振り方である。
「可能性」とは、「未来」の世界が在ってこその言葉だし、「管理」とは、森羅万象を「つかさどる」ことである。
この様に、祝詞や呪文には、日常の単語では使用されない、別の意識が伴っているのだ。
其の言葉の世界を、護り伝える事が天皇の役目で、スメラの「スメル・統べる」働きなのである。
本来の言葉の働きは、神と人間社会の橋渡しの為に在り、正しい言葉が失われると、神と人間のコミュニケーションが失われ、世界は崩壊に向かうのだ。
其れを喰い止めるのが、スメラの尊の意識と、言霊なのである。
統べるとは、スメラの尊が、神の意識に仕え、人間の言葉を使い、天地の結びを行う事なのだ。
此れは、ブッダの意識に目覚めてからの、次の段階の事である。
古い硬直した世界を、出家に因って捨て、古い意識の衣を脱ぎ捨て、新しい衣の糸を縒り始めるのである。
其の為の準備が、いま行われ様としているのだ。其れが、空海の真言の世界であり、日本列島に沁み込んでいる言霊の世界である。
日本語の「言霊さちあう国」とは、其の事なのである。
此れだけは、他の国の人には、理解出来ない程の、意識レベルの高いものである。
外国人に、「日本人は宗教を持たない。」と云う人が居るらしいが、其れはレベルの低い人には、宗教が必要な事を証明しているのである。
日本は神の国だから、統べての人が、理屈や概念を捨てて禊ぎ祓いをするだけで、神の意識に返れるのである。
釈迦の教えが、何故、日本に浸透したのか、其れは、日本の国土が神々の住まいだからである。
今朝の映像は、休息の時にこそ、自分の意識の点検が、出来る事を示して来た。旧約聖書に登場する、モーゼも「せめて 7日間に一度だけでも 統べての行いを止めて 休息しなさい。」と 謂っている。
其れが元で、一週間刻みのカレンダーが作られ、世界中で日曜日が決められて現在・いまに至っている。
「休息」とは、釈迦の出家の思想と共通のものである。
人間は、行為に溺れて居る間は、行為自体に、自分の意識が埋没してしまい、自分の状態を監視出来ないのである。其の為に、他人の行為は良く見えても、自分の立ち振舞いや、言動の在り様に、意識が向かないのだ。
今朝の映像は、先ず、列車の機関車が出て来て、整備士と二人で、それを持ち上げて、全部の足回りのナットとボルトを外して、検査をしていた。
次の場面は、人が住んで居る住居の玄関の屋根に、スズメ蜂が何個も巣を掛けている。其の中の巣の一つは、今にも、出入りする人の頭に当たりそうに成っている。
私は、どうしてこの家の住人は、蜂を退治しないのだろうかと想いながら見ていると、スズメ蜂が休み無く口を使って、巣作りを行っている姿が映って来た。そしてスズメ蜂は、今の季節しか活動出来ないから、一時も休み無く働いている事が理解されて来た。
やがて秋が深まれば、働き蜂も、雄蜂も皆死んでしまい、残るのは交尾を済ませた雌だけなのである。
其の雌は、冬を越せる暖かい場所を探して、ジィーとして春の来るのを待ち、春になったら自分で小さな巣を作り、其処に卵を産み、働き蜂を育てるのである。
夏に向けて、その何百・何千と増えた働き蜂は、巣を大きくして行く。そして最後に雄蜂が生まれ、何匹かの選ばれた雌が交尾をして、又冬に向かって行く。
蜂は、人間の様に、言葉こそ使用しないが、自分の生命情報の言葉(意識)に従い、自分に内蔵されている生命システムを、見詰めて生きているのだ。
其の点で言えば、人間は、余りにも他人の活動を当てにして、自分の行動を見詰め様とはしない。
明日、何が自分に起きるのか、自分は何をする為に、この世に生まれて来たのか等、考えもしないのだ。
丸で人間には、生命システムが内蔵されていないのではと、想われてしまう程である。其の点だけ言えば、人間は蜂以下の生き物と言える。
人間は、列車やジェット機等は、毎日点検もするし、定期的に総合点検もする。しかし、自分自身の点検は何もしないのである。
神社や寺に行くのも、自分の暴走を願うのが目的であり、休息点検の為ではない。
今朝のメッセージは、新しい動きの前に、自分の点検をしなさいとの事ではないだろうか。
蜂が一時も休まないのは、生きている時間が短いからである。
夏に生まれても、秋にはもう死んで行かなければ成らない命である。
蝉みたいに、一週間激しく鳴き続けて命を終える物も在るが、人間はそうではない。
長く生きる者は、其れだけ罪も多くなる。
其れを、出来るだけ善に変える為にも、休息を行い、自分自身の点検を行わなければ成らないのだ。
今朝は、最後に、カタカナで頭に「イ」に濁点の付いた単語が、幾つか並んで映って来た。其れは、本来なら「シ」につく濁点である。
「シズカニ」の「シ」であり「ジーとする」の「ジ」である。
其れは、何を意味しているのだろうか。日本語には、未だ未だ深い領域がある様だ。
漢語林で「い」を調べると、「いのいちばん」は「已・い」である。已は、止む・やめる。中止する。終わる。の意味とある。やはり休息・点検・検査に通じるものの様だ。
其の「已」に、意味を強める濁点が付いているのは、余程大事な意味を含んでいるのだろう。
私は21年前、総べての事を止めて、この世界に入った。
其れから、別の世界の業が深く成って来ている。
私も、今一度、総べての事を止め、点検を必要とする時期に到っているのかも知れない。左甚五郎作の「眠り猫」を、もう一度能く見詰め直して見よう。
平成17年11月29日
礒邉自適
2005/11/28
管理(つかさどる)
17・11・28
今朝のメッセージも、物の管理を示唆して来ている。管理の第六弾と言えるだろうか。
今朝の映像は、自然の山の木に着生している「風蘭・ふうらん(日本自生のデントロビウム)」がテーマだった。
初めに、私が、一株の風蘭を植木鉢で栽培して居たら、その風蘭を誰かが家に取りに来た。
私の意識は、其の理由を知ろうとする。
すると、其れは、一番上の意識(天皇?)が、殿様・幕府の様な体制の王に、風蘭の栽培権限を与えたとの事で、国中の風蘭が、其方の手中に収まってしまうのである。
其れは、神社の杜や、御神木に着生している物まで、採取する総合権利である。
私も、新しい権力体制に逆らう分けにも行かないので、一株だけしか持っていない風蘭を差し出した。
すると今度は、申し込みをすると、其れが返されるのが分かって、私は登録手続きをして、其の風蘭を返して貰った。
其の時、自分が栽培していた物だけではなく、別に苗二本を貰った。
しかし、其の意味を良く聞いて見ると、其の風蘭を育てるのには、責任と義務が付いていて、若し枯らしてしまったり、盗まれたりでもすると、何等かのペナルティーが科せられるらしい。
私は其れを知って、そんな難儀な事は御免被りたいので、自分の持っていた物まで、返還する事にした。
今朝の管理の世界は、親株は、権力側が大事に管理をしていて、民間には子株や苗だけしか渡さないらしい。
其の様な体制を造って、風蘭の絶滅を防ぐらしいのだ。そして、其の様なシステムが、あらゆる場に適用される様に成るとの事だった。
今朝のメッセージのテーマは、風蘭に、何らかのヒントが含まれている様だ。
何故、風蘭でなければ成らないのか、其れは「風蘭」の名前に何等かのヒントが在るのではないだろうか。
「風」とは、風習・風俗・風紀・風格・風教・等の単語に、使用される文字である。
其れに、私には「風 麦東 陶・ふうれんとう」のメッセージが告げられても来ている。だから、風蘭は「風の欄」との意味も含まれている様だ。
「風」は、人間社会の決まりを、意味しているのだろう。
今朝の映像は、登録をするのが、パソコンの画面上にある書類式の項目欄で、其の欄に、品物の名と、自分の情報を入力する事に成っていた。
其れは、自分の生活に関する物で、国か連邦が管理している物には、登録義務があり、其の物事に対して、登録をすれば権利は生じるが、管理の「責任」と「義務」の両方が、科せられるとの理である様だ。
特に、土地の管理が、新しいシステムに成るらしい。
人間の、一番の業の深さは、土地の所有権で積み上げられて来ている。
現在の土地の管理システムは、其れほど古いものではない。
昔は、西洋では、王が土地の権利を有しており、共産主義国家が出来上がる迄は、国民には土地の権利は無く、地主が、王様に税金を納める事で、使用権を認められていたのだ。
日本でも、各藩の殿様が権利を有していて、地主が、殿様に米等の税を納める事で、使用を認められ、小作人を決めて、経営を続けていた。
其れが明治維新で、殿様に代って政府が税金徴収する体制と成り、土地の権利を地主に与える代わりに、税金を政府に直接納めろと言う事に成ったのである。
そして、戦後に農地改革が為され、国が、農地を強制的に地主から権利を一度買収し、自作農をする国民に直接売り渡す事と成り、国に対して国民が自分で税金を納める、現在の体制に成っている。
しかし、イギリス国等では、未だ昔のままで、地主が土地の権利を多く有している。其の体制を壊したのが、マルクス・レイニン主義を取り入れたソ連や、中国等の社会主義国家で、国民には土地の所有権は無い。
個人が自由に利用していても、借地権が建前と成っている。
今朝のメッセージは、新しい国家や、世界連邦を創設するに当たり、基本的な概念を示して来ている。
今朝のメッセージの最大権力者は、姿の見えない何者かである。
其の権力者とは、人類や地球の未来の有様を、左右出来る存在なのであろう。
其の存在が、三次元の権力者に、権限を委譲した事を、今朝告げてきている。
今朝の映像の物体が、自然の中に有る「風蘭」だったのは、地球環境を含めた上の事なのだろう。
地球環境に、害を齎す事を為す人間は、管理義務責任を失する事に成るので、資格を取り上げられるとの事だ。
地球の、物の管理を任す側と、任される側、其の関係性を考えると、「天之常立神(あめのとこたちのかみ)」が「国之常立神(くにのとこたちのかみ)」に、権限を降ろしたと言う事になるだろうか。
昨日のメッセージに続いて、段々と、神々の指示が具体的に成って来ている。其の指示に従い、この世の人間が、新しい体制を創り上げれば、国常立神の働きも活発に成る物と想像できる。
管理の「管」は、鍵・要の意味があり、つかさどる。取り締まる。拘束する。に用いられている。
「理」は「ことわり・すじみち」の意味だから、管理とは「司る筋道」と言うことになる。
今朝のメッセージは、天之常立神の働きは、完成したとの事であるかも知れない。
平成17年11月28日
礒邉自適
2005/11/27
可能性(みらい)
17・11・27
昨日「女宮司に任せろ」と、最後に告げられたが、其の意味が今朝解けて来た。
昨日午後9時15分に、携帯電話が鳴ったので出て見ると、昨年10月に屋久島の山に修行に来て居て、知り合った東京の巫女さんだった。
何だろうと意って、用件を訊くと、「今 屋久島の山に居て 宮之浦岳から下る途中だが、懐中電灯の電池が切れそうで、荷物も多いから 助けに来てくれ」との事である。
そう云う事であれば、断る事も出来ないので、パソコンでの年賀状作りを止め、懐中電灯を持って、車に飛び乗った。
そして、約一時間で、淀川の登山道入り口に着いた。すると、巫女さんは既に登山口まで無事に降りて来て、大きな荷物を傍らに置いて、座って待って居た。
携帯電話を三台持って居たので、何とか、其の明かりで山道を歩いて来たとのこと。私は、車の後ろのドアを開け、荷物を積み込み、彼女を助手席に乗せて、来た道を下り始めた。
話を聞くと、今回は占いのお弟子さんである、女性を三名連れて、23日に屋久島に入ったとの事である。
25日には、白谷雲水峡の太鼓岳に登り、昨日朝8時に淀川の登山口を出発し、宮之浦岳手前の翁岳まで、弟子二人を案内したと言う。
其の弟子二人は、宮之浦岳経由で高塚小屋に一泊し、次ぎの日、縄文杉を見学して下山するとの事である。
其の女性は、弟子二人の要らない荷物も、全部預かっていたので、荷物が多かったのである。
車を運転しながら話をして居たが、私が、朝のメッセージの「女宮司に任せろ」を思い出し、女宮司の話をすると、巫女さんの免許は今年取得し、今回は鹿児島の「照国神社」に、宮司の資格を取る為の、申請に来たとの事である。
私は、やはり何か関係があるのだと感じながら、彼女を宮之浦の民宿まで送り届けた。そして、宿で待って居た、銀座でママさんをしていると言うお弟子さんに、挨拶をしてから自宅に帰って来た。
自宅に帰り着いたのは12時半で、シャワーを浴びてから、少し腹ごしらえをして床に就いた。
すると、今朝のメッセージは、女性の声で「すみませんでしたね。」と、是までの私を労う言葉が聞こえた。
私が、誰だろうと意うと「我が家は伊勢」と、前とは違う言霊(ことたま)で知らされた。
其の事を、朝起きて考えると「すみませんでした。」と、私に告げたのは「倭姫命」の御霊で、我が家は伊勢と告げるのは「つきさかき いづのみたま あまさかる むかつひめの みこと(天照の別名)」ではないだろうかと思う。
と謂うのは、倭姫命は「天照大神」の御杖と成った斎宮だし、伊勢神宮は倭姫命が創建したお宮であるからだ。
伊勢神宮のお社は、天照大神の住まいであるし、倭姫命は其の霊魂(天照大神)の御杖・憑代である。
昨日の「女宮司に任せろ」とは、伊勢の斎宮であった「倭姫命」の事ではないだろうか。
倭姫の命は、【垂仁天皇の皇女で、天照皇大神の祠を大和の笠縫邑から伊勢の五十鈴川上に遷す。景行天皇の時、甥の日本武尊の東国征討に際して尊に草薙の剣を授けたという。】と、辞典には載っている。 (広辞苑)
私が二度目に結婚した「井上佳子」は、知り会って直ぐに、高知の室戸の千手観音を祭る社の前で、「ヤマトヒメの霊」だと告げられた。
確かに彼女は、其れらしい霊の働きを見せた。
多分、倭姫命の霊が憑依していたのであろう。
10年間の生活の中で、普通では考えられない出来事が度々あって、妻も子供も難儀をした。
其の事に対して、詫びて来たモノと想われる。しかし、私には、其れが神界のプログラムであり、仕方の無い事であった事は理解出来ている。
私の妻「井上佳子」だけではなく、天理教の「中山ミキ」や、大本教の「出口ナオ」は、霊に憑依された女性である。
彼女達が、教団を創ったのではなく、取り巻きの男性が、教団にしてしまったのだ。
女宮司であれば、神に仕える事だけに専念して、教団を創設する事はしないだろう。其れが、本来の神事であり、斎宮の働きである。
卑弥呼は、自分どころか、弟にも結婚させないで、他人とは絶対に接触しない生活をして居たらしい。神に仕えると言う事は、そう言うことなのだろう。
今回、山に向かえに行った彼女も、いつもは一人だけで、山中に数日籠るのだが、今回はお籠りではなく、鹿児島の神社への用向きで、出掛けて来たので、弟子がどうしてもと云って付いて来たらしのだ。
彼女は、未だ30代前半である。此れから、彼女がどうなって行くのかは、私にも判らないが、霊界にとっては、有り難くて貴重な存在なのではないだろうか。
伊勢の神は、「つきさかき いづの神」であり「素目大神」である。
霧島のえび野で存在を示して来た「いずの目の神」は、伊勢の帷(とばり)も、開けて来たのだろうか。
昨日のメッセージも、女宮司に任せろとの事だから、何かの管理を意味しているのなら、5日連続して、管理に付いて示唆して来た事に成る。
平成17年11月27日
礒邉自適
2005/11/26
不確定要素 (ひるこ)
17・11・26
今朝のメッセージは、管理に着いての、第四段の様である。
始めに、私は、新しく建築している、比較的大きな建物の、広間の中心の所に居た。其処には、二人の男性が居て工事をしている。
一本の柱を丸く削って、床と天井の間に嵌めようとすると、長さが足りなくて継ぎ足しをする事に成った。すると、その継ぎ足しの短い部分が、平面ではないので、上手く柱が納まらない。
更に、私が、後ろに下がって、全体を見ると、建物の中心のデザインが左右違った形をしていて、全然バランスが取れていない。
私が、責任者に其の点を指摘すると、「だって 任せると 言ったじゃないか。」と文句を言う。私は、其の態度が嫌に成って、その場から離れた。
すると、今度は、廃墟の町の中に着いて、回りを見ると、木造の家並みは雨漏りがひどく、壁も剥げ落ちて、今にも崩れ落ちそうに成っている。
私は、板に打ってある古釘が、足に刺さらない様に気を付けながら歩いて、その場を離れた。
次に着いた場所には、排泄物にまみれたコンクリートのタンクが在り、其のタンクの中を覘くと、小さな女子がタンクの中に落ちて居て、底に有る排水口の蓋が開いた隙間から、今にも穴底に落ちそうに成っている。
私が慌てて人を呼ぶと、女の人が直ぐに飛んで来て、履物を脱いで、汚物の中に飛び込み、少女を抱きあげて救い出した。
そして、消防の人を呼んで、ホースで水を掛け、綺麗に汚物を洗い流し、蓋が閉められたので、安心してその場を離れた。
私の意識は、少し安心出来たので、ホッと一息すると、今度は、ピカソの絵の様なバラバラの形の物や、分けの解からない形の彫刻の様な物が、次々に目の前を通り過ぎて行った。
そして、漸く言葉が一言あった。其れは「不確定要素」の言葉である。
私は、その意味を考えて居ると、更に場面が映って来た。
其れは、私が今、全国の神社の写真をパソコンで分類しながら、祭神の血筋の系統を考えている所為からかも知れないが、血筋の繋がりの系統図が映って来た。
そして、次の映像は、私の寝所に子供が三名寝て居て、其処に、女性が一人忍び込んで来て、私の手を取った。
顔が見えないので、誰なのかも判らない。
私は、其処で起きて、トイレに行った。
時計を見ると、未だ3時半なので、事務所に出掛けるのには早いので、再びベッドに入った。すると又、映像が現われて来た。
今度は、私を含めて、何人もの男性が、素裸でプールに並んで浮かんで居る。其れを、筆記用具を手にした、クールな感じの頭が良さそうな女性が、私達を見ながらチエックしている。
私達男性は、其れを当然の事の様に、受け入れていた。
今朝のメッセージは、此れまで、男性が築いて来た社会の概念が、大きく転換しようとしている事を、告げて来ている様である。
此れまでは、男性側が都合の良い様に、社会システムを創って来た。
女性や子供達が、幸福で安定して暮らせる社会を、創る事を第一儀として来なかったのである。総てが、男の見栄や、権力の為に、組み込まれて来たのである。
其の男性の価値観を、長年押し付けられて来た女性も、本来の女性の在り方を、忘れてしまっている。
自然の動物の生態を観察すれば、全てが、雌中心に営まれている理が解かる。人間だけが、雄が権力の中心にある。
ライオンは、雄が中心の様に見えるが、其れも、子孫を残す為の行動と考えれば、根本は雌が主体である理が解かる。生き物は、雌が雄(種子・ザーメン)を選ぶ事で、進化を遂げて来たのだ。
日本の古事記には、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」と「伊邪那美命・いざなみのみこと」が子供を創ったら、最初に「水蛭子・ひるこ」が生まれたとある。
水蛭子とは、蛭の様に手足も骨も無い物である。
古事記に拠れば、この世に初めて生まれた物は、手足も骨も無い不確定な物であったのだ。
其の原因が、女性の方から、先に声を掛けたからとある。
何故、女の方から声を掛ければ、不確定な物が生まれてしまうのか。
何故、物語の始まりが、雌雄の声の掛け合いに絞られているのか。
其の事が、現代心理学の、基礎とならなければ成らないのではないだろうか。
今朝のビジョンに、次々に現われた彫刻の様な形の物は、水蛭子その物の形ではなかったのだろうか。
其れと同じ様な物が、屋久島の山岳や海岸に、岩の姿形として存在する。
硬い岩石の、柔らかい部分が風化して無くなり、残された部分の形が、其れによく似ている。
其れは、手足も骨も無い、不確定な物の代表である。
其れ等の、物の形を意識するのは人間だけであろう。
他の動物は、其れ等の物が、意識の対象とはなっていないだろう。
人間だけが脳が発達した為に、其れ等の物に、存在価値を与える世界を創り出し、古事記の様な物語を創り出してしまったのだろう。
古事記でも、旧約聖書でも、男性が有利な立場に伝えられている。
其れは、小鳥と同じく雄の方が、雌にアプローチをする必要があるからだ。
其の事で解かる様に、雌の方が主体性を持っているのだ。
男の方が、先に声を掛けなければ成らないと言うのも、小鳥等の世界を模倣したものではないだろうか。
その理は、現代の生命科学で明確にされて来ている。
雌が主体で、雄の存在は、其の存在を支える為の、付属的存在なのである。
女性は、染色体が全てXなのに対して、男性は一個Y染色体が混ざっている事で、不完全である理が証明されている。
其の原理は、ミジンコやミツバチなどの生態研究で明らかにされている。
生命は、存続を継ける為に、其の様なシステムを創り出して来たのだ。
今朝現われた、血筋の系統図や、男性が女性にチエックを受ける事は、人類も本来の生き物の原点の世界に、立ち返る事を、示唆して来ているのではないだろうか。
今朝の映像に出て来た、建物の左右の柱の違いは、片一方の柱がしっかりと立ち上がっていない事を、伝えて来ている。
古事記にも、中央の柱を二人が回ったとある。
今朝の私の見た映像も、建物の中央の柱の建て方に、テーマが絞られていて、其処から物語が始まっている。
人間の潜在意識の中には、柱のイメージが組み込まれているらしい。
有名な長野県の諏訪大社には、御柱が立てられる。
其れも、人間の潜在意識が外に出て創りだした物であろう。
伊勢神宮でも、社の床下の地面に「心の御柱」が埋められ、頭が地面に出ており、其れが、神気が発動する芯柱なのである。
日本語には「たてまつる」と在り、神とは立てて祭るモノと成っている。其れも、人間の意識に、縦の認識が必要な理を、伝えている証だ。
其の縦の系図を、雄中心に捉えるか、雌中心に捉えるかで、社会構造は違ってくる。どちらにするかは、生命科学の研究結果に従えば、自ずと明らかである。
中国の老子は「雄の立場を知った上で、雌の立場に身を置け。」と、其の理を端的・明白に謂い切っている。其れを、生命科学が2500年遅れて証明したのである。
今朝の映像も、23日の映像と同じく少女が出て来て、人間の排泄物の中で危険な目に遭って居た。其れは、命の存続の危険信号である。
良い世の中とは、少女が「早く大きく成って 子供を生んで育てたい。」と、意う社会である。
処が、現代社会の風潮では、女性がなかなか結婚しないし、子供を産みたがらない。この事からしても、現在の日本は良くない状態であると言える。
子供の少ない社会は、必然的に若者が減って行く社会でもある。そう成れば、社会管理が上手くいかない様に成るし、空き家が多く成り、町は廃墟と成って古い物を片付ける者も居なくなる。
今朝のメッセージを整理して見ると、次の様になるだろうか。
1)中心の柱が 明確にシッカリと立っていない。
2)人口が減ると 空き家が増え 社会の管理が上手く行かなく成る。
3)少女が楽しく夢を抱いて生きる社会ではない。
4)血筋の系統図が明確に認識されていない。
5)男性の概念の世の中は終わりにし、女性の価値観の世の中にしなければ進化が無い。
6)現代社会が不確定要素を含んでおり、水蛭子を生み出す状況に陥っている。
今日で、管理がテーマに成っているメッセージが、4日続いた事になる。
今朝は、物の形が不安定に成っている事まで知らされて来た。其れは、人類全体が現在抱え込んでいる問題を、潜在意識から暴き出すモノである。
霊界が是ほどまでに、状況を明らかにしなければ成らない程、社会は危機感を高めて来ているのである。
しかし、この様なメッセージが来ると言う事は、神の救いも又、身近に迫っているとの事だろう。
今朝は、最後に、「女宮司に預けろ。」と言葉があった。
其の意味は、未だ解からない。神社の世界も、管理は女性に任せて良いとの事だろうか。そう成れば、男性は真から自由に成れて、修行に入れるのだがどうであろうか。
私達は、無意識に習って来た社会通念を、ここらで一度壊して、一から認識し直さなければ成らない時節を、迎えている。
余計な概念や、考え・思想・等を排して、生命の持つ真実だけに、目を向けなければならないのだ。
またそうしなければ、人類の未来は無いし、神々の協力も得られないであろう。
平成17年11月26日
礒邉自適
2005/11/25
黒土市・くろとし
17・11・25
今朝のメッセージは、やはり管理の大事さを伝えて来ている。
此れで、3日連続だ。
今朝は、私の個人的な問題が、完全に片付いた状態の、最高の気持ちの世界から始まった。
私の、個人的な課題は既に解決したらしい。
其れは、家族の事等であるが、確かに、其れは思い掛けない方向に進んでいる。其の事は、別に置いとくとして、今朝の映像の事を説明しよう。
私は、自分の問題は無いので、何処かの学校にフラリと出かけ、教室に座って居た。すると、学生が何名か教室に帰って来た。
話を聞いて居ると、先輩が下級生に「君達のクラスでは OO君が生徒会長に向いているよ。彼なら 皆を纏められるだろう。」と、アドバイスをして居る。私の意識も、何故か、其の生徒を知っており、納得が出来た。
次に、私の出かけた所は、個人の家だった。
其の家でパーティーが開かれ、30名程の人達が集まって居る。
其のパーティーが終わってから、後片付けを手伝い、最後に帰ろうとすると、私の履物が無くなっている。
私は、仕方が無いので、残されていた大きな木のサンダルを履いて、車を運転して道路に出た。
そして、少し下り坂の信号の無い三叉路に出て、一時停止の場所でブレーキを掛け損なって、道路に出てしまった。すると、直線の道路を、右側から車がドンドンと走って来る。
私は、慌てて、車を左の路肩に寄せ、ソロソロ走って次の道路を左に折れ、車の来ない所まで進み、胸を撫ぜ降ろした。寸前の処で、大事故に成る処だったのである。
暫らく休んで、気持ちが静まったので車を再び動かした。
其の侭、家の方に帰るのも退屈なので、其の知らない道を、暫らく進んで見る事にした。そうして、辿り着いた所は「黒土市・くろとし」と言う地名の所らしい。
其処には、多くの人々が集まり、木の苗を持って、山に植林に向かう処だった。私も、其の人達に付いて行った。
山に到着すると、其の中の一人が、リーダーの事を説明してくれて、リーダーが最初に植林をした場所に案内してくれた。
其処は、20年程前に、山が土砂崩れを起こした場所で、石垣を段々に積んで、其の一段毎に木が植えられ、既に森の形態が復活して来ていた。
私は、其の人達の働きに希望を見出し、安心出来た処で今朝の映像は終わった。
今朝の映像は、全部が、物事の管理に関するものである。
1)自分のライフ・スタイルの管理。
2)学校の生徒の管理。
3)家庭や社会のマナーの有り方。
4)交通機関の整備や運転のマナー。
5)地球環境に対する認識と取り組み。 等である。
神はまだ、知らせたい事が沢山あるのだろうが、私の記憶能力が限界だから、此れだけで終わったのだと想われる。
今朝のメッセージのポイントは、「黒土市」の言葉に、多くの意味が含まれていると考えられる。「黒土市」の反対は、人間が住めないので市町村が無い、火星の赤い大地である。
火星の土は、地球の砂漠よりも有機物が無く、生物が全く存在出来ない世界である。其の火星の状況を、頭にイメージしてから、この地球の状況を想い浮かべれば、其の差が歴然と成り、地球の特徴がハッキリして来る。
地球も、植物が無く、有機物の生産が無ければ、火星の赤い大地と同じで、生き物は住めないのである。
だから、黒い土は、生き物が住める事の証と成る物だ。黒土とは、有機物を含んでいるとの意味であろう。
黒い腐葉土の土は、緑豊かな地球の大地だけではなく、人間の食料を生み出し、海の魚貝や海草も、陸からの腐葉土から溶け出す栄養(フルボ酸)を元にして生きて居る。
だから、黒い土は地球にとって一番大事であり、地球の特徴を現す物だろう。
「市」の漢字は「門+及+行」の意味の組み合わせで、人が場所を定め物品の取引をする。集まる。町。の意味である。(漢語林)
黒い土が無い所には、人も物も生まれ無いのである。
市とは、黒い土が在ってこそなのである。
其処の処を、人類全体の価値観として、教育も、ライフ-スタイルも築いて行かなければ成らない。
今月17日の、「築かれた門」の文章には書いていないが、築かれた土の壇の上には、木の苗が植えられていた。
其の意味も、木を植える事が一番大事であり「木が神の代わりと成る。」との意味を告げて来ている。
人類にとって一番大事な事は、地球の緑を護る事にある。
人間は、地球の木を護る事の為にこそ、戦わなければ成らないのだ。
もう、人間同士が戦っている時間の余裕は残されてはいない。
去る11月21日には、鎌倉に住んで、銀座で会社を経営して居た「中島さん」が、初めて事務所を訪ねて来た。
聞けば、屋久町の昔の村長さんの孫に当たる女性で、お爺さんが住んで居た船行集落に在る、船行神社の杉の木が霊夢に二度現われ、「屋久島に来い。」と云われたので、3月に母親を連れて、屋久島に引っ越して来たと云う。
仕事はコンピューター関係で、アメリカやスイスの時計会社等に出掛けていたとの事。
鹿児島の、最福寺の池口氏とは、父娘の付き合いをして居るとの事である。
其の夜には、屋久島で震度3の地震が有った。
島の60歳の年代でも、初めてだと言う強さである。
屋久島は、地殻から1400万年前にせり上がった、花崗岩の塊なので、断層は無く、火山とも関係が無い。
今回の地震の震源地は、種子島の方らしいが、私には何かのメッセージの様な気がする。
中島さんは、昨日も訪ねて来て、今後の計画を話され、企画書を置いて帰った。私の文章を、皆読めと告げられたとの事で、急ピッチで目を通している。
今朝、下関の「悦子さん」より、久留米市大石町の「饒速日命・にぎはやひのみこと」が祭神である神社に、行って来たと電話が有った。
大石町は、私が22歳の頃、友人の家に泊まって居て、初めて金縛りに合った所である。近くには水天宮の本宮も在る。
やはり、饒速日命が動いている事は、間違い無い様である。
饒速日命の長男が、物部初代「宇摩志遅命・うましまじのみこと」で、島根県太田市「物部神社」の祭神である。
物部は、天皇家の全ての物資・兵具を管理して居た部族である。
此処数日の、管理に関するメッセージは、確かに饒速日命の関わりに因るものではないだろうか。
悦子さんより「何か 必要な物がないか。」と聞かれたので、デジカメを所望した。此れで、事務所を訪ねて来る人や、日常の暮らし、其れに屋久島の季節の移ろいも、リアルタイムで発信出来る様に成る。
準備が、段々と整えられている様である。
自分の管理と、地球の管理を、今後どうイメージするか、此れから、私のする事の方向性だけは見せられて来ている。
しかし、毎日のメッセージが、どう変わるのかは、私自身にも判からない。
平成17年11月25日
礒邉自適
2005/11/24
管理
17・11・24
今朝のメッセージは、昨日のメッセージと関連している。
昨日は、人間を駄目にする組織の管理と、人間を幸福にする社会の管理が出て来たが、今朝は、具体的なライフライン等に関する管理に付いて、様々な場面が映って来た。
其の場面を箇条書きに書き出して見よう。
1)クリーニング屋が、スーツの名前や番号を違えて、客が自分のスーツを受け取れないで困っている。
2)機械の手入れが行き届かず錆びて動かない。
3)山から水道のパイプを引いて来て水を流したら、パイプの質や工事の遣り方が悪くて破裂して水が来ない。
4)建物の工事の遣り方が悪くて隙間風が入って来る。 等の場面が続いた。
是は、社会の健全な営みの為には、管理システムが、どうしても必要な事を知らせて来ている。
現に数日前からのニュース番組で、ビルの設計者がインチキをして居て、大変な騒ぎに成っている事が放送されている。
管理をする側の人間が、管理を怠れば、人間社会は混乱を起こすのだ。
私は昨日の夢では、ヒマラヤの奥地の神聖な湖に連れて行かれて、気持ち良く成って居たが、一夜で又、現実の世界に引き戻されてしまった。
人間は、通常この三次元世界で、生きて行かなければ成らない。
霊界も、この三次元の世界が在って、人間の肉体が維持されてこそ、存在出来るのである。
この人間世界が安定して、子供達が産まれ、順調に大人に成ってこそ、思考の組み込みが行われるのである。
霊界も、人間社会が安定しないと困るのだ。
昨日と今朝のメッセージを合わせて考えると、やはりこの三次元世界は、何事も、管理が大事だと言う事になる。
見えない世界の人達は、肉体を有さないので、手足が無い。
何かの行為を起したければ、この世の人間の肉体を借りるしかないのだ。
だから、神社で唱えられる祝詞には、「神霊の想頼・みたまのふゆ」との言葉が有るのだろう。
神々の計画が実行されるには、誰か、この世に身を置く者が、協力をしなければ成らないのだ。
其の為に、人間は、自分のエゴを消し去る為に、禊ぎ祓いをして備えなければ成らないのである。
何故か、日本の祓い戸の大神は、「セオリツ姫」「ハヤアキツ姫」「ハヤサスラ姫」と、三神とも女性の名の神様である。
神様の世界も、カカア天下なのだろうか。
宇宙は、女性のシステムで出来ているのだ。
余計な物は祓って貰い、撒き散らすのではなく、吸い取って貰わなければならない。
宇宙でも、最大の力を有するモノは「ブラック・ホール」である。
余計な物や、必要の無い管理システムは無くして貰い、出来るだけシンプルな社会機構を完成させなければ成らない。
其の為の、昨日と今朝のメッセージだろう。
今朝、ミクシイのコミュニティーを覘いたら、一年間で15000人もの会員が出来ているブログもある。
数の多さで、人々の興味が、何処にあるかも見てとれる。
此れも、一つの管理システムと言えるだろう。
新しい社会システムは、もう身近な物と成ろうとしている。
後は、我われの行動以下に、掛かっている様だ。
神々の出来ない事を、代りに行うのが、我われ三次元に身を置く者の役割である。人類の子孫が残らなければ、我われの思考の延長は無いのだ。
イエスの云う「永遠のいのち(魂)」と、肉体を有する人類が、安定した世界に生きる事が、基本の処になければ成らない。
中国の老子も「古の人は 素晴らしい。」と、自分の意識の土台と成っているモノに感謝し、インドの釈迦も「私が悟ったのは 今世ではなく何代も前だ。」と謂っている。
彼等が感じた事を、現代の社会でも感じ取れる様に、社会を組み立てなければ成らない。其れが、今世を生きる、我われの役目だろう。
平成17年11月24日
礒邉自適
2005/11/23
研ぎ澄まされる
17・11・23
今朝のメッセージは、秩序だっており、意味深いものであった。
始めに、回りが暗い世界に、白い色の服を着た10歳くらいの女の子が、一人だけ、光を受けて出て来て、現代社会の組織の人間に、虐待を受けている。
其の組織とは、男性が管理運営している、商売の世界組織である。
其れが、純真な少女を立ち上がれない程に、痛めつけているのである。
其の組織の力は、他の政治や宗教等、全て男性が作り込んだシステムに、同じく働いている。
私は、其の少女を、其処から救い出し、女性が幸せに暮らせる、別の世界に連れて行った。
其処には、素晴らしい暮らしが在り、不必要な物は一切無く、女性は少しの屈託も無く、身に余計な飾り物も着けていないし、厚化粧もしていない。
必要な物は、全て、良い物が揃っている。
そして、私がゴミ箱の蓋を開けて見ると、何もゴミが入っていないのである。物質が見事に管理されており、廃棄物が出ない暮らしの様である。
私は、何故そうなのかと意うと、横書きに二行の文字が現われ、線が横に引かれ、繋がりを持ちながら、順番に関係性が書かれているのが見えて来た。
上の行は、男性に関する理で、一番左の書き出しの所に、カイラスの文字が有った。
二行目は、女性の関する理で、海に関した事から、暮らしの事に繋がっていた。
其の意味している処は、本来の、男性と女性の役割が明確にされて、お互いが其の役割をしっかりと熟しており、平和で幸せに暮らしている事である。
女性の立場に付いては、私が男なので、其れ以上の事は解からなかった。
男性の世界は、カイラスの言葉からなので、私の意識は山に向かった。
カイラスは、チベットに有る聖なる山で、神が住む山とされている。
男性の意識は、どうしても尖った山に魅かれるらしい。其れは、潜在意識の働きに因るものだろう。
インドには、リンガーの信仰があるし、日本にも男根の信仰がある。
其れに、女性の神は、河や湖に住むが、男性の神は、大体が高い山に住んでいる事になっている。
男性が一人で修行するのは、殆どが山であり、仙人も聖者も山に住む。
今朝の私の意識も、最後に高い山にある湖に辿り着いて、静寂を得て、映像は終わった。
今朝のメッセージは、現在の社会構造の悪い面を、端的に指摘して来ており、本来の人間の暮らしの在り様を示して来ている。
其れは、上手く説明が出来ないが、人間の本来の生活の仕方を伝えて来ているのであろう。
人間は、本当は、素晴らしい世界の住人だったのである。
其れが、何時から、こんな悩みの多い生き物に、成り下がってしまったのだろうか。
其れは、旧約聖書にも有る様に、「エゴ」と「所有心」が生まれたからである。今朝の私の意識は、其処から、脱した処に到達していた。
此れは、今回の新嘗祭が、全国で成功した所為かも知れない。
全国で、今回の儀式に参加した神霊が、或るレベルに達した証しではないだろうか。そうであれば、我われの努力も、実を結んだと言う事に成る。
そうだとすれば、私も、一応の責任を果たす事が出来た事に成るだろう。
これからは、少し気を抜いて、ノンビリと暮らして行きたいと想う。
平成17年11月23日
礒邉自適
2005/11/22
生きとし生けるもの
17・11・22
今日のメッセージは、場面数が多くて意味も深い。
総まとめに簡単に言うと、生きとし生けるものを救う方法を採れとの事である。其れは、別の言葉を借りれば「衆生一切を救う段取りをしろ」との事だ。
今朝の映像は、先ず、パソコンの画面が現われ、全体が黒い背景の中に、犬や他の動物や植物などの形が、小さいけれども、澤山白抜きで映った。
私が其の中から、犬の形をクリックすると、全体の生き物が結び付いて居て、犬だけの情報を、引き出す事が出来なかった。
其の意味は、自然界のシステムは、一つの動物だけが単独で生きて居るのではなく、全てが関係し合って生きているので、全体的に考えろとの事だろう。
「衆生一切」とは、釈迦の言葉である。
釈迦は、宇宙意識に達したので、一切の生き物は、自分の意識の中の産物だと感じたのである。だから、この世界に現象化している物は、一切が、自分の生み出した子であると考えたのだ。
確かに、其れを現在の科学の世界が、裏付けをする処まで、人間の意識は高まって来ている。
自分の遺伝子は、38億年遡れば、一切の生き物と同じ情報源から、出発している理が証明されたのだ。
もう他の生き物が、人間の為だけに存在するのではなく、人間もまた「蚊の餌」として存在するのでもない理・ことは、一般的常識と成って来た。
しかし、其のバランスを壊しているのが人間様である。
地球にとって、一番の厄病神が人間と成ってしまっているのだ。
しかし、其の人間も、此処のところに来て、存在がヤバク成って来た。
其れは、10数年前から云われて来た、新しい病気の発生である。
養殖ハマチや、ケージ飼いの鶏の肉や卵を食べていると、抗生物質が効かない病原菌が、人間を襲うだろうと云われていた。
其れが、狂牛病や、鳥ウイルス等の形で、現実的な問題と成って来ている。
人間は、あらゆる技術の発達で、自然界のシステムを破壊し続けている。
其の反動で、スローライフ等の運動が起きては来ているが、未だ、其れが主流に成る処迄、社会は進歩してはいない。
今朝のメッセージは、其れよりも更に進んで、自然界のバランスを図れと言うものである。
其れは、人間の生活だけではなく、価値観や教育の在り方まで、視野に入れなければ成らない事柄の様である。其れは、釈迦の生命論の続きを引き受けて、完成にまで導けとの事ではないだろうか。
今日は、新嘗祭の始まりの日である。
今日から、明日23日に掛けて、夜通しで新嘗祭が行われる。
23日は戦後「勤労感謝の日」と呼ばれているが、其れは「新嘗祭」の日が名前を変えられただけなのだ。
勤労感謝の日と呼んでしまえば、働いている人達だけに感謝する意味に成ってしまう。
だが、本来の新嘗祭の儀式の内容は、一族の代表が、前の日から沐浴潔斎をし、今日は、今年収穫されたお米を初めて食べる儀式をする。
其れも、自分だけではなく、先祖代々の霊を全部呼び戻して、一緒に食事をするのである。
そうする事で、今年一年の無事を感謝し、来年の安定と調和を願うのである。
新嘗祭は、戦後の状況で勤労感謝の日と名前を変えられた。
本来の名前が変えられた事で、国民の関心は薄らいでしまってはいるが、其の儀式が続けられている事は重要なのである。
しかた無く、勤労感謝の日とされてしまったが、感謝の気持ちだけでも受け継がれれば、無いよりはましである。
今朝の映像は、更に一歩進んで、人間の意識を救う為に、バイパスのトンネルを造れと言うものである。
現在の、価値観の舞台の上で、新しい価値観を広め様と考えても、無理との事である。
だから、バイパスを通して、其処に、新しい価値観の情報を流し、人間の意識を変えるとの事である。
だからと言って、多くの人間を、自然の中に移動させて、引き受ける事はするなとあった。多くの人を、自然の中に引き受けると、共倒れに成ってしまうとの事である。
更に場面が続き、カセットテープを地面に落としたら、ケースが開いてテープが外れて、駄目に成った。そうしたら、ポケットの中に、小型の薄いデジカメが有って、其れで記録写真を撮り、パソコンに入力する事に成った。
パソコンには、「ブッダ・フィールド」のサイトが有って、賛同者は皆、其処に自主的に顔写真付きで登録をするのである。
そして最後に、生活物資の名を書いた一覧表が渡された。
其れには、人間の生活に本当に必要な物だけが、書かれていて、其の流通システムを、整えなければ成らないらしい事が理解出来た。
今朝のメッセージは、新しい社会の情報システムが一番大事であり、其れを整え、人類の意識の進歩を図るものである。
此れが、本来行われていた新嘗祭での、霊界との遣り取りだったのだろう。
遣り取りと言うか、霊界からの指令を受け取る事である。
命令の「命」の漢字は「A・牛(神)+ 卩・B(膝まずいて祈る人)+ 口(神の言葉)」の組み合わせで、神の命令を受取るの意味である。
新嘗祭は、稲の魂しいのエネルギーを借りて、先祖の霊から指令を受け、自分の「使命・みこと」を知る為の、大事な儀式なのである。
其処には、死んだ人間は、肉体が無くなっても、魂は永遠に存続し、子孫に影響を与えて行く事が明確に示されている。
其の考えが、部族の氏神様を祭祀する制度を創り出し、「すめみおや」の言葉を伝えているのだ。
人間は、万物の霊長であると、自惚れては居るが、其れは、大自然が調和して存在しているから言える事であって、自然が、人間の存在を見放してしまえば、一気にガタガタに成ってしまう。
地球の生き物の中で、何かの変動が起きた時に、一番か弱い物は人間である。人間の一番の弱点は、情報に因って容易(たやす)く行動を起こし、パニック状態に陥ってしまう事である。
今朝のメッセージは、其の事を、前もって注意して来ている。
「注意」とは、「意を注入する。」との意味である。
その事を、真剣に受け取れば、愈々ヤバイ時節の到来だと言う事に成る。
イエスの言葉に「其の時には一番先の者が 一番後に成る。」とある。
天神様の細道も、「行きは良い良い 帰りは 怖い。」とある。
早く、Uターンするに限る様だが、果たして人類全体は、どう動き出すのだろうか。
平成17年11月22日
礒邉自適
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