2005/10/4
開 眼
17・10・4
今朝のメッセージは、愈愈神の目が開く事の知らせであった。
始めに、数人の「目にも止まらぬ早業」を使い、事を成す神人が数名現れて、デモンストレーションを行った後に、金色の人間の眼が片方だけ現れ、瞼が上に静かに開いて行った。
そして、見えて来た瞳に人の顔が映り、其の映った人の眼が拡大され、更に其の人の眼にも、人の顔が映り出された。そうして、次々に、眼に映される人が繋がって行くのである。
今朝のメッセージの内容は、人間の目には見え無い速度で、神人の働きが始まる事が知らされ、神の働きを見た人が、次ぎの見込みのある人の目を、開眼させて行くと言う事ではないだろうか。
最初の、金色の目が神の眼であり、其の目が認めた目を持つ人が、神の代理者と成って行くのである。其れは、エジプトの神の目「ラー」であり、ベトナムの「一つ目の神」でもある。
今朝は、霧島に近い「えびの」の友人のホテルに泊まって居る。
霧島は「高天原・たかまがはら」と呼ばれている所である。昨日は、鹿児島市で、屋久島おおぞら高等学校建設の件で、前田社長と打ち合わせが有り、飛行機で鹿児島に出て来て、其の用事が済んでからエビノ市に来た。
其のエビノ市の友人は、4500坪の土地を購入し、近くに有る島津義弘公(1535〜1619)の息子「鶴壽丸」の御霊屋の斎場の準備工事をしている。
鶴壽丸は、8歳の時に此処で亡くなった子供らしい。今朝の霊夢は、島津家の霊と関係が有るのかどうかは分からないが、「ラー」の一つ目が開かれたと言う事は、何か関係が有るのかも知れない。
島津家の家紋は「丸に十字」である。午後、屋久島に帰りパソコンを開いたら、孔紀氏の新しいホームページが出来ており、其のマークが丸に十字の印しである。何か連動しているのであろうか。
屋久島の真南平内から、山岳の中心を真北に線を引くと、島の真北に位置する矢筈岬に有る「矢筈岳神社」を通り、「開聞岳・開聞神社」→私の父親の故郷である谷山の「慈眼寺」→熊本葦北「佐敷神社」→玉名「菅原神社」→久留米「水天宮」→大宰府「天満宮」→宗像市「宗像大社」と、東経130度30分の一直線上に存在する。
谷山の慈眼寺は、島津家の出城跡で、私の父方の祖父は、其処の「谷山神社」の宮大工をして居たらしい。鹿児島には、明治維新の立役者の「西郷さん」や、其れより前の時代に彌勒運動を興した「弥二郎さん」等、歴史に関わる人は多い。
日本の今の歴史の基に成った「神武天皇」も、南九州から奈良に出て行った人である。
私は、其の谷山の父親の実家で、昭和21年の初夏に母のお腹に宿ったらし。両親が屋久島に21年8月3日に渡って来て、私はその5ヶ月後22年1月29日午前3時頃に生まれている。
私も、鹿児島の何か得体の知れないモノに動かされて居る様である。
ラーの目が開かれ、愈愈三次元世界が影響を受け始める時節がおとずれたのであろうか。
三次元は、物質を動かさなければ何も変化しない世界である。是からは、何をどう動かせば良いのか告げて来るだろう。其れが、ラーの目が現れた原因とも成る。私の視線が、何処へ向けられるのか、私自身にも分からない。
しかし、是迄の21年間の旅の間に、何等かの基礎は出来ているのだと想われる。
其れは、私自身の気持ちに、何が起きても良いと言う安心感が有るからである。21年前に見せられた、人類滅亡のイメージは、もう遣っては来ない事からも其れが解かる。確かなものを、確かめて、毎日を過ごす事しかないのだ。
今朝メッセージには、40歳くらいの賢そうな女性が二人現われ、私の文章の手直しを全部行ってくれると言うので、私はパソコンのキイワードを教えた。其れも、安心な気持ちの一因と成っているのだろう。
屋久島から北へ向かえば、「開聞(ひらきき・開いて聞く)神社」が存在し、私がお腹に入った所は、慈悲の眼の「慈眼寺」である。何か、余りにも出来過ぎて居て、人間の思惑等、何も関係無く事が進んでいる様である。
平成17年10月4日
礒邉自適
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