このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2005/7/30
新しいシステム
17・7・30
17日(17・7・17)から、始まった新次元の動きが、具体的であり、しかも激しいものなので、孔紀さんの8月8日の方針が発表されてから、文章化しようと意って居たのだが、今朝のメッセージで、少し肩の荷が軽く成ったので、今朝の分だけ纏めてみる。
其れと、後数日で、昨年の文章を打ち終わるので、其れから、ゆっくり文章にしようとも思って居たからである。
其れが、今朝文章を打って居ても、今朝のメッセージの事が、気に掛かって落ち着かない。
少し気分が落ち着くまで、今朝のイメージを思い返して見よう。
始めに、私は日本式建築の建物の中に座って居た。
其処は、大きな丸いテーブルが、囲炉裏を囲む様に造られていて、20〜30人の人がゆっくり座って、食事が出来る様に成っている。
未だ、私一人だけが、先に来て座って居て、他には誰も居ない。
私の前には、前菜の様な物が、お膳に乗せて出されていた。
私は、大事な時に、こんな所に居て良いのだろうかと想うと、画面が現れて、もう随分とシステムが組まれているのが、映し出されて来た。
其れは、ネットワークの様な物と、箇条書きに書かれた、これから遣らなければ成らない、沢山の事柄である。
私は17日から、順番に出て来る、これからの動きを見せられて、其れ等の事を、自分が積極的に遣って行かなければ成らないのかと、少し躊躇している処があったのである。
処が、今朝のメッセージで、私は、自分では何もしなくても、神々がドンドン先に進んでいる事が知らされ、ホッとして居る。
今朝のメッセージは、昨日のメッセージの続きの様に成っている。
昨日の映象は、大きな建物での催しや、交通手段の手配、それに子供達の相手などの現場に、私は居るのだが、見て居るだけで、直接には手を出さないのである。
其れでも、私は充分に役目を果たしているらしく、安定した気分であった。
そして、私が、他人の居ない所で遣ることは、花崗岩の薄い板の上を、パソコンのマウスで探る事だった。
私の役目は、神界で起きている事を、パソコンのマウスで探り出す事らしい。そして、其の花崗岩の薄い板は、赤味掛かっていたので、屋久島の花崗岩であろうと想われる。
屋久島の花崗岩は、鉄分が含まれているので、空気に触れると、酸化して赤く錆びるので、墓石などには使用出来ない物である。
私は、屋久島の花崗岩の御岳より、神界の成り行きを、毎日引き出し、文章にしていれば良いのだ。
今回の、神界の流れを見ていると、孔紀さんとの組み合せが起きた事で、神界が具体的な動きとなり、現実的な展開を興している様だ。
私は、世界自然遺産に登録された此の屋久島に生まれ育ち、自然の中で農林漁業に取り組んで来た。だから、現場の映象は沢山あるし、全国を18年間回って、様々な世界を見て来たので、全国の情報も手に入れているのである。
何故、私の人生は、其の様なのか。それは、神々が行なう森羅万象の流転の世界を、映象として読み込む為には、其れだけの体験と、認識力が必要だったからであろう。
人間は、見た事が無い物の映像は、頭に浮かぶ事が無いのである。
全国の旅で出会い、私の事を認めてくれた人達は皆、「貴方は 何もしては成らない。貴方が只在るだけで 神の計画が成就するのだから。」と云うのである。
私には、その理屈が分からなかったのだが、昨日の花崗岩の板と、マウスの説明で、なんとなく其の事が理解されて来た。
後は、孔紀さんの流れを見ながら、現実の社会現象を認識し、神界の動きと照らし合わせて行かなければならないのだろう。
17年7月30日
礒邉自適
2005/7/26
二組の男性達と一人の小母さん
17・7・26
今朝のメッセージは、人間の在り様は、一元化出来ない理・ことが知らされて来た。
日本には、昔から、ヤクザな生き方に向かう人と、お坊さんの様な学問の道に進む人とが在る様に、男の進む道には「右脳型」と「左脳型」が在る。
今朝の映象は、男性を一つの流れに、統率出来ない理が示されて来た。
最初に、男性の大勢いる会社が映り、スーツ姿で品格のある60歳くらいの紳士が、社長を務めていた。
そして、其の人より、少し若い幹部数名が居て、其れ等の人間皆頭が良く、スマートな感じがした。
其の様子から、エリートが沢山集まっている、一流企業である事が理解出来た。
其の場面は、建物の中なので「ホワイトカラー」と呼ばれている人達の、職場である。
次に、現場で活動する「ブルーカラー」の男性達の世界が映し出されて来た。其の人達は、たまには気晴らしに博打をしたり、喧嘩をしたりする人達である。
其の人達は、机に座って頭を使う事を、面倒に意い、外で動き回る事を好む人達である。
しかし、世の中は、そう言う人達が土台と成って、経済が成り立っているのである。
そして次に、70歳位の細身の小母さんが現れて、「あんた達は 親の年忌なのに チャントお参りをしたのか。」と云うと、両方の人達が神妙に成って、其の小母さんの言う事を素直に聴いていた。
今朝のメッセージは、男性の働きは一本化出来ず、また一本化しては成らないとの理であろう。そして、どちら側の働きも、女性が、本で無ければ成らないとのことである。
男性の働きが、時代の変化に因ってどんなに変わっても、人間の暮らしは、本がシッカリしていなければ成らないのだ。
現代社会は、本来は男性の職場であった分野に、女性の進出が目覚しい。
其れ自体は、決して悪い事ではないが、人間の本来の暮らしの本である、芯の部分の「母性」が社会から喪失されてしまえば、人類は、糸の切れた凧の様に、行き先も不明で、還るべき本の位置をも、失ってしまう事になる。
現代社会の一番の問題は、本来の働きを失った都会で、産まれ育った人達が、田舎に迄、都会の価値観を押し付けて来る事である。
其の為に、田舎でさえ、本来の人間の暮らし向きを失いつつある。
人間の、本当の幸せな生活が、どの様なものであるかを、伝え続ける、田舎の小母さんの存在は、神にも等しい存在である。
都会で、宝石を身に飾り、化粧をして、買い物やパーティに、遊びほうけている女性の姿は、本来の母性の姿ではない。
女性の欲求が高まれば、其れをカバーしなければ成らない、男性の働きが増大し、社会全体がストレス増となる。
疲れた男性ばかりの、世の中では、健康な子供達も育たない。
今朝のメッセージは、基本的な、社会構造のシステムに付いて、大事な課題を知らせて来たものと考えられる。
国には国の決まりが有り、各地には、其々の暮らし向きが在って、各家庭には其々の行事がある。
其れ等の事を再検討し、此れからの、新しい社会システムにとって、一番基礎と成るべき点を、やり直す事が必要だと想われるので、今朝のメッセージを、忘れない様にして行かなければ成らない。
平成17年7月26日
礒邉自適
2005/7/25
新しい次元
17・7・25
7月18日(旧暦6月13日)から、急激な次元の変動が起きている。
それは、人間の視覚の領域を越えた世界の出来事だから、普通の人々には感じる事が出来ない世界である。
其れを、簡単に説明すれば、ラジオだけしか持っていない人には、テレビの映像が見られない事と同じだ。
それは、普通の人は、自分が目に見えて、手に触れる物しか、見ようとしない為に、宇宙の振動波がキャッチ出来ない事から起きている。
宇宙の全ての物質は、全て人間の目に見えない振動から出来ている理・ことは、もう普通の人々が知る、常識の範囲と成って来ている。
後は、それを知識として受け取るだけか、現実として取り組むかの、差だけである。
私は、その世界を現実の物として、21年間取り組んで来た。
そして、今月18日から霊夢・ビジョンにパソコンの画面が現れて、新しい情報システムが動き出した事が映され始めた。
其れから、其の画面は毎日進化している。
今回の、神の動きの予兆は、3月30日の「全ての情報が」から始まり、5月8日「天日人生」、5月14日「用意された神のリンクボックス」と、予告は有ったのだが、6月6日に孔紀氏との繋がりから、急激な変化が霊界に起きて来た。
其れは、霊界の神霊達にとっても、初めての試みなので、誰もが、どうしたら良いか、確かなものを持っていない様である。
6月6日からは、情報通信システムの調整が始まって、私の脳も、其のシステムに組み込まれる為に、何日間かは、大変な事もあったが、其れは馴れているのでクリア出来た。
そして7月18日より、具体的に、新しいシステムが稼動を始めた様である。
今朝も、其のシステムに、私が、どの様に組み込まれているかの様子が、知らされて来て、明け方に平仮名で「いえ」との文字が見せられた。
この事は、普通の人に話すと「戯言・ざれごと」として、一笑されてしまう事柄である。
しかし、云えと言われれば、云わない分けには行かない。
人間の頭は、誰かに云われて、情報が認識されないかぎり、其処に有る物が、目に見えないと言う単純なものである。
声音で物の名前を聞いて、其の名に興味があれば、初めて其の物を見て、頭脳に其の新しき物の存在が記憶されるのである。
私が、こんな事を言っても、殆どの人は、興味を示さないであろう。
しかし、神界より「云え」と言って来るのであれば、何処かに、誰か、其れを待っている人間が、居るという事だろう。
此処一週間で、知らされて来る事柄は、是迄の、私の総決算に繋がる物事である。
しかし、私には資金も無いし、スタッフも居無いので、遣らなければ成らない事は見えても、此れ以上の手出しは出来ない。私に出来る事は、メッセージを書き留めて、後の人に伝え残す事である。
以前は、メッセージが有ってから、現実化するまで、数年掛かっていた事が、いまは一年遅れ程の期間に、近付いて来ている。
今年か、来年中には、メッセージで示される事と、起きる事が、同時進行する様に成って来るのかも知れない。
取り敢えず、私の本番の様子が、少しは具体的に見せられ始めたので、遣り易く成って来た事には間違いない。
1999年7月26日に、東京の飯田橋駅近くに在る「生活館」を借り受けて、「第一回みづほの国造り」の集会を行なってから、明日で丸6年に成る。
少し、先走りの感はあったが、今に成れば、其れは、それで、神にとって意味が有ったのだと思う。
何時の時代でも、誰かが、勇気を持って、先を進まないかぎり、道は開かないのである。
今回、起きている神界の流れは、前の時とは違い、私が直接、世間の中で他人に気を使いながら、動き回る事ではなさそうである。
静かな所に居て、神のメッセージを受け取りながら、其れを伝えるべき所に、伝えて行く、其れが、今回の私の役割なのかも知れない。
そうであれば、何人かの女性が、受けたメッセージと合ってくる事になる。
現在、連日受けているメッセージが人々に伝えられ、現実化して行くのに、後どれ程の月日が掛かるのだろうか。
私は只、其の日が来るまで、毎日この作業を、続けて行くしかないだろう。
17年7月25日
礒邉自適
2005/7/23
インターネットの世界
17・7・23
6月6日に、孔紀氏と、インターネットで繋がって、想いがけ無い方向に、事が進み出した。
其の日から、21年前に起きた様な、現象が始まって来たのである。
是は、経験した事が無い者には、理解不可能であるし、若し、普通の人に其れが起きれば、堪らずに病院に駆け込むであろう。
私は、21年前、無庵師匠が直接側に付いて居て、修行として、其れを体験したので、どうにか耐える事が出来たので、病院には行かなくて済んだのである。
今回も、其の体験があるので、乗り超えることが出来た。
6日から、孔紀氏との遣り取りが始まって、それは、只の人間同士の情報の遣り取りだけでは、済まない状態と成った。
コンピューターを通じて、宇宙と人間の脳の間に、新しい次元の情報が、流れ始めたのである。
宇宙には、大きなシステムが存在する。
其れを、昔の人々は「神」として敬って来たのだ。
中国でも、漢字の「神・シン・ジン」の文字で解る様に、神の漢字の象形は、「示+申」の組み合わせで、其の意味は「祭壇を設け、見えない神の電気信号を受け取る。」である。
其の、電気が通じる回路を「神経」と名付けている。
其の仕事をする役目の人が、聖者と呼ばれているのである。
日本には、昔し「卑弥呼・ひみこ」と呼ばれていた女性が居たらしいが、同じ様な働きをしていたのだろう。
私も、其れと同じ状態が、21年間続いて来たわけだが、今回の其れは、以前の其れとは異なり、是迄の地球では無かった事が始まっている。
以前は、神との通信は、人間の額の奥に有る「松果体」が、通信回路の役割りをしていて、自然の物体としては、主に「花崗岩(石英や雲母・水晶や翡翠も仲間)」の振動波が、利用されていたのだが、今回の其れは、インターネットと其れに通じている「電波」や「磁気信号」も使用されており、今までとはパワーが違うのである。
今回の動きは、神霊が個人的に一人一人に接触して来るのではなく、インターネットを使って、同時に、強力な情報をコントロールしようとしている。
それは、「百一匹の猿」処のスケールではない。
人類全体と、霊界に存在して居る過去の御魂を含めて、意識全体が進化しようとしているのだ。
インターネットの世界にも、プロバイダーが必要だが、今回の情報システムにも、同じ様な人間の脳味噌が必要な様である。
其の役目の人達が、現在世界中に、苦しい思いをしながら、頑張っている様である。
人間の体は、60兆個の細胞で出来ており、其の一個の細胞の中には、一組の遺伝子が入っているので、人間は60兆個の遺伝子の情報で、生きて居る事になる。
一組の遺伝子を引き伸ばすと、1・8メートルも有り、其の長さに一人分の60兆個を掛けると、太陽と地球の間を、300回も往復する長さが有るそうである。
処が、人類全体60億人の遺伝子を足しても、其の量は一粒の米程にしか当らないらしい。
60億人の遺伝子の情報など、無きに等しい僅かなものなのである。
人間は、自分の存在は、大きな物だと勘違いをしているのである。
神自体が、人間に愛想尽かしをして、振動を止めれば、途端に、此の世界は岩戸隠れで終しまいである。
現在・いま、最後の次元が訪れ様としている。
それは、「すめみおや」達の努力に因るものだ。
新しい次元の波に乗れない者は、塵は塵に還るしかない。
我々の存在は、神の結びの力に因って、現象化しているのである。新しき波に同調出来ない者は、生きる事が難しくなるだろう。
いま何が起きているかを、少し説明すると、今年の3月30日に「全ての情報が」の文章に書いてある事が起き、其の現象の中で「悦子」と書いた紙が、壁に張られている映像が見えた。
そしたら、6月6日に悦子さんより電話が有り、孔紀氏の存在を知らせて来たのである。
「全ての情報が」 http://star.ap.teacup.com/170606/36.html
5月8日には、「天日人生」の文章を書いているが、其の中に書いてある「愛の有るホームページ」とは、孔紀氏のことで、5月14日の「用意された神のリンクボックス」に出て来る40歳くらいの女性とは、AIさんのことの様にも受け取れる。
天日人生とは、孔紀氏の人生かも知れないし、パンドラの鍵を受け取るのは、AIさんなのかも知れない。
AIさんは、兵庫県にお住まいのようだが、西宮市の名も元は、「東の伊勢神宮」に対しての「西の宮」で、祭神はやはり天照大神である。
46万2千の数字は、世界に其れだけのメンバーが、既に存在するとの知らせなのではないだろうか。
6月6日より、霊夢に具体的な映像が、パソコン画面に様々に映し出されて来る。其の現象は、日々進んでいる。
どうやら、人間界よりも神界の方が、プログラムが進行している様である。
6月6日に起きる事が、前から、神の手に拠って準備されていた事が、見えて来た。
どうやら、私が、自分でパソコンに毎日向かって居る事こそ、夢の世界なのではないだろうか。
平成17年7月23日
礒邉自適
2005/7/17
密教の入り口
17・7・17
今朝のメッセージは、今迄で一番、意味深い事柄の様である。
私の意識の旅は、どうやら終わりが無い様だ。
今朝のメッセージは、先ず、水が池に湧き上がるのが、水の底から見えた。
それも、湧いている水に、黒い色が着いてである。
普通では、湧き出す水には色は着いていないし、水中メガネでも掛けて、池の底に潜らないかぎり、水が湧く所を、真下から見る事は出来ない。
私は、何だろうと想っていると、其れが、本当の人の意識の世界であり、宇宙の秘密である理・ことが解った。
我われの、通常の意識は、水の表面を見て、意識を組み込んでいるだけなのだ。それは、太陽の光りや、ライトが当っている時にだけ、見えている世界で、実は、水は四六時中湧き続けていて、一時も休んでいないのである。
我われの意識は、通常は、光りが当っている宇宙の一部しか見てはいないし、其の見えている一部の世界でさえ、良く理解が出来ていないのである。
其の理・ことに、気付いた人達が、科学・研究を初め、現在の様な文明を創り出して来た。
しかし、其の副作用で、人々は偽の情報に騙され、益々混沌の世界に嵌まり込んでいる。今では、太陽の光りの当っている世界でさえ、シッカリと見えてはいないのだ。
今朝のメッセージは、私が、其の事に気付いて、「真実の世界」「永遠の世」を見詰め、本当の答えを出す様に、求めて来たのだろう。
次の場面は、私に一通の封書が届いた。
其れは薄い封筒で、証明書が一枚入っているらしい。その証明書は、私が或る段階を通過した証明書らしいのだ。
今までに、その様なメッセージが有った事が無いので、ようやく私は、或る段階に到達した事だけは、間違い無い様である。
21年も掛かって、ようやく一段階を過ぎ様としているらしい。
これでようやく、密教と呼ばれている世界が、何であるかの予測が立って来た。
出雲に在る「神魂神社・かもすじんじゃ」は国宝だが、その神魂神社のやしろの中には、拝殿から16段の階段が作られ、神の御座します処に達するには、16の階梯を踏む必要がある理を示している。
私も、ようやくその一段をものにしたのだろう。
16段の階段に行き着く迄に、先ず、磯の段で祓いを受けなければならない。更に、其の前に、御手水で禊ぎをしなければならないのだ。
私の是までの21年間の行動は、磯の段を通過して、ようやく一段目に達したのか、16段の上に上り着いて、是から、神の社の扉を開くのかが、未だ判らない。
全国には、神官や宮司を職業にしている人達が、何万人もいるだろうが、果たして、其の中の何人が、其の段階に達して居るのだろうか。
もし階段を上り切った御仁が在れば、其の人に会って、自分の段階を確かめて見たいのだが、21年間の旅では、未だそんな人には出会っていない。
若し、何処かに、其の様な御仁が存在すれば、もう人類は、救われている筈である。
自分の達した世界が、確かめられないこの世界で、今朝届けられた封書は、一つの目安とは成る。
はっきりと理解出来た事を言えば、封書を発行する何者かが、存在するのは、間違い無いと言う事だけである。
次ぎの場面は、大きな本棚が映って来て、一番上の左側の方に、薄い書類を挿むファイルが10冊ぐらい有って、他には何も無かった。
どうやら、全ての本はいらなくなり、片付けられたらしい。
残っているのは、大事な答だけが書かれた、薄いファイルが僅かばかりである。もう、余計な思索の為の、書物は要らない様である。
中国の老子は、2500年前に「学絶てば 憂い無し」と謂っているが、学ぶ事を、最初から何もしなくて良いと言うことではない。
老子は、王様の図書館の館長をして居たのだから、老子以上に、学問をした人は居ないだろう。
その老子が、「学を絶てば 憂い無し」と謂って居るのである。
其の言葉で、学問の何たるかが理解出来る。
道元禅師も、修証儀で「既に 学問を絶した者を 尊び 敬いなさい。」と述べている。
学問とは、学びを真剣に成して、答を掴んだら、出来るだけ早く止めなければ成らないものらしい。
何時までも、知識欲に駆られて居ると、其れだけで一生が終わってしまい、神の役にも、人の役にも立たないことに成ってしまう。
人の役、神の役に立ってこその、学問である。
今朝のメッセージで考えられることは、私も或る程度の答えを、掴んでいるのであろうか。そうであれば、もう本を読む必要が無いのだが、どうなのだろうか。
次の映像は、無くす意味だけが伝えられて来た。
赤く燃える炭火を、濡れた布で包んで、静かに火を消すのである。
それは、日本の茶道世界の雰囲気であった。
盛んに燃えている炭火に、直接水を掛けるとジューッと音がして、灰が凄い勢いで上に舞い上がり大変である。
布に包んで、消えるのを待てば、静かな内に火を消す事が出来る。
其の意味は、神が、もう人間のカルマ(業)の火を消すのに、激しい手段を採らない事を知らせて来たのだろう。
21年前のメッセージでは、私の子供はおろか、世界中の人類全部が、死に絶えるとの内容だった。
その内容を見せられた為に、私は是まで21年間、行動が続けられて来たのである。其の人間のカルマが、ようやく静かな方法で、消される様に成って来たとの事であろう。ようやく私の肩の荷も、少しは軽く成りそうである。
今朝のメッセージは、地球も人類も、そして私も、或る段階を迎えた事が知らされて来たものの様だ。
しかし、それは、全てが上手く解決したとの事ではない。激しい形での禊ぎが無くなっただけの話で、人類の禊ぎは是からである。
分かっていることは、神の計画が、少しは良い方向に、向かいだしたと言う事である。
それだけでも、私に取っては救いであり、楽に成れるのだから、有り難い事と想わなければならないだろう。
平成17年7月17日
礒邉自適
2005/7/13
光りのソーシャルワーカー
17・7・13
今の時間は、午前3時3分なのだが、早く目が覚めたので、事務所にノコノコ出かけて来た。空は月が無いので、満天の星空である。
私が、天空の星々から、エネルギーをどれだけの受けているのかは分からないが、どうやら21年前と同じく、時空の調整に、借り出されそうな状況に成って来た。
21年前と違うのは、以前は無庵師匠と二人にだけに起きた出来事が、今回は世の人々に公開しながら、始まろうとしている事である。
今朝は2時頃、白黒二色で書かれた文字が現れ、意識が起こされた。
二色の意味は、白は光りで、黒は影で闇である。
光りは時間で、闇は永遠で、 影は光りに付随しているとの、理の様である。
現れた文字は「光りのソーシャル・ワーカー」で、筆書き風の、丸くて力強いものであった。
私には、光りは分かっても「ソーシャル・ワーカー」の言葉の意味が解からない。
事務所に出て来て、辞典で調べると、ソーシャル・ワーカー(social・worker)とは、社会的働き手、社交的働き手。の意味らしい。
それなら「光りのソーシャル・ワーカー」とは、「光りの社会的働き手」との意味になる。
今朝のメッセージをどう受け取るかが、私の力量なのだろう。
私自身が、光りのソーシャル・ワーカーなのか、それとも、他の人々がそうなのかが分からない。
今朝は、文字の後に映像が続いて、私が荒れた道路を歩いて行くと、草や木が繁って通り難いのである。
着いた所の家は朽ち、刃物は錆びて使えない。どおしたものかと、思案して居ると、透明感の有る一人の男性が、木か鉄かで出来ている、何組かの枠組を持って現れた。
其の男性は、何か新しいモノを作るのに、私に、協力をしたいらしいのだ。
其の男性が手にしている枠は、手に下げて来るぐらいだから、たいした大きさの物ではないので、何かの雛型なのだろう。
何を創る型なのか、持って来た御仁は、何も言わないので、全然分からない。分かる事は、未来に関する大事なことであると、言うことだけである。
其の解釈だけは、間違い無いだろう。
ヒントとしては、自然は強く、一時も休まないと言う事と、人間の造った家屋は朽ち、鉄は錆びてゆくとの事である。
その理・ことを、土台として、何を構築して行けば良いのだろうか。
自然と共に、永遠に朽ちない物、錆びない物とは、何だろうか。
石で出来ている、エジプトのピラミッドでさえ、風化して行くのだから、其れ以上、永遠の物を考えなければならない。
私が、いまの処思い当たるのは、物世界ではなく「永遠のいのち」の尊さである。
神が本当に在るのなら、地球のあらゆる「いのち」こそ、神の財産と言えるのではないだろうか。
我われの住む、此の地球の環境と、生命の豊かさは、他の惑星では考えられない現象であり、是だけの生命を、創造し、管理し、育成するのには、人間の創造力では、とても考え切れない情報量が必要である。
多分、今朝の霊夢に現れた、人型の光りの霊も、其の情報の源から送り込まれて来たモノであろう。
そうであれば、神と呼ばれている何物かは、次なる作戦を立てて、我われを動かそうとしているのである。
そうであるなら、私の役割は何であろうか。
私が、神にさせられている事は、多面多伎に渡るので、其れを言葉に置き換えてしまえば、一面的に固定されてしまい、人々に、誤解を与えかねなくなりそうである。
まさか、大日如来だから、中心に存在して、何もしないとは云えないだろう。何もしなくて良い存在なら、是ほどの、他人には言えない、苦労と修行は必要無かった筈である。
何か、私にしか出来ない事が、割り当てられている筈である。
私は、一度自由を手にした者である。今更、自分から、不自由を捕まえに行く気はない。
是までにも、自分が嫌がっても、目に見えない手が、背中を押す接触感があり、21年間も其れに従って来た。
今朝の男性の天使は、何故、私の処に、雛型の枠組みを持って来たのだろうか。他に、其の事が出来る適任者は居ないのだろうか。
一作日、月山の巫女さんより「自適さんは スサノオの働きだから 其れを自覚しなさい。」と云われてしまった。
神に、散々云われても封じ込んであるのに、人間の言葉で、直接言われると強烈なモノがある。
「スサ」とは、「苆・すさ」で壁土の中に、ヒビ割れしない様に混ぜる、草や藁を刻んだ物である。
其れと同じ物は、「ヌサ・幣」と言って、神社の祓い所におかれている。
ヌサ・幣とは、お祓いに使用する、紙を沢山切り刻んだもので、やはり切り刻まれて繋がりをもっている物である。
スサとは、自然の中の物象から取り出された「名」である。
それは、植物の形体では「穂」と呼び、動物の形体では「尾」と呼ぶ形の物である。其の、代表的な物を挙げれば「ススキの穂」と「狐の尾」が在る。
其の語源からすると、「須佐之男尊・すさのおのみこと」の「須佐・すさ」とは、「スサ(ヌサ)の尾」で、「の」は天津日継の津と同じく、接続詞であることが分かる。
須佐之男を、現代の言葉で言えば「多岐に渡る 遺伝子の分裂増殖の姿」となるのではないだろうか。
何故、「須佐之男尊・すさのおのみこと」が海を治めるとの事に成っているのか。それは、海が「産み」であり、全ての生命の源であるからなのだ。
38億年前に、岩を溶かして存在を始めた生命は、その記憶を、現代にまで受け継いでいるので、旧訳聖書に「神は 自分に似せて 粘土で人(生命)を創造した。」とある。
それは、昔し覚醒した誰かが居て、記憶のイメージを、其の時代の言葉に表したものに過ぎない。
神自体が、シャベリ出す事は無いのである。
神は、森羅万象の流転、其の物の姿である。その森羅万象の流転の中に、我われ人類も一部をなしているのだ。
人が、何故言葉を話すのか、其れは大脳が発達して、遺伝子が映し出して来る情報を、言葉として組み込み、表現できる様に成って来たからである。
永遠の闇の中に、我われの存在する宇宙は、たかだか138億年前に出来た物である。
旧訳聖書には、「神は 天と地に水を別けた」と在るが、それは現代の科学でも、宇宙は水素原子で始まった事が、確認されているので、間違いは無いだろう。
天も、地も、全ての生命も、ミズ・水と名づけられた「水素原子」なる物の、氣から生じた物なのである。
水の無い所には、生命は存在出来ないのだ。だから、私達の住むこの地球は、宇宙のオアシスなのである。
其の、水の世界を治める者が「須佐之男尊」である。
それは、いのちの原点であり、総ての生命の代表者でもある。
そんな者に、人間レベルの物が、成ろうと意っても、成れる世界ではない。
熊野神社の神は「かむろぎ くまのおおかみ くしみけぬの みこと」とであり、其の別名が須佐之男尊である。
それは、食べ物を通して、総ての命と繋がる事を目指すものである。
ノストラ・ダムスの預言に出て来る、「アングルモアの大王」も「多数の角度を有する大王」と訳せば、スサノオの意味と同じである。
スサノオの源・みなもとは、其々の命の中に、生命・いのち在る限り、継続されて行く物である。
私し個人が、今更シャシャリ出なくても、成るものは成って行くだろう。
パソコンの前に、日夜座って、やがて40日になろうとしている。
限界が近付いているが、未だ昨年の分の打ち残しが有るので、暫くはこの作業を続けるしかない。
私には、もう神を追い掛ける若さは残っていない。
どうしても、私にしか出来ない事があれば、その時、神が頼みに来るだろう。
其れが「神霊の思頼・みたまのふゆ」なのだから・・・・。
平成17年7月13日
礒邉自適
2005/7/11
このサイトの用
17・7・11
今朝の霊夢は、女性の霊だけが、一団と成って現れた。
其の中に、一人だけ背の高い女性がいて、笑顔だった。
私は、何だろうと想って居ると、「自告計室」と文字が出て来て、一枚の新しい板に、其の文字が縦に書かれているのが映った。
そして「このサイトの用」と言葉が伝えられて来た。
自告計室とは、私の日記の17年5月24日の文章に有る。
どうやら、このサイトは、禊ぎの場として大事な様である。
今朝の女の人達は、どうやら「祓い戸の大神」達だったらしい。
祝詞の、「大祓詞・おほはらへのことば」の中に出て来る神の名が、「根の国、底国に坐す 速佐須良比賣(はやさすらひめ)と言う神」とある様に、人間の意識の一番底の処は、雌(女性)の意識が基盤と成っているようである。
だから、私へのメッセージも、女性的な感じが有るのだろう。
5月24日の霊夢も、女性をテーマにして出て来ている。
「自告計室」http://star.ap.teacup.com/170606/10.html
平成17年7月11日
礒邉自適
2005/7/10
紫の布
16・7・10
今朝のメッセージは、紫の布が、人の耳の様な形から始まって、拡がろうとしているのが映って来た。そして次に、三コマ漫画が映って来た。
漫画は鉛筆の線画で、一コマ目は刷毛の形。
二コマ目は、人の片足が踝の上のところ迄映り、踵の下に黒い墨が一点付いているのが見えた。
三コマ目は、口の形だったので、クチの意味だろう。
今朝のメッセージが、何を伝えて来たものか、私なりに考えて見た。
辞典で「紫」と「布」を調べると、「紫」は「帝王・神仙の色とされる。」
「布」は「公布の布で敷に通じ、布(し)くの意味を持つ」と 載っている。
今朝現れた布は、耳の形をしていて、いま正に広がろうとしている様子だった。耳の形で広がるのは、人間の耳にする「ことば」を意味しているのではないだろうか。それも、帝王か神仙の「意」が言葉としてである。
次に三コマ漫画の刷毛は、塵やホコリを払う物で、天神が使用する刷毛と受け取れた。
そして、人間の足は、人間の行為を表し、一点の曇りが有る行為を、意味しているのだろう。
最後の口は、人間の言葉・語を意味していると想われる。
私なりに、三コマ漫画の意味する処を繋いで考えると、「神に通じる 刷毛を使用して、人間の行為や穢れを祓えば、言葉が正しく成る」との理ではないだろうか。
日本の神社で、一番大事とされる祝詞は、大祓詞(おおはらへのことば)で、人間の犯した罪や穢れを、祓い戸の神達に祓って貰うものである。
今朝の三コマ漫画は、その「祓いたまへ・清めたまへ」の世界が、簡単に画で示されたのではないだろうか。
それが出来れば、紫布の世界に、通じる事が出来るとの理・ことではないのか。
私は惟神(かんながら)の世界に取り組んで、丸20年が経過した。
しかし、紫布が現れたのは初めてである。何か、新しい世界が始まろうとしている予感がする。
未来が、どの様にして始まるのか、それは歴史を見ても明らかな様に、時代が変化する時は、誰かの行動や言葉に因って始まっている。
天が動く時に、人が動く。
それも、人間だけの勝手な想いで動く時は、時代は変わらず、天のメッセージに因って、人が動く時は、時代が大きく変化している。
今日のメッセージは、新たな時代の、幕開けを伝えて来ており、人間が、意識や、行動や、言葉を、改めなければ成らない理・ことを、知らせて来たのではないだろうか。
今年4月30日に、「尽」の文字が現れて文章にした。
「尽」の漢字は、蓋が元字で、「聿+皿」の組み合わせで、聿は刷毛の形で、刷毛で皿の中を スッカリ祓い切るの意味。だとのこと。
自分の欲望や、願いを全て祓い切って、天に仕えること。
それが「尽くす」の言葉の意味するところらしい。
私が、今日から、何を意識すれば良いのか、其の方向が、見えて来た様な気がする。
平成17年7月10日
礒邉自適
2005/7/9
愈々神の発動か
17・7・9
本日は、旧暦の6月4日である。
私に、神の召集が掛かったのは1984年6月4日で、旧暦の5月5日であった。其れから、21年が経過している。
私は長い期間、神の指示に従って来たが、今朝はようやく、神が具体的な意志表示を知らせて来た。
これは、孔紀さんと、私の役割が嵌まる処に、嵌まったからであろう。
孔紀さんとの、コンタクトが始まったのが6月6日で、一ケ月が過ぎた。
この間の接触で、私の位置関係が定まったのだろう。
孔紀さんの太陽界に対して、私は岩戸であり、月読界である。
ようやく私は、礒邉(石部・石工)の血筋の処に、治まった様な感がある。
私が、神の世界に入ったのは、太陽暦の6月4日だったが、今日は旧暦の6月4日である。私は、是から「磐座・いわくら」の世界に、静かに、嵌まり込んで行けば良いのだ。
何故、其の様な事を云うかと言うと、今朝方まで続いた、霊夢の世界の内容から、そう考えざるを得ないのである。
前半では、是でもかと言わんばかりの、人間のカルマを見せられ、私がヤッパリ人間は救い様が無いのかと意った処で、するべき事をやれば、救われる事が映されて来た。
それは、インターネットの機器が6〜7台配置されており、其の部屋に入る人間が四名現れた。其れは、若い男性が三名と、子供が一人居る30代の女性一名である。取り敢えずは、其の四名が情報システムを組み始めるらしい。
私は、其の建物の入り口の所に在る水場に居て、四名に順番に裸に成って貰い、全身に頭からシャワーで水を掛け、洗い清めていた。
彼等の肩から下に、花の花粉の様な物が着いており、其れはかなり毒性が強いウィルスの様な物で、少しでも建物の中に持ち込まれると、大変な事に成るらしいのだ。
私には、その建物の中の事は分からない。
私の役目は、建物の中に入る人達を、水を使って清める事までらしいのだ。
そして何故か、以前の家族の居る家に帰り、家族と話しをしている場面が映されて来て、私が妻に話し掛けていると「しあわせか」と、後ろの方から、神の声が聞こえた。
其れは、神の計画が順調に進めば、自分の家族も、救われるとの意味なのであろう。
今朝の場面には、途中がある。
それは、情報局から、自宅に帰る間に木造の家が在り、其の家の三ケ所に、誰かが付け火をして壁が燃え上がり、今にも、屋根に燃え移りそうに成っている場面である。
私は、大声で「火事だ」と叫んでいるのだが、誰も出て来ないので、台所の方に回って見ると、母親と中学生ぐらいの子供が、数名おやつを食べている。
私は、其の親子に「火事だから 早く水を掛けないと 家が燃えてしまうよ。」といくら云っても、動こうとしないのである。
結局、其の人達は動かないまま、其の場面は終わった。
この場面は、お釈迦さんの、法華経の教えの場面にも、関係している様なのだが、日常の暮らしの中で、常に訓練が行なわれていなければ、いざと言う時に対応が出来ない理・ことを知らせて来ている。
釈迦も、カルマの火の中から、子供をどうしたら救えるかの、問題提起をしている。
其の問題解決は、人類に与えられた、永遠のテーマかも知れないが、今朝のI・Tシステムは、その解決策を、神が知らせて来たのかも知れない。
そうであれば、神の世界では、もう既に準備が出来ており、あとは人類の努力次第との事ではないであろうか。
とにかく、孔紀さんの出現が、私に取っても、救いと成った事は、間違い無いところである。
平成17年7月9日
礒邉自適
2005/7/7
諏訪の神と鹿島の神
17・7・7
今朝の霊夢には、旅館風の大きなホテルに、5万人の人が、何かの集会の為に宿泊する場面が映されて来た。
其の集会の中心人物は、長野県松本市に住まわれて居る「中島氏夫妻」であった。
そうして、其の多くの人の中から、身体の大きな男性が一人立ち上がって、「後は 私が遣る。」と云って、外に出て行った。
其の男性の名は「鹿島」との事である。
何故、神は、中島氏の姿を借りて、場面を構成していたのだろうか。
中島氏は、予科連の生き残りの方で、地元の村造りや、国の農業行政に大変な尽力をなされた方であり、現在も地元で、元気に村の為に活動を成されている。
私が、とても尊敬申し上げている方なのだ。
その中島氏が、どうして今朝、夢に現れたのだろうか。
私に思い当たる事は、長野は「大国主命」の次男である「建御名方神・たけみなかたの神」が、出雲から諏訪に引越しをして住み着き、子供も12名できて多くの子孫が増えた土地である。
諏訪大社は、その建御名方神を祭る神社だが、其の末社は全国に広がっている。
日本の国造りは、天津族が始めたのではなく、初めに出雲で「大国主命」の力と、「少彦名命」の智恵で出来たものである。
其の経緯からすると、今回の国造りも、長野から始まるのかも知れない。
若しかしたら、田中知事は、もう神の計画を無意識の処で、遣らされているのではないだろうか。
今朝のメッセージは、諏訪の霊界が5万人集めたので、次は鹿島の霊界が動き出すとの事ではないだろうか。
鹿島神宮は、「建御雷命・たけみかづちのみこと」を祭る神社である。
そう言えば、鹿島と名乗った男性は、相撲取りの様に身体がでかかった。
天津族は、前の借りを返す為に、後は自分が遣るので、建御名方神側には休んでいて下さいとの事ではないのだろうか。
そうであれば、霊界では、過去の因縁が既に解決している事になる。
霊夢には続きが有ったが、其れは、私に与えられた今後のテーマなので、此処では述べない。
平成17年7月7日
礒邉自適