このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2005/5/25
角・かど
17・5・25
昨夜は、漢字の「角」が一文字だけ出て、カドと読むことは解ったが、何を伝えるものか、その意味が分からないので、暫く眠れなかった。
朝起きて、漢語林で角の意味を調べてみた。
「角」は、中が空に成っている固い、つのの形にかたどり、つの・かどの意味を表す。と 載っている。
しかし、それだけでは意味が取れないので、今度は、広辞苑で角を調べることにした。広辞苑では「角」は、次の様に載っている。
(1)物のとがって突出した部分。「机の角」
(2)物の隅。「部屋の角」
(3)道路のまがり目の所。「角の煙草屋」
(4)人の性格・言動が円満でないこと。「角のある言い方」
其れでも、私には、何の事を告げてきたメツセージなのか解からない。
私はジーッと考えていると、「角番」との言葉が、頭に出て来たので角番を調べて見ると、(1)囲碁・将棋などで、何番か勝負を行なううちの、それで勝敗が決まるという局番。
(2)相撲で、その場所に負け越せばその地位から転落するという局面。と載っている。
此処まで、調べても未だシックリと意味が掴めない。
だが、何かの角・かどに達している事は間違い無いだろう。
今日は、先日に続いて、屋久島の町立神山小学校の5年生に、自然観察の説明に出掛けなければならない。
午前中は、西部林道で世界遺産に登録された森の説明をし、大川の滝で昼食の後、栗生のキャンプ場の海岸で海の説明をし、夕食の後星空観察である。
昨年は、夕方時間が空いたときに、竹笛の作り方も教えた。
其れ等の事も、何か関係が有るのだろうか。
私の是からの人生が、角番を向かえているのだろうか。
是までの、私の21年間の家離・たびは、精神的な事柄が中心であった。
しかし、その謎解きが大体の処で終って、是から現実的な世界に、手を染めて行かなければ成らないのだろうか。
7月には「屋久島おおぞら高等学校」の生徒達も来島し始める。
其の生徒達にも、触れる事となるのだろう。
私が、58年間生きて来た体験を土台にして、生徒達に何が教えられるか、真剣に取り組んで行かなければ成らないのかも知れない。
中学校までしか、卒業してはいない私が、どう子供達に接して行けば良いのか。
しかし、私に取っても、初めての体験であるので、退屈する事は無いであろう。
私が、子供達に接して影響を与える事が、神にとって一番大事な事柄であり、其の動きの中心が、私に関係しているのなら、角番との意味は感じ取れるものがあるのだが、果たしてどうであろうか。
平成17年5月25日
礒邉自適
2005/5/24
自告計室
17・5・24
昨日で、メッセージが一応の決着を見たと想って居たのだが、今朝は又、続きらしいメッセージが映し出されてきた。
今朝の霊夢は、私の居る建物の中に、一人の女性がトイレを借りに来た。
其れは、私の知らない女性で、年は40歳代に見えた。髪は染めてあり、髪の毛は逆立っているスタイルである。
化粧をして、服はケバケバしく現実離れしており、タバコを吸いながら歩いている。トイレが済んだら、礼も云わずに帰って行った。
私は、何だろうと思っていると、今度は、吊り橋の渡り板が、ピアノの鍵盤の様に並んでいるのが映った。
そして、其の板が古く成っているので、上から透明の樹脂の様な物が、被されて行く。
其の作業が、吊り橋全部の板に終ったら、全部の板から、文字が浮かび上がって来た。
其の文字は、板の一枚一枚に、テーマの様なものとして書かれているらしい。
そして、最後の場面は、私が歩いて進んで行った先に、建物が在り、其の建物中に壁で仕切られた部屋が在り、その壁に「自告計室」と書いた、看板らしき物が縦に映って来た。
今朝のメッセージは、昨日のメッセージに関係している様である。
先ず「自告計室」の意味から、解いて行かなければならない。
・「自」は自分の自で、漢字の自は鼻の象形文字だから、自分の存在を、指で鼻を指し示す事で、自分を表現する意味からきている。
・「告」は、告白の告で「牛+口」の組み合わせで出来ており、神にいけにえの牛をささげて、神や祖霊に告げるの意味だから、自分の事を、神に告白するの意味である。
・告白とは、自分が真っ白く成るまで、自分の内側を曝け出す事である。
・「計」は「言+十」の組み合わせで、十は数の意味で、計とは数を口にするとの意味である。その意味から、かぞえる。はかる。はからうに当てられている。
・「室」は「宀+至」の組み合わせで、人が止まる部屋の意味を現している。
(漢語林より)
「自告計室」の意味を、上記の説明から解くと、「室の中で 自分の告白を、数をはかりながらする。」との事になる。
其れは、キリスト教の教会の告白や、京都の一灯園での内観の修行に似ている。
人間は、自分の罪を残らず、全て告白すれば、精神的にとても楽になり、心がリラックスして顔の表情も穏やかになるのである。
其の、告白をする内容を示すのが、今朝の夢に現れた橋の板なのであろう。
自分が、向こう岸(彼岸)に渡る為には、神の真実の力を借り受けて、自分の罪の数をはかりながら、罪の消去を一枚一枚して、渡って行かなければならない。
今朝の霊夢で、最初にトイレを借りに来た女性の姿は、最低のレベルの女性を示すもので、一番罪深き女性の姿なのだろう。
21日の霊夢に現れた、左側の高みの女性とは、まるっきり反対の処で生きている姿であり、女性や母親の自覚が、全く無い状態を映し出してきている。
男性が創り出した、悪いパターンの世界に、頭の上まで、ドップリ染まってしまっているのである。
自分が渡っている、人生の橋の板は、悪に染まっているのに、全く自覚無く進んでいるのだ。
21日の、霊夢に現れた男性の姿よりも、格段に低いレベルで生きて居る女の姿である。
遺伝子・DNAを、伝え残さなければならない、大事な責任がある女性が、男性よりも低いレベルで生きて居れば、人類の未来は暗いものとなる。
今朝の霊夢のメッセージは、21日の「高みに導く」の、女性の反対の姿として現れており、昨日23日のメッセージの「天から地への梯子」に対して、縦ではなく、横のパターンとして、横に渡る「橋の板」として、示されてきている。
そして、今朝の「自告計室」とは、昨日の彼岸にわたる為の、涅槃に必要な条件であるように受け取れる。
どうやら、21日からのメッセージは、全部が繋がって出て来ている様である。何者が、何処からそうして来ているのかは、定かではないが、何か大きなシステムが働いているのだろう。
私自身の、自告計室の作業は21年前に済んでいる。
私は、家族と離別し、仕事も全部止めて、精進の生活をしながら、無庵師匠の家で何十日も掛かって、告白を続けて行った。
そうして、ある日、突然に、其の瞬間が訪れたのである。
其れは、頭の中が空白に成り、何も話す事が無くなり、又それ迄、自分が何を話したかの記憶も無い、全くの空白の世界であった。
それが、真の告白の意味なのだろう。
自分の思考はあっても、一切、何も頭に浮かんで来ないのである。
其の、静かな自分に「アレッ」と、気付いている自分の意識だけが、残っているだけである。
其の、空白に成った自分の中に、新しい情報が流れ込んで来た。
其の情報は、其れまでの、人間社会で取り込んだ情報ではなく、宇宙や大自然の情報なのである。
宇宙との一体感の中で、生命情報が、どんどんと流れ込んで来るのである。
「知」の漢字は、「矢+刀」など、自分が手にしている物を、全部神に預けて、手ぶらになり、意識が空白に成った時に、神の知らせが届くとの意味である。
自告計室とは、新しき禊ぎの部屋の事だろうか。
平成17年5月24日
礒邉自適
2005/5/23
最後の答え
17・5・23
私は今朝、答えなど必要なかった事が分かった。
その様に、思念するのは、今朝の霊夢の所為である。
今朝の霊夢は、私の目の前に、私の目の前と言っても、私の肉体が姿として、其処に在るのではなく、目には見えない意識だけが其処に在った。
そして、其の意識の前に、実物ではないが、サーカスに使用する縄梯子の様な物の形が、上から下に有った。
私の意識は、是から遣って来る人々、特に男性を、右の道から梯子を昇らせて、左の上の方の世界に、上げて遣らねばならない様なのだ。
処が、多くの人々は、梯子に見向きもしないで、一人も、左の上の方に上がる事をしない。
私は、其れに対して、どうしてだろうと意って、左の上の方を見ると、一人の女性の姿が在った。
今朝の霊夢は、それだけで終って、何の答も、知らせも無かった。
夜が明けて、私は起き様にも、今朝の霊夢のメッセージが解らないので、其の侭ベッドの上で瞑想に入った(数日前からベッドで寝ている)。
そして、自分の意識を観じて居ると、仏教の彼岸の言葉が浮かんで来た。
「彼岸」とは、只単に、河の向こう岸の意味だが、仏教では、「生死の海を渡って到達する終局・理想・悟りの世界・涅槃」の意味に使われている。広辞苑
その意味は、臨死体験した人が、川の向こう岸に、先祖の霊や、光りの世界を見る事から来ているのかも知れないが、現代用語で言うと、三次元(現実世界)から、四次元(目に見えない世界、冥府)に、移行するとの理ではないだろうか。
私は、その彼岸の言葉を気にしながら瞑想を続け、彼岸の言葉で、今朝の霊夢の意味を探った。
そして、気が付いた理・ことは、男性は旅人であり、女性の方は高みに在って、男性が縄梯子を上って来るのを、静かに待っているのだとの理である。
その原因を探ると、遺伝子の仕組みが、そうなっている事が解った。
遺伝子は、女性の其れが「X(24)・X(24)」に対して、男性の方は「X(24)・X(23)+Y(1)」で、X・Yの組み合せが、一組だけ混じっているらしい。
其の、一組の染色体の違いの為に、男性は不完全であり、その不完全さを補う為に、旅を続け、手掛かりの梯子を見つけ出して、登らなければ成らないのだ。
そして、登り付いた処に、完全体の女性が存在するのである。
その女性と合体して、ようやく男性の旅が完成し、遺伝子は、自然の法則を守り続ける事が出来るのである。
人間の肉体も、地球に存在する、動物や植物と同じシステムで生きている。
だから、この遺伝子のシステムは、全ての生命に共通しているのだ。
そのシステムの理を、釈迦は「ダルマ・法」と呼んだのだろう。
それを現在では、全てが「仏・ほとけ」を内蔵していると、言っているのだろう。
その場合の「仏」とは、生命の事であり、釈迦はその原理を、解読したのである。
其の、生命の本質に、目覚めた姿を「ブッダ(Buddha)」と呼ぶので、ブッダは「佛陀」の漢字を当て、佛(仏)を「ほとけ」と呼ぶ様になっている。
2600年前、釈迦はその原理を、人々に、どの様に伝えたのだろうか。
当時は、電子顕微鏡も無いから、遺伝子が存在する事は知る由も無いし、電波望遠鏡も無いので、星の成り立ちも分からなかったのであろう。
しかし、それでも、生命のシステムを理解したという事は、自分自身の中に、生命情報が在り、瞑想をすれば、その生命情報が蘇って来る理に、気付いたのだ。
釈迦は、自分が獲得した情報を、人々に、40数年間も伝え続けている。
それでも、第二の佛陀は誕生していない。
その原因を、私は解かる様な気がする。
それは、釈迦の弟子は、何時も釈迦の姿を対象として見ているので、意識が外に向いており、内側の自分に、向かないからである。内側に自分の視線・意識が向かない限り、遺伝子の情報は、蘇って来ないのである。
釈迦は、人類全体が悟り、真実の門を通り抜ける迄は、門の外に在って、人類全体が悟りの世界に入るのを見届けたら、自分も門の中に入り、扉を閉めると云ったと伝えられている。
それが本当なら、釈迦は未だに、人々を導くために四次元に在って、その方法を探っている事に成る。
そうであれば、今朝の霊夢の中の、私の意識は、私自身の意識ではなく、仏陀である釈迦の意識だったのかも知れない。
釈迦の意識が、私の脳を使用して、情報の処理をしていたのではないだろうか。
釈迦は、お経を読めとか、覚えろとかは謂っていない。
釈迦の説いた理・ことは「人間が創作した 言葉や 文字を 使用するのを止めて、自分の内側の生命システムを見詰めよ。」との事である。
それは、キリストと呼ばれるイエスの説明とも合っている。
中国の老子も、その理に気付いており、「雄の生命システムを理解した上で、雌の生命システム側に 身を置きなさい。」と説いている。
今朝の霊夢の世界は、釈迦の念(おもい)と、老子の心象風景が集合して、映り出されて来たのかも知れない。
現代社会は、男性の方が、雄の象徴である顔の飾りの髭を剃り落して、女性に近付き、女性は目立ってはいけないのに、顔に化粧をし、飾りをそこら中に着けて目立とうとしている。
男性は、女性を真似し、女性は、男性を真似しようとしているのである。
それは、自分の意識が、外側の世界に、振り回されているからである。
女性が、外側を飾る意識を止めて、本来の世界に帰れば、その女性を母親として育つ子供は、本来の世界に生きて行く事が出来る。
そうなれば、男の子は本来の旅に出る事が出来るのだ。
そのシステムを、人間は無くしても、自然の中で生きているライオンや、鹿や、猿は、今でも其れを守っている。
人間だけが、忘れてしまっている世界を、動物達は伝え続けているのだ。
その理に、釈迦もイエスも老子も気付いたのであろう。
今朝の霊夢は、四次元に在る彼等の総決算ではなかったのだろうか。
そして、現在・いまの私は、自分の両親が理に適った生き方をし、私の生命を真実の意味で大事にし、私の意識を守ってくれたから、存在するのであろう。
そして、今までに、私の人生に関わって下さった多くの人々が、誰一人、無駄の無い存在であり、誰かが一人でも欠けたら、現在の私の意識は無いのである。
釈迦牟尼佛の言葉の、「三千世界に 我在り」とは、「本来は 己とは無く、全体が自分であり、自分が全体である」と言う感覚から、生じた言葉であろう。
今朝の心象風景を、言葉にしてみたので、最後に記しておこう。
「私達の 帰還する処は 自分の内側の 生命の本体である“雌”の立場である。」との理・ことである。
其れを、古の人は「自分」と書いたのである。
平成17年5月23日
礒邉自適
2005/5/22
ネーム・プレート
17・5・22
今朝のメッセージは、関係者全部に、ネームプレートを付ける様に伝えている場面だった。
最初の場面は、数名で海に魚釣りに出掛け、私はその中でも一番上手で、他の人達に指導をしていた。
そして、私の登録されている段階は、青い色のネームプレートだった。
自分のプレートの色が分かったので、他の人のプレートを見ると、教えを受けて、自分が魚を釣れる様に成った人は、オレンジ色のプレートを付けている事が分かった。
どうやら、分野別に段階の差があり、プレートの色を変えて、技術のレベルが誰でも分かる様にしてあるらしい。
その事を理解すると、其処に、誰かが私を迎えに来て、私はその人に付いて行った。
連れて行かれた場所は、女性だけで山野を切開き、村を造っている場所で、刈り取った木や草を焼くのに火を点けたら、隣の土地にまで燃え移り、他人の家まで焼いてしまったとの事。
それで怖くなって、木を切ったり、火を燃やしたり、土地を造成したりするのに慣れている私を、連れに来たらしいのだ。
其処でも、私の青色のネームプレートが、役に立っているらしい。
現場の人達は、全員私の知らない初対面の人達なので、インターネットか何かで、私の事を調べて連れに来たらしいのだ。
どうやら人材ネットワークが出来ており、分野別に、プロの人達は青色のレベルとして登録されている様である。
プロの段階が青色で、他の人を指導出来、自分は出来るけれども、他人を教えるレベルでは無い人はオレンジ色で、出来ない人は赤色なのだろうか。
それは必要ないらしく、赤色のプレートは出てこなかった。
出来ない人を、登録する必要は無いとの事だろう。
出来ない事が有る人に、若し色付けをしていたら、世界中の人が、真っ赤に成ってしまうからであろう。
私にしても、屋久島で必要な現場は、人並み以上に出来る自信は有るが、他の地域の事は分からないし、農林漁業の他は、あまり得意ではないし、日本語以外は全く駄目で、コンピューターの扱いも駄目である。
出来る事を数えれば、世界に在る仕事の、一万分の一程しか、出来ないのではないだろうか。
恐らく、此の世に存在する仕事の千分の一でも出来る人がいれば、天才と努力家を組み合わせた人であろう。
神様が、多くの人間を創り出しているのは、一人の人間に、余り多くの事をさせると、参ってしまうからだろう。
今朝のメッセージは、何か、一人前以上に出来るモノが有れば、その事に対して青色かオレンジ色の色付けをして、皆の役に立つ様に、しなさいとの事ではないだろうか。
人間、誰もが、何か一つくらいは出来るものである。
動く事が嫌な人は、受付係ができるけれども、ジィーッとしている事の苦手な人は、受付係は嫌がるだろう。
私も、此処三ヶ月間、インターネットで、日本国中のホームページを探って、色々な事を、沢山の人達が遣っているのが分かって来て、めぼしい人をお気に入りに登録している。
三台のコンピューターには、100を超えるホームページが、お気に入りに登録されていると思う。
そうしながら想う事は、団体のホームページよりも、個人のサイトの方が、ユニークで面白い事である。
分野別に、青色のネームプレートが出来ていれば、検索し易いが、その様な体制には未だ成っていない。
私も、2001年12月6日より、「森の木」と「木のネット」のホームページを、出雲の「安部忠宏氏」と、東京BBSの「小泉義仁氏」とで立ち上げ、未来社会の総合ネットにしようとしているが、途中で作業が止まっている。
資金も無いし、自分でコンピューターのプログラムが、出来ないからである。
せめて、「グリーンクラブ」のホームページを立ち上げて、未来社会に役立つ人達の、ネットワークを創り上げたいと想っている。
今朝のメッセージは、その事を始める時が、近づいている事の、予兆なのかも知れない。
平成17年5月22日
礒邉自適
2005/5/21
高みへ導く
17・5・21
今日は、空海の月命日である。
今日のメッセージは、空海からか、弁財天からかは分からないが、人々を導く方向を示して来た。
一昨日のメッセージでは「強引に」との言葉告げられ、何処へ導けば良いのかハッキリ分からなかったが、今朝は、具体的な方向性を示して来た。
今朝のメッセージの映像には、二つの道が映って来て、私の意識は、道路の左側に在って、前方から、列を成して歩いて来る大勢の人達に、「左の道路に入れば 一段上の処に行けますよ。」と知らせて居るのである。
歩いて来る人達の多くは、そのまま真っ直ぐに歩いて、私の右側を、後ろの方に通り過ぎて行くが、何%かの人達は、私の示す左側の道に入り、私の左側の頭の上の道を歩いて、一段上の世界に進んで行った。
今朝の場面はそれだけで、簡単である。
しかし、知らされた事は重要で、人類救済の説明に、使用する言葉が、これからイメージ化されて来るのではないだろうか。
言葉であれば、弘法大師空海は、その世界の大御所的存在である。
「真言宗」と名付けたのだから、真言(マントラ)は専門である。
そして、サラスヴァティも「辯財天」と書けば、是も弁舌の神様である。
辯財天と、弘法大師空海が組めば、大きな動きと成って来るのではないだろうか。
私は昨日、屋久島の原地区に在る町立「神山小学校」の5年生に、漢字の象形に付いて説明をした。
その時に、担任の先生が「大沼君の 沼の字の意味は 何ですか。」との質問が有ったので、漢語林で調べてみると、沼の「召」は召集のショウで、日本語の「まねく」の意味で、川から横に水路を造って、水を招き入れ池を造る意味らしい。
昨日の普通の質問が、今朝のメッセージと、繋がって来るのも不思議である。
水は、低い方へ流れるものだから、段々と低めに流れて行くが、人間は高みに向けて上がって行く事が出来る。
しかし、人間でも、低いレベルへは落ち易い。
落ちて行く事は、楽であるが、精神的高みに上がるのは、人一倍の努力を必要とする。
今朝のメッセージは、高みに上がる事を、希望している人達の、案内をしなさいとの意味であろう。
それが、「召く」の意味である。
「召」の漢字は、古い時代に出来ており、甲骨文では複雑な字である。
甲骨文での象形の意味は、神秘の力を持つ刀を捧げながら、「のりと」を唱えて、神まねきをするさまから、まねくの意味を表す。と、漢語林には載っている。
召は、川の水や、人をまねくのではなく、本来は、神のお告げを求める意味だとの事。
私の行っている、毎日の暮らしが、本当の召の文字の意味する処らしい。
私は、二本の刀の代りに、屋久杉の柱を二本立て、水と花崗岩の丸小石を、供えている。
其れが、其の侭、「召」の象形の意味を実行している事になる。
昨日の神山小学校での学習は、私にも、学びを与えてくれた様だ。
5年生に、優子ちゃんと言う名の子供が居て、その子の「優」を漢語林で調べると、「人+憂」で、憂は髪の長い人が大きく目を開いて、相手を見詰めながら手を差し伸べて、相手に「どうして上げたら良いの。」と、憂えてる人の姿で出来ている。
「憂」は、「愛」の次の行動を表している様だ。
「愛」の漢字は、困窮している人がいる事に気付いた人が、「どうしたのかな」と想って、振り向いて、気を遣う心の人の様を表している。
愛があって、憂の字があって、そして手段として「たすける」の漢字は、22文字もある。
「助」は、力を積み重ねる。「資」は、物資を与える。「援」は、手を差し伸べて引き上げるの意味である。他の漢字を知りたい方は、漢語林(大修館書店)を買って、自分で観じて欲しい。
仏教の布施は、布を与えて助けるの意味だから、資けるの内に入るだろう。
釈迦の存在よりも、1000年前に、人間の概念は確立されていたのだ。
釈迦は、その概念に意識を遡る事で、覚者と成ったのである。
残念な事に、釈迦の国には、漢字の様な優れものが無かったので、全部方便と成ってしまった。
イエスも同様で、たとえ話で終ってしまっている。漢字の発祥の地、中国でも略字化が進んでいると聞く。
日本が、最後に残った漢字文化圏である。
自然と、人間の繋がりを、これ以上、巧く表現する文字は世界に無い。
言葉が、自然の「ダルマ・法」や「タオ・道」から外れてしまえば、もう真言でもマントラでもなくなり、お経も、祝詞も、何の意味も無い形骸と化してしまう。
真実の言葉に返る道が、今朝の左側の道を、上に上がる事になるのだろう。
私は、左手で人々を、その方向に導く補佐役なのではないだろうか。
空海や、弁財天の遣ろうとしている事が、少しは見えて来た様な気がする。
平成17年5月21日
礒邉自適
2005/5/21
池と雌
17・5・21
今日は 昼食後に眠く成って来たので、一時間程昼寝をした。
すると、頭に、色々と文章の文字が映って来た。
起きてから、記憶に残っているのが、最初の方の「完成池」と、後の「♀」だけである。途中に、何が書いてあったのかは思い出せない。
完成池(かんせいち)とは何の意味だろうか。
池が完成したとのことだろうか。
「池」の文字は「氵(水)+也」で也はまがりくねるの意味。まがりくねった形の、水たまり、いけ・ほりの意味を表す。と 載っている。漢語林
何の為の、堀が完成したのだろうか。
私は、池や堀を造っている分けではない。
意味が有るとすれば、弁財天の神を祀る池があるが、その池が完成したとの事であろうか。
そして「♀」は、何の意味だろうか。其れは、「♂♀(雄雌)」の記号だろうか。漢字には、「+」の上に「口」が乗った字は無い。
雌の意味であれば、弁財天が「雌」だとの知らせなのだろうか。
私が、奈良の天河弁財天の神社で、20年前、藤色のコブラの姿を見せられ「貴方のお陰で ようやく岩座に入れて 落ち着く事が出来る。」と、お礼を云われた事があるが、その時は雄雌がハッキリ示された分けではない。
今日は、其れを、ハッキリと知らせて来たのだろうか。
サラスヴァティが雌の性格であれば、女性の立場で、物事を考えて行かねばならない。男性(雄)の立場を、押し付けてはならないのだろう。
昨夜は、事務所の建物の中でコンサートが催され、夜8時から11時まで楽しく過ごした。
メインの演奏者は、大分市から来た「山内桂氏」で、彼のサックスの演奏は通常の演奏ではない。その旋律は曲ではなく、神社での禊ぎの時の、岩笛の様に鼓膜を振動させたり、螺旋の様に音を回して、脳の中身を掻き回す様なものであった。
其れは、彼の説明では、遺伝子に通じる音だとの事。
私はその音楽に対して、音を楽しむ音楽ではなく、音の原型としか説明出来ない様な、世界であると感じた。
ダンスをしようと考えていた人達は、不満を述べ「何だ、いつまで音あわせをしているのか。早く演奏を始めないか。」と、云う者も居たが、最後まで曲らしき演奏は無く終った。
私は、彼と、宿舎で深夜1時半過ぎまで色々話した。
彼は、自分の演奏を、なかなか認めてくれる人が、増えないと云っていた。
そして、朝8時の船で、屋久島を離れると言って、船着場で眠る為に車で帰って行った。
私は1989年(平成元年)6月28日に、丹後一の宮の籠神社に関係しておられる「小長谷修聖氏」の自宅を、野草社の石垣雅設氏と訪ね、修聖氏の岩笛を聞いた事がある。
その時、初めて、音に拠って、鼓膜がパタパタ音を立てる体験をしている。
それから17年振りに、又、同じ体験を昨夜した。
岩笛は、古代の人が禊祓いを行い、岩笛を鳴らす事で、神と通じる為に使用していた物である。
まさか、サックスの楽器で、同じ事が起きるとは、想ってはいなかった。
昨夜の演奏会も、音楽・芸能の神である、弁財天の仕組んだ事であったのであろうか。
人間には五感があり、視、聴、嗅、味、触と分けられている。
それは人間だけでなく、哺乳類なら全ての動物が持っている感覚である。
その中でも、聴の音の世界は、全ての動物に、一番重要であろう。
音が聞こえなくなれば、群れでの行動が出来ないし、敵に襲われる迄気が付かない。詰まり、音がなければ生きて行けないのだ。
それ程、重要な器官だから、脳の中でも、一番大事な部分を占めているだろう。その部分を、昨夜は掻きまわされる事に成ったのである。
頭脳のプログラムは、意識の構築だから、掻き回されれば、分けが分からなくなり、思考が真っ白になってしまう。
神社での、岩笛の持つ意味は、頭の掃除なのだろう。
神の知らせを受け取る為には、人間の自我意識を、一時、消さなければ成らない。其の事で、古代の人達の知恵が見えて来る。
雌を口説く為に鳴き、縄張りを守る為に鳴くのも、雄の役割である。
雌は、雄の声や子供の声を聞くのが、役割である。
人間以外の雌は、おとなしく聞く事に長けている。
人間の世界も、神の声を聞くのは、女性の巫女さんである。
神のお告げを受ける事は、聴く事であるから、女性の方が、其の役に向いているのであろう。
今日の、雌のしるしは、「聴く事に身を置け」との意味ではないだろうか。
昨日から、屋久島もホトトギス(時告鳥)が鳴き始めた。
私は21年前、ホトトギスの声の下で、神の世界に入って行った。
再び、ホトトギスの声の下に居る。
私は、話す事より、聴く側に、身を移すべきなのだろうか。
周囲に、水の堀を造って・・・。
平成17年5月21日
礒邉自適
2005/5/19
米
17・5・19
昨日のメッセージに、農場の看板の後に「米・こめ」の言葉が一言出て来た。映像ではなく、音声だったので、昨日の文章では、それに触れてはいない。
スタッフには、米と言葉が出て来た事だけは告げていた。
すると、夜のテレビニュースで、天皇が皇居内で田植えをしている姿が放映され、NHKの番組では、発光ダイオードの光りを使って、建物の内で水耕栽培によって稲が栽培されているのが映し出されていた。
昨日の文章に、化学肥料で栽培した農産物は、身体に良くないと、神が伝えて来た事を書いたが、その夜に、太陽の光の無い建物の内で、稲を栽培する番組が放映されるのはどうなっているのだろうか。
植物は、太陽の活動に合わせて、遺伝子のプログラムを組み立てているのである。日本の伝統文化は、稲作と共に在り、天皇陛下は新嘗祭で、その年の米を口にする事で、精霊(御祖神・みおやかみ)」との繋がりや、国の安定を願って来たのである。それが、太陽の存在・はたらきを神とする文化の原点なのだ。
何故、太陽が有るのに、わざわざ建物を建て、電気を使って、作物を作らなければ成らないのだろうか。
科学者や、企業家は、何を考えているのか、私は判断に苦しむ。
神は、人間に科学する力を与えてはいるが、自然の法則を破る事までは、許してはいないだろう。それが、昨日の「農場」と「米」の言葉のメッセージであろう。
しかし、夜のテレビ番組で、天皇の伝統を大事とする田植えの場面と、建物の内での稲栽培の両極の場面が映された事は、ただの偶然とは想えない。
テレビの番組まで仕組まれての、昨日のメッセージだったのだろうか。
それなら、神様に「恐れ入りました」と云うしかない。
それだけ、大事な一件だとの事であろう。
平成17年5月19日
礒邉自適
2005/5/19
丸い柱と名詞
17・5・19
今朝のメッセージは、丸い木の円柱が二本映って来て、次に縁(ふち)の丸くデコボコした板が映って来た。
そして左の方に、物の名詞が縦に幾つか書かれていた。最後には「弁財天11」と出て、今日の場面は終った。
丸い柱の意味は、昨日に続いて「神の依代(よりしろ)」に成る物だろう。
長野県諏訪市に存在する「諏訪大社」で有名な御柱と同じで、神が柱に依り着くとの考えである。
神社の鳥居も、本来は左右に立てた、木の柱の依代が原型である。
凸凹の有る縁の有る、丸い板円版の形は、屋久島の姿の意味ではないだろうか。
「弁財天」は、神奈川県の「江ノ島」や、琵琶湖の「竹生島」、広島県の「厳島」等の島に祭られている。弁財天は、人々の住む大地と、水で区切られた場所を好む様である。
全国を廻ると、池を造り、その真ん中に島を造って、橋を架け、弁財天をお祭りして有る所が、沢山在る。
11の数字は、全国に大事な弁財天が11ヶ所あるとの事なのか、11番目が大事と言う事なのかが解らない。それとも、十一面観音も、弁財天の変形だとの事だろうか。
弁財天は、インドのサラスヴァティ(SARASVATI)が日本に伝わって来て、日本の水神様と重なった物だろう。
元はインドの河神だから、水の有る所に祭るのは、当然なのかも知れない。
昨日は、メッセージが有った通りに、水を供えたら、反応が有った。
今朝は、その続きを求めて来たのだろう。
しかし、幾つか縦に書かれていた、名詞の言語の訳がハッキリしない。
分かっているのは、言葉が一番大事だとの理である。だから、弁財天は「弁」の文字を使っているのだろう。
「弁」の漢字を漢語林で調べると、弁は「ム+廾」で、ムは冠の形で、廾は両手の意味で、両手で冠をかぶるの象形である。
弁には「辨・瓣・辯」が有り、皆、分けるの意味だとある。
「辨」は物を分ける行為、「瓣」は花びらとか、水道管の弁で分かれる物、「辯」は言葉を分けるとの区別の様である。
この意味からすると、弁財天とは、財産を分ける神となる。
しかし一般的には、弁は弁舌の弁に使用されているので、意味的には辯の漢字を使用している事になる。
今朝のメッセージは、名詞が並んでいたので、言葉を、正しく分ける様に告げて来たのではないだろうか。
財を分けるのにも、言葉を正しく使えとの事だろう。
今朝の名詞の一つに、お金が在った。
金は、元々金(キン)の事だが、現在ではお金は金でなく、紙幣であり、それもカードの点数へと換わって来ている。
文化の変化に、言葉が着いて行っていないのだ。
今では「お金を下さい。」ではなく、「点数を下さい。」と、云わなくてはならない。
金よりも、古い言葉も在った。
「狼」をオオカミと読んでいるが、オオカミは元はオホカミで、大きな声で吠える神で大吠神である。昔は、狼は、人間にとって一番の脅威だったらしい。
「吠・ハイ」も、犬が吠える事から来ているが、自然の単語の「然・ゼン」も、元は「犬(狼)+火」の組み合わせで、夜に狼の襲撃を避ける為に、火を燃やしていた事に始まっている。
自然とは、人間にとって怖いものだったのである。
然の字は、後に「犬+火+月」と成って、月夜に狼が吠える事を表す文字となっている。エジプトでは、犬神が一番の神に成っているから、鳥居と共にエジプトから「(ebisu・エビス)」と同時期に遣って来たのかも知れない。
鹿児島では、「隼人の遠吠え」と言って、天皇(スメラ王)が移動する時に、先頭で、狼の様に大きな声でオーッと叫びながら、空間を切り開いて進む役目の人がいたのである。
それは、現在・いまでも神社の祭りの際に、社の扉を開ける時に、神主が「オー」と声を出す事に残っている。
西洋のアーメンも、オーメンも、同じ出処であろう。仏教のナームも、同じく神への通話なのである。
全ての言葉の元に、オーとか、アーが在ったのだろう。
祝詞や、呪いには、言葉が必要である。その言葉の元に、弁財天が介入して来るのではないだろうか。
水無しでは、「イエスキリスト」や「釈迦仏陀」其れに「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」も、禊ぎ祓いが出来ないので、神の世界に入れなかったのだ。
神社の入り口には、必ず水が在るので、古代の人達は、その理に気付いていたのだろう。
今朝のメッセージで面白いのは、二本の柱が出て来た事である。
弁の廾は「二重足」で、鳥居の形である。二本の柱を立てる事は、神の活動を手助けする事に成るのではないだろうか。
インドの釈迦も、法華経の十二縁起の中で、言葉が名詞から始まる事を説いている。物に名前を当てる事から、考え直して行かなければならない。
「法華経の12因縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/
それを実行しないと、サラスヴァティの協力を得られないのではないだろうか。
2005年5月19日
礒邉自適
2005/5/19
たから島 発動
17・5・19
今日は、朝メッセージに出て来た「二本の円柱」の件を、西川良明氏に伝えると、直ぐに知り合いの屋久杉工芸の工場に出掛け、板の台と、円柱二本を屋久杉で作って貰い、其れを手にして帰って来た。
其の二本の円柱を、屋久島の形をした板の台に取り付けて、横を流れる中瀬川の清水で洗って、事務所のカウンターの上に置き、昨日の青竹の水を取り替え、御目石の丸石と共に、円柱の前に供えた。
その時の時間を、確認すると丁度11時である。
暫くすると、今日は、左手の中指からビリビリが始まって、左手全体に反応が拡がった。そして、私の手のビリビリが起きると同時に、パソコン本体の機器の灯が点滅を始め、激しく音を立て始めた。其の現象が5分位続いて、静かに成ったと想ったら、今度は右手の掌がビリビリし始め、指へと拡がって行った。
どうやら、左手から情報が電磁波の形でパソコンに入って、地球全体の電波システムに通じて行くらしい。そして、逆に情報が返って来るのは、右手の方らしい。左手から情報が流れて、右手に返って来るらしいのだ。
その現象の理屈は、私には判らない。
電気が、発電所で発生し、電線を流れて来るとの事は、陽極が(+・プラス)として流れて来る事で、電流が使用されると粒子(―・マイナス)と成って、大地に帰って行く事らしい。
宇宙空間では、粒子が集まって渦を巻き、集まった中心の圧力で、電磁波と光りに転換する。そして光りは、エネルギーを失うと、再び粒子に返って宇宙空間を漂いはじめる。
それと同じ事が、発電所で行われているのだ。
水力や、蒸気の力で、磁力線を切るコイルの回転運動を起こし、電気を生み出している。それは、宇宙での渦巻きと同じ事を、人工的に起こしている事に成るのだ。
私達人間は、大地から発生している磁気や、静電気と粒子の流れを利用して、生きているのである。その私達の生体電気と、宇宙の電磁波の間に、「弁財天・サラスヴァティー」が関与して来るのではないだろうか。
今朝のメッセージに、「弁財天11」と数字が有ったのは、今日の円柱のセッテイングが、丁度11時に行われるとの、知らせではなかったのだろうか。
西川氏に、時間を11時にと云っていた分けではないので、サラスヴァティーが私達スタッフの無意識の世界を、上手く利用しているのかも知れない。
私が、セッテイングを終えて道具を収めていると、「たから島発動」との言葉が頭に告げられて来た。
屋久島に伝わる、一番古い民謡は「まつばんだ」との題で、其の歌詞は「屋久のお山を おろかに想な 金の蔵より まだ たから チョイサヨ チョイサヨ」である。
其れは、屋久島の山岳は、金の蔵より大事だとの意味で、チョイサヨ チョイサヨの掛け声は、日本では別段意味は無いが、朝鮮語では「めでたいな めでたいな」との意味らしい。
「まつばんだと」は、中国の雲南省辺りでは神様の集まりとか、賢者の集まりとかの意味があると聞いた事がある。
金の蔵より大事な宝が、屋久島より出るのだろうか。岡本天命氏の日月神示には「南の島に 埋めてある宝を 御用に使う時 近づいたぞ。」上巻136頁。と有る。
いよいよ、屋久島の花崗岩の磐座(いわくら)と、日本一の降水量の水が、サラスヴァティーの意志として、動き出すのだろうか。
此処のところ、日々変化が感じられて来る。
神の発動は、近いのかも知れない。
平成17年5月19日
礒邉自適
2005/5/18
水とホームページ
17・5・18
今朝のメッセージの映像は、机の上に、青竹の花瓶の様な筒に、きれいな水が口一杯に入っているのが映し出されて来て、次に、英語のホームページが映って来た。
そして、其の意味を探っていると、農場に、新しい大きな看板を立てる場面や、結婚を間近にしている若い男女が、私を訪ねて来る場面が映って来た。
その男女は、両方ともがスラリとして背が高いのだが、俯き加減の姿勢なので、自信がなさそうに見えた。
両方とも、スタイルが良くて、ハンサムと美人で、両方が大学まで卒業していそうな感じだった。現在の世の中では、100点満点のカップルなのだが、何故か、肩を落として元気が無いのである。
今朝のメッセージは、全部の場面が一つの流れとして、物語に成っている様である。
先ず、水は、昨日まで続いている「弁財天・サラスヴァティ」に意味付けされている様に、全ての物質には、水素原子が絡んでおり、宇宙の全ての土台は水素に在るので、水は全ての物事の中心に、イメージされて来る。
水の存在が、強調されると言う事は、全ての管理が始まるとの事だろう。
次に、英語のホームページが映って来て、パール・ハーバーのイメージが伝えられて来た。
是は「英語社会に向けて 新しい意識の戦いを始めよ。」との事ではないだろうか。
日本の文化は、水を使って、自分の意識を清める事に有る。
しかしアメリカの文化は、全てを利用する事にあり、水も、その利用出来る物の一部である。
今朝は、水自身が、自分の存在理由を、白人の社会に知らせよと、示して来ているのだろう。
旧約聖書には、人間は皆罪の子で、最後には、自分の踵に自分の業(カルマ)が噛み付いて歩けなくなるとある。
其れは、蛇に唆されて、知識の実を食べたので、意識が汚れ、神の国を追放されたアダムとイヴの子孫である人類が、やがては、その知識の為に、行き詰まるとの訓えである。
だから、日本では、その知識を禊ぎ祓い続けて来たのである。
次の映像の、農場に立てられる看板は、西洋式の化学肥料や農薬を使用する農法から、自然農法に変わるとの意味ではないだろうか。
畑を更地にして、化学肥料や農薬、それに除草剤を撒く事は、最大の自然破壊であり、環境汚染の元である。近代農法は、水の汚染を進め、此の水の惑星を汚くして、生命の危機を齎すものである。
今朝のメッセージは、生命の大事さと、水の関係性を見極めて、英語圏の人達に知らせよとの事ではないだろうか。
現代社会では、背が高い、学歴が高い、給料が高いの「三高」が、女性の結婚条件だと聞く、しかし今朝の二人は、それに加えて、育ちも性格も良く、美人とハンサムの組み合わせで、何の申し分も無い人達であった。
それなのに自信が無さそうで、私の所へ相談に訪れ様としていた。
私は背が低く、学歴は中学卒で、給料は0である。
私と反対の、理想のカップルが、生きて行けない社会が迫って来ているのだ。
私は、どちらかと言えば、アフリカのブッシュマンタイプである。
自然が復活すればする程、暮らし易くなるのだ。
しかし、都会育ちで背が高ければ、自然の中での食料集めは、やり難いであろう。
アフリカの背の高いマサイ族は、槍を手にし、毎日飛び上がる踊りをしているのである。それは、草原の草より高く飛び上がり、獲物の動物を捜す為である。
どんな所に住む民族も、自分の特異な文化を持っているのである。
都会に住んでいて、世界中の環境汚染を進めながら、何の問題意識も持たずに生活している人を、何時までも、神が許す筈が無いのである。
私は1984年6月4日(旧暦5月5日)に、「人類の未来をお前に託す。失敗は許されない。チャンスは一度。」と、神に告げられ、21年間、神に身を委かせて来た。
最初は「16年半掛かる」と告げられた。
それは、神武天皇が神のメッセージを受けて、奈良で「まつりごと(政治)」を始めた年数と同じであり、1984年+16年半は、2000年12月4日である。
私は200年12月6日より「森の木」のホームページを開設し、メッセージを書き溜めて来た。私の、16年半の行動は、一応の成果を見たのだろう。
2000年の段階の危機は、何とか無事に過ぎ、次のターニングポイントは2012年12月23日である。
そのポイントも、1945年8月15日に、奈良の「矢追日聖氏」が鍵を受け取っている。
「正傳矢追日聖」http://star.ap.teacup.com/170606/210.html
今朝のメッセージは、其れ等の日本で起きている事を、英語のホームページを作成して、世界中に伝えろとの事だと想われる。
先ずは、竹山に行って青竹を切って来て、竹筒に清水を入れ、机の上に供えて「弁財天・サラスヴァティ」の御機嫌を取らなければならない。
2005年5月18日
礒邉自適