このページは 18年10月18日以前のメッセージだけを集めて載せました。
2005/4/29
記憶の消しゴム
17・4・29
今日は、昭和天皇の誕生日で「みどりの日」とされた日である。
今朝の霊夢の映像は、昨日のメッセージと連携していた。
昨日の真黒の闇は、静寂そのものだったが、今朝の真黒の闇は、白く透き通った物の象形を、片っ端から吸いよせて飲み込んでいた。
それは、ブラックホールが、物品の姿形のプログラムを、全て飲み込んで消去している場面の様だと言った方が、理解し易いかも知れない。
違う言い方をすれば、宇宙が森羅万象のプログラムを、ブラックホールを使って消し去っている場面と言えようか。
それは、宇宙が万物を創造したと言うのと、反対の世界と言える。
文献を見ても、私の知っている限りでは、宇宙が、事象のプログラムを消し去る為に、吸い込んでいる等との文章を、読んだ事は無い。
聖書や、日本の神道でも、神が、宇宙や国土を創造したとは書かれているが、神が宇宙を飲み込んだとは書かれていない。
インドのヒンドゥー教では、シヴァ神が、宇宙の創造と破壊を司っているとあるが、破壊は物質が残るので消去ではない。
其れ等の神話や伝説は、全て昔の人々が、頭で考え出した事なので、未だ、人間社会の想念は、発明・発見や芸術等の、創造が善とされ、物事を消し去る事を善とする考えは少ない。
在るとすれば、仏教の禅や、古神道の禊ぎ祓いが、それを求める事に、繋がるのかも知れない。
しかし、禅の目的が悟りであり、禊ぎ祓いの儀式が、神通力を得ようとの目的であれば、それは消去で無く、創造側の立場に在るので、真黒の闇に立ち入る事は出来ない。
其れ等の目的は、光の世界を対象としているので、闇とは、反対の処にある。
宗教の語を見ると、「阿弥陀(無量光)」「ビルシャナ(大日如来)」「天照大神」「アラー(太陽)」と、皆光り物が対象である。
闇を対象とする者がいれば、其れは、悪魔崇拝と受け取られて、迫害を受けかねない。
しかし、宇宙の真の姿は暗闇であり、光が在る昼間の世界は、太陽(恒星)の放つエネルギーが、物に当たって、粒子が留まった所にだけ、薄く奇跡的に生じるだけで、本当は無いと言って良い程の、僅かな世界の出来事なのである。
人間は、明るい昼の世界が「主体」だと考えているが、真実は、闇が全体であり、闇こそが舞台で、昼を演出しているのである。
だから、「昼」と「光」は、闇の創造物なのである。
人々は、闇は物の影で、光が当たれば、闇は消えると言っているが、実は太陽は宇宙レベルで言えば、小さな懐中電灯にしか過ぎないのである。
その懐中電灯の光が当たっている時だけ、活動しているのが、地球の昼間動き回る生物である。
その様に考えれば、地球に有機物として有る物品は、闇が光を回収すれば、全てこの世から消えてしまう事に成る。
これらの理を、誰も気付いて来なかったのだろうか。
私が想うには、有名な仏典の般若心経・はんにゃしんぎょうの「色即是空」は、その理に近い事を、説明しようとしたものではないだろうか。
般若とは、最高の智恵の意味である。其の言葉が、存在すると言う事は、古代人の中に、宇宙の本当の姿を観た者が居たのかも知れない。
科学者は、物の世界を見詰め続けて行けば、何れ、宇宙の真理に到達出来ると考え、必死に研究を続けて来た。
その結果として判明して来たことは、宇宙は永遠の闇であり、物質の世界は、仮のモノ・現象であるとの理・ことである。
昔の人は、瞑目を続けて、現象世界を見るのを止める事で、意識の根底に、闇が土台として在る事に気付いていたのだ。
それを観るには、全ての現実世界を、捨てなければ成らないので、その道を選ぶ者は少なかったのである。
しかし、現代ではコンピューター・グラフィックが有るので、その世界を映像化すれば、客観的に、皆が視覚出来る様に成って来た。
人間の脳は、体験がなくても、視覚化出来れば、疑似体験は出来る。
疑似体験でも、事の真理は認識出来るのである。
その様に考えれば、人類の未来は明るいものとなる。
宇宙は、人類に新しい次元を与え様として、日々変化をして来ている。
それを、受け取っている一人が私なのだろう。
私が認識した分だけ、宇宙のプログラムは進化しているらしい。
それは、私自身が、宇宙の闇から創出された者であり、神の意識の為のハードの一部なのだ。それを、ソフト化が出来るのが、現代の文明である。
私が今、使用しているボールペンも紙も、スタッフが使用しているコンピューター機器も、みな宇宙の創造物から出来ている。
私が、この作業を続けている限り、真の闇は、創出は続けても、消去へとスイッチを切り替える事はないだろう。
平成17年4月29日
礒邉自適
2005/4/28
脳が創出する記憶
17・4・28
今朝の霊夢の映像では、私の意識は父親らしき人物と、畑で農作業をしていた。
その映像の中で、気付いた事は、作業をしながらの会話も無く、畑にある野菜や雑草にも、全て名前が無い事だった。
動詞や名詞が一切無く、無声音の中で、作業が続けられているのである。
そして、次は、乗合バスで遠くへ行く事に成り、停留所に行くと、多くの人が並んでいて定員オーバーである。
しかし、其処でも、順番が乱される事も無く、乗れない人達の誰もが無口で、一人も文句を云う人も居ない状態で、バスは出発し、私はバスの中に居るのだが、誰も言葉を交わす者も無く、静かに、車が進んでいる処で、其の映像は終わった。
今朝の映像で、思い当たる事は、人間社会は、言葉が生じた時点から、発展して来ている理・ことである。
人間と、同じ進化を、途中迄して来た類人猿達には、言葉や文化は未だ無い。
それからすると、人間の文化は、最大600万年を遡る事は無い。
名詞も動詞も、その後に出来たものと言える。
その事から考えると、キリスト教やイスラム教の元に成っている、旧約聖書に「始めに言葉ありき 言葉は神なりき」と在って、神が「光有れ」と云ったら光が在り、水に向かって、「天と 地に 別れよ」と云ったら、水が天と地に別れたと、在るのは、人間が言葉を使用する様に成ってから、人間の脳が創り出したイメージに過ぎない事に成る。
日本の神話も、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」と「伊邪那美命・いざなみのみこと」が声を掛け合って、まぐわいをして国々を産んだとあるので、これも国土が生じる前に、言葉があった事に成るので、言葉が出来てから、人間の脳が考え出したイメージの世界と言える。
人間も、動物と同じく、五感を使って、生存を続けて来たのである。
脳が、比較的大きいと言われている猿や、象や、イルカでさえ、神との概念は無くて、自分自身が、天地一切を相手に生き続けている。
私達人間も、言葉を離れてしまえば、猿やイルカ達と、同じ世界に住んでいるのである。
猿は、木の名前を知らずに、どの木には何時頃、木の実が熟すかを知っているし、イルカは魚の種類の名を知らずとも、魚の習性を知っていて、魚を捕らえ食べている。
それに対して、人間は、何千万種と言う、植物や動物に勝手に名前を付けて、管理や利用を続けているのだ。
勿論、品物に名前が無ければ、野菜の種子も注文出来ないし、食物を流通する事も出来ない。
言葉が無ければ、経済が成り立たない事は分かっている。
しかし、経済の発展と共に、宗教や哲学が生まれて、言葉が、自然を舞台とする処から外れて、人間の頭の中で、遣り取りされる様に成り、その世界が又、本や映像等と成って、経済の一部と成ってしまっている。
今朝のメッセージは、言葉が無く成れば、宗教・哲学・思想等の、人間が創り出した不自然な物が全て無くなり、実に物静かで、爽やかな世の中に成ると言う理・ことが、示されて来たものと想われる。
日本には「理屈は言うな」との言葉が有り、理屈ばかり捏ねる人は嫌われて来た。
しかし、現在では、相対的弁証法等の価値観が導入され、理屈を言う者が重宝される様に成って来ている。
日本の伝統文化は、「祓いたまへ 清めたまへ」にある。
仏教であれ、神道であれ、日本人は、自分の利己心を祓い清めて、神や佛と、心を同根とする事を祷り続けて来たのである。
日本人のアイデンティティーは、自分の意識を祓い清めて、自分の頭から、言葉を祓い除き、神佛の知らせを、受け取ろうとして来たのである。
自分が考え出す物事を、自分の欲望から発する「気枯れ・ケガレ・罪」であると、捉えて来たのだ。
それは、仏教や旧約聖書の中にも、同じ内容の処がある。
仏教では、悟りの邪魔は、「自我」と「所有心」であるとされており、旧約聖書でもエデン(神の園)を追放される原因は、自我と所有心であると、同じ理が伝えられている。
言葉が無ければ、自我も発生しないし、物に名前が無ければ、価値観が生まれないので、所有欲も発生しないのかも知れない。
今朝は、言葉の無い世界が、どの様なものであるかが、認識された。
その事で、言葉の大事さも再認識されて来た。私に与えられた「風 麦東 陶・ふうれんとう」や「讜 逓 聖・とうていせい」の課題は、先ず、言葉の整理から始めなければならないのかも知れない。
古代の「帝・ミカド」が、「朕想うに」と云って、「みいつ・御稜威」を発する時の心境が、目に浮かぶ様である。
平成17年4月28日
礒邉自適
2005/4/27
恵神生活
17・4・27
「恵・ケイ」とは、「専+心」の組み合わせの漢字で、専は糸巻きの形で、一途に糸を巻き取る人の姿を意味し、それに心を付して、ひたすら他の者に尽くす事を、意味する文字である。
「恵神・ケイシン」とは、神に頓(ひた)すら尽くす。神の情けに、専ら従うとの意味であろうか。
その様な生活が、理想的だと言う事であるのだろうか。
今朝のメッセージには、「恵神生活」と「恵徳愛神文」との語のイメージが伝えられて来た。
辞典には、「恵徳」も「愛神」も、載ってはいない。
「恵む徳」とか、「神を愛する」とかは、普通の人間の立場で使う言葉ではない様だ。
神の代理である、「聖人」か「君子」が、民衆に対しての立場でなら、使用しても意味が合うのかも知れない。
「恵神生活」と「恵徳愛神文」を関連して考えると、恵神生活を実行している者なら、恵徳愛神の文章が書けるとの意味にも取れる。
私の書いている文章は、殆どが霊夢か、神霊のメッセージに因るものである。
私は、三次元的な人間社会の営みを全部止めて、四次元的神の世界に関わりを持って21年間過ごして来た。
それが、恵神的生活と言う事であれば、私は、その様な生活を続けて来たと言える。21年間も、その事が続けられた要因を、深く考えれば、多くの方々の協力が在っての事だと気付く。
其の、助けて頂いた人々の背景を考えると、神々が、陰で働いている事が良く理解出来る。それが、恵徳愛神の世界なのかも知れない。
私の文章が、その事の説明に成っているのなら、私も、本分を果している事になるのではないだろうか。
私には、1994年3月22日に「風 麦東 陶・ふうれんとう」なる文字が告げられ、2000年7月22日には、「讜逓聖・とうていせい」との文字が告げられて来た。
「風 麦東 陶」とは「風習を練り鍛えて 導き教える(薫陶)」の意味で、「讜逓聖」とは「真理に当たっている理を、次から次に伝える ひじり」との意味である。
其れ等の言葉は、神々が人類の未来に対して、方向性を示して来たメッセージだと考えられる。
今、神々が何を考え、我々人間に何を望んでいるのか。
その事を探って行くのが、私の役割であり、恵神生活と、恵徳愛神文の語は、私に対する、アドバイスの様にも受け取れる。
2012年12月23日迄、残り7年半余りと成った。
暮らしを正し、神の世界に同調する者を、増やさなければ、遣って来る波動の嵐を、通り過ごす事は出来ない。
今朝は、その新しい動きを、始める様に告げて来たのではないだろうか。
平成17年4月27日
礒邉自適
2005/4/26
完熟の実
17・4・26
今朝は、完全に熟した、紫色のプラムの様な実が一個映って来た。
其れが、何を意味するのかは解らない。
昨夜、NHKの番組「地球・ふしぎ大自然」で、アマゾン熱帯雨林に住む、「ラッパ鳥」と言う、飛べ無い鳥の生態を放映していた。
その鳥は、5〜6羽の群れで生活しており、全部が血縁関係が無いらしい。
雌も複数いるが、卵を産むのは位の高い一羽だけで、その雌が、群れ全部の雄と交尾をして卵を産み、子育ては、全部の雄が手伝うのだと言う。
餌の木の実は、高い木の上にしか無いので、猿の群れを捜して歩き回り、猿が下に落とした実を拾って食べていた。
私は、テレビ番組の中で、このNHKの自然を取り上げている物が、一番好きなのでよく観ている。
自然の生き物を見ると、その知恵の凄さにビックリする。
昆虫達は、卵で産み落とされ、親も無く、学校も無いのに、自分の力だけで餌を捜して大きく成り、交尾相手を見つけて、子孫を残して行く。
その知恵が、何処に、内蔵されているのだろうか。
人間は、生物の中で一番大きな脳を有しているが、親が居て、子供を育て、社会で教育されなければ生きて行けない。
虫や小鳥には、小さな脳しか無い。
それなのに、人間以上に独立独歩で生きている。
その秘密は、遺伝子に有る理・ことが、研究の結果で解って来ている。
それを、私は遺伝子の学校と呼びたい。
私達の、肉体を創っている遺伝子の内にも、動物達と同じ情報が、蓄えられている筈である。
今朝の映像は、自分の中に蓄えられている、鳥か猿の時代の脳が、甘そうな木の実を求めて現れたものかもしれない。
其れは、昨夜のテレビ番組を観た所為で、脳が刺激を受けて、古い細胞の記憶を取り戻したのではないだろうか。
ラッパ鳥の暮らしには、人間の様な感情は無い様である。
生きて子孫を残して行く、その純粋な行為には、権力とかジェラシーとか、物の奪い合いとかが、一切無いのである。
在るのは、群れのテリトリーが重なった時の、小競り合いだけである。
それは、自分の群れには、同じ血筋の者は居ないが、相手の群れに、自分の兄弟や子供か親がいるかもしれないので、傷付け合う事を、避けているのではないだろうか。
現代の日本に目を向けると、日本人の権力者は、遺伝子的には、殆どが中国系か朝鮮系である。
背の高い女性のモデルも、100%近くが大陸系でもある。同じ血筋同士が、権力を主張し合っているのだ。それも、食料が足りない為ではない。
人間も、鳥達の様に、もっと自由に生きて行くべきではないだろうか。
本来の、遺伝子情報をくみ取って、木の実が熟すのを喜ぶ、生命の原点に返ってみるのも、一つの方法ではないだろうか。
私は、子供の時より、一年中、自然の木の実を取って食べていた。
その思い出が、記憶の糸と成って、古代の遺伝子の情報を蘇らせた、今朝の映像だったのかも知れない。
平成17年4月26日
礒邉自適
2005/4/24
そうだったのか
17・4・24
4月20日夜中、床について眠る前に「そうだったのか」との言葉が、頭の内に出て来た。
私は、寝ようとしているのだから、私自身の判断に因るものではないだろう。
私の意識に、繋がっている何者かが、何かを悟って、答えを見つけたものと思う。
「そうだったのか」には、前の方に「何だ、そうだったのか。」と「なんだ」が付いていて、その「なんだー」は、妙に納得が出来た感情が、含まれていると考えられる。
私に、21年間も憑いて来た誰かが、ようやく物事の真理に目覚めて、本来の自分に立ち返ったのではないだろうか。
霊界とは、過去に人間として生活していた人々が、死んでから肉体無しで生きている世界である。
その霊界人達は、三次元であるこの地球の人間社会に、過去に住んで居て、人間社会の業の中に執われて生きており、神界への壁・次元を、超えられなかった人々であろう。
神界に抜けていれば、神界で活動出来るので、現界の人間に憑依して、人間の肉体を借りる必要はないであろう。
過去世で人間として生き、人間としての悩みを、四次元の世界に持ち込んでしまい、その解決策として、現界の人間の肉体を利用して、活動をしようと憑依して来るのだと考えられる。
若しかしたら、彼の有名な「弘法大師空海」でさえ、その框に捉へられていたのかも知れない。
奈良の矢追日聖氏は、四次元の霊界に居る人達が、全て成仏して居無く成れば、霊界が清まって、人間は始めて、神と直結出来ると謂い。
霊界に、因縁を抱えた人達が存在する間は、その霊魂が人間に作用して、いつまでも世の中が安定しないと謂っていた。
霊界に留まっている霊達は、三次元の世界に、何かの残念を残して居る人達である。釈迦や、イエスの様に、人々を救いたいと考えた人達も、念いを残した者達と言えるだろう。
その人達の想いが、残念として残留し、私の様な、被害者を創り出しているのだと考えられる。
特に、弘法大師空海は、自分の教えが自分で創出したものではなく、中国の「恵果大師」より受け取ったものなので、自分も又、誰か優秀な人間を捜し出して、継がせなければならないと考えていたので、その者が現れる迄と考え、食を絶ち、身から魂を切り離して、現在まで霊界で存続して来たのである。
私にとっては、空海も4311体の霊魂の中の一人に過ぎないが、空海に取っては1270年振りに、自分が自由に成れるチャンスなのである。
だから、私の肉体や思考回路を、一番多く使用しているのが、其の空海なのかも知れない。
そうであれば、「そうか、そうなのか。」と頷いているのは、弘法大師空海の意識であって、この文章も、空海自身の反省録なのかも知れないのである。
中国の老子の言葉には、「精神的な件を 他人に云ってはならない」とある。
そして「道から外れれば 神霊も 力を発揮出来ない」ともある。
釈迦の云う法(ダルマ)とか、老子の謂う道(タオ)、其れにイエスの説く「永遠の魂」の世界とは、宇宙と同和する者が、一人でも存在すれば、法も、道も、永遠のいのちも、継続されて行くとの理・ことではないだろうか。
人間が他人に伝える事は、言葉の力に頼る事に成ってしまう。
言葉が誤れば、真実も無く成って行く。其処に、釈迦や老子の悩みが在る。
言葉は、人間が創り出したもので、神の直接の創出物ではない。
言葉で表現出来ないものこそ、宇宙の真理と言えるだろう。
人間は、言葉で何事を伝えなくても、禊祓いをすれば、本来自分自身が、神の創造物であり、法や道の産物として存在し、永遠のいのちとして、生き年生きているのだと覚醒するのである。
それが、感謝の念の元であり「アミダ」とか「ビルシャナ」とは、その事に目覚めた者が、自分自身に付けた名称なのであろう。
言葉が、全て、自分の頭から消え去った時に、本来の自分に立ち返るのである。それが、「なんだ、そうだったのか。」の言葉ではないだろうか。
仏教の開祖「釈迦仏陀」と、キリスト教の開祖「イエスキリスト」、其れに神道の基である「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」も、皆、水で禊祓いをして、神の世界に通じている。
私も1984年6月4日(旧暦5月5日)に、安房川の川原で無庵師匠に見守られて、禊ぎ祓いの儀式を行って覚醒し、4311体の聖霊に満たされて、新しき意識の世界に入った。
空海や、日蓮や、道元等は、その世界に達していなかった事になる。
神社や、寺院を建てる者は、本来の世界に通じていなかった事になるのだ。
釈迦や、イエスは、建物が悟りの邪魔だと謂っているし、老子は弟子さえ採る事をしていない。
私に、21年前「神霊の思頼・みたまのふゆ」として、憑依して来た4311体の霊魂が、全て「なんだ、そうだったのか。」と納得して、仏陀と成り、ビルシャナとしての意識に還って行けば、私も本来の自分に、立ち戻る事が出来ると言うものである。
平成17年4月24日
礒邉自適
2005/4/23
詰襟の人々
17・4・23
4月20日、事務局の西川良明氏が、夜中に、強烈な霊夢を見て眠れなくなり、起き出してメモを残した。
その内容は、30名程の詰襟風の姿をした人達がいて、中に2〜3名の指導者が混じっており、その内の一人が西川良明氏に、松の小枝を花瓶にさして渡したらしい。
その詰襟風の人達は、山を登り下りしており、学校の様な校舎が、幾つも在ったらしい。
詰襟の人達は、太平洋戦争で天皇陛下の為、日本国の為に、命を掛けて死んで行った人達でもあるし、2.26事件で、天皇陛下の為に立ち上がって、願いが適えられないまま殺された人達でもある。
近い処では、日本原理を模索し、天皇の詔(みことのり)の復活を願い決起し、自決した三島由紀夫(本名 平岡公威1925〜1970)と仲間が在る。
彼等は、自分の青春や欲望を捨て、惟、純粋に想いを天皇(神の代理)に向けて行ったのだ。
其の一途な念い(おもい)は強い魂と成って、横道に逸れる事無く、未だに続いているのだ。その憶いが、西川良明氏にも伝えられて来たのだろう。
渡された花瓶の松の枝は、聖霊の宿る物の一つである。
正月の門松は、大晦日に、先祖の霊が返って来て宿る物とされている。
その意味からすれば、詰襟の人々が帰りたいとの意志を、示していると受け取っても良いだろう。
3月21日にも、同じ様な件が有った。
今年の3月21日は、弘法大師空海の1270年目の命日である。
その日の午前中、熊本の友人である東次郎氏より電話が有り「詰襟姿の人達が澤山現れて 自分は両手で水晶の玉を抱いていた。
「これは 何の知らせなのだろう」と聞くので「詰襟姿の人達は 予科練の人達や 2.26事件で殺された人達で 霊界の中心は三島由紀夫だ。」と言うと「ワアーッ身の毛が弥立つ。」と言って、電話を切った。
霊界では、三島由紀夫と、弘法大師空海も手を組んでいるらしい。
西川良明氏は、松の枝で東次郎氏は水晶で、手にした物は異なっても、水晶は水精でもある。
水晶も、霊の宿る物とされているので、水に差された松と関係性は深い。
門松の周囲に撒かれる白砂は、水晶と同じ仲間の珪素の石でもある。
更に事件を遡れば、1987年1月2日に「井上佳子(亡くなった私の妻)」が、奈良の平城京跡に、世界中から何万人もの人達が集まり、御輿が担ぎ出され祭りが行われており、それを指導しているのが、詰襟姿の人達で、何10人も並んでいる霊夢を見たと言う。
其れから、17年が経っている。
今年に入って、3月21日東次郎氏、4月20日西川良明氏、4月21日ひびお氏と、同じ系統の夢告が続いている。いよいよ、霊界の動きが活発に成って来た様である。
今年は、京都御所に、新しい建物が出来上がった。
天皇が、京都に帰り「スメラミコト」として、本来の役割に立ち返る日が近づいているのかも知れない。
「御稜威・みいつ」の日が、身近に迫って来ている。
平成17年4月23日
礒邉自適
2005/4/22
真実の証明
17・4・22
昨日21日は、空海の月命日であった。
その日に、当塾の「ひびお氏」が「真実の証明」とのメッセージを受け取った。
其れは、明らかに、弘法大師空海の意に因る現象だと想われる。
私が、出雲でセミナーを始める事に成った日も、1998年3月21日で、其の日は空海の命日であり、私のメッセージに現れる文字も、空海の書体(空海の筆)が多い。
空海は、筆の達人であり「弘法も筆の誤り」との云いは、「猿も木から落ちる。」との諺と同意で、絶対的な世界を裏付けるものである。
その弘法大師空海の本意は、自分の興した「真言宗」の宗派の名に有る。
真言とは、マントラの事で、正しい真実の言葉は、宇宙の根源を動かす力を持っているとの意である。宇宙の根源の力を有するモノが「大日如来」であり、「ビルシャナ佛」の事である。
「ビルシャナ(大日如来)」とは、「宇宙の真理の本体」と言う意味で、この宇宙は、「ビルシャナの本体(現れの身)」である。
だから、宇宙には意が在り、人間は、その意を言葉(マントラ)とする役目(ちから)を授かっていると、密教では考えるのである。
だから、私や、ひびお氏に、空海の姿を通してメッセージを送ってくるのは、ビルシャナと名付けられた、宇宙の意思であると考えられるのである。
ひびお氏に現れた、「証」の漢字は「言+正」で、正は建物を建てるのに土台の上に柱を立て、柱の上に梁を横に乗せて、柱と組み合わせ、柱が真っ直ぐ立つ様に固定している場面の象形である。
だから証とは、言葉を真直にする、正すの意味を持っている。
その意味から、日本ではさとす。つげる。あかす。いさめる。等に使用されている。
その証の字を使い、真実の証明との言葉が告げられ、私がその証の人の様に知らされて来て、ひびお氏はその件を、人々に知らせる役目の様に感じられる。
私の18年の旅や、21年間の修行の事を、理解する人は少ない。
ひびお氏は、祖父の代から宗教を研究し、本人は世界を廻って来ている。
ひびお氏は、多くを語らないが、私以上に、厳しい旅を続けたのかも知れない。私に接している事で、その苦しい旅が、悟りへの道であったと気付き、気持がほぐれ、解脱へと繋がれば、私の存在も役に立つ事に成る。
ひびお氏だけでなく、その様な人々が増える事を祈りたい。
ひびお氏の感想文を掲載して、皆さんの参考として欲しいと願っている。
平成17年4月22日
礒邉自適
真実の証明 H17・4・21
今朝、私は、不思議な夢を見た。夢と言うより、私の意識は、かなり覚めている中で、私の眼の中に画像が浮かんで来た、と言った方が良いのかも知れない。
一人の高僧と思しき人(弘法大師空海風)が、壁面に書が掛けてある前に座り、又本人も、何か書いている姿が眼に入って来た。
その書の掛け軸の中は、背面が赤で、字が黄金色で書かれている。
私が近づくと、その僧が此方を向いた途端、衣冠を正した武士(徳川家康風)の姿に成り、壁面に吊るした書の掛け軸の字が、かなりの速さで色々な複数の書体と成って入れ替わり、時々スポットを当てる様に一字を照らして行く。
その光った書体の中で、「証」の字だけは確認出来たが、その他の字は、象形文字に変わったり、絵文字に成ったり、漢字の古語に成ったりで、判読さえも難しい状況に成って、くるくると替わり、突然軸の書が「真実の証明」と成った。
ふと、人物を見ると、武士の姿は当塾、塾長の礒邉自適氏の姿に成り、私と眼が会った途端、その姿はパアーッと光になって四方へ溶けて行った。
その光の暖かさを感じていると、突然、右の上椀部の下から、手先に向けて痛みが走り、手のひらから光が猛烈な勢いで、目の前に居る人達の方へ放たれて行くところで、その画像は終わった。
しかし、手の痛みの感覚だけは、起きた後の今も残っている。
次の画面は、私はかなり高いであろう山々の中に、平たい場所の頂きがある所から四方を眺め、その周りの山々はうっそうと木の繁るジャングルの様な場所であった。
そして、その平たい場所より、下を見下ろすと、洪水と土石流の様なものの流れが、人々を飲み込んで行くところで、自分自身の身体が、余りのショックで覚醒したところで、夢か、幻覚と覚える画像は終わった。
普段、殆ど夢を見ない私が、この様な事を見たのは、一体何なのか、ここ一ヶ月タイ国より戻って来て、毎日自適氏の言葉をワープロ化する事で、宇宙の真理に触れ、人間の本質をおぼろげながら、捉えつつあるのは事実である。
それまでは、一体自分は何の為に生きているのか。
今後、自分は何をなすべきなのか。常に、自問の中に有り、今までは「出来れば、纏まった金を手に入れて、タイやラオス、カンボジア等に小学校を建てたい。
貧しくて学校に行けない子の為に物質ではなく、心の教育が出来れば、貧困から売春に走る少年少女達も、激減するのでは無いか。安易に金を稼ぐ方法(売春や人を騙す等)ではなく、自然の中で心豊かに暮らせる生き方を、選んで欲しい。」と願っていた。
しかし当塾に来て、宇宙の真理を塾長の言葉で見聞きする内に、部分的な人助けより、宇宙と一体と成った人間本来の姿を、インターネットを通じて、皆に知らしめる役目こそが、人生の役目ではないだろうかと思い始めた時に、この夢と言おうか、画像を見てしまい、今後の自身の方向の一端を、垣間見た想いである。
2005年4月21日
自適塾 広報 ひびお
2005/4/18
若しかして磁気の影響か
17・4・18
今月4月15日のメッセージに、白い光の配線図の様な物が映り、16日には屋久島の山岳の峰を繋ぐ、光の配線図の様な物が映ったので、16日に「山が動き出す」の文章を書いた。
そして、昨日気付いたのは、15日から17日迄、私達の携帯電話の電波が悪く、全員の電話が不通なのである。
ドコモに問い合わせをして、調査をして貰ったら、ここ数日、天気の所為か、他の電波が入り込んで、沖縄から南九州に掛けて、携帯電話が繋がり難く成っているとの事だった。
是は、偶然なのかも知れないが、屋久島の山々が、何等かの磁気か電波を出して、携帯電話の電波を乱しているのではないかと、想ったのである。
地震が有った時とか、太陽の黒点が増えた時には、電波障害が起きるとの事。
沖縄から、南九州迄の列島山脈に、何等かのエネルギーが働き始めているのではなかろうか。
昨年から、今年に掛けて、日本列島全体で、地震が多発して来ている。地球自体に、何等かの異変が起きて来ているのではないだろうか。
若しそれが、近頃云われている「フォトン・磁気の帯」の影響であるなら、この様な事が無くなるのではなく、段々と増えて来るのではないだろうか。
屋久島の山々は、全部花崗岩の塊で、花崗岩の石英や、雲母が、磁気の帯に反応しているのなら、考えられない事ではない。
私は21年前、自分の脳と、島の花崗岩が共鳴を起こし、何ヶ月も花崗岩と対話をして過ごした。
岩が、人間の様に喋る分けではないのだが、意識が、岩と通じるのである。
そのチャンネルが拡大されると、月や他の惑星とも、意識が通じている様に感じて来た。
其れは、日本の大天才の弘法大師空海が「虚空蔵菩薩求聞持法(こくうぞうぼさつぐもんじほう)」と言った世界かも知れない。
虚空蔵菩薩とは、金星の事であり、空海が超能力を得たのは、金星が自分の口中に飛び込んで来てからであるので、金星を対象にしたのであろう。
だが、其れは、金星が地球の一番間近に在る星だからの事であって、地球外の星と通じるのに、金星が入り口としての役割を果したからだと想われる。
意識のチャンネルは、地球の電離層を一回抜けてしまえば、宇宙と自由に通じる事に成るので、それを「求聞持法」と、空海は名付けたのであろう。
大本教の、開祖である「出口ナオ」のお筆先にも「石や 木が シャベリ出す時が来る」と有る。
人間の意識が自由に成り、チャンネルがオープンに成れば、宇宙の記憶を取り戻す事が可能なのだ。
屋久島の花崗岩が、磁気の帯に反応を始めたのであれば、人類の気付きも早めなければならない。
私は、21年前の1984年6月4日(旧暦5月5日)に、新しい波動の中に入った。
奈良の矢追日聖氏は、60年前の終戦の日に、「12月23日のこと」のメッセージを受け取っている。
「正傳 矢追日聖」http://star.ap.teacup.com/170606/210.html
私は、今年2月19日に「みいつ」の発動が、4月13日に起きると記している。
私自身は、13日には特別変わった事は起きなかったのだが、地球自体が14日より、振動数を変え始めているのかも知れない。それは、磁気の帯の影響で、花崗岩が動き始めたとの事ではないだろうか。
日本国中の古い神社は、皆、裏山に花崗岩の岩山を有している。
何故、神社は、花崗岩の岩山の麓に建てられているのか。
それは、古代に花崗岩の山が神のヤシロとして、発動したからではないのだろうか。
エジプトのピラミッドも、王の墓室は、遠方より花崗岩を運んで造られている。昔の王、太陽の神官に成る人物は、花崗岩とチャンネル出来る事が、条件だったのかも知れない。
今度の磁気の帯の到来で、人類の意識が進化出来るのか、私にはその答えは未だ無いが、21年前の11月21日に伊勢神宮に初めて参拝したら、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ=男神)が現れて、過去に8回トンネルを、潜るのに失敗した。今回が9回目で、今回失敗すると、もう地球にはエネルギーは残らない、と告げられた。
「定着した画像」http://green.ap.teacup.com/20060818/770.html
その時は、トンネルとは何だろうと思っていたのだが、今に成れば、それがフォトンのリングの事だと想えて来た。
4月14日から、いよいよ屋久島の花崗岩の山が、フォトン(磁気の帯)に反応し始めたのではないだろうか。
追記
4月13日は、京都嵐山に在る法輪寺で「虚空蔵菩薩」の祭りが13歳の子供を集めて行われる日であり、全国で4月13日に虚空蔵菩薩の祭りが行われている事が判った。
平成17年4月18日
礒邉自適
2005/4/17
ライフ-エナジー
17・4・17
今朝のメッセージは、男性と女性の、老後の生活風景が映って来た。
男性は、もう車椅子を必要としているが、それでも著作を続けている。
女性の方は、未だ矍鑠(かくしゃく)としており、人生の暮らし方等を、皆に講演していた。
其れは、人が「霊留(ひと)」として生活する、理想の姿の様である。
そして、其れは、年を取っても動ける間は、世の中の為に成って行こうとする姿ではないだろうか。
私は、今朝のビジョンで、人間の生のエネルギーは、何処から発生して来るのか、そのプログラムを、誰が仕組んでいるのかと考えてしまう。
其の考えを、言葉に表現すると、「生命の真実」とすれば良いのではないかと思える。
私は英語が、良く理解出来ないが、「ライフ-エナジー」とすれば、私が求めている「生命の根源的ちから」の心象風景に、マッチする様な気がする。
「生命」と「真実」の語を、漢字の象形で調べると、「生」は地面に生えている植物の姿で、生まれるナマの意味がある。
「命」は、神に祈る人が、神の言葉を受け取るとの意味。
「真」は、容器に隙間無く物が一杯に詰まっている意味。
「実」は、屋内に財貨が行き渡るの意味で、満ちるの意味だとある。 漢語林より
生命と真実を、私なりに解釈すれば、「宇宙のシステムに従い、生き生きと 満ちわたり暮らす。」と成るだろうか。
その姿を、エネルギー的に捉えれば、「ライフ・エナジー」と、馴れない英語の解釈だが意味が合って来ると意う。
今朝の「ビジョン・vision」に、現れた男女の老人は、年は取っていても、ライフ-エナジーが満ちて居たと言えるだろう。
年を取ると、もう生殖機能は衰えて役には立たない。しかし、その分、エネルギーが智恵の方に使えるのである。
ライフ-エナジーは、子供の時は成長に向かい、若者の時代は異性に対して恋をし、子供が出来れば子育てに精を尽くさなければ成らない。
そして子育てが終われば、社会全体に対して、徳を広げて行かなければならないのだ。
其れは、人類全体の種の保存に対する、正当なハタラキである。
その根源的な処に、食欲や性欲があり、其れ等は本能のハタラキだから、決して悪い物ではないのだ。唯、それ等が、自然の法則(道・法)から外れた時に、戒められるだけである。
世界の宗教の元は、其の人間の生活の規範から始まっている。
ライフ-エナジーは、その土地土地に因って、営み方が変化をする。
だから、海辺に暮らす者と、山に暮らす者とでは、エネルギー(気)の使い方が違って当然なのである。
それを、単一化にしようと考える方が、変しいのである。
今朝の映像に現れた、年取った男女は、其れ等の解決を願って、正しい教えを残そうとしていたのではないだろうか。
ライフ-エナジーは、生命の真実を伝え残そうとして、地球が存在する限り、続いて行くのだろう。
私自身も、そのエナジーの一つの現れであるし、私の人生に、縁ある人々は、私の真実として、認めて行かなければ成らないのだ。
私には、その事が一番大事であり、其の宇宙の生命本質を、表現して行くのが私の役割である。
宇宙は、地球を創り出し、地球は、人類を自分の最先端の情報として、送り出している。
人間の存在は、生命の実として、宇宙が創出しているモノなのである。
私の存在自体が、生命プログラムの最先端の姿なのだ。
其れを、インドのブッダであった釈迦は、悟ったのである。
片手に持った一輪の花、その花の存在に気付く者は、誰か居ないのかと、示している釈迦ブッダの姿が、目に浮かぶ。
永遠のブッダの姿とは、ライフ-エナジーの現出物なのである。
「久遠実成・くおんじつじょう」のブッダとは、「久遠元初・くおんがんじょ」のライフ-エナジーの調べに、合致した者の謂いなのであろう。
平成17年4月17日
礒邉自適
2005/4/16
山が動く
17・4・16
今朝のメッセージは、屋久島の山岳が、愈々本格的に動き出した事を、知らせて来た。
昨日の霊夢に、白く光った、細い配電図の様なものが映って来たので、いよいよ神の仕組みが動き出して、コンピューターを通して、光のプログラムが動き出し、光ファイバーの仕組みを使って、人間の脳に仕掛けをして来るのかな、と思って居たら、今朝は、その右横下に、もう一枚の配電図が付着して映って来た。
それは、よく見ると、屋久島の山々の配置図らしく、森林管理所に保管されている、山の林班図面で、山の名が等高線上に書かれて、昨日に続き、二班分が配置(配線)された事と成る様である。
世界中で、古代から、神霊は山の峰に棲むとされ、その山々は「ミタケ」と呼ばれて来ている。
日本では、沖縄で「オタキ・ウタキ(御嶽)」、木曾では「御岳(オンタケ)」、南米でも「ミタケ」と呼ばれて、現在でも其の呼び方は残っている。
私は21年前、修行中に、太忠岳から石塚山に繋がる、真中の花祈岳の山頂で、瞑想をして、自宅に帰った夜「石塚の四方(よも)の山にたずねても 答へ返らじ 我が身に聴けよ」と、告げられた事がある。
山の存在は、山が言葉を発するのではなく、人が山に登り、自分が禊がれる事で、自分の内裏に隠されている、生命情報が蘇って来る為のものらしい。
現に、奈良の三輪大社の裏山や、伊勢神宮の裏山、滋賀県の三上神社の裏山のピラミッド型の御神山、岐阜の位山等、古い神社は皆、山が御神体である。
古代の神は、皆、山に住んでいると考えられており、此の世で神人として働いた、功有った人達は、また神として、山頂や小高い丘の上に、祭られたのである。それは、古代の人達が、私と同じ体験をしていたからに違いない。
昨日は、自適塾の局長に「光ファイバーの世界に 情報を信号化して送りこみ、返事を受け取る事を急がなければならない。」と告げると、「今日は、私の友人に会いに出掛けよう。」と云うので、午後その人に会いに行った。
その人は、アメリカのコロラド州の出身だが、母親の父が鹿児島出身だとの事で、大学で日本語を勉強し、日本に陶芸を学びに来たが、現在は、屋久島の木々を使って、万年筆やナツメの様な入れ物等の、工芸品を作製している。
その品々は、本格的な物で、プロの技術と言えるものだった。
私達が訪ねた目的は、私の書いた文章を、英語に翻訳出きるかどうかを、確かめるものだったが、漢字混ざりの文章からは無理との事で、言葉による説明があれば可能だとの返事だった。
彼(デロ・デイ・グリシャム)は、特に宗教にこだわりは無く、神の概念としては、映画「スターウオーズ」のフォースの様なものが神ではないかと云った。
その理由を聞くと、「フォースとは 原作者が日本の神道からヒントを得て、岩から出る力の様なものを フォースと捉えて 物語を考えたらしいから。」との答えであった。
私は、其れを聞いて、彼が屋久島に来て住み出したのも、屋久島の花崗岩の山々が、気を発していると感じた所為なのかも知れないと想われた。
屋久島の山々は、30座もの千メートルを超える峰が連なっている。
古文書には、西暦616年に、屋久島の人3月に三名、5月には七名、7月に二十名、奈良の都に来て、そのまま帰らず、この地で亡くなった。と記されているらしい。
私には、30座のミタケの神々が、奈良の都飛鳥に上京し、その一行が運んで行った山の神々の働きが、大化の改新(645年夏)に繋がり、其の後、天智天皇が比叡山の麓に、都を移す切っ掛けに成ったのではないかと想われる。
何故、人が山に惹かれ、山に魅力を感じるのか、それは、山々が、地球創世時からの情報を、気・フォースとして発し続けているからなのかも知れない。
私は子供の頃から、屋久島の山頂に在る岩の上で、遊んだり、眠ったりして育って来た。
屋久島に伝わる決まりには、「山々の峰々で 眠ってはいけない。山から山への峰々筋は、神様の通り道だから、其処で眠ると神に憑依されるから。」とある。
私の身体や、脳には、太古のシステムが組み込まれており、そのシステムが復活し始めたのではないだろうか。
4月13日を境に、山のシステムが動き出したのだろうか。
今年の2月19日の文章には、4月13日の日付と「みいつ」が発動すると書いてある。
「みいつ」が発動するとは、山の神が動く、フォースが発せられるとの意味だったのではないだろうか。
昨日4月15日には、愛媛県大洲市に在る「少彦名神社」の大祭があり、午後は、山に参拝の行事が行われた。
屋久島の山々だけでなく、世界の御嶽が「御稜威・みいつ」を発し始めたのかも知れない。
私には、また分からない世界が、始まった様だ。
平成17年4月16日
礒邉自適