2005/2/26
字習のアトリエ(工房)
17・2・26
今朝の霊夢の映像は、私が、中学校か高等学校に出掛けて、生徒達に、何かを教える場面だった。
教室には、何10名かの生徒達が居て、休み時間らしく、皆がざわめいていた。
私は、予定の時間より30分程早く着いて、生徒達の様子を見たので、先生の居る部屋の窓を開けて、「先生 時間がもったいないので 早く始めたいのですが」と、云っている処で霊夢は終わった。
朝起きて、今朝のメッセージの事を考えると、私が、子供達に教えなければならない事が何か有るらしい。
昨日のメッセージには、文字が現れて「字習のアトリエ」との意味だったのだが、アトリエの音符の処には、漢字が一字だけ有ったのに、現在の辞典には載っていない文字であった。
「アトリエ」は、元々大工・石工等の仕事場の意だったが、現在では、画家・彫刻家・工芸家・デザイナーの仕事部屋。
転じて弟子達も含めた、その工房組織。との意味。だと、広辞苑には載っている。
昨日の、アトリエの意味の文字は、工房とかの二文字ではなく、一字で工房の意味があり、その場で、文字を学習して、魂や精神が練り上がる意味があった。
何故、昨日と、今朝、学習と教育の場面が、映されて来たのだろうか。
屋久島に、中央出版株式会社が今春、高等学校をオープンする。
其の、高等学校の現地責任者である副校長先生は、私の知り合いの方である。その縁で、私が特別講師として、文字を生徒達に教える事に成るのだろうか。
私は、中学校しか出ていないが、37歳で仕事を止め、神の世界の修行を続けて来た。
そして、10年目の47歳の時に、文字の世界に目覚めて、11年間、文字や、言葉について研究を続けてきた。
そして、弘法大師空海の様に、真実の言葉(マントラ)とは、何なのかを理解出来る様に成って来た。
言葉や文字が、何なのかを理解出来ると、釈迦や老子が、何を謂っていたのかが、良く理解出来るし、文盲の人々を相手に、話をしていたイエスの哀しみも良く理解出来る。
イエスの言葉に「神は、何者か? と聞かれたら、『神とは この大自然全ての営みだ』と答えなさい。」と、弟子達に教えているのがある。
そのイエスの言葉の様に、中国で生まれた漢字も、人間が、大自然を相手に生活する為の、コミュニケーションの道具として発達して来ている。
その文字や、言葉が、大自然相手ではなく、金儲けの為や、人を欺く為に使用され出して、本来の言葉や、文字の働きを、大きく歪めてしまっているのだ。
「貴様」の単語も、本来は、目上の相手に対する敬称だったのだが、今では、「キサマ」と言うと、喧嘩になる。
其れに「往生」の言葉も、本来は、仏教の用語で、この世を去って、他の世界に生まれ変わること。特に、極楽浄土に生まれる事の意味だったが、現在・いまでは、「おうじょうする」と、言うと「難儀をする」の意味に取られてしまう。
言葉が、段々と、本来の意味から、外れて行ってしまっているのだ。
特に、漢字の意味が、本来の現場の映像である処の、象形文字が正しく理解されていないので、文字の持つ意味が伝えられていないのである。
例を挙げると、「休」の漢字は「人+木」の組み合わせで、人が木によりかかっている象形で、人間は、木によりかかって休むと疲れが取れ、大地の気が樹木を通して人の身体に通じ、元気に成る事から来ている。
しかし、現代人は疲れていても、その様にする事はあまり無い。
漢字には、「たすける」も「助ける」の外に、20文字も、人を助ける其々の場の異なる象形が在る。
そして、「よろこぶ」の文字も「喜」や「悦」の外に22文字もある。
「私」を表すのにも、「私・我・吾」が有り、「私・シ」の漢字は、自分の稲束を抱え込む象形で、「自分の物を所有して放さない」の意味で、物を抱え込む姿の自分を表している。
「我・ガ」の漢字は、「武器の形で矛を持って戦う自分」を表し、「吾・ゴ」は、「神の言葉を守護する自分を」表している。
外にも「予・余・俺・朕・僕」等が有り、それぞれの意味が有る。
この様に、昔こそ、人間の価値判断は数多く存在し、広さも、高さも、深さもあったのだ。
其れが現在では、人間の生活が大自然から離れ、場の様子が単純化した為に、魂の世界に深く関与する、文字や言葉の構造機能や、考え方が、複雑では無くなり、薄っぺらな人間が、多く成ってしまったのである。
現代社会で、若者達が、未来に対する希望や、夢を失っている原因は、人間世界が薄っぺらに見えるので、興味を失っているからである。
現代社会の不自然さに気づいた子供達が、屋久島を訪れて、世界自然遺産に登録された大自然と直接触れる事で、本来の言葉や、文字の世界を、取り戻す事が出来るのなら、屋久島に出来る高等学校は、未来社会を救う旗頭と成り得るし、私も、何らかの役にたてるのなら、20年間の努力も報われると言うものである。
そして、これから始まる「字習のアトリエ」の作業が、社会に影響を及ぼす事に成れば、国の教育制度を立て直す事に成り、将又(はたまた)世界の文化に対しても、新しき価値観を与える事に成るのではないだろうか。
釈迦や、老子や、イエスの愛(かな)しみが、ようやく現実の物と成り、花開こうとしているのでは、ないだろうか。
平成17年2月26日
礒邉自適
2005/2/24
新しい机
17・2・24
今日は、昭和天皇の「ご大葬の日」から丁度17年目の日である。
今朝のメッセージには、大きな新しい応接台が出て来て、足を組み立てる場面が映って来た。
そうして、「誰が来るのかな?」と、意っていると、何処かの御陵の様な所に、車が三台止まっており、その人達10数名が、その場所から、応接台の有る建物に向かう事が分かった。
他にも、二台の車が、そちらに向かって走っているのが見えた。
今朝の夢は、それ迄使用していた、古い机が取り除かれて、新しいテーブルに20名近い人々が集まる様子が、伝えられて来たものと想われる。
17年前の事を思い出すと、昭和天皇が亡くなった1月7日の夜中、私の心臓に、昭和天皇の御魂がドーンと飛び込んで来て、私は驚いて飛び起きた。
そして、御大葬の日の2月24日の未明にメッセージが有って、「吾が身すでに遠く 良き世を 願い奉る」と告げられた。
其れから、丸16年が経過した事に成る。
昨日2月23日は、皇太子の45歳の誕生日であり、NHK番組の「その時歴史が動いた」では、「後醍醐天皇」と「楠正成」の物語が放送されていた。
後醍醐天皇が、楠正成を中心とする民衆の協力で、政治を天皇の手に取り戻した建武の政変から後は、天皇が、自分の力で政治を行った事は無く、現在に至っている。
昭和天皇の思いは、昭和の激変を、自分の事として生き抜いた63年間の人生に、あるのではないだろうか。
もちろん昭和天皇は、孫である皇太子の世のこと迄を考えて、私に未来の事を頼んで来たのではないだろうか。
私に1984年6月4日に訪れた、4311体の霊界人達の中で、特に存在感が強いのは、「天智天皇」と「後醍醐天皇」である。
彼らは、寺院や、豪族の影響を外した処で、「政・まつりごと」を成そうとした人達であり、自分の意志を貫こうとした、独立心の強い人である。
だからこそ、日本の国を本来の「神国・すめみまの存在する洲」として、立ち直らせようとして、いまだに霊界で努力を続けているのだろう。
天皇霊其の一「天智天皇」http://star.ap.teacup.com/20060505/67.html
天皇霊其の二「昭和天皇」http://star.ap.teacup.com/20060505/69.html
天皇霊其の三「後醍醐天皇」http://star.ap.teacup.com/20060505/91.html
天皇霊其の四「神武天皇」http://moon.ap.teacup.com/20061108/567.html
本来の、日本の神事は、後醍醐天皇の曾孫(御亀山天皇の息子)である「自天親王殿下」が、足利の家来である播磨の赤松氏の遺臣の手に因って11457年12月2日に殺されてから、霊系は中断しているのである。
自天親王を、お祭りする行事は、現在でも、奈良県吉野郡川上村神之谷字中坂210「自天親王神社」で12月2日に行われているとの事である。
其れに、天智天皇の息子である「大友皇子・即位して弘文天皇(こうぶんてんのう)」が即位した日は、天智天皇10年12月5日である。
私は、16年半の神ごとを続けて来たが、その最終日が2000年12月4日であった。後醍醐天皇が、年号を建武としたのは、西暦1334年1月29日からであり、1月29日は私の誕生日でもある。
私に「神霊の思頼(みたまのふゆ)」が起きたのも、暦(宇宙のリズム)と関係があるのだろうか。
今朝、新しいテーブルと、そのテーブルに着く人々が集まるとの、メッセージが有ったと言う事は、愈々人類救済・新しい御世の立て直しが、始まるとの知らせであろうか。
聖徳太子が、禊祓いの古神道から、釈迦の思想である仏教に、政(まつりごと)を移してから(西暦587年)1418年が経過している。
古神道は、禊祓いをして、自分の自我意識や、所有欲を捨てるのが目的であり、聖徳太子は、それに対して戒律を設け、政治に対しても位階を決めた。
現在の政治(まつりごと)は、聖徳太子の創った制度の上に、物部家の古神道が、天皇家として乗っている状態で、本来の「すめみま」の存在する瑞穂の国の政治ではない。
「すめみま」の御稜威が行われ、みことのりが冶(し)めされる本来の姿が無いのである。
昭和天皇が願うよき世とは、各地域に「すめみま」が復活し、神の意志が冶(し)めされる平和な暮らし、人々が「さきはえたまう(咲き映えたまう)」喜びの生活のことであろう。
次の天皇と成る皇太子が、「妻の人格が 云々」と言ってしまう様な国では、昭和天皇の心配が無くなる譯・わけが無い。
新しいテーブルに集う人達は、其れ等の問題を解決しようとの、気持ちの強い人達であろう。
是は私(磯邉自適)の考えではない。
神の意志が、私の脳を使って映し出されて来ているだけである。
私に示されると言う事は、天界ではもう準備が出来ているのであろう。
私は日々、その知らせを受け取って行くだけである。
葬とは、叢に屍をほうむる象形文字である。
今朝の霊夢で、三台の車が有った場所は、古代の「すめみま」の屍の上だったのかも知れない。
私達の生活や、意識や、文化も、皆古代の人達の、知恵の積み重ねの上に成り立っている。
私達も又、未来の人類の為に、アカシックレコードに、知恵の一ページを重ねなければ成らないのだ。
その、知恵を集める場が新しいテーブルであろう。
新しいテーブルに、誰々が集まるのか、未だ、私には明確ではない。
古代の「すめみま」の屍の上に、私の屍も又、魂として重ねられて行くのである。
神籬(ひもろぎ)の 代々の乱れを 盃に
菊一輪と まわし飲み
(1986年1月10日近江神宮 天智天皇蔡にて)
平成17年2月 24日
礒邉自適
2005/2/22
細胞分裂
17・2・22
今朝のメッセージは、ページが二つ有り、左側のページは部屋に成っており、中央に細胞の塊が一個、存在感豊かに存在するのが映って来た。
其の細胞の塊は生きており、細胞分裂中である事が理解された。
右側のページは、情報の空間を意味しており、其の左側の細胞が有している情報と、繋がっている事が暗示されていた。
今朝の、霊夢の場面から考えられる理・ことは、生物の細胞分裂が、情報に因って行われている事が認識され、また細胞の分裂から、情報を引き出す事が、出来る事も理解された。
其の細胞の分裂は、全く純粋に行われており、余計な情報を排除した処で行われている。
其れは、植物も、動物も同じ条件下で行われているのである。人間も、動物の一種には違わないので、同じ理が言える。
人間も、この世に誕生する迄は、衣食住の心配も要らないし、政治や経済・教育・宗教・哲学などの、一切の情報と無関係の処で、細胞分裂・増殖を繰り返して、成長を続けて大きく成るのである。
人間の成人は、約60兆個の細胞で出来上がっていると聞くが、一個の卵子と、一個の精子が合体して、60兆個迄増殖するのに、何回、分裂をすればよいのか、私には計算出来ないが、受精日から平均265・8日でこの世に生まれて来るのである。
265日を、月の一周期29.531日で割ると、丁度9ヶ月と成るので、人間の誕生プロセスには、月の引力に因る、海の満ち引きの運動が、関係している事は明らかである。
子宮の内の羊水(羊膜液)は、海水と同じ塩分濃度だとの事なので、人間も、海の魚と同じ世界に住んでいた事も、明らかである。
そして、子宮内で、卵子から赤子に成長する迄に、38億年の命の情報を再現して、各段階を経ながら、人間の姿と成って来るのも、確かな理・ことである。
私達の肉体は、38億年間の細胞の情報に因って、存在している理は、現代では、普通の人々の常識と成っている理・ことである。
だとすれば、私達は個々の世界で、内側の情報にアクセス出来れば、自分がどういうプロセスで、人間として存在する事に成ったかが、理解出来るはずである。
古代の人達も、その理には気付いており、「自分」と書く漢字の意味が、「みずからを 刀で両方に切り分けて ワケを知る」であるので、我々人間は、何千年も前から、自分の成長過程や、存在理由を知りたかったかが理解される。
今朝の私の霊夢は、私自身が、自分の存在理由を知りたいとの願望から、潜在意識が働いて、情報を汲み出したものと思われる。
古代の人達も、私の様に、自分の内側の情報から、思考を組み上げていたのではないだろうか。
現代社会の人間は、生まれた時より、人間が創造した世界で育てられ、人間が創り出した文化や、文明の情報だけに汚染されるので、誰も、自分の内側の情報に、視線を向ける事はせずに、外側の不自然な社会だけの情報しか、持ち得なくなってしまっている。
其れは、人間だけに言えるのではなく、人間に飼われている犬や猫、それに牛・馬・羊・鶏等の家畜も、自然の情報を失っている。
其れ等の動物も、嘗ては、自然の中で生きていたので、眠りの中では、自分の記憶を取り戻していたのではないだろうか。
其の証拠は、昆虫に有る。
昆虫は、生まれた時には親も居ないし、学校も無い。
其れなのに、皆が成長して子孫を残し、生を全うして行く。
我々人類の遺伝子の内にも、昆虫と同じシステムは残っているはずである。
人類も、親や学校だけに頼らずに、自分の潜在意識に目を向けさえすれば、自分の中に、生命情報を見付ける事は、未だ可能なはずである。
人間社会は、益々、混沌さを強めて行き、行き先を見失って来ている。
真実を見出すべき役割である宗教でさえ、混沌さに拍車を掛けている態(ざま)である。
何万人かに、一人の割合でも、人間社会から離れ、生命のシステムに目を向けるべきではないだろうか。
現代人は、地球に巣食う癌細胞みたいな物である。
癌細胞は、指お頭大に成長するのに10年、それから一年程で拳の大きさに成って、母体である人間の体を食い尽くして、自分も死を迎えるらしい。
指の頭大に成る迄に、発見して退治しなければ、手遅れになるらしい。
地球の身に成って見れば、人間は、地球にとって指頭大を過ぎて、拳大へと成長している段階ではないのだろうか。
地球が、人間の為に、共倒れするまで待っているはずは無い。
自分で、癌細胞は退治するはずである。
しかし、癌細胞を退治する為に、自分の作品である人間を、全部退治する事は本意に反する事であろう。
善良で、優秀な細胞を残す為に、神(地球)は苦労しているものと想われる。
何しろ、人類の存在は、神・宇宙にとって、38億年掛けて育てて来た、宝物である。
今後も、地球の生命体として、神の創造力の証として、存在を続けて行かなければ成らない人間である。今一度、その事を自覚して、自分の誕生のプロセスを鑑みて見なければならない。
265.8日で、38億年の命の旅をし、この世に生まれて来た私達である。
36億年を265.8日で割ると、1日が14299640年に成る。
我々人間は、1日で1429万日分の、進化の情報を処理しながら、この世に誕生して来たのである。何と、不思議で奇跡的な出来事ではないか。
私達は、もっと自分を大切に考え、宇宙の偉大なシステムの存在に、感謝しなければならないのだ。
今朝は、私の身体中の細胞が、自分自身の為に、メッセージを送り着けて来たのかもしれない。
人体や、生命の神秘は、未だ未だ、解明し尽くされないのである。
私の中の、確かな細胞と言う「生命体」に感謝である。
平成17年2月22日
礒邉自適
2005/2/21
契約書
17・2・21
本日21日は、弘法大師空海の月命日である。
今朝のメッセージは、自分の子供を他人に預けたり、自分所有の建物の管理を他人に頼んだりと、様々な事に対して、気軽に契約が出来る様に、社会システムが出来上がっているのが映って来た。
現代社会は、インターネット社会なので、どんな契約書もインターネットから取り出せる様に出来る。
今までの様に、契約を交す者同士が、代書屋の処に出掛けて料金を支払うのでは無く、インターネット情報集の中から、自分達の問題に合った契約書を見つけ出して、お互いが其れにサインをするだけで済む様にする。
其の様に成れば、料金も掛からないし、時間も交通費も節約出来る。
そんな社会が、身近に迫っている。
いまは未だ、現実的には、どんな契約書も検索すれば出て来るサイトが、準備されてはいないかも知れないが、誰かが、低料金で契約書が引き出せるシステムを作り上げれば、簡単な事である。
当事者が、自分の目で契約事項を読む事が出来れば、その決まりの意味もよく理解出来るので、問題が発生しても、解決が早く出来るものと想われる。
人間の脳は、忘れる様に出来ている。
そうでなければ、問題をいつまでも覚えていると、ストレスの蓄積となって、健康上悪いからである。その為に、大事な件でも忘れてしまうので、契約書という物が、考え出されて来た。
契約書で古い物は、エジプトからモーゼが、ユダヤの民と荒野の旅をしている時に、神に授かった石版の契約が在る。
其れは、人間が守らなければならない基礎的な決まりが、10ケ条として石板に刻まれた物である。
3400年前も前から、人間は、律法が在る方が、秩序が保たれて、生活し易いと考えて来たのである。
現代社会は、法律は澤山整備されているが、其れは警察署か裁判所かに、在る物と考えられており、生活の場である身近な処には、感じられなくなっている。
昔の方が、規律は、身近な所に有って、人々を律していたのではないだろうか。
今朝のメッセージは、法律が、人間の暮らしの身近な処に帰って来た事を、示して来たものであろう。
身近な処に、帰って来たと言うより、その様な社会を、神が願っている事を、告げて来たのかも知れない。
今日のメッセージは、書の大天才である「弘法大師空海」からの、伝言ではないだろうか。
平成17年2月21日
礒邉自適
2005/2/19
御稜威・みいつ
17・2・19
今朝のメッセージは、愈々私達の活動が、神の世界に突入する感じが有った。その世界とは、「御稜威・みいつ」の世界である。
「御稜威・みいつと」は、「厳・いつ」の頭に御が付いた言葉で、意味は
@ 厳な威光,威勢の鋭いこと。 A植物等が威勢良く繁茂すること。
A (い)み浄められていること。祝詞、神賀詞。と 載っている。広辞苑
だが、「御厳・みいつ」と漢字に書かなければならない言葉が、辞典では「御稜威」と書かれている。それは、何故なのだろうか。
其れは「いつ」が天皇の「威光・いこう」と、されたからであろう。
日本に、天皇制が誕生してから、「いつ」の働きが、天皇だけのモノとされて来たからである。
天皇を中心とした、古代社会が出来て、未だ2000年くらいのものである。飛鳥時代までは、多民族が乱立しながら生活していたからだと考えられる。
其れは、聖徳太子が17条の憲法の第一に「和を以って…」を、載せている処に答えが見られる。
「いつ」とは、其々の人々に感じられる現象であり、特に、その力が強い者が、族長とされていたのではないだろうか。
其れが、集権社会となり、一番力の強い部族の長が皇孫として、全体の上に君臨する様に成り、御稜威と考えられる事に成って来たのだと想われる。
時代を遡って視ると、神武・崇神・天智・後醍醐と666年おきに、神の「いつ」が大きく動いて「政・まつりごと」の立て直しが起きている様である。
後醍醐天皇が、奈良の吉野で1333年に南朝を興し、足利尊氏に敗れて1999年で666年が経過した事になる。
1999年には、政変は起きなかったが、時代の流れは、新しい方向に向かっている事は確かである。
今朝のメッセージは、時代の底を流れているエネルギーが、表に現れ出ようとしている感があった。
そして「4・13」の数字が現れた。4・13が「4月13日」であれば、私の長男の誕生日であり、神のメッセージに有った「スーリアさん」の誕生日でもある。
今日、スーリアさんに電話すると、「私も 自適さんも 何か特別な事をするのではなく、自然の生き方を続けて、家族の平和と 人類の安定を願って行く事が 大事ではないか。」との事であった。
私も、スーリアさんも、同じ様に20年間、神の働きに翻弄されて来た。
その結果が、宗教や政治を行う事ではなく、普通の人間らしく生活する事に、帰って行く事なのであるらしい。
現在の天皇家も。国民の代表として、平和な家庭を営む事に努力をしている。
私も、スーリアさんも、神行を続けて来て、真の神の世界が何であるかが、理解できて来た様である。
普通の人達と違うのは、普通の人達は「自分の努力で 平和な生活を営んでいる」と考えている様だが、私とスーリアさんの考えは、神の働きの中で、皆が生かされていると言う事を、身を持って教えられたと言う事にある。
今後は、神の「みいつ」が、私達の努力の結果、今後どの様に、この三次元の世界に現れて来るのかを、見て行くだけである。
南朝が滅んでから、「すめみま」の働きが、正しく行われていないのであろう。
幕府から、天皇に権力が返されても、天皇が「すめみま」として実権を握っての「政治・まつりごと」がされてはいない。
真の詔(みことのり)は、天智天皇以来行われてはいないのであろう。
世界の何処に、真実の「すめみま」が立ち上がるのか、見詰めて行きたいと意う。
平成17年2月19日
礒邉自適
2005/2/16
セクション1(ワン)
17・2・16
今朝の霊夢は、私の意識の中に存在する者の、立場が映り、其の足元から、黒い物体が、足枷が外れる様に、次々と取り外されて行った。
そして、言葉で「14日前」と出て来た。
今日から14日前は、2月2日で節分の前日である。
節分の前の日に、自分の一生分か、12ヶ月分なのか判らないが、罪や汚れが次々に外れて行き、全部が外れた処で、私の業(カルマ)が無くなり、気分が自由に成った気がした。
そして、「セクション・ワン」との言葉が出て来た。
朝起きて、セクションを辞典で調べると、「section」@節。 A区画。 B部門。とあり、@の節は、節分の節と、何か関係が有りそうである。
今朝のメッセージは、節分の日に、私の業が無に成り、新しいポジションに着くとの意味を、告げて来た現象なのだろうか。
そして「セクション・ワン」とは、私の立場が、元の原点に返ったのか、それとも、ゼロ点から新たに始まるとの事を、意味しているのだろうか。
どちらの意味であっても、私の立場が、変化した事には間違い無い様である。
私は37歳迄、普通の仕事を様々して来た。
そして、37歳の時に仕事を全部止め、家族と離別して、神の世界に修行に入った。そして、神の命じるままに20年間働いて来た。
37歳迄の、生活や価値観とは、全く異なる世界で生きて来た事になる。
37歳迄行っていた事は、山を削り、谷を埋めて、土地を造成して売る様な不動産業や、化粧品屋に、マージャン屋等の、本来、人間の生活には関係の無い事に、身を投じていたのである。
農業や、漁業も行っていたが、其れ等も、自然破壊に繋がる事である。
それらの事を全部止めて、自然保護や、正しい生活の仕方に切り替えて、20年が経過した。
私の、38歳からの20年間は、昔の罪業からの反省であり、自然や神に対して、借りを返す為の期間であったのかもしれない。
私は、20年間で、ようやく神に対する借りが、済んだのだろうか。そして、無垢な人間に、立ち戻る事が出来たのだろうか。
「カルマ(業・ゴウ)」を辞典・言泉で調べると、次の様に載っている。
@ 仏語:意志による心身の活動、行為。一般に身・口・意の三業に分け、その行為の善悪によって何らかの果報を未来にもたらすとする。
A 前世の善悪の行為に因って、現世に於いて受ける応報。特に悪い因縁による報い。悪業・罪業をいう。
是からすると、私の58年間の人生にも、応報があるが、私の先祖から繋がっている応報もあったであろう。
先祖の想念や、父親の想いも、私の意識に影響を与えていた筈である。
特に、49歳の若さで死んだ父親は、遣り残した事も多く、私に直接影響を及ぼしていたと想われる。
其れ等の念いも、2月2日に外れたのではないだろうか。
人の想念が、強く残されれば、残念と成って、鬼と化して来る。
その鬼を追い出すのが、時節の節目に行われる「節分」の行事であろう。
私の心身に、憑依していた諸々の鬼が、全部、取り祓われたのではないだろうか。
そうであれば、私の心に邪悪な気持ちはもう現れないのかもしれない。
それなら、此れからの私の人生は、安心立命と成るのだが、それはどうであろうか。
来年の節分迄、鬼が又取り憑いて来ない様に、気を付けて生きて行かなければ成らない様である。
平成17年2月16日
礒邉自適
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