2004/12/27
職
16・12・27
今朝の霊夢には、私の旅に、男性が一人付いて来ていた。
その男性は、生活を私に委ねるのではなく、手先が器用なので、行く先々で相手の気に入る物を、刃物を使って作って差し上げるので、生活には困らない様子だった。
その人の、持っている刃物は、凄く切れる刃物で、普通の店では売っていない独特の物である。
私は、言葉に拠って食物を得ているが、その人は、手仕事の職で食物を得ているのである。
二人して、何軒かの家を巡る内に、ある所で後継ぎを必要としている家が在り、其の男性は、其の家の婿に成る事が決まり、私はその男性を残して、旅を続ける処で夢は終わった。
私は、20年前、全国の旅に出た時は、お金を持っていたので、出会った人達を連れて廻るのに、食事代やホテル代を全部払っていたので、一年も経たぬ内に、お金を使い果してしまった。
其れからは、私の特徴を活かして、行った先で手伝いをしながら、旅の塒・ねぐらを替えて行った。自分一人なら、旅が続けられたのである。
今朝のメッセージは、男性は、何かの職を手に付けなければ、生きて行けない理・ことを告げて来ている。
大昔なら、男は家を造り、狩りをして食物を採ってくれば、女姓を手に入れ、子供を養う事が出来たのである。
しかし現代では、何をするのにも、お金がなければ生活も出来ないし、移動する事も出来ない。まして、妻を娶り、子を養う事も出来ない。
いくら神に頼んでも、それだけは自分で遣るしか他に方法はないのである。
何も職を得ないで、国から生活保護を受けるのは、他の人々の働きに頼る事だから、一人前の男とは言えない。
その様な者は、妻を得る事が出来ないだろうから、自然の成り行きと考えても良いだろう。
「職」の漢字の意味を、漢語林で調べて見ると、職は「耳+音+弋」で「音+弋」は識に通じ、他と区別して知るの意味。耳は、さとく聞きわきまえるの意味。微細な所まで、良くわきまえるの意味から転じて、細部にまで行き渡りわきまえ努める仕事の意味を表す。と 載っている。
人間が、人間である証拠は、猿と異なり、自分の手で物を造り出す処にある。木の実や、魚を採って食べるだけでは、猿とあまり変わりがないだろう。
人間として生まれた以上は、何かの手仕事を、身に付けなければ、神は人間を養ってくれないとの理・ことではないだろうか。
今朝のメッセージは、人間は、自分で生きる努力をしなければ、神頼みをしても何も成らないと告げて来たのだろう。
能く努力をした者ほど、良い妻と、優秀な子供を、得られるとの理・ことではないだろうか。
本日は、冬至から6日目である。
イエスの誕生日に、イエスの旅の答えが、映し出されて来たのかもしれない。
平成16年12月27日
礒邉自適
2004/12/13
キリストの手足
16・12・13
今日12月13日は、私が1984年(S.59)12月13日に、岩手県の五葉山でイエス・キリストの御霊と出会って、丁度20年目の日である。
五葉山(1351m)は、日本のピラミッドの研究を続けた「酒井勝軍・さかい かつとき」が、神の宝剣を受け取ったとされている山である。
私は、其の日一人で車を運転して、太平洋側を青森へ向かって北上していたのだが、何故か、釜石から急にハンドルを左に切り山中へ入って行った。そして、山中の古い石碑の前で車を止めると、メッセージが告げられて来た。
其のメッセージは、「私の肉体を 十字架から降ろしてくれ」「私の教えを 誰も実行していない」「名前を呼んで 呼び出すのを止めさせてくれ」と言うものであった。
「私の肉体を 十字架から外してくれ」とは、イエスキリストの他に、私には心当たりが無い。イエスキリストは、自分の磔の姿を拝してくれとは一言も云ってはいない。
イエスキリストは、人々に自由に成る事を奨め、愛を実行する事を教えたのだ。
其の「イエスキリスト」は、自分の教えを実行する事無く、唯「イエス様」「イエス様」と繰り返している人達に対して、霊界でジレンマを抱いているのではないだろうか。
何故、この日が設定されたのかは分からないが、私の旅の日付と、道筋に、何かのメッセージが含まれているのだろう。
青森には、イエスキリストの墓だとされている戸来村の伝説の場所も有る。
イエスキリストの教えは「建物には 神は住まない。教えを 広めなさい。」「持ち物は 杖の他は 下着一枚だけで 二枚持ってはいけない。」「何を 話すかは 考えて行ってはいけない。行った先で 神が 舌を借りるのだから。」「食事を用意し 宿を提供し 話しを もっと聞きたいと 申し出る者が 一人もいない村は 神のいない村だから 早く通り過ぎなさい。」と 謂っている。
イエスの訓えでは、神の使徒なる者は、常に旅人でなければならないのだ。
其れが、教会の建物の内で、イエスの磔の姿を拝しているだけなので、イエス本人は悲しんでいるのだろう。
イエスキリストは、ヨルダン川での禊の時、神霊に満たされている。
私も、1984年の6月4日(旧暦5月5日)に安房川で禊の後、4311体の神霊に満たされて、四ヶ月間の荒野での神業が始まった。
そして、11月半ばから屋久島を出て、全国行脚の旅が始まったのである。私が満たされた、4311体の聖霊の中に、イエスキリストも入って居たのだろう。
其れから20年が経ち、私はいま、静かな時を過ごしているが、今朝方、自分の手や足が、自分の物ではなく、神の所有する物が、人間の手や足である理が解って来た。
神は、自分のエネルギーを人間の形として現し、手足や口までをも、自分の物として使用しているのである。
神の、僕として働くのには、特別な天使の羽根を有していなくても可いのである。私が、「吾し(わたし)」として存在する事が、「神・其の者」の存在としての証明なのである。
私の「我」が、執着を離れ、所有心を引き起こす「手」と、執着へ向かう行動の「足」を止めて、自由と成れば、手と足は神に返還され、返還された手足は、全身全霊の道具として、神の世界の実現の為に使われ始める。
それが、イエスキリストの教えであり、神の愛の「かたち」と成り得るのだ。
私は20年間、理由(わけ)も分からず、その形態(かたち)を学ぶ為に、旅を続けて来た。其れが、何であったのかを、今朝の私の手足は、教えてくれた様な気がする。
暦の月日も、また神の存在物なのだろう。
月日の働きの中で、私の手足は、今後も生かされて行く事だろう。
2004年12月13日
礒邉自適
2004/12/12
三つの世界
16・12・12
今朝のメッセージは、場面も多く、其の意味付けも長く掛かった。
最初の場面は、人手が入っていない聖なる森の中で、私の他にも、数名の人々が集まりつつあった。
集まって来る人達は、純粋な魂しいを持つ人々で、知恵の集結を求めている様である。
私は、その場に水を引く為に、パイプを探しに、別の場所へと出掛けて行った。
すると、リサイクルセンターみたいな所に行き着いた。
其処には、様々な物が、所狭ましと積まれて有る。その品物の中に、若い女性が一人居て、私を見ている。
私は、近くに有った古い楽器を手に取って、音を出し始めた。
すると、小さな子供達が数名現れて、一緒に音楽を始めた。音が賑やかになると、最初に居た女性も、後から現れた若者達も一緒に成って、まるでコンサートの様な雰囲気と成って、楽しい時間と成った。
其れから、場面は変って、私を二人の男性が迎えに来た。
一人は運転手の様だが、一人は責任ある立場の人の様で、私に「紫の服が 用意されている」と云って、何処かに連れて行った。
車を降りて歩いて行くと、其処は、何百年も昔の宮の跡らしく、草や木に蔽われてはいるが、大きな建物が幾つも建っていた跡と、広い道路が続いていた。
私は、何の建物の跡かと想うと、縦書きの平仮名で、「まつりことの てんかん」との文字が現れた。
そして「鳩」の漢字が映った。
朝起きて「鳩」の漢字の意味を調べると、鳥のハトの他に「あつめる」又は「あつまる」の意味と「やすんずる」の意味がある事が分かった。
「鳩」を使用する語に、「鳩合」あつめる・あつまる。同士を鳩合する。「鳩首」首を集める・額を集めて相談する。等が有る。
今朝のメッセージは、人が「鳩合」する事の場面が、三通り映って来た事に成る様だ。
「まつりごとのてんかん」を図るには、三通りの場が必要との理だろう。
@ 聖なる森で男性の知恵を研く。
女性が その場に居ると 男性の気が散って 魂の浄化がはかれない。
@
まつりごと
て ん か ん
A B
A女と子供達が、楽しく遊べる場を準備する。
女性は、子育ての為に食料や衣、建物物品を必要とする。
女・子供が集まらない処には、人が集まらない。社会現象が付いてこない。
B 新しい政治の場。昔の伝統を復活する。
三通りの場面が、何を意味しているかと言うと、其れは、私の是からの活動の指針として、必要だとの事なのだろう。
聖なる森は、人々の魂しいを純粋な源へと誘ってくれる。
人間社会は、人間自身が創出したものであり、世間とは、宇宙の理から外れていると言って良い。
世界は、宇宙の真理と共に存在する現象で、人間の我儘だけで存在出来るものではない。
本来の、人間や生命の理・ことわりを知ろうと意えば、人間が造り出した社会から、一度離れてみる必要がある。それが、聖なる森の意味する処であろう。
紫色の衣は、宗教の世界で高い位の人か、天皇だけが身に着ける事が出来る色で、天皇・皇帝が住む建物を「紫宸殿」とも呼ぶので、最高の位を意味している。
むろん、私がその様な位を必要としているのではなく、その様な働きを意味しており、正しい政治が行われる様に、力を注げとの事だろう。
政治が行われる場や、建物が出来、知恵を持った人々が集合しても、女性や子供が楽しく生活する場がなくては、其れ等のモノは、無意味なモノと成ってしまう。
女性や、子供が暮らせる事が一番大事であり、その為に、政治や男性の学びが必要とされるのだ。
今朝のメッセージは、其れ等の理を伝えて来ている。
平成16年12月12日
礒邉自適
2004/12/4
言葉の拘束力
16・12・4
今朝の霊夢には、女性の顔が出て来て、口が大きく開いていた。
そして、告げられて来た言葉の意味が「言葉の拘束力」であった。
現れて来た顔が、誰であるか考えて見るが、現世の人には、心当りが無い。
霊界人か、神霊で考えるならば「岩長姫」である。
岩長姫とは、「大山祇神」の娘で「木花之開耶姫」と一緒に、「天津日高彦火瓊々杵尊・ににぎのみこと」の妃に成ったが、顔が醜かった為に、実家に帰されたと伝えられている。
父親の大山祇神は、美しいが丈夫ではない娘に、身体が頑強で、何でも出来る岩長姫を付ける事で、二人の娘が両方共、幸福に暮らせるとの親心で、一緒に嫁に出したのであろう。
木花之開耶姫は、最初の子供を産んだ処で死んでしまうが、神として、全国に祭られている。
一方岩長姫の方は、その話のままで終わってしまっている。
丈夫で、何でも出来た娘が、顔が醜かったので帰されてしまった。
それだけの物語で、存在が消えてしまっているのである。
その短い物語は、短いだけに拘束力があり、他へ意味を広げる事が出来ない。
言葉は、人間の思考を広げもするが、閉じ込める事も又可能である。
一つの言葉が、人を救いもするし、不幸にもする。
言葉は、人間に取って、一番重大な働きを持っている。
日本には、神社等の儀式で唱える祝詞が在るが、そんなに長い文章ではない。
インドの、仏教の経典も澤山在るが、釈迦が伝えた言葉は、そんなに多くはなかったであろうし、イエスキリストの言葉も、そんなに多くはない。
聖書は、何人もの弟子が、同じ場面でのイエスの行状を、其々に伝えているので、書物として厚く成っているだけである。
言葉は、長ければ長い程、意味合いが薄れ、心に残るものが少なくなる。
せっかく唱える祝詞も、長くなれば、神様も嫌がって逃げ出すかも知れない。
短くて、単純な願いの方が、受け入れ易いのではないだろうか。
「言葉の拘束力」とは、その様な意味合いの事ではないのだろうか。
男性から、女性へのプロポーズの言葉も、長かったから、上手く行ったとの話は余り聞いた事が無い。
成功した例は、殆どが単純明快な短い言葉の様である。
今朝のメッセージは、私が告げる言葉が、拘束力を持つ様に、短くて、確かな意味を持つ事だけにしろとの理・ことかも知れない。
今日の、読売新聞のコラム編集手帳に、詩人の長田弘さんの「言葉のダシのとりかた」と言う題名の詩が有り、
「かつおぶしじゃない。まず言葉をえらぶ。大きくてよく乾いた言葉をえらぶ」
「だが まちがってはいけない。他人の言葉は ダシには使えない。いつでも 自分の言葉を使わねばならない」云々と、載っている。
私へのメッセージと、新聞の記事がシンクロしている様だ。
神は無言ではあるが、確実に、私を運んでいる様である。
平成16年12月4日
礒邉自適
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